4 探索と予感


6 魔弾の射手(1999/08/13 17:35 Fri.)

「ボウガンの矢が、撃ち込まれています――」

早乙女良子が念を押したように、そう言い含める。その言葉で真っ先に我に帰ったのが、天翼館の主にして家長の大囃平秀だった。

「誰が――」

その言葉は怒りに途切れて一時中断するが、また鋭い語勢となって響き渡った。

「誰が、こんなことをやったんだ!」

70近くとは思えない怒声だった。加えて恐しい形相に、皆が一瞬、本気で恐怖の念を表す。酒に酔いへらへらしている乙男を除いて。それを見咎め、平秀は、真っ先に彼の元へ詰め寄る。

「お前か! お前があんな、タチの悪い冗談をやったのか!」

乙男もまた、老いしとも威光衰えぬ父の視線に一瞬、虚をつかれたが、すぐに元の鷹揚な態度を取り戻していった。

「馬鹿言うなよ、俺があんな意味もねえことに金を使うわけないじゃないか。ボウガンなんて買う金があったら、上等なワイン一本買ってるさ」

酔っ払い特有のしゃっくりを披露し、再び乙男は例のにやにや笑いを復活させた。あゆにとってそれは非常に不快で、大囃輝が彼を嫌悪する理由も分かった。月宮あゆという人間は人を滅多に嫌いになることはないが、乙男のことだけは別だと思ったし、亡くなった母の魚子も言っていた。夜になる前からお酒の臭いを漂わせている人間にロクなものはいない――。

嫌悪の感情で場が満たされているのに気付き、乙男は肩を竦めてふらふらと奥の方に歩いていく。

「おい、まだ話は終わってないぞ」

「長旅で疲れてるんだ、少しくらい休ませてくれよ」

「駄目だ――お前の言っていることが正しいかどうか確かめるまではな」

そう言って、平秀は良子に乙男の荷物を持ってくるよう命じ、彼女は勇敢にも乙男から手提げ荷物を奪い取った。そして、敢然と中身を曝す。

彼の荷物の中には、黄ばんだ歯ブラシと携帯用髭剃り、空の煙草ケースに吸い臭しの煙草が二本。汚れたパンツとシャツ、よれよれのアロハシャツと、とても裕福な家庭の次男坊とは思えない中身だった。後は半分に引き千切られた馬券が数枚に、半分ほど飲みくさしたウイスキィの瓶に生ぬるいビールが数本。勿論、そこにボウガンの発射装置や矢らしきものはなかった。

「相変わらずみっともない生活をしおって」

と、平秀が溜息混じりに言う。

「俺にはこれが性分に合ってるんでね」

乙男は曝されたプライバシを悪びれることなく肯定すると、

「じゃあ、身の潔白も証明されたようだし、俺は行くからなっと――
そういえば、鍵がないんだった」

彼は平秀から渋々差し出された鍵を受け取ると、覚束ない足取りで西翼の奥の方へと向かう。

「全く、四十にもなろうと言うのにしょうもない餓鬼だ」

平秀はそう酷評すると、良子にこそりと何かを命じた。彼女は深く頭を下げると、ロビィの豪華なドアから外に出て行った。

「ああ、すまないな。柄にもなく大声で怒鳴ってしまって。それと有本さん、部屋に戻るので少し手を貸してくれんか? それとてっちゃん……」

平秀は輝のことをてっちゃんと読んで、僅かに相好を緩める。逆に輝はそう呼ばれるのが恥ずかしいのか、少し俯いている様子だった。

「両親と、それから羊山の奴を読んでくれんか? 一応、事情の方を話しておかなければならんからな」

輝はその言葉に促されるまでもなくこくと肯き、そしてあゆの部屋がある西翼の廊下を奥に進んでいった。彼は何故か、少し首を傾げていた。

早乙女良子が何らかの用を終え、ロビィに戻ってくるのと、二階にいた大囃家の人間が揃うのとはほぼ同時だった。

「玄関の天使像に矢が打ち込まれたというのは本当なんですか?」

輝の報告を聞いたのだろう、大囃秤一がやや興奮した剣幕で声をあげる。

「ああ、どこぞやの不届きな馬鹿が……」

平秀は右手に持つ杖を震わせながら答えた。

「やったのだろう。そこでだ、一応のこと施錠されていない部屋を全て調べようと思っている。もしかしたら、何処ぞやにボウガンを持った危険人物が紛れこんどるかもしれんからな」

「それに、私たちの中に犯人がいるかどうかの可能性を確かめるためにも、ですね」

秤一は飲み込み良くそれらの事情をも察すると、堂々とした態度で妻である喜子と弟である羊山にそれぞれ一瞥を送る。

「私は……別に構わないけど、羊山さんはどう?」

「え、ぼ、ぼくですか……」

大囃羊山は少しうろたえて見せた後、しかしはっきりとした態度を示した。

「ええ、この際は徹底的に捜査した方が良いと思います」

「じゃあ決まりですね」

秤一は平秀に同意を求め、平秀はそれに肯定の意志を返す。

「空き部屋は、基本的に全て施錠しております」

今まで気配を殺していた早乙女良子が、背後から声をかける。それから、非常にてきぱきと館の状況の説明を行っていく。

「一階は基本的に、食堂と書庫、物置は午後十時に私が施錠するまでは解放されております。それ以外の空き部屋は施錠し、鍵は合鍵と共に私が管理しております。

それ以外の部屋では、各人の住室の鍵は各々で所持しているものと、合鍵が一つ。一階の部屋の合鍵もまた、私が全て管理しております。但し、ワインセラーだけは例外で平秀様と私、それから大笛さんの三人が所持しています。

付記しておきますと、ワインセラーは外からも中からも鍵を使わないと施錠できませんので」

「どうして、そんなことをするの?」

別に単なるお酒の貯蔵庫なんだから、そこまで厳重にすることはないだろうと思い、あゆは率直にその疑問をぶつけてみた。

「それは、ワインというものがとても高価なものであるからでございます。あと、ワインは非常に温度管理が難しく、軽軽しく手に触れただけで価値が無辜なるものと成り下がってしまうからです」

「そこまでしゃちほこばった言い方しなくても、乙男の奴が勝手に忍び込んで、篭城までしてワインを盗み飲みしないようにしただけだろう」

秤一がそう付け加えると、良子は意にも介せず言葉を続けた。

「それも一因ではあります。一階で特記すべきことは以上のことにように思えます。次に二階ですが、普段は誰も利用しないので鍵はどの部屋にも一本ずつ、合鍵は一切ありません。こちらの鍵は普段は私が管理しておりますが、今日は平秀様のご家族の方がお見えになるということで、平秀様自身が管理をしておられました。勿論、使わない部屋は施錠していますので、探索の必要はありません。これで、私共の探す範囲は狭められたと思います……」

そう言葉を締めくくると、良子は深く頭を下げた。あゆは、普段は知ることのない鍵の管理状況を、感心しながら聞いていた。隣にいる輝は、その状況を刻み付けるかのように何度も肯いていた。

反対隣にいた有本裕美は、面白そうなおもちゃを見た子供のように明るかった。逆に、その前方にいる羊山の様子は気の毒なくらいに暗かった。

「じゃあ、探索は私と羊山と……乙男の奴はあてにならないし親父に頼むわけにもいかないし、女子供を働かせるわけには……」

「僕は、子供じゃないから大丈夫だよ。それに、こんな悪戯をする奴の正体なら僕だって早く暴いてやりたいからね。だから、僕も行くよ」

「私も勿論、行きます。この屋敷の管理は全て、この私の責任ですので」

それで、話は大体まとまった。探索に加わったのは大囃秤一、羊山、輝と早乙女良子の四人、食堂で待機するのがあゆと有本裕美と大囃平秀、喜子の四人となった。

まず最初に、あゆも裕美も部屋のドアに施錠はしていなかったので確認のために部屋の中で隠れられそうなところを軽く探して回った。二人の部屋には謎の人物は勿論、凶器らしき物体は見つからない。あゆの部屋は越してから一週間で雑然とする暇もなく、有本裕美の部屋も基本的には綺麗に整頓されている。

次に入った大笛和瀬の部屋にも、不審な人やものは見当たらなかった。あるとすれば包丁用のケースと研ぎ石くらいだったが、それも料理人にすれば当たり前の道具ということで、誰も気には止めなかった。唯一、あゆは中学生くらいの二人が仲良く手を繋いで映っている写真に目を留めたくらいだ。その端には小さく、

「我が最愛の女性と」

と書かれていた。

ワインセラーに施錠がされてあったことを確認すると、待機組は食堂の席にそれぞれ腰掛け、部屋を出て行く探索組を見送った後に思い思いに溜息をついた。

「あの、それで警察の方には電話しないんですか?」

裕美がおずおずと手をあげ、平秀に質問を飛ばす。

「警察は、実際に人が傷つかなければ何もしないものだ。実際、矢が銅像に刺さっていたというだけでは、見回りの強化くらいが関の山だろう。大体、三年前にも屋敷で事件があったが、あいつらはロクな捜査もせずに犯人も取り逃がしたままだ。一線で働いている時も奴らは、人の揚げ足を取るだけで何もしなかったからな。そんなもの、呼んだって無駄だと思う」

平秀は苦々しげに顔を歪めると、そう言い放つ。どうも、警察に不信感をもっているらしく、あゆは単純に不思議だなあと思った。彼女自身は小さい頃、迷子になっていたところを優しい巡査に助けて貰ったことがあるから、警官というのは須らく信用できるものだと信じている。だが、隣に座る裕美の様子を見るとそうでもないらしい。瞳には肯定と、そして僅かに暗い感情の瞬きが感じられてあゆはぞっとした。

が、それも一瞬のことで、好奇心を剥き出しにした裕美は気になる疑問をどんどんと尋ねていく。

「まあ、警察も公務員ですから仕方ないかもしれませんね。ところで、三年前の事件って何ですか? 以前も同じようにボウガンを射ち込まれる事件があったんですか?」

「そんなことだったら警察には電話なんかしないよ……まあ、ちょっとした盗難事件が起きただけだ。危険なことなど何もなかった」

そう、面倒臭そうに話す平秀の口調は、もうこれ以上聞くなという意向がありありと見て取れた。裕美も流石にそれを感じ、口を紡いで話し声は聞こえなくなる。

食堂からは、大笛和瀬が料理をする音しか聞こえてこない。気まずい食堂の空気に耐えながら、あゆの心に昨日感じた、いいようもない悪寒めいた感情が蘇って来るのを自覚できた。しかし、それがどこから沸いてくるのかは分からず、煩悶とした思いで、館の探索に出向いた人たちが帰ってくるのを待った。

彼らが安堵と消沈と綯交ぜの表情を浮かべて戻ってきたのは、もうすぐ六時半になるということだった。

「平秀様」

と、良子が苛々とした表情を浮かべて座る平秀に向けて声を放つ。

「不審な人物や、ボウガンの類は捜索した部屋からは見つかりませんでした。先程、ざっと外を見回りした所も何もありませんでした。恐らく、ボウガンは屋敷の外から適当に狙って撃ったのだと思われます。銅像に当たったのは、単なる偶然でしょう」

「そうか……」

平秀はそれを聞いても安堵することなく良子の言葉を受け入れた。

「ということだ。余程、巧妙に隠れている可能性もないことはないが、元々、防犯装置を張り巡らせてあるからそれはまず零と考えて良いだろう。まあ一応、無用心に外を出歩かないことと、窓にカーテンを下ろして外から姿を気取られないようにしておけば大丈夫だろう」

そんな、簡単に大丈夫だと断じて良いのだろうか……。

一応、ボウガンというのが危険な武器だと知っているだけに、あゆはこれで全てを終わりにして良いのか、随分と迷いがあった。何だか、これで安心だと浸っている空気そのものが危険に思えるのだ。いや、この中に危険があるような……上手くは言い表せない……。

「や、やっぱり駄目だよ」

その衝動に圧され、あゆは思わず口を開いていた。

「ボウガンって危ないんでしょ? 誰かが外から撃って来るかもしれないんでしょ? 危ないよ、やっぱり警察に電話した方が良いよ……」

その剣幕に、他の誰もが驚いているようだった。そんなに変なことを言っただろうかと不安になるのを必死に隠し、あゆは伝えられない心の感触を捉えようと必死に説得を続ける。

「誰かが……死んでからじゃ、遅いんだよ」

あゆのその言葉に、皆が思わずびくりと肩を震わす。食堂の雰囲気が、ますます気まずく、暗く歪んでいくのが分かった。と同時に、あゆは理解する。この感触は多分、誰かの死にまつわる予感めいたものなのだろうと。

しかし、それでは何故、自分にだけ死といものが身近に感じられるのだろうか? 一度、生死の境を歩んだからだろうか? それとも、この屋敷に流れる空気が、変だから?

けど、それだけじゃないような気がする……。

「そうだな……」

ふと、平秀が哀しそうに呟く。

「死んでからでは、遅いんだ……」

それは大事な人を亡くして後悔したかのような、寂しげな呟き声だった。

「分かった。もし、次に同じような事件が起きたらはっきりと警察に連絡し、彼らの処断を仰ぐ。それで……良いんだな?」

思いの外、真剣な平秀の言葉に、あゆは思わず肯いた。他の人物はあゆの剣幕を、優しげに見つめているものも、気味悪げに見つめているものもいた。そして、その中に怒りと憎々しさを含んだ視線があったことに、あゆは気付かなかった。

そして、その時丁度、厨房にいた筈の大笛和瀬がこちらにやって来た。

「……あの、夕食が完成しましたが、どうしますか? その、込み入った話をしているように思えるのですが」

コック然とした正装に、丁重な口調。最初にここで食事をした時は、食堂の大きさとその態度に、まるで高価な店に食事に来ていると思ったものだ。でも、今はそれも白々しく感じられる。

「そうだな。取り合えず、奇禍は無いと分かった訳だし、気分を変えて食事にしよう。まだ、ちょっと早いかもしれないが……」

「あの、僕は……身体の調子が悪いので、食事は良いです」

平秀の言葉に、大囃羊山は首を振ってから立ち上がった。その顔は以前にも増して蒼白になっている。風邪でもひいたのかなと、あゆは心配げに彼を見る。が、足取りはしっかりしていたし、特に具合が悪そうには見えない。

「勿体無いなあ、ここの料理は下手な料理店のものより美味いのに。羊山は私なんかと違って安月給取りだから、無理してでもここの飯を食った方が良いだろう?」

「そうよ。それに、食事をきちんと取った方が身体には良いじゃない」

羊山のことを留めようと、長兄の秤一とその妻の喜子が声をかける。

「ごめん、本当に、気分が悪いんだ……」

しかし、羊山は固辞して食堂を去っていく。その後姿は、何かに怯えているような不安がっているような、そんな印象をこの中の誰もが抱いた。

そして、それが結局――。

あゆが生きている大囃羊山の姿を見た最後の瞬間となった。

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