2000年08月21日(月)

−9−

 寂れた地方都市の終着駅はいつも、どこか物悲しい。それでも交通機関の端を中心として数万という町が形成され、小さいながらも栄えようと背を伸ばしていた。闇に火が灯り、周辺は明るく照らし出されている。飲酒店の類が並び、僅かな慰みと友愛を求める者でごった返す中、ストリート・ミュージシャンたちもまた散開し、それぞれに歌を奏でている。

 この界隈からは数年前、現在一線級で活躍するミュージシャンが輩出されており、あやかりどもやミーハなファンは今でも衰えることなく続いていた。十万都市である隣街を差し置き、路上で楽器を奏でる者どもは夢や熱意を歌い続けている。

 駅正面口の噴水前という特等席を陣取る、静山隆という男も路上にて日夜、歌を紡ぎ続けるものの一人だった。彼は胡坐を組み、ギターケースを置いていても曲を奏でてはいない。そもそも、ケースから楽器すら取り出していない。夏も深まる昨今、あちこちに転がる蝉の抜け殻と同じく、彼の瞳からは魂の色は感じられなかった。

 二十日前までは二重三重と囲うほどのファンがいたというのに、今では同情で訪れる数人の、特に親交篤かったものが声をかける程度だ。そして、彼らのためにもただ一フレーズとて旋律は紡がれない。信号が変わる度に響く電子的な童謡は、より一層歌わぬ音楽家を悲愴に見せていた。

 数年ほど前なら、彼はより才覚を持つストリート・ミュージシャンに場所を明け渡さざるを得なくなっていただろう。何故なら、高架橋の端と端を挟んで幾度もの戦闘的なライヴを繰り返し、針を傾け続けさせた者たちのみが手にできる特等席を不当に陣取っているからだ。しかし、今も昔。

 一つ大きい獲物が釣れれば、二番目や三番目の何とやらを釣ろうとするのが不況で尚更貪欲となっている音楽業界の常だ。流行のバンドと同じ場所に起源を持つミュージシャンは、それだけでも重要な付加価値となる。青田買いされ、魂まで抜かれた通りから本当の活気は既に奪われていた。今は賑わっているだろう、あやかりどもの群れで溢れかえっているだろう。しかし、そのうち彼らの大部分は気付くはずだ。所詮あやかりどもに開かれる道などない、と。

 道は潰え、そして彼らは口々に呟くのだろう。

 自分には、才能がなかったと。

 何が才能だ、研鑽する努力もせず空騒ぎが少しばかり得意な観客を惹きつけてコミックソング紛いの歌しか歌わないくせに。ぬるま湯に浸かりきった奴らばかりだ。

 隆は心の中で毒づき、そしてゆらりと力なく立ち上がった。もしかしたら、自分の心をほんの少しでも熱くしてくれるものがまだ、ここには残っているかもしれない。そう思い、失意の底に淀みそうな心身を鞭打ってまで毎日やって来ていた彼にとって、しかしここは絶望の溜まり場だった。

 もう、終わりにしようと思った。ここにも、音楽にも、既に自分の魂を尽くすようなものは残っていない。それを確認できただけでも、もしかしたら毎夜佇んでいた価値はあったのかもしれない。そう思い直すと、何となく心が落ち着いた。隆はギターを担ぐと、数ヶ月世話になった特等席に最後の敬礼を捧げる。敬意を捧げる人間はいないが、敬意を捧げる場所はある。せめて、この場所の後継者が魂に溢れた歌い手であることを祈り、数年来の足となり仕えていた自転車の元に向かう。

 彼らが現れたのは、その時だった。

「よし、良い場所が空いてるぞ、見ろ」噴水前の特等席を指差したのは、背丈一九〇に迫るほどの体躯を持つ、二十歳前後の男性だった。「ここなら酒に酔ったオヤジどもが選り取りみどりだ」

「ねえ、あんな芸で本当に子供以外から金取れるの?」彼の右隣にいるのは、化粧をして少し年を上乗せしているが、実際は十八くらいの少女だった。大学生にしては垢抜けてないので、まだ高校生だと辺りをつける。「さっきの子供たちからだって、三百円しか稼げなかったじゃない」

 三百円……活気の抜けたこの広場のパフォーマでさえ、それくらいはゆうに稼ぐ。おそらく、余程しょぼい芸なのだろう。隆はそう断定し、今度は少女と反対側に立つ、みずぼらしい風貌の男性に注目した。年齢は五十ほどだろうか、汚らしいズボンに擦り切れた長袖のシャツ、手拭いに半ズボン、典型的なホームレスだ。レンズはぼろぼろだが、フレームも合わせて高価そうな眼鏡をしているところを見ると、元はある程度裕福な暮らしをしていたらしい。人員削減の呷りを受け、更には連れ合いにも愛想を尽かされ、全財産を慰謝料に摩り替えられた、そのなれの果てだろう。最近では珍しくもない手合いだった。

 隆が目を惹きつけられたのは、彼らがトリオを組んでいるという異質さ故だった。ホームレスの男性がいなければ、背の高い男性と少女には、一芸だけ達者な男と引っ掛けられた女という構図が当てはまる。また、化粧慣れした高校生がいなければ、先輩のホームレスが新人に縄張りやら規則やら最下層生活の掟についてレクチャしている途中と見えなくもない。顔は良いが無気力そうな男性がいなければ、仲間のホームレス狩りに蒔かれた餌と引っかかってしまった助平にもなるだろう。しかし三人一緒というのは有り得ない。例外に過ぎる。

 いつしか遠巻きに眺めていると、背の高い男性は素早く馬鹿尊大に胸を張った。

「はっ、甘いな。俺の行使する人形には種も仕掛けも無い。夢を忘れた大人たちにこそ、この夢のような力は脅威として映るのだよ。科学を信望した夢の忘れ子、万歳っ!」

 あれは頭が少し駄目になっているのかもしれない、と隆は思った。

「ふむ」と、今まで黙っていた中年のホームレスらしき人物が語りだす。その瞳の奥にはどことなく叡智の輝きが見て取れた。「この私にさえ、種が全く、見抜けなかった。こう見ても職業柄、ちゃちい手品の種など簡単に見抜けて取れるのだが。この不思議は、大人にとっては大きな意味を持つかもしれん」

「それに、酒に酔った大人は羽振りが良い。少しばかりおだてれば百円や二百円、簡単に出してくれるのだ。以前はなんと、千円を貰ったことさえある」

「スケール小さいなあ……」

 少女のツッコミは冷たく手厳しい。そんな、どこかねじの外れたような話を繰り返しているうち、徐々に三人の周りには人が集まってきていた。彼らの望む酔っ払いのではなく、素面の十代の人間が殆どだ。彼らの多くが以前、隆の音楽を聴きに来ていたものたちだった。ホームレスの中年男性は平然とした顔をしているが、背の高い男性と少女はここの規則を知らないのか、望外の人の輪に激しく戸惑っている。

「な、何故こんなに人が寄ってくるんだ、予定外だぞ」

 どうやらここに来て日が浅いか、夜に駅前まで近寄らない人種のようだ。見たところ男性は前者、少女は後者のようだった。

「そりゃそうだろう。ここはミュージシャンやパフォーマ憧れの場所、そこに陣取る人間は必然的に最高の芸や実力を披露しなければならん」ホームレスの男性が冷静に二人を諭す。「国崎くん、君は己の芸に絶対の自負を持つのだろう? それならばこれこそ機会ではないのかな。ここで金を稼げば、これからの旅も楽になる。一日三食吉牛大盛り、卵付け放題、そんな人生は素晴らしいと思わないか?」

 ギャラリィがいるにも関わらず十メートル近く先まで平然と聞こえてくる、余りにも馬鹿馬鹿しい人生の提唱に、隆はいつのまにやら耳をそばだてていた。自分ならそんな生き様、死んでもごめんだ。しかし、国崎くんと呼ばれた男性はまるで楽園を覗いたもののように惚けている。

「素晴らしい、それは天国みたいな生活だ」

 やはり、頭の動きがどこかおかしいと思った。

「いや、それはまずいっしょ」まともな人間だったら誰でも指摘するであろうことを、少女は率先して紡いだ。「カルシウムが足りてない、牛乳か小魚を足さないと」

「おお、そうだな。牛丼、卵、牛乳と。全て混ぜれば黄金風味」

「なおのこと、素晴らしいっ!」

 彼らは漫才トリオなのだろうか? ねじが外れっぱなしの会話にしかし、ギャラリィが受けている。やんややんやと囃し立て、更なる芸か笑いを求める。

 国崎と呼ばれている男は徐に、人の形をしたものらしき物体を置いた。側に寄ってみるとやはりみずぼらしい人形で、しかし意外にも丁寧にしつらえられたものだった。どのような芸が始まるかと期待に胸弾ませるギャラリィを他所に、男は右手を人形の前に構える。まるで念を送る仕草のようだ。暫くすると、予告も無く人形が立ち上がり、よたよたと歩き始めた。どよめく観衆、そこからどう発展するのか否が応でも期待は高まる。

 しかし、いつまで経っても人形は歩いてばかりでアクロバティックな動作が何もない。一分後、電池が切れたかのように倒れた人形とその遣い手に対する視線は冷ややかそのもので、さあどうだと満足げな笑みを浮かべる男の期待を即座に打ち挫いた。

「おっさん、もっと真面目にやれー」

 先頭付近を陣取る、赤髪の鼻ピアスが野次を飛ばすとそれは瞬く間に伝播し、噴水広場を包んでいく。芸を披露した男性はその理由が全く分からないらしく、うろたえるような憤慨するような表情で、忙しなく辺りを見回していた。口汚く罵るのもどうかと思うが、しかし責められるのも分からないでもなかった。何しろ、人形は歩くだけなのだ。種が分からないのは確かに凄いが、これなら釣っている細い線が見えてでも、もっと動きのある芸を見せるべきだった。彼は観客の質を見誤ったに違いない。

 ブーイングはますます高まり、二人は追い詰められていく。さて、自分はどうするべきだろう。かつて陣取っていた場所への愛着もあり、隆は暫し迷っていたが、直ぐに変なところに気付いた。二人? 確か、つい先程までは三人いたはずだが。疑問に思っていると、ホームレスの中年男性がいつのまにか目の前まで来ていた。

「すまんが」男はいきなり頭を下げ、それから持っていたギターを指差す。「もし、使わないというならば今日、一時間だけで良い。そいつを貸して貰えないだろうか?」

 突拍子もない提案に、隆は戸惑った。次に浮かんだのは、純粋な疑問だ。

「何故、僕のギターが必要なんですか?」

「まあ、あの煩型な聴衆に歯止めをかけるためかな」男は仲間が心理的な袋叩きにあっているというに平然な顔をしている。「全く、まさか子供向けの芸をそのまま派手好きな若者に披露するとは思わなかった。長年、あれで飯を食ってきたらしいがどうやってなのか……パフォーマの才能が、全くない」

 それは、まあ見ていれば分かる。隆は苦笑しかけた。

「それはあいつの質を見抜けなかった私のミスだ。しかしああなった以上、誰かが止めねばならん。かといって、今の君に音を奏でさせるのも酷というものだろう。とても大事なものを失った君に」

 男の言葉に、隆は肩を震わせ、そして挑むようにして顔を覗き込む。相対するその表情は優しげで、瞳には深い慈しみの色が宿っていた。深い理性を伺わせる、幹の太い大人の有り様だ。とても人生から転落し、日々を飢え、汚いなりをしている者の顔とは思えない。

「なんで知ってるのかという顔をしているな……別に意味はない」男は感情を中和しようと、宥めるように語りかけてきた。「最近、この辺りでホームレスを連続して殺し、金を奪う輩が現れたのは知っているだろう? だから、そういうことをやりそうな奴らを宿無しなりに監視しあっているというわけだな。その中の一つに、この駅前広場にたむろする若者たちがいた。それだけのことだ」

 成程……それなら十分有り得ることかも知れない。ホームレスがそこまでの組織性を発揮しているのかどうかは不明だが、嘘とも思えなかった。事情を知られていることに面映さは覚えたが、控え目な語り口のため癇に障るということはない。隆は彼に、好ましさを抱いた。しかし、大切な疑問はまだ一つ残っている。

「別に、それは気にしなくて良いけど、ギター」そう言って、彼はギターを置き腰を卸し、中身を披露した。少し古びたアコースティック・ギターは数年前、まだ高校生で金が全くといって良いほど自由にならない隆に、当時の先輩が割と破格で流してくれたものだった。「弾けるの?」

「ああ。全共闘時代に大学生をやっていた私を舐めてはいけない。あの時代には誰もが、反体制を歌って一曲くらいは自由に奏でられたものだ。調律は必須科目にも似て、必須だった」

 彼の父も一応、全共闘末期世代に大学生をやっていたが、そんな必須など一度も語らなかった。もっとも、昔から機械弄りばかりに没頭していたから音楽なんてどうでも良いと思っていたのかもしれない。それをさし引いてもしかし、胡散臭い話だった。確かに同時期、反体制はファッションだったろう。だからといって、そんなに安くもない、当時であれば贅沢品を誰もが使いこなせるわけがないではないか。

 隆はそう結論付け、ギターを注意深く庇った。もしかしたら目の前の男は、パフォーマンスの一環としてギターで人形を持ちうろたえている男性の頭でも打ち据えて、笑いを取ろうとしているのかもしれない。今までの空気から察するに、十分な可能性を秘めた危険だった。やはり、もう誰とも関わりあうべきではない。ケースを閉じようとすると、中年男性はあからさまに慌てた。

「待て、さっきのは冗談だ。ああ、弾けるとも弾けるのだ。ただし、そこに意味はない。弾きたい時に弾いて、妻や子供の反応を見て楽しんでいただけで。ほら、この手を見てくれ」

 ささくれ立ちひび割れた皮膚に覆われた指先には、年季のこもった蛸の跡がいくつもできていた。

「これが俄かギタリストの手に見えるか?」俄かには見えなかったが、かといって今でも弾いているという風でもない。ギターを離れて十年は経っていると、隆はあたりをつけた。「こう見えても、かつてはミュージシャンを志したこともあるのだ。結局はコピィバンド止まりだったがな。ほら、林檎なんとかいうメンバがいた有名なバンドがあるだろう? あれを弾いて大受けだったぞ」

 林檎……椎名? いや、まだ生まれているかどうかも分からん女性シンガの曲を弾ける訳がない、まさか未来を視ることができるわけじゃあるまいし。林檎、林檎……ああリンゴスターか、ビートルズだ。そのことを指摘すると、嬉しそうに肯きだした。

「そうそう、いまじーん、おーる、ざ、ぴーぽーってな」

「ビートルズと違うじゃないですか!」

 思わず叫んだ。突っ込まずにはいられなかった。やはり、彼はパフォーマの道具に使うのではないかと思い、ギターケースを抱えようとすると、手応えが無い。微かな足音を頼りにその先を辿ると、既にホームレスの中年男性はケースを奪い、素早くブーイングの輪の中に飛び込んでいった。迂闊だった、あのボケは総て意中のものを手にするためのフェイクだった……と思う。自信はないが、しかし策士であることは間違いない。

 重圧の中心に現れた不定要素を、敏い人の輪が見逃すはずもない。胡坐をくみ腰掛け、鷹揚に構える彼は、要望も相俟ってまるで旧時代のヒッピィさながらだった。驚くべきことに、男の調律には一部の無駄もなく、テストをしながら、一週間も手入れしなかったギターの音階を再構築していた。合わせるだけならば、自分と同等かそれ以上ではないか。今や隆の心は、巧みな音の操り手に釘付けにされていた。

 最後に確かめるよう、慈しむようにして単調なメロディを何度か奏でてみせる。その滑らかさ、厚さ、どちらを取っても後の演奏を聴衆に信じさせるに足る、独特な音遣いだった。

 隆は思わず身構える。足りなくなった気持ちが、自然と湧き上がるのを感じる。どのような曲を、どのようなテンポで、そしてどのような心で紡ぐのか。総てが沈黙に満たされた次の瞬間、それは始まった。

 あまりにもポップで、有名な音と共に。

 いえーいという、おっさんな顔に似合わぬ若者な叫び。彼の相棒である女性が合点の言ったという様子で立ち上がり、振り付けどおりに踊りだす。何をどう勘違いしたのか、背の高く目付きの悪い男性は似非拳法の構えをしている。歌い出したのは――。

 モーニング娘。のLoveマシーンだった。

 ……血潮の冷める音が聞こえるようだった。期待させといてそれでは、あまりに殺生というものだ。所詮は妖しい大道芸人集団でしかないのでは……と思いかけるも、意外なことに客は沸いていた。良く聴くと、女性の歌は案外のこと上手く、邪魔なのは背の高い男の妖しげな動きだけで。今までの盛り下がりぶりも功を成したのだろう、わいのわいのと盛り上がっている。

 そう言えば。自分も未熟な頃は、とにかく挑むように、腕が千切れるくらいに弾きまくって、それであいつの声に追いつこうと必死していた。甲斐あって、名前も知られてきた。力を試してみないか、もっとでっかい街の大人たちが、名刺片手にやってきたこともある。初めてのことでないとはいえ、群集は沸き立った。その時は、稼いだお金を継ぎ込んで仲良い奴ら集めて、深夜まで馬鹿騒ぎした。

 それが……全て、戻らぬ日々だ。自分に、他に何ができると言うのだろう。

 馬鹿で、ちぐはぐで、騒がしく。彼らを見ても、やはり心沸き立つことはなかった。しかし、どこか……眩しかった。眩しくて、何か自分の大切なものが溢れてしまいそうだった。目を背け、音楽を聴き続ける。それは今風のポップだったり、少し古い時代の何気ない恋愛歌だったりして。一時間、演奏は飽きることなく続いた。隆はそれを飽きることなく聴き、ただ揺られていた。

 結晶みたいな、透明の海のような思い出の中で。

 というと格好良かったのかもしれない。実際は、眠っているだけだった。気付くと先程の中年男性が、ギターを持って、蹲る僕の前に居た。その左右には、望外の金を手に入れてはしゃいでいるのであろう、背の高い男性と女性が満ち足りた表情をしていた。

「これを、返しに来たぞ。かっぱらうようにして借りていってすまなかったな」

 ホームレス風男性は礼儀良く頭を下げ、ギターを差し出す。その仕草は洗練されており、やはり長年の会社勤めを伺わせる。対して背の高い男性と、女性は。

「いやー、最初はどうなるかと思った。俺の渾身の芸が、ああも無残に蹴散らされるとは、おそるべしだ」

 礼儀の欠片も反省もない。きっと、彼は会社務めはおろか、誰かに頭を下げるという行為さえ、ろくろく行ってこなかったのだろう。女性の方も立場は同じそうだが、声をかけずとも深い礼を向けてきたから、それなりの躾があったに違いない。つまり、兄妹である可能性はきわめて低いということになる。

 何者だろうか?

「そう言えば、まだ名前を名乗ってなかったな。私はジョナサン・ブラウニー。この界隈では、食場マスタのジョニィと呼ばれている」

 明らかに、偽名臭かった。第一、食場マスタというのが意味不明だ。発音からして、食糧を調達できるところを把握している……みたいなところだろうか? 余り踏み込みたくなかったが、もう少し突っ込んだ素性も把握しておかなければ、という気分にさせられ、思わず尋ねていた。

「で、本名は?」

「失敬な!」中年男性は、いきなり逆切れした。「これは本名だぞ、私の嘘偽りない本名だ!」

 明らかに、嘘臭かった。が、これは知らない方が良いのだろう。後ろの二人を見ると、微妙に目を逸らしたから同じはぐらかされ方をされたのだろう、とすぐに検討がついた。

「で、私の名前は」似合わない化粧に身を包んだ女性が、前に出て手を上げる。近寄るとどうも、どこかで見たようであったが、しかし思い当たらなかった。「山田花子、です。まあ、その……細かいところのツッコミはなしで、宜しく」

 これも明らかに偽名なのだが、細かい指摘はなしでと念を押して来たことからすると、余り探られたくないのだろう。隆は最後に視線を、背の高い男性に向けた。

「ん、俺か? 俺は国崎往人。気立て良く弁もたつ、ナイスガイな旅人だ」自信満々の態度は、螺子が外れているという第一印象を補って余りあるものだった。これも、本名かは分からない。「まあ、明日にはここを発つから、接点はないだろう。宜しくってこともないだろうが」

 と、まあ。これで、三人の名前は分かったのだが、かといってどういう集まりなのかさっぱり分からない。ぼんやりしていると、唐突に『名前』という言葉が流れ込んできたので、耳を傾ける。どうやら、自分の名前が聞かれているようだった。

「……名前?」

「そうそう」場を仕切っている、仮称ジョニィが促した。「この先、接点があるのかは不明だが、窮地を救う一助となってくれた者の名前を知らないのは気持ち悪いだろう?」

 まあ、言われてみればそうだ。別に名前だけなら差し障りもないだろう。隆はすんなりと答えた。

「静山隆です」

 伝えることは本当にそれだけだったのだが、やはり好奇心には勝てず。猫を殺すと分かっていながら、訊かずにはいられなかった。

「ところで、その……いきなりで不躾なんだろうけど。答えたくなかったら良いのだけど。貴方達三人はどうして今、一緒にいるんですか? で、どうして大道芸紛いのことを?」

 その問いに、中年の男性はからからと笑った。

「実は、この国崎くんと山田くんは婚約者同士らしい」

 婚約者……見合す二人の余りに余所余所しい様子からはどう見ても親密さが感じられない。急ごしらえの、赤の他人といったところだ。彼もそれは理解しているのだろう。さっさと話を続けた。

「で、私はここから五分ほどの場所にあるコンビニで最新の食糧状況を探っておった。すると迂闊なことに、別の島の好戦的な者たちと遭遇してしまった。これはいけない。護身術の嗜みはあるが、基本的に一人が複数に挑んで勝つ可能性は先ず無い」

 確かに。この界隈でも以前、喧嘩の達人がそれより明らかに格下な二人組に呆気なくのされていた。多少、腕のある者が得てして陥る錯誤だが、一人は複数に純粋な喧嘩で勝てない。機先を制すれば話は別だが、基本的に一人では機を先し得ないのだ。当然の理として、男は危機に陥っただろう。

「そこにやって来たのが、俺というわけだ」聞いてもいないのに、国崎という男が口を開く。「あっという間に、四人を蹴散らしてやった」

「いやいや、これが本当なんだ」疑わしげな視線を向けた隆に、仮称ジョニィは首を振る。「先ず、リーダーに無音無言で金的をかまし、怯んだ所に相対していた敵の二人の頭を掴んでゴチンコと。これで一対一だ。喧嘩慣れしていれば、負ける道理の無い戦いだった。いや、素晴らしかったな」

 賛辞する男の体躯を眺めると成程、細いように見えるがなかなか洗練されている。眼光も鋭く、こういう厄介ごとを何ダース単位で片付けて飄々している感じがした。先ほどの受けない人形劇で慌てていた時には思いもしなかったが、旅人というのは本当か、少なくとも近くはあるのかもしれない。

 しかし、そうなると今度は婚約者という設定が怪しくなってくる。急ごしらえの関係なのか、設定に埋め難い齟齬がある。細かく突付いてみたいという欲求に駆られたが、仮称山田花子の落ち着きなさを見るに、やはり追求するのはよしておいた方が良いと判断した。どちらにしろ、三人が何かの事情をもって集まっているのは確かだし、その背景はおおよそ窺い知れないだろう。ギターを置いて特等席にぼんやり座っていた自分を、彼らが決して窺い知ることのできないように。考えが至り、彼は心を引く。この辺で切り上げるべきだと思った。

 三人が国崎往人の戦歴に満足している隙間を縫って半歩下がり、場を辞そうとする。が、その前にめざとい仮称ジョニィに捕まってしまった。

「静山君は、これから忙しいかな?」鷹揚とした笑顔で隆を誘う仕草は、部下を酒の席に勧めるに長けた上司のようで、やはり管理職級の貫禄を感じさせる。「そうでなければ、体の温かくなる液体を皆して啜りに行こうではないか」

 そう問われ、暫し迷った。この珍奇な小集団にこれ以上関わるべきか否か。表層では煩わしさが勝っている。ここ十日ほどの不摂生もたたり、体調もあまりよくない。しかし、心の奥底に彼らを求める何かがあった。それが隆に首を振らせ、彼らに加わらしめた。

「はい、迷惑でなければ」

 頭を下げ、彼らに加わると同時に、妙な思いが脳裡を過ぎった。なんだか、オズの魔法使いみたいだ。ドロシーにかかし、ブリキのロボット、そして弱虫なライオン。何故かは分からない、でもそんな直観が浮かんできた。ドロシーは家を求める少女、かかしは賢い頭を求め、ブリキのロボットは心を求める、そしてライオンは勇気を求めて……そこまで考え、心の中で一笑に伏す。彼らが何者かは分からないが、要は自分を弱虫なライオンに例えたいだけだと気付いたから。

 代わりに、一つだけ気になっていたことを尋ねてみた。

「でも、その……山田さんってお酒飲める年齢でしたっけ」

 当然のことながら、自称山田花子は成年に達しているように見えない。指摘すると、彼女は堂々と胸を張って答えた。

「四捨五入すれば、立派に二十よ」

 成程。隆は肯き、これ以上の追及をやめた。どのみち、未成年に酒を飲むなというのが野暮なのだ。無駄な質問だった。

「では、万事上手くまとまったところで行くとしようか」

 自称ジョニィ氏が先頭を切って進みだす。その隣に自称……面倒くさくなったので、自称をつけるのはやめにした。別にミステリィ好きでもないし、呼称に厳格である必要はないだろう。それに、名前なんてある種、個体を識別するための記号とも割り切れる。隆はそうすることにした。

 山田花子がジョニィと並んで歩き、後ろを国崎往人と並んで歩く。ひたひたと、狭く陰鬱な路地は靴音がよく響く。気まずさを感じ始めた頃、往人が独り言のように話しかけてきた。

「なんか、気合入ったアコースだな」

 素性は分からないが、背に負うギターの重みを感じ取れるくらいには先鋭的であるらしい。尾を引かれるが、しかし一番避けたい質問でもあった。次の言葉が容易に予想できるからで、然して往人は雑念なく尋ねてきた。

「なんで、一曲も弾かなかったんだ?」

 隆は容赦なく黙り、質問を殺した。野暮をやったと思ったのか、往人は口を瞑りそっぽを向いてしまう。陽気に見えるが、どうやら本性は口下手であるらしい。自分と近しいものを感じ、アンフェアでないと意識していながら、訊かずにはいられなかった。

「国崎さんは何故、旅をしてるんですか?」

 仕返しに黙殺されると思ったが、彼はシニカルな笑みと共に答えてくれた。

「背中に羽のある少女を、探している」往人の言葉はおおよそ、突拍子ないものの塊で出来ていて、酷く困惑させられた。「なかなかメルヘンだろ」

 答えに貧する隆を尻目に、往人は饒舌だった。

「そういう一族の一人なんだ、俺は。母も、母の母も、そのまた母も皆、羽を持つ人を求めて旅をしている。ちょっとした芸を生業としてな。夢追い人って言えば少しは格好良いのかもしれないが、実際は大道芸人みたいなもんだ。そもそも、翼を持つ人間がいるなんて、俺も半ば信じてない。いや、信じていなかったと言うべきかな」

 彼の言うことは微妙に的を得ず、解しがたいものだった。信じてもいないのに、羽を持つ少女というファンタジィ世界の住人を追い続けている。彼が精神を病んでいるならば、乖離の一言で済ませられるが、健全であるならば何故、信じていないもののために旅することができるのだろう。国崎往人はそれだけの矛盾を、短い語りの中に秘めていた。

 でも、それを言うならば誰だってそうだろうと、隆は思う。人間が矛盾なく、一人であることなどあり得ない。無垢な赤子な時から思考の網は脳の中で張り巡らされ続け、今に至らざるを得ない生き物だから。様々な生き方、在り方があって、いまここにいる。詮無き事に相違ない。

 それでも相手の不明な部分を知りたがってしまうのもまた、人の性なのだろう。隆は自分の悩みとも重なるであろう、一つの疑いを問わずにいられなかった。

「信じてないものを、どうして追いかけることができたのですか?」

 それができるのならば、どんな空虚なものに対しても自分の気持ちを満たせそうな気がした。しかし、往人は軽く肩を竦めたあと、僅かに首を傾げる。

「分からないな」その一言が余りに率直だったので、どういう表情をしたら良いのか困ってしまった。「ただ、追わなければいけないものだと思った。求める何かに追いついた時、俺は俺のもう半分を手に入れることができて、そこで旅も終わるんだと思ってる。いつになるかは分からないけど」

 満たすことのできないもう半分、それは彼にとって未だ追うべきものなのだ。そして隆は、既にそれを失っている。だから、彼のどんな言葉を聞いても届くことはないと分かってしまった。

「そっか……」

 無意識に呟き、再び無言のうちに歩き始める。前の二人は忙しなく話をしているが、少なくとも往人と彼にとって、静寂は絶対だった。

 そして歩くこと暫し。不意に相手の事情だけを聞き出して沈黙を守る自分が卑怯に思えてきて、隆は急かされるようにして、心中をもらしていた。

「相棒が、死んだんだ。交通事故だった」

 往人は怪訝そうに彼を見たが、しかし何も言わず相槌を打つのみだった。

「そいつの声を聴きたいから、僕は弾いてたんだ。弾いて弾いて、才能ないけど少しくらいマシな演奏するためにがむしゃらだった。もう、ギターを転がす理由なんてどこにもない。ここで、叩き割っても良いんだ」

 そうすれば、ちっぽけな音楽への未練も、断ち切れそうな気がする。そして少しだけ、往人がそうしてくれるのではないかと期待した。

「今日は、燃えるゴミの日じゃない」往人はゴミ収集場の、分別規則を描いた看板を指差す。「それに、壊すくらいなら売った方が良いぞ。壊せばそれで終わりだけど、売れば誰かがまた使ってくれるかもしれない」

 物質としてはそうだろう。しかし、楽器に宿った精神は消えてなくならない。そして、壊してしまいたいのは心の方なのだ。

「ついたぞ」不意に前から声がかかる。ジョニィの指差した居酒屋は、場末の労働者がこぞって集まりそうな、安普請の屋台とそう代わり映えしない店だった。「なりは悪いが、破格で良い酒を出してくれる。ツケを払わずにいる男には容赦ないが、基本的には柔和な人間だ。挨拶だけは忘れないように」

 そして、酒酔い中年特有のぎこちなく僅かに震える手で、横開きの戸を開ける。

「いらっしゃい!」威勢の良い声が、少なくとも隣二軒ほどは突き抜けていったろう。スキンヘッドで、マジンガーZに出てくるあしゅら男爵のようにど派手な傷を持つ男は、しかし愛想よく珍妙な四人連れに声をかけた。「おお、ジョンの大将に……揃って新入りかい?」

「いや、違う。まあ、成り行きというか、そんなもんだ」

「そんなもんか」

 そうして顔を綻ばせ、大声で笑う。中年の男が恥らうことなく、ジョンやジョニィといった名前を使っていることに呆れながら、隆は門前で注意されたよう、大声で挨拶をした。暖簾を潜ると、酒の淀んだ匂いが狭い厨房に燻る天麩羅の香りと相俟って、絶妙に食欲を刺激する。山田と名乗る女性だけ一瞬顔を顰めたが、次の瞬間には慣れてしまったらしく、笑顔で往人の隣に座る。店内はカウンタ席だけで十、商売っけがあるとは言えなかったが、今の隆に気遣いをしている余裕などなかった。久々に酒精の匂いを嗅いだことで、彼の鬱気味な心は一気に反転し、高揚の一途を辿っている。

 心の中をぶちまけたのが良い起爆剤となったのかもしれない。とにかく無性に飲んで、有象無象を散らしてしまいたいと思った。相棒の――彼女のことも含めて何もかも忘れて騒ごう。自分はきっと、そのために今、ここにいるのだから。隆は一升瓶を見据え、心の中で呟いた。忌々しい理性よ、さようなら。

 

 気がつくと、山田花子が隆の隣に座り、管を巻いていた。

「こーらー、あんた何か一曲弾きなさいっ」

 隆は無言で女性にでこぴんを見舞い、酒臭いげっぷをしながら尋ねる。

「国崎さんと君が婚約しているのって、ほんとうに本当?」

「んなわけないじゃん、ポーズポーズ」彼女は暫く腹を抱えて笑い転げていたが、一瞬だけ曇った表情を見せてから、そっと耳打ちした。「まあ、私も何気に家出少女なわけですな。家に帰るきっかけが欲しくて。で、後腐れなく消えてくれて、駆け落ちしたという虚言に説得力を持つくらいの美形くんを引っ掛けたのよ」

 いまいち納得行かないが、酒酔い気分でロクな思考ができないのは分かっていたし、一応妥当ではありそうだから、納得しておくことにした。隆は四杯目のお代わりを頼み、それを半分ほど飲み干してから、カウンタに突っ伏す。大地が揺れて、月までが揺り篭のようにゆらゆら揺れている。まるで夢を見ているようだった。

 意識を失う瞬間、相棒の顔が強く浮かんできた。まるですぐ側にいるような感じ。手を伸ばしてみる。空しか掴むことができず、自嘲気味に残った酒を全て呷った。

 それからのことは、殆どなにも覚えていない。

 

 気が付くと、隆は引きずられるようにして既に帰途へ着こうとしていた。誰が背負っているのだろうと目を向け、それが国崎往人だと気付く。慌てて背を降りるが上手く立つことすらできない。酩酊の末期に訪れる、平衡感覚の破綻。なんでこんな所にいるのだろう。

「ほら、無茶するな。酔ってぐでぐでになってるんだ、脱力して背中にもたれてろ。その方がこっちも楽だ」

 往人は介抱し慣れているのか、手際よく隆をおぶさると、再び歩き始める。その足取りは軽やかで、男の痩躯にして膂力であることを実証していた。その左隣にはいかにも仮名くさい女がいて、不安そうに顔を覗き込んでいる。これは下手に気張らない方が良いと判断し、黙って堅く無骨な背中に身を委ねた。男に背負われるなんて最悪だと独りごちながら。

「お前、酒飲み慣れてないだろう」ビールは慣れているが、日本酒は片手で数えられるほどしか飲んだことがなかった。「場末の居酒屋にある酒を二時間で五合も飲めば、余程強い奴でなければ理性を失うかぶち倒れるのが普通だぞ」

 説教されなくても分かってるから、聴かないふり寝たふりをした。

「それより、さっきまでいた浮浪者風の人が消えてるけど」

「ああ、縄張りの方に戻るって。気になることがあるからって、先に帰っていった。お前にも宜しく言っといてくれと頼まれてる」

「そっか……」

 不思議な中年だったが、しかし未練は対してない。人生諭されたわけでも、説教されたわけでもない。元会社員でギターが抜群に上手かったけど、堕ちてしまえば誰だって同じだ。隆は自嘲し、一期一会という言葉の意味を噛み締める。彼にはもう、会えないという気がしていた。そして目の前の男性や女性とも。素性も分からぬ旅人と、家出少女。婚約した振りをして、明日か明後日にでも下らない三文芝居をうちに行くのだろう。見届けたい気もしたが、しかし隆も自分のことで精一杯だった。他者にかまけている暇も、寄り添っている暇もない。

 五分ほど歩いた所で、無理矢理往人の背中から離れ、感覚が正常であることを示すため、何度か跳躍してみせる。まだ後頭部が酷く痛むが、歩けないほどではない。結局最後まで本名を頑なに拒んだ――それにしてもやはり、どこかで見たことがあるような気がするのだけど――彼女からギターを受け取ると、深く頭を下げる。

「迷惑かけて、ごめん」

「構うなって、巻き込んだのは俺なんだから」

「そうそう、それに貴方のギターがなかったら私たち、どうなってたか分からないし。儲けでもてなすのは当然の礼儀でしょ。それにどうせ泡銭身につかず、なんだから」

 国崎往人と山田花子は、けたけたと奇怪な声をあげて笑い出した。隆もつられて、おかしくも何ともないのに笑い始める。辛くて身を引き裂かれそうな別れをまざまざ思い出した後だというのに笑いは尽きず、住宅地を縫って歩いてることも忘れて、身を捩じらせる。そう言えば、彼女と初めて裸同士で触り合いした時もこんなに可笑しかったっけ。そうそう、初めてのキスが頭突きになった時もこれくらい可笑しかった。

 彼女とは音楽で結び付けられた、無二の相棒だった。その関係はどんなに喧嘩してもキスしても抱き合っても、セックスしても変わらなかった。お互いに家庭をもった後も、彼女とは喧嘩をしてキスをして抱き合ってセックスしただろう。二人はそういう仲だった。体の関係を全て男女の関係と結びつけるのは無粋だ。お互いが深く心を交わし、初めて涙が出るほどの透明な歌が二人の中から生まれてくる。全ての手段を使って自分と彼女は、音楽という子供を産んでいた。へどろみたいにプラトニックな関係だったのだ。

 それが、交通事故であっさり逝った。まだ十日しか経っていない。それなのに、彼女のことを想いながら賢を失して笑う自分は、辛うじて正気でいる。それは身にずっしりと残る酒精のせいだろうか、それとも時の残酷な慈悲に満ちた忘却作用なのだろうか。目をだらしなく零れる涙を頻りに拭い、落ち着いたところで意味もなくダッシュしてみた。そして振り返り、二人に手を振った。そうしないと、いつまでも好意に甘えてしまいそうな気がしたから。

「また、どこかで」隆は大声で叫び、自分の道を行こうと歩き出す。しかし、言ってみてそれが案外、本心であることを知り、今度は心を込めていった。「絶対に、また、どこかで!」

 どうやら思った以上に、あの珍奇な集団が気に入っていたらしい。隆は苦笑を浮かべ、早足に夜の闇を進む。哀しみも死も、何も変わらない。それらは厳然として心の中に宿り続け、生涯自分を蝕み続けるだろう。でも、それに押し潰されぬよう、歩くことは出来るかもしれない。

 駅の前においた自転車を回収すると、隆は颯爽と飛び乗った。実家まではここから一時間ほどある。電車を使えば二駅十分の距離だけど、それに頼るほど軟弱な音楽活動はしていなかった。道路沿いの道をひた走り、駆け抜ける。

 この闇のように、依然として進む道はおぼろげにして虚ろで、散々になってしまうこともあるだろう。でも、何とかなる気がしてきた。根拠のない自信だけど、そう思える。

 だから、それまでは、さようなら。

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