12 累積する死


28 檻の中で(1999/08/14 23:00 Sat.)

それからの数時間は、恐らくは誰にとっても最悪の時間だったに違いない。今までに判明した事実や屋敷との接点、人間関係について根掘り葉掘り尋ねられ、高圧的にお前達は屋敷を出ることは許されないと言い渡された。だが、疲れ果てた身である皆がその言葉に逆らうことはなかった。相沢祐一も、半ば諦め天を仰ぎ、唯々諾々とそれに従ったのみだ。

しかし、訳が分からない。これだけの事件が起きたのだから、誰もが犯人かもしれないと警察が疑うのは祐一にも理解できた。しかし、屋敷にいる人間は容疑者であると同時に即、被害者になる可能性も秘めている。それでも、敢えて一所に集めるなんて無茶過ぎた。警察の見張りが如何に激しいと言えども、その体勢は緩むこともある。その隙をついて、犯人が次の犯行に及ぶ可能性だってあるのだ。祐一にはそれが理解できない。

既に虚ろな眠りの狭間にある月宮あゆや川澄舞の隣で、ただ一人遠い目をして目覚め続けている倉田佐祐理に、祐一はその疑問をぶつけた。佐祐理はただ冷たく答えるのみだった。

「もしかしたら、警察はもう犯人の見当をつけてるのかもしれません。また、警察は犯人がまだその目的を遂げていないことも知っているのかもしれません。しかし、証拠が無い。最も手っ取り早い方法は何ですか? それは犯人に次の犯行を起こさせ、その直前か直後を抑えることです」

「それは、犯罪の事前防止などどうでも良いと言ってるに等しいじゃないか。警察に、そんなことが許されるのか?」

祐一は、こんな事件に巻き込まれて尚、警察は国民に対する秩序の維持という義務を果たし、皆を守るために働いているのだと信じて、大勢では疑っていない。しかし、佐祐理は祐一の甘さを封じるように言葉を紡ぐ。

「米国では、囮捜査が凶悪犯罪者の検挙に常套として使用されてます。それに日本では、既に起きてしまった事件に対しては証明が必要ですが、現在起きている犯罪については証明が必要ありません。一般人でも、現行犯逮捕の権利が与えられています、況や警察官は当然のことです。彼らは――元々、一般人なんてどうでも良いんです。警察というシステムに従い、犯人を捕まえればどのような手法を使っても、秩序の維持者として正義が代弁できると思っているのですから」

そんなことはない――と即答できるほどに、祐一は警察のことを知っている訳ではない。刑事小説やミステリィが出回っているとしても、やはり密室性の高い場所ということに変わりはなかった。佐祐理に論理の遂行者であることを期待する世田谷刑事のような人種の方がきっと稀なのだ、と祐一は思った。

沈黙することしかできない祐一に代わり、佐祐理はただ一人、冷静に話を続ける。

「それに、殺人者である可能性のある人間を一般大衆は隔離の対象にします。例えば、ある孤島で人が殺され残る者の中に殺人者がいるとします。その輪の中に入っていない人間は容疑者をどう扱うと思いますか? 疑わしきは罰せずと、手を広げて今までと同じように接すると思いますか? きっと、そんな可能性のある人間を自由に行動させるな、隔離せよと連呼するでしょう。誰だって、人殺しの隣で同じ空気を吸って生きてるかもしれないなんて耐えられないですよ」

確かにそうだと、祐一は心の中で同意する。例えば、もし佐祐理が殺人の容疑者だとしても、祐一には普段通りに接する自信があった。しかし、マンションの隣の部屋の住人が殺人の容疑者だったとしたら、耐えられるかどうかは祐一に自信がなかった。疑わしきは罰せずという法曹の基本は、祐一も公民の授業で学んでいる。しかし、ヒステリィ的な集団においては恐らくはその通りではない。殺人者であるという可能性があるのならば、そして相手がさして親しくもないのなら排除の傾向に進む可能性は高い。

「もしかしたら、警察が佐祐理たちを閉じ込めるのも社会のそういうシステムに迎合しているだけかもしれません。警察も、恐らくは一般市民も怖れているのは殺人とそれを犯すものです。しかし、逆説的にまた、殺人が起きれば起きるほど犯人も特定しやすくなるというのも間違ってないです。こういう状況では犯人の可能性がある人間に、実質的な人権など与えられないのかもしれませんよ」

「そんな――それは間違ってるだろ? いくら秩序を守るためだと言っても、無意味に人が死んでも良いという理由にはならない」

「でも――人間は、思ったより残酷ですっ! 佐祐理だって、そんなことは思いたくありません。けど――祐一さんにだって分かってるでしょ? あの時、舞は、秩序を守るという理由だけで、あんなにも激しく、執拗に排除されようとしたじゃないですかっ! 佐祐理と祐一さん以外、舞のことを誰も信じてくれなかったように、きっと今の佐祐理たちを誰も信じてくれません。それが、凄く怖いんです。だから、だから――」

祐一は、思わず目を見開く。佐祐理が大声を張り上げたということも衝撃だったが、そんなものは数に入らない。一番ショックなのは、どんな人間にも明るく優しく分け隔てなく接しているように見えた彼女が、心の底で人間に対してこうまで暗く冷たい感情を醸成しているという事実――そして、そのことに今まで全然、気付かなかった自分自身だった。

祐一は反射的に辺りを見回す。あの大きな声に舞やあゆが反応したか見るためだったが、二人の意識は既に深い眠りの中にしか存在しない。それを確認したからこそ、佐祐理も大声をあげたのかもしれなかった。祐一はそんな邪推を浮かべながら、佐祐理の顔を見る。この屋敷に来てから、徐々に深まりつつある冷たげな瞳の色。微かに霞み、揺れ、瞬きの後に消えた。

祐一は、そっと佐祐理の手を握る。震える手と、悲しみに溢れる瞳が余りに印象的で、すぐにも壊れそうで、支えないと本当に壊れてしまうと思ったから。

「だったら、前と同じように信じれば良い。俺は、きっと変わりないよう佐祐理さんを信じることができる。舞だって、そうだ。それに、今は佐祐理さんを信じる人はきっと沢山いる。あゆもそうだし、名雪や真琴や秋子さんも――佐祐理さんのことを家族みたいに思ってくれてる筈だから――ははっ、よく考えりゃあの時よりゃ余程ましだってことだよ。酷いことにはなったけどな、ここから出られたらまた、いつもと同じように笑い合えるよ――俺が約束する」

人が何人も死んでる中で、将来笑いあうことを約束する自体、本当は正しいことではないのだろう。それでも、祐一はこれしか佐祐理を励ます方法を知らない。

「約束ですか?」

佐祐理が、期待を込めた目で祐一を見る。こんな時、どうすれば良いのかは流石に祐一も知っていた。すっと小指を差し出し、思いつく限りの笑顔を浮かべる。

「ああ、約束だ」

佐祐理はその仕草の意味するところを悟り、祐一と手を交互に見比べる。それから慌てて手を払い、そっと小指を重ねる。佐祐理の口が一瞬、物知りたげに動いたけど、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。その笑顔のままに指が離れ、祐一はほっと一息吐く。

「よし、少しは元気が出たようだし――今日はもう寝た方が良いと思う。朝からずっと考えっぱなしで、嫌なこと、苦しいことを沢山考えたから、疲れてるだろ? 本当なら、俺がもう少し頭が良ければ、意気地があれば――強ければ、佐祐理さんのこと、苦しめずに済んだのにな」

「そんなことは無いですよ。佐祐理は、祐一さんに凄く励まされました。もう、この事件はとっくに佐祐理たちの問題になってたんですよね――」

何やら意味深な呟きだったが、それは祐一にも理解できた。身内が絡んでいるとかそういう意味ではなく、もっと深い次元でこの事件に傍観者だけではいられない何かを感じるのだ。そして、それは皮膚のちりつくような容赦ない不安を対にしている。

だが、今の佐祐理をこれ以上、不安にすることはできそうもなかった。

「そうだな」

だから、祐一はそれだけを答えた。

「それでは祐一さん、お休みなさい。祐一さんも――早く寝て下さいね」

祐一は一つだけ肯くと、床に寝転がり目を閉じた。ベッドは一つしかないので、寝逃した感じの祐一と佐祐理は床で眠るしかなかった。しかし、夏なので風邪を引くこともないだろうと、祐一はあっさりそれを受け入れた。佐祐理もお嬢様暮らしをしていた割には神経質でなく、暫くすると可愛い寝息も聞こえ始めた。それを確認し、祐一は再び自らの思考に没頭する。気がかりなこともあった。

もし、警察が――そして一般国民というものの総和がこれ以上の犯罪を望んでいるのだとしたら、一番しっかりとしていなければならないのは自分なのだ。祐一は頭を振り、曇る頭に活を入れて安らかに眠り続ける三人の女性をそっと見渡す。祐一は一瞬だけ相好を崩し、再び顔を引き締めた。

何故、密閉空間の殺人においては、事件が終わるまで容疑者だけ出ることができないのか。祐一は現実にそんなことを当てはめて、考えたことなんて今まで一度もなかった。ああ、小説だからしょうがないのかなと、冷静に断じたことがある。しかし、佐祐理の言葉はそのような認識を甘いと断じた。警察の、人を蔑ろにした事件解決に対する執念。不特定多数の国民による、いわれのない偏見と秩序に対する妄執。根拠のない情報。悪感情。

誰もが守ってくれない状況の中で、大切な者を守るためには努力するしかないのだ。祐一は拳を握り締め、大きく一つ溜息を吐いた。

時計は、十一時を少し回ったところだった。

朝まではまだ、六時間以上ある。祐一も、朝まで少しだけ眠ることにした。祐一は、一つ体を伸ばした後、蛍光灯の電気を消した。

 

時計の針だけが、時間の経過を刻々と物語る。深夜一時を少し越えたところだった。

突如、窓を叩く乾いた音が聞こえた。祐一は慌てて飛び退き、耳をそばだてる。痺れを切らしたのかもう一度、今度はより大きな音で。思わず、背筋に寒気が走った。何者かが、窓と雨戸を挟んだ先にいるかもしれない。

祐一はせめて、相手が何者かを確かめようと雨戸を開く。しかし、暗闇に包まれた空間にはどのような存在をも認知することができない。祐一はしばらく何者かの存在かが現れないかと、前方の空間を凝視した。しかし、数分経っても物音一つしない。それを示すかのように、強めの風が窓をがたがたと揺らした。祐一は緊張を解く。

「畜生、驚かせるなよな――ったく」

やれやれと一人で肩を竦め、一応誰かがいないか窓を開け、外を確かめる。

その時――。

頭に、激痛が走った。

29 第二の矢(1999/08/15 01:20 Sun.)

「ぐあっ!」

何者かのうめき声が聞こえ、倉田佐祐理は素早く目を覚ました。外を駆けていく何者かの存在が感じられた――微かに足音がする。続いて硝子の割れる高い音。佐祐理は呆とした意識を完全に醒まし、そして窓にもたれかかるように倒れた人物に愕然とした。それは確かに相沢祐一、佐祐理のよく知る人物だ。

佐祐理は辺りを探り、電気を点けた。

「――――ぁ、ぁっ――」

叫びたいのに、佐祐理の口からは声が出ない。恐怖が確かに理性を吹き飛ばしていた――甲高く叫ぶことなど簡単なのに、声が出なかった。しかし、祐一が苦悶の声をあげていることはよく分かった。頭が、尋常でない量の血に塗れていることも――。

何事だ、この音は何だ、外から微かに警官らしい人物の声が聞こえる。続いて、ドアを乱暴に叩く音。佐祐理はようやく警察の存在を思い出し、駆け寄る。鍵を開け、中に招き入れた。

「う――ゆ、ゆ――が――」

上手く喋れない――今ほどそれをやらなければいけない時はないというのに、佐祐理の口から漏れるのは空気のような囁き声だけだった。

なんだこれは、だれがやったんだ、鬱陶しい声が聞こえる。佐祐理は手で二人の警官を払い除け、走り寄る。祐一の元に一人蹲る。

兎に角救急車だ、分かりました、一人の警官が指示されて外に出て行く。おい、何があったんだと警官は佐祐理の肩を強引に掴む。激しい嫌悪感をおぼえ、佐祐理は思い切り振り払い、本能に任せて思い切り突き飛ばす。

何かが、佐祐理の中で、切れた。

途端、声を発する力が佐祐理の中に蘇る。

「うるさいっ、黙って下さいっ!」

その叱責が聞いたのか、警官は一言も喋らなくなった。良い気味だ。

それよりも問題は祐一だと、佐祐理は肩を掴み何度も揺さぶった。数時間前までは元気な姿でいた彼、必死で自分を励ましてくれていた彼。その彼が、何者かに害されて倒れている。またもや、佐祐理の預かり知らぬところでの事件に、悔しさが滲み出る。見ると、開きっぱなしの窓と雨戸。どうしてそれが開いているかは、佐祐理の頭の中になかった。それよりも目についたのは、向かい側の光灯る一室だった。東翼にある一室を、佐祐理は必死に目で追った。暗闇の中で、蛍光灯の光とそこに映し出される光景は非常に目立つ。

だから、机にもたれかかって眠るようにしている一人の人間もすぐ、佐祐理の目に入ってきた。他の部屋に異常があるのかは分からない――少なくとも、佐祐理には何も見えない。そこだけが眩し過ぎて、暗闇を見る力が明らかに奪われていた。

その部屋も何故か、雨戸と窓が開け放たれていた。よく見ると、硝子の損壊した部分が見える。では、先程の音はそれだったのだろうか? それにしても何故? 考えてはみるが、極度に混乱した状況の中、佐祐理にはそれもすぐどうでも良いことに思えた。

そう、そんなことはどうでも良かった。

佐祐理はもう一度、祐一の肩を掴む。誰かが後ろでうめくような声を立てた――舞だ。きっと、先程からのごたごたに触発され、ようやく目を醒ましたのだろう。上体を起こしたばかりの舞も、佐祐理と同じで硬直して叫べなかった。

「――さ、佐祐理!」

鋭く走る舞の叫び声。先程の不躾な警官と違って、本当に綺麗な声だと佐祐理は思った。

「――ど、どうして祐一がこんな目に。それに警官も一人――二人とも誰かにやられたのか? 祐一は大丈夫なのかっ!」

「警官は五月蝿いから、佐祐理が黙らせたの」

「――だま、らせた?」

舞が小さく首を傾げる。舞は最初、不安そうな視線を全て祐一に注いでいたが、今では二人を交互に見やっている。佐祐理は祐一にだけ注意を促したくて、そっと呟いた。

「それより、問題は祐一さんだよ。早く病院に連れてかないと――今、あそこの片割れの人が救急車を呼びに行ったから」

「――さ、佐祐理は、大丈夫なのか?」

舞は全く別の意味でそう言ったのだが、佐祐理には舞の声が優しさにしか聞こえない。

「大丈夫だよ」

思わずぞっとするような微笑をたたえ、佐祐理は舞の手を握る。

どうした、何事だ、おいこれはどうした、何でお前まで倒れてるんだ? こいつだ、こいつが俺を突き飛ばしたんだ、今倒れている奴もあの女がやったに違いないぞ、数人の警官が祐一ではなくて佐祐理の元に集まる。佐祐理は苛立たしさで胸が一杯だった。怪我をして苦しんでいる人間がいるのに、警察は何もしない。思ったとおり、彼らは自分たちをここに閉じ込めて、もっと殺させて殺人者を暴くつもりなのだ。そうはいくものかと佐祐理は、舞の手を掴んで部屋の外へと走り出す。

「――佐祐理、何処へ行くんだっ!」

「舞、邪魔しないで。この人たちは、もっと殺人事件を起こさせて、それで事件を解決させようとしてるの。最低の人間なんだよ。逃げないと、佐祐理たちも殺されちゃう。早くあゆさんを起こして、逃げないと。舞、どうしたの、まいっ!」

しかし、舞は警察と佐祐理、どちらの味方をして良いか最後までわからなかった。掴んだ手は離されず、結局、佐祐理は数人の警官に取り押さえられることになった。

「み、みんな、どうしたの?」

月宮あゆが目覚めたのは、正にその瞬間だった。だから、彼女は誰よりも困惑していた。祐一が床に倒れ、佐祐理は警官に抑えつけられ、舞はその様子を呆然と眺めているだけだった。佐祐理は、二人が警察を疑えないほど純真だということを知っている。だから、教えなければならなかった。

「お願い、舞とあゆさんだけでも逃げて。じゃないとみんな、犯人が捕まるまでずっとこの屋敷の中に閉じ込められるんだよ。殺されちゃうかもしれないんだよ」

黙れえっ、この、クソガキがあっ、佐祐理の頬に鋭い痛みが走る。見ると、先程突き飛ばした警官が、淀んだ瞳で佐祐理を見下ろしていた。それでもこの男に負けたら終わりだと思い、抵抗して抵抗して抵抗し尽くしたが、最後には警官たちに両手両足を抑えつけられた。がちゃりと、鈍い音が響き、両手が拘束される。公務執行妨害という言葉が聞こえてきたが、佐祐理の耳には詭弁としか聞こえなかった。

怯えた顔の舞とあゆの姿が、佐祐理には悲しくて堪らない。守る人間がいないという事実も、絶望に似た気持ちを更に醸成していく。ようやく、何かを掴みかけたのに、このままでは無意味になってしまう。それとも、意味だったか――何だか思考が上手くまとまらない。暴れ続けたせいで頭が真っ白だったし、今も暴れているのでどんどん白一色に近くなっている。

白、鈴蘭――天使の毒。大量無差別殺人、誰かがそれを成した。密室、細工された足跡、殺人鬼、天使の絵に沿った殺人、過去、現在、未来、全部無意味だ。けど、無意味なことに意味がある。

そうだ、無意味なことにこそ意味があるのだ。

もっと早く気付いて然るべきだった。

何を成したかが意味ではない。

何かを成したことにおいて初めて意味が存在するのだ。

その一つ一つ自体は無意味だ。

だが、何もしないことには意味は存在しない。

これは、そういう類のものだった。

そう、分かった。

犯人の正体が。

30 せめて、あなただけは(1999/08/16 06:00 Mon.)

川澄舞は、今も眠り続ける相沢祐一のいるベッドの傍らにいた。腰掛けに座り、舞には理解できない数々の装置を取り付けられ、呼吸だけを延々と繰り返している。

今日の朝、先ずは祐一のかつて住んでいた家の主である水瀬秋子がやってきた。舞は、決して秋子に事情を話すことを促された訳ではないが、側にいてくれる者が誰も居ないこの状況において、一人で全てを抱え込むのが苦痛だった。以前は意識しないでできたことが、今の自分にできないのは悔しかったが、何も話さないことには耐えられそうになかった。それに、秋子なら自分に何か助言をくれるかもしれないと、舞は期待する。

そこで、決して上手ではない話し口だが、それでも精一杯のことを語った。月宮あゆの住んでいる屋敷で事件が起こり、あゆからSOSのコールが入ったため、倉田佐祐理と相沢祐一の二人と共に大囃家の天翼館に向かったこと。屋敷への滞在と引き換えで、捜査に参加することになったこと。昼時、楽しい会話。転じて時刻のような夕食、大量毒殺事件。終わりのないくらいの長い夜、眠り、目覚めた舞が見た祐一と佐祐理の変遷。舞とあゆは、二人にしがみつくような形で病院に同行した。

幸い、祐一の診断結果は脳震盪だけだった。ショックのために気を失っているとのことだが、数日間のうちに目覚めるということで舞は一度、胸を撫で下ろした。

しかしすぐに、舞は数段階上の衝撃的な事実を知らされる。

佐祐理が重度の錯乱状態に陥り、下手すると一生の間、精神に障害が残るかもしれないという医師の診断結果だった。きっと、毒殺の現場に間の当たったことや親友の酷い有様が精神を一時的に破綻させてしまったのだろうと、医師は付け加えた。

幸いなことに、佐祐理の容疑はすぐ晴れた。あゆの部屋に、祐一を殴った凶器が存在しなかったからだ。しかし、そんな事実は舞を喜ばせはしなかった。佐祐理が祐一を殴ったりしないなんて、とうの昔に確信していたことだし、病室で佐祐理と対面した時の様子は痛々しいの一語に尽きた。

やってきた警官には『あなたたちに話すことなんて何もない』と跳ねつけ、不敵な笑みを浮かべていた。あの天真爛漫で、心を溶かしてくれるような笑顔とは大違いで、佐祐理の心が変な方向に歪んでいることは舞にもよく分かった。

舞は病室を訪れ、祐一が軽傷であることを告げた。佐祐理は嬉しそうに喜んだ。

「良かった――祐一さんが死ぬかと思うと、気が気じゃなかったの。でも、これで一安心だね。犯人も分かったから、これで屋敷に連れ戻されることはなくなるよ」

佐祐理の言葉は舞を大層、驚かせる。或いはもしかしたら、それは佐祐理の虚言ではないかと、舞は疑わざるを得なかった。舞の目に、佐祐理は余りに危うく見えたからだ。

「――それは、本当なのか?」

「うん――舞に嘘吐いたりする筈ないよ。でも、今は駄目。まだ、分からないことも結構あるし、そう――準備も色々必要なんだ。また、新しい犠牲者が出たって言ってたしね」

「――新しい、犠牲者?」

「そうだよ。あゆさんの部屋から外を見た時、何処かから光が漏れてたでしょ? そこは大囃平秀氏の部屋で、座ってた人影は屍体だったみたい。大囃家の当主、平秀氏がボウガンの矢で胸を射抜かれて死んでたんだって」

五人目の死者――眩暈のするような事実。あの屋敷にはどんどん、死が堆積している。こんな平和な時代に、人が一所で五人も死ぬなんて、舞には信じれらなかった。

「でも、祐一さんは生きてて良かったね、本当に。わたしが馬鹿だったせいで、祐一さんまで死んじゃってたら、きっとこの窓から飛び降りてたよ――あははっ」

何処か壊れた、危うい喋り方。いつもの笑い声も、冷たく乾いて聞こえた。何より佐祐理の言葉の何かが、舞に違和感を植え付けた。その側で、ずっと黙って付き添っていた医師が怪訝な表情を浮かべた。犯人云々は兎も角、自殺するという言葉が簡単に出てくるところに危うさを感じたのかもしれない。医師が、面会は終わりだというので舞は頭を下げて部屋を辞した。佐祐理は小さく手を振り、儚げな笑みを浮かべていた。

そして、部屋に出てから舞は気付く。

歯の根が鳴りそうな程の恐怖を含んだ違和感の正体。

佐祐理は確かに――。

自らを呼称するのにわたしという言葉を――。

使っていた。

 

最後の方はまるで話としての体を成していなかったが、秋子はそれで多くのものを理解したらしく、神妙そうに俯く。いつになく真面目な顔で、舞はそれが自分を責めているように見えてしょうがなかった。

「――秋子さん、私は――私が弱いせいで、佐祐理ばかりに負担をかけてた。だからっ、佐祐理はあんなにも苦しく、心を壊したんだと思う。私は――酷い人間だ」

「そんな風に自分を責めちゃ駄目。貴方は貴方のままでいた方が良いわ。それが、祐一さんにとっても佐祐理さんにとっても一番良い筈だから」

秋子は舞の肩にそっと手を置き、悠然と微笑んだ。舞にはそれが難しい謎かけのようにしか思えなかったが、彼女のいう言葉は不思議と信じることができた。舞は、ゆっくりと決意を持って肯く。自分が自分であるとはどういうことか、知りたいと改めて思ったから。

舞の瞳を見て取ると、秋子は次に、祐一のベッドに頭を預けるあゆの寝姿に視線を移す。

「話を聞いていると、この子は貴方たちの元にも、屋敷にも置いておく訳にはいかないみたいね。宜しければ、私が預かろうと思うのだけど、どうかしら。勿論、その場合はここからこっそり連れ出すという形になるのだろうけど」

「――お願いする、彼女のことを守って欲しい」

舞は、もう警察のことを殆ど信用していない。新たな殺人事件が起きたのみならず、祐一を危険に曝し、佐祐理に酷い暴力を振るった。今は、絶対に信じるべきものではないと痛切に感じている。

「分かりました。では、あゆちゃんは私が預かるわね。また、落ち着いたら祐一さんと倉田さんのお見舞いにも来ますから、今度は名雪や真琴も連れて。それでは、川澄さんもお元気でね。決して、挫けては駄目よ――頑張って」

「――分かった。それと、本当にありがとう」

舞が、これほど他人に感謝したいと思ったことは珍しい。最近では――と思い浮かべ、そこに佐祐理と祐一の姿しか発見できないことに驚き、そして改めて思うのだった。

相沢祐一、倉田佐祐理――二人の存在が以前にもまして、心の中で強固になっているという事実。舞は、それらを失いたくないと思った。天地神明にかけて、失いたくないと思った。

秋子はあゆを背負い、何も背負っていない時と同様の足取りで病室を後にした。警官と何やら話す声が聞こえたが、それからしばらくして遠ざかる足音を一つ捉え、それから二人とも帰ってこなかったところを見ると、上手く行ったのだろうと、舞は一人でこっそりとほくそえむ。

そして、あゆが何処へ行ったのか執拗に尋ねる警察を退け、昼が過ぎ、夜を越え、日付すらもとうに越えた。新たな日は容赦なく舞の元に訪れていた。ただ、朝の帳の訪れとは対照的に、うつらうつらしていた舞の耳に騒がしい様子で医師が走りこんできた。

「き、君、倉田さんはここに来なかったか?」

「――佐祐理が、どうしたのか?」

余りの慌てよう――舞の背筋に嫌な寒気が走る。魔物との戦いにおいて何度も感じたあの戦慄が、いつしか肩の側まで忍び寄っていた。その先に出てくるであろう凶報は、舞がもしやと訝しんだ通りの内容だった。

「彼女が――トイレに行くといって病室を出て行ってから、戻って来ない。もう三十分になる――もしかして、病院を脱走したのかもしれない」


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