2 あゆの目覚め

1 視界(1999/2/1 15:15 Mon.)

視界に最初に飛び込んできたのは、白い天井だった。 続いて、白いカーテン。

まるで、雪の中にいるようだなと月宮あゆは思った。 けど、それも僅かな時間のことであゆはすぐに自分を包んでいる 不思議に心を巡らせる理性と余裕とを取り戻していた。

ここはどこだろうと思い、首を動かそうとするがそれすらも満足に動かせない。 況や、手足は指の一本すら震えるほどの微かにしか動かせなかった。 まるで、全身を溶かした鉛で塗りこんだように、身体の自由が効かない。 そのことは、あゆをたちまち狼狽させるのに充分な異変だった。

「だ、だれか……」

と、そこまで声をあげて見てあゆは更に驚かされた。以前は、もっと甲高さにも 似た声を出していた筈なのに、口から発せられた音はまるで中年男性のように低 く掠れて、満足に声量をも取り出すことが叶わなかった。

微かに首を右に曲げると、まるで天井やカーテンと揃えたような白のキャスト・ ボードが置かれていた。そこには薄紫色の花瓶が黙してその存在を目立たせ、 白く小振りで可愛らしい花が何輪か差してあった。俄かに頭を垂れ、今にも 消え落ちそうな儚さを更に際立たしている。その様子を見て、あゆは何だか 悲しいなと思った。

目が徐々に痛みを増していく。カーテンから漏れる僅かな光が、しかし針で刺した かのようにちくちくと痛む。堪らず目を瞑り、強く擦ろうとしたがその意志を身体 が叶えてくれることはなかった。ただ真っ白なシーツのみが漣のように揺れ、そし てそれ以上は動かない。増してゆく痛みは止め処もない涙となり、つぶらな瞳を、 覆い隠してただ流れ続けるのみだった。

訳が分からなくて、何処か分からなくて、誰もいなくて……。 辛くて、痛くて、悲しくて涙はいつまでも止まらなかった。

あゆの左側から、規則的に聞こえていた筈のオシロスコープの電子音は、まるで 嵐でも訪れたように激しく波打ち不規則なメロディを奏で続けていた……。

2 医師と看護婦(1999/2/1 15:20 Mon.)

県内にあるS総合病院にて、問診にでかけた医師と助手の看護婦は、今日も いつものように病室の見回りをしていた。医師にとって、週に二度の役目となる のだが、いつもこの辺りに来ると気が滅入るのだ。

C棟西館四階の一角、そこにはベジタブル・ステイト……所謂、植物状態となった 人間や知能、身体能力を著しく減衰させた人間など、事故により重度の障害を負っ た人たちがその治療を受けている。

ちなみに階下の二階と三階は老人性痴呆症の患者が入院し、毎日のケアを受けてい る。C棟西館は、そのように重度で付きっ切りの介護が必要なものたちの治療の場 である。そこで働く医師や看護婦の労働時間は――病院側は是正するとはいつも、 口だけでは言っているのだが――他の区画の労働時間の二倍は軽く超過するものも 少なくない。ただでさえ、准看護婦制の廃止などで慢性的な人手不足であり、また 不慮の事態も比べ物にならないほど多い。

望む、望まざるに関わらず、そこには健常者までをも巻き込む泥のような倦怠感が あり、また廊下を歩く医師と看護婦もその例外ではなかった。

「さて、残るは4階だな……」

そういう医師の声は、少しだけほっと胸を撫で下ろしているように看護婦には思え た。勿論、四階にも余り希望があるとは思えない。しかし、少なくとも駄々をこね たり突然暴れ出したりする患者がいない分だけましだった。

看護婦はずれたキャップを整える暇もなく、よれよれになった医師の白衣の後を 追う。そこにはうっすらと茶色の染みがついていた。以前、痴呆症の老人の問診 の際、おむつに溜まっていた便を突然、投げつけられてついたものだ。しかし、 この程度の汚らしさで躊躇しているようではこの病棟での仕事など勤まらない。

最早、慢性病となった腰痛を隠しつつ、僅かに疾る疼痛に知らぬ顔をしてようやく 四階へと辿り着く。また、少しばかりの変化はあるだろうけど、大勢では全く何も 変わらないまま過ぎ行くのだと……その時までは医師も看護婦もそう思っていた。

「っく、ひっく……」

それは、今足を止めている場所からドアを挟んだ部屋より聞こえてきた。啜り泣きの ように思えるが、しかしそれが現実のもので有り得ることはないのだと知っていた。 ここの患者は七年前、大木から足を滑らせ頭を強く打ち、そのまま意識を取り戻して いない。必死の治療と介護の甲斐もなく、今も安らかに眠り続けている筈の患者の 部屋だった。ネームプレートには『411号室 月宮あゆ』と書かれている。現在、 17歳。10歳からの、普通だったら最も人生で楽しい時間を彼女はただ無意味な眠りに よってだけ浪費していた。そう、医師の中では見込みなしとしていた患者だ。

「先生、さっきの声……聞こえましたか?」

が、看護婦も同じ声を聞いたということが、空耳では決してないということを示して いた。確かに……最近は脳波の乱れが今までより強かったように思えるが、今までに もそんなことはあったし、今更重大に受け止めるべきものでもないと考えていた。

「ああ……。じゃあ、今から入るぞ」

医師は、スライド式のドアの取っ手を掴み、横に押し開けた。

「ひっく、誰か……いないの……ひっく……」

もう、それは気のせいとか空耳とかいうレベルを超えていた。とても掠れてはいたけど それが人の声だということは疑いようもない。そして、その声は涙を流し続けている、 一人の少女から発せられるものだった。医師は慌てて駆け寄り、そして看護婦もそれに 続いた。

(七年以上も経って、いきなり目覚めるなんて……)

少なくとも、医師の体験した医学上の常識や経験論を遥かに凌駕していた。これは正に この一言をもって以外に、どう片付けられるだろう。それは医師の一番嫌いな言葉だっ たが、この時ばかりは呟かずにはいられなかった。

「奇跡だ……」

3 涙(1999/2/1 15:25 Mon.)

駆けつけた医師が泣きじゃくるあゆを必死に宥め、何とか話のできるようになるまで まるまる五分の時間がかかった。正確には、体力の極度に落ちたあゆが泣き疲れたと という要因が一番大きかったのだが。

「落ち着いたかね、月宮さん」

ようやく眩しさにも目が慣れ、相手のことを医師と看護婦だと認識できるようになっ たが、あゆには未だに病院のベッドで眠っている理由も身体がままならない訳も全く 分からぬままだ。記憶を読み起こそうにも、頭が全く働いてくれない。筋力と同じよ うに、脳までもがその力を失ったかのようだった。

沈黙だけが続く。あゆは、医師の問いかけに答えなかった。それは事態を把握できない ための混乱のせいでもあるし、しゃがれた汚い声を人前に曝したくなかったからでもあ る。その様子を察してか、医師は少し厳しい顔をして言った。

「無理もないか、何しろ七年も眠り続けていたのだからな。手を動かすことも、声を 発する声帯の機能も著しく低下していることは間違いない」

七年? その言葉にあゆは思わず疑問を持たずにはいられなかった。ボクは確か十歳の 筈だったよね……と、自分に問い掛けてみるが答えはでない。

「月宮さん。辛いかもしれないが、何か意志を表示できる手段はありますか? 筆記でも 良いし、喋っても良い。声はきっとひどくしゃがれているだろうが、そのことで君を笑う ものはここにはいないよ。君も、自分の身に何が起きたか知りたいだろう?」

声を出すことは相変わらず憚られたが、今はそれよりも自分の身に起こっていることが 確かに知りたかった。喉に魚の骨でも刺さるような痛みを何とか奥の方に押し込めると やっぱり蛙のようにしゃがれた声であゆは思いを言葉にする。

「うん。ボク、どうして、こんなところにいるの?」

「良かった、喋れるのか……そこまで体力の低下が著しいというわけではないらしい。 それで、質問の方だったね。その前に、こちらから確認させて欲しい。君の名前は月宮 あゆ……そのことは覚えているね?」

「うん。ボクの、名前」

あゆがそう答えると、医師は満足して次の質問に移った。

「そうか。なら、君がここに運ばれることになった事故のことは覚えてないかい? 強烈 な出来事だから、すぐに思い出せると思うんだが」

事故……その言葉に、あゆは事故に関わる記憶を何とか掘り返そうとした。しかし、 そのような事実が蘇ることはなかった。その代わり、とても小さい時のことを思いだ した。あゆはその時、まだ四歳でそれはひどく不鮮明だったけど、お葬式だというこ とは分かった。お父さんは――お母さんが涙ながらに話してくれたことによると―― 交通事故に遭って死んだらしかった。

いつも、車は危ないよって言ってくれたお父さんだったのに車に撥ねられて死んでし まうなんて馬鹿だねとお母さんは言ってた。馬鹿だと言いながら、お母さんはずっと 泣いていた。どうして泣いていたのか、当時のあゆには分からず、ただいつもお母さ んがやってくれたように、その頭を撫で続けていた。

お葬式は、お父さんの友人が何人か集まった……それだけだった。お母さんとお父さん は駆け落ちっていうのをしたらしく、特にお母さんの家族からは嫌がられてたらしい。 もっとも、それは後から聴いたことだった。

その時は、人が一杯いて楽しいという思いしかなかったけど今なら分かる。それはとても とても悲しいことだって。それは、あゆもまたその悲しみの痛みを知ることができるよう になった後、その別離を体験したからだった。お母さん、大好きな人。今はもういない人。

そう、お母さんは死んだ。最近、ずっと疲れていたようだったけど、突然ばたりと倒れて 動かなくなった。あゆはすぐに救急車を呼んだけど、その時にはもう間に合わなかった。 その病院の医師が言うには、脳の血管が破裂したせいだって。とても疲れて、ストレスが 溜まったせいだっていうことも話してた。

お母さんは、自分を育てるために頑張ってるんだといつも話してた。だから、そのせいで 疲れて死んじゃったんじゃないかと思うと余計に悲しかった。ボクがお母さんを死なせて しまったんじゃないかって、訃報とかいうもので駆けつけてくれた人はそうじゃないって 言ってくれたけど……あゆには納得できなかった。

ただ、部屋にとじこもり涙を流して過ごした。それでも部屋の中にいるだけではお腹がす くから、なけなしのお金を握って外に出た。どこをそう歩いたか、全く覚えてない。もう 悲しいということと、お腹が空いたということしか考えられなかった。

ごめんね、ごめんね、お母さん。無理ばっかり言っちゃったから……。

「お母さん、お母さん……お母さん……ひっく」

あゆは、母親のことを思い出して再び涙を流した。既に現代では七年の月日が経っている が、あゆの中ではそれは未だに鮮明な記憶として思い出されることだった。

「ボクがわがまま言って、迷惑ばっかりかけたから……」

涙を流すことすら苦しいのに、胸の嗚咽と共にそれは決して留まってくれない。疲れ果て 再び眠りこけてしまうまであゆはずっと泣き続けた。

この日は、医師は何も聞き出すことができなかった。

4 七年間の空白(1999/2/2 08:30 Tue.)

次の日、あゆは苦痛と脱力感に耐えながら目を覚ました。身体が思い通りに動かないのは 昨日と同じで、それが今の状態を現実だといやでも知らしめた。

腕からは点滴のチューブが装着されており、ぽたりぽたりと水滴は管を伝い、針を通して あゆの身体に必要な栄養素を送り込んでいた。七年間、一日も欠かすことなく続いてきた 生命の補給。目覚めた今でも、喉を満足に動かすことのできないあゆには、お粥の一掬い ですら口にすることはできなかった。

「……目が、覚めたかな」

最初に飛び込んで来たのは、あゆのことを心配そうに覗き込んでいる昨日の医師だった。

「目覚めの方は、どうかな?」

「……良くない」

そう答えるのがあゆには精一杯だった。医師はしかし、その様子に満足したらしい。続いて こんなことを言ってきた。

「まあ、目覚めてすぐだし仕方ないな。とりあえず、今日と明日は色々と検査もしたい ことがあるから良いとして、その次の日くらいから早速リハビリテーションについても 考えなければならないんだ。そのことについては、月宮さんの保護者に連絡してあるか ら心配しなくて良いよ」

保護者……それは月宮あゆにとって両親のことに他ならない。しかし、当の彼らは既に この世にはいない。では、保護者とは一体、誰のことなんだろうか。一所懸命考えたが あゆには結論は導き出せなかった。

「ボク、お母さんも、お父さんもいないよ……」

あゆが掠れた声で抗議すると、医師は問題ないといった調子で言葉を返した。

「ああ、まだ何も説明してなかったね。えっと、それを語るには君が何故、身体一つすら 満足に動かせなくなったかという理由を知らなければならない。月宮さん、君にはそれを 聞く気力がありますか? 嫌なら、後日に回しても良いけど」

医師の提案は、あゆにとって最も願っていたものの一つだった。訳も分からず、ここに 身体一つすら動かせないで、しかも七年間も眠っていたという事情を是非とも聞きたか ったのだ。だから、下手すれば空気しか漏れない喉と唇をあゆは必死で動かした。

「知りたい、です。ボク、どうしてこんな、ことになったの?」

「そうだね。平たく言えば、君は事故に遭ったんだ。大木の上から落ち、頭を強打して 病院に運ばれた。手術をし、一命は取り留めたが、脳にダメージを受けたせいで所謂、 植物状態というやつになってしまった。自発呼吸はできるが脳に負担がかかり過ぎたた めにそのような状況が起きる。こうなると、目覚める確率はかなり低かったりする。し かも、君のように七年以上も経って目覚めるというケースはないわけではないが、非常 に稀なんだよ。

それで、君の保護者の話とも繋がるんだが、君の母方の祖父……大囃平秀さんという方 なのだが、その稀なケースの起きる可能性を望んでいた。保護者というのはその方―― 医療費をずっと出し続けてくれたのもその人なんだが――ということになる。君の両親 は若い頃駆け落ちして、親には一度も会いに行かなかったそうだから顔も名前も知らない だろうけど、君のおじいさんということになるね、その人は」

おじいさん……その言葉に、あゆは全く実感が湧かなかった。小さい頃から、そういう 人物はいない、もうとっくに死んだのだと言い聞かされて来たのだ。それがいきなり、 いるのだと言われたら誰だって驚くだろう。でも、興味はあった。

「その人は……いつ、来るの?」

「ああ、昨日のうちに連絡を入れておいたから今日の午後一時半にここに来ることに なってる。まあ、緊張するかもしれないけど君のことを大事に思ってくれてる人であ ることは確かだと思う。七年間も君のことを守ってきたんだからね」

医師は諭すように言うけど、あゆにはそれは納得できなかった。母方の祖父と言ったら お母さんとお父さんの結婚に反対した人だ。もし、その人が結婚を許してくれたら二人 とも死なずにすんだのかもしれないから。ボクのことを守ってくれたように、どうして お母さんのことを守ってくれなかったのだろうか? あゆは理不尽な思いを胸に抱きな がら、しかしどういう人なのだろうかと思いを巡らせ午前中を過ごした。

5 来訪者(1999/2/2 13:32 Tue.)

一時三十二分、月宮あゆは彼女の『保護者』である大囃平秀と対面した。髪の毛は白髪が 殆どで、前の方は完全に禿げ上がっていた。黒縁眼鏡をかけ、杖を突きながらこちらにむ かってくるその様子は、あゆに小学校の校長を思い出させた。糊付けされたグレイのスー ツを着込み、歩くその姿は少し覚束なかった。びっこを引きながら歩いているから、足を 怪我でもしてるのかなとあゆは思った。

その隣には、茶色のフレームの眼鏡をかけ、薄空色の繕いが多く古ぼけたワンピースを着た 女性が心配そうに付き添っていた。目付きがやや鋭く、鼻が少々高い顔の配置は、あゆに 小学校一年生の教師を連想させた。もう少し若かったけど、いつも厳しそうに授業を行い 或いは子供を叱ったりする姿を見て、内心恐いなと思ったことがある。もっとも、その教師 の厳しそうなのはみかけだけで、本当は滅多に怒ったりしないと分かったのはそれから少し 経ってからだった。

とにかく、二人が二人とも教師を連想させたから、あゆは二人とも先生をやってるのかな と考えてしまった。それで、口調や表情の方も自然と強張ってしまう。大囃平秀は用意さ れていた椅子に腰掛け、相変わらずもう一人の女性は側にぴたりとより添っていた。椅子 はもう一つあるのだから座れば良いのにと言おうとしたけど、その前に相手が話を始めた。

「こんにちは、いや、初めましてというべきかな?」

「ええ……初めまして」

頭を軽く下げようと思ったが、首の筋肉すら満足に動かせないほど弱っているみたい だった。改めて、この身体が不便と思いながら、あゆは次の言葉を待った。

「もう、お医者さんの方から聞いてるかな?」平秀は相好を崩すと、厳格そうな教師 の面構えを外して僅かに微笑んでみせた。「私が……君にとっては祖父にあたるのだ が、大囃平秀という。月宮あゆ……ちゃんと読んで良いかな」

「あ、うん。ボク、お母さんにもそう呼ばれてたから」

「そうか……」

あゆがそう言うと、平秀はその顔を小さく覗き見た。17歳というにはあまりにも幼く、 やつれた身体を改めて眺め、彼は大きく溜息をついた。可哀想に……本当ならば この時分は友達と遊んで、恋の一つでもして一番楽しい頃じゃないか。それなのに、 目の前の彼女は……あゆが平秀にとっては孫にあたることもあるだろうが、その頃の 青春が光に満ちていたことを考えるとやるせない思いが胸を満たすのだった。

志あり、未来が保証されている明るき生命……それが突如の暴力や事故によって奪われて しまうことのなんと悲しいことだろう。平秀自身、その経験があるので気持ちを全て分か ったとまでは言えなかったが、その一端を鑑みることくらいはできた。

「辛かっただろうな。でも、こうして時間は経ってしまったが、生きているということ だけでも喜ばないといけないよ。今がどんなに辛くても、死んでしまうことに比べたら 軽いものだから。生きていれば、やり直しは利く……」

平秀は、慰めになるかは分からないがそう声をかけた。今は、単なるお節介にしか聞こえ ないかもしれない。自分も、そうだった時期がある。が、あゆは何度も何度も微笑もうと して、やっと分かるくらいの優しい表情を浮かべてみせた。

「うん、そうだね。お母さんは、ボクが立派に生きることを望んでたから、どんなに辛く てもボクは生きないといけないよね。この身体も動くように頑張らなくちゃいけないんだ よね」

あゆは、目の前の相手が口だけでなく本当に自分のことを心配してくれていると分かった ので、少し態度を軟化させた。だが、未だに聞きたいことはいくつかあった。あゆはその 中の一つを、思い切ってぶつけてみることにした。

「えっと、あなたがボクのことを心配してくれているのは分かったし、嬉しいです。でも、 それなら一つ聞きたいことがあります」

「ん、何だね。質問なら、すぐに答えるが……」

「何で……ボクのことは心配してくれたのに、お母さんのことは心配してくれなかった んですか?」

あゆがそう言うと、平秀は強く顔を歪ませた。明らかに急所を突かれた格好だ。

「お母さんとお父さんがちゃんと結婚できていたら、疲れて死んでしまうことなんて なかったのに……」

「それは……」

「いや、良いんだ」

あゆの言葉に、初めて静かに寄り添っていた女性が声を上げる。しかし、平秀はその言葉を 素早く手で制した。

「そうだな。私はあの時、狭量なことをしたと今でも悔やんでるよ。年の離れた末子だった し、小さい頃から少し身体が弱かったから、あいつには苦労せずにすむ結婚相手を探してや ろうと思っていたんだ。それが、ロクに収入もない男を連れてきて結婚したいと言い出した から私も大人気なく反対してしまった。

あいつも、現実を突きつければ目を覚ますと思ったのだが、愛情というのは時に全てを越え るということをその時の私は知らなかった。後悔したよ、どんなことがあっても娘を追い詰 めて家出までさせてしまったんだからな。そう、何があろうとも愛する者の側にいるという ことが一番の幸せだったのに……」

あゆは、俯き歯を食いしばる平秀の姿を見て驚いた。彼は、その目から僅かだが涙を流して いた。それも嘘泣きなどではなく、心底から悲しみ流す涙だった。その様子にあゆは慌てて 声をかけた。

「あ、ごめんなさい。あ、ボク、泣かせるつもりはなくて、その、あの……」

きまずい空気が病室を覆った。付き添いの女性はその姿を見て一瞬、険を強くしたが、次の 瞬間には清潔そうなハンカチを平秀に差し出していた。

「これをお使い下さい、平秀様」

慇懃な口調と共に手渡されたハンカチで涙を拭うと、平秀は誰にも分からない程度の小さな 溜息をついた。その次には、彼の顔は精悍なそれに戻っていた。

「いや、すまん……つい思い出してしまって、大人なのに情けないな」

あゆは、情けないとは決して思わなかった。大人だって悲しいことがあるだろうから、 時々は泣いて良いと思うのだ。それにしても、そんなに涙を流すほど悲しかったのだ ろうか、お母さんが死んだことは……あゆは、今までお母さんのことを助けてくれな かったことを恨んでいた自分が少し情けなく思えた。

「それで、リハビリのことなんだが……あゆちゃんはいつから始めるつもりだい?  勿論、身体の調子とか考えて好きな時からで良いけど」

「ボク、お医者さんが良いと言ってくれたらすぐにでもリハビリを始めるよ。早く元気 になって、また学校にも通いたいから……でもボク、もう高校生なんだよね。小学校四 年までの勉強しかできないけど、どうしよう?」

「そうか、あゆちゃんは頑張り屋だな。そこも、そうお母さんに似てる……」

平秀はあゆの方を一瞬、眩しそうに見たが、次には杖を持ちゆっくりと立ち上がった。

「じゃあ、勉強道具の方も次に早乙女さんの方に持たせることにしよう。私はあまりこう いうことには詳しくないから、良い教材を繕っておいてくれ」

平秀が付き添いの女性に言うと、是といわんばかりに肯いた。そのやり取りから、あゆ は厳しそうな女性が早乙女という苗字だということを見当づけた。

あいも変わらず覚束ない足取りの平秀に、あゆは思わず尋ねた。

「あの、怪我でもしてるんですか? 足が悪いみたいだけど……」

「ああ、これは……通風と糖尿病という病気でな。足がちゃんと動かないんだよ。手の 方は、細かい動きをちゃんとするのだが」

杖を支えていない手を広げたり閉じたりして、その健在をアピールする。あゆには 通風というのがどのような病気か知らなかったが、糖尿病の方は授業で聞いて知っていた。 成人病の一つで、酷くなると手足の動きが鈍くなり、最悪切断しなければならない。 そういう病気だったら、足が満足に動かないことも納得できた。

「じゃあ、私はこれで帰るから。お医者さんの言うことはちゃんと聞いて、それと 決して無理をしてはいけないよ。また、何かあったらいけないからね」

「うん、分かった」

あゆは掠れた声はそのままだが、できるだけ元気に答えた。

6 回想(1999/3/1 14:30 Mon.)

そうして、最初の一ヶ月はあっという間に過ぎた。早く身体を動かしたいというあゆの 思いとは裏腹に、身体は満足にはなかなか動いてくれない。医師の指示に従い、まずは 四肢が上手く使えるように訓練した。親指から指を広げ、小指から閉じ、小指から開き 親指から閉じる。それを繰り返すことによって、繊細な手の動きとそれを支える腕の筋 肉が徐々に鍛えられていく。足の方は複雑な動きは成さないが、それでもグーとパーを 繰り返すことくらいはできる。

あとは食事が自分でできるようにと、まずは水から少しずつ飲む訓練も始めた。最初は 水の一掬いでも喉に通すのが困難で、しかも胃を殆ど働かせていなかったから吐き気や 気持ち悪さを必死に堪えなければならなかった。各関節も筋張ってしまった部分を曲げ 折りして徐々に解していかなければいけなかった。その全てに、激しい苦痛と痛みがと もなう。あゆは何度泣いてしまおうかと思い、そして実際に泣いていた。けど、努力す ればまだ動けるのだから、リハビリを怠ってはならないと自分に言い聞かせた。

その甲斐もあってか、関節は大体なら思い通り動かすことができるようになった。食事 も余程消化が悪いものでなければ、吐いたり腹を下したりすることもなくなった。手足 の指も完全とはいえなくても、開いたり閉じたりすることはできるようになった。あゆ は一ヶ月かかってもこれだけにしかならないことが少し不満だったが医師は笑ってその 経過の順調ぶりをアピールした。

「いや、一ヶ月でこれほど機能が戻るのは凄いよ。何しろ七年間も寝返りの一つすら、 打ってなかったんだから、身体機能は赤子並になってる筈なんだ。柔軟性のある子供 だということもあるし、月宮さんが精一杯頑張ったからここまで良くなった。これ以上 を望むと、今度はリハビリのストレスで身体を悪くしてしまう。焦る気持ちは分かるけ ど、ここは何の禍根も残さないよう、落ち着いて直そう……分かったね」

「うん」とあゆは素直に答えた。医師のいうことは素直に聞くのだと祖父の大囃平秀に 言われているし、一週間に一度ここを尋ねてくる早乙女良子(後であゆは、下の名前が 良子であることを知った)からも、口を酸っぱくして言われてるからだ。あゆはどうも 良子のことが好きになれない。第一に厳しい表情をしてるのと、あまり話をしてくれな いからだ。あゆが頼むと仕方なくといった調子で話をしてくれるが、それもきちんとつ ながるような類のものではなかった。

ただ、勉強を見るのは凄く得意だった。あゆが教えるのが上手いねと尊敬の思いをこめて 言うと、良子は平秀様の息子や娘たちの勉強は私が見てきましたからとやはり堅苦し い口調で答えた。

大囃平秀は、あの時以来、この病院には来ていない。ただ、良子に言付けていつもお菓子 や果物の類を送ってくれた。どうも、足の調子が悪くて屋敷の外に出歩くことさえ辛いら しい。リハビリをしなくて良いのと尋ねると、通風や糖尿病の痛みはリハビリではどうに もできないものだと答えてくれた。

ボクも大変だけど、おじいさんも大変なんだ……あゆがそう返すと良子は少し寂しそうな 表情を見せた。今までずっと無表情だったから、その微妙な変化はあゆにとって意外なで きごとだった。

「ええ、大変痛ましいことです」

と答え、それからあゆのことを強く見据えた。

「ところで月宮様は、平秀様のことをどう思っていらっしゃいますか?」

良子はあゆのことを月宮様と呼ぶことを止めない。いくらあゆが頼んでも、ただインプット された命令を実行するコンピュータのようにそれを正そうとはしなかった。それであゆは 少し顔を歪めたが、やがて質問の意味が分からず何も喋ることができない状態になった。 それを見た良子が、補足を加える。

「いえ……以前、月宮様のお母様のことで平秀様を責めていらしたみたいですので。まだ そのようにお考えになっておられるのかと」

「ううん。今はもう怒ってないよ。でも、納得できないところもあるんだ。どうして、 おじいさんはボクの居場所を簡単に見つけられたのにお母さんのことを助けてくれな かったんだろうって。お母さんが困ってたのは、知ってたんでしょ?」

「僭越ですが、そのことについては一言申し上げたいと思います。平秀様は、月宮様の お母様に毎月、充分な量のお金を振り込んでおいででした。しかし、月宮様のお母様は そのお金に一切、手をつけなかったのです。お母様は生前、手紙を残しておいででした。 既に大囃家を飛び出した私にはこのお金は使えない、だからこれは娘が本当に困った時 に備えて残しておきますと、そう残しておられました」

「そう、だったの?」

知らなかった。

「貰ったお金なら、使ったら良いじゃない。何でお母さんは、一円も使わずにボクの ために取っておいてくれたの?」

「それは……月宮様のお母様が立派な大人だからです」

良子は確信に満ちた、しかし少し寂しげな表情をあゆに向けた。

「まだ月宮様には分からないかもしれません。しかし、親であれ無闇には頼らず 生きていくというのが本当に大人であるということなのです。一つ定めた生き方を 見つければ、誰にも迷惑をかけず誰にも頼らず生きていくというのが、立派な大人 であるということです。そこには男女の区別も、もしかしたら本当は大人と子供の 区別もないのかもしれません。どんなに年を取ってもそれをわきまえない方もいま すし……」

そこで少し苦い顔をしたが、すぐ平静に態度を戻して言葉を続ける。

「子供であろうと、既に生き方を決めて自立闊達と道を進んでいる人間もいます。 そういう人間はどんなに苦境に立とうとも、他者の立場に甘えて援助を受けること を心良しとはしません。しかし、苦しいとは思ってはいなかった筈です。それは、 とても幸せな生き方だったのですから。苦労はしたかもしれません、しかし月宮様 が側におられたお母様は幸せであったと、私は信じております」

立派な自立した人間……あゆにはその概念がまだあまり理解できなかった。第一には あゆが実際には10歳の精神状態を保っているということ、第二には自分を犠牲にした 生き方にはやっぱり納得できなかったからだ。けど、お母さんが決して不幸ではなか ったと言ってくれたことはとても嬉しかった。そこは、仏頂面をしているけど、目の 前の女性は自分のことを励まそうとしているのかもしれない……。

あゆは厳しさを伴った女性を別の角度から見、これまでに抱いていた厳しいイメージ 一辺倒の印象を改めた。

「差し出がましいことを口にして申し訳ありません。ただ、分かって頂きたかったの です。その……」

「うん、分かった。おじいさんはボクのお母さんのこと、ずっと助けようとしてくれて たんでしょ。それに厳しい人でも恐い人でもないって知ったから」

「……ありがとうございます」

早乙女良子は、あゆに向けて仰々しくお辞儀をした。

「ところで、早乙女さんはお母さんのことを知ってるの? 勉強を見たことがあるって ことは、そうなんだよね。どのくらい、おじいさんのところで働いてるの?」

「はい。私はもう……40年以上、平秀様の元で働かせて頂いています。私の家もかつて は、少しばかりの財産と会社を持った裕福な家庭でした。しかし、ある事故で……そう あれはとても痛ましい事故だったのです。そのため家族はバラバラとなり、財産は一銭 も手元に残りませんでした。

高校にも通うことのできなかった私を、父の友人だった平秀様が住み込みの家政婦と して雇って下さり、衣食住の保証もして下さったのです。身の回りの仕事が忙しくな ったので、世話をしてくれる人間が必要とおっしゃられていましたが、あの頃は…… 今でこそ幾つもの支店を持つ上場企業の基礎を築かれましたが、当時は会社の業務も 苦しく、従業員の給与を払うことですら窮難されていた時分です。

平秀様の奥様もお優しい方で、当時は酷い失敗も何度も仕出かしましたが、その度に 笑顔で許して頂けました。平秀様と奥様は四人のお子様に恵まれ、その末娘として 生まれたのが月宮様のお母様です。

彼女は小さい頃から、三人の兄より優秀でまた強い心を持った素晴らしい方でした。 私が家庭教師などしなくてもテストではいつも満点でしたし、私のことは奥様と同じ くらいの愛情を持って接して頂いたことを覚えています。平秀様の奥様がなくなられ た時の悲しみようと慈しみようと言ったら、もう今思い出すだけでも胸の張り裂ける ような思いでした。御身体が少し弱いところはありましたが、それ以上の明晰さと 機転と慈愛の心を持っておられました。もし、男子として生まれたのなら平秀様はき っと会社の全権を分け与えたに相違ありません。

平秀様も大層のこと可愛がっておいでで、しかし18年前でしたか……ええ、名前ははっ きりと覚えてます」

そこで、良子は刹那、強い光を瞳の奥に灯らせた。しかし、感情を制御する術に長けて いるためか、その光をあゆは察することができなかった。

「月宮星占という男性が、魚子様と駆け落ちを――これは以前にも平秀様がお話になら れたと思いますが――なされたのです。突然のことでしたから、平秀様も大層驚かれま して、当然のことながら他の息子たちも同様のようでした。

余程、上手く計画を練ったのか二人の消息が分かるのには三年近くもかかりました。それ から半年ほどして、不幸な事故で魚子様の夫が事故で亡くなりました。そのことを新聞で 知られた平秀様は狭量だったと言い酷く悔やんでおられました。それから援助の件につい て話をなされました。御持病の通風と糖尿病が悪化し、また新しい奥様と御再婚される こともありまして、十年前に魚子様の住まれているアパートから少し離れた場所にお屋敷 を建てられました。元々、事業の方からは完全に手を引き、息子たちに事業の権利をお譲 になる予定でしたから。

平秀様は、魚子様とは何度かお会いになられたようです。しかし、お互いの生活を慮って 頻繁に会いに行くということはなされませんでした。私が知っているのは、大体以上のこ とでございます。平秀様も、七年前に娘と新しい奥様を失ってからはめっきり元気をなく してしまわれ……私も支えてはいるのですが、その代わりにはなれず……」

そう言った良子の顔は、本当に悲しそうであった。あゆはこの人が平秀のことを本当に 心配に思い、それ故にずっとその下で働いてきたんだと直感的に理解していた。

「だからあの日、月宮様が眠りから覚められたと聞かれた時には大層喜んでおられまし た。私も久方ぶりに平秀様の嬉しそうな顔を拝見できて……」

そこまで少し興奮気味に喋り、慌てて俯き口を紡いだ。それが何故か、あゆにはよく 分からなかった。良子はちらと時計を見て、ゆっくり立ち上がると着古した下着の入った 袋を持ち頭を下げた。

「それでは、もう時間がかなり過ぎましたので、私はこれで。色々と差し出がましい 話をしてしまい、申し訳ありません」

「ううん、そんなことないよ。ボク、お母さんのこととかお父さんのことが聞けて凄く 嬉しいんだ。また、お見舞いに来てくれた時に話してくれると嬉しいな」

「そうですか……では、詰まらないかもしれませんが、次に来た時にでもまたお母様 のことをお話して差し上げます」

「うんっ、約束だよ」

そう言って、あゆは左手の小指を差し出した。良子は一瞬、何の意味か分からなかった が、すぐに少し皺のいった右手の小指を差し出した。その顔は今まで以上に感情が剥き 出しで、あゆは泣き出すのではないのかと思ったほどだ。

「どうしたの? どこか痛いところでもあるの?」

あゆが心配して声をかけると、相手は慌てて首を振った。

「いえ、思い出しただけです。妹のことを……」

それから良子は、誰にも聞こえない声を発した。もし、あゆにそれが聞こえたのなら こう聞こえたことだろう。

『どうして、私だけ生きてるの……』と。

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