2000年08月19日(土)

−3−

 夕暮れを背にして一台のバイクが峠を駆けている。赤いヘルメットを被り、颯爽と道を行く女性の顔を垣間見ることができたのなら、彼女が笑みを浮かべていることに気づいたかもしれない。そう、彼女は笑っていた。

 屈辱が長ければ、その得た勝利の味も甘い――正にその通りだ。あの、肉体的殺傷にも勝る精神的殺傷のことなど思い出したくもないが、今は昔。愚痴など、言われた側から逆側の耳へと出してしまえば良いだけだ。事実、大人が偉ぶれば偉ぶるほどそこからは実が消える。目線を自分と同じ場所に下げぬ人間など、畏まったふりをして心の中でべろを出していれば良い。

 しかし、それでも腹は立つ。神尾観鈴について、橘の家が妥協したのはそれが単なる厄介払いに過ぎないからだ。彼らにしてみれば観鈴は辛うじて血縁が通じている程度の、下賎な分家の血を引く娘の子供であり、彼らが誇る橘の血が『穢された』と捉えている。馬鹿げているが、この『穢れ』という思想は特に旧態然とした日本人において未だに落とし難い概念の一つだ。それが観鈴を排斥した。彼らの承諾は、大事な一人息子に然るべき妻を与える時、邪魔になる存在を押し付けただけに過ぎない。無造作に寄ってきた蝿を手で払うような、それだけに純粋で残酷な行為。悪い言い方をすれば、晴子はお零れを預かっただけに過ぎない。

 更には先だって、様々なことを約束させられた。金銭的な取り決め、観鈴の存在を盾にして汚らしい行為をしないという確固とした約束、夜の職業に対する激しい当てこすりと転職の要求。勿論、晴子としては頷くを得ない。しかし、予想されることでもあったので、決して取り乱しはしなかった。晴子も、伊達に十年間を無駄に過ごして来た訳ではない。彼らが忌み嫌うその仕事こそ、彼女に人の裏表を見せつけ、どのような権勢をもいなす力を与えていた。それに、金銭的な理由を疑わせそれを否定することで安堵させることは、寧ろ晴子の計略内にあった。下賎な人間が、人を真っ当に愛することなど、彼らの想像には及ばないのだ。

 こうして、晴子は渋々という表情を作り、彼らの要求に従う旨を書面にした。幾多の愚痴と嫌味を抑え、彼女――神尾晴子は勝利したのだ。

 そう、仮初めの同居関係は今日、終わりを告げた。これからは、いくら周りに損していると思われても良い。決して地に足着いた生き方と思われずとも良い。かけがえのない親娘として生きたい。そのことを決意するまで十余年、しかも冴えない旅芸人という異分子を己が心に招きいれるまで、行動にすら移せなかったのだから愚鈍というより仕方ないのかもしれない。或いは、国崎往人の生き様――常に何かを渇望しつつ何のしがらみにも捉われず、あくまで自由な彼の有り様――に刺激されたか。そう考えると癪にさわるが、今はあの旅芸人に感謝している。

 そう言えば、と晴子は思い返す。正反対の道であったが数日前、晴子は往人を峠を超えた隣町まで送り届けた。身も蓋もない言い方をすれば、炎天下の日差しにばてかけていた彼を、気紛れに猫を拾うような形で救っただけであるが、彼との会話は生温い風と生臭い心をほんの少しだけ通し良くしてくれた。最後の決心を与えてくれた。

 さよならは言わない、そう残して颯爽と去っていくつもりだったが、速度を落として一度だけ往人の顔を見た。その表情は最初こそ迷いはあったが、直ぐに旅人のそれと変わっていった。晴子は職業柄、土地から土地へと移り住む者たちも少なからず見知っている。往人の顔はそれと同一にして、なかなかに険しいものだった。いつも間抜けな仕草や表情ばかり見てきたが、あれこそが本当の彼だと晴子は直感的に悟った。彼の本質は旅人なのだ。何処からかやってきて、何時かは何処かに行ってしまう存在――それが彼なのかもしれない。その考えは晴子を僅かだが、憂鬱とさせた。彼は恐らく、余程強い要因がなければ戻ってこないのだろう。つまりは五千円、投資損ということだ。しかし、晴子の心には一種の清々しさがあった。これだけ負けと分かっている勝負なら、寧ろすっきりする。何にしてもすっきりしたものを一番好むのが、神尾晴子という女性だった。

 緩く滲む陽炎に包まれ、バイクは峠を走り続ける。風呂場で眠りこけ、はっと目覚めた時の湯にも似た絶妙の心地悪さを感じる風が、通り過ぎていく。既に夕刻も過ぎ、幾つかの星が空を彩りつつあった。早く帰らなければ、観鈴が心配しているかもしれない。驚かせてやろうと思って、行き先も告げず『行ってくる』の一言で飛び出したは良いが、まさか三日もかかるとは思っていなかった。もしかしたら、警察に電話されているかも……いや、それはないか。現実に首を振るのは危険なので、晴子は心の中で首を振った。日常茶飯事ではないにしろ、二、三日家を空けることが珍しかったわけではない。それどころか、心配されているかも怪しいものだった。

 自らの至らぬ保護者ぶりを思い返すにつれ、浮かれた心が徐々に冷めていく。果たして、このような自分勝手を観鈴が喜んでくれるのだろうか。いつもテンションの高いまま、思いつくままに接し苦笑させてばかりの自分と、本気で家族になりたいなどと思ってくれるのだろうか。観鈴が信愛すべき者を渇望しているのは知っている。しかし……自分のことを信愛に足る人間だと果たして思ってくれるか心配だった。

 気付くと辺りは何時の間にか見覚えのある光景で占められており、晴子は自然とスロットルを絞り速度を落としていた。うらびれた政治的価値もない町にありがちな、舗装のうち剥がれた道路を進む。いつもの町なのにどこか感慨深く見えるのは、これまでと違うものになるであろう生活のためなのかもしれない。晴子は不安ながらに、顔を引き締める。このままでは観鈴と顔を合わせたとき、どのような態度を取るか分かったものではない。

 エンジンを落とし心を冷ますよう、晴子は夜の帳下りようとする閑静な町並みをバイクを押して歩いた。海が近いせいか、夜風はそれなりに強く、山間を高速で縫っている時よりも心地良い風が晴子の全身を打つ。潮風は折角セットした髪の毛が乱れるからいつもは嫌いだったが、今日だけは有り難かった。

 そして、落ち着かぬままに自宅へと辿り着く。いつも切り替えが早く、さばさばした性格であるはずの晴子にとって、これは思わぬ誤算だった。それでも表向きは笑顔で、テンション高く観鈴に抱きついてみせる自信はあった。そうなれば後は成り行きで何とかいくだろうと自分を励ましながら、晴子は納屋にバイクを納めて玄関をくぐった。

 電気が点いてないところを見ると、既に観鈴は眠ったらしい。晴子はそう思いながら、星と半月の光差し込む廊下を進んでいった。しかし、居間を目にした途端、晴子は言を失った。慌てて電気を点け、その惨状を目で追うも思考が追いつかない。零れた麦茶が畳に染みを作り、トランプや雑誌の無統制に散らばっている様子は、明らかに何らかの暴力が起こったことを示している。晴子はしばし立ち尽くしていたが、そこに微かな歌を聴き、慌ててその方を向いた。声は観鈴の部屋から聞こえて来る。少し掠れた、しかし神秘を感じさせる高音は、晴子の住む町一帯に伝わる童歌を紡いでいた。

――いちばんはやく、この坂。

――のぼったもの勝ち。

――いちばん好きなあの場所、目指して。

 歌は気の遠くなるような調和に満ちていて、綺麗で、何よりも母性に満ち溢れていた。まるで、幼い頃に別れた母の抱擁を思い出すような旋律。晴子はハイネのローレライにある詩のよう、ふらふらと観鈴の部屋に引き寄せられていく。

 そして、晴子は長く思い描いていた理想そのままの姿をそこに見た。整ったベッドで健やかに眠る観鈴、健やかな吐息を楽器に子守唄を歌う母親。観鈴の髪を撫でる女性は窓から寄せる月光に照らされ、銀にも似た黒髪を星のように煌かせていた。白い肌、整った顔立ち、細い唇から流麗ともれる声。何者をも寄せ付けぬ二人だけの空間は、しかし晴子の立てた僅かな衣擦れの音によって終焉を告げた。女性は歌をやめ、現われた来訪者のためにその視線を向けた。いや、違う。ここはうちの家の筈だ、彼女こそ異分子だ。心の中で強がってみるものの、明らかに異分子である自分に、晴子は打ちのめされた。しかし、女性は来客であることを慎ましやかな言葉で示す。

「……おじゃましています」

 その響きは先程の凛としたものと違い、どこか間延びしていた。晴子もマイペイスな人間だが、眼前の女性はその上を行く。ただ、それが本性でないことを晴子は直ぐに見抜いた。己を平板な者に見せようとするには、余りに複雑な瞳の色をしていたからだ。挨拶に返事をせず、ただ観察する晴子を怪訝に思ったのか、女性は頬に手を当て首を傾げた。

「あの、どうかされましたか……えっと……」

 女性は未だに思案しているようだったが、やがて何かの結論に辿り着いたのだろう。ぽんと手を打ち、頭をぺこりと下げた。

「あれは、後で片付けようと思っていたのです」

 あれ? と言われて最初、晴子には事情が飲み込めなかった。しかし直ぐ、居間の惨状を思い出し、圧倒されっぱなしの心がようやく現実に戻ってきた。如何に人畜無害そうな女性であるとはいえ居間の荒れ具合もまた事実であることを思い出し、晴子は俄かに声を荒げる。

「あんたがやったんか? いや、そんなことはどうでもええ。あの娘に、観鈴に何かせえへんかったやろな?」

 もし何かがあったとしたら、どのような人間でさえ晴子は許す気になれなかった。剣幕に押された様子はなかったが、しかし女性は先程にも増して頭を下げた。

「申し訳ありません。私、神尾さんの気持ちを考えずに……だから、あんなことに」

 あんなこと? あんなこととは、どんなことだ? 晴子は思わずかっとなり、女性の胸倉をぐいと掴みあげた。俄かに苦しげな様子を見せたが、観鈴に何かやったのだとしたら自業自得だ。そう思い、眼前にした女性をして晴子は二重の驚きを受けた。先ず第一は、目の前の女性が良く知る人物であるということ。第二に、うっすらとであるが皮膚に引っかかれたであろう赤い傷痕を見たからだ。

「あんた、遠野さんところの娘やんか……ちゅうか、それはどうでもええ。その傷、どないしたんや。誰にやられた?」

 そこまで口にして、晴子はある可能性に思い至る。今まで招き入れることのなかったクラスメイト、居間の惨状、眼前の女性――遠野美凪の顔に穿たれた傷。晴子は美凪に込められた手の力を抜き、観鈴に駆け寄る。思ったとおり、そこには涙と慟哭の名残がしっかりと刻み付けられていた。

 晴子の次の行動は迅速だった。観鈴の健やかなることを確認すると、美凪の手を強引に引っ張り、荒れた居間を通り越し、ダイニングの椅子に彼女を座らせる。思ったとおり、顔の傷は氷山の一角に過ぎなかった。剥き出しの腕や足に幾つもの引っかき傷があり、その幾つかからは未だに血が滲んでいる。更には明らかに噛み傷と思われるものが一つあり、肉が僅かだが千切れて無残な姿を晒していた。その全てが、何かの暴力に耐えたことを一身に示しており、それが観鈴の所為であることも晴子には直ぐ理解できた。

 ただ一つ理解できないもの、それは普通なら苦悶に喘ぐであろうこれらの傷を受けながらも微笑を浮かべ心休まる歌すらも歌ってみせた眼前の少女の心だった。しかし、今は言及している場合でない。晴子は顔の傷を消毒し、軟膏を塗り、清潔なガーゼを当てた。腕や足の引っかき傷も同様に、噛み傷は特に念入りな処置を施す。何度か苦痛を示すことはあっても、美凪は治療を黙って受けた。そして全てが終わるとやはり、たどたどしく頭を下げ礼意を示した。

「ありがとうございます、ここまでして頂いて」

「謝らんでええ。うちの観鈴が迷惑かけたんやろ? せやったら、母親であるうちが落とし前つけるんが筋いうもんや」

 しかし、晴子は本当に大切なことを言わずにいた。それは認めるに癪だったが、しかし確かに認めざるを得ない事実だった。晴子の想像が正しければ、美凪は観鈴に対してこれまで誰もが取ったことのない態度を以って接した。晴子が、観鈴と本当の家族になれたらそうであろうと思っていたことを成したのだ。

 彼女は例の発作を起こしたのだろう。ある一線を越えて仲良くなろうとする人間を拒絶する、観鈴を長年苦しめてきた症状。それを、美凪は受け止めた……本当に癪に触る。だから晴子は、少しばかり八つ当たりした。まるで子供じみて、涙すら出そうになる態度だったが、そうでもしないと自分の居場所がなくなってしまうような気がした。

「話は変わるけどあんた、観鈴のクラスメイトやろ? 確か遠野美凪さん」

 本当は改めて確認するまでもなかった。遠野優美と言えば、死産と夫の失踪が原因で精神を病んだ元童話作家として町で知らぬ者は居ないし、美凪もまた別の意味で有名人だからだ。

「ええ、そうです」

 美凪の顔からは別段、何の表情も見出せなかった。

「観鈴、時々言うとったわ。『綺麗で頭も良くて、クラスの中でただ一人、汚いものを見るような目で自分を見ない人』やて。今日の遠野さん見て、うちもそう思うた。観鈴と本当の意味で、友達になってくれたんは、あんたが初めてやと思う」

 観鈴の美凪に対する評価は確かに当たっていた、それは確かだろう。しかし、晴子には一つだけ納得できないことがあった。

「そうですか……」

 どこか嬉しげな笑みを浮かべた美凪に、しかし晴子は厳しい瞳で詰め寄った。

「だったら、何でもう少しはよ声かけてやらんかったんや、支えてやらんかったんや。観鈴が苦しんどったの、あんたかて知っとったはずなのに。何で今なんや……」

 同じクラスならこれまでにだって幾らでも機会があった筈なのに、何故今日になって。理由を聞かなければ、晴子には納得できなかった。理不尽な非難であると承知していたが、しかしそれでも理由なしに割り込んで欲しくなかったのだ。全く、大人らしくないと思う。何時まで経っても子供で、背だけは伸びたというのに目の前の少女の半分も、自分は大人じゃないのだろう。それでも、晴子には耐えられないことだった。

 美凪はしかし、どこまでも下手だった。理不尽な一撃に動揺しながらも、精一杯の誠意を示し、晴子と対等の位置で言葉を交わす。

「確かに、その通りです。私は神尾さんが孤立無援であることを知っていました。一線を越えて親しくなろうとしたものを、彼女にも制御できない部分で拒絶してしまうことも知っていました。付け加えるならば、貴女が神尾さんに優しくしたいと願っていることも。私は卑怯でした、そのことは何ら否定しません。私はいつでも卑怯でした。辛いことや嫌なことから逃げるばかりで、立ち向かわない駄目な人間でした。貴女がそのことを責めるなら、私は反論しません。神尾さんの友人に相応しくないと言うならば、潔く一線を引きます」

 今までの間延びした口調とは違い、美凪の声は凛としてダイニングの空気を振るわせた。そこには如何なる曲解、虚偽も存在せず、ただ全てが彼女の心だった。晴子は美凪の声に捕らわれじっと耳を傾けていたが、やがて溜息を吐く。彼女には分かってしまった。ここまで自分を素直に曝け出せる人間が、意味もなしに観鈴を放っておくはずがないと。

 晴子は物憂げそうに首を横に振る。そして、彼女のできる精一杯の笑みを浮かべてみせた。最早そこには一片の邪心もない。今の晴子にあるのは、美凪に対する奇妙な連帯感だけだ。

「遠野さん、あんた良え人過ぎや。自分を殺して、他人のことばかり気ぃ遣って」

「そんなことはありません」

 美凪は晴子の言葉を割ときっぱり否定し、それから少し遠い目線になった。それは屋根を隔てて在る空に、視線をはわせているようでもあり、どこか幻想的な雰囲気を彼女に与えているように見えた。

「私はいつでも自分のことばかり考えてます。神尾さんと仲良くしたいと思ったのも……あの、こういうことを言うと夢見がちだと思われるかもしれませんけど……」

 そこで美凪は口ごもり、ちらと晴子を見やる。そして微かな躊躇の後、彼女は意を決してその言葉を紡ぐ。

「彼女が、空に……行ってしまいそうな気がしたんです」

「空に……?」

 観鈴と空。その一つ一つには危うさを感じない。しかし、二つが合わさった時にそれは晴子の中で激しい不安をあおった。そんな彼女を他所に、美凪は遠くを見るような視線を保ちながら呟いた。

「もしも、彼女が空のものなら……彼女は私でもありますから。だから、私は神尾さんと関わらなければならない……仲良くなりたいと思ったんです。だから、貴女のいうような立派なことじゃないんです。私がそうしないといけないと思ったから、そうしたかったから……」

 両手を胸の位置で組み、歌のように述べると、美凪は僅かだが顔を赤らめる。晴子があまりにも唖然とした表情をしていたためだが、彼女自身は気付かなかった。ただ、夢見がちなことを話す少女であることを恥じているのだと思った。

 それにしても、美凪の言うことは突拍子なさ過ぎる。空……空……あの鈍い観鈴が、羽根でも生やして空を自由に舞うなんて想像もできない。だから晴子は美凪の言葉を、単なる比喩と受け取った。危なっかしくて放っておけない観鈴を、それはある意味で的確に示していたからだ。そして心の一部は認めることを頑強に拒んだが、美凪の言葉によって表れた感情を打ち消したいためでもあった。

「せやな」だから、晴子は笑った。普段なら目立たぬほどの八重歯がちらと顔を出すほど、それは模範的な笑顔だった。言い換えれば……商売用の営業スマイル。彼女は心の底から笑ってはいなかった。「観鈴は確かに鳥のようや、油断しとると直ぐにどっか飛んできそうで怖い」

 或いは、鳥を自分の仲間と思っているというべきか……晴子は時折、鳥を追いかけてその度に逃げられては少し悲しい微笑を浮かべていた観鈴を思い出す。やるせない気持ちが満ち、晴子は思わず美凪の手を強く握りしめていた。

「あの……」

 はたして、どのような言葉をかけようかと手を握りしめたまま晴子は考える。暫し瞑目し、そして遂に意を決し口を開く……が、そこにあったのは、嫌な意味で頬を染めている美凪だった。

「その……私……そういうケは……」

 晴子は思わず机に頭をぶつけた。関西人の性か手加減できず、激しい音がダイニングに響く。美凪は顔色を直ぐに引っ込め、それから手を片頬に当て首を傾げた。

「あ、なかなかナイスな衝突音」

 親愛に満ちた空気が台無しだった。びしっと決める予定であったのに……何を勘違いしたのか、目を閉じたのを美凪はそういうポーズに受け取ったらしい。晴子の全身に悪寒が走る。もしかして、観鈴に近寄ったのは空に行きそうだとかそういう曖昧な理由でなく、観鈴の身体ではないのかという疑惑が渦を巻き、一瞬の硬直が生まれる。

 しかし次の瞬間には、霧のように消えた。彼女は立ち上がり、丁寧な仕草で礼をして辞去の態度を示すと、最後に先程のボケを感じさせぬ真剣さで尋ねてくる。

「私は……神尾さんの側にいても良いのでしょうか?」

 思考の切り替えが早過ぎる。スロウテンポであるにも関わらず、美凪は最速にて晴子の心の奥深くまで達していた。それが故意か天然か、晴子には測りかねた。彼女の評判を聞くと故意に思えるがしかし、観鈴に歌いかける優しい仕草を見ると全くの天然にしか思えない。どこか計算していて、どこかでは全く計算していない。どれが彼女の本当の世界か、晴子には正直、測りかねた。しかし、これだけは確信できた。他の何が間違っていようと、断言できる唯一のこと。

 遠野美凪は、良い人間だ。

 だから、晴子は二つ返事というには遅いが即答というには足る速さで答えた。

「ああ、良えで。いくらでも側にいてやり。それとな、神尾さんでは紛らわしくてあかん。あの娘のことは名前で呼んでやり。うちのことも晴子で良えから」

 いつかどこかで言ったことがあるなと微妙な既視感をおぼえながら、晴子は美凪の反応を見た。彼女はよく観察していなければ分からないくらいの薄い笑みを浮かべ、そしてどこまでも礼儀正しかった。

「ありがとう、ございます……晴子さん」

 彼女は最後に微かな風と香りと、そして一陣の心地良さを残しながら颯爽と去っていった……と思ったのだが、直ぐに困った顔をして戻ってきた。

「あの、居間の掃除を忘れて……」

 晴子は美凪の律儀さにしかし、邪険をもって返す。浸っていたことを悟られたくなかったからでもあったし、少しは年上らしいところも見せたいと思った。

「構わへん。うちが掃除しとくから遠野さんは帰って良えって。もう時間が時間やし」ダイニングの掛け時計は九時五分前を示していた。確認して、晴子は言葉を続ける。「子供はこういうとき、大人に遠慮せんもんや」

 それでも美凪は秒針が半周するほど考えたが、結局は晴子の提案をのんだ。もう何度目か分からぬ丁寧な仕草で礼をして、彼女は今度こそ本当に帰路へと着いたようだった。晴子はふうと息を吐き、それから腕をまくる。零れたのは麦茶なのか僅かに香ばしい匂いはするが、多少の染みになる程度で問題はなかった。ばらばらになったトランプを片付け、これで終わり。何ともあっけない。突如として浮かぶ虚無感を紛らわそうとして、先ず晴子の中に浮かんできたのは酒だった。しかし、直ぐにその考えを打ち払い、観鈴の眠るであろう寝室に向かう。

 酒で何かを紛らわせるなら、それは以前までの自分と同じだ。何も出来ず、苛々して、忘れたくて……仕事のせいもあり、何時の間にか深くなっていたそれを心から打ち払い、晴子は観鈴の姿をその瞼にしっかと灼きつける。これからは酒と焦慮ではなく、観鈴と幸福と共に生きていくのだ。その健やかな眠りを見ていると、晴子の心には新たな誓いと力がわいてくる。

「今日から……うちはこの娘と幸せになるんや。どんな時も抱きしめたれる、懐の深いおかんになるんや」

 その目頭に、そして頬に熱いものを感じながら、晴子は誰にも聞こえぬ過ちと謝意を呟く。

「今まで悪い母親でごめんな、駄目な母親でごめんな、傷つけてばかりでごめんな、側にいてやれんでごめんな……でも、もう何があっても観鈴の側を離れへんから。だから……」

 しかし、その次の言葉はいつまで経っても出てこない。声や心で表すには、それは余りにも深過ぎた。複雑で……あり過ぎたのだ。

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