8 密室・足跡・犯人の謎


15 過去の扉(1991/08/08 18:30 Thu.)

「今日は豪勢なパーティにお招き頂き、どうもありがとうございます」

倉田佐祐理は、ちょっとばかり裾の長いドレスを調え、少しでも相応の令嬢に見えるよう深くお辞儀をする。不器用そうなその仕草を見て、相手の女性もそれに倣いぺこりと丁寧に頭を下げる。

今まで緊張して俯き、相手の顔も拝見していないことに気付くと共に、顔を上げた佐祐理の目に飛び込んで来た大層、綺麗な女性に彼女はしばし心を奪われた。幾らしっかりしていると言っても、まだ無邪気な子供をすら惹きつける魅力が、その女性から感じられた。佐祐理は思わず頬を赤らめ、父の影に隠れた。

「あらあら、私は嫌われてしまったみたい」

「初めて会う人間なんで人見知りしてるんですよ。ほら佐祐理、この方は平秀氏の奥方の博美さんだ。此の方にもご挨拶なさい」

父が厳しい顔つきでいうものだから、佐祐理はまだ恥ずかしいのを我慢して頭を下げた。それにしても――何て綺麗な人だろうと幼心に佐祐理は思う。僅かにレースのあしらわれた、ワンピースにも似た白のドレスを身に纏っているだけなのに――佐祐理にはまるで遠い昔、亡くなった母が話してくれた天女のように見えた。或いは、この館に倣って言うのならば天使だろうか。

――この館はね、天使を模して作られたんだ。比翼の如く、末永い幸福な家庭とを祈って。いや、そんなものを建てなくても彼らが幸せでないなんて誰が思うだろうか?

父がここに来る前、車の中で興奮して語っていたことだ。確かに佐祐理には博美という女性が幸せそうに見えたし、隣に立つ大囃平秀も破顔めいた笑みを浮かべていた。まるで自分の自慢の妻を披露できたのが嬉しいとでも言わんばかりに――。

そう、確かにこの時の二人は幸せそうに見えた。
そして、実際に幸せであった。

しかし、佐祐理が彼らを見ていられる時間はほんの僅かだった。倉田代議員の一人娘として、十歳とはいえ挨拶周りとして付いていかねばならなかった。

佐祐理がもう一度、頭を下げてこの場を立ち去ろうとすると大囃博美は佐祐理の目線まで立ちぎゅっと手を握ってくれた。そして、誰にも分からぬようこっそり囁いた。

――また、後でお話しましょう、二人でね。

大囃博美がそう約束してくれたからこそ、虚実相交じり合う憂鬱な挨拶回りも途端に苦痛でなくなった。あの人とまた話せるという事実と、美味しいデザートだけが今日のパーティの楽しみに佐祐理は胸の弾む思いすら感じた。

次回の選挙とか、融資の話とかの腹も竦むような退屈で下卑た話題を父は幾つか交し合っていた。そして、そういう奴等はこぞって子供で何の権力も無い佐祐理に媚びを打っていた。父も幸い、そんな人間が死ぬほど嫌いだと零していたから、逆に佐祐理に露骨な媚びを売るような人間には塵一つの援助、融資すら行わない。ある意味で、佐祐理は父にとって交渉相手が信頼に足る高潔で力ある人物かを判定する簡単なテスタみたいな役割を持っていた。

その時くらいには佐祐理も――大人のくだらない見栄とか打算とか、或いは拙い陰謀なんか簡単に看破できるようになっていた。相手が何を望んでいるのか分かるのだから、それに合わせてせいぜい良い子のように振る舞うのも佐祐理には簡単だった。

他人を見下すのはとても嫌なことだったけど、そうでもしないと頭が変になってしまいそうだった。そして、ふと家で臥せっているであろう弟――一弥のことが思い出される。最近、厳しく注意しないといつも屋敷や廊下を走り回ってばかりの弟。世話係の女性のいうことを聞いて良い子にしているだろうか――佐祐理は一瞬だけ、弟のはしゃぐ姿を想像して笑みを浮かべ、それからすぐに表情を引き締めた。食事の並べられたテーブルの方から、また父の方に挨拶をしにやって来る一団が見えたからだ。

「こんばんは、お久しぶりです――倉田さん。お嬢ちゃんも随分と大きくなったね――もう小学校五年だったっけ、それとも六年?」

佐祐理に手を伸ばして来た男性は、今までの人間達と違って本当に友好的だった。佐祐理は小さい、紅葉みたいな手を精一杯広げて、握手に応じた。だが、佐祐理には目の前の人物は覚えが無く、この後どう返して良いのか少し戸惑った。すると、助け舟を出すように相手が言葉を続ける。

「まあ、覚えて無くてもしょうがないかな? 私が君と会ったのは七年前、倉田代議士が初めて県議会に当選なされた時の、祝賀パーティの時だけだから。普段は北海道の札幌市の方に住んでるから、こちらに来る機会も殆ど無くてね」

言われてみて、佐祐理は相手をじっと凝視する。そして七年前――あの華々しいパーティの一部始終をざっと脳裏から読み出し――そして、即座に答える。

「ああ、思い出しました。えっと――確か平秀氏のご長男で秤一さんでしたよね。あの時は貴方も、今の奥様と結婚なされたばかりで皆にそのことを言い触らしておられましたよね。余りにはしゃぐものだから、奥様や平秀氏に窘められて――」

佐祐理は思い出したままを口にしていたのだが、少し喋りすぎたらしい。相手の男性、大囃秤一は心なしか慌てているようだった。変わって笑っているのが秤一の妻だった。七年前のパーティでの記憶が確かならば喜子という名前だったかな? 佐祐理は喜ぶ人という名前が相応しいばかりに笑う喜子の姿をじっと眺めていた。

「ああ、ごめんなさい、いきなり笑い出しちゃったりして――でも、あの時は本当に可笑しかったですものね。皆も、笑いを必死に押し堪えていたし――」

「ま、まあ――そんなこともあったが昔の話だ」

秤一はあくまでも矛先を逸らすことを最優先とし、佐祐理の賢才さに心を傾けた。

「それにしても、お嬢ちゃんはその時、四歳だったのによく覚えてるね。私なんて、四歳の時の頃は全く覚えてないよ。しかも、そんなに明確に――大人顔負けの記憶力なんて尚更だ。それに思考も明瞭――そしてとても賢い。倉田さん、随分と良いお子様をお持ちのようで羨ましいですね」

「いえ――子供というのは大人より色々と細かい、しかもびっくりするようなことを時々、覚えているというだけですよ。ところで、子供という言葉で思い出しましたが――お二人には子供は? それにご兄弟の方もいらしたように記憶していますが、そちらの方にも良縁がありましたかね?」

佐祐理の父が、軽妙な様子で秤一に語りかける。

「はい、私と妻にはお蔭様で男の子が一人。今日はちょっと体調を崩したみたいでベビィ・シッターの方に預けて来ましたが、まあ元気だけが取り得という感じで。あと、弟達の方ですが残念ながら私のように早くから良い縁があるという訳にはいかないようです」

「成程――それで下のご兄弟方は今、どちらに?」

「ええ――羊山の方は、今勤めている高校の部活動の引率が重なってしまい、今日はこちらに来れませんでした。もう一人の乙男の方ですが――まあ、この会場の何処かでお酒でも飲んでるでしょう。彼は、何はともあれお酒があれば幸せなのですから」

そう言う秤一の顔には、あからさまな嫌悪の情が浮かんだのを佐祐理は見て取った。恐らく、弟のことを酷く嫌っているのだろう。佐祐理には弟のことがとても可愛かったから、そんな感情はあまり理解できなかった。佐祐理の父もそれを汲み取ったのだろうか――空気が少し気まずくなったのも相俟って、彼は今の会話を口実に秤一に頭を下げて、この場を辞そうとした。

「では、出会ったらお酒の量を少し控えるように伝えておくとしましょう。では、私はもう少し会場を回らなければならないのでこれで。ほら佐祐理、行くぞ」

促されるようにして、佐祐理は彼らの元を立ち去る。佐祐理はあの二人に好意を持ったから、そこから離れてまた不愉快な邂逅に赴かざるを得ないことが鬱だった。

それから三十分ほど佐祐理は父に付き添って歩き、或いは相手を観察したり少しばかりの話を交わしたりもした。その大部分が想定した通りに運んだことに、佐祐理は鉛のような気だるさを感じていた。しかし、それを察したのかもう用は終わったのか――。

「では、挨拶も終わったことだし、佐祐理も一人でここを回ってみると良い。だが、くれぐれも他人に迷惑をかけるような真似はするんじゃないぞ」

佐祐理の父はそう言い含め、佐祐理はそれにすぐさま肯いた。その仕草を満足そうに見やると、彼はきびきびとした足取りで会場の中心の方へと向かって行った。佐祐理はもう、パーティに参加してこれ以上、不快感を味合うのが嫌だったので自然と足は灯りと喧騒との少ない場所へと向いていった。

そして、ほぼ人通りも見えなくなったその場所で、佐祐理は一人の女性に出会った。灯りもない場所で、ぽうと光るように咲く白い花々。その中心で女性は、まるで花を統べる妖精のようにしていとおしそうにそれを愛でていた。

しかし、彼女が大囃博美その人であり、後で話をする約束だと思い出して佐祐理は素早く駆け寄った。博美はいきなり近づいて来た佐祐理に一瞬、驚きに似た表情を向けたが、すぐにあの人を惹きつけるあの微笑を浮かべた。

「あの、何をなさっているのでしょうか?」

佐祐理が尋ねると、相手は優しく答えてくれる。

「ちょっとね、お花達の様子を見に来たの。それと――私、人込みは余り得意じゃなくて。夫はこういうパーティが好きな方だし、結婚一周年にこんなパーティを開いてくれるのだから、本当は感謝しないといけないと思うのだけれど。私は欲を言えば夫と二人でささやかに過ごしたいの。花を一輪、花瓶に捧げてただ慎ましやかに食事や会話を楽しむの。私はそういうものの方が好きだから――ってあら、ごめんなさいね、何だか愚痴みたいなこと、聞かせちゃって」

「あ、いえ――」

佐祐理はその言葉を、慌てて手を振り否定した。そういう率直な部分は、佐祐理は嫌いではなかった。幼い頃に亡くなった、佐祐理の母親を思い出すからだ。そして、ふと佐祐理は大囃博美という女性に何故、親近を抱くのかその理由が分かったような気がした。佐祐理は彼女に、母親の面影を重ねていた。

だからこそ――佐祐理は無性に聞いてみたくなった。

「あの――博美さんは今、幸せなのでしょうか?」

佐祐理の質問――しかも随分と哲学めいたもの――に、博美は一瞬、目を丸くしたがすぐに合点がいった様子であった。

「そう、佐祐理ちゃんも例の風聞のことを気にしてるのね? 四十も年の離れた老人と結婚する若き女性と来たら、ことそういうスキャンダルには欠かないものだから、幾つかは小耳に挟んだのでしょう?」

「いえ、そういう意味ではないです――」

佐祐理は目の前の女性が、母と同じ言葉を紡いでくれると期待していたからこそ、誤解させてしまったことに深く動揺していた。これよりもっと深く厭らしい皮肉すら浴びせられたこともあるのに、佐祐理は何より博美の殆どからかいのような皮肉にとても動揺していた。

「ふふ、冗談よ。他の方はともかく、佐祐理ちゃんがそんな質問を投げかける筈ないものね。ええ、きっともう少し純粋で深い意味での質問なのでしょう? だったらね、答えはイエス。私は幸せだし、夫を心から愛してるの。人生の中で、彼と知り合えたことは一番の幸せだと思う。お金や地位やその他ひっくるめて、それは夫にただくっついているだけのものなの」

何処か儚げで透明感漂う視線が不意に消え、彼女は本当に幸せそうに言葉を紡ぐ。

そして、佐祐理には何故、ここの屋敷の主人が彼女のためにここまで手を尽くすのか分かったような気がした。大囃博美という女性は、ふとした瞬間、とても消え易く見えてしまう。本当に消える訳ではないけど、存在感が酷く希薄になる一瞬がある。その存在原理そのものが、きっと他の者の庇護を生み、そして過分な愛情を捧げてしまうのだ。彼女はそんなものを全然望んでいなくても――ただ、善良の塊であっても、俗なもので彼女を満たしてみたいという強い欲求に駆られてしまう。

佐祐理はやはり、彼女は母親に似ているけどその原理は全く違うと思った。佐祐理の母も線は儚げだったが、消えると思ったことは一度もない。強く、いつも佐祐理の側にいてくれた正に母と呼べる人格だった。

「この花壇だって、こんなに大きくなくても――ほんのささやかなもので良かったのだけど。でも、こうして一面に咲く花も綺麗で、悪くはないかもしれない――佐祐理ちゃんはこの花の名前を知ってる?」

「いいえ、知りません――何という名前なんですか?」

佐祐理の家にも非常に多くの草花が繁っており、その殆どの名前を佐祐理は諳んじることができる。しかし、今佐祐理の目にしている花は倉田家の屋敷には一つすら生えていないものだった。

「そう――これは鈴蘭と言うの」

「鈴蘭――これが鈴蘭ですか?」

日本では有名な花だから、佐祐理も名前だけは知っていたが実物を見るのは初めてだった。白く控えめな花を付ける――その慎ましやかな姿は佐祐理に目の前の女性とダブるものを感じさせた。もし、博美が自分のことを鈴蘭の精霊だと話し始めたとしても佐祐理はきっと驚かなかったに違いない。

「ええ。本当は春の花なんだけど、この北海道やここのような東北でも以北の方では深春から夏、秋にかけて冬以外のどんな季節にでも花開かせることができるの。私はこの花が大好き。佐祐理ちゃんは、この花のことを好きになれそう?」

「あ――はい、私もこの花は好きになれそうです。綺麗で――とても高潔な感じがしますから」

「高潔――そうね、そして純粋。幸せの再来・幸福・純潔・清らかな愛・繊細――この称号が全て、鈴蘭という花に与えられているの。五月の花――メイフラワー、そして五月五日の誕生花でもあるのよ」

「五月五日ですか――私の誕生日も五月五日なんですよ」

奇妙な偶然もあるものだと、佐祐理は思った。すると博美は今までで一番幸せに満ちていて、それでいて一番壊れそうな笑顔を佐祐理に向けた。まるで、天から来た預言者のように――そう、佐祐理には彼女が天使のように見えた。

「だとしたらこの花は、貴女に幸せをもたらしてくれるかもしれないわね。そして、幸せの意味を失いかけた時、貴女に幸せを思い出させてもくれる筈よ。この花を、敬愛を込めて捧げてくれる人たちを大事にして。その人たちはきっと、佐祐理ちゃんのことをとても大切に思ってくれる人たちに違いないから――」

そして、最後に細い手をもって佐祐理の頭をそっと撫でた。まるで、佐祐理に祝福を与えるように、そっと優しく。

それから、佐祐理は大囃博美と幾つかの話をした。お互いの今の生活、陽光射す庭と優しい風の匂い、麗らかな水の調べ、庭に咲き誇る数多種類の草花のことも、佐祐理は夢中で語った。話をするのがこんなに楽しいものだと、佐祐理は久しぶりに知ることができた。

けど、優しい時間というのはやがて失われていく。今日の場合は時間が正にそれを奪っていった。

「あ――もうこんな時間ですね。では、私はこれで失礼します。今日は長話に付き合って下さってありがとうございました」

佐祐理は父に躾けられた、丁寧至極な別れの言葉を博美に送った。ただ定型の儀礼ではなく、敬愛の情を込めて。

「私も今日はお話できて楽しかった。また――機会があったらお話しましょうね」

「はい」と、佐祐理は元気よく肯いた。まだ花壇をしばらく眺めていたそうな博美を置き、佐祐理はパーティ会場の方に足を向ける。そして、丁度花壇と噴水の中間点に差し掛かった時だった。

「殺してしまわないと――」

その時、奥の方から微かに声が聞こえてきた。パーティ会場でも、先程の花壇の方でもない。翼状に植えられた樹木の奥の方から、それはまるで呪詛のように佐祐理の耳に響いた。

その言葉から、佐祐理は今まで散々耳にしてきた皮肉や悪意以上の凄まじい情念を感じたような気がした。

そして、もし佐祐理がその感情の意味を理解していたならば――その声にもっと耳を傾け、それが男か女か、 若者か老人かくらいは確かめようとしたに違いない。

けど、佐祐理にはそれが蚊か蝿か、若しくはゴキブリにむけられているものだと思った。

16 過去の犯罪(1999/08/14 08:35 Sat.)

「――りさん、佐祐理さん!」

倉田佐祐理は、相沢祐一の声によって我に返る。

「どうしたんだ、いきなりぼーっとして。さっきの話、もしかして聞いてなかった?」

祐一と、それから同じく側に立つ川澄舞が佐祐理の顔を心配そうに覗き込んでいる。 佐祐理は心配をかけまいと、先程までの世田谷刑事との会話を頭の中に読み出してみた。 記憶が不明瞭な部分はなく、佐祐理はすらすらと話の始めからを諳んじて見せた。

「えっと――確か再会の挨拶をした後、この屋敷で何が起きたか教えて頂きました」

佐祐理はそれを確かめるように、世田谷の表情を盗み見る。彼は間違いないと言いたげに 首を縦に振ってみせる。

「そうだ」と世田谷は再確認する。「この屋敷に泊まっていた大囃羊山という男性が、昨夜から 今夜未明にかけて殺害された。事故でも自殺でも無い――他殺であるということは既に判明している ということを先ず話した。それで?」

「それで――と言われても、話して頂いたのはそれだけではないですか?」

佐祐理が少し不安げに答えると、祐一がわざとらしく吐息をもらした。

「やっぱり聞いてなかったみたいだな――まあ、凄くぼうっとしてたしそうかもしれないとは 思ってたけど――珍しいな、佐祐理さんが話の最中に気を逸らすなんて。何か考えごとでもしてた?」

どうやら余計に心配をかけてしまったようで、佐祐理としては先程まで微かに垣間見ていた過去の 記憶を祐一や舞たちに話さざるを得なくなってしまった。佐祐理はしばらく考えた挙句、最後の部分を 除いて一部始終を包み隠さず話すことにした。

本当は――件の殺意の声の主のことも話してしまったかったのだが、佐祐理には声の主が誰だか 分からず、しかもそれが今回の事件に直結しているとは限らない上、余計な先入観を与えてしまう 可能性が多分にあった。その記憶は、下手すれば捜査を決定的に間違った方向にすら導きかねない からという理由で、結局はそこだけ沈黙を守り通すことにした。

八年前、佐祐理が十歳の頃、ここに招かれたこと。まだ、この屋敷が幸せだった頃の記憶。まるで 四十のように若々しかった大囃平秀氏の印象や、それ以上に――まるで天使のように儚げで美しかった 彼の妻、大囃博美との楽しい会話。平秀の長兄夫婦との、僅かだけど心地良い言葉のやり取り。

「――この屋敷を見た時、懐かしさでふとそんなことを思い出してしまったのでしょうね」

佐祐理はあははと照れ隠しに似た笑いを浮かべたが、内心では違うと心が訴えかけてきた。 殺人という事実から生まれ出でた、その記憶を蘇らせたのは恐らく――。

「ふーん――そう言えば佐祐理さんって良いところのお嬢様だったんだよな。ずっと一緒に 暮らしてたから、たまに忘れちゃうことがあるよ」

暗く沈む思考を、祐一の明るい声が引き戻す。佐祐理は照れ隠しと、そして傾斜していた感情を 隠すように明るい声を返した。

「あははーっ、佐祐理は、どう見てもお嬢様という柄じゃないですから。気品という点であれば、 舞の方がよっぽどお嬢様だよねーっ」

佐祐理は、舞の肩にぽんと手を置いた。お嬢様と言われたのが恥ずかしいのか、顔を赤らめて ごにょごにょと口ごもっている。

「何ですか、この三人は? ここの屋敷の知り合いなのか分かりませんけど、いきなり 調査にしゃしゃりでてきて。それに――何か、聞く所によるとこの三人、一緒に暮らしてるよ うに、僕には聞こえたんですけどね」

この中では唯一事情を知らない、世田谷刑事よりも二周りほど若い男性が世田谷にそっと 愚痴を漏らした。しかし勿論、皆にも聞かせるつもりだったに違いない。内緒話にしては、 些か大き過ぎると佐祐理は思った。

「まあ、確かに変わった現状を保ってると言わざるを得ないけどな。でも、かといって 並の一般人でもない。ほら、例の警察内部で起きた警官の乱心事件を捌いた奴らがいるって 話、聞いたことあるだろ? 最も、お前は窃盗班の方だから直接は係わり合いのないこと だろうけど――その本人ってのがこいつ等なんだよ。それに、これは一応、秘密ってこと なんだが、山間のペンションで連続殺人が起こったって話があったろ? それを解決した のも彼らなんだ」

「はあ? マジっすか、それ?」

「こんなことで嘘吐いてどうする? 兎に角、警察が認めなくても、私は彼らをいわゆる 小説で言うところの名探偵だと信じているし、それに彼らには恩義もある。困っているからに は、私は協力しないといけないんだ」

「胡散臭いなあ」

最早、ひそひそ話でも何でもなくなっている二人の刑事の話。佐祐理としては胡散臭いと 思われようが中に入り、月宮あゆの様子さえ分かれば良いと考えている。しかし、舞は胡散臭 いと言われたことが気に食わなかったらしく、抗議の口火を切った。

「――私は胡散臭くなんかない。清く真っ当に生きて――むがむがっ」

しかし、素早く祐一が舞の口を塞いだ。佐祐理は舞には悪いと思ったが、拙い弁舌を振う のは今しかないということもまた、事実だった。

「一般人が警察の管轄に乗り込み、和を乱そうとするのですから、胡散臭いと思われる のも当然だと思います。しかし、今回の事件の領分においてはこちらも手助けできるし、提出でき る情報もあります。現に――佐祐理の情報は、少なからず捜査の役にも立つ筈です。それに今回、 こちらはこの屋敷にいる月宮あゆさんの様子さえ確かめられれば良いのです。彼女が無事で、 そしてこちらがこれ以上、介入する必要がないと言うのであれば、佐祐理たちは即座にこの件から 手を引きます。貸しを作るということも致しません。それで――どうでしょうか?」

別に、佐祐理には事件に介入する気はない。寧ろ、血なまぐさいトラブルにはこれ以上、 巻き込まれたくなかった。冷たいと、いう人もいるかもしれない。しかし、佐祐理にとって 相手の心の奥底を暴くのはあくまでも最終手段にしたかった。それも、殺人者の正体などと いう恐ろしいものを暴くのであれば尚更だった。

少なくとも世田谷刑事はそれを読み取ってくれたらしく、少し残念そうな表情で肩を竦めた。

「そうか――私としては桐谷家の殺人みたいな忌々しい密室事件の謎を倉田さんに解明して 欲しいと思っていたんだが仕方ないな。君達は警察官のように、忌むべき犯罪に立ち向かう ことは義務付けられていないのだから――。屋敷の中には案内しよう、月宮あゆとも自由に あって宜しい。今も、そしてこれからもな。だが、できれば事件のことは内密に願いたい。 マスコミにあまり初っ端から引っ掻き回されるのは、良い気分じゃないのでね」

「ありがとうございます――って、密室事件?」

前回、佐祐理に持ち込まれた相談事も密室事件の謎を解いて欲しいというものだった。 よくよく難解な事件に縁があるのだなと、佐祐理が考えていると世田谷刑事が同じ感想を 彼の立場で溜息混じりに愚痴った。

「ああ。全く、私の頭は難事件向きではないのだが。と思ったら、倉田さんたちと ばったり出会ってしまう。しかも、この屋敷と浅からぬ関係を持っているときた。何だか運命 じみたものを感じるよ――」

「それって嫌な運命だな――」

祐一がそっと呟くその先では、舞が未だに口を塞がれてむーむー言っている。

「祐一さん、舞が苦しそうですよ」

「舞? あ、ごめんごめん」

祐一がぱっと手を離すと、舞は何故か顔を真っ赤にして祐一にチョップの嵐を浴びせた。 その光景を見て、世田谷刑事の連れの刑事がやはり、他に聞こえるような様子で言い捨てた。

「やっぱ信じられん。こんなお気楽そうなのが、凶悪な事件を幾つも解決したなんて――」

17 再会(1999/08/14 09:05 Sat.)

その後、諍いも収まり相沢祐一は大囃家の表門を改めて望む。世田谷刑事曰く、これは屋敷の 内外を繋ぐたった一つのものらしい。そこには新しいものではないが、コンクリートで固めたよう な跡や工事の跡らしいものが残っていた。そしてその痕跡の広がりようから、明らかに門を中心と した工事がなされたいた。

世田谷刑事は、重たそうな鉄柵の門の横にあるカードリーダにキィとなるカードを挿し込み、 四桁のパスコードを打ち込んだ。セキュリティ管理のためのシステムの一つで、その他にも幾つか セキュリティ装置らしいものが埋め込まれている。見上げると、幾つもの監視カメラの目が祐一た ちをじっと眺め回していた。

「これって、オートロックなんですよね。こんな重そうな門、電子制御なんてできるんですか?」

祐一が尋ねると、世田谷刑事は笑いながら答えた。

「はっはっは、銀行の金庫はこれよりもっと重いが今の世の中は大抵、電子制御だよ」

どうやら、祐一の質問を何かの冗談としか取らなかったらしい。少し憮然とした思いを抱きながら、祐一はガチャリと開錠音のして自動的に開いていく門をしばらくじっと眺めていた。

「確かにまあ、こういうのは余程の金持ちの家じゃないと御目にかかれないけどな。それに、この門に限らずこの屋敷のセキュリティは無茶苦茶強いよ。何しろ壁という壁には監視カメラが仕掛けられていて、誰かが乗り越えようとしたら即座に警備会社に通報されるようになってる。今くぐっている、唯一の門もこのカードとパスコードがないと開かない。だが、それも昼間の間で午後八時から翌日の午前六時までは完全に、登録された人間しか門は空けられないらしい。その間、基本的に表門は完全ロック。偏執的と言えるくらいのセキュリティだよ――全く、警察へのあてつけにしても、妙に念のいってるものだ」

「警察へのあてつけ――ですか?」

佐祐理が不思議に思い首を傾げていると、それを好都合と思ったのか世田谷刑事は再びべらべらと 喋り出した。まだ、祐一たちをこの事件のアドバイザに据えようとする計画を、完全に諦めた訳では ないようだった。

「ああ。倉田さんも結井――あ、これは隣でぶすっとしてる巡査部長さんの名前なんだが、 殺人事件に窃盗課が入り込んでくるなんて変だと思ったろ。でも、これには充分に訳があってな。 この屋敷、三年前に盗難事件にあってるんだ。表立てて騒がなかったからマスコミ沙汰にはなら なかったが、その時、主として事件を担当したのがこの結井というわけだ。もっとも、その事件 はまだ未解決のまんまだが――」

世田谷刑事はそう言って、急に慌て出した結井の顔をちらと覗き見る。彼は彼で言い分があるらしく、 何度も必死に手を振り己の無罪を示そうと試みた。

「そんなこと言われたって――三年前の事件があった時は、この屋敷、全然セキュリティとか導入してなかったんですよ! 金持ちにしては無用心過ぎますよ――それに、窃盗ったって何か盗んでった訳じゃないし。ここの主人の大囃平秀でしたっけ――彼の大事にしていた壷が何個か無茶苦茶に砕かれたってだけで。痕跡も目撃情報もなし、これで捕まえろっていうのが無茶ってものですよ!」

鼻息をそこまで荒くするということは、余程の熱情をその窃盗――正確には器物損壊だが――に傾けたのだろう。そして、その捜査に全く結果が現れなかったこともまた、祐一には見て取れた。だが、犯人が未だ見つからないのは不気味だと祐一は思う。

そして、どのような事件かは分からないが密室事件だと世田谷刑事は言う。そんな事件に関わって祐一はロクなことのあったためしがなかった。殺人鬼に狙われるわ、吹雪の山荘で暴動寸前の目に会うわ、居もしない吸血鬼の幻影に苦しめられるわ――しかし、祐一は心の隅でもしかして今回の事件も関わることになるのではと、そんな予感に捕らわれていた。

祐一たちは表門をくぐり、煉瓦で舗装された道をまっすぐ歩いていく。驚くべきことだが、 この大囃家というのは寸分違わず左右対称にできていた。木々の配置から屋敷の意匠、そして 正門の直上の屋根に飾られている天使の像ですらそれは例外ではなかった。ある意味、設計者 か創案者のやはり妄執的な何かを感じずにはいられない。

「――あの天使像の頭、矢が刺さってる」

武器や危険には最もめざとい舞が、両手に槍をもった左右対称のブロンズの像 の眉間を指差した。舞の言う通り、そこには一本の矢らしきものが刺さっていた。

「あれは――ボウガンですね。何故、あのようなものが? もしかして、羊山さんは ボウガンで殺害されたのですか?」

「いや、詳しくはまだ分からないのだがナイフと刀の中間物と言ったら良いのかな? とにかくそういう刃物で背中からぐさり。で、恐らく血が固まるのを充分待って、庭まで運び込んだんだろうな。とにかくも出鱈目な犯行だよ――嫌になるね。妙な足跡は残すし、怪しい犯行はしやがるし――憂鬱だ」

世田谷刑事は、今抱えている事件を心底嫌がるように言葉を紡いだ。それは警察官の態度としては少し難があるように祐一には思えたが、しかしこうも難事件が続けて圧し掛かれば、愚痴りたくなるのも分かるような気もした。

「――成程、この屋敷は思った以上に危険という訳ですね」佐祐理が言う。

「まあ、そういうことになるだろう。じゃ、屋敷の中に入ろうか」

世田谷刑事が割と落ち着いた仕草でドアを空けた。すると、老年の域に入るであろう丁重な感じの女性が丁寧な辞儀を返す。その顔は鉄面皮で、奥深くにある感情など、祐一には到底、見抜けそうになかった。

が、老壮の女性は一団の中から一人の人間を見出して哄を崩し笑みを見せた。

「倉田様のお嬢様ではありませんか――どうして今、このようなところにおいで なさったのですか?」

「あ、はい早乙女さん。その、こちらは祐一さんです。それで、こちらが舞。佐祐理たちは今、 三人で一緒に暮らしてるんです」

三人で暮らしている――その言葉に早乙女と呼ばれた女性は明らかに不審の様相を浮かべる。 しかし、すぐに冷静な召使いの顔に戻ると改めて大きく頭を下げた。

「そうですか――それで倉田様、相沢様、それから舞様。あのような言葉を突き返しておいて 言うことではないかもしれません。しかし、月宮様は今、非常にショックを受けておられます。 タイミング悪く、屍体を眼前となされて――本当に信頼できる友人を求めておられるのです。 どうか――月宮様に一度、会って頂けませんか? お願い致します」

「そんなの、こっちがお願いしたいくらいだ。それであゆは何処にい、むがむがっ」

祐一が興奮と怒りとに身を任せ、捲し立てるのに今度は舞がその口を塞ぐ。

「――月宮、あゆの居場所を教えて欲しい。私はあの娘を助けたい。だから、お願いする」

舞は、まるで礼儀を弁えた武士のように、堂々と、しかし至極丁寧に頭を下げる。そして、 祐一は舞のそんな大人らしい様子に驚きもあり、また嬉しくもあった。舞も、いつまでも子供 ではないと分かったから。

「分かりました。では、ご案内致します」

早乙女氏――下の名前がわからないので祐一は心の中で彼女をそう呼んだ――は、もう一度頭を 下げると、祐一たちを一つの部屋に案内した。

「今、月宮様のことは有本裕美という女性が世話をしています。私と同じ、この屋敷で住み込み 家政婦として働いているものですが――信頼はできると思います」

そう言って、早乙女氏はドアをノックした。中からはいかにも若い女性特有の少し甲高い声が 響き、そして簡単にドアは開かれた。そこに立っているのは、少し憔悴した感のある、まあ可愛い といって良さそうな女性だ。彼女が、有本裕美だった。

「月宮様のご様子はどうですか?」

「はい。今、ようやく興奮が少し収まったところですが――ずっと布団に包まって震えている ばかりです。それで――こちらの方々は? 刑事さん、じゃないですよね?」

「こちらは、月宮様のお友達の方々です。大丈夫、信頼のおける人間です――」

「――分かりました。では、私はこのことを平秀様に伝えてきます」

有本裕美は、早乙女氏に比べると若干ぎこちない礼の仕方だったが、その分人間らしさが全身 から滲み出ていて、祐一には寧ろ彼女の方に好感を持った。

とはいえ、今は月宮あゆのことが第一だった。祐一はゆっくりと部屋を見回しながら、明らかに 微弱な震動を示している布団にそっと近付いた。あゆは祐一たちの気配に気付いたのだろうか――。

「誰? 誰なの?」

と、あからさまな嫌悪の情を口にした。

「みんなの愉快なヒーロー、相沢祐一」

「――祐一、それはダサい」

舞が、祐一に軽いチョップを当てる。が、あゆは祐一の名前を聞いて途端に布団から顔を出した。 それから、あゆの部屋にいる面々を見回していくうちに――希望に満ちた表情に変わっていった。

「祐一クン? 佐祐理さん? 舞さん? どうして、どうしてここに? 早乙女さんは、来ないって 言ったのに」

「言っただろ?」

祐一は、まるで娘に諭し聞かせる母親のように優しい笑みを浮かべる。

「困った時には、すぐに泣きついて良いんだぞ――ってな。あゆが呼べば、俺も、佐祐理さんも、 舞もすぐに駆けつけるさ。俺は――もうこれ以上、約束は破らないって決めてるから」

祐一のいささか格好つけた言い方に、あゆは口を何度もパクパク動かす。まるで、空気を求める 金魚のように。しかし、それはすぐ、激しい嗚咽と涙とに変わっていった。

「うわああああんんっ! 祐一クン、佐祐理さん、舞さん。怖かったよ、怖かったよ――血塗れで 倒れている男の人がいて――凄く、凄く怖かったんだよっ!」

あゆは、まるで弾丸のように祐一に飛びついてくる。しかし、あの日のように――祐一はそれを 避けたりはしなかった。ただ、妹を抱きしめるようにそっと頭を抱え、ただただ髪の毛をなでてあげた。

こうして、祐一たちとあゆは再度の再会を果たしたのだった。


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