−0−

 全ての幸せを手に入れることは不可能でも、最小公倍数の幸せを掴むことは不可能じゃない。けど、そのことに気付かず、自分を不幸と思っている人間がなんて多いのだろう。全ての橋を渡らなくても全ての島を渡ることはできる。それと同じように、皆が皆の幸せの道を探して歩くことができれば、もっと素直に生きられると思う。下らないことに悩むことなく、どんな小さな幸せだって噛み締めることができるのに。

 それさえも、あたしにはうまくできない。

 

最小公倍数の幸せ
〜happiness is made by your happiness and my happiness〜

 

−1−

 真琴の様子が最近おかしい。ここ数日、祐一の悩みの種はそれだった。いつも祐一がからかうときに見せる不愉快そうな表情とは異なるし、別の女性につい目を奪われていた時に見せる怒りと狂気が入り混じった表情とも異なる。強いて言えば……悲しみに沈んでいる表情というのが近いかもしれない。

 だが、それ故に祐一の困惑は深い。前者の理由なら、拝み倒して肉まんをプレゼントし、最後にキスの一つで機嫌も簡単に直ってしまう。真琴もそのことはよく分かっているから、からかわれても心底嫌だとは思っていないし、仲の良い動物がじゃれあっているような関係は祐一にとっても心地良かった。いつも構っていたい、抱きしめたい、キスをしたい、それからまあ……色々なこと。

 幸せな筈だった。少なくとも祐一には、真琴がまるでさ迷う小動物のような悲愴の表情を浮かべることに何の原因も見出せなかった。家族関係も、秋子や名雪とは元来の家族であったかのように――僅かに歴史の深い自分を差し置いて――馴染んでいるし、働き先の保育所でも軋轢は存在しない筈だ。以前、保育所のイベントで不当に駆り出された時にも、 子供から心底慕われていたし、同僚の保母さんからは今度は娘のように可愛がられていた。その時に見せた充足感に満ちた真琴の表情に、祐一は戸惑ったものだ。自分は置いてけぼりにされているのではないか、とさえ思った。

 片や何の目的もなく親と大学に依る自分、片や独立独歩の術を身に付けた真琴。憂鬱に思うのなら、それは自分の方ではないかとさえ祐一は考えている。だが、生来のマイペースさが良い方向に働いているのか、くよくよと悩むことはなかった。人生の目的なんてそう簡単には得られないと達観している……いや、その振りをしているだけだ。

 とにかく、祐一には真琴の心変わりが気になった。名雪や秋子にはいつも通りの笑みと振る舞いを見せるのに、祐一にだけ接し方を変えてしまう。元々からして気紛れな奴だが、それだけでは結論付けられない何かを帯びていた。その理由が知りたくて、祐一はずっと真琴が二階に上がってくるのを待ち伏せしている。今日こそは……そう、首根っこをひっ捕まえてでも話を聞かなければ気が収まらない。胸のもやもやと、如何とし難い胸の痛みは消えてくれないだろう。話さえ聞ければ……。

 廊下から小さな足音が聞こえてくる。このステップ、足音は多分真琴だろう。そう身構えた祐一の前に現れたのは、案の定、蛙の柄のパジャマを着た真琴だった。

「真琴……」

 祐一は不意に物蔭から姿を現わすと、真琴の前に立ちはだかった。その姿を見た真琴は、急に体を萎縮させてしまう。いつもなら明るい声で何があるのか率直に尋ねてくるのだが、その行動はあからさまな忌諱と回避のそれだった。祐一の心が俄かに曇る。

「どうしたの……祐一」

 目線を逸らせながら、もごもごと口を動かす真琴。まるで出来の悪い悪戯を仕出かしたかのような、しかし決してそんな下らない理由ではない行動。

「あたし、読みたい漫画があるから部屋に戻るの……話があるなら後でね」

 そんな下手な言い訳、聞きたくない。そんな激情が、真琴のパジャマの袖を咄嗟に掴ませていた。それから祐一は訴えるように問いかける。

「真琴、どうして俺を避けてるんだ? 俺が何か悪いことをしたのか? それとも何か他に原因があるのか? それよりも何よりも……」

 しかし、その先の言葉は発せられることはなかった。何故なら、真琴が祐一の手を振り払ったから。予想できない行為に驚く祐一、顔を伏せ小走りに駈け出す真琴。離した手は再び繋がれることなく、絆と共に走り去ってしまう。祐一はそんなことを感じた自分を必死に否定する。が、それよりも気になったのは……僅かに覗いた真琴の瞳から流れ落ちる一滴の涙だった。

「どうして……」

 しかし、その声は誰にも届かなかった。

 祐一自身の心にも。

 

−2−

 結婚したい。

 そうすれば、ずっと一緒にいられる。

 その願いは、叶えられたと思っていた。

 けど……。

 それは不可能。

 そのことを、この前、知った。

 だから、祐一ともずっと一緒にはいられないんだ。

 そう思うだけで悲しい。

 そう考えるだけで苦しい。

 涙が出る。

 こんなに弱い自分が嫌になる。

「嫌だ……」

 真琴は電気も点かぬ部屋で一人呟いた。

「祐一と一緒にいたい。みんなと幸せに……いたい……それだけなのに……」

 

−3−

 あまり目覚めの良くない朝。

 祐一はゆっくり布団から這い出すと、大きく体を伸ばした。時間は八時半……高校の時なら完全に遅刻だが、今日は二限からの授業なので安全ラインを保っている。名雪も充足した睡眠を享受しているからだろう、わざわざ起こすことも少なくなっていた。もっとも、夜の九時に寝て翌朝の朝九時に起きるのだから当たり前なのかもしれないが……。

 祐一は遠慮なく名雪の部屋を素通りし、快適な朝を過ごせていた。着替えを済ませると台所に向かう。用意してあった朝食を温め直し、淹れたての珈琲と共に食卓へと並べる。今日は、家主の秋子も早く職場にでかけていた。勿論、朝早い仕事である真琴は家にはいない。

 真琴……あれからいくらノックしても部屋に入れてはくれなかったし、出てきてもくれなかった。ただ、今日は誰とも会いたい気分じゃないと無碍に祐一を追い返していた。その後、随分名雪とはしゃいでいた癖に……明らかに自分を排斥した行為に怒りを感じながら、祐一は結局、九時を過ぎても起きて来ない名雪を呼びに行った。

「なあ、名雪……」

 相変わらずの寝惚けなまこな従兄妹の少女に、祐一はゆっくりと語りかける。

「うにゅ、たらこが襲って来る……」

 祐一は無言で名雪の頭を殴り付けた。不意の痛みに戸惑いながらも、その原因がこちらにあると分かると、すぐに恨みがましい視線をぶつけてくる。

「うーっ、いきなり殴らないでよ」

 頭を擦りながら抗議する態度は、可愛らしいが同時に滑稽でもある。もっとも、同学年の男子連中に言わせれば「羨ましい」の一言に帰着されてしまうのだが。

「俺はちゃんと尋ねた。お前が寝惚けて何も言わなかっただけだ」

 名雪は未だに怪しげなものを見るような目でこちらを眺めていたが、やがて溜息一つと共に一丁前の揶揄を返してみせた。

「まあ、祐一だからしょうがないよね」

 そして、苺ジャムを少し冷えたトーストの上に塗って食べ始める。この辺りの関係は、二年半の生活で徐々に培われてきたものだ。親友の美坂香里の影響を受けたということが大きいかもしれない。ともあれ、祐一と名雪の関係は既に平穏な家族のそれと変わりはない。何でも遠慮することなく言い合える関係。だから、この時も祐一は率直に問うことができた。

「ところでだな最近、真琴に変わったところはないか?」

 そう尋ねると、名雪は大袈裟に首を傾げてみせる。

「別に……でも、祐一のことは何か避けてる感じだよね。また、大人気ないことでもしたの? 全く、祐一はいつまで経っても子供なんだから。いつもそうやってふざけてると、本当に呆れられちゃうかもしれないよ」

 軽い説教を返す名雪にしかし、祐一は二の句を継ぐことができなかった。いつもいつもからかって遊んでいるのは名雪の言う通りだし、もしかしたら本当に嫌われたのかもしれない……そんな考えが珈琲に混ぜたミルクのように、ゆっくりと確実に浸透していった。

 その空気を鈍感な名雪も悟ったのか、次には真面目な顔をしてフォローにまわる。

「もしかして、もっと別の理由? もしかして、その気はないのに襲ったりしたとか? そりゃ、真琴だって口を聞いてくれないかもね……って祐一、何でそんな苦虫を噛み潰したような顔してるの?」

 祐一は直前の思考を撤回した。名雪は空気など全く読んでいない。

「もういい、お前に聞いた俺が馬鹿だった」

 祐一は思わず溜息をつく。というか、そもそも名雪はこんな性格だっただろうか。大学に入って、少し垢抜けたのではないか……そんなことを考えながら、テーブルに頬杖をつく。

「あ、そう言えば……」

 不意に名雪がぽんと手を叩く。その仕草が妙に古典的だったので、祐一はまた下らないことを喋り出すのではと半分警戒の眼差しだった。

「三日前にやってたドラマを見てて、ひどく神妙な顔してたよ」

 三日前のドラマ……興味ないと二階に上がってしまったので、祐一には記憶にないクール間の伏目でよくある単発の二時間ドラマだということは覚えていたが。

「ドラマ? それで、どんな内容だった?」

「うーん……確かね、日本人女性と日本に出稼ぎに来ていたベトナム人の男性の恋物語だったかな。女性の方がベトナム人の男性に助けられて、それから何度もあったりする内に段々と恋に落ちて行くの。でも、男性の方は就労ビザの期限が切れて最後はベトナムに帰っちゃったの。残された女性は結局、迷った末に自分へ好意を寄せてくれていた男性と結婚するの。だから、ちょっと悲しい話なのかな?」

 名雪が噛み砕いてドラマの内容を話す。成程悲しい話だが、そこに真琴を沈ませるようなファクタが存在するのかと言われると祐一には分からない。まして、自分を避ける原因になっているとは思えなかった。

「他には? 何かなかったのか? 例えば、実は俺が凶悪な宇宙人と信じるような漫画を見たとか、ドラマの真犯人とそっくりだったとか」

「……流石に真琴でも、そこまでは思ったりしないと思うよ」

 祐一の奇天烈な想像に、名雪は思わず溜息をついた。

「それより時間は良いの? 今日は確か二限目に授業が入ってるんじゃないの?」

 そう指摘されて、祐一は思わず時計を見た。デッドラインを超えようかという時間に、祐一も質問の続きを脳裏から吹き飛ばして慌ただしく動き始める。

「うわっ、やべえ。でも、名雪も二限は授業があったんじゃないのか?」

「わたし、今日は休講だから。昼休み前に香里と図書館前で落ち合う予定」

 卑怯だ。そんな言葉が思わず口をつきそうになったが、ぐっと堪える。鞄の首根っこを引っ掴むと、祐一は全速力で自転車を漕ぎ始めた。今年の夏は自動車の免許を取ると心に誓いながら。

 

−4−

 自転車を既に満杯となった駐輪場の端に押し込めると、祐一は切らせた息を整える間もなく教室へと駆け込む。普段なら二、三分遅れようが気にしないが、離散数学担当の講師は時間に厳しい上に出欠を厳格に調べるので遅刻が許されない。現に今も、祐一と並んで足の早さを競っている同好の士? が何人か見られる。と、そこを悠然と歩く一人の女性が見えた。

「よっ天野、そんなにゆっくり歩いていて大丈夫なのか?」

 声をかけられた当の本人、天野美汐は抑揚を抑えた声で冷静に答える。

「まだ、一分ほど余裕がありますから」

 極めて理性的な解答に、祐一は急いでいる自分が馬鹿らしくなった。天野に歩調を合わせると、二人は改めて挨拶を交わす。

 一つ違いの祐一と天野が何故同じ講義を受けているかといえば、テスト本番に遅刻して入ってきた講師が祐一にテストを受けさせてくれなかったからだ。授業中、どんなにぐーすか寝ていても動じない講師なのだが……。祐一は従兄妹の少女のせいだとも言えず、クラスメートの「馬鹿だなあ」という言葉に挫けながら再履修の憂き目にあってしまった。

(暇だな……)

 祐一は昨年とあまり変わらない授業を半眠状態で眺めていた。離散数学なんて、祐一の所属している学科では余り使わない。使うとしたらネットワーク系や情報系の学問くらいだろうか……。現在は情報化の世の中ということで、離散量を扱う学問の基礎を学ばされているというわけだ。もっとも、これはシラバスの説明の受け売りなのだが。祐一は昨年の板書の写し(のコピー)から、隣に座って必死でノートを取る天野の方を横目で盗み見る。

 女性人口の低い、今いる教室で比較すると男女比57:1という男性の園――途轍もなく嫌な響きだと祐一は思っている――である学科なので、自然と浮いた存在となっている天野。

 が、そこら辺で教科書を枕にして眠る男性たちよりは余程熱心で、思考もこれ以上ないほど理系向きと言える。冷静で論理的であることを――但し、真琴に関することを除いて――何よりも優先する思考は、祐一の独創的な冗句を圧倒的に跳ね返してしまう。

 まあ、そんなことは今はどうでも良いことだ。祐一は変化のない天野から、再び黒板に目を写す。講師が話しているのは、ネットワーク関係式の原形となった「ケーニヒスベルグの橋」という旧プロイセンの逸話だった。これは去年も聞いたもので、僅かだが興味を持ったことを祐一も覚えている。

 ケーニヒスベルグの町は川によって四つの領域と七つの橋とで構成された土地だったらしい。そこの町民の一人がある日、七つの橋を一度通った場所を交わることなく渡る方法がないかと言い始めた。村人たちは考えつく限りのルートを試したが、誰もそれを成し得ることができなかった。

 その話を聞いたレオンハルト・オイラーという数学者は、七つの橋を一度に渡ることができないことを数学的に証明してしまったのだ。奇数の分岐路が3個以上存在する道を交わらずに渡ることは不可能である、その問題を一般に適用したものは「一筆書きの条件」とか「オイラーグラフ」と呼ばれる。

 何故、これだけを詳しく覚えているかと言うと、真琴が保育園に持ってきた本の中に簡単な一筆書き問題の詰まったものが含まれていたからだ。そこで祐一は、一筆書きのできる条件を真琴に教えてみせた。

 すると、真琴は宝石のように瞳を輝かせて「凄い凄い、祐一天才」と持ち上げてしまった。そんなものだから祐一も後に引けず……結局、真琴の中で「ケーニヒスベルグの橋」の問題は今でも祐一が解決したことになっている。しかし、今更「嘘でした」などとは死んでも言えない。

 真琴……今日、何度目か祐一の頭に現れた愛しい女性。誰にも分からないくらいの軽い溜息を付く。何日しか見ていない筈の笑顔も、今は蜃気楼の如く霞んで見える。

「では、今日はここまでとする」

 終了時間にも厳格な講師が声を上げても、だから祐一の耳には全く届いていなかった。

「……さん、相沢さん」

 遠くから天野の声が聞こえる。それでようやく、祐一は自分が夢想の世界に耽り込んでいたことを悟る。と同時に、妙な気恥ずかしさが湧いてきた。

「あ、ああ……ぼーっとしてた」

 誤魔化す祐一の目を、美汐は不審げに見つめた。そこに何かの感情を読み取ったのだろうか、天野は首を僅かに傾げた。

「相沢さん、何か気掛かりなことでもあるんですか? もしかして、また真琴と喧嘩ですか?」

 思わずたじろぐ祐一。その質問は正に正鵠を得ていたから、祐一は何も答えなかった……いや、天野の洞察力の高さに驚いて答えることができないというのが本当のところだ。沈黙を肯定と取ったのか、天野は言葉を続ける。

「また、真琴のことをひどくからかったんですか? それとも、嫌がる真琴を無理矢理……」

「名雪と同じこと言うなよ……そんなに俺ってスケベ魔人で子供っぽく見えるのか?」

「事実でしょう」

 怜悧な刃物のような一言に、祐一は完全に全身を凍り付かせる。しばしの沈黙のあと、美汐はさも仕方ないなという表情を浮かべてみせた。

「まあ、百歩譲ってそうだったとしてもだ。今回ばかりは原因が分からん。別にからかった訳じゃ無いし、その……そういうことをする時は真琴の了解も得ている」

 つもりだ、と祐一は心の中で付け加えた。その言葉を信用したのかしないのか、無表情な天野からは感じ取れない。続いて重い溜息。

「しょうがないですね。まあ、私も相沢さんが沈んでいるとペースが狂ってしまいます。話くらいは聞いてあげても良いですよ……取りあえず、お腹が空いたので生協で昼食でも食べませんか。代金は、悩みの相談料ということで相沢さん持ちですよね?」

「天野……お前も結構性格変わったな」

 存外にちゃっかりしているなと思いながら、祐一は荷物を片付けて鞄に放り込んだ。天野は微かに笑みを浮かべると、飄々と言ってのけた。

「私、元々こういう性格なんですよ……知りませんでしたか?」

 それは嘘だ、と祐一は思った。

 食堂に辿り着くと、祐一は牛丼、美汐は魚の白身フライ大根ソース和えに御飯、味噌汁の定番コースを注文した。料理を載せたトレイを持ち、二人は光射す窓際の席へと腰かけた。丁度昼時で学食は満杯に近かったが、高校の際に鍛えたサバイバビリティはこれしきのことでは挫けたりはしなかった。

「で、天野は真琴の行動で思い当たる節はないか? 確か一昨日、遊びに行ってたよな、真琴が」

 しかし、祐一の質問とは裏腹に天野はナイフとフォークで上品に切り身を捌いていた。

「……おい天野、聞いてるのか?」

「聞いてますよ。そうですね……」

 天野は一度、名残惜しげに料理を見たが、すぐにゆっくりとナイフとフォークを置いた。

「一昨日、家に来た時は元気に遊び回ってましたよ。ショッピング、映画、ゲームセンタ、ファーストフードショップ……特にこれといって変なところは……」

 デートの時と比べても替わり映えがしない。祐一はそう思いながら、結局のところ役立つ情報は得られそうにないと心の隅で断定していた。しかし、天野は思い出したように口を割る。

「あ、でも一つだけ変なことを言ってましたね」

「変なこと?」

「ええ。帰り際に真琴が訊いてきたんです。『あたしは今、幸せなのかな?』って。私はええと答えたんですが、真琴は納得できない様子で最後にこう呟きました。『でも、あたしには永遠なんてないのよ』って」

 永遠? 何故、真琴はそんなことを言ったのだろうか? いや、それよりも何よりも真琴が今の生活を幸せに思っていないかもしれない……それが祐一にとってはショックだった。もしかして、仮初めの家族に嫌気が指したのだろうか? それとももっと限定的に……祐一自身に嫌気がさしたのだろうか?

「永遠……永遠って何の意味だろう?」

「さあ。永遠の誓いとか、そんな感じのものではないですか?」

 永遠の誓い……しかし、祐一に思い当たる節はなかった。

 

−5−

 一日の講義が全て終わると、バイトも入ってない祐一は珍しく寄り道することなく水瀬家へと戻った。そんなことをする気力もないというのが本当のところだが。結局、名雪と天野に聞いてみたが真琴の変心の原因は分からずじまいだった。

「ああ、どうすりゃいいんだ俺は……」

 倒れ込んだベッドで思わず頭を抱えながら寝返りをうつ祐一。それから、今日印象に残った言葉が頭の中を駆け巡る。「二時間ドラマ」「永遠」「ケーニヒスベルグの橋」……この中に答えがあるのだろうか? まさか昔見たドラマのように、永遠の世界にでも行ってしまうなんて訳じゃないだろうな? そんな馬鹿なことを考えてしまう。が、元々真琴との出会いがファンタジィみたいなものなのだ。祐一には完全に否定することができなかった。

「あ、でもそれだったら皆が真琴のことを忘れて行くよな……」

 確か、ドラマの設定はそうだった筈だ。取りあえず「永遠」という言葉は記憶の引き出しの奥に押し込める。それから、布団の横に積んだ漫画を読んだり音楽を聴いたりして夕御飯までの時間を潰していた。

 そこに、水瀬秋子が唐突なる登場を果たした。いや、祐一が漫画に没頭していたせいで気付かなかっただけなのだが。ふと気配を感じて本を閉じると、笑顔でこちらを覗き込む秋子の姿を見て祐一は思わず驚きの声をあげる。

「おわっ、秋子さんいつの間に?」

「さっきからいましたよ。夕食ができたと何度読んでも降りてこないので心配して見に来たんです」

「あ……すいません」

「別に良いのよ。ところで祐一さん……」

 祐一の態度を軽くいなす秋子だったが、突然神妙な顔付きで尋ねてくる。

「最近、真琴が祐一さんのことを避けてますけど、どうしたんですか? まさか、無理矢理夜這いをかけて……」

「秋子さん、あなたもですか!」

 今日三度目の質問に、流石の祐一も相手が家主であることを忘れて大声で叫んでいた。

「あら、違うのかしら」

「俺だってそんなことはしませんよ。全く……訳が分からなくて困っているのはこっちなんですから。二、三日前から真琴が俺のことを急に避け出したんですから、一方的に」 

 愚痴をこぼしながら、祐一は秋子に事の顛末というものをすっかり説明した。名雪や天野から聞いたことも踏まえて。すると真面目な表情を崩さぬまま、すぐに目を瞑り何かを思案し始めた。

「成程……そういうことね」

 そして、再び目を開いたときには全てが分かったようなすっきりとした様子を見せていた。そして、微笑を浮かべながら祐一に耳打ちをする。

「多分、真琴が祐一さんを避け出したのは……」

 秋子の口から、その理由というものが語られていく。全てを聞き終わったとき、祐一の胸には釈然としない思いとそれ以上の驚きで満ちていた。

「あいつ、そんなことでくよくよ悩んでたんですか?」

 祐一がそう言うと、秋子は小さく首を振った。

「そんなことを言ってはいけませんよ。真琴はもうすぐ大人だけど、実際には二年半の記憶と思い出しか持ってないの。だから、私たちには想像もしない理由で悩んだりすると思うの。真琴を大切に思うなら、その思いを無碍に扱ってはいけません」

 諭すようにいう秋子。確かに……真琴のそういった純粋さは他人には理解が難しいが、本人にとっては大好物の肉まんと同じくらい大事に違いない。

「そうですね。俺、真琴に……あっ、でも真琴には避けられてるんだよなあ。どうしたら……」

 秋子に理由を聞いてすっきりし、腹もばっちし決まったものの、肝心の真琴に避けられてるのではどうしようもない。思案に暮れていると、秋子は悪戯好きの魔女のような笑みでこう答えたのだった。

「あら、それなら良い場所があるじゃないですか。とても良い場所が……ね」

 

−6−

 少し気まずい夕食が終わると、真琴はいつものように一番風呂に入った。少し挙動が不自然だったかもしれないが、毎日のことだし不審には思われなかった筈だ。

 湯船に半分顔を埋めると、泡と共に空気の塊を吐き出す。後ろにくくった髪の毛が僅かに浸かり、ゆらゆらと浮かんでいる。鬱屈とした気分をいくらかでも紛らわせようと行ったことだったが、いい加減息苦しくなって思わず全力で呼吸する。そして息が整ってくると鬱屈とした気分が甦ってくる。その繰り返しだった。

「はあ……」

 真琴の重たい溜息は、立ち込める湯気の中へと拡散される。

「何であたしって、こんなに不器用なんだろう」

 そして、風呂場に独り言を響かせる。

「でも……」

 どんな顔をして会って良いか分からない。話をするだけでも、悲しくて涙が出そうだった。

 その時、脱衣所の方でごそごそと音を立てる何者かが見受けられた。

(秋子さん、かな?)

 それにしては、少しシルエットが大きいような気がする。ということは……その次に思考が移る前に、脱衣所にいた人物は堂々と風呂場に現れていた。前だけをタオルで隠して一矢纏わぬ姿で。

「よう、真琴」

 白々しく挨拶して見せたのは祐一だった。どうして祐一がこんなところにしかも裸で風呂場に第一これは現実なのかどうしよう……途切れのない混乱した思考が真琴の頭脳を掻き乱す。そして、それが極地に達したと同時に、頭が真っ白になった真琴は思いきり声をあげようとした。

 しかし、直前で祐一が真琴の口を塞いでしまう。何度かうーうーと唸るのだが、か弱い女性の膂力では大人の男性である祐一には叶わない。やがて酸欠状態に近くなると、ようやく真琴も観念して声を発するのをやめた。以前ならそれでも喚き散らして追い出していたのだが……もう慣れた。

 真琴は祐一にそっぽを向くと、ぶっきらぼうに尋ねる。

「何よう……一緒に入ろうっていうなら駄目だからね。さっさと出ていってよ」

 冷たい言葉を投げ付けた瞬間、胸がちくりと痛む。本当はこんなこと、言いたい訳じゃないのに。けど、祐一は怒ることなく真面目な顔で尋ねてきた。

「真琴、お前、今、幸せか?」

 幸せ……幸せって何だろうか? 確かに祐一のことは好きだし、名雪も秋子も自分にとても良くしてくれる。子供たちと一緒に遊ぶことも大好きだ。それは真琴にも分かっていた。でも、それは短い、とても短い幸せ。永遠ではない幸せ。

 それを考えるのが辛い。涙が……出てしまう。真琴はそれを隠すために、湯船へと顔を完全に埋めた。涙の跡も祐一には分からない筈だ。でも……喉をしゃくりあげる感覚は抑えられなかった。

「俺は今の生活が凄く幸せだぞ。真琴がいて名雪がいて秋子さんがいて、馬鹿のやれる友人がいて……真琴はそうは思わないのか? 居心地の良い日常は真琴にとって苦痛なのか?」

「そんなことない!」

 真琴は思わず叫んでいた。

「あたしには勿体ないくらい幸せで、毎日が幸せで……でも、それは永遠じゃないから。あたしとじゃ、祐一は永遠の幸せが築けないから……」

 永遠……誓い。

 死が二人を別つまで、共に幸せであることを誓いますか?

 結婚式の神父の言葉。でも、それは叶わない。

 何故なら……自分は日本という場所でいないに等しい存在だから。

「ドラマでやってたの。結婚するには国籍っていうものが必要なんでしょう? 憲法か民法っていうものに書かれてあるって。だから、あたしと祐一は本当は結婚できないんだから、永遠の絆なんて築けないんだから。それに、もしかしたら……また消えちゃうかもしれないから」

 ドラマの中の恋人のように悲しい別れしか残されてないなんて……そんなの悲し過ぎるから。でも、今ある幸せを無理矢理抑え込んでも……やっぱり苦しいだけ。

「祐一も……いつか離れていくの? ドラマの二人みたいに」

 心を振り絞っての問いかけ。

 視界が霞む。

 恐い。

 祐一はどんな思いをくれるの?

 拒絶?

 無視?

 罵倒?

 歪んだ情景に優しい表情が迫る。

 ……淡いくちづけ。

 心地良い思い……。

「馬鹿だな、そんなことで真琴が悩む必要なんてないんだぞ」

 祐一は真琴の髪の毛を愛おしそうな手付きで何度も撫でる。

「人が幸せになるのに、戸籍とか法律なんてのは関係ないんだよ。俺が幸せで、真琴が幸せで……それでいいんだから。幸せってもっとシンプルでいいんじゃないのか? 悩んだり、くよくよしたり、それも時には必要かもしれないけど、根を詰めすぎたらと幸せの方が逃げてくぞ」

「でも、もしかしたら離れ離れになるかもしれないじゃない」

「その時は……」

 真琴の叫びに、祐一は不敵な笑みを浮かべた。

「お前のことを地の果てまでも追いかけて、もう一度この手に掴むさ。俺はドラマの中の主人公と違って往生際が悪いからな」

「本当?」

「ああ、俺は真琴の……伴侶なんだから。それくらいは信じてくれても罰は当たらないだろ」

 祐一の言葉。

 真琴の心のもやもやを、力強い言葉が全て吹き飛ばしてくれた。自分が幸せで祐一が幸せで、欲張れば周りにいる人たちが皆、幸せで……。そう想像するだけで、真琴の心は温かく和んだ。真琴は湯船から僅かに身を乗り出すと、その思いをぶつけるように言った。

「うん、じゃあ信じるから。だから、あたしのこと……ずっと見失わないでね。一緒にいてね、一緒に幸せを感じてね、それから時々肉まんを奢ってね、それから……」

「おい真琴、それはちょっと欲張り過ぎなんじゃないのか?」

 祐一が呆れ顔で文句を言うが、真琴は頑として言い張った。

「いいの。これくらいの幸せ、願ったって罰は当たらないわよぅ」

 それに、祐一だって同じことを思ってるんでしょ?

 真琴は心の中でそう呟いた。

 

−7−

 全ての幸せを手に入れることは不可能でも、最小公倍数の幸せを掴むことは不可能ではない。けど、そのことに気付かず、不幸と思っている人間がなんて多いのだろう。全ての橋を渡らなくても全ての島を渡ることはできる。それと同じように、皆が皆の幸せの道を探して歩くことができれば、もっと素直に生きられる筈。下らないことに悩むことなく、どんな小さな幸せだって噛み締めることができるに違いないのに。

 それさえも、あたしにはうまくできない。

 けど、それでも祐一となら幸せに生きて行くことができると思う。今日のことで、あたしはそれを沢山、沢山確信することができた。幸せな、とても幸せな場所にいるってことを。

END


あとがき

まこぴぃの可愛らしい勘違い――というには少し深刻かもしれませんが、 女たちに手玉に取られる祐一と共に楽しんで頂けたら本望のSSです。

これは――9ヶ月くらい前にものみの丘通信春号に送ったSSだったりします。 こうして改めて見ると真琴の出番が少ないんですが、本当にこれでONLY本に送って、 良かったのかなあ? という内容になってます。

もう、初版が出てかなり日が立っているのでこちらでも公開して見ることにしま した。他の方のSSはかなり前からサイトで公開されていますし。

確か、これを書いた前後『QED〜証明終了〜』の凍れる鉄槌がやってたんですよ ねえ――影響、うけまくりですね。

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