蜃気楼の街

プロローグ

 ここは何もかもが遠く、そして呆れるほど緩やかだ。

 まるで底まで見通せるかのような湖の、張り出した岩に腰掛け、東風谷早苗は独りごちる。

 人の手による汚染を知らぬ、無垢なるその姿形をじっと眺めていると、ここが物語で語られるような異界であることを意識せずにはいられない。それはどこか寂寥めいた感情をさざめかせ、やがて心を湖の色と同じ深い透青色へと染め替えていくかのようだった。

 おそらくはこの気持ちこそ、郷愁、というものなのだろう。そんなことを考えながら、早苗は手近にあった荒い石を湖面に投じ入れる。さっと鮮やかな円形の波紋が弾け、それは徐々に弱まり掻き消えていく。この心も同じよう、凪いでしまえば良いのに……そう願う反面、まだ暫くはかかるだろうということも自覚していた。

 当然のことだろうと早苗は思う。何しろ自分は半年ほど前まで、世知相絡まぬ学生の一人であったのだから。そこでは画一的な制服を身に纏い、日々学び、時には羽目を外し、しかし総じてみれば皆と同じである、繋がっていると、漠然と考えることができた。瓦斯、電気、水道、全てが整えられ、物質的には十二分に恵まれ、何の憂いもない。ただ将来はどの道に進もうかという不安があり、きっと他に道がないから何かと自分に理由をつけて大学に通うんだろうなあと、底の窺えない計画を漫然と練っていただけだ。都会には憧れるけど、でも祭祀を執り行なうものの末裔として、諏訪の周辺を離れることはできないだろう。でもきっとそんな中で母と同じように結婚相手を見つけ、生涯この地に居、骨を埋めていくのだろう。そんな諦観めいた将来の決め付けはあったけれど、不運だとも不幸だとも感じなかった。

 しかし最早、早苗の世界はそこにはない。比喩なく魑魅魍魎の跋扈する幻想郷こそ、今の早苗の世界であり、そして現実であった。そのことを早く受け入れ、馴染まなければならない。分かってはいるのだけれど、その度に焦りや、口では形容し難いずれのようなものを感じてならない。そう、わたしはここではずれた存在なのだ。今はまだ。あるいはこれからもずっとそうなのだろうか? そもそもこのずれた感じを言葉で表そうとしても上手く行かない。

 ただ、その端緒となる出来事ははっきりとしている。博麗神社の巫女に力比べで負けたことだ。この地に辿り着いて以来、練りに練ってきた力の数々を難なく突破され、打ち崩され、ただ路傍の石ころと成り果てたあの瞬間を、早苗は映像のような鮮やかさで思い出すことができる。高らかに謳ったことはないけれど、風神の力を一身に体現した秘術の数々は神奈子様を除く誰にもひけを取るものではない――そう信じてきた自分は、そのとき物理的でない様々な意味で死んでしまったのだと思う。

 その後、当の巫女によって幻想郷の理を説かれ、最初の宴席の場において少なからぬ空想上の生き物たちと対面する羽目となったのだが、早苗は酒精によってもたらされた醜態と共に一時、それらの記憶を脳の一番奥側に追いやる。そのまま消えてくれればと願うのだが、暫くはことあるごとに蒸し返されてしまうのだろう。

 溜息が一つ、白いものを帯び、大気と混じり合って消えていく。まだ日が西に落ちる様子はないけれど、それでも息は凍るのだ。意識するとその冷たさは身震いとなって体を襲う。風神に縁があるためか昔から寒風吹きすさぶ中でも割合平然としていられたのだけれど、それでも身冷えしてしまいそうになる。幻想郷の四季はあらゆる意味で我が強いから気をつけたほうが良いとはやはり博麗神社の巫女の言葉だが、どうやら確からしい。秋は実り豊かで、冬はとても厳しい。さすれば春はとても鮮やかで、そして夏はとても激しいのだろう。まだ見ぬ季節は早苗にとって待ち遠しくもあり、そして不安でもあった。

 あるいは四季の全てを身に受け、数多の住人たちと交じることで、このずれは自然と薄れていくのだろうか。しかし神奈子様は最初から違和感なく平然と、まるでここが故郷であるかのように振舞って憚ることがない。先日など越後の酒呑童子もかくやの酔鬼と真正面から飲み比べをし、互いに譲ることなく三日三晩争ったのだというのだから、酒精に免疫のない早苗など、話を聞くだけで頭が痛くなって来る。その後したたかに請求された酒代が、その痛みをより強いものにしたのだが、神奈子様は『異邦人同士が打ち解けあう最良の方法はね、膝つき合わせて杯を交わすことよ。必要経費、必要経費』と俗っぽいことを飄々と言い、悪びれるところがない。細かい帳尻を合わせるのはこちらだというのに……早苗は文句の一つでもつけたい気持ちだったのだが、当の神様があまりに上機嫌なので仕える巫女としては何も言うことができなかった。

 多分……と、早苗は推測する。神奈子様に聞けば良いのだろう、この心の間隙を如何様にすれば良いのか。しかし主人が楽しんでいるのに、仕え人が疑問を呈して良いものだろうか。

 それでも思い余って訊ねようとしたことが何度もあったけれど、その度に早苗はそれらを飲み込んできた。

『後悔は、しないのね?』

 諏訪湖を中心とした神的、霊的存在の異界渡り――正に言葉通りの御神渡が行われる、その日の晩。早苗を異界行きへの供連れにすると決意した神奈子様が最後に、ほんの少しだけ寂しさをたたえ、問いかけてきたとき。早苗は首肯し、側仕えの道を選んだ。最早家族と再会することは叶わぬだろう。諏訪での数々の思い出を置き去りにしてしまうだろう。それでも神与の従うところ、神奈子様の側にいると誓ったのだ。そのことに疑義を抱いていると、神前で誓ったことを翻そうとしているなど知られたくなかった。

 しかし新天地の目まぐるしさにどれだけ浮かれ騒いでいようと、自分がこんなでは近いうちに気付かれてしまうだろう。それはもしかしたら今日かもしれない、そう考えると早苗の足は日が暮れる直前まで、人気のない空漠な場所に自然と、吸い寄せられてしまうのだった。

 これでは失職したことを家族に隠そうとしている、リストラされたサラリーマンのようだ……嫌な例えが頭に浮かび、慌てて打ち消そうとしたそのとき、この場を冷たく染めていたものとは異なる風がひゅるりと、湖面やそれを囲む裸の木や針葉樹の梢を慌しく揺らす。早苗はすぐさま心当たり、空を見上げる。そこには真冬だというのに、袖の膨らんだ半袖のシャツと丈の短い黒のスカートを身につけた、見ているだけで鳥肌が立ちそうな少女が立っていた。例の一連の事件があってから、ちょくちょくと早苗にちょっかいを出してくる女天狗だった。

 彼女は休憩場所はないだろうかと大仰に辺りを見回し、わざとらしく早苗の腰掛けている岩場に身を翻し、枯葉のように緩やかに着地する。

「おお、これは諏訪大社の巫女じゃないですか、こんな所で奇遇ですねえ」

 早苗は最早慣れっこになった奇遇に目を瞑り、何となくそっぽを向いた。からりとした天狗風に、胸に溜め込んでいた愁いや湿り気を吹き飛ばされたようで、少し癪に障ったのだ。天狗の少女――射命丸文はそんな早苗の気持ちなどお構いなしに、どちらかと言えば友好的な様子で隣に腰掛ける。

「元気がないところを見ると、今日の布教も上手く行きませんでしたか?」

 どことなくからかいの色を帯びた訊ね方に、早苗はぞんざいに首を横に振る。

「まあ軽く挨拶した相手が神的、あるいは魔的であるなど、ここでは日常茶飯事ですからねえ。自らのみを恃むもの、かつて神的なものに追いやられたもの、そんなものたちにぱっと出の新参者の神様を祀れだなんて、一朝一夕でどうにかなるものじゃないでしょう。あるいは生まれて間もない妖怪や気紛れな妖精なんかだと、信仰? それはお漬物と何か関係があるのかしら? みたいに軽く流されちゃうのがオチでしょうね」

 文はまるで早苗の働きや郷愁を嘲るかのように、軽く笑い飛ばしてみせる。流石にむっと来て、早苗は刺々しく言い返した。

「貴女は一体、何をしに来たんですか? わたしのこと、わざわざ笑いにでも来たんですか?」

「ええ、もちろんそうですよ」早苗としては単なる当てこすりのつもりだったのだが、あっさり肯定されてしまい、思わず面食らってしまった。その様子が愉快だと言わんばかり、文は上機嫌で言葉を続ける。「だって天狗のやることと言えば、天狗風を吹かせる、根拠もなく威張り腐る、賢しらに説教をする、そして下界の人間を馬鹿にすると、決まっているじゃないですか。わたしは極めて基本的な天狗の本分に従ったまでですよ」

 彼女の言動にはまるで悪びれたところがない。それで早苗も、胸の中に沸き立っていた怒りが一瞬で冷めてしまった。そして同時に、これも博麗の巫女が言っていたことだが、人ならざるものと接するときの鉄則を思い出す。

『例え姿形がどれだけ人に似ようとも、妖怪は人にない独特の理を持ち、ただそれだけに忠実に生きようとするものなの。中には例外もあるけれど、それは基本的に差っ引いて構わないわ。あなたがここで巫女として生きるならば、それらの理と対峙しなければならない。そして時と場合に応じて懐柔したり、ときには断固の手を取らなければならないの――と、これだけ言うと難しいけれどまあ、基本はその場その場で適当に裁量しておけば、勝手に何とかなっていくものだから。肩肘張るだけ損というものよ』

 炬燵にどっぷりと潜り込み、ふわふわとした調子で託けする巫女には神性の欠片すら見出すことができない。茶を啜り、柔らかそうな頬を台の上にふにゃりと乗せるその姿を見て、早苗はその頭の上に蜜柑を置き、鏡餅だと言って無性に笑ってやりたくなった。実行はしなかったけれど。そのままとろけてしまいそうな紅白の巫女に、相談する者を間違えたかなとその時は思ったものだが、やがて彼女の言葉がそれなりに正しいのだと、早苗にも分かってきた。妖怪は妖怪、幽霊は幽霊、怪物は怪物、妖精は妖精、そして人は人なのだ。

 そして射命丸文は天狗である。だから仕様がないのだ。早苗はふいと水面に視線を移し、透徹としない自己を垣間見、俄かに気鬱を思い出した。そんな早苗を見て、文は小さく息をつく。

「あのですね、こういう声をかけるのはまあ、天狗として遺憾なのですが」そう断ってから、文は気遣わしげな声音を早苗にむける。「本当に、大丈夫ですか? 今の貴女、わたしの目にも分かるくらい、淀んでますよ。風の神様に仕える巫女だというのに、一筋の風も感じられない。停滞しています」

 停滞……というのは言いえて妙だなと、早苗は思った。今の自分はどこにも進めない、風を伴わぬ台風の目のようなものだ。

「最初は仕事が捗らないから元気がないのかと励ましに来たんですが」

 あんな居丈高のおちゃらけが励ましだったのか……一瞬頭を抱えたくなるも、しかし早苗は少しだけ相手を見る気になり、ちらと横目で文を窺う。年輪を経て獲得したであろう深く老獪な瞳の色からは何も読み取ることができないけれど、程度の多少は兎も角、こちらを心配しているのだということは見て取れた。

 水面を震わすひゅうと言う音がはっきりと聞こえる無音の後、明暗でも思いついたかのように文は両手をぱんと合わせた。

「そう言えば少し前、博麗の巫女が言っていました。悩みがあるときはなまじ親しい間柄のものではなく、身近な木石といったくらいの他人に打ち明けたほうが上手く話せるし、一度心のうちを吐き出すと気持ちが楽になるそうですよ」

 文はそのことをたったいま思いついたかのように、表情を綻ばせてみせる。しかし早苗は非常に胡散臭いものを覚えた。それは確かに正しいのだろうけれど、早苗は先程の言が博麗の巫女の思いつきかどうか疑わしいと思ったし、何より微かに好奇心の煌きが見て取れたのがいかにも怪しい。

 ようやく山に基盤を築き終えてすぐの頃、どのような河童や天狗よりも奇遇に出会ってしまう彼女は、早苗の元住んでいたところについて、そのときはもっと露骨だったけれど、見知らぬ異邦人から油の一滴まで吸い取って見せようとばかり、根掘り葉掘り訊いてきた。新聞記者ですからという話で、調べると確かにその通りだったのだが、文の取材は要点の纏まりない単なる与太話で、話したことが何倍にも誇張されて誌面を飾っていたり、捏造されていたりと、イエロージャーナリズム全開の素晴らしく性質の悪いものだった。しかもいつぞやは霰もない寝姿を密かに撮られ、それが大々的に掲載されてしまい、神奈子様に腹を抱えて『これで早苗も有名人ねえ』と、哄笑されてしまった。初宴会時に見せた酒精による霍乱と同じくらい、忘れてしまいたいことだ。

 もっとも、彼女なりの節度はあるようだった。

 その数日後、早苗は文が訪れてきたとき、飄々とした天狗の少女に少しばかりの意趣返しをしようと、今まで殊更強烈だからと敢えて口にしなかった事実を刻々と述べ立てていったのだ。

 世界規模で二度の大戦が起きたこと。その中で使われた兵器の数々――銃、爆弾、毒ガス、戦闘機、潜水艦、ミサイル――によって、数千万もの人間が死んでしまったこと。そしていま、地球には全人類を何十回でも滅ぼして余りある兵器が、国家間の際どく醜い緊張関係によって辛うじて使われずにいることを。

 文は最初こそ興味深そうに聞いていたが、やがてこの天狗にしては物珍しく眉を潜め始めた。スケールの大きさと、かつてあの世界にいた頃巧みに潜まされていた世界へのマイナス感情は自然、早苗を軽い興奮で満たしたが、ふと我に返ってみると文はまるで道を問う鋭き求道者のような瞳をしており、その険しさそのものの声で訊ねてきた。

『では、あなたたちはそんな世界に嫌気が差して、ここに逃げてきたんですか?』

 いきなりの、そして全く予期していない問いかけに、早苗は俄かに怒りを覚えた。太古から風の化身として畏れられ、かしづかれてきた神を腰抜けのように言われたのだから。その仕える巫女が怒りを表明しようとしたのも当然のことであった。しかし実際何が理由なのか、早苗には答えることができなかった。

 神奈子様がここに移住することを決意したこと、早苗が付き従うと心に定めたこと、そのどちらにも逃避の気持ちが含まれていないとなれば嘘になる。現代であっても立派な社にくくられ、敬われ、崇められる神格を持ってはいても、それは論理とそれに基づく科学常識の範囲内、ごく小さな領域に限定されてしまっている。かつて荒ぶる自然が神与の全てだった時代は遥か遠く、しかし宵闇の幻を模した数多の妖異の物語に埋もれてすらなお稀有であった。それすらもいま、人が普遍的に持ちうる価値観の前では無に等しい。そしてそこから生まれたものの中には掛け値なしに破滅的であるものも沢山ある。それらは怖ろしく、そのようなものを生み出した人の持つ何かに、早苗は多からぬと言えど不信感を覚えている。それは確かだった。

 しかし少なくとも早苗はそのようなことを意識して、ここに来たわけではない。科学の世はそれなりに生き易いものでもあったし、戦争は人類の不断の努力によってやがて克服されると楽観視していた。それは悪しざまに平和ぼけと言われるものでもあるのだろう。しかし人の総体を全て悪しきもの、疚しきものと捉えることなどできなかった。早苗はそこまで傲慢ではないし、神奈子様はより寛容に人間というものを捉えているはずだった。そうではないのだ。

 しかし後からじっくり考えたからこそ練り出せた考えであり、文の射抜くような質問にはっきりと答える思弁の深さをそのとき、早苗は持っていなかった。ただ後ろめたさのようなものを抱き、小さく首を横に振ることしかできなかった。ゴシップ屋の少女天狗はそんな曖昧な早苗をしかし、うっすらと微笑みのように笑うだけだった。今更覚悟の無さを曝し意義のなさを迷うのかと小馬鹿にしたのか、それとも寛容に見逃してくれたのか。どちらにしてもそこで話は打ち切りとなり、文は替わりに一つ忠告をくれた。

『このようなことを、これからは容易に吹聴しないほうが良いですね。特に天狗には』何故、と問うと文はごく軽く天狗風を吹かし、舞い散る木の葉をふわりとあげた。それが天狗に取って多少なりであれ、人に真面目に語る合図であると知ったのはこれも後であるが、兎に角もこう言ったのだ。『天狗は人の増長、賢しらさを象徴する一面がありますから。もし人が貴女の言うような怖ろしい兵器を作ることができるのならば、天狗の中には人に過度の増長を見出し、下手をすれば穏やかならざることになるかもしれません。まあ半ば冗談のようですけどね、心に留めておいても損はないはずですよ』

 そうしてそのときはあっさり立ち去ったのだが、いつまで経っても早苗の話した戦争や兵器のことが文の新聞に載らないと分かり、もって肝に銘じることにしたのである。早苗は人であり、何よりも神奈子様の巫女だ。信仰の基盤の最も深い根を構成している山の妖怪たち、その中心勢力の一つである天狗の心持ちを無駄にかき乱すことは得策でないし、その他にも人に好意的でない妖怪はいくらでも存在するだろう。だから早苗はそれ以降、誰であれ惨たらしい戦争や殺戮の話だけは避けた。もっとも地上を時速三百キロオーバーで走る鉄の塊――新幹線の話すら、宴席のものたちには与太話としてしか受け入れられなかったのだから、それらのことも話しても良かったのかもしれない。あるいは些細なことですら、幻想郷のものたちの心を実は穏やかならざるものにしているのだろうか。結論を出すには、早苗はこの世界に疎過ぎた。とまれ文の真面目な態度、錐のような問いかけが、早苗の郷愁めいた気持ちを煽り立てたには違いなかった。何故なら彼女の問いかけを考えることは、遺してきた世界に想いを馳せることとなるからである。

 

 自分が間接的とはいえ、不元気の原因であるとは知らず、文は少なくとも表面的には早苗を気遣う仕草を見せた。『天狗が人に言うことやることなんてね、一切合財取り合う必要なんて無いのさ。奴ら、結局は人をからかいたいだけなんだから』とは、文の新聞を見て自分を笑った神奈子が、付け足すように早苗に言ったことであるが、しかし目の前の少女天狗には厳格な意味では当てはまらないのではないかという気がした。

 もちろん容易に同情、弱みなどを見せないよう十分に気をつける必要はあるのだろう。それでなくとも天狗は霊力が強く脚が疾く、早苗でさえ叶わぬであろう相手がざらにいる。目の前の少女天狗も、堂々と閑職――もっとも本人に言わせれば八面六臂の大忙しらしい――を決め込んではいるが、同じ天狗の中ですら彼女の力を侮るものは殆どいない。見かけこそ同年代であるが、間違いなく数倍、下手すると数十倍は齢を重ねているに違いなかった。齢を重ねて力と知恵を増しても、人と妖怪の間にはれっきとした差がある。妖怪というのはあくまでもその存在意義に忠実に、それに沿って身についたものを揮う。三つ子の魂、百までとは有名な格言だけれど、天狗は生まれてきたときから皆、天狗なのだ。

 しかし短い期間であれ彼女のことを見聞きし、飄々とした中に潜む真面目さ、堂々と人に交じって憚らぬ在り方はまた、天狗らしからぬものも感じさせた。例え平均からすれば些細な逸脱であるとはいえ、その僅かな差に期待する価値は十分にあったし、例え考え違いであってもそれは自分の中で教訓とすれば良いだけだ。それにあのとき、彼女に答えられなかったことをはっきりとさせることは、自分にとって必要なことではないかという気もした。

「多分、とても長い話になりますよ」上手く要点だけ纏められていたならば、それだけを話せば事足りたのだけれど。思慮の浅い自分を悔やみながら、人間の少女は溜息のように言い添える。「そしてどこにでもあるありふれた、とても退屈な話です」

「構いませんよ」と、天狗の少女は厭わぬ顔で返す。「ここには時間だけなら余るほどありますし、それに貴女のかつていた世界でのありふれたことは、ここでは十分に風変わりですから」

 成程そういう捉え方もあるのか。早苗は得心し、そして俄かに言葉が淀んだ。躊躇いではない。自らの語るべきところの始まりがどこにあるか、直観できなかったからだ。しかし幸い、すぐに当たりをつけることができた。吟味し、間違いがないことを確認してから、早苗は話を始めた。

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