1 大江山の新米天狗
わたしを呼ぶ声がする。
「さあおいで、お前をとって食おうというんじゃないのよ」
優しい声だったと、思う。頭に霧がかかったようでよく思い出せない。そもそも何を言っているのかが分からない。それなのに何故か、優しいということだけは分かった。
「いつも一人で、ろくに餌も取ろうとしない。お腹が空いてるんじゃないの?」
やっぱり何を言ってるのか分からない。それでも優しいと思ったのは……そうだ、いつもわたしに食べ物を持ってきてくれたからだ。
わたしはもうすっかり年老いていた。空を飛ぶことすらろくにできない。犬や狐はもちろんのこと、地を這う蛇すら恐れなければならなかった。若い烏はもうわたしを一顧だにしない。あらゆる恐怖から逃げ、僅かな食べ物を啄み、更に逃げて逃げて。
いつしか何もする気がなくなった。もう逃げるのは疲れた。なんでも良い、どうでも良い。生きていたくなかった。
それなのに得体の知れない、食べ物をくれる何かがわたしを見つけた。抱き抱え、よく分からない別の場所へとわたしを連れて行ったのだ。
「おい、そこのお前!」
わたしを呼ぶ声がする。胃の内に染み込むような威厳と、童女のような甲高さが同居した不思議な声だ。朦朧とする意識を押しのけてなんとか目覚め、目をこすって少しでも視界を明るくしようとした。命尽き果てる寸前だったが、この声に逆らえば死へと向かう僅かな時間に、死よりも恐ろしい目に遭わされると直感したのだ。
そしてわたしの勘は正しかった。声をかけてきたのは暴虐の化身、大江山の頭領にして最も強い力を持つ鬼、伊吹萃香だった。
慌てて立ち上がり、背筋を正そうとした。だがわたしの体はそれすらも叶わないほど弱っていた。艶々とした頬、年老いた鹿のように立派な角、覇気そのものと言えるほどの妖力を持つ彼女とわたしは対極の存在と言って良いだろう。
「酷い顔色をしてるなあ。前に見た時も大概だったが、今は幽霊のほうがましだと思えるほどだ。妖力もほとんど感じられない。存在していられるのが不思議なほどだが……そこまでになって何故、何も食わない?」
萃香の口元には生々しい血の赤が着いており、その手には人間の腕が握られている。既に腐り始めているのか、実にわたし好みの旨そうな匂いを放っていた。
そんなわたしの心を読んだかのように、萃香はこちらへ腕を投げて寄越した。今のわたしでは避けることができず、咄嗟に受け取ってしまい……それが致命的な失敗だった。こんなになるまでずっと我慢してきたのに、欲望のたがが外れてしまったのだ。
腕にかじりつき、その味が口の中を満たしてしまうともう我慢できなかった。山の頭領たる鬼の目の前で、わたしはけだもののように夢中で貪り食う。皮膚の一片、骨の欠片すら残さなかった。死臭の染みついた手を舐め、かじり、その痛みでようやく己のはしたなさに気付いた。
慌てて口の中に指を入れる。吐き出せばなかったことにできると思ったからだ。でもできなかった。あんなに美味しいものを吐くなんてできるはずがない。
そう、浅ましくもわたしはただ勿体なくて吐き出せなかったのだ。代わりに目から涙が零れ出る。ようやく逃げきれると思ったのに全てが台無しになった。
「どうして泣く? あまりにも美味し過ぎて感動しているのか?」
萃香はわたしの気持ちを勘違いしている。わたしは己の浅ましさが厭わしくて泣いているのに。
「こんなのいつでも食べられるさ。山で飼っている、武勇伝も何もない人間の肉なんだから。戦場に出ればもっと美味い肉が食べ放題だ」
かくなる上は別の方法で死ぬしかない。本当なら飢えて死ぬべきだったが、食に対する己の浅ましさを思い知らされて、それでも飢えて死ねるほどわたしは強くない。腕を食わせた萃香は憎いが、しかし幸いでもあった。彼女ならばわたしを容赦なく殺してくれる。
何も考えず萃香に突撃する。そして腕を振りかぶり殴ろうとした。戦い好きの彼女は挑戦者のわたしをいつもの作法で殺してくれるはずだった。でもそんなことにはならなかった。萃香はわたしの拳をやすやすと止めるだけで、死ではなく容赦のない侮蔑をくれた。
「なんとも安いものだ、それっぽっちの肉を食っただけで粋がるとは。お前がかつて見せたあの気概は嘘っぱちだったのか?」
気概とはなんだろう。わたしは気が付いたらここにいた。萃香に関心されるようなことをした覚えはない。
「わたしが萃香様に何を見せたと言うのですか?」
「覚えてないのかい? お前はわたしに鬼にも勝る貪欲さ、恐るべき生き汚さを見せてくれたのだよ。それが気に入ったから見所ありと思い、連れてきたんだ」
わたしが萃香の心に留まるようなことをしたのだろうか。こちらは全く覚えがないというのに。
「わたしの中にあるのは飢えてなくなるべきという気持ちだけです。萃香様はそんなわたしの心を挫いてしまった。だから責任をとって殺してくださいよ!」
飢えたかった。消えたかった。それなのにわたしの腹は満ち、存在への渇望が留まることを知らない。こんな気持ちにさせた萃香が憎かった。責任を取って欲しかった。でも萃香はげらげらと下品な声で嘲笑い、つかんだ拳を強引に振り払った。わたしはバランスを崩して地面に転び、萃香の嘲笑を見上げるという屈辱を味わう羽目となった。
「お前は死ねないし、飢え死にもできない。それどころか誰よりも生き汚く、貪欲な妖怪となるだろう」
萃香はそう言い捨てると踵を返し、立ち去っていく。わたしは苦痛と怒りで歯ぎしりし、地団駄を踏み、そこらの木や草に八つ当たりする。それでも気持ちが収まらなくて、獣のような声を何度も何度もあげた。
萃香と喧嘩……とさえ言えない一方的なやられ方をしてからこれまで近付いても来なかった者たちがやって来て、当番や仕事を押しつけるようになった。彼らの話から察するに、萃香が得体の知れないわたしを懲らしめて正式な仲間にしたと判断したらしかった。
幸いかどうかは分からないが、わたしには与えられた当番や仕事を真っ当にこなすだけの能力と頭があるらしく、すぐにそこそこ使える奴という評判が定着した。雑用は山のように増えていき、逃げ出してもすぐに追っ手がやって来て連れ戻される。なんとも酷い話だった。そしてあの日以来、萃香が声をかけてくることはなかった。姿を見ることはあっても話しかけてくることはなく、わたしとしても気まずくて声をかけられなかった。代わって話しかけてくるようになったのは、鬼とは真反対の存在だった。
「こんにちは、今日も精が出ますわねえ」
彼女は名を八雲紫と言い、ことあるごとに萃香の側をうろつき、甘言を吹き込もうとしているのだという専らの噂だった。そんなことをしようものなら山を追い出されるはずなのだが、萃香は彼女を面白がって側に置き、害することのないよう言い含めてさえいるらしい。萃香と同列で扱われている星熊勇儀はともかく、下に付いている部下の鬼たちはあからさまに嫌悪感を示している。すれ違いざま、塊のくせに生意気だと吐き捨てられるのを見たことがあった。
そんな妖怪に気に入られると山のようにある仕事がより煩雑になる。できれば遠ざけたかったが、彼女はわたしよりもずっと頭が良く、山のような雑用を一気に片付けてくれるから邪険にもできない。だから表向きの愛想を繕うしかなかった。
「どうも……その、何か用ですかね?」
「あら、つれない。雑用係同士、仲良くしましょう」
仲良くしようと言われてもどうすれば良いか分からない。できれば放っておいて欲しかった。必要がないならば一人でいたいのだ。
「そうよね、あなたは嫌われ者と接する必要なんてない。わたしと違ってとても由緒正しい方法で妖となったのだから」
わたしはどこの馬の骨とも知らない輩だ。由緒正しいなんて言われてもまるでぴんと来ない。
「皆と距離を置いていられるのも、あなたのその由緒正しさ故よ。それにあの萃香があなたには目をかけているというのも大きいかしら」
萃香を堂々と呼び捨てにするのも嫌われる理由だ。というよりこの奇妙な妖は山の者たちに嫌われることを楽しんでいる節すらある。
「あなただって同じでしょうに」
「それは違う。萃香はわたしを使い勝手が良いと考えているだけ。ほら、ここって戦闘好きの直情的な輩が多いでしょう? わたしのような裏方がいないと成り立たないの。それを利用して多少は好き勝手やってる自覚もあるけどね」
紫はそう言ったが、萃香は全く気に入らない相手を側に置いたりしないし、無礼を許したりはしない。利害関係以上の繋がりがあるに違いなかったが、聞き出すつもりはなかった。他人の面倒ごとをもうこれ以上は背負いたくない。
「あなたも少しくらい旨い汁を吸っても良いのよ」
その言葉とともに、何もなかった机に酒の注がれた杯が二つ出現する。彼女の能力かどうかは知らないが、虚空から様々な物を取り出すことができるらしい。
「お酒、苦手なわけじゃないんでしょう?」
どこかからちょろまかしてきた酒だと分かってはいたが、それを指摘して風紀を正す情熱は持ち合わせていない。そして紫はわたしがこれまでお酒を拒んできたことを知っていて、ここで飲ませようとしている。
わたしがお酒を避けてきたのは、萃香に植え付けられた食の喜びを更に補強するのではないかと警戒してきたからだ。でもわたしは紫の杯を受けることにした。食を避け、飢え死にまでしようとした理由も、冥い情熱ももはや記憶の彼方である。思い出せないことに拘るくらいならさっぱりと忘れてしまった方が良いし、酒に付き合える方が皆の覚えもめでたくなる。
杯を手に取り、舌を伸ばしてそっと舐める。苦みと刺激がきつく舌を焼くようだったが、すぐに体が心地好く温まり、思考が滑らかになっていく。鬼から妖から人から、誰でも虜になる気持ちが少しだけ分かった気がした。
「まずくてたまらないでしょう? 鬼好みの味だから全てがきついのよね。萃香の瓢箪の酒ならもっと繊細で甘みがあるのだけど、あれを取り寄せたら流石に怒られてしまうわね」
紫の冗談に、心が少しだけ軽くなる。鬼たちには悪く言われているが、わたしには命令されても彼女を厭うことはできそうになかった。
「酒の勢いで一つ失礼なことを訊いて良いですか?」
「お酒とは無礼を働くためにあるものよ」
「では訊きますが紫は何故、皆に嫌われているのですか? 萃香に気安く接するというだけでは理由として薄い気がします。塊、という種族だからですか?」
「まあ、そうね。あなたは塊というものが何か知らないのかしら?」
「聞いたことはありません。成ったばかりで己が何者かさえろくに知らないのですから」
正直に答えると紫はいつもの軽薄そうな表情や態度を少し引っ込め、酒をぐいと一気に飲み干す。どうも彼女の出自には並々ならぬ事情がある様子だった。
「それを説明するには前提が必要になるのだけど……この国には鬼や妖を討ち倒すほどの強い人間が存在するというのはご存じかしら?」
「それは武士や陰陽師といった者たちでしょうか?」
萃香は部下たちを引き連れ、山を下りて人間の住む京を襲うことがある。その大半は抵抗する術を持たず殺されたり誘拐されたりするだけだが、鉄の武器を扱う武士や不思議な術を用いる陰陽師は必死に抵抗してきて、鬼や妖にも被害を与えてくる。そうした輩を萃香はいくらか捕らえており、闘劇と称して定期的に自分の部下と戦わせ、鑑賞して楽しんでいるのだ。
「鬼や妖とて退治されたら人間と同じように死んでしまうけど、実は例外が存在する。ごく稀に退治された妖の残滓が集まり、新しい個体として再構築されることがあるの。名も由来もなく、ただ生きているだけだから普通の妖より劣る存在と見下される。そうした妖の合成体を塊と呼ぶのよ」
紫は着ている服をめくり上げ、肌を晒す。表面上は特に傷も見当たらないが、じっと目を凝らせば醜いひび割れがいくつも走っているのがはっきりと分かる。
「これでも昔よりはずっとましになったのよ。成り立ての頃は水や鏡で自分の姿を映すのもおぞましいと感じるほどだった。萃香に拾われ、庇護されることがなければわたしという存在はばらばらになり、己を保つことはできなくなっていたはず。萃香はあんなにも醜いわたしを見ても恐れることはなく、嫌悪することもなかった。いつも横柄な口をきいてるけど、彼女にはとても感謝しているのよ」
それが本音かどうかは分からないが、わたしと紫が似たような拾われ方をしたのだということは確かだ。わたしも萃香の行いによって命が繋がったわけだし、今ではそのことを少しだけ感謝している。きっと紫も同じ気持ちなのだろう。
「わたしには野望がある、このずたずたの寄せ集めにはあまりにも大きな野望がね。でも萃香だけは裏切れないと思う」
つまり、萃香以外のあらゆるものを裏切るかもしれないということだ。そしてそれを打ち明けたのは、わたしを野望の一部として取り込むつもりだからだ。
「色々話したけど、要はそれを言いたかっただけよ。忙しいところごめんなさいね」
紫はやって来たときと同じ唐突さで姿を消す。
後にはわたしと、名状し難い胸のもやもやだけが残されたのだった。
わたしの仕事は雑務だけだと考えていたから、新たな京攻めが計画されたとき、その一員として動くように言われたのは寝耳に水の話だった。わたしは戦場になんて出たくなかったし、そのことを直々に訴えたのだが取り合ってもらえなかった。それどころか萃香はどうしてもと手を合わせ、わたしに頼み込んできた。
「鬼も妖も戦うこと、奪うことしか考えられないものばかりだ。戦いの中で功名に走らず、後ろで支援してくれる者がいるのはとても助かる。これまでは紫に頼んでいたけど、あいつは敵を作りやすい性格でね」
「塊という種族であることは以前、彼女から聞いていますが、そのことと関係が?」
「それだけじゃないけど主な原因ではあるだろうね。妖は己の純粋さを誇るものが多い。人間との合いの子さえ半妖と呼んで蔑むことがあるくらいだ。繋ぎ合わせの妖なんて穢らわしいとしか考えられないのさ」
わたしには彼らの純粋主義が理解できなかった。そもそも妖がどうして生まれるかさえもろくに分かっていない。似たもの同士が鬼や天狗、河童などと勝手に種族分けして固まっているけれど、出自も由来もばらばらで同一の存在は二つとない。紫だけが特別なわけではないのだ。
「よく理解できないという顔だね」
「そうですね……出自を上手く思い出せないのと関係があるのかもしれません」
「わたしの見立てではそれだけではないね。お前は頭が良いんだよ。だから表面上の出来事を見据えたのち、もっと深く考えることができる。紫と同じタイプであり、わたしには決して真似できない。頭領なんてやってるけどね、わたしは前に出て戦うしか能がないんだよ。それ以外のことは面倒臭くてたまらない」
本当にそうならば彼女に従う妖など誰もいないはずだし、少なくともわたしは面倒見の良い一面を知っている。でも萃香は己が物臭だと信じ切っている。
「お前はわたしがやりたくないことをやってくれる。それだけで価値があるし、妖にありがちな差別意識がないからなお有用だ。鬼だ天狗だ、河童だ塊だと、それだけで見下したり虚仮にしたりというのは馬鹿らしいと思うけど、わたしがそれを口にするわけにはいかないんだよね」
たとえ頭領の発言であれ、社会そのものにもの申せば強い軋轢を生むだろう。嘘は吐かないが言わなくて良いことは口にしないというわけだ。
「強い奴は尊ばれる、弱い奴は蔑まれる。わたしはそういう単純なのが良い。本当は人間だって強い奴なら引き入れたいんだよ。でもあいつらは京と皇に従うしか能がないから強い奴でも殺さなきゃいけない」
「わたしはそれだと蔑まれるほうになりますよ」
「頭の良さもまた力の一つだよ。それに戦う力だってなかなか侮れない。わたしに殴りかかってきたあの拳、決して軽いものじゃなかった」
あんなひょろひょろした出来損ないな一撃を誉められるとは思わなかった。だからわたしはからかうのをやめて欲しいという気持ちを込め、拳を握りしめて無造作に放つ。それは予想を超えて早く萃香の頬に届き、鈍い音を立てた。
慌てて拳をどかし、頭を下げる。こんなことをするつもりではなかった。だが萃香は「畏まる必要なんてない」と言ってわたしの頭を上げさせた。拳の当たった頬が赤く染まっているのも全く気にしていない。
「重くはない、だがとても速い。烏から成ったのだからそうじゃないかと思ってたけど、お前は天狗の素質があるね。戦場から戻ったら稽古を受けると良い」
わたしが天狗だなんて想像もつかなかったし、彼らのように強く速くなる自信なんてまるでなかった。
「まあ、今回は戦力として勘定しないよ。影働きとして頑張っておくれ」
萃香にそう言われたら断ることもできず、わたしは頷くほかなかった。
「面倒を押しつける代わり、何か求めるものがあれば遠慮なく言って欲しい。また人間が食べたいなら殺して持ってきてあげるよ」
「いえ、それは必要ありません」
鬼と妖が住まうこの地は山の幸が豊富で、少し遠出すれば海にも出るから魚や貝も手に入る。食べるものは何も人でなくても良いのだ。そもそも空腹ではないのだが、萃香の期待するような眼差しからして、何もいらないと言って引き下がるとは思えない。そこでわたしは食べ物と別のお願いをすることにした。
「そうですね……よろしければ名前の一つでも付けてもらえないでしょうか?」
生まれたばかりのわたしに名前を付けてくれる妖が誰もおらず、皆がわたしのことをお前やあなたと呼ぶ。わたしはわたしだけの名前が欲しかった。自分で名付けようとも試みたが、どれもしっくりこなかったのだ。
「確かにこれからも用事を頼むのだからお前呼ばわりは不便だな。けど名前ねえ……」
萃香はわたしの顔をじっと見つめ、真剣に考えを巡らせ始める。じっと見られるというのはどうにも落ち着かなかったが、萃香の視線から目を逸らすというのは失礼に取られそうで、黙っている以外に何もできなかった。
「顔を見れば何か浮かぶと思ったが、どうも駄目だ」
萃香は次にわたしの全身をくまなく見回す。胴体、腰、膝から爪先、戻って体を登っていき、肩から腕を伝って指先に行き着いたところでようやく妙案が浮かんだようだった。
「ふむ、良い名を思いついた。文を書くのが上手いから、文でどうだろうか?」
確かに山の物資など管理するためひっきりなしに硯をすり、木簡や竹簡、時には貴重な紙に筆を滑らせているが、文の達者を認められるとは思わなかった。ましてや名前にするだなんて、少し持ち上げ過ぎではないか。でも頼んだのはわたしだし、萃香の嬉しそうな顔を見ていると断ることはできず。かくしてわたしは名無しを脱し、それからは文と名乗るようになった。
萃香の企画した遠征は大成功に終わり、名宝、珍味、貴人としこたま山へ持ち帰ることができた。わたしはといえば戦に巻き込まれることなく、腹を空かせた妖に食べ物を送り、酒が足りないと暴れる鬼に酒を届け、傷を負った妖のために手当てを施しと、それはもう気の休まる暇がなかった。
だというのに戦が終わり、山に帰ってみれば誉め讃えられるのは戦働きばかり。あそこで武士を何人殺した、陰陽師の罠を打ち破ったなど、華々しい活躍だけが持ち上げられ、後詰めは楽できて良いなどと嫌味を言われる始末。痛い痛いと泣き叫ぶのを宥めすかして治療してやったのをけろりと忘れた妖から言われた時にはうっかり堪忍袋の緒が切れかかるほどだった。
なんとか愛想笑いで乗り切り、怒りは天狗道の会得にぶつけることにした。鬼に次ぐ力を持つ種族になるための修行は厳しく、心身ともの消耗を迫られるのは当然のこと、天狗独自の法を理解する必要があり、学びは尽きることがない。これをいつもの雑用に並行する必要があったから恨みを溜め込む暇もなかった。
あっという間に半年が過ぎ、ようやく少しばかりの余裕が出来た頃、珍しい客人が訪ねてきた。萃香と同列であることを唯一許された山の鬼、星熊勇儀だ。彼女は萃香より三回りほども背丈が高く、その剛力たるや雷さえも砕くほどだと言われている。杯を片手に、常に最前線で猛威を振るい、数多の敵を討ち倒しており、その武勇伝が語られない日はないと言っても良いだろう。先の戦においても酒の席でまず語られたのは勇儀の武勲だった。
「今日は一つ頼みたいことがあって来たんだが」
「それは構いませんが、勇儀様ほどのお方がわたしにいかなる用向きで?」
勇儀は顔を真っ赤にし、口から言葉が上手く出てこないようだった。豪放磊落な彼女がそこまで恥ずかしがることなどわたしには想像もできないから、どんなに口ごもっていても話題を促すことはできず、じっと待つしかなく。
すると勇儀はぽつぽつ事情を語り始めた。
「その、実は文を送りたい相手がいる。だが、どうにもわたしの書くものは雅が欠けるらしくてね。指南してもらえるとありがたいんだが」
恋文の類であるとすぐに察しがついた。というのも勇儀は惚れっぽいところがあり、略奪で京に攻め込むたび人間の娘に惚れて連れ帰ってしまうのだ。女型なのに娘ばかりを好きになるのは趣味嗜好であり、わたしからは何も言うことはなく。気になったのは別のことだった。
「手紙を送るということはその相手は連れ去らなかったんですか?」
「いや、もちろん連れ去ったさ。でもいくら言い寄っても首を縦に振らず、雅も理解できないような田舎者など死んでも真っ平御免と言い張ってね。その気位の高さがまたなんとも言えず愛おしいのだが、このままではいつまで経ってもわたしの気持ちを受け入れてはくれないだろう。そこで雅というものを学びたい」
ここで代筆してくれと言わず、学ぶと言うのは実に鬼らしい態度だった。どのような理由があろうと嘘を吐くつもりはないのだ。
「わたしとて雅を解しているわけではありません。人間には詩歌を送り合い、その中でお互いへの気持ちを育むという習慣があると知っているだけです。天狗や河童の奪ってきた書物の中に詩歌を集めた書簡があるかもしれないので、それを基に学ぶよりほかありません。身につけるのに数年とかかるかもしれませんよ」
「それでも構わない。わたしはどうしてもこの想いを届けたいんだ」
わたしは勇儀の申し出を断るほどができるような立場ではない。
かくして日々の雑用、天狗になるための修行に加え、勇儀への詩歌の指南も仕事となった。一日が倍あっても足りないと思えるほどで、寝る以外のことが何もできない日々はいつ途切れることなく続いていった。
それから季節が二つ巡り、秋になるまで多忙を極める生活は続いたが、ようやくそのうちの一つから解放される時がやって来た。勇儀が猛烈な勢いでわたしの所までやって来て、満面の笑みを浮かべたのだ。雅を理解しようとした努力が報われたのだと分かった。
「彼女がようやくわたしの気持ちを受け入れてくれたんだ。ありがとう、これも文が遅くまでわたしに雅というものを教えてくれたお陰だ」
大量の詩歌を読み耽り、恋が絡んだ人心の複雑怪奇さに思い悩まされたが、それもようやく報われたことになる。わたしは面倒がようやく一つ解決され、開放感に満たされたがそれをおくびにも出すことなく、勇儀に祝福の言葉を贈った。
それから三日ほどして再び勇儀の姿を見かけたが、今度は酷く沈み込んでいた。迂闊なことを書いた文でも送ってしまったのではないかと思い、わたしは慌てて勇儀に声をかけた。
「もしかして、あの方との関係が上手くいかなかったのでしょうか?」
「いや、そうではない。想いは見事に成就したよ、だからこそ悲しいんだ」
勇儀の口からは腐りゆく人間の香しい匂いがした。それはわたしがかつて、なんとしてでも遠ざけようとしたものだ。
「彼女は身も心もわたしのものになった」
鬼らしからぬ弱気な笑みに、わたしは心底ぞっとした。勇儀は心の通じ合った相手を食べてしまったのだ。それこそが恋の成就、想いの完成だった。
「恋はいつだって悲しいものだよ。それにしたってこんなにも鬼らしくない態度では皆に笑われてしまう。秋も深まり、収穫物が京に集まる頃だ。近い内に襲撃をかけ、略奪でこの悲嘆を振り払わなければね。恋なんてもう真っ平だ」
鬼らしくないと言ったが、わたしは相手の気持ちを貪るように取り込もうとする勇儀におぞましいほどの強欲を垣間見た。恋なんて真っ平と言ったがいずれまた新しい相手を連れ去り、想いの成就とともにぺろりと平らげてしまうのだ。
わたしはその日から勇儀をできるだけ避けるようになった。万が一にも彼女に恋されるようなことがあれば身の破滅だからだ。
もし勇儀の恋が成就するとしたら、それは体も心も互角の相手に出会った時だけだ。でも、そんな怪物なんて少なくともわたしには思いつかなかったし、きっとそんなものは存在しない。だから勇儀の恋はこれからもずっと、喪い続けるだけのものになるはずだ。
定期的に略奪を繰り返しているのだから平穏には程遠いはずなのだが、わたしに限って言えば最小限の波乱で済んでいた。戦場で遭遇する武士も雑兵ばかりで身につけた天狗の法と速さを駆使すれば簡単に撃退できるものだったし、雑用が主な役目だったから戦場に出ることがそもそも少なかった。裏方軽視の傾向は変わることなく、最初の頃は苛々させられることもあったが、すぐに受け流す術を体得できたし、対処の方法が分かれば気楽とさえ言える状況だった。
戦場を侮ったわけではないが、油断はあったのだろう。税として集められた収穫物を奪いに向かういつもの秋、わたしはこれまでにない危難に立たされた。ただ一人の人間に、散々なまでに追い詰められたのだ。
そいつは食糧を届けようとしたわたしたちの前に突如として立ちはだかった。背丈は勇儀より更に高く、その体躯に見合う大太刀を帯びている。弓矢は持たず、太刀だけというのはこれまでに遭遇した人間の武士と明らかに一線を画しており、戦場だというのに浮かぶ鬼の如き笑みからはただならぬ迫力が感じられた。
「そいつは化け物が口にするには少々贅沢なものだ。置いていってもらおうか」
その口振りから食糧や物資の運び手を狙ったことが見て取れる。その風変わりな装備からも、彼が普通の武士と異なることがはっきり伝わってきた。
申し訳程度に兵は連れていたが、どれも吹けば飛ぶような雑兵である。こいつは実質一人で現れたようなものだ。後方支援に回されたとはいえ、ここにいるのはみな戦慣れした鬼であるから、一斉にかかれば勝機はあったかもしれない。だが人間相手によってたかってなど、鬼の誇りが許さなかっただろう。
わたしが制止したところで無駄だったはずだが、注意を促すことはできた。そうすれば助かった命もあったかもしれない。だが実際にはそうはならなかった。あってはならない地獄絵図が目の前で展開されたのだ。
鬼の一人が棍棒を振り上げ、奇声をあげながら殴りかかる。男はその一撃を臆することなく寸前でかわし、大太刀をぶうんとふるって鬼の頭に叩きつけた。鈍い音が辺りに響き、半ば頭を叩き潰された鬼が無惨に崩れ落ちて地面に倒れる。少々の刀傷、矢傷などものともしない頑健な体を持つ鬼だが、流石に頭を潰されたら死ぬしかない。四肢がぴくぴくと動いているが、もう長くはないだろう。男は太刀を心の臓に突き立てて絶命させ、あろうことか大きな溜息を吐いてみせた。
「名乗りもない、相手の強さも図れない、獣のように攻めかかってくるだけ。大江山の鬼が聞いて呆れる。わたしはこんな小童を手に掛けるためにここまできたわけではない。もっと骨のある奴はおらんのか!」
そう挑発してくる男も名乗りを上げていないし、一騎打ちの作法を守るつもりがないのは明らかである。だが人間に馬鹿にされて、誇り高く戦好きな鬼が黙っていられるわけもなく。律儀に一人ずつ打ちかかり、誰も彼もが頭を潰された。辺りは鬼の血臭で満たされ、わたしは戦場に味方もなくただ一人残されてしまった。
男は血に塗れた太刀を携え、こちらに近付いてくる。鋼鉄のような鬼の頭蓋を存分にぶっ叩いたというのに、歪むこともたわむこともない太刀には何らかの力が秘められているに違いなく。身につけたばかりの天狗の術式、速さをもってしても叶う相手ではないことがひしひしと伝わってくる。
「どうした、お前は打ってこないのか?」
「いやだって、わたしじゃ到底敵いませんよ。今だってもう、逃げたい気持ちで一杯でして。あの、物資はここに置いていくから見逃してくれませんかね?」
ここで逃げたら仲間を置いていった卑怯者と謗られるだろう。でもここで無駄に命を散らしたくはない。戦場の心構えではないと言われそうだが、それでもここで頭を叩き潰されて死ぬなんて真っ平御免だった。
「ふむ、お前は見る目があるね。ここに転がっている奴らよりはできるに違いない。戦えないのは残念だが、できる限り速やかに任務を遂行して帰投するよう言われている。逃げようとするなら止めはしない」
ほっと息をつきかけ、その代わり素早く後退する。まだ距離はあったはずだが危ういと感じたからだ。
わたしの判断が正しいことは後日、あの武士と真っ向勝負した勇儀の武勇談によってはっきりとした。彼はその巨躯から想像できないほどの速さを持ち、一瞬で間を詰めて大太刀を振るってきたというのだ。その技で何人もの鬼を斬り伏せたのち、なんとあの勇儀とほぼ互角に渡り合ってみせたとのことだった。
その武士は勇儀に対し、坂田金時と名乗ったそうだ。資料を調べたところ、これまでに幾度も妖怪退治を成してきた武士団に所属しているとのことだった。
頭領は源頼光。坂田金時を始めとして妖退治に名を成した武士が揃っており、おそらくは山に住む鬼や天狗を退治するため本格的に遣わされたのだろう。今後、京で略奪するとなれば彼らとの戦いは避けられないものとなり、一戦ごとに少なからぬ犠牲が出るだろう。
これまで略奪が容易に叶ったのは人間が弱いからではない。単に本気を出していなかっただけだ。武士だけでなく陰陽師もまた本格的に牙を剥いてくる。
京をこれ以上刺激するのはまずいと萃香に進言する必要があった。数だけでなく質でも劣るようなら、こちらに勝ち目はないからだ。
略奪、思わぬ苦戦、強敵登場への歓喜が一段落した頃合いを図り、わたしは萃香の庵を訪れた。頭領の住処にしては質素だが、そもそも山に住む誰もが人間のような無駄に広い建物には住んでいない。略奪品や貴人は土蜘蛛たちが拵えた堅牢な建物に保管しているくせに、なんともちぐはぐなことだった。
「夜分遅くですが、大丈夫ですか?」
「我ら夜の生き物が、夜分であると臆する必要はない。その声は文だろ? ちょうど話をしたいところだったし、紹介したい奴もいる。入ってきなよ」
言われるまま中に入ると、萃香は畳の上に足を崩して座っており、傍らには大杯が握られている。頬はかなり赤らんでおり、酔うに任せているようだった。台所からは良い匂いが漂ってくるものの、この様では料理など作れるはずもない。
「客に料理を作らせてるんですか?」
そうとしか考えられなかったが、萃香は「あはは」と笑うだけで悪びれる様子もない。まるで料理を作ってもらうのが当たり前とでも考えているようだ。
「なるほど、よほど親しい相手なんですね」
「まあ、親しいと言うべきかな。古巣で暮らしていた時の伴侶なのだから」
大概のことでは驚かない自信はあったが、伴侶という言葉が萃香の口から出てくるとは流石に予想していなかった。
「驚いているね。こんななりで伴侶がいるとは思わなかったと言いたそうだ」
「そりゃまあ。でも、伴侶なのにずっと別々に暮らしていたんですか?」
「ああ……まあ、なんというか」
「力試しがしたいから、人も妖もとにかく集まる場所に行きたい、でしょう?」
背後から声がして振り向くと、お盆を手にした女性が立っていた。勇儀ほどではないが背丈は高く、人の男がこぞって見初めそうなほど器量良しで、萃香と同じような角が生えている。萃香の同類らしいが先程の物言いには萃香を責めるような色が感じられた。
「わたしはね、そんなの嫌だって言ったのよ。だから故郷を離れ、人の京に近付こうとするならば一切の縁を切って欲しいと告げたの」
「それで、縁を切ったんですか?」
ここにいるということはそうに違いないと思ったが、萃香は気まずそうに目を逸らした。
「今はそんなこと、話す必要はない。それよりわたしは今からこの天狗と話し合う必要がある。つまみを置いたら席を外してくれないか?」
「あら、この方にわたしを紹介してくれるのでは?」
謎の女性はわたしと萃香のやり取りをすっかり聞いており、人払いを退けると料理を畳の上に置き、萃香の隣に座る。どうやらここを動くつもりはなく、わたしとの話を一切合切聞き留めるつもりらしい。
「分かった分かった、紹介してやる。こいつは茨木乙姫、かつてのわたしの伴侶だ」
いばらぎのおとひめ。おとひめを乙姫と書くならば彼女は下の妹であり、上の姉が別にいるのだろうか。それとも音の響きが良いから、美しい彼女に乙姫と名付けたのか。どちらにせよ萃香の態度からして、深く掘り下げるのは難しそうだった。
「かつてではありませんよ。わたしと縁を切ることなくこそこそと、夜逃げをするように故郷を後にしたのだから。今でも縁はあるし、だからこそわたしに連絡して来たのでしょう?」
二人の間にはどうやら余人に立ち入ることのできない事情があるらしい。その過程で萃香は実に鬼らしくないことをやらかしたようだ。そして萃香は過去のことだと考えているようだが、乙姫にとっては今も続いていることなのだ。
「じっくり説教をしたいところだけど、今は客人がいるから控えましょう。ときにお名前を聞かせてもらっても良いかしら?」
「おっと、これは不躾でした。わたしは文と名乗る天狗です。文章が上手いということで、萃香様に付けていただいたのですよ」
「へえ、萃香が名付け親になるなんて。故郷では力を試すことばかり考えていたのに、いつの間にか他人の面倒も見られるようになったのね。それに彼女だけでなく、色々な存在がここには集ってきている。萃香の能力か、それとも指導者としての資質か」
「わたしは指導者なんて柄じゃない。きっと能力の賜物に違いないさ。故郷でだって、一切を取り仕切っていたのはお前の姉だったじゃないか」
「姉さんは仕切りたがり屋だからやっていただけ。でも、萃香がいなくなってからは皆も意気消沈してしまい、かつての威勢はなくなってしまった。血気盛んな者たちは山を去り、姉やわたしを始めとして、残った者で細々とやっているから平和ではあるのだけど」
「鬼が平和だなんて世も末……とはいえ、元気でやってるのは何よりか」
「ええ、何よりです。それなのに萃香と来たら突然に文を寄越してきて」
言い方こそ恨みがましいが、乙姫の口振りには萃香への隠しきれない想いが滲んでいる。わたしにだって分かるくらいなのだから萃香に分からないはずもない。
「迷惑をかけるつもりはない。いや、少しはかけるかもしれないが……」そこまで口にしたところで、萃香はわたしの顔をちらと見る。「おっと、折角来てくれたのに置いてけぼりにしてしまった。今日は一体、何の用かな?」
なんとも露骨な話題逸らしだった。乙姫との間柄は気になったが、萃香はいまかなり機嫌が良い。この機を逃すつもりはさらさらなかった。
「実はその、まことに言い難いのですが……萃香様は彼らのことをどうお考えですか?」
「彼らというのは妖殺しの武士団のことかい?」
「ええ、彼らと対決するのは得策ではないと思います。ことを構えることなく、略奪は控え、身を潜めるべきです。それでも彼らがここを見逃すつもりがないなら別の場所に逃れることも選択に入れなければならないと愚考し、こうして参上、具申した次第です」
こちらに勝ち目がないことをなるべく婉曲に伝えようとしたのだが、思いのほか回りくどくなってしまった。果たして意図が通じたのかと危ぶんだのだが、萃香は何も言わずに焼き色のついた木の実をいくつか口にして、それから杯の酒を一気に飲み干す。鬼の基準から見てもかなり乱暴な飲み方であり、これをずっと続けていたなら頬を真っ赤にするほど酔っていても仕方はない。
萃香は大きく息を吐き出し、頬を引き締める。酔いの深さとは裏腹に頭はしっかりとしており、わたしの言いたいことをはっきり理解している様子だった。
「昨日、同じようなことを紫にも言われたよ。もっとも文みたいな柔らかい言い方ではなく、もっと単刀直入で情け容赦がなかった。お山の大将気取りが本気になった人間に勝てるはずもない、だとさ」
なんとも直球だが、萃香は怒るどころか紫のはっきりした態度を面白がっている節があった。だがそれもすぐになりを潜め、赤ら顔を真面目さに彩った。
「わたしはね、負けてやるつもりなどない。妖殺しの英雄たちがいくら集まろうと、それはわたしの掌の上に過ぎないのだから。精鋭どもを悉く討ち倒し、わたしこそが強者であると世に示してやるのさ。鬼はみなわたしと同じ考えだし、戦いたがっている者は多いだろうが、死ぬかもしれない戦なんて真っ平だと思っている奴らがいることも重々承知しているし、ここを捨てて他の土地に逃げたいならば止めるつもりもない」
萃香はわたしの考えることなどとっくに察していたのだ。柄ではないと言ったが、彼女には上に立つ者が持つべき資格がある。戦いを是とし、争うことを好む鬼が持つには些か窮屈な特性なのだろうが、わたしにとってはありがたいことだった。
「なるほど、わたしを再び伴侶にしてくれるわけではないんですね」
乙姫は突如として口を開き、萃香を睨みつける。萃香は慣れない口笛を吹き、再び乙姫から視線を逸らす。嘘は吐かなかったにしても気を持たせるようなことは口にしたのかもしれない。
「戦を嫌って逃げ出す妖たちの受け皿として故郷を差しだすつもりなのですね。そんな都合の良い話が通ると思いますか?」
「通して欲しい。そのためならわたしは何でもする」
「それならば約束してください。わたしに何も伝えず姿を消したりしないでください」
「分かった、約束する。姿を消すときは書き置きでも残すことにしよう」
「もう一つ、わたしをここに置いてください」
「それは駄目だ、ここにいたら死ぬかもしれない。それではお前の姉に申し訳がたたない」
「でしたら問題ありません。姉には好きなようにやれと言われましたから。この想いが届かないようならわたしが存在する意味はありません」
あまりの情熱に流石の萃香もたじろがざるを得ないようだった。そしてわたしは今更ながら、乙姫が萃香の伴侶であることにすっかり納得してしまった。萃香のことを完全に把握しており、どう話せば意見や気持ちを通せるのか知っているのだ。
「それとも他に好きな人ができましたか? わたしの他に誰か抱いたのですか?」
「ああ、英雄も美姫も数え切れないほどね。でも、お前ほどではなかった」
萃香の目はまっすぐ乙姫に向けられており、もはやわたしなど微塵も眼中に入っていない。これはどう考えてもわたしがお邪魔虫である。わたしの意見が萃香に理解されており、対策が打たれていると分かったいま、ここにいる理由もない。
わたしは素早く席を立ち、萃香の庵を後にする。二人はしばし情熱的な行為に耽るのだろう。勇儀のため人の詩歌を読み漁り、恋のなんたるかを学んだわたしにはこれから何が起きるのかはっきり分かっている。
鬼は情熱という点で人間に近い。天狗にだって色恋沙汰はいくらでも転がっている。理解はしているが、感情として心に入ってこない。
わたしにはどうも誰かを恋するという気持ちがぽっかりと抜け落ちているらしい。
それはわたしの出自が不明であり、どうやっても思い出せないことと関係しているのだろうか。別に思い出したいわけではないが、自分の中に欠けたものがあるかもしれないというのはどうも落ち着かない。
「抱いて、肌を重ねてみれば分かるのだろうか」
口にしてすぐ、馬鹿なことだと思った。それに裸の相手を弄ぶだなんて、なんだかとてもおぞましいことのように感じられてならない。だから愚にもつかない思いつきをすぐに押し殺し、心の奥底に埋めた。