2 事件前日
1 五月花の消失(1999/08/12 06:30 Thu.) 月宮あゆは、この屋敷に来てから毎日午前六時半に起床している。それは、長年の病院生活ですっかり早起きになってしまったということが大きい。病院着と比べれば格段に豪華な、薄いラベンダ色のネグリジェの落ち着かない手触りにもようやく慣れてきたところだ。あゆは大きな欠伸を一つすると、八月十二日の朝も定刻どおりにベッドから起き上がった。 すべすべの頬みたいな絹のシーツは、嫌な顔一つせずに木綿のタオルケットと擦れて心地よい音を立てる。あゆは、この音が好きだった。この屋敷に来て、その大きさと包容力に驚く暇も与えられぬ間に通されたこの部屋にも、ようやく生活の匂いが感じられるようになってきた。雀が小気味良い鳴き声を立て、ヒグラシやツクツクホーシが激しい夏に彩りを与えている。今日も暑くなりそうだなと、あゆは思った。 もう二人ほど自分と同じ大きさの人間が眠っても余裕のあるベッドから身を降ろすと、ナイトランプの置かれた戸台の側にある水差しから少しだけ水を飲んだ。昨夜は氷がたっぷりと張られていて、僅かについたレモンの味と香りに心休まる感覚を抱いたのだが、一夜越えてしまうと冷たさも風味も台無しになっていた。それでも、起き掛けの身体に新たな活力が湧いてくるみたいだ。 体を大きく伸ばし、錆にも似た気だるさを追い立てると、薔薇の紋様が縫いこまれた、豪奢そうなカーテンを開け放つ。一瞬、その眩しさに目が眩みそうになるが、今日という日がまた晴れであることを知り、あゆの気持ちは段々と高まっていった。 電灯の点いていない部屋だったが、太陽の光は十分な明かりをもたらしている。光線の加減かやや黄ばんで見えるが、作りや素材がしっかりしているせいか綻びは全くない。白を基調とした絨毯はそれと比べて新しく、隣の部屋に住み込みで働いている有本裕美の話によれば三年前に屋敷の全ての絨毯を全部取り替えたということだった。裕美もまた、もう一人の家政婦である早乙女良子にその話を聞いたのであるが、ざっと数千万の費用はかかったらしい。その額を聞いて、あゆは驚いたものだ。 「そうよねえ、私だって驚いたわよ。だって数千万って家が一件建つのよ。サラリーマンが五年も十年もかかって稼ぎ出すお金を、ぽーんと内装に使っちゃうんだから、やっぱり金を持ってる人って庶民と感覚がずれてるのよねえ」 大袈裟にはしゃぐ裕美に、あゆはただ頷くだけだった。例えば他にも、今まで眠っていたベッドが数百万するとか、ベッドとは反対側の隅にある三十六インチのワイドテレビなんか五十万以上するとか、この部屋にある家具や電気製品全てを足した金額より、部屋にかかっている複雑な幾何学模様の絵の方が高価だということも今では知っている。 丸や三角、四角が幼稚園児の落書きのように描かれているが、良子に言わせればその全てを計算し尽くして描いた至高の一品らしい。けど、あれなら簡単に書けそうだと、あゆは素早く断定を下した。あゆは芸術や絵画に興味はなかったし、それなら漫画やアニメを見ている方が余程面白かった。その点では有本裕美も同感で、あんなものをへいこら祭り上げている芸術評論家は皆、頭がどこか可笑しいのよと決めつけるように言った。あゆも、頭が可笑しいとまでは思わなかったものの、皆に持てはやされるような芸術家の中には幼稚園児もいるんだとくらいは漠然と思ったものだ。 この部屋には他にも、木製のがっしりとした造りの勉強机や本が五百冊以上納まるであろう本棚がある。そのどちらも、大囃平秀があゆのために用意したものだった。他にも十着くらい洋服のかけられる備え付けのクロゼットに誰がこんなに服をいれるんだって思うくらいに大きな箪笥。この中には誰が見立てたのかは分からないが、夏用の衣服だけで十種類は入っているのではないだろうか……詳しく調べたことはないのであゆには正確な数が把握できていなかったが、ほぼ間違いないと思う。 驚くべきなのは、それだけのものを置いてもまだ空間に余裕が感じられることだった。二十畳というこの部屋は、あゆが入っていた病院の個室を二個入れても余るほど大きくそして天井もかなり高かった。流石にシャンデリアはついていなかったが、リモコンで明かりは簡単に操作できる仕組みになっている。もっともこれは、足の不自由な大囃平秀のために作られたものであった。屋敷の廊下には手摺が張り巡らされており、足が悪くても建物の中なら割と自由に歩くことができるらしい。ただ、最近はまた病状が悪化したのか、右手で手摺、左手は杖をその手に持ち体を支えながら進まなければならないようだった。 良子はこのことを何度も口に出していたが、平秀は、 「運動をしなくなったら私は本当の老いぼれになってしまう。お前は私が老いて弱るのを見るのがそんなに楽しいか」 と最後にはかなり不機嫌そうな口調で言ったので、良子としても平秀を車椅子に縛りつけておくことはできなかった。あゆは、平秀も何とか自分の足で大地を踏みしめようと精一杯に頑張ってるんだと、声に出して、そして時には心の中で応援している。 あゆは未だに少し強張った体をストレッチして解すと、洗面場に行き顔を洗った。風呂は西洋風なのでそこまで広くはないが、それでも体を伸ばしてまだ余裕があるくらいの容量は誇っている。大理石で覆われているユニットバスは、体全身を映し出すような大鏡の鎮座した洗面台と洋式トイレとで、この余裕さは部屋の広さよりもあゆを驚かせた。何しろ夜のトイレが全く恐くない……病院で散々怯えていたあゆにとっては正に画期的な代物だった。だからこそ、この部屋が一度に好きになったのだ。 ただ、部屋の外になると話は別だった。あゆは小さい頃、幽霊屋敷の話を本で読んでからその手の話がてんで駄目になったのだが、明かりの微小な洋館の廊下はその話を思い出させて非常に恐かったのを憶えている。結局、夜の館を探検するのは部屋を出て三歩でやめた。お菓子をくれると言われても、あゆは断るつもりでいた。 そんな訳だが、この屋敷自体は気に入っていた。非常に整った形をしていて左右が同じ構造なので迷うことも少ない。それに採光用の窓は多いから、昼間はそれなりに明るく過ごし易い。この屋敷に来てから、早朝と夕方に屋敷を散歩するのがあゆの習慣となっている。これはリハビリを兼ねてのことだった。実を言うとまだ、三十分くらい歩いただけでも眠り込むくらい疲れてしまう。病院にいた時、また一緒に遊ぼうと約束してくれた友達たちとまた楽しく騒ぐためにも、体力は少しでも多くつけておきたかった。 今日もその習慣に従い、まずは顔を洗って丹念に歯を磨く。それから洗面台の大鏡で、髪型の確認。一昨日のように爆発はしてないが、ボリュームが増しているのでブラシを使ってちょいちょいと整えた。そしてネグリジェから運動用の活発な服装――今日は、前方にデフォルメされた犬がプリントされたTシャツとスパッツ――に着替えると、調子に乗ってくるりと一回転。 「うん、今日は絶好調」 あゆは軽くガッツポーズを決めると、入り口で靴を履いて部屋を出た。この屋敷は部屋ごとに靴箱が備え付けられており、廊下や外に出る時に靴を履き替えるようになっているからだ。廊下は手前と奥、二つに延びている。ここでは便宜的に、勝手口に至る方向を奥、玄関に至る方向を手前と呼んでおり、あゆもそれに倣っている。 奥の方からは朝食であろう、良い匂いが漂ってくる。あゆの部屋から二部屋離れた場所には食堂と厨房があり、否が応でも食欲をそそる。屋敷に味噌の匂いが漂うというのも些かアンマッチかもしれないが、それはあゆが朝は朝食が良いと言ったためである。 あゆの部屋の奥隣には、この屋敷の料理の全てを担っている大笛和瀬――やはり住み込みで働いているのだが――の部屋でその次にはワインセラーがある。ワインを貯めておくために造られた専用の倉庫らしいが、和瀬曰く、数百本のワインが入るらしい。ただ、元々平秀自身が通風で酒は飲めない。その妻であった大囃博美も七年前の事故で死んでしまったため、今はワインはない。友人に全て譲り渡してしまったそうだ。 この施設は年に一度、平秀の家族がやって来る盆時にしか使われないということだ。これは全て、あゆが和瀬に聞いたことではあるのだが。 その奥にある食堂を覗き込むと、大笛和瀬はいつものように調理の準備をしていた。 「おはようございます」 「ん? ああ、あゆちゃんか、おはよう」 和瀬はあゆのことを『あゆちゃん』と呼ぶ。何となく、自分はこの呼ばれ方が一番、好きな気がする。少なくとも『月宮様』なんて呼ばれるよりは良い。 「今日も散歩かい、料理はもうすぐできるけどもう少し後で良いかな?」 「うん」と大きく肯くと、あゆは食堂を後にする。そして西側の勝手口から外に出た。既に太陽は大きくその存在を主張し、蝉の鳴き声もますます大きく聞こえる。眩しい日差しを覆いながらそっと仰ぎ見ると、小さな雲の群れと圧倒的な青空とが広がっていた。今日も少し暑くなりそうだなと思う。あゆは、最高気温が二十五度だと天気予報で言っていたのを思い出していた。 灰と赤褐色の煉瓦は樹木群の側まで延びており、そこから噴水に向きを変える。それから、白く小振りなメイフラワーの咲き誇る花壇と、大きな墓標が目に移る。そこには大囃博美の遺骨が眠っている。死んだ妻と離れたくないからといって、平秀が敷地内に大きな墓を設置したらしい。死んでも離れたくないなんてロマンチックだなとあゆは思っている。 噴水からは細かい粒状の水滴がヴェールのように薄い膜を作り、涼しげな雰囲気を醸し出していた。水滴の向こう側には小さな七色の光が瞬いており、水の芸術に更なる彩りを添えている。あゆはしばらくそれを眺めた後、花壇の方に向かう。そこにはいつものように早乙女良子がおり、花壇の世話をしていた。 「おはようございます」 あゆが手を振りながら近付くと、良子は持っていた熊手を静々と置き、ゆっくりと歩いてきた。 「……おはようございます、月宮様」 なるべく明るく振る舞ったつもりなのだが、相手の態度は連れない。あゆは良い人だということは分かっていても、この人だけは苦手だった。 「うん。今日も花壇の手入れをしてるの? でも、毎日こんな広い庭を一人で手入れしてると疲れない?」 「いえ、木々の方は一ヶ月に一度業者の方が手入れをするので私の方は関与しておりません。だから私の仕事といえば、花壇についた虫や雑草を除くことくらいです。三十分もあれば、済むことですので」 その後の会話が続かなかったので、花壇に咲き誇るメイフラワーに目をやった。頭を垂れ、静々と咲くそれらは、純粋で綺麗なお嬢様といった感がある。あゆはこの花がとても好きで、いつも朝の散歩の途中に眺めている。 「月宮様、その花が好きですか?」 すると、今まで黙々と作業をしていた良子が今日に限っては珍しく話し掛けてきた。 「だって、綺麗だからね」 「そうでしょうか……外見は綺麗でも本性は汚いということはあると思いますが……ところで月宮様は、昨日の夕方もここを回られましたよね」 少し棘のある言い方から一変、今度は穏やかに尋ねてきた。 「うん、来たけど……何か訊きたいことがあるの?」 「ええ……実は今日、ここに来てみると咲いているメイフラワーが何本か引き抜かれているみたいなんです」 そう言って良子が指差す先には、そこだけ不自然に空白が出来ていた。無理矢理引き千切られたのか、根元に今も少しだけ茎が残っている。 「月宮様は、不審な人影を見られませんでしたか?」 良子は神妙な顔であゆに訊く。まるでそれが、重大な事件であるかのように。花壇に咲いていた草花を無理矢理抜くのは悪いことかもしれないが、その調子は度が過ぎているようにも見える。あゆは昨日のことを思い出し、少し考えてから首を横に振った。 「ううん、見てないよ。それに……もし花が引き抜かれていたら気付いたと思うし」 確かに、花は一輪でも引き千切られていなかった。あゆにはそれが断言できる。 「そうですか……分かりました。けど、心当たりになることがあれば私に教えて下さい。どうしても、気になるので」 あゆはそこでもうんと肯いて、花壇を後にする。だが、良子の真剣な表情をあゆは不思議に思った。何故、花をむしられてあそこまで怒るのだろうか? 余程大切に、手入れしているからだろうか……そのことはいくら考えても分からなかった。 それから噴水のところまで戻り、今度は反対側、東勝手口から館に入る。東翼(これも館の便宜的な呼び方で、正面から見て右を東翼、左を西翼と呼んでいる)の一番奥には古今東西の本がしまわれており、書庫と名付けられている。そこには読むのに難しい本が殆どだが、少しだけ漫画もある。その棚にある漫画は全て、平秀のもう一人の孫である大囃輝という少年が残していったものらしい。 平秀が読んで一目で気に入ったので、輝に頼み込んで譲って貰ったと平秀は恥ずかしそうに話していた。流石に六十五を過ぎて、漫画を読むのも恥ずかしいらしい。とは、一昨日ここで漫画を見つけて、読んで良いかと頼んだあゆに対する平秀の言葉だ。 書庫に並んでいた漫画は軒並み推理物で、実を言うとあゆにはさっぱり理解できなかったりする。『金田一少年の事件簿』『名探偵コナン』はアニメでやっているのを一度見たけど、やはりよく分からない。第一、あんな細い紐で人間を運んだりできるのだろうか、と不思議に思ったし、死体のシーンは恐いしで、二度と見るまいと誓った。 現実にあんな事件に巻き込まれて、皆よく冷静でいられるなと思う。あゆは、自分だったら泣くか叫ぶかしてしまうだろうと確信した。『金田一少年の事件簿』も、途中までは我慢して読んだけど「全身がバラバラにされる事件」で気を失いそうになり「顔を無茶苦茶に潰す事件」でとうとう放り投げた。これ以上はもう、読めそうになかった。 ちなみにその夜、なかなか眠れなかったのは誰にも話していない……。 それから物置、早乙女良子の部屋、大囃平秀の部屋と通り過ぎ、正面入り口に出る。二階まで吹き抜けのためか空間が広く感じられ、最初の時だけはその広さだけで圧倒された。今ではそうでもないが、しかし未だに階段の踊り場にかけてある絵だけは好きになれない。 様々な色の踊るその絵は、あゆの部屋にかかっている絵より遥かに具体的で、それ故に得も言われぬ恐さを感じる。腐った土と濁った水と、淀んだ空気と息苦しいような炎の色とが、多くの人と天使を苦しめ殺している。それを厳然と眺めるのは、二つの槍と四枚の羽を持った天使。絵の名前は『天使の消える街』というものだった。 何故、こんな絵がかけられているのかは分からない。ただあゆの知っているのは、三年前に平秀が同じ境遇で妻を失ったことに感涙して購入されたと語る良子の言葉のみだ。 でも、この絵は何かがいけないとあゆは思う。上手くは言えないけど、この絵が何かの不幸を呼びそうな、そんな予感。 あゆは改めて体を震わせると、思い出さないようにして食堂に向かった。もう、料理の準備もできているだろう。今日の料理は何かなと思いを巡らせていると、その予感もいつのまにか消えてしまっていた。 2 日々の喧騒とあゆの電話(1999/08/12 21:15 Thu.) 午後九時、相沢祐一はアルバイトから帰宅した。既に舞と佐祐理の二人は帰っており、二人してエプロン姿で迎えてくれた。どうやら、一緒に夕食を作っていたらしい。まるで新婚家庭だなと思ったが、よく考えれば日本の法律で二人の妻は持てない。 馬鹿なことをと心の中で呟きながら、祐一は部屋に上がる。 「……ひっく、あいざわゆうーいちただいまかえりましたー」 そしてわざとらしく、酔った振りをしてみる。すると、佐祐理と舞のチョップを同時に食らった。少しだけ痛い。 「……馬鹿」 「あははーっ、何だか面白そうだったので」 二人の言葉は全く正反対だが、容赦は十分にあった。まあ、これが毎日のコミュニケーションみたいなものだから、対応にも手馴れたものだ。 「まあ、さっきのは冗談としてだ。今日の夕食は何なんだ?」 「うーん、実はちょっと財政が厳しいのでありあわせのもので作ってみたんです。祐一さんの口には合わないかもしれませんが」 「あははっ、そんなことないって。佐祐理さんの作る食事はいつも美味しいじゃないか。これなら今すぐにでも、お嫁さんにしたいくらいだ」 「……私は?」 舞がボソリと呟く。 「あははーっ、そう言って貰えるとお世辞でも嬉しいです。でも、それだと舞に悪いです。祐一さんのお嫁さんは舞なんだよね」 「おっ、そうなのか? じゃあ舞、俺のお嫁さんになってくれー」 ふざけながら、舞のことをかばっと抱きしめる祐一。勿論、彼にしてみればふざけてなのだが、舞にとってそれはふざけたうちには入らない。 密着した祐一の顔に、強烈な舞のエルボーが入る。流石にたまらず、祐一は頭をおさえて悶絶し始めた。 「いってえええっ、頭があああっ!!」 まるで制御しきれない超能力を抑えている能力者のような台詞だが、舞はそのしなやかな鋼のばねのような筋肉をフルに活かして祐一に一撃を叩き込んだ。頭蓋骨が砕けなかっただけでも僥倖というやつだろう。もっとも、祐一は気付いていないが、いきなり抱きつかれて驚いたということも威力の半減した理由となっている。 更に激しくのた打ち回る祐一、慌てて救急箱を取りに行く佐祐理、そんな慌しい部屋の中で、舞は顔を真っ赤にしながら呟いた。 「……祐一の、馬鹿」 「そ、それが……痛みにのた打ち回る人間にかける言葉か……」 断末魔に似た祐一の言葉も、しかし舞の耳には入らなかった。 そして十分後、頭に液体サロンパスをたっぷり塗られ、氷嚢で情けなくその傷痕を冷やす祐一の姿があった。舞は流石にやり過ぎたかなと心配そうな顔でみており、唯一佐祐理だけが場を和まそうと笑顔だった。 「あ、あははー、折角のご飯だから明るく食べましょう……」 そう取り繕う佐祐理の笑いもまた、固い。すると今度は瞳を潤ませて祐一に迫っていく。 「舞だって悪気はなかったんですよ。だから、許してあげて下さい。それに、元はと言えばいきなり舞に抱きついた祐一さんが悪いんですから」 その表情には、可愛らしさの中にもどこか迫力があった。そんな調子で迫られると、祐一としては折れざるを得なかった。水瀬秋子の笑顔に屈服しない人がいないのと、それはほぼ同じ理由だ。 「まっ、そうだな……考えれば俺の自業自得って奴だし……」 「……私もやり過ぎた、謝る」 二人はほぼ同時に、ぺこりと頭を下げる。この三人におけるちょっとした諍いは、大体がこのようにして納まることが多い。回りから見れば馬鹿見たいかもしれないが、これもまた三人の幸せの形だった。 「でもさ、また余りものって言ってたけどやっぱり財政って苦しいのか?」 祐一は心配半分、またすまなさ半分で尋ねる。祐一はまだ高校生、しかも受験生という身分もあって、この家にあげるお金の総量は最も少ない。今、住んでいるマンションの月極料金が87000円、最初は三人で分担すれば余裕だと思っていたが、今ではその金額すらも結構苦しかったりする。元々祐一が、佐祐理のことを慮って少し広い家を借りたのだが、掃除も結構大変で実際はこの半分くらいの場所でも良いことが分かってきた。 このマンションは半年住まないと敷金が戻らないので、九月一杯でこのマンションは、出るつもりだった。そこで夏休みに入ってから、割と三人が各々良い物件を探しているというわけだ。その中でも四万円台でかなりの好条件の部屋が二件見つかったのだが、その捜索は香里の事件で一時中断されていた。 「ええ、そちらは大丈夫です。念のために節約というだけですから。ほら、いつ物入りになるか分からないでしょう? お金のことなら心配しなくて良いです」 佐祐理はお嬢様育ちと言うのに、妙に金銭感覚がしっかりしていた。食材の買出しにしても十円単位まで熱心に拘るし、最近では安い食材を見つける簡単な名人くらいにはなっていた。もっとも、舞は匂いを嗅ぎ取るのかいつでも最高級の食材を易々と選んでくるのだが。 「ところで……」 祐一は先程頭に浮かんだ香里の事件のことを二人に促した。祐一がわざとおどけた態度を取るので、最近ではようやく明るさらしきものが戻ってきたが、実際には一つ祐一たちの直面した問題があった。行方不明になった栞の捜索である。 話によると栞の両親はすぐに捜索願を出したらしく、勿論事件の重要参考人として彼女を探している。犯人であれそうでないであれ、事件の核心部に触れる何かを知っているであろうことは容易に予想できたからだ。 それとは別の場所で、栞のことを心配している祐一たちや水瀬家の面々も貴重な夏休みを潰して暑さの僅かに滲む界隈を必死で探している。祐一も舞も佐祐理もバイトがない時はその捜索に参加しており、今日は舞と佐祐理の番だった。 「駄目でした、手掛かりすらも見つかりませんでした。栞ちゃんの消えた部屋というのももう一度見せて貰ったんですが、全く痕跡がないんです。まるで神隠しにでもあったみたいに……」 佐祐理はまるで、自分の妹がいなくなったかのように悲しんでいた。今回の事件でも、彼女は率先して捜索に加わっていた。それは、もしかしたら以前にたった一人の弟を亡くしたことが原因なのかもと思ったが、祐一は黙っておいた。そんなこと言うのは、佐祐理を傷つけるだけだからだ。 舞もまた、無表情ながら栞のことを心配している。捜索隊に加わるだけでなく、合間をぬって描いた似顔絵――意外な才能だったが、舞は絵が上手だった――をアルバイトの人に配ったり壁に貼って回ったりもしている。祐一も佐祐理もその行為を手伝ってはいるが、やはり成果なし。結論から言えば、美坂栞はデビッド・カッパフィールドのように天外消失してみせたとしか考えられなかった。 「……ごめん、祐一」 「俺に謝ることじゃないだろ、舞は何も悪いことをしていないんだから。悪いのは、栞を何処かに消し去った何者かだ……そうだろ?」 祐一は些か興奮していた。焦燥感に加え、夏の蒸しいるような陽気と中途半端なぬるま湯のような膠着が許せなかった……自分自身に対して。 無口の募る夕食において、その沈黙を破ったのは電話のベルの音だった。 誰だろうと思い、祐一が受話器を取るとそこからは懐かしい声が漏れてくる。 「あの……祐一くんのお宅ですか?」 「その声……あゆあゆか? 久しぶりだな」 その電話の主が月宮あゆであることが分かり、祐一の言葉は俄かに弾む。実を言えば、あゆのこともまた祐一には懸案事項の一つだったからだ。 「うぐぅ……しつこいよ祐一くん」 声が少し殺気立ってるので、祐一は苦笑して宥めにかかった。 「ははははっ、ごめんごめん、冗談だって。それであゆ、今日は何の用だ? まさか、たい焼きを一緒に盗む算段でもしようって言うのか?」 「うう〜っ、ボクそんなことしないもん。ボクはただ、祐一くんたちが元気かどうか心配で、電話をかけたんだよ」 そうかそうかと声を出そうとして、祐一はふと疑問に思う。確かあゆにはこちらの住所や電話番号を教える暇はなかったのだ。 「ところであゆ、家の電話番号はどこで知ったんだ?」 「え、うん……退院の日に佐祐理さんが渡してくれたんだよ」 退院、その言葉に祐一は二度驚く思いだった。そんなことは一度も聞いてないし、更には佐祐理が退院の日を察知してこっそり見送ったことも初耳だ。 「あゆ? お前、どうして退院したことを話さなかったんだ? ……もしかして、香里の件があって遠慮したのか?」 「う、うん……」 後ろめたそうにいうあゆに、祐一は怒りを覚えた。気付いた時にはもう怒鳴り散らしていたのだから、その怒りは正に湯沸し器の如くだった。 「このばかあゆっ! そういう時にまで遠慮してるんじゃない! 折角長い入院を終えて退院するんだろ、そんな晴れの日くらい、我侭を言ってもいいんだよ……、ったく、どいつもこいつも自己犠牲が強いから俺が……」 これではまるで、俺が自分が一番汚い人間のようではないか……祐一は思わず自嘲的になる。 「うぐぅ〜、ごめんよぅ……でも、それは祐一くんが嫌いだったからじゃなくて……」 「そんなこと分かってるって。でもな、お前が遠慮するのは似合わない。困った時には、すぐに泣きついて良いんだぞ」 祐一の言葉にあゆはしばし沈黙を保っていたが、やがて半泣き半笑いの声でゆっくり喋り出した。 「うん、分かった。じゃあ、次に困った時には真っ先に祐一くんに頼るから」 そしてあゆは最後に一言、付け足すようにして真摯な声を飛ばした。 「……約束だよ」 「おう」と元気よく返答すると、ようやく隣に舞と佐祐理が近付いてきていることを悟る。どうやら先程の怒鳴り声を聞きつけてきたらしい。 「……誰?」 舞が受話器に耳を当てている祐一の袖を引っ張ってくる。 「あゆだよ、ほら……ずっと病院に入院してた」 「……うぐぅ?」 祐一は思わずずっこけた。 「……祐一くん、何か騒がしいみたいだけどどうかしたの?」 「ああ、佐祐理さんや舞もあゆと話したいだってよ」 実際に言ってはないが、目を輝かせて祐一や受話器を見つめていればそれは一目瞭然といえた。あゆはあゆで、 「えっ、佐祐理さんがいるの? じゃあ、代わって欲しいな」 とやけに現金だ。どうやら、余程佐祐理のことを信頼しているらしい。祐一は分かったからとその調子を宥め、佐祐理に受話器を渡した。 それから三十分の間、祐一は佐祐理と舞とあゆが受話器越しに会話している場面をずっと眺めていた。母もそうだったが、女の電話は妙に長い。それでも飽きることがないのは、佐祐理と舞という両極端の存在の所為だろう。 束の間の幸せな光景……皮肉にもそんな言葉がぴったりに見えたが、それでも舞や佐祐理の明るい顔を見るのが祐一は好きだった。 そしてあゆの声。もし、こっちが抱えている事件が片付いたらあゆの住んでいる所にも訪れてみようと思う。祐一はその場所を知らないが、多分佐祐理が知っている筈だと判断する。それがいつの日になるか、この日の祐一には全く分かっていなかった。 まさかこの約三十六時間後、涙声のあゆに助けを求められるとは……しかも五度、奇妙で極めて厄介な事件に巻き込まれるとは、予想だにしなかったのだ。
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