超高速列車から下り、ホームに足をつけるとわたしは空気の臭いと湿度にむせそうになった。気温や大気が調整されている京都と違い、構築途上の東京は環境が雑であると聞いていたのだが、実際に感じるのとでは大違いだ。生温く、微かにすえた臭いのする空気でたちまち気持ち悪くなる。

 あとから続く蓮子といえば、そんな空気を平然と受け止め、思い切り吸い込んでさえみせた。京都の高等学府に所属するまでは東京に住んでいたそうだから慣れているのだとは分かっていたけれど、それでも信じられない行動であった。蓮子は鼻を押さえ、顔をしかめているだろうわたしを見て、頬を緩ませる。

「メリーは逞しいけどそういうのを見ると京都生まれの京都育ちなんだって思うわ」

「わたしにしてみれば平気にしている蓮子のほうが不思議だわ」蓮子がまるで人間の姿を持つ異邦人にさえ見えてくる。「東京はどこもこんな感じなの?」

「データによれば汚染が酷いのは東京駅周辺を含めた、再開発が急ピッチで進む一部分のみみたい。汚染マップによるとわたしの実家付近は含まれないはず。わたしが住んでた頃より少しだけ酷くなってるけど」

 蓮子は検索結果をわたしに放り投げてくる。それを聞いてわたしは少しだけほっとしたが、すぐに京都の汚染が酷い地域に比べても汚いことが分かり、げんなりする。お世話になる家の空気までこれだというのはできれば勘弁して欲しかった。

「東京は発展途上だから。わたしが生まれる前からずっとそうだったけど」蓮子は続けて、扉が開いてからの東京の発展史を放り投げ、わたしは手でそれを弾く。「あらつれない」

「わたしは蓮子と違って行き当たりばったりではないの。あらましくらいちゃんと調べて来ているわ」

「その割には空気の汚さに面食らったようだけど」

「初めてなら誰だって驚くに決まっているわ」

 少し強く言うと蓮子は失笑し、わたしに手を差し伸べてくるのだった。

「京都ほど洗練されているわけじゃないけど、だからこそ面白い街よ。これから嫌ってなるほど案内してあげるから」

 わたしは溜息をつく振りをして、蓮子の横に並ぶ。差し出された手には気付かない振りをする。わたしのほうで準備ができていなかったからだ。

 そうして二人で、京都より汚れの目立つプラットフォームや駅構内を歩く。雑然とした構造がここは京都でないことを示しており、空気に少しずつ慣れてくると、今更ながらに気分が高揚してくる。

 ここが蓮子の生まれた場所、京都の半数の人口を抱える都市、東京なのであり、わたしはちょっとした異邦人として、その地に足を踏み入れたのだった。

 

 実家に帰るのだと唐突に聞かされたのは夏休みに入ってすぐのことだ。

 去年は帰省しなかったし、これまでにそうした素振りを微塵も見せなかった。かつて蓮子の情報を調べたときに両親のデータはなかったから、わたしはつい「両親がいたの?」と失礼なことを訊いてしまった。だが蓮子は特に気にする様子もなく、緩い笑みと共に頷くのだった。

「運が良かったのか、悪かったのか」

「人間の両親を持てるというのは優れていると判断されたわけでしょ? 運が悪いことはないと思うのだけど」

 親やその所属する社会との触れ合いは、心理学が高度に発達した現在であっても必要なことで、遺伝子の解析によって優秀になると判断された子供から割り当てられていき、籤に漏れた子供たちは製品のように育てられる。非社会型の乳幼児育成は急速に発達しており、やがては親が完全に不要となるだろうが、今はまだ親を得られた子供の方が統計から見ても有利に成長できている。

「その両親のせいで、少しばかりの障碍を負うことになったのだけど」

 蓮子はそう言って頭を指でつつく。これも確実なことはまだ分からないけれど、情報障碍がマニュアルに従わない独自の子育てを行った場合に多く発現することは、現在ではほぼ間違いないとされている。だからこそ親権所有資格は恒常的な成り手不足の割に厳しい。優れた子供の将来を奪うということは、貴重なリソースを失うことになるだからだ。扉が開いた後の世界では、優秀な人間はいくらいても足りないことはない。

 十三歳で中等府を卒業できるのだから飛びきりの才能ではあるのだが、蓮子は意識しないと情報網にアクセスできないという軽度の情報障碍者だ。もう少し年がいけばそれは障碍でも何でもないのだが、わたしや蓮子の世代では障碍と認定される。シームレスなアクセスができないのは脳に負担がかかることであり、本来ならばいわゆる健常者に比べて数段劣る。つまり蓮子は本来ならスペシャルになるはずだったのだ。大学から選ばれるのではなく大学を選ぶ立場になっていただろう。京都の高等学府は世界有数の教育機関であるから、その場合もここに来た可能性は高いけれど、こうして肩を並べ合い、倶楽部活動に耽ることはなかっただろう。

「どうしたの? 安心したような顔をして」

 わたしは慌てて顔を引き締める。蓮子に障碍があって、わたしと同じレベルになってしまったことを嬉しいと感じてしまったからだ。万全の教育が受けられないのを喜ぶのは心理学者を標榜するならあってはならないことなのにだ。

「最初はびっくりしたけど、案外あっさり順応できたから。大気の状態が悪くて蓮子とどこにもいけないなんて嫌じゃない?」そう誤魔化すと、わたしは話題を無理矢理元の線に引き戻す。「それなら親のこと、怨んでしまうものではなくて?」

「確かに少し不自由だけど、配慮の結果だということは分かってるから」蓮子は今度は眼を指差す。「小さい頃から見えていたの。今ほどじゃないけど」

 人間の性能はある程度まで先天的に決まり、機械的に判断できる。だがわたしや蓮子の眼はその埒外であり、下手をすれば処断の対象とさえなっていただろう。

 遺伝子的に発現する以上の変異は心理学だと平衡障碍、俗にキマイラ症候群といって発症すれば隔離の対象になる。心理学の最先端であってもまだ解き明かせていないが、その原因はおそらくこの世界に二つないしそれ以上の法則が並立するからだと言われている。ある事象によってこの世界はそうした形を取ってしまったのだが、複数の法則の影響を受けて体の一部に変化が起きてしまうらしい。獣の毛や鱗といった目立ちにくいものから、酷くなると角や翼が生えることもある。変化は複数の心因によって速くも遅くも進むのだが、症状を発したものの大半はいずれ突如として消失してしまう。いかなる密室に閉じこめても逃れることはできない。そのため平衡障碍は主に専門家の間で消失病とも言われる。

 そして携わる心理学者には常に伝染の危険が付きまとう。

 心理学者の中で平衡障碍を専門に選ぶものはとても少ない。わたしがその道を選んだのは当然ながら眼のことがあるからだ。境界を視る力はわたしが何らかの平衡を失っていることを示している。そして蓮子も同様だ。

「この眼と、国から渡されたプログラムの折り合いをつけるため、両親は後者の適用を少しだけ遅らせたの。一つの障碍を隠すため、別の障碍で上書きしたわけね」時折月や星を視る怪しい行動も、ネットワークの不適合として判断されるわけだ。「そのせいで、両親は新しい子供を取れなくなってしまったの。だからわたしが少しでも孝行しなきゃあね。迷惑かけちゃったわけだし」

 それは蓮子のせいではなく、勝手に現れた気持ち悪い能力を持つ眼のためだ。しかしその律儀さが蓮子らしいとは言えたし、わたしはそれを好ましいと感じている。

「メリーは障碍者ではないから、別の方法で守られたのでしょうね。そういえば両親について訊いたことがないけれど」今なら答えてくれるのではないかという蓮子の期待を、わたしは首を横に振って退ける。「そっか。まあ、わたしと同じような眼を持って生まれたんだから、喋りたくないこともあるのは分かるけど」

 わたしは曖昧に頷く。この身が何を帯びているか、いずれは蓮子に語らなければならないだろう。だが今はまだその勇気がなかった。蓮子が情報障碍者で、そして他人の情報を漁らない律儀な性格であることが、わたしの臆病を許容してしまうのだった。

「蓮子のそういうところ、嫌いじゃないわ」

 精一杯の好意表明に蓮子は僅かに顔を赤くし、自然と顔がにやける。

「改めてそんなこと言われると照れるなあ」

 微妙にくねくねしている蓮子が可笑しくて、わたしはつい噴き出してしまった。

 東京駅を出ると、その周辺こそ京都のような都市が構築されていたけれど、少し離れるだけでところどころに旧然とした建物や、合理性を欠く道が見えてくる。

「この辺はまだましなのよね」少し歩いた所で蓮子がぽつりと呟く。「元々防災都市として建設されていたし、内陸だから冬の不在を逃れることもできたの。流石に富士山の最終噴火では被害を被ったけど、当時の軍隊……あの頃の日本は軍隊を持たないって建前の国だったから自衛隊と名乗っていたそうなのだけど」

「それくらい知っているわよ。蓮子はわたしのこと、異邦人みたいに扱うのね」

 これもまた情報障碍の影響だ。常に情報網と接続していないから、相手の情報や属性をしばしば見誤るのだ。蓮子は苦笑し、ほらあそこと公共バスの停留所を示す。タグを読むとあと三分ほどで次のバスがやってくるらしい。

「軍隊が近くに駐留していたから被害も少なくて、だから首都復興計画はここから始められることになったわけ。もっと東の、海に近い辺りはここと比べものにならないほど雑然としてる。都市としてはそちらの方が向いているらしいけど」

 冬の不在と呼ばれる急激な短期温暖化が、海抜の低い地域を根こそぎ海の中に沈めてしまったことは今更検索して確認するまでもない。海洋国家である日本は人口過密地域が海抜の低い所に集中していたため混乱は一際酷く、日本の首都機能は旧立川市に移転となり、国内から国内へ逃れる難民が大量に発生してしまった。日本は元々難民政策における後進国であり、当時は相当の軋轢が生まれたらしい。

「海に脅かされた人間が、また海の近くに戻るのは難しいのでしょうね。わたしの両親はあまり恐れない人だったけど」

「実を言うと、海を見たことが一度もないのよね」わたしは京都生まれの京都育ちであり、京都という都市からほとんど出たことがない。写真や資料、あとは琵琶湖を通してその広さを間接的に知ることができたくらいだ。「東京は海に接していると言うじゃない。結構、楽しみにしているのよ」

「わたしも家を離れてからは見てないし、海に見所があるわけではないけれど」蓮子は空を見上げ、それからのろのろと一方を指差す。「南東は多分あちら側よね。太陽の方が位置と時間を示すには上等な天体現象のはずなんだけど」

「そんなのいちいち空を見なくてもコンパスを使えば良いのに」蓮子の差す方角は確かに南東のようであった。「あちらに海があるのね」

「実家から遠くないし、連れて行ってあげる。でも本当、広いだけで何もないのよ」

「目で見るというのは大事なことよ。蓮子はそういうのに無頓着よね」

 蓮子は情報障碍者なのに、情報で済むことを実物で確認する必要はないと固く信じている節がある。あるいは障碍持ちであるからそうなのかもしれないが、たまにそうしたところが危ういと感じてしまうことがある。

「現実と夢に変わりはないという考えの方がよほど無頓着だと思うわ」

「だからこそ情報だけというのは危険なのよ。特に今の世の中は情報だけで構築できてしまうから。現と夢の境を失いやすい」

「それにわたしは情報だけを信じてるわけじゃない。そうでなければ倶楽部を開いたりはしないと思うのだけど」

 わたしの意見を退け、自分の意見を通そうとする。常に客観的な情報を通すわけではない蓮子はたまに強い主観で動こうとするのだ。今日こそはもう少し厳しく言わなければと考えたところで、停留所のタグがバスの到着を告知する。旅先であるということを思い出し、わたしは浮かんだ言葉を飲み込んだ。

「ごめん、メリーは旅に来てるようなものなのに。こういうときヒートアップするのはわたしの悪い癖ね」

「付き合うわたしも大概よ」蓮子の温かい言葉に飲み込んだ棘はするりと喉を通り、胃の中に落ちる。きっとすぐに溶けてなくなるだろう。「さあ、バスが来たわよ」

 京都のものに比べると二つほど型の落ちたバスが目の前に停車する。運転席に人がいるのを見て、わたしはしゃっくりするように驚いてしまった。蓮子に背を押されながら乗り込み、一番後ろの席に座る。

「東京ではまだ人が運転してるんだ」京都だと人が運転する公共交通機関は十年以上前になくなっている。少なくともわたしは乗った記憶がない。「急速な開発による都市の混乱により、未整備地域でのナビゲーション誤作動が多発。原因を特定できないため、有人式のバスを仮運用している、か」

「都市が混乱するというのも変な表現だけどね。衛星による全土観測システムが波及すればこんなこともなくなると思うけど」

 ここ数年のうち、二十七機の人工衛星によって全土観測の仕組みが完成する予定となっている。そうすればより高度な情報網に覆われた社会が実現するそうだ。今だと衛星での位置特定を各所に備え付けられたカメラで補う必要がある。ローカルカメラは安いものだと盗聴される危険性があるため、暗号通信が完備された全土通信網は、あらゆるシーンで嘱望されている。

「東京はまだまだ面倒な土地だってことね。わたしはその雑さも嫌いじゃないけど、かつての首都として京都に追いつけ追い越せって人は多いみたい」

 東京をターゲットにして検索してみると確かに、そうした傾向は強いようだ。

「京都の代替となる都市が築かれるのは悪いことじゃないと思うけど」

 個性なく均一に建ち並ぶ高層建築は地元民のたしでさえうんざりすることがある。それに人が一所に集まり続ければ閉塞の度合いも強くなる。対抗的な気概については一旦目を瞑り、長いスパンで解決していけば良いのだが、地域性はこんな時代であっても拭えないらしい。

「かつて国家主義がろくな結果を生まなかったように、都市主義も良い結果を生むとは思わないのよね。とはいえ……ああごめん、また同じような話になったわね」

「風変わりな観光案内と思うことにするわ」

「そう言ってもらえると助かる……それで何を話そうとしてたんだっけ?」

「都市主義も良い結果を生むとは思わないのよね。とはいえ……」

 会話をログで追い、蓮子の直前の台詞を読み上げる。

「そうそう。都市というのはいまや国と捉えて良いものよ。でもかつてのような余裕がこの世界にはない。何故ならば規則が根本から覆ったから」

「扉が開き、複数の物理法則が並列するようになった」

「統一された法則で管理されていた世界はその変化に対応できず、新しい時代に対応するための手法も、実現できる土地も圧倒的に足りなかった。前時代において関東と関西が対立できたのはかつての世界に余裕があったからよ。でも新しくなった世界に余裕はない。人も土地も厳しく管理されなければ存続できない」

 文明を維持するためには相応の人口が必要であり、リソースの極めて限られたこの世界において、互いに争う余裕などないと蓮子は言いたいようだった。それに対する反論らしいものが浮かばず、会話が途切れてしまう。少ししてバスが次の停留所に止まり、腰の悪そうな老婆が杖をつきながら乗り込んでくる。老化防止の処理を一切行っていないのか皺が目立ち、他にもあらゆるところに衰えが見えた。目もあまり良くないようだ。福祉の観点から老いによる障碍は治療の対象となるのだが、拒否することももちろんできる。この国はまだその程度の自由なら認めてくれる。だが老化したままの体では、治療可能であることを理由として福祉を切り捨てている社会への適応が難しい。それを推して通すならば相応の理由があるのだろう。

 わたしはすぐに注目を外したのだが、蓮子はゆっくりと座席に腰掛ける老婆に視線を向け続けていた。

「ちょっと、じろじろ見るのは失礼よ」服を引っ張って注意を促すと、蓮子は解せぬと言いたげに目を細める。「もしかして知り合いだったりする?」

 東京は蓮子の故郷なのだから知り合いに偶然出くわしてもおかしくはない。だが蓮子は慌てて首を横に振った。

「ううん。ただ、なんというか……」蓮子は珍しく口ごもり、わたしの顔をじっと見る。話して良いことかどうか悩んでいる様子であり、何でも打ち明ける蓮子にしては珍しい態度だった。「雰囲気が、似てるというか」

「雰囲気って、誰と?」

「あのさ、少し前に仙人と名乗る女と出会ったでしょ?」霍青娥と名乗った胡散臭い女性のことを言っているのだと分かり、わたしは小さく頷く。「わたしたちを襲った尸人、二刀流を使う謎の老婆……そう、あの人に一番似てるかな」

 わたしはその姿を一度しか見ていないし、すぐに立ち去ってしまったからよく分からない。だが老婆の姿をしているのに滅法強かったらしく、蓮子は境界を越えてこの世界にやってきた妖ではないかという持論を述べていた。

 妖というのは生与の能力と異形を持つ存在であり、物理のみが唯一の法則であると解き明かされてからは物語の地平へと消えていった。それまでの人間が感じてきた妖とは理解できないものを説明するための誤謬であるとされたのだ。だが複数の法則を行き来する時代がやってきて、角や翼を生やす人間が現れ始めた現在において、過去にも存在したのではないかとされ、極一部の変わり者がそうした存在を研究しているという。先鋭的な分野であり、人と妖はかつて同相のものであり、世界の法則がねじ曲がったのは復権を目指した妖が仕組んだことであると、声高に主張しているものさえいる。人間と妖の力を併せ持つ複合体が社会のあらゆるところに生まれつつあるとも。

「気のせいよ。第一、妖怪は老いたりしないそうじゃない」

 そのことを伏し、わたしは努めて明るく蓮子の懸念を否定する。

「あの剣士は相当の歳だったわ。姿を偽っているだけかもしれないけど」

「じゃあ確かめてみる? わたしには貴女が人間でないように見えますが、そこのところどうなのですか、と」

「そんなことできるわけないでしょ!」意地悪く訊くと、冗談はやめてとばかりにわたしを睨んで来る。「失礼にも程があるわ」

「でもそれが蓮子の求めるものに辿り着くための縁になるとしたら?」

 蓮子はこの世界ともう一つの世界を繋ぐものがあり、それを何とか見つけようとしてわたしとフィールドワークを続けてきた。法に抵触しない範囲で強引な手段に及んだことも一度ならずある。はたして蓮子は随分と悩んだ様子だったが、大きく首を横に振る。切実であっても手段を選ばないところまでは行き着いていないらしい。

「メリーはたまにとても意地が悪くなるのね」

「どうでもいい相手にこんなことは言わないのよ」

「分かっているわ」あまりにあっさりと即答したから本当に分かっているのか疑問だったけれど、問い質すことは恥ずかしくてできなかった。「わたしに意地悪く接するのは、特に注意を促したいからなんだってことも。普通に意地悪な時もあるけれど」

 言ってみて少しだけ恥ずかしくなったのか蓮子は咄嗟に車窓に目を向ける。そこまで察しているならばもう少しだけ気付いてくれても良いのにと、わたしは密かに思う。

 次の停車場に着くとまた一人、今度は若い女性が乗ってくる。思わずはっとするほどの美貌であり、知性と自信を持つ人間に特有の強い気配を纏っている。着ている服はといえば左が暗い青、右が鮮やかな赤の奇抜なものであり、他の人ならば間違いなく浮いてしまうはずだが、平然と着こなしている。この時代においてこれほど独特であるならさぞかし一角の人物なのだろうなと思い、つい検索して情報を追ってしまった。だが、特に当てはまるものは何もない。

 地元の有名人かと思い、蓮子に訊ねようとしたのだが彼女はにへらと顔を綻ばせて、窓の外にいる何者かに向けて手を振るのだった。

「どうしたの、良い人に偶然出会ったような顔をして」

 少しだけ険をこめたのだが、蓮子は特に気付いた様子もない。

「窓の外に女の子がいて、視線があったら笑いながら手を大きく振ってきたの。可愛かったな……今の時代じゃ生き難そうだけど」

「蓮子は親になりたいの?」笑顔を浮かべるなんて、少し知恵が遅れているのではないかと口にしかけ、慌てて言葉を直す。だがこれはこれで恥ずかしいことを訊いてしまったと気付き、わたしは慌てて取り繕う。「別に深い意味で訊いたわけじゃなくて」

「両親にはなんだかんだで世話になったから。わたしのような子供を助ける機会が今後できるならば、親になっても良いのかな」

 その時は男の配偶者を探すのかしら、それとも一人で育てるの? 同姓の配偶者ってこともあり得るわよね……そんないくつもの可能性が過ぎり、だが何も口にすることができなかった。

「わたしは障碍持ちだから許可は下りなさそうだけど。メリーこそ子供を受け入れるって将来はないの?」

「わたしは良いわ。子供に限らず、重たいのって苦手だし」

「なるほど。確かにメリーは生きるも死ぬも一人って気がする。いや、これはちょっと酷い言い方か。敢えて独りでいることを厭わないというか、身軽を好むというか」

「かもしれないわね」少なくとも貴女と出会うまではそうだった。「でも人間って何らかの重りなしでは存在の軽さに耐えられなくて、それこそ浮き上がってしまうかもしれないわ?」

 少し文学的な言い回しになってしまったが、蓮子は特に茶化さなかった。それどころか子供を見てはしゃいでいた時の表情がいつの間にか消えていた。

「孤独になることで空を飛べるならば、わたしはそうしたいかもしれないな」蓮子は空に手を伸ばし、つかむ仕草をする。「宇宙に出れば飛べるだろうけど、わたしでは無重力体験施設が関の山かなあ」

「わたしは蓮子がふわふわに浮かんで、戻ってこられないなんて嫌よ」

 真面目に言うと通路を挟んで反対側から空気の噴き出すような声が聞こえてきた。思わず振り向くと、先程乗ってきたばかりの女性が、堪えきれないとばかり腹を抱えていた。失礼なことだが滑稽なやり取りをしていたという自覚はあったから、責める気にもならなかった。

「ごめんなさい、馬鹿にするつもりはなかったの」そして優しげな笑みを向けられるとほんの僅かなわだかまりもあっという間に消えてしまう。「素敵だと思うわ」

「メリーは心配性なんです」蓮子はわたしと違い、少しだけむっとしているようだった。「実際のわたしは地上に縛り付けられていて、飛ぶことなんてできないのに」

 蓮子が挑むように言うと奇抜な服の女性は予想しない驚きを表した。だがすぐに我を取り戻し、慌てて手を振るのだった。

「ごめんなさい。知り合いと同じようなことを言うからつい驚いちゃって」

「いえ、見ず知らずの人間に大人げないことでした」

 蓮子は帽子のつばをつかもうとして髪の毛を触る。車内で帽子を被っていないのを忘れていた様子だった。

「最初に大人げないことをしたのはわたしよ、ごめんなさいね」彼女は蓮子の顔をじっと見つめ、今度は少し寂しげに笑う。「よくよく見れば彼女とは全然違うわ。艶やかな黒髪と、意志の強そうな目だけはよく似てるけど。それに美容にまるで気を使っていないわね。無理が肌に出てるけど、そういうのは歳を取ってから噴き出してくるものよ。気をつけないと」

「ぐ……それは、はい、気をつけます」蓮子はその話題から逃げたいとばかり、別の話題を求めて視線をさまよわせる。「それよりもその服って自前で作ったんですか? こう言っては失礼かもしれませんが、かなり奇抜に見えます」

「故郷では特に問題ない色合いなのだけど、みんな奇抜だと感じるみたいね。貴女も、この服は目立ち過ぎると思う?」

「いえ、似合っていますよ」蓮子は慌てて繕い、少し緊張した面持ちで言葉を続ける。社交的な蓮子にしては珍しい反応だった。「故郷って、どの都市から来たんです?」

「とても遠いけど、とても近い所よ」彼女は謎解きのようなことを口にする。「貴女は賢いのね。どこの都市にもこんな服は流行っていないことに気付いている。記録にアクセスせず記憶だけで分かったみたい。その若さで自分の記憶を使うということは、ちょっとしたスペシャルなのかしら」

 一目で情報障碍を見抜かれ、蓮子はますます緊張する。

「不躾ついでに訊いてしまいますが、その、遠くて近い場所とは……」

「ゆえに好奇心旺盛、この世の謎を何とか解き明かしたくてたまらない。そしてそのための力を持っている」

 そう言って、彼女は見透かしているとばかりに蓮子の目を覗き込む。

「気をつけなさい。誰彼構わずその無作為な好奇心を向け続ければ、たちの悪いものに付け込まれるかもしれない。そのとき、犠牲になるのが貴女であるとは限らないのよ。現に今もこのバスの中に……」

 そのとき急にブレーキがかかり、わたしは咄嗟に手近なものを掴み、衝撃に慌てて耐える。

 

(ついに見つけた。彼女の代わりとなるものがここにいる)

(あの娘にはわたしを門まで導いてもらう)

(だから全ての事情を知るあの女には消えてもらう必要がある)

 

 

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