6 第一の殺人事件


9 談話―食堂にて―(1999/08/13 19:15 Fri.)

「全く、あの娘は――」

有本裕美が月宮あゆと大囃輝を連れてあゆの部屋に向かった頃、食堂で早乙女良子は顔から火が出そうなのを堪えながら、そう呟いていた。理由は勿論、裕美のサスペンス――云々の言葉である。あのような大声で話しては丸聞こえではないか、使用人としての自覚が全然足りない、お蔭でこっちが恥をかいてしまったと、普段は鋼鉄で覆ったかのような心がぐらぐらと揺れているのは、やはりいつもと違う環境のせいだろうか――。

良子がそんなことを考えている間も、大囃秤一はくすくすと忍び笑いを立てていた。隣に座る彼女の妻、喜子も同じよう、声を立てずだが愉快そうに微笑んでいる。良子の長年の主人である大囃平秀は、また彼女が何かやらかしたかという風な、穏やかな苦笑だけをただ漏らしていた。

「なかなか、元気の良い使用人だね」

秤一がにやにやと笑みながら、良子に話しかけてくる。穴があったら入りたい気分だ。

「申し訳ありません。私の教育がなっておらず、先程のような無礼を――」

良子が更に言葉を連ねようとするのを、秤一は片手で押し留めた。

「良いって、そんなしゃちほこばった言い方しなくたって。良子さんは、私のもう一人の母親のようなものなのだから、いい加減、その喋り方は止めて欲しいな」

「――しかし、いくら付き合いが長いとはいえ仕えるものに対しての礼儀を失することは私の信念が許しません。まあ、私の道楽と思って付き合って頂ければ」

秤一も秤一だが、良子もこれで老獪に身を交わす術は身につけていた。そして、まだ彼が子供の頃の姿を思い浮かべる。小さい頃の秤一の姿、それは長兄という立場に似ず、総じて気弱そうな風貌を称えていた。小学生の頃は、弟である乙男に苛められて泣いていたくらいだ。

それが、このように自信を保ち、朗らかで、しかし他の上に立つような鷹揚さを身につけたのはいつのことだろう――良子は過去を手探り、そして秤一の母の死に思いが至る。彼は、人前では泣かなかった。ただ、葬式の後ふと通りかかった彼の部屋で、布団を抱きしめながらわんわんと泣いている、その姿だけは覚えている。

どうやら、妙に回顧的な気分になっているらしい。良子は遇に浮かんだ思考を葬ると、すぐに食堂全体を敷延し、用立てられた時にはすぐに駆けつける体勢を整えた。彼らは土産物らしき菓子詰めを囲みながら、秤一の息子である輝の話をしている。平秀は大事な孫息子の話をしているせいか、いつも以上にうきうきとしているようだった。

「それで、輝の方の調子はどうなんだ? 今年、高校生になって――今が肉体的にも精神的にも一番、成長出来る時期だからな。元気で明るくやっとるか?」

平秀が顎を擦りながら問い掛けると、秤一も自慢の息子のことを話したくてしょうがないという風に口を開く。それ以上に、隣にいる喜子が喋りたくて堪らなくてうずうずしているようだった。彼女、いつもはあまり口を開かないが、息子のこととなると口数が多くなる。良子などは少し過保護すぎるとも思うが、輝が世間でやや忌み嫌われる傾向にあるマザコンではないことに、胸を撫で下ろしている。

「そうですね――ちょっと引っ込み思案なところはあるけど、それ以外は文句のつけようがありません。友人も沢山いるし、スポーツもそれなりだが、何より頭がすこぶる良い。輝を見てると時々――そうだな、妹のことを思い出す。そう言えば、あの月宮あゆって娘、妹の娘なんですよね? やっぱり親娘でしょうね、面立ちがよく似てる――」

妹――魚子の話題が不意に飛び出し、平秀は顔を曇らせた。秤一の口からその人物の名前が出るのは実に三年ぶり、しかもその時は平秀も平然と受け流していたから、今回も良かろうと魚子のことに言及したのだろう。だが、それが謝りだったと気付くと、秤一も軽く頭を下げ「すいません」と一言添えた。

「いや、良いんだ――」

平秀は秤一の態度を手で留めながら、訥々と言葉を紡いでいく。

「ただ、最近、魚子のことを思い出すことが多くてな。あゆちゃんもまた、少し緩慢で独特なところはあるけど、飲み込みは驚くほど早い。しかも利発で、七年間遅れていた勉強をもどんどんと埋めていっている。しかも、良子さんの報告では病院で大勢の友人に囲まれ、楽しそうにしていたと言うし――そういうところまで学生時代の魚子にそっくりだ。

そんな時、ふと思うよ。血は、良い血は意図せずとも脈々と続いていくものだって。本当、魚子は本当に私の子かというくらいの娘だった。きっと、瑶子に似たんだろうな。あいつも主婦に甘んじていたが、あれほど聡明で強い女性を他には知らない――。だが、人間とは無常なものだ。あれや魚子、それに博美といい――尊いものから順に、神は命を天に吸わせていく。そして、私だけがこうして、木乃伊のように老い、歩くことすらままならぬようになってもこうして無様に生きている。本当、無情だな――命というのは」

平秀は抑揚なく、ただ哀切を込めて今はなき大切な女性たちに心を傾けていた。最初の妻、そして彼女との間に生まれた唯一の女子、そして晩年、平秀が心より好いた二番目の妻。平秀が彼らの思いに浸り、そして深い悲しみを見せる時、良子は辛くて堪らない。そして、そこまでの悲しみを傾けられている女性たちに僅かばかり、嫉妬の念を覚えるのだ。

そう、良子は――こうして晩年に差し掛かり、老成し、様々な人生を歩んできた今なら分かる。自分は大囃平秀のことが、きっと好きだったのだろう。それは憧れから恋情、愛情、忠誠心と徐々に変化していったが、平秀のことを嫌ったことは一度もなかった。きっと、彼を射止めるチャンスもあったのだろう。瑶子が亡くなった時、日向となり陰となり支えていけば、或いはそうなったかもしれない。だが良子は専ら、影で平秀を支えたのみだった。

主従関係――四十年もの間、二人を一貫したその関係が、結局は今まで情熱やそれに類するものを必死で抑え込んでいたのだ。ただ、それは完全に成功したとは言い難かった。

かつて、良子は一度だけ――そう一度だけだ。あの時は、平秀にやんわり拒絶され――。それから、良子自身はは大きな過ちとも思えるいくつかの失敗も犯したりしたが――今はそれもセピア色の写真のように、霞んでしまっていた。

「そうですね――」

良子にそこまでの回顧をもたらす沈黙の後、秤一が静かに唇を濡らす。

「母さんの死、あれが私を一人前にした。死んだ母が天国で心配しない男になろうと、初めて決意したんです。あれからもう二十年近くも経つ――それから色々なことがありましたよ。でも、まさか魚子が駆け落ちなんて情熱的なことをするとは思わなかった。そして――兄弟の中で一番最初に死んでしまうとも、ね」

そうだ。良子にさえ、少し前までは想像すらできなかった――。

「夫を交通事故で亡くして、それからも頑なに援助を断って一人で娘を育ててたって聞いた時は、本当に馬鹿だって思った――その頃、父さんの新しい奥さんも交通事故で――酷い事故だった、轢き逃げでしたっけ――犯人はまだ捕まってませんよね」

秤一は、何かを吐き出すようにして一切合財の悲しみを吐き出し始める。まるで、部屋の中にいるものたちに刃を突き立てるように。そして秤一自身がそのことに気付いたのだろう。彼はふと口を噤み、先程より強く頭を下げた。平秀は秤一の発言に対して何か口を挟もうとしていたが、機先を制したその行動のため、実際の言葉にはならなかった。

「すいません――何か、先程から湿っぽい話ばかりで。でも、ここに来てから何故か、色んなことを考えてしまって。特に過去のこと、子供の頃から数日前のことまで間断なく――変な感覚で、どうも最近、仕事ばかりで疲れてるのかもしれないな」

秤一は、とんとんと肩を叩き、溜息をつく振りをしてみせる。どうやら、仕事疲れというのも嘘ではないみたいだ。特に最近は景気も底に落ち込み、ただでさえ気苦労も多い。平秀の提案で毎年一度、家族が集まるようになって三年目、この会合はいつのまにか秤一にとって落ち着きを取り戻せる領分の一つとなっているのかもしれない。

良子はそんなことを考え、俄かに憐憫の視線を寄せる。平秀も、秤一の内心の気苦労を感じたのか、極めて温和な調子でホスト役に勤めていた。

「まあ、今は色々な意味で厳しい時分だしな。せめて、ここにいる時だけは肩の力を抜いてれば良い――誰も文句は言わんからな。どうやらお茶の方も沸いたようだし、茶菓子でも囲みながらゆっくりしていったら良い。良子さんも、ずっと立っていて疲れたろう。それに話ももう少し積もりそうだ――思い出の生き字引として、良子さんにも是非、四方山話に参加して欲しいのだが、どうだね。大笛さんも、片付けが終わったら少し、お茶会としゃれ込むのもどうだろうか――」

平秀は優雅な笑みを浮かべながら、良子と大笛和瀬に声をかける。平秀が他の、所謂主従の主という立場において特殊なのは下働きのものにも容易に労いの言葉をかけ、時には気遣いなしの語らいやお茶会に呼び込むというところにあった。それに、断ると微に子供っぽい表情を見せるので、良子も大笛も遮二無二断る気分にはならなかった。

それでも使用人の性分で、台所から運ばれてきた四人分の紅茶と砂糖壷の乗った盆を受け取ると、素早く皆に手渡していく。そして、良子は一礼してから恭しく席に座った。

「では、ありがたく御同席させて頂きます」

良子はそう述べ、各々が紅茶と菓子に手をつけるのを見計らってから、紅茶を啜った。甘く香るダージリンの、胸をすくような喉越しと風味は、大笛和瀬という料理人がフランス料理の料理人としてだけではなく、英国の間時の作法をよく身に付けた趣味人であることも表している。良子は改めて、大笛のそういう部分に感心をした。そして大笛自身も洗い物を軽く済ませた後、自分の紅茶を手に持ち、些か無作法ではあるが椅子に腰掛けた。

「ああ、やっぱり鳴鐘堂の栗饅頭は美味しいですね。どんな腕前の西洋菓子職人も、ここまでの風味と甘味のある菓子は作れないですよ」

大笛は断りもせずに、菓子に手を伸ばしみるみるうちに一つ平らげた。普通なら、仕える先の人間に先んじて、しかも土産物に手をつけるなど叱責されてもおかしくないことだ。だが、大笛の余りの食べっぷりに、この行為だけは三年前から容認されていた。

「羊山の奴も、毎年これだからな」

秤一が苦笑して述べ、それから心配そうに天井をみつめた。その時、廊下から男女らしき二人の口論の声が聞こえてきて、良子はふと耳を欹てた。また、有本裕美であろうか――はたしてその予想は当たっていたが、今度は良子も怒る気にはならなかった。

何故なら、相手も相手だったからである。

「なあ、良いだろ。ちょっと俺の部屋で晩酌にでも付き合ってくれよ」

余りにも下卑た、良子を心底不快にさせる声。いや彼女だけでなく、他の誰もがその声の持主を簡単に判じていた。大囃乙男、良子が常々、大囃家唯一の恥さらしと考えている平秀の次男の声である。

「いやです。大体、いつの時代だと思ってるんですか。使用人とはいえ、従業員に手を出したらセクハラですよっ」

どうやら、乙男は裕美のことを熱心に口説いているらしい。全く、酒癖に加えて女癖まで悪いとは救いようがないなと、良子は心の中で溜息をつく。流石にこの時ばかりは良子も、裕美の好戦的な性格を快く思った。

「はん、セクハラだって? 四十近くも年の離れた女、妻にするような親爺だぜ。どうせあんたもお囲いさんか何かで、毎日下の世話をしてるんだろ? 同じこと、俺にしてくれりゃ――」

「良い加減にして下さい――貴方にそんな権限はない筈でしょう。失礼しますっ」

廊下から強い足音が響き、そして扉を強く閉める音が聞こえる。

流石に、厭らしさ全開の言い草には良子も怒りを通り越して辟易さえした。何処をどう捻くれれば、あんな鬼畜な言葉を口にできるのだろう――裕美が使用人の立場を忘れて逃げるように立ち去ったことが、素晴らしい判断のように思えてくる。

しかも、乙男は激しく舌打ちをした後、図々しくもこの食堂に入ってきた。内心、悔しいだろうに、妙に薄汚れた笑みを浮かべながら――。

「いやいや、部屋で休んでたら寝入っちまった――夕食はまだかい?」

まるで粗野な少年のような言葉づかい――毎年思うことだが、この男はいつまで経っても全然違わない。流石の良子も、この男にだけは表面上の礼儀を保つので精一杯だった。それほど、大囃乙男という人物の素行はひどい。

小さい頃から、何かにつけては兄である秤一や弟である羊山、妹である魚子の三人を苛めてばかりだった。手酷いからかい、汚く卑猥な言葉使い、そしていつでも楽に贅沢に過ごそうと考える怠惰な性格。良子も、何度か叱り付けたが、まるで暖簾に腕押しだった。全然効き目がないばかりか、靴に画鋲やら硝子の破片を仕込むなどの仕返しすら受けた。へらへらした外見とは裏腹に、根は執念深い。それは、今先程、やんわりとはねつけられた有本裕美への微かな怒りがくすぶった瞳を見ても一目瞭然だった。

おまけに、中学の頃から事件を起こしては平秀を煩わせる、大人になってからは余り在り過ぎる毎月の送金にすら文句を言い、額を増やせなどと言いたい放題。打つ、呑む、買うと、放蕩の限りを尽くすはまだ序の口。四ヶ月前の電話では、財産の生前分与すら公然と叫ぶ始末で、その背後に潜む意図――博打等での大量の借金――の清算のせいで、平秀の四肢はひどく参ってしまっていた。今でこそ回復の兆しは見せているが、そのせいもあって乙男は、良子にとって密かに憎む人物にすらなっている。

平秀も、流石に先程の言葉は許せなかったのか、視線が厳しい。そして驚くことに、その目には殺意に似たものすら過ぎっていた。

「もう食事はとっくに終わったぞ。全く――貴様という奴はいつまで経っても性根が定まらん。いいか、今日という今日は言わせて貰う――」

しかし、平秀がそこまでがなるのを見計らって、乙男はわざとらしく笑って見せた。

「分かった分かった、しゃんとしろって言いたいんだろ。まあ、そっちの方は善処するってことで勘弁してくれよ――ところで飯の方だけどその様子じゃ食わせて貰えそうにないし――おっ、良い物があるな、これを何個か貰ってくから。本当は甘いもの好きじゃないんだけどな、こう甘辛く日本酒に合うような――」

「もう喋るな。その菓子でも持って、さっさとこの部屋から出て行け」

平秀が、爆発しそうな声を必死で押し殺して言う。乙男は一瞬、気色ばんだがすぐに厭らしい笑みを取り戻し、手を振りながら食堂を出ていった。後に残ったのは、とても談話など続けられぬ冷たい空気と、得も言えぬ焦燥だけだった。それは、乙男が一年に一度、必ず大囃家にもたらしていく、いわば慢性疾患のようなものだった。

「全く――あいつはいつまで経っても変わらないな。父さんも、いい加減あいつを甘やかすのは止めたらどうです? ますます付けあがるだけなのに――」

「馬鹿言え。そんなことしたら、あいつは笑顔でどんな汚い手段も使って金を稼ごうと考えるだろう。汚く楽な方法でな、そうしたら何人もの人間が被害を被るか分からん。乙男には適当な金を与えておけば良い、それが一番、世のためだ」

平秀の言葉は全く辛辣だったが、良子にも分からないでもなかった。とにかく、乙男という人物の性格を知っていれば、平秀の言った解決法が最も相応しいということは、燎原火を見るより明らかであるからだ。ただ、秤一のいうような不満も最もだろう。秤一は他に解決方法がないのを知っているのに、今日もこうして強く憤っていた。それほど、今の乙男の行動には腹を立てたのだ。

去年はワインセラーのワインを、篭城してまで飲み干したせいで、平秀はワインセラーの扉に特別な鍵の仕組みを作らなければならなかった。一昨年は、酔って暴れて平秀の大事にしていた壷を一つ、割ってしまった。そして今年がこれだった。乙男だけは年一度の集まりに招かねば良いのに――良子の心にはその思いが年ごとに広がりつつあった。あと数年経てば、暴走してしまうかもと思うくらいに。

結局、興醒めした空気は元に戻らず、秤一・喜子夫妻はお茶菓子と紅茶を一通り嗜んだ後、そっと席を立ち上がった。弟の代わりに、深い礼を携えて。

「じゃあ、父さん――私たちは部屋に戻るので」

「すまんな、不快な思いをさせて」

「いえ――あれはその、父さんの持病くらいのものだと思って諦めれば」

秤一がふうと溜息を付き、首を強く振る。処置なしということを示すジェスチャーだが、その仕草は年を食ったなりに似合っていた。日本人にこういうジェスチャは、ある程度、年齢層が若くならなければ似合わないと一般的には言われているが、彼は例外らしかった。

「ではお義父さま、お休みなさい」

喜子が、夫に倣って頭を下げる。彼女に対しては、良子は対した感情を持ち合わせていない。ただ、少し買い物好きで、たまには人の寄り合いに混ざり、息子である輝を溺愛するというごく普通の主婦に見える。ただ、大林家に嫁いで十七年にもなろうとするが、ともするとたまに蓮っ葉な地が出たりもした。そこが、少しだけ良子には好ましく思えた。普通、名家に嫁げば、並の女性なら数年もしない内に朱に染まってしまうことを、良子は長年の使用人生活をしていて、よく存じているからだ。

だから、良子は喜子に何も言うことはないが、悪い印象はもたない。自分は喜子に、不気味で義父に至って忠実な堅苦しい使用人だと思われているだろうが、それは大半、正しいので別に嫌悪感は抱かなかった。

二人が部屋を辞してすぐ、平秀がやや疲弊した面持ちで杖を持ってゆっくり立ち上がった。

「では、私も部屋に戻る」

良子は諾々と肯くと、例によって平秀のすぐ隣に付き添った。余程、症状が悪い時以外は、平秀は自力で歩くことを好む。だから、良子としては杖や手摺を頼りに歩くのを眺めているしかない。それは少しもどかしいとも思うのだが、仕様がなかった。

途中、あゆの部屋から大きく騒ぐ声が微かに聞こえてきた。トランプに興じているのだろう――ハートやクローバという単語が会話の端から読み取れたので、良子はそう判断した。

「楽しそうだな――」

平秀は、手摺に沿いながら――何故か、とても悲しそうだった。それが何の思いから来るのかは――良子にも分からなかった。だから、素直に「はい」とだけ答えて、肯いた。

平秀の部屋の前に立つと、平秀はいつものように「お休み」と言って、良子が言い返す間もなく部屋に入っていく。腕時計を確認すると、七時五十五分――館にある出入り口を施錠する時間だ。毎日、屋敷の三箇所の扉は、敷地の内外を繋ぐ表門がセキュリティによってオートロックがかけられてしまう、午後八時に合わせて施錠するのが良子の習慣だった。まだ時間は僅かに早いが、これから外に出る人間もいないと考え、良子も思ったより疲れていることもあって、鍵はかけてしまうことにした。

まず、場所的に一番近いので東翼の扉を。そしてぐるりと回って玄関、西翼の扉を施錠する。建物の構造もあろうが、施錠して歩くだけでも結構かかるが、ざっとした見回りも兼ねているので、良子にしてみれば特に気にならなかった。それから、西翼の扉にほぼ隣接して存在する階段を上り、二階へ向かった。

今日はボウガン騒ぎもあり、丹念に見回しながら、西翼から東翼までぐるりと回ったが、不審な物陰や物音は何ら、聞こえなかった。良子は安堵の息を漏らすと、東翼の端にある階段を下りて再び下へ。どうやら、中に不審人物はいないようだったが、念のためにもう一度、書庫と物置を見ておくことにした。

書庫にも物置にも誰もいなかったが、本棚の煤払いが徹底してなく、やや埃臭かったので、有本裕美にもっと厳しく注意しておくべきだなと思った。

そして、一際大きい息を、誰にも気取られていないことを丹念に見回してから、吐く。この頃、年なのだろうか――妙に体が重い時があり、またそう言うときには抗し難い眠りが訪れる。良子はこれを年の所為にはしたくなかったが、平秀の老いた姿を見ると、いやでもそのことを思い知らされた。自分ももう若くない――。

そう自覚するたびに、良子の脳裏には泥のような後悔が沸いてくる。そして、毎日の生活を思い出して、辛うじてそれを振り払ってきた。

良子は今回もそうして、後悔を振り払った。明日からはまた、いつもの数倍以上の働きをもって仕事に精を出さねばならないからだ。

でも――何故か、今日に限っては眠りに落ちるまでその後悔を殺ぎ落とすことはできなかった。昏い、昏い眠りの中で、良子は緩慢な夢を見た。

お姉ちゃん――。

虚ろな目だった。

虚ろな、何よりも虚ろな目。

そして、深い死を匂わす目の色だった。

思えば――この時から、死に強く影響されるようになってしまったのだ。良子は夢を客観的に夢の中で分析しながら、いくつもの死をゆっくりと思い起こしていた――。

10 ドアの鳴る音(1999/08/13 22:58 Fri.)

大囃羊山は、酷く狼狽していた。あの言葉――あれが本当に真実なのか、それとも単なる思い違いか――ただ、先日電話で連絡してきたときの――その真摯な声が耳について離れない。

『そうだ――あれらの事故は、事故じゃない。殺人なんだ――恐らく同一犯人による』

殺人――その言葉に、羊山はしばらくの間、震えを抑えることができなかった。まさか、そんな――羊山が頭の中に思い浮かべた人物が、よもやそういう考えを持っているとは、羊山には思いも寄らなかった。

確かに、あの二件の事故は両者とも轢き逃げだ。だからと言って、殺人――しかも連続殺人だなんて――。

時計の針は、二十二時五十八分を指し示している。先程から緊張していて、時計ばかりに目がいってしまう。喉が鳴って仕様がない――それもその筈、羊山と羊山に不吉な考えを吹き込んだ人物との、密かな対話の時間は二分後に迫っていたからだ。

ああ、恐い――。

この考えを誰か別の人間に話して、相談できたらどれだけ楽だろう。でも、そのことは絶対の秘密だと言われているし、特に家族の人間には話さないでくれと言われているから、羊山は誰にもその疑惑を相談していない。

それに――羊山も彼なりに考えていたのだ。

月宮星占と、大囃博美。

この二人を殺害しうる動機を持った人間なんて、しかも同一の犯人によって殺害するような動機なんて、極めて限定されている。だからこそ、家族には特に話すなと言い含めていたのではないだろうか――羊山はそう、判断していた。

だからこそ、余計に恐い。この屋敷には、飄々として表情をした殺人者が紛れ込んでいるかもしれないのだ。とても、目を合わせてなんていられなかった。

だが、羊山は無理にでも、思考を遮断しなければならなかった。

ノックの音。

コンコンと、乾いた鈍い音が、響く。

ああ、とうとう来たのだ、この瞬間が。

そんなことを思いながら、大囃羊山はドアを開けた。

それが、死の門を開く最後の仕切りであることに気付かずに。

11 殺人(1999/08/14 00:14 Sat.)

第一の殺人事件は怜悧に実行された。

冷徹な殺人者――の、幾つもの計画のうちの一つとして。

大囃羊山を殺害したあと、殺人者はゆっくりと時計を見た。

零時十四分。

まだ朝までは時間があるが、殺人者にはまだ成さねばならないことが沢山あった。だが、今のところ計画は滞りなく進んでいる。

不思議と体は震えなかった。

不思議だった。

自分が、こんなに容赦なく残酷になれるとは思わなかったのだ。

逡巡や後悔がないと言えば嘘になる。

だが、矢を放ってしまったあの時に――。

いや、或いはあの時に――。

否。

もう、ノスタルジィにひたるのはやめにしよう。今はただ、自分の仕事を成すだけだ。そう、自分の仕事を――。

殺人者はそう判断し、気の遠くなるようないくつかの仕事にとりかかった。肌には僅かに寒気が走り――それだけが、殺人者の恐怖を示しているようでもあった――。

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