白蓮さん、あなたに仏のお恵みを - Sample2

 わたしは今まで読んでいた本を壁に叩きつけた。それでも怒りが収まらず、机に積んでいた本を一気に払い落とし、奇矯な声をランプの煌々と光る部屋にまき散らした。

 あまりにも何も入って来ない。慣れない魔界の文字を読み下すため、翻訳の魔法を常に行使しているためだろうか。魔力の消費量は少ないのだが、常に魔力を放出し続けているのは神経に障る。かねてから身を苛む膝の痛みよりよほど酷かった。

 ぼろぼろと欠け落ちた歯の隙間からなおも声にならない声をあげていると、ドアが慌てて開かれた。

「どうしたのですか?」赤髪に黒を基調とした魔界の服装を身に着けた誘惑者が、おずおずと入ってきた。彼女はこの惨状を見ると顔をしかめ、無言で片付け始めた。癇癪を起こしたのはこれが初めてではないからだ。「またですか? 無茶をして寿命を縮めるのは構いませんが、部屋を片付けるのはわたしなんですからね」

「誰も片付けろとは頼んでないよ。そんな本、そこいらに散らかして置けば良いんだ」

 意地悪い気持ちとともに言うと、彼女は露骨に嫌悪を表し、次いで部屋を片付け始めた。本ゆえに堕落した彼女は、本を粗末に扱うことを何よりも嫌うのだ。

「終わったら食べるものを用意しておくれ。湯浴みもしたいから、風呂に湯を貯めるのも忘れないことだよ」

「御意」彼女は無表情にそう言うとてきぱき部屋を片付け、そそくさと出ていった。「四半刻のうちにはお持ちいたします」

 わたしは何も言わずに見送り、椅子に深く腰掛けて息をつく。たったの数時間、机に向かっていただけだというのに、疲れが酷い。体が軋むし、頭も満足に動かない。初等程度の教本すら満足に読むことができない。老骨の身で新しいことを学ぶのだから、覚悟はしていたけれど、これほど辛いものだとは思わなかった。

 このままでは目的の魔法を収得するまでどれくらいかかるだろうか。五行の力一つ身につけるだけで、寿命が来てしまうかもしれない。これまでの功徳を捨ててまで、魔の領域に身を堕としてまで、ここにいるのに、これでは無駄死にしに来たようなものではないか。

「このままでは駄目だ。このままでは……」

 全ては無為に来してしまう。弟が興し、遺してくれたものの全てを駄目にしてしまう。法の力を扱う才能がないから、他の力を求めたというのに。ここに満ちる力を会得すれば、弟に負けないほどの優れた導き手となれる。山の力を、寺の力を、偏く世に知らしめることができる。

「わたしは力を得なければならない。そうしなければ、わたしは弟の志を無為にする。わたしは生きなければならない!」

 だから死にたくない。弟の遺したものを広めるための、十分な時間が欲しい。

 興奮したせいか、胸にちくりと痛みが走った。例の心臓を痛めつける動悸だと気付き、わたしは必死で胸を押さえ、息を整える。やめてくれ、今がそのときだなんて思いたくない。

「死にたくない……」わたしは掠れる声をあげ、中空に手を伸ばす。「嫌だ、怖い、死ぬのは怖い……」

 しばらくすると胸の痛みは少しずつ収まり始め、わたしは必死で呼吸を整え、痛みが去ってしまうまで続けた。そうして落ち着くと、わたしは胸に良くないというのに、冥い笑いを抑えられなくなった。

「なんということだ。なんと、浅ましい……」弟の意志を継ぐために死にたくなかったはずではないのか。それなのにわたしは胸に痛みが走ったとき、ただ死ぬのが怖かった。わたしはただ、死にたくなかった。「畜生だ……わたしは、畜生にも、餓鬼にも劣る」

 机を拳で叩き、わたしは壁を見つめる。形良く切り揃えられた石で作られたそれは最初こそわたしを驚かせたものの、今ではどうでも良いものでしかない。わたしは目を瞑り、茫洋とするほかに何もできなかった。

 数分後、誘惑者が夕飯を持ってきた。魔界で良く食されている鳥の肉と野菜を適度に炒めたものに、豆のスープだ。わたしは無言でそれを受け取るとがつがつ食べた。殺生で得たものを口にすることは禁じられているけれど、構いやしなかった。彼女は老体というものを知らないのか、それとも嫌がらせなのか、固いものも平気で出してくる。わたしは必死で食事を腹に収め、それから湯浴した。熱めの湯は節くれ立ち、ことあるごとに痛みを放つ膝に多少は効いてくれるものの、夜具に着替えてベッドに身を横たえる頃にはじくじくと蘇っていた。忌々しいことこの上ない。年を経た体と言えど、遙か信濃から一人、京にまで辿り着いたときの体力すら、今のわたしにはないのだ。

 夜はまだ浅い。もっと本を読み、少しでも学ぶべきだった。しかし疲れた体はわたしの心を容赦なく眠りに誘い、悲しいほどあっさりと屈してしまった。かつて質素に、ただ仏に仕えていた頃の気概すら、わたしの中からは消え去っていた。

 どうしてこうなったのだろう。遠く異邦の地にあることの孤独、ままならぬ身への苛立ち、悲願を成し遂げられないのではないかという強い恐怖で、わたしは嗚咽をもらしそうになったけれど。乾ききった瞳からは一滴の涙も零れることなく、怠惰の眠りがその全てをあっさりと押し流していった。

 

 中興の祖であった弟の唐突な死で、その弟子たちは深い悲しみに包まれた。わたしはその中でただ一人、辛うじて踏み留まり、葬送の音頭を取った。悲しくないわけではなかったけれど、ただ一人の姉弟なのだから、しっかりと送ってやりたいという気持ちが辛うじて勝ったのだ。

 離れの塚にその亡骸を埋めてからも、朝廷の使者を始めとして弔問客は続々と現れ、その対応に追われるうち、七度の七日はあっという間に過ぎていった。喪が明け、寺のものたちはようやく、後詰めを定めなければならないということに思い至った。死の直後ではなく、喪が明けてから初めて、跡継ぎについて話し合われるということは、翻って弟の人徳を示していると言えた。その反面、取り仕切るものが誰もいないということを意味していた。

 弟は多くの優れた弟子を遺していたけれど、その誰もが弟に遠く及ばなかった。空鉢護法や剱鎧護法といった仏法の象徴を操ることはおろか、妖怪や童子の扱いにすらろくに長けていなかった。あるいはそれほどまでに弟の力が破格であったのかもしれない。

 わたしは最初、その様子を遠巻きに眺めているだけだった。血の繋がった姉弟であるからこそ、より慎まなければいけないと考えたからだ。古今東西、血を縁にして受け継がれていくものが堕落しなかった例はない。帝の血筋でさえ例外ではなく、だから離れの院にこもり、写経を通して仏の教えを学び、朝夕には寺をぐるりと散歩して回った。雑穀の粥と漬け物を日に二度、じっくりと噛みしめ、朝は誰よりも早く起きて冷水で身を清める。老境の域ではあったけれど、特に痛むところはなく、歯も数本が欠けている程度で、身も心も整っていた。弟が死んで間もないのに整い過ぎているような気もしたけれど、あまり気にはしていなかった。死は通過点に過ぎず、弟ほどの功徳を積んだものならば、あちら側で困ることなどないと半ば確信していたからだ。

 冬が過ぎ、春が訪れていた。山の上だからまだまだ寒いけれど、辺りは生命に満ち溢れ、鳥たちが心地良い囀りを辺りに響かせていた。わたしはその日もただ穏やかに、朝の散歩をしていた。離れの院から弟の眠る塚は随分と距離があるけれど、わたしは毎日そこを訪れていた。といっても弟を偲んでばかりの話ではない。わたしには慰めなければならないものがいたからだ。

 その日もやはり、彼女は塚の前でただひたすら神妙に手を合わせていた。妖怪の時間は人間のそれと比べて緩やかだから、祈りも見合ったものとなる。わたしは常々、人間より妖怪のほうが功徳を積むのにうってつけではないかと考えていた。不遜に思われそうだから、他人の前で口にしたことはないのだけれど、一心にただ祈る姿を見ていると、そう思わずにはいられなかった。

 わたしは彼女の祈りが終わるまで、近くの石に腰掛けてじっと待ち続けた。透徹な祈りの中、瞑目して過ごした。どれくらいの時間が経ったかは分からないけれど、彼女はそっと立ち上がり、そうしてようやくわたしの気配に気付いた。

「毎日、お務めご苦労様です」

 そう声をかけると、彼女は濃藍色の頭巾を揺らしながら気まずそうに頭を下げた。それから少し迷い、彼女はわたしの横に腰を下ろした。

「無為なことだとは分かっているのです」彼女は開口一番、己の行いをきっぱりと、しかし悲痛に否定してみせた。「上人は安らかに逝かれ、その御心は次の階梯に向かわれたのですから」

 わたしは彼女の言葉に何も返さなかった。わざわざ理を説くまでもなく、彼女ーー雲井一輪はそのようなことなど全て承知しているのだから。一輪は弟に仕える護法であり、つまり仏の眷族だ。主により入道を遣う力を与えられ、この信貴山にて紫雲の如きその才をふるい、ときには雲に乗って遙か彼方まで使いに出ることもあった。

「生きて死者を哀しむものにとって、貴女ほどの深い祈りを捧げるものがあるのは、とても有り難いことです。わたしのために祈っているのではないと分かってはいるのですが」

 一輪はわたしの言葉に沈黙をもって返答とした。元々そんなに折り合いの良い関係ではなかったのだから、ただ側にいてくれるだけでも上出来とするべきだ。実際、数日前まではわたしに気付いた途端、そそくさと逃げ出していたのだ。

 その理由は、弟と一輪の、繋がりの強さに起因する。

 弟が修練の場としてこの地を選び、若くして数々の護法を遣う僧侶として陰にその存在を示し始めた頃、彼女は信貴山の門を叩いた。主に弟の人となりを見定めるよう、密かに言い渡されたからだ。彼女は武闘派の童子であり、だからそれは力比べによって行われた。

 入道を操る一輪に、弟は法力で対抗し、あっという間に調伏してしまったらしい。その力ぶり、そして何よりも人ならざるものに臆さぬ人柄に、一輪はすっかり心酔し、仕えるようになった。

 弟は一輪のことをよくよく信用していたらしい。かつて醍醐帝が病に臥した際、加持祈祷の終わりを示す使いとして彼女を選んだことからもそれはよく分かる。だからこそ、わたしをあまりよく思わないとしても、十分に納得できる。

 わたしは弟にとって新たな執着の種であり、一輪にとっては築き上げた関係を横からさらう盗人にも等しい存在だ。だからこそ、わたしは彼女に報いたいのだけれど。実のところ余計なお世話なのかもしれなかった。

 じっとりとした沈黙が続くことしばし、珍しいことに一輪のほうから話しかけてきた。その表情にはどこか切実なものがあり。わたしは相対して、彼女の言葉を受け止めた。

「姉君においては、ここをどうするおつもりなのでしょうか」

 俄に質問の意図が分かりかね、わたしは鸚鵡返しに訊ねていた。

「どうする、とは?」

「上人が再興されたこの場所を、貴女はどう導かれるのですか?」

 一輪の問いたいことが分かり、わたしは小さく首を横に振った。

「わたしはこの場所をどうもしませんよ。弟は優れた弟子を多く残しました。彼らがここを更に盛り上げ、御仏の意で満たしていくことでしょう」

「本当に、そう思われますか?」

 一輪の声は猜疑に満ちており、わたしはほんの僅かだが眉を潜めてしまった。

「相違ありません。だからわたしは弟の名残りがあるこの地で、流れるままに余生を過ごすのみです」

 そしていずれは召されるだろう。口に出さずして己の意志を固めると、しかし一輪は納得していない様子で、顔には苛立ちを露わにしていた。

「その優秀な弟子どもは、法の力すらろくに扱うことができず、理解すらしていない。経を諳んじ、教えを説くことはできるかもしれないが、上人には遠く及ばない」

「及ばずとも構わないのではないですか?」怒りに身を任せようとする一輪を宥めるよう、わたしはゆっくりと言葉を紡いでいった。「謙虚に教えを学び、御仏の御心をあるがままに受け入れることができれば、みだりな法力など必要ないとわたしは思います。虚心坦懐でありさえすれば、寺は善く栄えゆくはずです」

「仏の道とはそのように単純で甘いものではない」一輪は吐き捨てるように言った。「祖を喪い、瞬く間に荒れる寺など腐るほどある」

「そうでない所も沢山ありますよ。それに貴女は、まるでここがそうなるような口振りですが、それは弟のことを信用していないと言っているに等しいのではないですか?」

 ぴしゃりと言い切り、わたしは一輪の顔をじっと見据えた。少し厳しい言い方であったことは、一輪の苦渋に満ちた顔からもよく分かる。しかしここで退くわけにはいかなかった。彼女の弟に対する拘りや執着を少しでも解き放ち、軽くしてやりたかったからだ。

 しかし彼女は、見ようによっては皮肉気な顔を浮かべ、投げ槍に言葉を放ってきた。

「だと、良いんですけどね」

 そうしてわたしが止める暇もなく、塚の前から去っていった。わたしはよく分からない気持ちのままに溜息をつき、離れの院に戻るため腰をあげた。

 ふと空を見上げると、すっきりとした空に薄く白い雲がかかっていて。わたしは俄に暗澹とした気持ちになった。いつも山頂付近にかかっていた紫雲が、いつのまにか姿を消していると気づいたからだ。

「たまたま、ですよね」

 そう口にはしてみたけれど、わたしは漠然とした不安が忍び寄っているのだという思いをどうしても抑えることができなかった。