11 殺戮の夜


24 悪夢の夜の始まりに(1999/08/14 18:00 Sat.)

若い家政婦の手により、警戒にあたっていた警官に伝えられた惨事は、即座に警察と最寄の救急病院へと割り振られた。その最中も、必死の救助活動は続けられた。祐一は中学の授業で習った、異物を嚥下した時の対処方法を現実の事例として初めて、苦しみに喘ぐ人間に施していた。

大量の水を飲ませ、気道が詰まらないように注意深く見守り、毒物を一刻も早く胃から除去すること。祐一は祈りにも似た思いを込めて、何度も胃の中身を吐かせる。先程食した食事やアルコールの匂いが胃液と絶望的なまでに混ざり、不快な臭いを漂わせる。しかし、祐一に躊躇している暇はなかった。

舞、佐祐理の二人もまるで従軍看護婦のような真剣な目つきで己が命運と対峙していた。しっかりしてと頻繁に声をかけ、息も絶え絶えになりゆく命を救おうと必死で足掻き、苦しんでいた。

お願いだから、一人でも多く救われてくれ――。食堂の中にいる者の思いは、動転するものの呆然と立ち尽くすものもいるが、そんな願いによって統一されていたに違いない。

ただ一人、冷酷な犯人を除いて――。

事情を聞いた警官の一人が食堂に駆けつけ、何事かを定めようと怒鳴りあげたが、当然祐一の耳には入らない。普段では決して聞くことのできない、佐祐理の怒号が食堂を冷涼に包む。

「そんな、威張ってる場合じゃないでしょうっ! 人が死にそうなんです、訓練を積んだ人間だという自覚があるのなら、手を貸して下さいっ!」

佐祐理の、いざという時の気勢に警官とはいえ一般人如きが勝てるわけがない。また、一人では何もできないと悟ったのだろう。応援を呼んでくる、と言い含めた後に急いで駆けていく。数分後、彼は大勢の応援を連れて戻り、治療行為に加わった。

地獄のような十分間の後、ようやく救急隊員が駆けつける。三人もの人間が一斉に毒物で倒れたと聞いている為か、普段には見られない異様な狂熱が食堂を包んでいた。散乱した料理やワイン、吐瀉物に塗れた床を見て、その興奮は更に高まったようで、正しく矢のような早さで大囃秤一、大囃喜子夫妻、大囃乙男の三人を運んでいく。両親が同時に、しかも無残に苦しんでいたからだろう。息子の大囃輝は狂乱状態で、お母さん、お父さんと叫びながら担架で運ばれる両親の後を追う。どうやら、病院まで付き添う気であるようだった。

激しい喧騒の去った後、救急隊員が今まで治療に当たっていた祐一に厳しく問い質す。

「これは、何が起こったんですかっ」

「そんなの俺にだって分からない。ただ、食事中にバタバタと人が倒れて――どう考えても毒物を口にしたとしか思えなかったから必死で吐かせて――。こんなこと、一度もやったことない。必死だったんだっ! 俺も、舞も、佐祐理さんもっ!」

ここが、無闇に怒鳴り散らす場所ではないことを祐一は十分に理解している。佐祐理も、大声を張り上げるだけの警官を強く叱責していた。しかし、それでも――叫ぶことしかできなかった。目の前で苦しんでいるのに、何もできない自分があまりに無力で、許せなくて――。

救急隊員の男性は流石に修羅場をくぐっているだけあって、祐一よりも大人だったのだろう。肩に手を置き、吐瀉物の臭いを漂わせ涙をひた流す祐一に、少しだけ優しい声をかけた。

「そうか――その様相、余程必死になって頑張ったんだな。急に厳しく問い質してしまって済まない。だが、我々にも患者の命を救うという使命があるんだ。今、このことを聞くのは酷かもしれない。それを承知で敢えて頼むが、毒物で苦しむ被害者の様子やその前兆行動などを詳しく話して貰えると助かる。それで、もしかしたら毒物が特定できるかもしれない。そうすれば、延命の確率も少しだがあがる」

僅かだが、前を見据えた救急隊員の台詞。祐一にとってはこれで終わりでも、これから消えゆく命と闘おうと望む者にとって、今の状況は始まりに過ぎない。落ち込んでいる暇はない。祐一は実際にその場で動き全てを見た人間として、何よりも責任をもった一人の人間としての強い決意を秘め、口を開く。

祐一は、仔細に観察していた食事風景について彼なりに綿密に語った。各人物の様子や、口にしていたもの、飲んでいたもの。そして、静寂の中で大囃乙男が突然、声をあげる。犯人は屋敷の中の誰かだと声高らかに宣言し、次には胸を抑えて苦しみだした。そのあまりの異様さに目を惹き付けられていると、続いて大囃秤一、喜子の二人が同じように胸を抑えて苦しみだす。

それから先は、救急隊員が来るまでただ修羅場だった。頻りに胸の苦しみを訴え、徐々に弱りゆく被害者たちを救うために必死で周りに気を配る余裕などなかった。

「成程――君の話を聞いていると、第一の事件が尾を引いていてぎこちなかったものの、特に不審な動きをしていた人間はいなかったわけだ。しかし――気になるな。君の話を聞いていると、被害者の飲食していたものに一つの共通点が見える」

共通項――何だろうと首を傾げる祐一に、隊員が指摘する。

「その、倒れた方は皆――夕食に出されたワインを飲んでいたのでは?」

ワイン――確かにそうだった。祐一が知る限り、ワインを飲んでいた人間と被害者はピタリと一致する。となると、毒物もそこに含まれている可能性が高い。そこまで考えて、祐一の背中に背筋が走る。一瞬とはいえ、高級ワインを飲めるかもと浮かれていた。一歩間違えれば、自分も毒を飲んでいたかもしれないのだ。改めて、その脅威というものを思い知らされた気分だった。

事件と自らを相対化し得たからだろうか? ようやく祐一に、辺りを見回す余裕ができた。祐一はいの一番で月宮あゆを探したが、彼女は何時の間にか佐祐理に身体と心の全てを預けていた。惨状に目を背けるようにして佐祐理の胸に顔をうずめ、強く震えていた。いくら同い年といっても、精神は祐一と比べてぐっと幼い。祐一ですら辛うじて立っていることすら精一杯の状況だ。あゆの取り乱しようは痛いほど理解できたし、干渉する気もおきなかった。

舞は、度重なる緊急事態にほとほと参ってしまったのか、虚脱したように床へ座り込んでいる。あゆとは性質が違うけど、舞もその精神には子供びたものを持っている。おそらく、心が限界を向かえてしまったのだろう。祐一は初めて、舞のそんな様子に気付き側による。舞の肩に手を置くと、一瞬びくっと震えたが、祐一だと分かると形振り構わずしがみついてきた。何も喋らず、ただ喉をしゃくりあげている。祐一はよくやったと誉めるように、今は汚れてしまった髪の毛をそっと撫でる。

抱き寄せた舞の肩越しに、ただ呆然と立ち尽くす初老の女性の姿が見える。気丈そうな面持ちを持つ大囃家の家政婦の一人。何事が起ころうとも冷静を保っているような彼女も、流石に三人が同時に倒れ伏せば驚くのだろう。第二の事件が起きた時、祐一は良子が激しく震えていたのを覚えている。そして、気になることをずっと呟き続けていた。

ごめんなさい、ごめんなさい、私が悪いんです――と。

祐一には、それが何を意味するか不定だった。しかし、少なくとも何もしない人間がこうも取り乱したり、謝ったりはしない。早乙女良子という女性は、絶対に何かを隠していると祐一は確信する。だが、今はそれを問い質している場合ではない。それに、何を聞いても今の彼女から有益な情報を聞けそうにはなかった。

もう一人の家政婦、有本裕美は良子に比べれば幾分かマシではあったが、常に大きく見開かれた眼からは衝撃の強さを垣間見ることができた。何かしなければと色々動いていたようだが、祐一が注目を向けている今の状況で、彼女は部屋の隅で立ち尽くしていた。おそらく、舞と同じで精魂果てたのだろう。辛うじて、大人の尊厳が彼女を保っているのか、或いは――。

料理人の大笛和瀬は、ある意味で最もひどく狼狽していた。自らの料理に毒物が入っていた可能性が高いのだから、仕方ないのかもしれないが、尻餅をついて一歩も動けなかったようだ。ある意味、女性の使用人二人と同じか、もっと酷い様子だった。

一番毅然と行動していたのは、息子たちやその妻が根こそぎ被害にあった当主の大囃平秀だった。顔はひどく蒼ざめ、唇は紫色に張り付いている。それでも、何か強い想念のようなものが彼を必死で支えているようだった。当主としての威厳、精一杯の虚勢、それとも――祐一には判じ得ない。だが、流石の彼も今の状況で使用人を叱咤することはできないようだった。

既に一夜が越えたかのような錯覚をおぼえる。しかし、まだ夜は始まったばかりだった。

25 天使の毒(1999/08/14 18:30 Sat.)

戦場のような現場も、やがて本格的に警察の捜査部隊で埋まっていく。必然的に、追い出される形となった屋敷の住人や客たちは、廊下を離れ玄関ロビィで誰と示し合わすともなくひとところに佇んでいた。大囃家殺人事件の担当刑事である世田谷が、いつにもまして神妙な顔で近づいてくる。彼は素早く足を止めると、重苦しい雰囲気で語り始める。

「大変なことに――なりました」

「大変なことだと! 人ごとみたいにっ!」

刑事が冷静に現場をうろついていることが許せないのだろう。大囃平秀が白に染まった眉毛をつりあげ、唾を飛ばさんばかりに猛然と怒鳴り散らした。

「羊山を殺した犯人も突き止められん上に、次は秤一と喜子さんと乙男までもが犯罪者の毒牙にかかったのだぞ。四人、二十四時間も経たないうちに四人もの人間が殺され、或いは害されたんだ。今回は、三年前のように壷が壊されたなんてちゃちな代物じゃない、殺人、殺人だぞ。警察は一体何をしている、お前らの目は飾り立ての虚眼か? 木偶の坊どもの集まりかっ!」

おおよそ、思いつく限りの罵詈雑言が平秀の口から警察関係者全てに向けて放たれる。世田谷刑事は、おおよそ渋柿を食べた時でもこんな顔はできないというくらいに渋い顔を作った。前回の失態もある、それに加えて事件はまごうことなき連続殺人の様相を見せてきた。しかも平秀は知らないだろうが、連続殺人の可能性は既に明確化され、詳しく検討されている。それ故に、世田谷の屈辱は尚更のものだった。

そして、同じ一撃は同じく連続殺人を唱えていた佐祐理の元へも振りかかる。いや、事件慣れしていない分、そして些細なことでも傷つき易い心を持っている分、精神的な打撃は彼女以外の誰にも計り知ることは叶わないだろう。それでも佐祐理は、表向き毅然とした表情を崩さない。いや――祐一は微かに首を振る。毅然としているのではない、どのような表情も佐祐理の顔から窺い知ることができないのだ。

白磁のように透き通った肌の色。仄かに赤み射す唇。強く敵を見据えた目。傍らに未だあゆを抱きながら、今の彼女は遥か遠い場所を見ている。敵意、憎悪――いや、どんな激しい感情も、今の佐祐理を表すには相応しくない。人間とは思えない――まるで北欧神話に出でるワルキューレのように、佐祐理の瞳に映るものはただ死のみ、祐一にはそんな錯覚すらうける。

何故、唐突にワルキューレなどという単語が出てきたのだろう。佐祐理の視線の後を追うと、その先には一枚の禍々しい絵があった。天使狂いの絵――天使たちの死を敷衍する双槍の天使。大地に突き立てられ、大地との磔刑に課せられた天使。血のような湖のほとりでもがき苦しむ天使――その光景の新しい意味が、祐一の頭に絶望的なまでの確信となって現れる。

川を染めるものは血ではなく、毒だった。最初から、あれは毒殺を暗示して――そして、禍々しい赤紫の毒物は現実として赤ワインに注がれた。琥珀色の輝きを持つ美味が、数々の死を振りまいたのだ。では、注がれたのは天使の毒か――。

まだ、警察からの正確な報告は届いていない。しかし、祐一は夕食の光景を思い返してそうではないかと感じていた。それが、天使狂いの絵を見返した時に確信に変わった。第二の光景は毒殺を暗示しているのだと。佐祐理も、きっと同じことを考えた筈だ。だからこそ、その目は死を見ていた――。

「それを言われると、こちらとしても頭を下げるより他にはありません。こうなれば、私どもとしては早急に犯人を暴き立て――これ以上の狼藉を働くことができないよう、力を尽くす次第です」

刑事の、極めて丁重な言葉。祐一は、彼の言葉に白々しいものしか感じない。だからといって、責め立てることもできなかった。祐一もある意味では警察と全く同じ立場だった。頭脳を傾けど解決には至らず、新たな事件をむざむざ目の前で起こさせてしまった。祐一が仮に同じ立場にたっていたとしたら、同じことしか言えなかったろうと思う。

しかし、被害者たちの父親にはそんな穏やかな言葉も理論も通用しないようだった。

「当たり前だ、それができない警察に何の意味がある――例えお前らが死んだとしても、事件を解決させるんだ。分かったなっ!」

平秀は最後に鋭い一喝を見せた後、急に力なく肩を落とした。もしかしたら、今まで張り詰めていた緊張の糸がぷっつりと切れたのかもしれない。祐一にはその姿が、心も身体も病み尽くした一個の老人にしか見えなかった。

「取り合えず、私も病院に行きたいのだが、良いだろうか。この足では邪魔になると思って、息子たちと共にするのは自制したが、やはり気になる。両親を一度に害された、輝のことも気になる」

平秀の提案に、世田谷は少し腕組みをした後、ゆっくりと肯いた。

「良いでしょう。どちらにしろ、今は皆さん、とても落ち着いて事件のことを話す余裕などないでしょう。平秀氏は我々が搬送先の病院に送り届けるとして、他の方も少し休まれたらどうでしょうか。勿論、今すぐに話せるというのならこちらとしても歓迎しますが――」

世田谷は皆を物憂げに見渡し、誰からの反応もないと見ると小さく溜息を吐く。

「ああ、好きなようにしてくれ――」

ある意味、なげやりな言葉だった。焦慮と困憊に満ちた老人の口から漏れたそれは、絶望にも似て祐一の心を黒く染め上げるかのようだった。

彼の身体を支えるようにして、早乙女良子が隣に立つ。絶望と狂騒のそれを通り越して、静謐にも似た表情を浮かべる彼女はようやく、己の使命を取り戻したようだった。平秀が言う、彼女は私のもう一つの足のようなものだ。だから、一緒に連れて行くことを許可して欲しいと。世田谷刑事は、その申し出を拒まなかった。

平秀と良子が二人の警官に付き添われて屋敷の外に向かうのを確認すると、警官が大挙しているにも関わらず屋敷は奇妙なくらい閑散とした空気を漂わせていた。それもそうだろう――既に屋敷の客は全てなく、住人が三人残るのみなのだから。有本裕美、大笛和瀬、そして月宮あゆ――祐一は萎えそうな気力を辛うじて振り絞る。

もしかしたら、この中に殺人犯がいるかもしれないのだ。あゆは除外するとして、有本裕美と大笛和瀬の顔を祐一は交互にのぞみ見た。二人とも恐怖か焦燥か分からない表情を浮かべ、じっと立ち尽くしている。しかし、表情と心が一致しているとは限らない。人間は嘘を吐く生き物なのだ。

そして、何時の間にか見境なく人を疑いにかかっている事実に愕然とする。スキーロッジの事件の時にも抱いた、回避しようのない悪情念が祐一の中で再び根付いていた。片や外とも閉じられ、片や外と通じる空間であるものの、その本質に変わりはない。

閉鎖空間は、人の心を陰惨に蝕む。祐一も、今では理解している。何故、ミステリィで閉鎖空間に閉じ込められた人たちは、お互いに助け合わず、むざむざ犯人の手にかかっていくのか。それは人がお互いに嘘を吐き、お互いに疑い合える存在であることを、一人一人が熟知しているからに相違ない。そして、閉鎖された空間で起きる陰惨な事件によってそれは極限化される。

真実を求める者が現れるまで、それは終わらない。いや、それは正確ではない。真実を知り、それを皆に開示する存在こそが、事件を平定する。故に、閉鎖空間の殺人には探偵が必定となる。探偵――祐一は自らが定めた探偵、倉田佐祐理の顔をもう一度眺めた。

佐祐理の瞳は未だ、死の方向を向いているように祐一には見えた。

26 ワルキューレの憂鬱(1999/08/14 19:00 Sat.)

倉田佐祐理はひとまず、なおも袖に縋りつく月宮あゆを落ち着かせるため、一度あゆの部屋に戻ることを考えた。それに、川澄舞の疲弊もかなりのものだった。毒物という、ある意味で人間性を最も無残に破壊し、残酷を見せつける犯罪行為の一部始終を覗いてしまったのだから、それも必定的には違いなかった。

専任の刑事に事情を説明すると、申し出はあっさりと許可された。彼も、あゆと舞の憔悴を見て休ませる必要があると判断したのかもしれない。それに、彼には有本裕美、大笛和瀬の二人から事情を聞くという仕事があった。二人とも、直ぐ事情聴取に応じる気構えであったから。特に、大笛和瀬の訴えぶりは、やや度を越した感があった。しかし、毒物による犯罪が行われ、しかも彼が料理人として犯罪の起こった当の晩餐を仕切っていたのだから、ある意味では理解できる反応とも言える。

「では、佐祐理たちは一旦、部屋に戻ります。用があったら呼びに来て下さい。すぐに、こちらから伺います」

そして刑事に近づき、他の誰にも聞こえないほどの声で囁く。

「話が終わったら、今までまとめた情報も含めてこちらへお願いします。今回の事件も含めて、事象を改めて整理したいんです」

刑事は了解と呟くと、先ずは大笛和瀬の部屋に部下一人を引き連れ入っていった。有本裕美は、彼の聴取が終わって後、裕美の部屋で事情を問われるようだった。食堂に捜査員が集中せざるを得ない現状では、それが最適のようではあった。勿論、それぞれの部屋の入口には一対の警官が配備され、不法侵入者に対する対策にも抜かりはないように見える。

あゆの部屋に入り、彼女をベッドの淵に座らせる。少し落ち着いたのか、恐怖は溢れるばかりの涙や嗚咽へと変わっていた。佐祐理の膝を枕にするあゆ。着ていたスカートが、みるみるうちに涙で濡れていく。佐祐理は、あゆの頭を撫で、励ますことしかできない。

「怖いよぉ、酷いよぉ、何であんなことができるの?」

あゆが、佐祐理に理由を問う。殺人行為――殺人を成す動機を。

「ボク――嫌だよ、もう嫌だよ、こんなこと――」

あまりに短い間に、大量の惨禍を目の当たりにしてきたからだろう。年端も行かず、病んで長い間、眠り続けて来た少女には過酷すぎる現状だった。七年ぶりに目覚め、改めて世界に希望を持ち始めたあゆに対して、この事件の犯罪者は絶望にも似た意識を埋め込んでいる。殺人そのものの行為に並び、そうした理由でもっても佐祐理には今回の事件の犯人が許せなかった。

しかし――今現在、佐祐理の心を苛むのは犯人に対する怒りよりも、自分に対する怒りであった。これからの惨禍を予測しながらそれを防げなかったという冷厳たる事実。しかもヒントはあったのだ。犯人が事件に薬を利用していることは、何らかの経路を用いて睡眠薬を屋敷の人間に盛り、犯行の手助けとしていたところからも伺える。毒物という手段も、そこから連想すべきであった。

何より、既に事件は最悪の方向で拡散し始めている。被害者の加速度的増加、混沌、新たな事件への検討。これ以上の事件を防ぎ得なかったこの時点で既に敗北したのだと悟り、佐祐理は愚かな自分へ叱責を飛ばす。守るべきものさえ守れず、苦しむ人たちを助けることさえままならない。死に瀕する者への手助けをしようとも、佐祐理には医師免許も看護の経験もない。謎を明白の場所へと引きずり出し、犯意を暴こうと心を奮い立たせた結果がこれだ。佐祐理は今ほど、自らの無力さを思い知らされたことはなかった。

佐祐理はあゆに気を配りながら、祐一の腕を掴み、まるでメリィ・ゴー・ラウンドからの落下に怯えるよう、心許ない表情を崩さぬ舞に視線を傾ける。こちらの方が、通ってきた修羅場の多いせいか、喪失状態よりの回復は早いようだった。しかし佐祐理には、人対人の関係を今でも過敏に避けようとする傾向のある舞が、人間の悪意に曝されどれだけ動揺しているかよく分かる。

もう、一層のこと投げ出してしまいたかった。誰かが誰かを傷付けあう、そんな地獄なんて離れて、早く家に帰りたかった。祐一や舞と一緒に暮らせるあの場所に。あゆもあそこなら、人の生き死にや悪意、恐怖や絶望を垣間見ることなどない筈だ。しかし、佐祐理にはそれができない。何故なら、約束してしまったからだ――あの世田谷という刑事に。

事件の敷衍者となり、解決に協力することを。

それに、これ以上の惨劇が起きるのか分からないが、事件防止のためには、何としてもこの屋敷を跋扈する犯罪者だけは捕縛しなければならない。佐祐理はそのことを心に刻み付けていた。

しかし、もう舞や祐一を巻き込むことはできなかった。傷つくのは他人であってはならない、自分だけで良い。その点に関しては、佐祐理の決意は何よりも固い。

そんな、悲壮にも似た思いを定めたのと同時だった。世田谷刑事が、蒼白な顔をして駆け込んで来たのは。

「最悪の事態になった――。大囃秤一、乙男の二人が搬送先の病院で死亡した。残る大囃喜子の方も昏睡状態、助かる見込みは絶望的だそうだ」

佐祐理は最早、諦観の思いを抱いて無意識に時計を見る。ようやく、二十時を少し回ろうとしていた――夜はまだふけそうもない。

27 決意(1999/08/14 20:30 Sat.)

十五分後、大囃喜子の死が病院より正式に報告され犠牲者は一気に四人へと膨れ上がった。毒物による大量殺人――悪夢にも似た殺人が現実のものとして認識された時、屋敷のもの全て、そしてまだ見ぬ警察関係者や医療関係者たちが、揃って自己喪失ギリギリの状態にまで追い込まれていた。

大囃平秀の子は、七年前に過労で死んだ魚子を含めて、これで皆が死んだ。しかも、その中の三人が他殺に相違ない状況での死だ。しかも、秤一の妻である喜子も殺害された。そして、同じ七年前には平秀の妻である大囃博美も交通事故で死んでいる。魚子の夫である月宮星占という男性も含めるならば、十余年もの間で大囃家の関係者が七人も死んだことになる。

佐祐理にはとても、尋常とは思えなかった。大量殺人により、改めて過去の事件の不可思議性もまたクローズアップされていく。最悪の場合――全員が他殺である可能性もある。過労に見せかけた殺人、交通事故に見せかけた殺人――どちらもあり得ない話ではない。最悪の場合、七人もの人間を殺した可能性のある殺人者と対峙しなければならないかもしれないと思うと、佐祐理はそれだけで眩暈をおぼえた。

ただ、佐祐理にとってこれ以上疑い得ないのは、その全てが大囃家に関連した謎という点だ。犯行を成した人間は間違いなく、その極めて近隣にいる人間に違いないと確信している。にも関わらず、まだ目の前を覆う霧を晴らすだけのものが佐祐理の頭には現れない。そのためにも、情報が必要だった。犯人は極めて強い仔細をもって犯行を成している。それに抗うのは仔細を逃さぬほどの緻密な情報だけだと認識しているからこそ、彼女は今ここで一人、刑事と対峙していた。

彼女は――倉田佐祐理は今や、一人だった。三十分にも満たないうちにもたらされた三人の人間の死は、相沢祐一、川澄舞、月宮あゆの三人を忘失の彼方へと追いやった。実際、命を救うために尽力した祐一や舞の衝撃は特に強かったのだ。だからこそ、佐祐理が一人で事件を調べると言い出した時も、誰も反対はしなかった。辛うじて気力の残っている祐一に「二人のことを頼みます」と言伝すると、彼は小さく一つ肯いただけだった。

佐祐理は、いつも強気な祐一の怯える姿を初めて見た。だが、彼をみっともないとは思わない。寧ろ、当然の反応だと思った。尋常でないのは――これだけの大量死を見せ付けられても高い客体を保っていられる自分だと、佐祐理は自嘲的に断定する。いつもそうだった。弟の死という何より残酷な事象を見せ付けられてから、佐祐理はどんな残酷な事実にも屈辱にも強い感情を表せなくなっていた。心を揺らすことさえできなかったのだ。

そんな無機質な状況から佐祐理を救い出してくれたのが舞と祐一の二人だった。彼らと生活することで、佐祐理は自ら笑い自ら悲しみ自ら怒り自ら楽しむ、豊かな主体が生まれつつあることを実感として伴うところまで取り戻していた――気になっていた。

しかし、現実は未だに冷然な心の持ち主がいるだけ。不感症とでもいうのだろうか――客観から極めて精密な主観を演じていたに過ぎなかったことを、佐祐理は嫌というほど理解した。いや、そんなの始めから明らかではないか――未だに自分のことを客体でしか呼べないのだから。わたしではなく、佐祐理としてしか呼称できないのだから。

結局、何処まで言っても最後には冷たい人間なのだ――。

だが、今は冷たいことが何よりの武器だった。佐祐理はそれだけを自らに言い聞かせる。だからこそ、自らへの確認の意味を込めて冷たく暗い言葉を放った。

「事情は――はっきりしています。既に現在の事件だけでも四人の人間が、過去の事件から加えれば七人もの人間がが死んでいます。これ以上の死者は、絶対に防がねばなりません」

 眼前の刑事も強く頷き、肯定の意志を示す。

「無論――それはこちらも分かっている。ただ――改めて君たちとの共闘体制を確認する前に問い質しておきたいことがある。君たちは、本当に最初からこの事件と無関係か?」

 今までの許容に満ちた態度と違い、今の世田谷刑事の目には微かな疑惑が見える。

「それは――どういうこと、ですか。勿論、佐祐理がこの事件と無関係なのは否定しません。しかし、その接点は極細いものです。けど、貴方はこちらに疑いを抱いているようです。どうしてですか? 何か、分かったことでもあるのですか?」

「ああ。これは過去の事件に対する追跡調査の中で判明したことだが、倉田さんの連れ――相沢君にも大囃家の事件と接点のある可能性がある。まだ、確かなことは判明してないが」

「えっ――祐一さんにも――?」

 それは、佐祐理には全くの初耳だった。だから、その驚きには一片の偽りもない。

「そうだ。彼は――君たちも面識はあるから、月宮あゆ嬢が昏睡状態に陥った原因を知っているだろう。街一番の巨木からの落下だったな? 私は彼女を搬送した救急隊員の一人に話を聞くことができた。彼の話では、意識不明に陥った患者の傍らで泣きじゃくる男の子がいたそうだ。その、彼の名前が――」

 佐祐理はそこに続く名前を予想でき、思わず声をあげる。

「まさかっ、祐一さん――なんですか?」

「その通りだ。その男の子は絶え絶えの声で、相沢祐一と名乗った。その様子が余りに激しかったからこそ、隊員も記憶は鮮明だった。とても詳細に語ってくれたよ」

「なっ――!?」

何という偶然か――佐祐理は一瞬、立ち眩みさえおぼえた。七年前に起きた月宮あゆの墜落事故。それに関わる形で、祐一が絡んできている。しかも、そのことを佐祐理は教えられていない。本当に、君たちはこの事件と無関係なのか――そう詰問する刑事の行動にも頷けるものがあった。何より、佐祐理自身がそれを一瞬、疑ってしまった。

ただ佐祐理にとって唯一の好材料は、あゆと祐一が幼い頃、商店街を連れ立ちよく遊んでいたという事実だった。それは水瀬秋子から聞かされたことがあるので、佐祐理も覚えている。となると、何か遊びの弾みで事故が起きたことも容易に想像できるし、もしそれが祐一にとって辛い出来事だったなら、記憶を閉ざしていても無理はないと佐祐理は思う。

しかし、説明しても信じて貰えないであろうこともまた、自明だった。何より、佐祐理は動揺が激し過ぎて上手く言葉すら操れない。心身の歯車が明らかに空転していた。

沈黙を隠匿の是と受け取ったのか、刑事は小さく溜息を吐く。

「まあ、ことがことだけに隠そうとしたことも理解はできる。ただ、これは殺人事件だ――遊びじゃない。親しいからという個人的な理由で、情報を遮断して良いという理由にはならないんだ。いや、私だけならまだ良い。厄介なのは、捜査本部の状況だ。死者が一気に増えたことで、本部の管理レベルが一段階上昇した。次の辞令が下れば間違いなく、私は捜査担当を下ろされる。もう、これから事件の情報を大っぴらには回せない」

管理フェイズの移行――予想はできたことだが、事件にタッチできなくなる可能性が明確となり、佐祐理は内心、慌てた。これでは、世田谷刑事との約束が果たせなくなるからだ。

「ただ――君たちは同時に私の制限からも自由になれる。私がいくら許可を打診しても最早、君たちはこの屋敷への滞在を許されないのだから。それどころか、容疑者として屋敷に拘束される可能性さえある。故に、厳重に忠告しておく。君たちは直ぐに屋敷から離れた方が良い」

「でも――あゆさんのことはどうなるんですか? 一人にはできません。あんな、怯えて怖がって――彼女には佐祐理たちしか縋る人間がいないんです。今、あゆさんを置いて逃げることは、佐祐理にはできません」

「それなら問題はない。今なら、命令系統も混乱している。私の指示と言えば、君たちの努力次第では一人くらい余分に連れて行ける筈だ」

つまり、逃げろと暗に示唆しているのだ。佐祐理は世田谷の警察官にあるまじき発言に、思わず問い質していた。

「でも、宜しいのですか――?」

「ああ。個人的な同情もあるし、一塊にまとめて泳がせた方が監視も楽だと言っておけばこちらの角も立たない。別に、気に病む必要は無い。これからも何度か呼び出されることはあるだろうが、妙なことをしなければ月宮嬢を含めて疑いは晴れる。後は警察に任せて貰えれば良い」

身も蓋もない言い方だが、大量毒殺という凄惨な現場の起きた場所から自分たちを遠ざけようとしているということは分かった。佐祐理にとっては勿論、願ったり叶ったりだ。もう、他人を疑うのも、人が人を害するところも見たくないという本音はある。逃げ出せば、楽になれる。

でも、逃げ出して楽になったことなんて本当にあったのだろうか――?

「分かりました。では、佐祐理たちは直ぐにでもあゆさんを安全な場所に移します」

佐祐理はこの事件に関わってから何度目かの自問を己に投げかける。後は任せて欲しいと言われて――それに従うのみの人間で――。

「では、この後――佐祐理は――」

良いのだろうか? 任せてしまって良いのだろうか? 佐祐理は深く悩む。確かに、ここから逃げ出せるという選択肢は魅力的だった。しかし、途中まで首を突っ込んだことを、例え打算があろうとも放り投げて良いのだろうか? もう一度、佐祐理は己に問う。逃げ出して、途中で放り出すことで得られたものが、何か一つでもあったのか? と。心の奥底にまで潜む記憶を走査し、必死で考える。それは間違いなく、自分の頭だけで答えを出すべき問題だった。

そして、佐祐理は一つの結論を出す。

「その後のことは、決まっています。佐祐理はここに戻り、これ以上の事件を食い止めます――なんとしてでも、です」

目に表れた、今までにない決意。佐祐理の決意は、事件捜査の継続だった。

「もし、まだ佐祐理と共闘関係を保って頂けるのならば――ですが」

共闘、そう――これは闘いだ。根拠は無いが、今回の事件を解決しない限り、誰の元へも光は現れない。救われることもない。佐祐理にはそんな直観があった。

佐祐理の瞳に宿る意志に感銘したのか、それとも最初から共闘関係を崩すつもりはなかったのか、世田谷刑事は僅かな笑みを伴い肯いた。

「了解だ。ただ、脱出行動のことを鑑みると、時間はほとんどないから要点だけを絞って話す。先ず、第一の事件についての補足から。例の睡眠薬の件だが、食堂の水道管周り複数箇所から睡眠薬が検出された。13日の夕食に使われた皿からサンプルを取得したが、やはり睡眠薬が検出されている。詳しくは調べてないが、冷蔵庫の食材や土産物、水差しの水からは反応なし。ただ、水差しの飲料水はボトル入りのミネラルウォータらしいから、やはり睡眠薬の出元は食堂の水道水と見て間違いないだろうな」

「つまり、誰が盛ったかは分からないというわけですね。しかし、食事全てに睡眠薬が混入された可能性があるとなると――逆にそこから逃れる方法が不明になりませんか?」

「いや、そうでもない。13日の段階で、食堂に並んで食事を取らなかった人物が二人だけいる。一人は第一の事件の被害者の大囃羊山。もう一人が大囃乙男だ」

突如出現する二人の容疑者。佐祐理は思わず目を見開く。

「彼ら二人だけ――ですか?」

「ああ。その事実が判明したので、動機の裏づけも含めて明日にでも任意同行を求めるつもりだった。しかし、今日の夕食会で彼は毒殺されてしまった――という訳で、こちらの方は振り出しに戻ったというわけだ」

確かに、二人ともが明らかに害された痕跡を残し死んでいる。片や剣による刺殺、片や毒殺。二人ともが殺害されたことは確かだが、しかし佐祐理はそこから一つの結論を見出そうと試みる。浮かんできたのは、スキーロッジの事件の時に起こった動機の多重化――つまり殺人が連鎖的に発生したということだった。

「――振り出しではないかもしれませんよ」

「それは、どういうことだ?」

刑事の問いに答え、佐祐理は髪の毛を僅かに弄びながら頭の中で一つの結論を語る。

「つまり、第一の事件で大囃羊山氏を殺害したのは大囃乙男氏だったと考えれば良いんですよ。兄弟同士、しかも屋敷外の人物ですから、密に連絡を取り合うのは容易だった筈です。彼が殺人を成した後、誰か別の人物が――いや、駄目ですね。それでは屋敷内で犯行を実行するメリットが無くなります。犯人は複数の標的を一気に目的の場所に集めて、大量殺人という形で仕留めようと考えたのですから――それは毒殺という手法から見ても明らかです」

力なく首を振り、うなだれる佐祐理。彼女の様子を見て、向かい座る刑事が二の句を続けていった。

「そうだな、犯人が現場に残した大量のサインの意味も分からない」

「つまり、結局のところは犯人の残した大量の痕跡の意味を考えるしかないわけですね。しかし、今は考えている暇はないから保留しておいて――では、第二の事件はどうですか? 毒の出自や種類は、分かりましたか?」

「ああ、詳しく調べなければ分からないとのことだが毒の混入はワインの中と考えて間違いないと思う。何より、摂取者と被害者が一致しているのだから。毒の種類は、中毒症状や屋敷の植物生息状況から照らし合わせて鑑識がほぼ間違いないだろうという結論を出している。恐らく、毒殺に用いられたのはコンバラトキシンという植物性アルカロイドだ。もっと簡単に、鈴蘭毒というのが手っ取り早いかな」

「す、鈴蘭? 鈴蘭の毒はそんなに強いんですか?」

鈴蘭という花には良い思い出しかないので、佐祐理は余計に衝撃を受けた。あんな綺麗な花に猛毒が含まれているというのも信じたくなかった。しかし、刑事の口調は淡々としている。

「ああ。話では、鈴蘭毒は根や茎、葉、花、実、種とどの部分からも採取が可能らしい。鈴蘭にはコンバラトキシンやコンバラリンという植物性アルカロイドが含まれており、純粋なものは耳掻き一杯の量で人を楽に殺し得るんだそうだ。実際、米国では鈴蘭の生けてあった水差しの水を飲み、少女が死亡したという事例もある。また、真っ赤な実は如何にも食用に見え、これも中毒死の要因の一つになっているらしい。外見が白い天使の羽根のようなので、無防備に触る人間が多いようだ。正に天使の毒物という訳か――この屋敷の事件に、或いは相応しいと犯人は思ったのかもしれない。それか、植物図鑑を見ていて偶然発見したのか――」

天使の毒――佐祐理を襲う酩酊感。あんなにも気高く美しい装飾と、秘められた言葉とは裏腹に実態は猛毒となって生者に仇を成す。それ以上に佐祐理は、鈴蘭が猛毒性の植物と聞いて言い知れぬ――遥かに現実的な不安を感じた。何か今――鈴蘭の精霊――とても大事なことが――殺してしまわなければ――頭の中を過ぎったような気がしたが、掬い上げようとした時、それはもう佐祐理の中で明確な形を崩していた。

「――大丈夫か、顔色が悪いぞ」

先程の滅裂な思考が顔に出ていたのか――佐祐理は慌てて平常心を取り戻す。

「ワインのコルクには微細な穴が空いていた。恐らく、注射器か何かで精製した毒物を混入したんだろう。これは、未開封飲食物に対する毒物混入の常套句だから、それを行う知識は誰であろうと得られた筈だ。注射器も、市販の物を代用することができる。普通、こういう殺人は毒物の出所から攻めるんだが、屋敷内で手に入る代物だからお手上げだ」

大量死という派手な方法を用いたにも関わらず、犯人に辿り着くヒントがない。先程、微かに見えた光明を逃したことを佐祐理は強く悔やむ。いや、それだけではない、どうしても思い出せなくてもどかしいものがある。一つの違和感、そう――違和感だ。ちりちりとこめかみを灼く、何か。糸の切れたビーズ――もう一度糸でつなげ直せば、すぐにでも全体が見えそうなのに糸がどうしても見つからない。見ると、世田谷刑事はまだ何かを話したそうだったので、佐祐理は藁にも縋るような思いで耳を傾けた。

「最後は――過去の事件の追跡についてだ。これに対しては、余り愉快でない事実が幾つか分かった。先ずは十三年前に起きた月宮星占、及び七年前に起きた大囃博美のひき逃げ事件。これは私の主観だが、警察内部でも大体、意見は一致している。これはほぼ間違いなく、殺人だよ」

世田谷刑事は苦々しい顔で断言する。これにも佐祐理は驚いたが、しかしもしかしたらという予測もあったので、そこまでの衝撃はなかった。少なくとも、鈴蘭の花のくだりを聞いた時に比べれば心も楽だった。

「一応、ひき逃げを行った車は発見されたが二件とも盗難車だった。しかも、二件とも人通りの極めて少ない閑静な道筋で起こっている――明らかに犯人は事前調査し、目撃に気を配っていることの証左だ。類似性も極めて高いし、偶然とは思えないのだが、今回の事件との関係はと問われると、私には答えられないのが現状だな」

「では、あゆさんの母親についてはどうなんですか?」

「こちらについては、まだよく分からない。ただ、事件性はないような気もする。数日前から過労気味だったという証言もいくつか取れたし。あとは、その娘――月宮嬢の墜落事故だ。この事件については、現場が町並みから少し離れているせいで、他の事件と違って目撃者も証言者もいない、ただ一人を除いて」

「それは、祐一さん――ですよね?」

「ああ、彼の証言は是非とも聞きたい。勿論、落ち着いたらで良いが」

そして世田谷刑事は有本裕美、大笛和瀬の二人に事情聴取を行ったが、実りはなかったことを伝えた。私はやっていない、そんなことは知らないの一点張り。新たに分かったのは大囃家の人間が滞在中の食事メニュー、そしてそれに付随するワインの種類も厳格に決められていたということだった。それは屋敷に住んでいる人間なら誰だって知っていただろうと、大笛和瀬は怯えながら喚いていた。しかし、それと該当しない人間は大囃輝の一人しかいない。他は既に、死んでいる。

「現在まで確定しているのはこれくらいかな。後は引き続き、屋敷の調査と容疑者に対する綿密な調査だ。動機、或いはそれに類するものが存在しないか――これはまとまり次第、どのような手順を踏んでも君たちに届けることを約束する」

「分かりました。では、佐祐理はもう行きます。刑事さんも――頑張って下さい」

「ん、すまない。それと――これだけは言う。無茶だけはするな、相手は最低でも四人――もしかしたらそれに倍する人間を殺しているかもしれない。犯人が分かったらすぐ、連絡してくれ」

佐祐理は約束しますと言葉だけ返した後、席を立つ。食堂を辞す前、時計を見るとようやく午後9時を少し回ったところだった。先程から、佐祐理の頭には様々な思考が飛び回っている。しかし、どうしても明確な形を作らない。身内が余りに、事件の奥に関わり過ぎているからかも知れない。客観的な事件の構成が、今までに比べて困難だった。

取りあえず、今後の進退を皆で相談する必要があると佐祐理は感じた。それから、祐一に話を聴かなければならない。七年前の出来事、その接点。

そこに、事件を解く手がかりがあるのか否か――どちらにしても身内を、しかも心から大切にしたいと願った人間に疑いを持つことは、佐祐理にとっても決して愉快なことではない。細く小さく溜息をつき、佐祐理はあゆの部屋に向かった。ひとまずはこの屋敷からの撤退を手引きしなければならない。足取りも自然、機敏となる。

あゆの部屋の空気は、佐祐理が出る前と比べて幾分か落ち着いているようだった。自制を取り戻した祐一が、舞とあゆの手を片方ずつ握り、今も何やら元気付けてるようだった。そのせいか、舞とあゆの表情にも少しだけ柔らかさが戻ってきていた。自分ではとてもこうはいかなかったろうと、佐祐理は優しく微笑む祐一を見やる。彼は物音と気配で佐祐理に気付いたのか、安堵の表情を佐祐理に向けた。

「佐祐理さん、どうだった?」

「詳しいことは後です。先ずは、この屋敷を出ましょう。刑事さんがこっそりと、佐祐理たちへの外出許可をくれました。けど、命令系統がもうすぐ代わるらしいので、チャンスは今しかありません。あゆさん、着の身着のままですが宜しいですか?」

「うん。ボクは――すぐにでもこの屋敷から出たい」

あゆは、佐祐理の手をぎゅっと掴み脱出を促す。その様子を見て、佐祐理は皆に声をかける。脱出への希望をかけた、強い意志を持つ言葉を。

「では、行きましょう」

佐祐理の言葉は、天使の言葉として届いたに違いない。

しかし、佐祐理たちの行動は僅かだけ遅かった。玄関ロビィまで進んだ時、丁度重苦しいドアが開く音がした。そこには病院に連れ添った筈の大囃平秀、大囃輝、早乙女良子の三人がいた。そして、彼らに付き添う警官たちと、明らかに世田谷刑事より貫禄も階級も上に見える警察官が控えている。佐祐理は素早く辺りを一瞥し、そして逃亡が実行する以前の段階で失敗に終わったことを悟った。


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