7 助けを呼ぶ声


12 磔の大地(1999/08/14 07:30 Sat.)

この日、早乙女良子が目を覚ましたのは七時半を少し過ぎた頃だった。彼女は目覚めてみて、その無為さに愕然とする。また、寝坊してしまった――良子は未だ体に残る痺れのようなだるさに、刻まれた年と無情さを感じた。良子は規則性を重んじる性格なので、最近、ふとしたオーヴァワークで疲労が溜まり過ぎてしまうことに嫌悪感を抱いている。

良子はすぐ、この屋敷での正装に着替え平秀の部屋に向かった。いつもは彼も午前七時半には起床の途につき、すぐに朝食を所望してから軽い運動を取る。それまでに、平秀の不都合ないよう取り計らうのが良子の仕事だった。彼女はその任務を怠ったことを強く恥じ、急いで馳せ参じ平秀の部屋のドアを叩いた。

しかし、いくら叩いても反応がない。平秀様も疲れて眠ってらっしゃるのだろうか――良子は念の為にもう二度ドアをノックしたが、出てくる予感がなかったので静かに平秀の部屋の前を後にした。そして、大きく一つ息を吐く。礼を失したことがばれずにはすんだが、その分、自己嫌悪は強く胸に残った。

それに、今日は平秀の家族の者の世話もしなくてはならない。立ち止まって安堵している暇はなかった。良子は一念を取り戻し、中庭に向かう。日課の花壇の世話をさっさと終わらせようと、物置で軍手と熊手を調達し、東翼奥のドアの鍵を開錠しようとした。

が――ドアの鍵は開いていた。昨日、午後八時の段階では施錠されていたものが何故か、開いているので良子は不思議に思ったが、月宮あゆの日課のことを思い出し、ひとまずは合点がいった。この屋敷に来て以来、六時半から七時くらいの間であゆが中庭の散歩に出てくることは、良子が一番知っていたからだ。

しかし、ドアを開け外の光景を見回した時、それは間違いであることが分かった。

大囃邸の敷地には、屋敷とほぼ平行となるように樹木が規則正しく植え並べられている。そのほぼ中央付近に、何か良子の預かり知らない異物があることを知った。そして、その異物へと誘うよう、地面に足跡らしきものが続いていることを知った。足跡はどのように目を凝らしても一組で、酷く踏みにじられているらしく靴跡かどうかすらも判別しにくいほどであった。

何か、犯罪かそれに類することでも起きたのだろうか――。

三年程前のあの事件を知る良子としては、黙って見逃すことはできないものだった。足跡を何者かの痕跡と判断した良子は、それを踏まぬように心掛けることにした。煉瓦敷きの舗装道と、樹木群にの間は数メートルほどだが未舗装の領域が存在し、そこだけ足跡がくっきり残っていることが良子にもよく分かった。そして――続く先に存在するものがどうやら人間であることも分かりすぎるほど分かった。

胸に、刃のようなものを生やした、人の形をしたものを、本当に人間ということができるのならば――。

刃はうっすらと血に染まり、だがその刃に貫かれた人間はまるでそれを享受するかのように安らかな、しかし濁った瞳で果てしなき天を仰ぎ果てていた。仰向けにされた屍体――もう良子はそれを屍体と疑うことをしなかった――の口からは、血の筋が垂れ固まっている。

それは、まるで人間を昆虫採集の標本にしたようだった。これには、流石の良子も驚愕し、ただただ震え、本当なら逸らしたいそれと永遠とも言える長い間、対峙していた。が――不意に強い風が吹き、良子の体が正気に戻る。

死んでいる、人が、しかも自分のよくよく知っている人間、昨日までぴんぴんしていた人間――。

唐突に出現した、幻惑的な死。良子は、屍体を検分する余裕も、ただ近付くことすらできず大仰な痙攣を堪えることができず、蹲った。喉がカラカラに渇き、吐息がみるみる荒くなる。

だが、辛うじて踏み止まった理性が良子に指示を出す。誰かに知らせないと、まずい――誰かに、誰かに――。良子は震える体に鞭打ちながら、大声をはりあげた――が、それはまるで夢の中のように、ただかすれ声となって虚空に消える。

良子は元来た道を引き返し、屋敷に駆け込み、そして必死で大囃平秀の部屋のドアを叩いた。今度は、いくら熟睡していようと躊躇することはできなかった。ある意味、窮極の緊急事態だからだ。

良子は我武者羅にドアを叩いた。流石にその騒々しさにあてられたのか、平秀が眠く気だるい様子でドアを開けた。

「どうした――良子さん、何をそんなに慌ててるんだ?」

平秀は、震える声でその事態を伝える良子の声に注視し――みるみる目を見開き、血走らせていった。まるで、あの世の幽鬼でも見たかのような、強張った表情を浮かべて。それほど、良子の言葉は衝撃的だった。

「あ、ああ――平秀様、庭に――樹木のほとりに屍体があります――」

 

「――何だって?」

平秀には、良子の言ったことがよく聞き取れなかった。舌がもつれていたし、イントネーションの強弱がまるで無茶苦茶で七十過ぎの老人に聞かせる物の言い方ではなかったからだ。

「今、良子さんは屍体――という風なことを言ったような気がするが――」

「屍体です!」

早乙女良子は、心の震えすら示すよう体を震わせ、そして大切な箇所だけを繰り返した。

「――良子さん、その屍体は誰のだった? 様子はどうだった? そして如何なる状況によって死に至ったんだ? 今は喋るのも苦しいと思うが、事実なら救急車を呼ばなければならん。そして、もしかしたら警察も呼ばねばならんのだ。さっ、話して欲しい」

平秀に冷静に諭され、良子は徐々にだが冷静を取り戻しつつあった。幾つもの修羅場を潜って来た人間として、あまつさえ苛烈な企業の担い手であった平秀は、いざという時にずっと冷静でいることができた。目の前で人が刺し殺されるような事態が起きたとしても、真っ先に事態を収めようと動く自信すらあった。もっとも、今は平秀も暴漢を御するほど体の動きも警戒ではなかった。それに、既に事は起こってしまった後だ。

良子は、大きく一度深呼吸をすると何とか冷静であろうと試みた。まず、何とか正確に屋敷を出てからの光景を思い出そうとした。それだけで動悸が激しく耐え切れなくなりそうだったが、良子は何とか耐えた。

「分かりました――本当なら寝坊したことを詫びるべきなのでしょうが、それは置かせて下さい。私が起きたのは七時半でした。それから急いで着替えと身支度を整え、日課である花壇の世話にと勝手口から屋敷を出ました。そして庭を望もうとすると、樹木の立ち並ぶ一角に人の倒れているのを見たのです。足跡も辛うじて見えました。

何事かと慌てて駆け寄ると、そこに人が――剣のようなもので胸に刺されて串刺しのように惨たらしい姿で――そう、あの方は間違いなく平秀様の御子息の一人、羊山様に間違いありません」

「何だと! 羊山の奴が――それは、事故ということはないだろうな。私も良子さんも、そして他の者もそんな危ない代物を放置したという話は聞いたことないし、見たこともない。ということは自殺か――考えたくはないが、殺人という可能性も――あるのだな?」

「はい――」今度は、良子も少しは落ち着いて答えることができた。「自分で自分を刺して――串刺しにするなんて聞いたことがありません――となると――」

「――何てことだ」

他殺である――その可能性が高いことを示唆され、初めて平秀は大声をあげた。今まで冷静にしていたが、とうとうたがが外れたのだろうか――良子は平秀の心痛そうな面持ちをそう判断し、次の言葉を継ぐことを躊躇ったが、平秀は虚勢を見せ良子を促した。

「続けてくれ――どのみち、私は知ることになる、皆も知ることになるのだ。なら、私が最初に把握しておいた方が良い。私がこの屋敷の主なのだから――」

「了解しました――」

良子は仕える主人の強さに感服し、思わず頭を下げる。

「ただ、ここで冷静になって考えたから今のようなことを思いついたのです。私は人影に近付き、それが羊山様であると共に、どうやらそれが屍体であることに気付き――ひどく動転し、しばらくはそこを動くことができなかったのです。それから誰かに伝えなければならないことを辛うじて思いつき、こうして急いで馳せ参じたと言う訳です。無様な対応で申し訳ありません」

良子は、何もできなかった自分を恥じ――故に余計、無様さが心に滲んできた。平秀はそんな良子の心中を察してか否か、ゆっくりとこう告げるのみだった。

「いや、屍体を見れば誰でも動転してしまうのは当たり前だ。それが、生まれた時からずっと接してきた息子のような存在であれば――寧ろ、ここまで冷静になって私に伝えてくれたことは有能の証ですらあると思う。だが、今はこうして話している場合ではない。警察と、無駄かもしれんが救急車も呼んで欲しい」

「――畏まりました。それで、平秀様はどうなさるつもりですか?」

「状況を把握せねばならないからな。その、羊山が倒れているという場所に、私を案内して欲しい。それと、今のことは現段階では誰にも話さないでおいて貰いたい。余計な混乱を招くだろうし、身内があまり快い死に方をしなかったと分かれば混乱するだろうし」

「はい、では――」

仰せの通りに――と良子が頭を下げ、未だ震える足を何とか前に進めようとした時だった。屋敷の外の方からつんざくような悲鳴が聞こえてきた。それが、どうやら月宮あゆのものらしいと良子が思った時、不意に再びあゆの日課のことが心を過ぎった。朝、庭を散歩にでかける月宮あゆの日課が――良子は焦り、平秀は顔を強く険しめる。

「どうした、さっきの叫び声は――あれはあゆちゃんの声だった、一体――」

「月宮様は毎朝、庭を散歩する日課が――もしかしたらあの屍体を――」

良子が言うと、平秀の顔色がさっと蒼まった。

「――電話は私がする。良子さんはあゆちゃんの様子を見てきてくれ、頼む!」

平秀は、杖をつく老人としてはおそらく最大限に近いスピードで自室に戻り、電話を手にとった。その姿を確認することなく、良子は急いで忌まわしい屍体のある現場へと走った。自らの迂闊さを天に――それから、自分に呪いを込めながら。

13 約束・前編(1999/08/14 07:35 Sat.)

月宮あゆが目を覚ましたのは、早乙女良子が目覚めてから五分ほどした頃だった。あゆは少しだるさは残るものの快眠から訪れる爽快感に思わず大きく体を伸ばした。そして、そこに未だ体をベッドに沿え、眠り続けている有本裕美の姿を発見した。

起こそうかどうか迷ったが、この広い屋敷を毎日管理している上に昨日は色々とあったから眠らせてあげた方が良いかもしれないと、あゆはベッドをそっと抜け出し裕美をそのままにしておいた。それから、布団をそっと肩に被せ、それからこの屋敷に来てからの習慣どおりに着替えと身支度を済ませた。

時計を見ると七時五十分だった。随分と寝坊したんだなと思いながら、いつもの廊下、そしていつものドア――そして舗装された地面に沿い西勝手口から噴水の方に向かい、といつものコースを歩いている時だった。ふと、樹木越しに奇妙な物体を垣間見た。

「あれ、おかしいな――何であんなところで倒れてるんだろ?」

あゆにはそれが倒れている人間の姿に見えたが、木々に僅かに遮られて肝心の部分は見えていなかった。胸に突き刺さった、刃のようなものが――。あゆは、そんなことも露知らず噴水から人間の姿をした何者かの元へ近寄った。そして側まで来た時――あゆは息を飲んだ。

そこにあるのは――あゆも何度か見たことのある、そして余り見たくないものだった。死者の顔――歪んだ顔色と生気を帯びない肌の色、胸からまるで幼い樹木のように生え出た刃――胸から確認できる見るも無残な血の跡――。

しばらく立ち止まり、何もできなかった。そして不意に、あゆは奇妙な既視感に襲われた――これと同じような光景を何処かで見たことがある。これと同じ、とても、とても、恐い光景を――確かにあゆは見たことがあると感じた。

そして――恐いと思って初めて、目の前の光景が本当に恐いものであることに気付く。それまであゆは、衝撃を目の前の屍体から強く受け過ぎ――恐いという感情すら麻痺していたのだ。だが、一度それが喚起されると元々は恐がりな彼女の性癖が無意識のうちに強烈な悲鳴となって口から漏れた。息が途切れそうになるまで――思い切り、大声を――。

あゆは明らかに恐慌に襲われていた。これは恐いものだ、あってはいけないものだ――どうしよう、どうしよう、誰かに助けを求めなきゃ――。

その時、あゆの脳裏に浮かんだのは家族の誰でもなく、また警察でも救急車でもなく、一昨日に交わした何気ない約束のことだった。

『そんなこと分かってるって。でもな、お前が遠慮するのは似合わない。困った時には、すぐに泣きついて良いんだぞ』

『うん、分かった。じゃあ、次に困った時には真っ先に祐一くんに頼るから』

『……約束だよ』

何故かは分からないが、あゆは無性に――相沢祐一に助けを求めたいと思った。そして――最後まで自分を気にかけてくれた女性に――。後からしてみれば、警察という言葉が浮かばなかったのがあゆには不思議なくらいだったが、この時の彼女にそんな冷静な判断思考能力は残されていなかった。半ば、本能に近い形であゆは元来た道を戻り、そして電話の側に書き止めてあったメモ帳を頼りに、震える手で何とかボタンを押していった。

何度かコール音が鳴り響き――早く、早くと大声で喚きそうになるのを必死に抑えながら、相手の反応を必死で待った。

そして、不意に反応が変わり掠れたような男性の声が響く。

「はい、相沢ですが――」

しかし、あゆは相手が誰かを確かめる間もなく声を張り上げていた。

「お願い、助けて――助けて、祐一くんっ! 恐い、恐いよっ!」

祐一の声を聞いたことが無意識の引き金となったのだろうか――あゆはそんなことを捲し立てながら、瞳を涙で溢れさせていた。それが嗚咽交じりの声と変わるのに、時間はかからなかった。

14 約束・後編(1999/08/14 07:55 Sat.)

相沢祐一は、遠くから聞こえる電話の音で目を覚ました。最近は美坂家の事件で電話連絡が多く、電話に敏感になっていたことと、こんな朝早く電話がかかってくることがなかったということもあり、祐一は即座に駆け出しすぐに受話器を取っていた。

「はい、相沢ですが――」

どなたでしょうか――と尋ねるよりも先に、興奮した女性の声が鼓膜を突き破るように耳をつんざいた。

「お願い、助けて――助けて、祐一くんっ! 恐い、恐いよっ!」

最初、祐一には彼女の声が誰のものか分からなかった。だが、すぐに祐一を呼ぶ口調や声の調子から月宮あゆのものだと分かった。と同時に、ただならぬ受話器の向こうのあゆの様子に、祐一は負けずと声を張り上げなくてはならなかった。

「――あゆか? そうなんだな? 助けてってどういうことだ? 何が起こった?」

しかし、あゆの声はたちまち嗚咽が混じり、上手く判別できなくなっていった。

辛うじて「死んだ――」という言葉と「恐い――」という言葉が幾つか聞き取れたくらいだ。だが、その言葉だけで祐一を驚かせるのは充分だった。

「死んだ? 死んだって――どういうことだ? 誰が――」

しかし、祐一の言葉にあゆは言葉を返さなかった。しばらく宥めながら様子を伺っていると、微かにドアの開くような音が受話器を通して聞こえてきた。そして「月宮様――」と、かくしゃくした声で、誰かが話しかけていた。月宮様というのはあゆのことだろうか――でかい屋敷で暮らしているらしいから、そう呼ぶ従者がいてもおかしくないのかもしれないと祐一は判断した。

しかし、その人間とあゆの怯えようとの因果関係がいまいち分からない。どうやらあゆを宥めているから敵ではないようだが――祐一は心を少し尖らせて相手と対応する必要があると感じた。少なくとも――気を許してはいけない。

話が終わると、次に電話に出たのはあゆではなく彼女を宥めていた人物の声だった。

「あの、もしもし――貴方は相沢様でしょうか?」

声から推定するに、どうやらかなり年を召した老人のようだった。が、喋り方やトーンは非常にしっかりしており、しっかりとした人物であることが祐一にも窺い知れた。

「ええ、そうですが――どうして俺の名前を――」

知っているんですか――と尋ねようとして、あゆが祐一の名前を興奮しながら何度も叫んでいたことを思い返す。尋ねるまでのことではないと思い、祐一は次の質問に移った。

「あゆは――あいつはどうしたんですか? それに、死んだとか恐いとか連呼していて――俺には何が起こってるのか分からない――あゆは、無事なんですか?」

その、死んだ『何者』かにも興味はあったが、先ずはあゆの安否を確認することが先決だと思った。でなければ、心配でしょうがなかったからだ。

「ええ、月宮様は大丈夫です。ただ、とても錯乱しておられて――」

「錯乱って――どうしてそんなことになったんですか? それに死んだって――もしかして、そちらの家の方で誰かが亡くなられたんですか?」

もしかしたら何者か、かもしれないが、屋敷で暮らし出してからまだ十日も経っていない。それに、体調は万全でないから愛着の沸く何かを飼っている余裕もないというのが祐一の考えだった。その考えの正しさはまもなく話の相手が保証してくれた。

「――その通りです。今は事情があってお話することはできませんが、相沢様のご心配することは何もありません。とにかく、今はまだ一般の方々にお教えするには早過ぎるのです。ただ――必ず後日、説明は致します。それでは、私も急いでおりますので――」

「あ、ちょっ、待っ――」

祐一は最後まで引き止めたが、向こうも慌てていたらしく無情に電話は切られてしまった。祐一が拍子抜けした調子で受話器を置くと、何時の間にか背後に川澄舞の姿があった。

「うわっ、舞、何時の間に――」

「――今さっきから。ところで、さっきの電話は誰から」

時々、舞の登場の仕方は心臓に悪い――ゆういちは心の中でひとりごちながら、それどころではないと舞に今の電話のことを説明する。

途端、眠そうだった舞の目が決意を持って煌いた。舞は自分の気持ちをどう整理しようかと口をぱくぱくさせたが、上手い言い回しを諦めたようでただ、こう告げた。

「――祐一、行こう。助けを真剣に求めてるなら――行かないといけない」

舞の言葉に――正直、祐一は迷った。向こうは心配しなくて良い、事情は後日、必ず説明すると祐一に言ったのだ。わざわざ尋ねていって、事態をこれ以上かき回す必要があるのか祐一には分からなかった。

そんな祐一の優柔不断さを戒めるよう、舞が更に強く言い募る。

「――あの娘は、嘘を付く娘じゃない。そんな娘が助けを求めてる」

言いながら、何故か舞の目には淡い涙の雫が浮かんでいた。

「――見捨てたらいけない。いや――見捨てないで、欲しい」

舞はぐすりと鼻を鳴らし、それでも祐一の目を鋭い視線で強く射抜いていた。その姿を見て、祐一は気付いた。かつて舞は――誰も助けてくれる人間が一人もいなかったからこそ、長い間、苦しんでいたのだということに。

だから、舞は――あゆを同じ目に合わせてはいけないと言っている――いや、そうに違いないと祐一は思った。

「あー、祐一さんが舞を泣かせてる〜」

今までの騒ぎで目を覚ましたのだろうか――シリアスな場に些か不似合いな倉田佐祐理の声が響いた。

「これは、俺のせいじゃないぞ――断じてだ」

時々、悪ふざけで舞を半泣きにさせてしまう祐一の言うことではなかったが、ここは流石にふざけている場合ではない。祐一に代わって、いつもより遥かにしっかりとした舞が、佐祐理に――訥々とながら説明していくと、佐祐理の顔にも厳かな雰囲気が宿った。

「――あの娘、今も不安でうぐぅ、うぐぅと泣いてるかもしれない」

少し失礼な言い方とも思ったが、舞は舞であゆのことを心配しているのだろう。佐祐理にもそれは分かったらしく、すると彼女の理知性が祐一と舞の取るべき方向をしっかりと指し示してくれる。

「分かりました――それなら急いで身支度して出かける準備をしましょう。あゆちゃんのことは心配ですし――個人的に大囃家は倉田家と付き合いの深い部分がありますから。そこで死人が出たとなると――佐祐理としても心配です」

佐祐理が良い所の令嬢であることを久しく思わせる機会がなかったため、祐一はでかい屋敷の人間に知り合いがいることを素直に感心する。が、そんなことをしている暇などないことを悟り、急いで舞や佐祐理がどたばたと動いている合間に素早く着替えた。

いつもなら、舞が俄かに頬を染め眉を潜める場面だが、他人の着替えを気にしている暇もないらしい。

「そういや佐祐理さん、その屋敷までの道程って知ってるのか?」

ふと、不安になり尋ねてみると佐祐理は自信満々の様子で胸をどんと叩いて見せた。

「ええ、小さい頃でしたけど道はちゃんと覚えてます。佐祐理は、一度覚えた道は忘れたことがないんですよ」

七年前に来たこの町の光景を全然覚えてなかった祐一には非常に耳痛い言葉だったが、ひとまずは安心できる事実でほっと胸を撫で下ろす。

「ここから、自転車だと三十分くらいでしょうか――車だと半分くらいで着けるのですが、佐祐理は車を運転できないので――」

「――私も出来ない」

舞は元々、ラフな格好で過ごしているか祐一に負けず劣らず準備は早かった。何時の間にか、ティーシャツにジーンズという爽やかそうな洋服に身を包んでいた。

「舞って、準備が早いねー。佐祐理も、舞に倣ってもっとラフな洋服を着こなせるようにならないといけないかも」

少し、名残惜しげに佐祐理は再び身支度へと奥の部屋に姿を消す。それから三分くらいして、佐祐理は髪をリボンで結わえ、スカートの部分に少しフリルの入ったライム・グリーンのワンピースを着て登場した。

「お待たせしました、それでは行きましょう」

佐祐理が祐一と舞に一つ頭を下げる。何処となく気品を思える仕草に祐一と舞はしばし魅了されたが、当の佐祐理が二人の先を通り過ぎて行ったので、舞も祐一も急いでその後に続く。財布と部屋の鍵、自転車の鍵を持ったことを確認し、祐一は最後に部屋の鍵をかけて外に出た。

皆少しお腹が空いていたが、誰もそのことを口にしようとはしなかった。それから、出来る限りのスピードで自転車を飛ばしていった。その間の景色のことは、余りにその移り変わりが激しくて記憶している暇などなかった。

そしてどのくらい漕いだだろうか――段々と閑静な所謂、高級住宅街と呼ばれる場所に近付いてきた時、祐一は時計を見た。午前八時四十五分――平日でもライフサイクルの殆ど変わらない舞や佐祐理に反し、祐一はこの時間なら夢の中にあることすら稀にある時間だ。

「確か、この道を右に曲がった所だったと思いますが――」

佐祐理がきょろきょろと辺りを見回していると、何台かのパトカが大仰そうな門の入り口に止まっている光景を見ることができた。祐一も不安に思ったのだろうか――パトカのいる方を指差し、おそるおそる訊いてくる。

「佐祐理さん、もしかしてあのパトカのある場所って――」

「ええ、あそこが大囃家の入り口なんですが――どうしてパトカが止まっているのでしょうか?」

口に出しては見たものの、佐祐理はとうにその理由を推測していた。何かが、恐らく人が死に、そして眼前にパトカが止まっているとなると、かなり重大な事件である可能性が高い。かなり疑いの強い変死――つまりは凄惨な形の自殺か他殺であるということだ。

そこまで考えて、佐祐理は思わず身震いする。月宮あゆという少女がどういう事件に、どんな形で巻き込まれたのか、心配で溜まらなかった。そして、どうして最近、こういう目を向けるのも嫌な事件にばかり巻き込まれるのだろうと思うと、自分が疫病神にでもなった気分に陥り、心も暗く塞ぎがちになるのだった。

その隣で、舞は強い使命感で燃えていた。自分と同じ人間を再び出してはいけない――そう考えるのは、舞自身は気付いていないが、少しずつ大人らしくなっていることの一種の証明のようなものだった。

祐一は、やや不安そうな瞳を浮かべる佐祐理、そして強い決意を持つ視線を抱く舞を交互に見やり、無言で二人を促した。先ず、中の様子を伺うには入り口の警察と話をつけなければならないからだ。

しかし、祐一のそんな思いは杞憂に終わる。パトカの周りに集まり、何やら指示らしきものを与えているのが、祐一たちのよく知った人物だと分かったからだ。

それは以前、ペット殺しの事件と吸血鬼殺人の事件で祐一たちと深い関わりを持ったことのある世田谷という刑事だった。


[PREV] [INDEX] [BACK] [NEXT]