白蓮さん、あなたに仏のお恵みを - Sample1

 おそらく久しぶりに五感が身にはしり、水蜜は戸惑い半分、寝ぼけ半分で船上に向かっていた。

「ここは、どこだろう」やけに蒸し暑い気がするし、何やら強い力の満ちているような気もする。霊体を動かすことさえままならないけれど、留まっていては危険だと思い、せめて様子だけでも窺おうとしていた。「わたし、どうしたんだろう」

 記憶が混濁している。己の名前でさえも、あまりにも遠い遠い過去であるように感じ、孤独であることも相俟って、いまにも不安で涙を流してしまいそうだった。

「誰か、いないの?」そっと声を投げかけるも、返ってくるものはなく。「どうしてここにいるの? わたしは誰?」

 水蜜は己の存在を己に問いかける。

「ここは船」然るに自分は船乗りなのだ。違和感がなかったので、水蜜はその前提で思考を進める。「これはどんな船?」

 貴人を乗せるための船だ。そう直観した刹那、水蜜は爆発的に記憶を取り戻していた。己が何であるかも明確に自覚していた。

「そうだ。わたしは胡乱なものとして封された」

 人間の呪い師ーー水蜜は聖を迫害し、魔界に封印したものたちを僧などと呼びたくないからそう呼んでいるーーに封され、地の底に落とされたのだ。その認識が身に馴染むと同時、水蜜は駆けだしていた。村紗であったわたしにそうであれかしと説いてくれた彼女のことを強く思い出したからだ。

「早く、行かなければ」どこへ? もちろん魔界へだ。聖を救出しなければならない。「でも、どうして?」

 水蜜に施された封印は聖のものに比べれば簡易であるとはいえ、生半可な僧をいくら集めたところで解くことの叶わないものだった。そこまで考えて、水蜜は希望に胸が膨らむ己を自覚する。

「もしかして、聖が助けに来られた?」

 聖ならば魔界の封印さえ解くことが可能かもしれない。水蜜は急く気持ちを抑えられず、霊体であるというのに躓きながら、船上に到着する。そこに敬愛するものがいると信じて。

 しかし水蜜の目に入ってきたものは、まるで異質のものであった。力の膨大さゆえか、その身は白く発光し、それでいて消し難い特質が黒き翼として現れていた。その荒々しさは霊体である水蜜には眩しすぎ、しかし目を離すことができなかった。

「何と……」美しい、黒き聖なる翼か。「あれは何?」

 仏の類ではない。水蜜は短い間であったけれど聖の側にいたから、仏の威光やその法力を何度も目にしている。そして魔の力でもない。聖が使う魔法では斯様な力は顕れないはずだから。

 ではどのような力なのか。微かに神通力という単語が思い浮かんだものの、そこで水蜜の記憶は一度途切れる。直下から強烈な熱泉が噴き上げ、水蜜を船もろとも弾き飛ばしてしまったからだ。

 

「と、いうわけでありまして」

 水蜜は封印から解き放たれ、地上に出てきたときのことを皆に語っていた。皆というのは雲居一輪、寅丸星、聖白蓮の三名と、たまたま居合わせたナズーリンのことだ。宝船騒動の中核を成した彼女たちは人里近くに寺を建て、将来の見通しがようやく立ち始めた頃合いであった。またそれゆえに、水蜜は今まで胸の奥に秘めていたことをその日ようやく打ち明けていたのだ。

「なるほど、地底に住む黒翼のものですか」聖は突拍子のない話にいち早く相槌を打ち、強い興味を示してくれた。「村紗を助けてくれたのだとしたら、お礼に伺わなければなりませんね」

 その通りだと頷きかけ、水蜜は強い怪訝の視線に気づいた。それは予想通り、部屋の端で偉そうに腕を組んだ鼠から放たれていた。

「何よ、その嘘くさいみたいな表情は」

「別に嘘だとは言ってない。ただ、千年もの眠りから覚めたばかりであったならば、胡乱な幻の一つや二つ、見てもおかしくないと思っただけさ」

「要するに嘘ついてるって言いたいんでしょ? 回りくどい言い方しなくて良いのよ」

「まあまあ二人とも」不毛な言い争いになりかけたところを、星は手を振って宥める。「憩いの場で諍うものではありませんよ」

 そう言って星は部下である鼠に目配せし、すると少し不機嫌そうに口元を窄めてしまった。小気味良い気持ちを覚えていると、そのことを悟られたのか、今度は水蜜に柔らかくも厳しい視線を向けてきた。

「妄りに人妖を疑うのは良くないですが、村紗の話が荒唐無稽であることも確かです。しかし村紗の話が本当として、そこまでの神格をふるうような存在が地底にいる理由も分からない」

「それは……」水蜜は言葉に詰まって、一人ほんわかとした様子の聖に視線を向け。ふとした考えに思い至った。「聖のように封印されていたのかも」

 不意に視線が集中し、聖はあらあらとばかりに座中の妖怪たちをぐるりと見渡し、響きの良い柏手を打った。

「百聞は一見に識かず。それに実を言うと、わたしも地底に少しばかり用がありまして」

 それは水蜜にとって初耳であり、他のものの表情からして誰もその腹中を知るものはいないようであった。

「地底は危ない所と聞きますから、何方かを護衛に訪いたかったので、丁度良いところでした。そんなわけで村紗、明日はよろしくお願いしますね」

 柔らかい物腰ながらも聖の押しは強烈で、水蜜はいつの間にか聖と二人で地底へ潜る算段となっていた。しかも今日の明日と来たものだ。封印されること千年余もの年月も、彼女の精力を奪うには至らなかったらしい。水蜜にはそのことが嬉しくもあり、不安でもあった。かつて聖はそれ故に人間たちに畏れられ、遂には魔界に封じられてしまったからだ。

 そんな胸中も露知らず、聖は後詰めをてきぱきと指示していく。ついつい全面的に身を委ね、何も考えず従ってしまいそうになるけれど。二の轍を踏まないためにも己を保っているべきだ。聖を助けるとき、胸に宿した独立的な気持ちは心の奥底に残し、薪をくべればいつでも燃えるようにしておくべきだ。

 水蜜はそう心に言い聞かせ、すると次には単純に胸がどきどきしてきた。初めての大冒険、そして聖と二人きりの旅。聖輦船を使えないのが残念でならない。こういう時のためにこそあの船はあるはずなのに、今は寺として機能しているから無闇に持ち出せないのだ。そもそも地底にあんな船を持ち込むわけにはいかないから、どのみち聖を乗せる訳にはいかないのだが。

 まあ良いと水蜜は一人合点して頷く。今日は早く寝て、いや幽霊だから眠る必要はないのだが、気持ちの問題としてゆっくり休むことにしよう。そう心中に呟いてから、ちらと聖の表情を窺う。聖の笑顔は完璧で、水蜜は根拠もなく探索は順風満帆になると確信する。それから心の中で小さく首を横に振った。ゆめゆめ油断大敵である。

 

「えー、こちらは地底の入口です。ひゅうひゅうと強い風が巻いてますね。湿った植物の匂いも濃く、どことなく瘴気すら漂ってきそうな塩梅です。流石は幻想郷に残された魔境の一つ、一筋縄ではいかない冒険が待ち受けていそうです」

 そこまでまくし立ててからしばし、聖が怪訝そうな様子で訊ねてきた。

「えっと、村紗は何をしているのかしら」

「えへん、これはですね。現代風の冒険作法というやつでして。こうやって何かが起きるたび、基点にさしかかるたび、こうして状況を刻一刻と述べていくのだそうです」

「なるほど、洞窟探検は危険だからそうやっていちいち語ることで内省を促すわけね」

 本当にそうだかは分からないけれど、聖の意見はもっともらしかったので無思慮に頷いた。

「山の巫女に教わったんですが、最近では藤岡某という名の探検家が好んで使う手法だとか」

 彼女曰く、かつて彼は飛蝗のような姿に変身したらしい。飛蝗の妖怪なんて珍しいけれど、かの国の広大な領土を考えれば遭遇していない妖怪など山のように存在するに違いないと水蜜は勝手に結論した。

「藤岡ですか。妖怪にしては高貴な字を性に織り込むのですね」

「彼は人間を守る正義の味方らしいですから」

「なるほど、幻想郷では特別な力を振るっても怖れられないのは知っていましたが、外界でもそうなりつつあるのでしょうか」

 聖は少し思案げな様子を見せたのち、曖昧に微笑んだ。

「この件は保留にしましょう。さて、それでは早速地底へ赴きましょう。村紗は準備できた? 厠は済ませてきたかしら」

「わたしは船幽霊ですってば」

「そうでした」聖は分かりやすく舌を出すと、水蜜に目配せした。「では改めて、先に進みましょう」

 聖はそう言うと手で加護を切り、洞穴に入っていく。水蜜は小さく溜息をつくと慌てて後を追った。

 聖のかざす原理不明の光は洞窟においてそれなりに明るく、半ば暴力的であった。暗さ故に塒をかき乱された蝙蝠が頻りにきいきいと舞い飛び、流石にまずいと思ったのか光量を落とす。少し見通しが悪くなったので、水蜜は飛行速度を少し落としたのだが、聖は身に魔法をかけ、速度を落とさない。どうやら注意する代わりに多少の障害物を強引に突破する腹づもりのようだ。

 悟りを開くほど穏やかで凪いだ性格の癖に、力押しを好むのはちぐはぐだなと思いながら、水蜜は聖という傘下に入る。護衛のはずなのに守られるのもちぐはぐなのだが、そうやって自然と周りのものを守り、愛するゆえの聖なのだと思うと、何とも複雑な気分だった。

 そんなしんみりを打ち払うようにかーんと乾いた音が響き、悲鳴のような声があっという間に遠ざかっていった。

「えっと、何の音でしょうか?」

「わたしの頭に何かぶつかってきたみたいね。一瞬しか見えなかったけど、木桶のようだったわ」

「どうしてこんな所に木桶が?」

「新しく井戸を掘ってたら繋がったとか」

 それは流石にあり得ないというか、不可解な現象に当たったのならばまずは妖異を疑うべきだろう。

「地底の妖怪でしょうか」

「それならば是非ご挨拶をしたいところですね」

 すると聖の言葉に惹かれたかのように木桶らしきものが高速でこちらに向かってきた。そして聖に衝突し、乾いた音を立てて再びあらぬ方向に弾き飛ばされていった。

「どうやら釣瓶落としだったようね」

「その割には落ちてくるんじゃなくて向かってきましたけど」

「釣瓶落としは桶の底面が下なの。無重力でどんな方向に浮いていても足のあるほうが下なのと一緒よ」

 微妙に分かりにくい表現をされて、水蜜は曖昧に頷くことしかできなかった。魔界で色々と学んだせいか、聖はたまに思いもよらない発想や思考を見せるので微妙に困ってしまう。

「まあ釣瓶落としさんへのご挨拶は今度ということで。地底は深く夕飯時はすぐにやってきます。そろりと急ぎましょう」

 といっても聖は粥と少量の漬け物だけを一日二食戴くだけだから、急く必要はない。星のあくまでも主を待つ律儀さと腹ぺこ加減に配慮しただけである。虎の身で千年近くも肉を断って来たのだから、食い意地が多少張っているのは多めに見るべきだと水蜜は思っている。悟りとはあらゆる執着からの解放であるそうだが、それならば自分は悟らなくても良い気がする。仏門の傘下にある身で不遜な考えかもしれないが、自分はもう少し気楽に、欲望的に生きていたかった。またそういう視点が聖には必要であると水蜜は思う。

「地底に潜ることしばし、不穏な気配が漂ってきました。食い散らかされ、干からびた肉の臭い。それに何だか空気が粘っこくなってきたような気がします」

 水蜜は観察の結果を口にしてから、辺りを見回す。何かしらの妖怪の領域であるためか、妖気が俄に濃くなりつつあった。

「ここは早く突破した方が良いですね」

「そうですか? 近くに妖怪がいるならば、是非とも挨拶をしておきたいところなのですが」

「悠長をしている時間はないと言ったのは聖でしょう?」

 落ち着かない空気であるためか、聖の暢気さゆえかつい語調が強くなる。思わず口を塞ぐと、聖はまるで気にしていない様子だった。

「地底の事情は、地底のものが一番良く知っていると思うの。話の通じる相手ならば尚更のこと」

「話の通じない相手だったら?」

 聖はにこりと微笑み、先に進んでいく。水蜜は思わず背筋をぴんと伸ばす。柔らかな物腰から繰り広げられる長々とした説教を思い出したからだ。聖は慈悲深いお方だが、悪しきをみては滔々と説教を立てる癖がある。一度始まれば、夕餉の時間などあっという間に過ぎ去ってしまうだろう。それだけは避けなければならない。

 そんなことを考えていると聖がふと飛行速度を緩め、ついには中空で停止した。何事かと目を凝らせば、洞穴の大部分を塞ぐようにして、白く粘々としたものが縦横無尽にかかっていた。

「蜘蛛、でしょうか?」流石に分かりやすすぎて、水蜜にさえすぐにその正体が分かった。「これほどの巣を張るとは」

 暗闇で全様の窺えないことを残念に思えるほど見事な巣の張り方であった。しかし一部分しか見えないのは幸せなのかもしれない。見えないどこかに糸でぐるぐる巻きにされた食糧がぶら下がっているかもしれないからだ。

「見事な土蜘蛛の巣です。これほど見事なものをわたしは一度しか見たことがありません」

 聖は思い当たる節があったのか、頭上にいるであろう蜘蛛に向けて声をかけようとした。

 そのとき背後から急に気配が生まれ、聖の背中に強烈にぶつかった。例の木桶は三度、弾き飛ばされてしまったけれど、今度はこちらも無傷ではいかなかった。聖が土蜘蛛の糸に絡まってしまったのだ。

 蜘蛛は糸の微かな震えを正確に察知できる。案の定、するすると巣の糸を伝いながら、せわしない様子で何ものかがこちらに迫ってきていた。

「お、久しぶりの獲物だ。しかも実に旨そうな匂いと来たものだ。重畳、重畳」