2000年08月21日(月)

−8−

 満凪には、不満に思うことが三つある。

 一つ目は、母である蔵野那美が嫌いな人参をしつこく出し続けることだ。母は、好き嫌いが多いと大きくなれないと言って諭すのだが、満凪はそれが嘘だと知っている。彼女には取り分け親しいクラスメイトが二人いるのだが、自分より背が高いのに好き嫌いばかりしている。背の高さと好き嫌いに因果関係はない。満凪がそう訴えると今度は「屁理屈ばっかり言って」と意味もなく怒られた。母はセロリを残すし、父は納豆が大嫌いだというのに残しても何も言われない、不公平だ。

 二つ目は、それを除けば非の打ち所ない母と、父の聡が本当は結婚していないことだ。二人とも何も話してくれないし、満凪自身が知らない振りをしているので、ばれていないと安心されているが、勿論のこと思春期も差し迫った十歳の少女には筒抜けだったりする。戸籍謄本を見ると父の名前が乗ってないし、結婚式や結婚前の写真が一枚もない。それだけで、賢い満凪には十分だった。それに、情報は嫌でももれる。子供を連れて歩く他所の親の少しばかり同情的な視線を見れば嫌でも、自分の家がまともな手続きを経ずに成立している家族だということを身に知らされるのだった。

 結婚していれば幸せ……などという幻想を、満凪は信じていない。結婚していても何れ仲が悪くなり、崩壊してしまう家族はごまんとある。事実、同じクラスの男子が一人、両親の離婚で転校していったし、隣の家では夫婦喧嘩の騒々しい音が連夜のように聞こえてくる。それに比べれば、口数は少ないがしっとりとした空気を醸し出す二人は素敵な夫婦だと満凪は思う。未婚であっても堂々としているし、少しばかり事情のある関係であってもその点で満凪は随分と救われてきた。だからこそ友人のように夜遊びもせず、人参も食べる。一つ目の不満に比べれば、多少は小さい。

 三つ目は、クラスメイトの森山薫が苛められてるというのにへらへらしてることだ。あいつも姉が家出して両親とかあたふたしてるんだから気遣ってやれよと満凪は思うのだが、苛める方はそんなのおかまいなしに好き勝手をやる。満凪は過去、友人に頼んで二度ほど奴らに制裁を加えてやった。痛い目に合えば、彼らの行う苛めがどれだけの痛みを強いているのか思い知らせることができると思ったからだ。しかし、彼らは他人の痛みをとことん想像できない連中らしく、しかもより弱い人間(と彼らは思っている)を叩くことで憤懣を晴らしているようだった。そのことを知ってからは満凪も、苛める方に攻撃を加えることはしなくなった。

 次に満凪は、苛められる方に働きかけた。しかし当の本人である薫は、満凪の目も見ようとしないでさらりと流すのだ。「やるだけやらせときゃ良いよ」と。しかし、満凪には納得できなかった。クラスで唯一、自分より頭が良くて運動もできて。真面目で雑務も積極的にこなして、家もあたふたしてて、そういう人間が何故、苛めなんて受ける必要もない苦しみまで背負わなければならないのか。不条理ではないか。

 覚えたばかりの言葉まで使って訴えたのだが、それでも薫は物憂げな表情を浮かべて我関せずの姿勢を貫いている。全く、腹立たしい限りだった。

 満凪は部屋の布団に横たわり、考え潰したり蛍光灯に手を透かしたりして都度、溜息を吐いていた。一つずつの悩みは瑣事であったが、三つ同じ日に重なると流石に楽天的な小学生をも押し潰すのだ。

 本当ならば、とっくに宿題も済んで最後の登校日に己の余裕を披露するだけの一日。午後からは市営のプールで泳ぎの最長記録に挑戦してみようと思った今日。どうして憂鬱に振り返っているのだろう。満凪は癪に思い、水にたゆたうような記憶の曖昧さを現実に形作ろうと努力する。そう、あれは……。

 

 まるで光を得て蘇ったかのような示しあわせで、早朝の蝉は一斉に鳴き始めていた。南東の空より照りつける、斜でも勢いのある光は舗装された道路を陽炎めかせ、弱く揺れている。ラジオ体操を終え、もう直ぐ朝の七時となる頃、自動車の数も目立つくらいには増えてきている。ラジオを脇に抱え帰路につく満凪の額や肩には、汗の玉がいくつも浮き出ていた。

「あついー、もう直ぐ夏は終わるんじゃなかったの?」

 何も変わらないと分かっていても、満凪は声をあげずにいられなかった。

「夏が終わる訳じゃない。終わるのは夏休み」

 ぼそりと指摘したのは、満凪と歩を同じくするクラスメイトの静山海。彼女は満凪が幼稚園に通っていた時からの腐れ縁で、三度のクラス替えにも関わらず離れ離れになったことのない唯一の女子だった。必然的に仲も良くなるし、積み重ねたものも増えていく。不満を当然のように仕方ないと流す性格は理解しているはずだったが、元々短気な上に夏の容赦ない暑さは人から理性を奪う。満凪はむきになって言い返していた。

「そんなこと分かってるってば。でも、声を出さずにいられないことってあるでしょ?」

「まあ、言いたいことは分からないでもないけど……」海は容赦なく断言した。「無駄じゃない?」

 冷静に、しかも十五センチもの身長差を利用して見下ろすように言うものだから、満凪の堪忍袋の緒は最早、断裂寸前だった。しかし、ここでがなってもしょうがないと満凪は特大の溜息混じりに無情と愚痴を吐き出した。

「ああもうっ、どうして私の周りにはニヒリストが多いのっ?」

「別に私はニヒルってわけじゃないんだけどな、一般標準の小学生って感じで。寧ろ、満凪が熱すぎるの。今の子供は、無駄に叫んだり奮闘したりしない」

「一般標準? ふん」満凪はすかさず、悪態をついた。「好き勝手に授業中も遊んでばかりの生徒、めそめそ泣いてばかりの教師をからかう奴ら、何か考えているようでその実、何も考えてないような奴ら。あんなのを標準っていうの? ふざけてる、一緒にしないでよ」

 満凪は現在、所属している五年二組の惨状を思い起こし、嫌悪に顔を滲ませる。授業中にカードゲームや携帯ゲームをやって何も思わない奴ら、苛めが目の前で行われているというのに知らん振りの教師、そのくせ自分だけが被害者の癖してめそめそ泣いてやがる。役にも糞にも立たない大人、その大人よりも下劣な子供。マスコミのコメンテイタが『学級崩壊』と呼ぶそのサンプルにでもなりそうな教室。

 あれと一緒にされるくらいなら舌を噛んでやるとさえ、思える下らない有り様。

 海もそのことについては意見を同としているが、しかし他に容易には捻じ曲げられぬ個も持っている。満凪の言葉を受けて修正しながらも更に持論をぶった。

「あいつらは例外。でも今時、満凪のようなのは生き難いと思うな、それは確か。今の大人は子供の権利と言っておきながら実際は、子供をより縛り付ける秩序を模索している。そのためには君のような熱血少女こそ、疎まれる。そのうち、排除され消えていくのだろうね」

「それは十歳の科白じゃないって、全く……」

 満凪は苦笑いを浮かべながら指摘する。

 それにしても、やけに引っかかる物言い――もしかしたら、機嫌が悪いのかもしれない。無表情に近い顔を保っていても、縁だけは長い満凪にはそれが分かってしまう。そして分かってしまうからこそ、踏み込まずにはいられないのも性分だった。

「海、何か嫌なことあった?」

 表情は変わらなかったが、夏に踊らされているだけの大気が微かに揺らぎ、満凪の方へと向く。

「違う……と言っても、満凪にはばれるんだろうね、あんた勘も鋭いから」

 勘も、ということはそれ以外にも何か評価されている点があるということだ。嬉しいことではあるが、今はかまけてなどいられない。

「詳しくはまだ話せないけどさ。家族って、いざという時、無力なんだなって。そういうことを、しみじみとね」

 そうやって空を見上げる海は、自分と同い年ではなく五つも六つも年上の女性に見える。いつも二つ三つ年を下に見られる自分とは正反対で、そうなると百三十にようやく届いたばかりの背を考えてしまうのが常だ。勿論、それだけではないことも分かっているが、背はやはり重要だと満凪は判断している。何より、届かない場所にまで手の届くのが羨ましい。青空の向こう側にも近い。名前の由来上、空に深い憧憬を持つ満凪にはそのことが何より、羨ましかった。

 それにしても、海も家族か。満凪もそれほど重大ではないが問題を抱える家族として、少しでも海の力になりたいと思うのだが、そこには干渉容易ならざる壁があることも事実。結局は傍観し、結果が出るのを待つしかないのが満凪には歯がゆかった。

「あー、そんな落ち込まんでも良いって」感情が表に出ていたのか、海は妹でも扱うかのように頭をぽんぽんと軽く叩いた。「そんな、明日にも人の生き死にが定まるとか、そういう厄介なことじゃなくて。まあ、人生における深い深い命題とかまあ、その他色々」

 だから十歳の使う言葉じゃないって。指摘しようとしたが話の腰を折りたくなかったので、満凪は黙って話に耳を傾けることにした。

「まあ、そゆこと。全部片がついたら、満凪にだけは話して進ぜよう」

 主従関係を感じさせる微妙な言い方だが、敢えて聞かなかったことにした。その後いくつか他愛のない話をしているうちに分かれ道まで来たので、満凪は手を振っていつものさよならを口にする。

「じゃあ、また明日」

 歩を進めていた海の足が止まり、機敏にも満凪に向き直る。その顔は呆れで形作られていた。

「満凪、今日は登校日」

「……そだっけ?」

 満凪には全く、記憶にない。海はすかさずフォローを入れた。

「予定表に書いてあったような……というか天気、毎日つけてるから目に入るでしょ?」

「えー、あれは最終日にてけとーに埋めるものでしょ?」

 一瞬、空気が凍りつく。どうやら普通は毎日埋めるものらしい、どうやら世はおしなべて律儀にできているようだ。満凪はそんなことを思いながら、海の顔を覗く。直視することすら辛い。

「まあ、そうだな……想像して然るべきだった。満凪、集中力はあるけど持続力はないもんね」

 何気に酷い言い草だったが、事実なので言い返せない。満凪は肯く代わりに「じゃあ、一時間後にここで待ち合わせかな」と待ち合わせ場所を改めて告げる。それでも海は不思議そうな顔を崩さない。それどころか眉間に皺をよせ、厳しい口調で満凪に問いかけてきた。

「そもそも昨日、連絡したけど知らない? その時は満凪の父さんが出たけど、きちんと連絡するよう伝えとくって言ってたんだけどなあ……」

「何も聞いてないよ」いつもは律儀で、伝言があれば直ぐ教えてくれるというのに。満凪は首を傾げながら言葉を繋いだ。「で、何なの?」

「例のホームレス連続殺害事件、ニュースで見たでしょ?」

 それなら昨日、夜のニュースで特集されていたから満凪も知っている。隣町のある公園に住んでいたホームレスが、ナイフで刺し殺されたという事件だ。

 第一の事件は八月十三日の深夜から十四日未明にかけて発生。凶器は持ち去られており、犯人の目撃者はなし。金品が強奪されていたこと、その数日前にナイフを持った町の若者集団がホームレスに対して強盗未遂を行っていたことを鑑みて、警察は集団の主格二人に対して任意同行を求めるものの彼らは無実だと言い張って拒否。その過程のどこかで情報が漏れたらしく、少年犯罪の凶悪化云々と絡めてマスコミが主犯格二人の家に押しかけるは低俗な雑誌が本名ばらしてしまうわで数日はお祭り騒ぎだった。

 本来ならやってはならない冤罪報道、加えて周辺市民や一部偏向市民団体のエスカレート。若者達の家は蟻も這い出る隙がないくらいに包囲されてしまった。だが、皮肉にもそれが主格たちの無実を証明してしまう。八月十九日の深夜から二十日の未明にかけて同様の手口と思われる第二の事件が発生。殺されたのがホームレスであり金品の強奪、ナイフによる殺害と全てが酷似。情報の交錯した同日は模倣犯という意見もある程度を占めていたが、その日の夕方に警察ははっきりと情報公開した。殺傷痕から凶器が同じものだと断定され、当初は浅墓な少年犯罪だと思われていたものが無差別連続殺人事件に格上げされる。狂熱は転換し、変わって恐怖と沈黙が一帯をも重苦しい空気で包み込んでしまった。二十一日現在、未だ有力な容疑者は挙げられていない。付け加えるならば、犯人扱いされた若者達への謝罪も全く成されていない。

「一字一句偽りなく知ってそうだから次行くね」海が思案する満凪を見て、先を続ける。「で、大きい子は小さい子の面倒を見なさいということで。八時丁度、公民館前集合ということに相成りました」

「面倒いなあ」

 夏休みに付き合いも薄い子供を統率するなど、満凪にとっては気疲れする以外のなにものでもない。どうせがなり散らした挙句『怖いお姉ちゃん』というイメージの一層定着するのがオチだ。そして海はちゃっかり『優しいお姉ちゃん』という称号を強固にしていくのだろう。

 満凪が不貞腐れるのを宥めるのが、幼い頃からの海の役割だった。

「まあ、年少の面倒を見るのが年長の役目……と、大人は考えているらしいから」

「じゃあ、海はどう考えてるの?」

 満凪が尋ねると、海は実に魅力的な笑みを浮かべて言い切った。

「自分の身は自分で守れと、徹底的に教えるのが年長の役目だと考えている」

 全く、この本性を垣間見たら絶対に『優しい』などとは思うまい。

 満凪はそう思った。

 

 とはいえ。満凪は海と再開を約束した後、子供好きの世話焼き老人にひょこひょこ付いていく年少組を傍目に、一人考える。庇護する人間がいることも大切だが、やっぱ大きくなるに連れて自分の身は自分で守るしかなくなっていく。一年生の頃なら兎も角、五年生にもなると左程、大人も注目しなくなるものだ。理不尽なことや、下らないことに立ち向かわされる。満凪にはそれができるという自負がある。しかし、それを放棄している人間もいる。例えば同じクラスの守山薫などその典型で、彼は苛められっ子だった。

 勿論、並の苛められっ子ではない。彼はクラスで自分や海と競い合えるほど頭が良いし、千メートルを誰よりも早く走れるし思考も随分と老成している。海の熟成具合も大したものだが、薫のそれは更に上を行っているかもしれない。漠然とそう、思いを巡らすことがある。

 なのに彼は下らないに等しいくらいの下らない同級生に馬鹿みたいな嫌がらせや暴力を受けている。それでも彼は空を見ている。いや、まるでどこか遠い恋人に思いを寄せるかのような視線を向けているのだ。それが満凪には何となくむかついた。だからこそ、薫を苛めるグループを伸してみたりもした。でも、彼はやはり苛められるし、何かに思いを寄せ続けているのだ。やっぱり、むかつく。

 森山薫には、自分の身を自分を守るという考えを持たせなければならない。しかも、徹底的に植えつけなければならない。そうしなければ、苛めはなくならないだろう。

 でも、何故ここまで心を配らなければならないのだろう。それは……理由なんて見つからない。鬱陶しいし、見苦しいし、むかつくからだ。満凪には、それで十分だった。

 家に戻ると、父の聡が大きな旅行鞄を担いで出ようとしているところだった。いつもより気合の入ったスーツ姿で、顔は些か緊張している。無精髭もなく、精悍な様子は普段、家でごろごろしている時には及びもしないもので、満凪は思わず表情と姿勢を引き締める。しかし、どんな姿でも彼は満凪の父親だった。満凪を見るなり相好を崩し、ツインテイルのなりそこないを優しく撫でた。

「お父さん、出張?」

 こくと肯き、鞄を床に置く。百八十を超える長身で、少し線は細いが頼りがいのある父は、しゃがんでも満凪と同じくらいの背丈で、そして、安心できる声音で満凪を包み込む。目付きは少し鋭いから怒ると迫力あるし、髭のごわごわするところで頬擦りされるのは苦手だけど、満凪にとって遠野聡は自慢の父だった。

「ん、まあな。でも日帰りだから、夜には戻ってくるよ」

 父のような人間を、本当の大人というのだろう……クラスの餓鬼や教師とは大違いだ。満凪は誇りに胸を満たしながら、父を見送る。鞄を背負い、陽炎に溶け込むようにして遠ざかっていく。何故か、父は少し消えそうに見えた。でも、それは錯覚なのだろう。父は自分や母を置いて消えたりしない。

 ドアの外から、トーストの美味しそうな香りが漂ってくる。満凪が挨拶をすると、母の声が台所から聞こえてきた。

「おかえりなさい、朝食は準備してあるわよ。バターとジャムは自分で塗ってね、牛乳は切らしてるからフルーツジュース作っといたわ。人参も入ってるから残さずに飲むのよ。それと今日は登校日よね、時間大丈夫?」

 満凪が席に着く間にこれらの言葉が順序立てて止まることなく、母の口から発せられる。多分、判断力が同年代の人間と比べて優れているのは、このためだと前々から美凪は思っている。満凪はパンにバターとブルーベリーのジャムを塗り、ジュースは脇に置いて麦茶で我慢することにした。

「まだ一時間あるから大丈夫、どうせ持って行くものなんて夏休みの友くらいだし」

 本当は友達なんていないのに、図々しくも小学生全ての友達だと主張してやまない夏休みの課題書はそろそろ名前を変えないとJAROに訴えられないだろうか。何でこんなこと考えてるんだろうと慌てて思考を打ち消し、パンを素早く平らげて目玉焼きを頬張る。ジュースのことに触れられる前に逃げ出すつもりだった。

 しかし、母は丁寧かつ迷惑にも蔵野家で一番大きいコップにジュースを並々と注いで満凪に渡した。

「健啖なのは結構だけど、そんなに急ぐと喉渇くでしょ?」

 とても優しそうに笑うが、こういう時は得てして「言うこと聞かないと毎月のお小遣い減らす」であり、財布を掌握している母に逆らえないことを思い知らされる。

 仕方なく鼻を摘んで一口飲んだが、予想に反して非常に美味しかった。現金かもしれないが、価値を認めれば割とあっさり受け入れるのが満凪という人間で、喉が渇いていたこともあり、一気に飲み干してしまった。

「どう? 人参だって美味しいでしょ?」

 うんと答えたが、ソテーで出されたらやっぱり食べられないだろう。パウンドケーキやカレーに入っていると美味しいのに、何故だろう。目下、満凪の抱えている謎の最たるものの一つだったりする。

 危機が去ったので、満凪は食のスピードをぐっと落とした。特にドレッシングをかけたオニオンとシーチキンのサラダは満凪の好物の一つで、ゆっくりと味わって食べる。ふと視線を感じ見上げると、母が頬を緩めて食事の様子を眺めていた。

「満凪って玉葱好きよねえ、人参は嫌いなのに」

「んー、人参は単体だと押し付けがましい甘さなのよね。別の味や甘さに溶け込むと食べられなくないのに……不思議と思わない?」

「私には満凪の感性こそ不思議な気がするけど……まあ、それも良いのかもね」

 母はただそれだけで、満凪の個性を受け止めてしまった。余りに能天気な顔をしているので、満凪は思わず目の前の女親をつぶさに観察してしまう。

 皮膚に皺は見当たらないし、目元はぱっちりとしていてよく整っている。化粧気がないのに隙もないし、年甲斐もなく髪の毛を後ろで一つに束ねているから、誰も十歳の子供を育てているなんて思わないのだが、十六の時に結婚したのだと打ち明けると、驚きは同情に変わる。クラスメイトの母親の中には、十六どころか十八で家族を持った人間すらいない。大抵は大学を卒業して数年、中には高校を出て数年でというものもいたが、どちらにしろ十六で家族を持つなんて冒険か無謀以外のなにものでもないと信じて疑っていないのだ。

 だから皆、大変だったでしょうと聞いてくる。母は彼女達に対し、裏表もない表情でさらりと言いのけてしまうのだ。

「大変なことは沢山ありました。苦しいことも……生きていれば、当然でしょう? でも、嫌だって思ったことは一度もありませんでした」

 横目で見ていた満凪は、その科白を聞いて母のことを改めて強い人だと感じた。体は細いけど心は太い。それが蔵野那美という母に対する満凪の忌憚ない評価だ。その強さが時として容赦ない制裁になるのは勘弁して欲しいのだが、それは贅沢なのだろう。

 母の顔を見ていると、自分が未婚の子供だなんて割とどうでも良いことのように思えてくるから不思議だ。勿論、そんなこと口に出せはしないが、心にはしっかりと刻み付けていた。自分の中の誇りを再確認すると、満凪は母に「ごちそうさま」と告げ、二階にある自分の部屋に戻る。

 睡眠中、無意識のうちに部屋の端まで吹っ飛ばしたタオルケットを広げ、先ずは皺を伸ばした。きちんと畳んでおかないと、一日ごとに来月の小遣いが五十円ダウンするので満凪としては避けることのできない朝の行事だった。月二千円の小遣いだけに、その影響は推して計るべしだ。

 朝の最重要項目を済ませれば、後はおざなりにこなせることばかりだった。教材と筆入れを手提げ鞄にしまい、空いた時間は未読の漫画を読んで過ごす。こういう時、集中し過ぎて大事小事に関わらず抜けてしまうのが悪い癖なのだが案の定、満凪は物語の世界に没入していた。寸前でさりげなく指摘するのも母の役目だったが、今日に限って満凪の意識を現実に戻したのは、柄にもない母の咎めるような大声だった。

「えっ、でもそんなはずは……ええ、確かに出張だと……有給? いいえ違います。ええ、はい、そうですか……心配には及びません、それでは」

 ガチャン。受話器を本体に思い切り叩き付ける音。普段、母が物にあたる姿など見たことのない満凪にとって、それは初めての衝撃だった。しかし、直ぐに我を取り戻したようで、心配そうにやってきた満凪を相手にする時には既に、いつもの母に戻っていた。

「満凪、準備は出来た?」

 いや、そう信じてしまいそうになっただけ。

「うん、それよりさっきの電話は誰?」

 母は一瞬、肩を震わせたが直ぐに笑顔を浮かべて取り繕う。しかし、満凪が見ても明らかに無理しているのが分かるくらいに強張っていた。全然、元の母じゃない。

「しつこい勧誘の電話。お父さん、お仕事に出かけちゃってるからかけてきても無駄なのにね」

 有無を言わさぬから渋々肯いたが、満凪には母が無理に何かを信じ込もうとしているように思えて仕方がなかった。断片的に聞こえて来た『出張』とか『有給』の言葉を一番下世話に受け止めるならば、出張に託けて別の女の人と不倫なんてドラマにありがちな展開も想像できないでもない。しかし、それにしては母の調子が些か硬過ぎるような気がする。まるで、もっと根本的なことを怖れるような。

 しかし、満凪には母が何を考えているか、とうとう判らずじまいだった。会話を交わしているうちに電話のことははぐらかされ、気付いてみれば母に送り出されている始末。心許なさを誤魔化すため、満凪は手提げ袋を振り回しながら集合地点に向かう。お天道様は、嫌というほどに全てを照らし尽くしている。この陽の下に悪が現われるなどとは到底、思えなかった。

 それでも公民館には子供とほぼ同じ数だけの親がいた。半分は女親で、半分は男親。女親はいつもの井戸端会議を再現するかのようにして固まり、隣町の連続殺人事件を噂し合っている。男親の付き従っているのは大体がその娘で、目に入れても痛くないほどの注意と庇護を捧げているようだった。この辺、どの家庭も余り変わらないらしいなと、満凪は醒めた視線で辺りを見回した。端の方に静山海とその父親の姿を認め、満凪は駆け寄る。海の親は少しばかり不機嫌な様子で、足を小刻みに揺らしていた。

「全く、こういう時にこそ兄の出番だと言うのに……」

「しょうがないよ。だってあんなことがあっちゃ」

「だからこそだよ。あんなことがあったからこそ、もっと積極的に陽の下へ出なければ……」

 と、そこで満凪の姿を捉えたのか、海の父は言葉を止めて満凪に快活な挨拶を飛ばしてくる。山男のような髭を伸ばしていかつい面をしているが、実際は電気屋を営む気さくなおっさんで、夏休みになると近所の子供を集めて機械工作の授業を開いたりもする交際的な人物だった。戦利品は当然ながら工作の課題に化けるため、重宝される。彼自身は、子供の面倒を見てるのは馴染み客へのサービスだと言い張っているが、どんな子供よりも輝いた目で工作に打ち込んでいる姿にはまるで説得力がない。彼は根っからの電気屋だった。

 そんな人間だから、接客スマイルで巧みに表情を覆い隠してしまう。こうなると満凪は無力で、助けを求めるように海の瞳を追うが、素っ気無く逸らされてしまった。

「では、全員揃ったようですから、時間よりも少し早いですが出発しましょう」

 余り見ない顔だが腕章は満凪たちの通う小学校の教師であることを示していた。集合場所に散ってそれぞれを迎えに行かなければならない彼らの不遇を思うことはあっても、生徒に同情の気持ちはそうそう起きない。小さい子は騒ぎ、大きい子は大きい子で車道に出て走り回るから出発までに二度、雷が集団に投下された。該当者の親は子供を睨み付けている……ご愁傷様、満凪は心の中で呟いた。

 登校途中、低学年の子に注意を払いながら満凪は海に父親との会話の真意を尋ねた。答え難いかなと思ったらやはり、海は有耶無耶に話題を流してしまう。

「少し前にも言ってた、その他色々なことの一つ。詳しくは、答えられない」

 予想はしていたから落胆はなかったが、海の表情が一瞬翳ったことで、満凪の胸に心配の種がまた一つ植え付けられてしまった。振り払うかのように、満凪は手足を振って勢いよく歩き出す。

「鬱陶しいなあ」

「少しくらい、我慢しなさい」

 海はそれ以上、何も言わず学校まで不恰好な行進は続いた。揺らめく大気、茹だるような熱気に滲む汗。たちまち満凪のハンカチは汗でぐっしょり濡れたというのに、隣で低学年の子供たちを諭して回る海からは微かな水滴以外の何も浮かんでいない。冷血漢め。満凪は隣を歩く女子に聞こえぬようぼそりと呟いた。

 勿論のこと、殺気立った変態やら殺人鬼が襲ってくるなどということはなく、極めて気だるい雰囲気を追ったままに満凪は学校の門をくぐった。校庭には雑草が目立ち、手入れの行き届いてない様を歴然と示している。新学期最初の全校集会で分担を決めてから抜いて回るのが慣例だが、思うだけで憂鬱になる。満凪は敢えて、見なかったことにした。

「さあ、今日は先週発売された携帯ゲーム機のRPGかな? それとも盆前に出た漫画か」

 海が皮肉な口調で募るのは、今日の授業内容予想だった。こうなると律儀に登校しているのが馬鹿馬鹿しくもなるのだが、さぼっていれば親にもれる可能性は否定できない。両親には心配をかけたくないという思いだけが、満凪を教室に向かわせていた。

 久々の上履きに少しばかり戸惑いながら教室に入るとすぐに、満凪は顔を顰めた。お座なりの修正が加えられた全裸女性の写真を載せた雑誌が、丁寧にも開かれて机の上に置いてある。少し離れて数人の男子グループがにやにやと、席の主である森山薫の登校を待ち続けていた。他の男子は程度の違いこそあれニヤニヤを浮かべたりゲームの端からちらと覗き込んだりしている。

 比べて女子は冷ややかなひそひそ声や視線をクラス中に振り撒いている。男は女がこういうのに反応して騒ぐと思っているが、それは中学年までの話。高学年になると保健体育は男女別で、女は体の仕組みの露骨さを嫌というほど叩き込まれる。助平な本の一冊でどうにかなるものではなかった。勿論、軽蔑は男子のグループのみに向いている。この頃の鈍い男どもはそんなことさえ分からない。

 敵愾と興味と興奮のない交ぜになった空気が飽和しかけた頃、ようやく森山薫は現われた。鞄を机横のフックに引っ掛けてから、無言で慌てることなく本を閉じた彼の元に苛めグループの男子数人が輪を作る。

「お前、こういう本ばっか読んでるんだってな」

「この助平野郎っ!」

 彼らは皆、嘲るようにして下世話そうに笑う。こういうとこ、もう少しヴァリエイションを増やして欲しいのだが、馬鹿というのはいつももったいぶるか喋りすぎるかのどちらかだ。彼らは森山の体を何度か小突き、いたぶっていた。相変わらず、満凪にとって虫唾の走るような手段を行っている。

 薫はふうと息をもらしたが、目に付いた裸体を暫し眺めるうちに一瞬だけ、怒りの形相を滲ませた。そして、いつもなら沈黙に徹するはずの口を皮肉に形作る。

「こんなだから頭悪いんだよ」

 それは彼だからこそ何よりも相手を貶し、怒らしめるもの。今まで余裕を保っていたグループの主犯格が薫の言葉を聞くや否や顔を赤らめて激昂し、突撃を開始する。襟首を掴んで椅子から引きずり落とし、大袈裟に喚き出した。

「てめえっ、馬鹿にしてんじゃねぇぞ!」

 先にちょっかい出したのはがなり散らしている張本人なのだが、そんなことの理解できる人間なら複数で一人を囲んだりはしない。どうか穏便に収めてくれと祈ったのだが、根拠のないものに縋っても事態が好転することはなかった。それどころか、薫はあからさまに油を注いだ。

 彼は言葉を使わずただ、鼻で笑った。それが致命的な一撃となり、緊張の糸が切れて一気に爆発。薫は即席サンドバッグと化し、手加減ない拳に曝され始めた。これはもはや喧嘩ではなく、ただただ一方的な虐待に過ぎない。放っておいたら致命的であると判断し、満凪は一気に飛び出した。胸倉の手を強引に解き、興奮した苛めの主犯格を宥めたが、その先から薫は嘲りの言葉を補充するので如何ともし難くなる。遂には満凪もぶち切れ、最終兵器を召喚した。

「あー、海。暴れてるのを抑え込んで。こっちは森山の馬鹿を保健室連れてくから」

「了解」言うなり海は暴れるクラスメイトを力で押さえつけた。我を忘れて暴れる人間をものともせず、海は顎を外に出ろとばかりにしゃくって見せた。満凪は好意に甘え、森山薫を連れて教室を出た。そのまま廊下を進み、階段を下って保健室に入る。

 教師がいないのを幸いに、満凪は薫をソファに寝かせてからアイスノンを取り出して手早く頬に当てる。今日だけは学校の管理能力の低さに感謝した。

「まあ、何というか」適当な言葉が思いつかず、かといって話さずにいると間が持たない。満凪は取り合えず、勢い半分で何かを喋っておくことにした。「あんた、思ったより馬鹿ね」

 挑発すれば、痛い目に合うということくらい、理解できているのに敢えてそれをやる。満凪には彼の思考が理解できなかった。

「まあね」

 彼は謙遜するでも開き直るでもなく、さも当然のことであるかのように細く低い声をあげた。声変わりを思わせる怜悧な口調が、満凪を次の質問に走らせる。

「どうしてわざわざ挑発なんかしたの?」

「説明する必要性は一切認められない」

 極めて機械的な解答。満凪は一瞬、首根っこ掴んで吐かせてやろうと思ったが、それでは直情に任せて薫を殴った馬鹿と変わらないと気付いた。あくまでも対話でと意気込む満凪を嘲笑うかのように、ベッドで横たわる同い年の少年は刺々しい。

「もう良いだろ。義理は果たした、怪我した人を助けたああ私は何て良い人なんだろう――」

 満凪は険を強めて、薫の言葉に耳を傾ける。

「つまり、良い人ぶるのはやめろってこと?」

 肯く薫の腹に、満凪は拳骨を見舞う。

「いきがるのは良いけど、もっとマシなやり方あるでしょ? 頭も良いし、力もあるんだから」

「力?」彼は身を起こし、歯を音が鳴るほど噛みしめ満凪を睨みつけた。表情に潜む鋭さに気圧され、満凪は思わず後ずさる。「僕に力なんてない。あるのはただ圧倒的な無力と」

 ぞっとするような低い笑みをもらしながら、彼は憑りつかれたかのように言葉を紡ぐ。

「――光も差さない、本当の暗闇だけだよ」

 三十過ぎの人生に疲れた奴だってそこまでは言わないぞと思うほどの暗い情念。満凪は先程にも増して首根っこを掴んで振り回してやりたいという誘惑に駆られたが、答えなどしないことが分かっているだけに辛うじて耐えることができた。

「君にだって分かる時が来る。いずれ人はそこに辿り着くんだよ、僕には分かる」

「そんなの」彼の背負っているものを、満凪は知らない。それでも、突っぱねてみせたかった。「私は信じない、信じてなんかやらない」

「そう」彼は説得を諦めた人間の常として短く呟き、そして突き放した。「だったら、勝手にすれば良いよ」

 満凪は勝手にすることにした。即ち薫の自己管理に任せ、世話を放棄したのだ。どのみち、彼の言ったとおり既に義理は果たした。だが、この敗北感はどうだろう。苛々はついぞ収まらないし、彼に引きずられかけた自分が優柔不断に思えて余計に腹が立つのだった。一層のこと、授業などふけてやろうかと考えたが、律儀な満凪は結局、教室に戻ることにした。

 教室のドアを開けた途端、劇的場面が満凪の目に飛び込んで来る。男子生徒が一人、無様に転がっていた。彼を見下ろすように傲然と立っているのは担任の川原先生だった。いつもは瓶のような眼鏡をかけ飾り気のないショートヘアで、子供の好き勝手すらいなせずめそめそしてばかりだと言うのに。彼女は鋭く打ち据えたようで、生徒の顔は紅く腫れていた。拳を握っていることを隠そうともしていない。側には電池の飛び出した携帯ゲーム機が転がっており、ヘッドフォンの外れたためにスピーカから電子音が鳴り響いていた。川原先生はそれを拾い、思い切り床に叩き付けた。破砕音が聞こえ、中の基盤が剥きだしになる。一瞬、狂ったような音が教室中に響き、恐らく永久に止まった。

「何する……」一生徒の抗議は、大人の鬼気迫る形相に対抗し得ない。直ぐに口を紡ぎ、めそめそと泣き始めた。主客逆転とはこのことか。満凪はどのような心境の変化か、スパルタ式にまで変貌してしまった女教師を半ば、感嘆の思いで見つめていた。勿論、やり過ぎではあるがこれまでの生徒の所業からすると妥当すぎる処断。

「さあ皆さん、席に着いてください」

 彼女は言い訳一つせず生徒たちを睥睨し、一言で抑えつけ着席させる。満凪のことは一応、連絡がいっていたらしく咎め立てはなかった。

 こうして数ヶ月ぶりのまともな授業が、熱気惑う教室の中で始まった。沈黙の中に迸る緊張感、愚かさに枷をつけられ従う生徒たち。至極真っ当な日本の小学校の光景。主体性のないクラスメイトにも辟易したが、それ以上に彼らと同じことをしているというのが酷く、癇にさわる。

 それにしても。厳しく教壇に向かう川原頼子の姿を見て、満凪は何が先生をここまで変えたのか思いを巡らす。一昔前の教師ドラマだろうか……否、彼女はそんなドラマに憧れてこそ、教師になったと始業式の自己紹介で告白していた。とするとそれは理想と全く逆方向にあるものでなければならない。

 川原先生を変えたもの、それは教師という職業に対する圧倒的な真実にして絶望的な現実であるはずだ。そこまで満凪には理解できたが、しかし彼女の知った真実が何なのか、彼女の抱く絶望とは何なのか、そして人を傷つけ打ち据え平然といられる心の基礎とは何なのか。全てにおいて不明のままだった。

 また、理解できない方が良いと思った。

 それにしても。

 薄雲の幕を突き破るような強烈にして清冽な日差しと空を眺めながら、満凪はふと思う。

 何だか今日は変わったことだらけだ。

 親友である静山海の悩み。

 母である蔵野那美の憤懣。

 むかつくクラスメイト、森山薫の負傷。

 担任教師、川原頼子の変貌。

 誰もかもが、少しずつ変わっていく。ずっと同じままではいられない。自分だってきっとそうなのだろうが、どうも落ち着かない。

 ふと、薫の言葉が脳裏を過ぎる。

『君にだって分かる時が来る。いずれ人はそこに辿り着くんだよ』

 無力と真の暗闇。

 でも。

 空はこんなにも明るい。

 蝉もこんなに煩い。

 だから、満凪はそれを打ち払った。誰だって変わることも苦しむこともある。でも、壊れたりはしないはずだ。毎日は繰り返しながら進み、やがて光に辿り着く。

 満凪はそう、信じることにした。

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