フライング・ヒューマノイドの休日 (sample)

 結界を抜けるとそこは京都だった。

 正確には写真の中の京都と言うべきだろうか。守矢神社で観光案内を読んでいなければ、あまりにも代わり映えした光景に慌てふためいたかもしれない。早苗には一時宇宙人と間違えられ、えらく付き纏われて難儀したけれど、そのお陰でこの京都を含め、今は日本と呼ばれている島国の現状を知ることができた。人間万事塞翁が馬とは良く言ったものである。

「鵺だけどね」

 わたしは独りごち、次いで辺りを見回す。先ず向かうのは京都駅だ。そこから名古屋行きの電車に乗り、別の電車に乗り換えて長野まで、更に乗り換えて佐渡行きの船が出ている直江津という港町まで。空を飛べば一直線なのだが、現代日本は未確認飛行物体にとても厳しいらしい。良くて撃墜、然るべき機関に嗅ぎつけられでもしたら生体解剖もあり得るという。妖怪を生きたまま解体するなんてとても信じられないが、よく考えればわたしがいたかつての京都でも似たようなことはあった。然るに人間の残虐性というものは今も昔もさして変わらないのだろう。聖は博麗の巫女と対峙したとき『人間は寺にいた頃から何も変わっていないな』と言っていたが、どうやら正しいらしい。おまけにこの街と来たらやたら臭いわ、霊的に乱れきっているわでどうしようもない。

「というかこれ、やばいよなあ」歪みはまだ僅かだが、何れは魑魅魍魎がわらわらと沸きだして来るに違いない。「昔も臭いは酷かったけど霊的には安定してたんだけどな」

 人間は不思議を駆逐し、幻想や信仰を隅に追いやってきたとは早苗の言だが、覚えていなければならないことまで忘れているようだ。もっともわたしに指摘する義務などない。何故ならば人を救うよりも重大な目的があるからだ。

「そのためには素通り勘弁ってことで」わたしはこじんまりとした何もない神社から広場に出る。京都駅に向かうためのバスが出ている道を探す必要がある。案内はないかと辺りを見渡せば池の近くにそれらしきものがある。近付いてみると目的のものではないが、にわかに興味深いことが書かれていた。「鵺池伝説……わたしが祀られている場所か。生きているのに祭神扱いってのも変な話だけど守矢の神様たちの例もあるし。案外そんなものなのかな」

 案内板を見ると源頼政が鵺を撃ち落とした際に鏃を洗ったとされる場所らしい。

「正しく伝わっちゃないね、まあ当然か」事態を把握しているものがいたらそれこそ問題だ。そつのないあいつのことだから上手くやったということだろう。「それにしても……当然かもしれないけどわたしの知ってる建物は何もないなあ」

 昔はお偉い方の屋敷がいくつも建っていたのだが、いま目の前にあるのは雷様でも呼ぶかのように高い塔のそびえる真四角の高層建物だ。辺りを見回しても当時の面影はまるでない。めまぐるしく窮屈で、目の回りそうな街になってしまったようだ。

「道に出て誰かに聞かないといけないな……羽根は隠せてるよね」

 そのことを確認してから広場に面した道を注意深く見ていると、わたしに似た色と背丈の少女が二人、けらけらと笑いながら歩いてくるのが見えた。背丈はまるで違うけど同じ仕立ての服を着ており、ははあこれが制服というやつなのだなと見当をつける。日本では同い年の子供を集めて勉強をさせる学校なる施設があるらしいが、彼女たちも近くの学校に通っているに違いなかった。

「あの、すいません。京都駅にはどうやって行けば良いのかな?」

「京都駅? そんなら近くにバス亭あるから案内してあげるわ」二人の少女はわたしの全身をじろじろと眺め回す。「面白い服きとるなあ、でもよう似合っとる」

「東京から来たん? そういう感じするけど」

「うーんとまあ、そんな感じ」

 曖昧に誤魔化すと二人は顔を見合わせてきゃいきゃいはしゃぐ。

「やっぱなあ」「訛りないもんなあ」二人はわたしを挟んで左右につく。まるで天狗に捕らえられた河童といった風情だ。「観光で来たん? 今日は平日やけど」「もしかしてモデルさんとか? ええ顔しとるもんなあ」

 モデルというのがどういうものなのか分からないけれど、他に答えようもなく。わたしは正体不明の笑顔を振りまくことしかできなかった。

「おっと、あんま詮索したらいかんね」「そうやね、ときに京都は詳しいん? 初めてやったら色々案内したるけど」

「えっと、まあ大体回り終えまして。もうすぐ京都を離れるんです」

「そっかー、ならしょうがないなー」「残念やわあ」

 そんな調子でわたしは二人から姦しく質問を浴びせられた。人間の女が二人以上集まったときの五月蠅さもまた、今昔変わりないらしい。やれやれだが助かることに変わりはない。

 少し困ったのはメールアドレスを交換しようと言われた時だ。そんなもの持っていないから曖昧に首を横に振ると、携帯を持ってないなんて今どき珍しいね可愛い可愛いと頭を撫でられた。かつてこの街を恐怖のどん底に陥れたわたしを子供扱いするなど本来なら許されることではないのだが、親切を仇で返すのは妖の道義にさえ劣る。ここは寛容に微笑み、非礼は見逃すことにした。

「じゃあねー」「雑誌に載ってるの見つけたら買うからー」

 わたしはバスに乗り、手を振り、遠ざかる二人を見送る。それからもう一度鞄を探り、お金を取り出す。早苗が路銀にと授けてくれたものだ。といっても見返りなしというわけではない。ここに記した本を全て買ってきて欲しいと言われて、長いリストを渡されたのだ。幻想郷に来たため読めなくなったシリーズものの漫画や小説ということらしいが、かつては身分の高い武士や貴族、金回りの良いと僧職の嗜みであったから、庶民が気軽に何十冊も本を買えるというのは驚きでもあり羨ましくもあった。

 それに現代の本は面白い。特に絵が中心で話の進む漫画は当時の絵巻を思い出させるものがあり、神社にあったものは粗方読んでしまったから新しい漫画を手に入れる喜びはあった。逆に文字だけの本はあまり好きじゃなくて、できれば手持ちのお金でもっと漫画を買いたいのだけど、早苗を怒らせると後が恐いから我慢する。あいつは最近、妖力スポイラーという妖怪から力を吸い取る術を身につけたため、ますます手が付けられなくなっているのだ。

「まあ面倒が避けられるだけでも良しとするか」わたしの能力なら無賃乗車も可能だとは思うのだが力はできるだけ温存したかった。外の世界では幻想郷と違って思う存分の力が揮えないからだ。幻想なき地において妖怪は蚊蜻蛉と同じ扱いとなる。正体不明に対する恐怖は未だ根強いためかある程度の力は使えるようだが、それでも酷く重たい。息をすることさえ少し苦しいくらいだ。こんな世界で今も彼女は過ごしているのだ。守矢のように幻想入りすることなく、おそらくは飄々と。だから蛇を通じて届けた手紙にも反応しないに違いない。こちらは早急の助太刀を求めているのに。恐るべき聖人が復活したいま、同じくらいに力のある妖怪が必要なのだ。だから後で聖に叱られることさえ覚悟で、早苗や神様たちの助力まで得て結界を抜けてきたのだ。幸いにして幻想郷に敷かれた結界は論理構築物であるため、ものごとをあやふやにできるわたしには破り易いものだった。管理者とやらに気付かれたら厄介らしいがそんなヘマは犯さなかったはずだ。

「ここまでやったんだから何としても連れてこなくちゃ」

 佐渡に住む三大狸の一、わたしにとってはかつての友人……藤流団三郎。

 彼女こそ今の幻想郷に必要な妖怪なのだから。

 バスも鉄の箱が動いているという点で十分に驚異だったが、電車と来たらそれすらも凌ぐほどの代物だった。日本のあらゆる場所に金属製のレールが敷かれており、遠く長野の地にも繋がっているとは予め聞いていたけど、京都駅に着いてその様相を目にしたとき、わたしは悔しいことに某然と立ち尽くしてしまった。大量輸送を可能にするための発想とはいえ半ば気違いじみている。人間はわたしの想像の遥かに上をいく生き物になってしまったらしい。早苗の「外の人間は弱いですが、決して手をつけてはなりません。痛い目に遭いますから」という忠告が今更ながら身に染みる。

「これだけのものを生み出しながら、しかし正体不明が恐ろしいというのも分からないなあ。何もかもがはっきりした世界でなお、分からないことはあるんだろうか?」

 神や霊の存在すら自明のものとして扱っていそうだが、どうやらそうではないらしい。背の高い建物が霊的な流れや配置を阻害しているのは賑やかな街中をバスで素通りするだけでも明らかだったし、極め付けは駅の向かい側に建つ塔状の妙な建築物だ。電波塔なるものらしいが、あれは非常に良くない。この街に張られている結界を豪快にぶち破り、なおかつ霊的な存在を引き込むようにできている。あれほどまでに露骨な結界破りなど、昔ならば決して許されなかったはずだ。やはり外の世界は色々と忘れている気がする。

「分かることは別の分からないことを生むということなのかな」

 口にしてもぴんと来ず、また辺りの目が気になってきたので、わたしはそそくさとその場を後にして構内に入る。

 内部もまた想像を超える大きさであり、ごちゃごちゃした案内板や、弾幕のようにぴかぴか光る時刻表、行き交う人々で随分と気忙しい。妖怪の山や人里もごく一部には混雑を来たすことがあるし、祭りともなれば人や物がひしめくのだが、それでもここまで酷くはない。いわば外の人間は常に祭りの中に身を置いているということだ。疲れたりはしないのだろうか。試しに何人かの顔を覗き込んでみたけれど、みんな心なしぐったりとしているようだった。わたしが最初にあった二人組は元気の塊だったけど例外ということなのだろうか。誰もがこの気違いめいた巨大さを保つため死ぬほど働かなければならないのかもしれないのだとしたら、いくら便利だといっても本末転倒だと思うのだけど。

 またぞろ視線を感じたので、切符売り場を探す。四角くてボタンが一杯ついている装置でも買えないことはないらしいが、多分わたしにはややこしくて使いこなせない。だから人のいる窓口を探すべきだ。ごちゃごちゃした案内板を頼りにようやくそれらしいものを見つけたのだが、何度もねっとりとした視線を感じたのが落ち着かない。黒や紺の服を着た、がたいの良い男が多いけど女も何人かいた。共通するのは官憲の臭いがするということ。かつて都で傲慢と規律を振りまいていた検非違使や北面武士の奴ら。もしかすると彼らはわたしが妖怪だということに気付いているのだろうか。あるいは隙間妖怪の差し伸べた式神ということもあり得る。わたしは彼らの動向を窺いながら、いざとなれば逃げられるように四肢を程良く緊張させておく。過度の殺気や気配は出さないよう気をつけ、人里で買い物をするような調子で声をかける。

「すいません、長野まで行きたいんですが」

「片道ですか、それとも往復で?」

「えっと、取り敢えず片道で良いや」帰りが同じ道になるとは限らないという判断だったが、よく無かったらしい。窓口の向こう側にいるおじさんの目が不審者を見るようなものになったからだ。「あの、もしかして子供には売れないのかな?」

「いやうん、そんなことはないんだがね。長野までだとここから名古屋まで新幹線、そこから乗り換えて長野までということになるね。あるいは今ならもう少しすると、長野まで直通の線も出る。どちらにするかい?」

「うーん、できるだけ乗り換えないほうが良いから直通のやつで」わたしは鞄から財布を取り出して一万円札を置く。これを一枚出せば足りると早苗に言われていたからだ。「一枚お願いします」

「大人料金で良いんだよね」少し迷ってから小さく頷くと、窓口のおじちゃんはわたしをじろじろ見回し、それから申し訳なさそうに訊ねてくる。「その鞄の中には多分、身分を証明するものが入ってると思うんだが、見せてもらえないかな」

 どうやらわたしはあからさまに疑われているようだ。何が良くなかったか分からないけれど、かといって潔白を証明することはできない。彼が求めるものを提示できないからだ。ここから走って逃げ出そうか、それとも何か気の利いた逃げ道がないか必死で考えていると、突然手にしていた鞄を横から浚われてしまった。振り向くとそこには目映いほどの金髪を揺らす、落ち着いた雰囲気の女性が立っており、わたしににこにこと微笑みかけて来た。まるで旧知の仲のようだが、わたしには別段心当たりはない。いや、どこかで見たことがあるような気がするけど思い出せなかった。ぱっちりとして涼しげな瞳に形の良い口元、鋭さを感じるほどの細い顔立ちであり、ふくよかでないにも拘わらず美人だった。一度でも会っていれば忘れないと思うのだが。それでいて聖に負けないくらい胸もお尻も大きくて、薄紫のタイトなパンツスーツを着ているからとても目立つ。それに鼻をくすぐる香水の甘い匂い。聖が自然でふくよかな美しさなら、目の前の女性は切り詰めた人工的な美とでも言うのだろうか。

「わたしの娘が何かしましたか?」彼女が少しだけ辿々しい日本語を使うと、相手の緊張した顔が一気に緩む。「公共の場所で社会勉強をする、大事なことだと思いました」

「えっと、それははい、十分に分かります。ただその、高価なバッグですし、財布もその、大人のものでしたから」

 なるほど、だから怪しまれたのか。いや、少しでも考えれば分かることだった。どうやら外に出て浮かれていたのと、幻想郷というぬるま湯に浸かりすぎたせいで警戒心が笑えるくらいに鈍っていたらしい。

「いえ、こちらこそすいません。わたしは母親として、考えが足りませんでした」

 母でない女はつまりつまり言葉を紡ぎ、丁寧に頭を下げる。目配せされたのでわたしも調子を合わせると、向こうはもう恐縮するばかりだった。女は財布からもう一枚取り出して、親しげな笑みを浮かべる。わたしでさえどきりとするくらいなのだから人間の男に耐えられるはずがないだろう。

「改めて、大人二枚頂けるかしら。路線は先程娘が言っていたほうで」

 女は二人分の切符を買うと一枚をわたしに渡し、先に改札を潜る。これが早苗の言っていた自動改札装置というやつなのだろう。真似して通り抜けると女はわたしの手を握り、きびきびと歩き出す。先を目指す遠い横顔を見て、わたしはようやく彼女の正体に気付く。博麗神社の宴会を覗いているとき、いつもあの不吉な色合いをした巫女のすぐ側にいる奴だ。名前は確か。

「どうも、封獣ぬえさん。八雲紫です」

 早苗に気をつけるよう言われた相手がいまわたしの目の前にいる。慌てて手を振りほどこうとするも接着剤でくっつけたかのように離れない。まるで継ぎ目がなくなったみたいだ。どうやらわたしは既に女……八雲紫の術中にあるらしかった。

「わたしには別に止める義理もありませんが、一人になって困るのはあなたではなくて? 姿を自由自在に変えられるというなら話は別ですがそれはあなたの本質ではない。其を操るは狐狸の類よ、違うかしら」

 まるでこれからわたしが会おうとしている存在を見透かしているかのような言い振りだった。それに先の流暢な言葉回し。何とも呆れた変貌ぶりだが、それ故に油断ならない存在だとすぐに分かった。そして彼女は境界の番人である。少なくとも早苗はそう考えている。断りなしに領域侵犯したわたしを許すような甘い奴だとも思えない。わたしは繋いでいないほうの手を胸に当てる。戦闘能力は薄いが欺瞞効果の高いスペルをそこに仕込んであるからだ。

「外の世界でスペルは働きませんよ」魂胆をあっさり見抜かれただけでなく、忠告までしてくれる。どれだけ余裕ぶっているのかと怒りが胸の内に込み上げ、繋いだほうの手を強く握る。だが紫は飄々とした表情のままだったし、口元に嫌味な笑みすら浮かべてみせた。「最初に断っておくと、あなたを捕らえに来たのではないの。だから安心して」

「そう言う奴はいつだって誰かを捕まえようとするような奴だよ」少なくともわたしの場合はそうだった。こいつもきっとそうに違いない。「わたし一人で何とかする。だから切符を渡してここから立ち去れ。さもなくば攫われるって騒ぎ立てるから」

 紫はわたしの口元に人差し指を立てる。すると途端に口が開けなくなってしまった。

「上唇と下唇の隙間を閉じたのよ。あなたがいま言ったこと、やらないと約束するならもう一度開けてあげても良いわ」

 むーむーと叫びたくても口の中でこもるだけだ。繋いだ手が外れないのも手と手の隙間を閉じているからに違いない。わたしが意識や認識という段階でこうも手玉に取られるなんて。

「強気な少女の悔しそうな顔って大好きだからもう少し楽しみたいけど残念ね」紫はわたしの手を再び引き始める。「もうすぐ電車が発車してしまうわ、急がないと」

 軽やかに駆けているというのに、紫の胸はちっとも揺れない。不自然だとは思ったけれど、いま指摘してみせても意味がないし、どうも紫は本当にわたしを長野行きの電車まで連れて行こうとしているようである。紫は途中で粽と焼売がセットになった弁当を二人前買い込み、目的の発着場に迷いなく向かう。どうやら紫は何度も同じ便に乗ったことがあるらしい。あるいは複雑な時刻表を全て把握しているのだろうか。

「長丁場だからお腹が空くはずよ。おっとそう言えば命蓮寺は肉食禁止でしたっけ?」

 わたしはそっと口を開き、紫の能力が既に解除されたことを確認する。

「いや、まあそういうことではあるけれど、わたしの場合はきちんと仏門に入ったわけではなし、そこまで厳格でなくても良いと思うな」

 紫は面白げに頷くと案内板を指差し、電車が停泊している位置へとわたしを誘い、迷うことなく乗り込んで行く。二人分の席を確保して腰を下ろし、改めて中を見回す。バスよりも大きな箱をいくつも繋ぎ、大勢の人間を祭りの山車のように遠くへと運んで行くのだ。

「凄いけど、おかしいな、この電車って」

「そうね……人間は本来、大移動に適した生き物ではない。知性や文明の多くが定住者の手によって生み出されていることからもそれは明らかな事実だわ。外部の移動的な侵略者たちも領土というものを意識した段階で、更なる発展には定住が必要であると悟るの。だけど定住による発展は移動を必然とするほどの拡大をやがて生み出してしまう。足の早い馬でさえ十分な情報伝達ができないほど膨らんでしまえば、如何なる国体も維持できなくなる。そうして、数多の帝国がいわばエントロピーの拡大によって滅んでいったのよ。その点で日本は割と幸せだったと思うのよね。島国であり、外の土地へ過度な野心を求めなかったのだから。戦国時代なんて国と国が相争う時代もあったけど、お隣の易姓革命などに比べたらずっと穏やかだったわ。それに天皇という上位の権力承認機関があり、彼らが宗教や儀礼と密接に繋がって裏で糸を引いてきたわけ。その手回し体質が今は完全に仇となっているのだけどそれはともかく。電車がおかしいというあなたの直観は正しいと言えるわ。電車は集団狂気を発生させる装置なのだから。正確にはだったというのが正しいのかしら。人類は狂気を浴び続けることでそれを日常にしてしまったの」

 紫の長口上が終わり、わたしはそっと震える。人間が既に狂気へどっぷり浸かりこんでいるならば、妖怪やその力など恐れはしないのかもしれないと考えたからだ。だがすぐに、そんなことは信じられないという結論になる。わたしを案内してくれた少女たちの五月蝿さは昔のそれと変わらなかったし、切符売り場のおじさんにしてもわたしを酷く疑いはしたけれど礼や節度にはとても弱かった。だが、紫に拮抗するほどの言葉をわたしは生み出せない。だから黙ってやり過ごすしかなかった。

「沈黙は金なりか。確かに賢明な判断だけどあまり好きじゃないわ。あなたの顔には整理されていない言葉があった。ならば稚拙でも良いからはっきりと口にするべきだったのですよ。それが正しいかどうか、問題点は何なのかなんて後で考えれば良いの。賢しく己を取り繕うものでなければ、言葉には価値がある。其を戒めるにおいて確かに沈黙は金だと言えるけど、発せられるべき言葉を封じて来たこともまた確か。金よりも尊い宝石の原石がそこには含まれているかもしれないのにね」

 紫は片目を瞑ると弁当に手を付ける。

「ほら、早く食べないと冷めてしまいますわ」

「えっと……その前に一つだけ。紫、そう呼んで良いんだよね」

「そう名乗ったのですからご自由に、あなた。名前も名乗らない正体不明さん」

「いや、紫はわたしの名前知ってたじゃん」自己紹介されたとき、わたしの名前を当然のように呼んでいたのに今更白々しい。それとも正体不明なわたしから名前を聞き出すことで、愚弄するつもりなのだろうか。「わたしは紛うことなく封獣ぬえだよ」

「そうね、ぬえ……張子のトラツグミ、それがあなたの名前なのね、了解したわ」

 紫は嬉しそうに箸を動かす。その理由は美味しい食べ物を目の前にしたからだけではないらしい。

「名乗るということは相手に委ねること、名乗られるというのは自分を委ねるということよ。こと妖怪同士の対面において重要なことなの、分かるかしら?」

 わたしは小さく首を横に振る。

「でしょうね。当面は名乗った相手にだけ、あなたはあなたになるのだということを頭の隅に置いておけば良いわ」

 ふむん。心の中で頷くと同時、くぐもった声が電車の出発を知らせる。わたしはスカートをつかみ、発進に備える。紫に引きずり込まれ、そこからすぐ妙な話になったから忘れていたけどわたしはレールに繋がれただけの高速移動装置に乗っている。

「レールの外れてる箇所とかないよね?」

「敷設されて間もなくの頃は貴重な金属の塊ですから盗まれることもあったそうだけど、今はないでしょうね。この国は裕福だから」

 紫は焼売を箸で半分に切って頬張る。何だか気が抜けてしまい、わたしは緊張を解いて座席にもたれる。周りに座る人間の数はそれなりで、萎びた果物のような老人が多いようだった。

 がたん、と車体が大きく揺れる。こうしてわたしはかつての故郷をろくに見ないまま人間の狂気が成せる技に揺られて後にするのだった。