本著は博麗霊夢とは何かということを描く物語の前半部となります。
本来ならば残りのパートとともにまとめて公開するのがベストだと思うのですが、分量が多すぎてわたしの執筆速度では一度に書き切れませんでした。
そのため、上下巻を日を置いて分割頒布するという判断を取りました。申し訳ありません。
下巻は次回の夏コミ頒布を予定しております。上巻は今回の冬コミ、また蒲田で2月に開催される予定のイベントにも持っていく予定です。
あとはメロンブックスで委託している分もありますので、イベントへの参加が難しい方におきましては、利用して頂けるとありがたいです。
博麗神社の朝はいつも早い。
境内の掃除に洗濯、人里から神社へと続く参道の見回りに朝食の用意と、やることが一杯あるからだ。日が昇る前から始めて、秋や冬にもなると終わる頃には日の出の時間を過ぎることもあるくらいで、一人で回していた頃は本当にてんてこまいだった。今はれいむが手伝ってくれるから良いものの、それでもやることは多い。
今日のお勤めも恙なく終わり、息をついたところで日課のように鼻を鳴らす。こちらの作業が終わる頃になると、れいむが朝食を作り始めていて、炊飯や味噌の香りが漂ってくるはずなのだが、今日はさっぱり匂って来ない。
もしやと思って庭に出ると、れいむは自分で掃き集めた落ち葉を、形の同じものごとに、真剣な顔をして仕分けしていた。
「れいむ、朝ご飯の用意はどうしたのかしら?」
わたしが声をかけると、れいむは肩を震わせ、それから慌てて振り向く。
「あの、ごめんなさい。その、葉っぱの形とか急に気になっちゃって」
「疲れてるなら、朝ご飯はわたしが作るけど」
れいむは疲れが溜まるとこうした行動を取りやすくなり、こうなるとじきに高熱を出すことも多い。だが少なくとも今は元気そうだし、名残惜しそうではあるけれど、すぐに葉っぱを片付けることができた。まだそこまでではないのか、れいむなりに気持ちをコントロールできるようになって来たのかもしれない。
「わたしなら大丈夫よ。でも少し待ってもらうことになるのだけど……」
消え入りそうな声のれいむに、わたしは努めて穏やかに声をかける。怒っているわけではないが、声の僅かな調子も、こうした時は敏感に聞き取ることがあるためだ。
「では一緒に作りましょう。それならばわたしが待つことはないわ」
するとれいむは嬉しそうに何度も頷き、わたしの手を握ってくる。ちゃんと理由を示して、それが気にいるとれいむはとても機嫌が良くなるのだ。一方で、気に入らなければよほど言い聞かせても、体調や気分によっては頑なに拒むこともある。
頭は良いけれど難しい子供なのだ。まがりなりにも一年を共に過ごし、打ち解けては来たけれどまだ油断は出来ない。れいむは可愛いし、教えがいのある素質を持っているけれど、こういうことがあるとそれが少しだけ重く感じられてしまい、そのたびに己を叱咤するのだった。
ご飯に季節の野菜をたっぷりと入れた味噌汁、漬物といういつもの朝食を終え、片付けが終わると、午前中はれいむに読み書き算盤を教えて過ごす。机に着いて学ぶのが難しい子であることは分かっているが、博麗神社は一人で切り盛りしなければならないし、そうなれば大人の仕組みと向き合う必要がある。読み書き算盤が出来なければ証文一つ片付けることができないし、祝詞を読み上げることもできない。神事にどれくらいの手間と費用がかかるのかを分からせることもできないし、閑職に見られがちな巫女の有用性を説かなければならないこともある。わたしは里の出身だからまだ目零しされているが、有力な家の生まれでない単なる百姓娘だから、ことあるごとに当てこすられる。外から入って来た、縁故の全くないれいむではわたし以上に苦労するだろう。そのことはれいむもよく分かっているはずなのだが、座学に身が入るかどうかとは無関係らしい。
れいむは好きなこととなれば驚くほどの集中力を発揮するのだけど、逆にそうでないことになると妙にそわそわしてしまうし、普通の子供と同じような学び方をしない。例えば文章を熱心に書き写しているからといって、文字や文章作法を身につけているのではなく、ページ全体を絵として見ていて単に模写しているだけということがあった。文字として身につけさせようとすると今度はしばしば書きし損じたり、うねってしまったり、体調が良くない時だと文字の体裁を成さないことすらある。読めるとしきりに主張するれいむに、文字は誰もが同じように読めないといけないことを説明するのさえひどく時間がかかった。昔はしばしば癇癪を起こしたからそれに比べれば進歩なのだろうが、座学の覚えはすこぶる悪い。あるいは局所的に良過ぎるとも言えるかもしれない。
「ん、出来たよ」寺子屋から借りてきた教本の書き写しをれいむがわたしに見せてくる。読めないほどではないけれど、全体的に形が歪だった。「頑張ったとは思うんだけど」
ままならないことを自覚しているのも進歩とは言えるけれど、逆に気負いやすくなり、心の負担が強くなるので良し悪しといったところだ。わたしはじっと目を凝らして読み、丸をつけてかられいむに返す。その書き写した文章を、れいむは淀みなくすらすらと読み上げる。十分とは言えないけれど抑揚とリズムがあって、聞き取るのに苦にはならない。昔は酷くぼそぼそしたり、かと思えば急に早く読み始めたりで、わたしを含めた他人と話すこともままならなかった。
わたしがれいむを寺子屋にやらず、自ら教えているのはそのためである。以前、わたしはれいむを何とかして寺子屋に通わせようとした。外から来た子はと渋る大人たちを説き伏せてようやく許可が下りたけれど、三ヶ月としないうちに学長から退舎を勧告されてしまったのだ。
『協調性が、ないというわけではないのです』
塾長はいきなり乗り込んで来たわたしの剣幕に気圧されることなく、穏やかにそう口にする。その目には深い懊悩が隠されていて、決して本意でないことが見て取れた。
『態度が悪いわけではなく、度を超えた悪戯好きでもありません。だがそれでもこれ以上、ここに置いておくことができないのです』
そうして塾長はれいむの行動について、いくつか例を挙げて語ってくれた。算盤の授業であるというのに暗算で全て解いてしまって、周りの生徒にずると言われる。特定の漢字について、その形が気に入らないのですがどうすればいいのか延々と訊く。地図を墨で丁寧に黒く塗り潰そうとして、先生に叱られると癇癪を起こす。野外授業で捕まえた虫の、羽根や足をもいで冷静に観察する、などなど。
長々と聞かされるうち、わたしの心はいつしか諦念の気持ちに満ちていた。いくられいむのほうで馴染もうという気持ちがあっても、これではどうしようもない。わたしも小さい頃はお転婆の限りを尽くしていたけれど、れいむほど絶望的ではなかった。
『力及ばず申し訳ありません』塾長は教育の敷衍が生産性を含め、里の全体的な底上げになると信じて活動して来られた方だ。わたしのように粗忽な人間でも一通りの読み書きを覚えることが出来ようになったのは、氏の尽力によるところが大きい。数ヶ月経たずこの判断をくだすのは無念だというのも、何となしに伝わってくる。『困ったことがあったら遠慮なく訪ねてください。できる限りの支援はします』
つまりわたしに、寺子屋の教師たちでも手の付けられなかった子供を受け持てということだ。それは残酷ではないかと思ったが、他に方法は残されていない。裕福な家庭向けの私塾に通わせることも、家庭教師を迎えることも、裕福とは言えない神社の懐事情ではどうにもならない。
もう少し勉強しておくのだったと、この時ほど後悔したことはなかった。
それから何ページか教科書を写させ、読んでもらったがやはり調子が悪いのか徐々に抑揚が欠けるようになって来た。大きな欠伸を繰り返し、やたらときょどきょどして、顔が熱っぽく火照っている。あまり頭を使わせないほうが良さそうだ。
「今日はこれくらいにしましょう。続きはまた明日ということで」
「わたしまだ大丈夫だよ」
「じゃあこの問題、すぐに解ける?」わたしは算数の教科書を開き、文章問題の一つを指差す。みかんとりんごを買うのに合わせていくら必要なのかという簡単なもので、調子が良ければすぐに答えられるはずなのだが、れいむの目は文章を忙しなく追うだけで、少しすると急に奇声をあげ、わたしの持っていた教科書を手ではたき落とす。すぐにいけないことをしたと気付いたようだが、それは意地悪をしたわたしがいけないのだと考えているようだった。「そんなことをするのは、調子が悪いって言ってるようなものよ」
「言ってないもん! そんなこと言ってない! 意地悪する師匠なんて嫌い!」
「嫌いになるのは構わないわ。でもれいむが体を壊してもっと辛くなるの、わたしは嫌よ。だから少しきついことを言っても休ませるのよ」
そう言うとれいむはわたしへの敵意を収め、叩き落とした本を拾い、わたしに渡す。それから少しだけ頭を下げた。
「わたし悪くないもん。でも、その……嫌いって言ったのは違うのよ」
「分かってるわ。そう言いたくなることがあるの、わたしも分かるから。子供の頃はれいむなんて比べ物にならないほど、聞き分けのない娘だったのよ」するとれいむは目を丸くしてわたしのことをじっと見つめる。そんなこと思いもしなかったと言わんばかりだ。「そういう話、寺子屋の先生から聞かなかった?」
「何も言わなかったし、良い子に育ってくれたって褒めてたよ。ちょっと元気過ぎるところがあるとは言ってたけど」
それは何というか、実に配慮されているなと思う。あるいは当代の博麗だからできるだけ評判を高めておこうという意図があるのかもしれなかった。
「小さい頃は誰だっていつも、聞き分けが良くなれるわけじゃないの」大人でもそれは結構難しいことだとわたしは思う。「体も弱くて、熱を出すのもしょっちゅうよ。個人差はあるけどね」
わたしは数少ない例外だったけど、色々とややこしくなるのでここでは一般論として話を進めることにする。
「だから辛い時は無理しなくていいし、休んだほうが良いのよ。少し休んだらまた嫌でも動きたくなるから」
れいむは少しして小さく頷き、教科書や筆記用具を片付け始める。その間にわたしは机を片付け、畳んだばかりの布団を敷いてやる。横になるとれいむはすぐに眠ってしまったので、やはり相当疲れていたのだろう。額に触れると思いのほか熱く、わたしは水を汲んで来るとれいむの額を冷やしながら様子を見る。子供の頃は適度に風邪を引いた方が大人になってから頑健になるとは言うけれど、れいむは頻繁過ぎて可哀想になってくる。
こうした介抱は読み書きを教えるのに比べればずっと慣れている。生まれが子沢山の農家で、親でさえ風邪を引くような時でもぴんぴんしていたからだ。わたしは昔から驚くほど風邪を寄せ付けなかった。数年前に里の多くが床に伏せるような酷い風邪が流行ったとき、へとへとになるまで看病して回ったけれど、わたし自身はくしゃみ一つ出ることがなかった。わたしが巫女に抜擢されたのは霊力や体力の高さもさることながら、邪を寄せ付けない体質を見込まれたのではないかと密かに思っているし、れいむを迎えてからは彼女を育てるための布石ではないかと考えるようにもなった。
れいむはわたしと違って邪に弱い。力が強いため、そうしたものを自然と寄せてしまうらしい。風邪より厄介なものを寄せてしまったことも一度や二度ではなく、その度に何とか対応してきた。
心と体がちぐはぐで統一感がないのも邪を招きやすい一因ではあるのだろう。今でこそ自制するようになったけれど、れいむは考えることに体が引きずられる傾向がある。これは格闘の練習をするとき特に顕著だった。
反復練習だけならば問題はない。わたしと違って変な癖がついていなかったから、最初こそぎこちなかったけれど、慣れると綺麗な形にはまっていった。だが、実践になると足や手が止まってしまう。わたしならほぼ無思慮に振るわれるくらいの短い瞬間をれいむは認識できているらしく、ここがおかしいのではないかと違和感を覚えるたびに考え込んでしまうのだ。これはれいむの意識や知覚の速度が非常に速いことを示している。しばしば発熱してしまうのも尋常ならざる鋭さのせいであるのかもしれない。
「だからこそ博麗の巫女として代え難い器なのでしょうけど」
思わず独りごち、そしてれいむの安らかな寝顔を見ながら思う。この子にこれからしてやれることが、わたしにはどれくらいあるのだろうか、と。
目が覚めると障子の隙間から赤い光が微かに入り込んで来るのが見えた。さぞかし綺麗な朝焼けなのだろうなとぼんやり考えていたのだが、すぐに朝は過ぎていることを思い出し、慌てて体を起こす。額から湿った布が落ち、触ってみるとまだ少しだけ冷たかった。側には水の張った桶があり、その隣に書き置きが残されていた。
『れいむへ、買い物に行って来ます。日が沈むまでには戻ります』
少しだけ休むつもりだったのに起こしてくれなかったのが恨めしくもあり、気だるい体はそのことをありがたいと感じている。夕食の準備を少しでも進めたほうがいいのか考えたけれど、何をして良いのかがまるで浮かんで来ない。
わたしは布団に戻り、ゆっくりと目を瞑る。こういう時はできるだけ何も考えない方がいいと教えられたからだ。そして今のところ、その言葉に従って調子が悪くなったことはない。たまに風の音や微かな足音が頭の中に響くことがあって、そういう時は耳に手か綿で栓をする。臭いが気になることもあって、その時は鼻を手で摘むか綿を詰める。多少息苦しいけれど、それでも色々なことを感じるよりは楽になる。
今回は目を瞑るだけですっと落ち着いた。家の外から聞こえてくる鴉の鳴き声も、今日はまるで気にならない。そのままじっとしていると再び眠たくなってきたが、不意にかたん、と微かに襖の開く音がした。慌ててそちらを見ようとしたけれど、怖気で体が動かなかった。何か得体の知れない、垣間見てはならないものがあそこにいる。ほとんど思いつきに近かったけれど、今のわたしではどうしようもならないものがいることだけは強く感じられた。
それでも意を決して振り向いたのは、わたしがいずれ妖怪退治の専門家になるからだ。不気味なものを怖れるだけではない。分かった上で立ち向かわなければならない。この神社にするりと忍び寄ってきたのならば尚更だ。しかしわたしが見たとき、それは既にどこかへ去っていた。だがそこに何かがいたことは確かだ。気配を感じたし、襖は確かに開いていた。わたしをその隙間から、誰かが覗いていたのだ。そしてそれは師匠では決してない。
声をかけてみたかった。貴女は誰なのか、確かにここにいたのか。何のためにわたしを見ていたのか。何者かが作り上げた隙間を、わたしはじっと凝視する。その暗く不確定な何かはしかし、最後まで正体を見せることはなかった。
師匠が戻ってきたのは日もほとんど暮れかかった頃だった。籠からは黒い板のようなものが少しはみ出しており、嗅ぎ慣れない匂いがした。
「ごめんなさい、遅くなって。いつもは寄らない店も回っていたから。お腹空いた?」
小さく頷くと師匠は嬉しそうに微笑み、慌てて台所に向かう。少しすると黒い板の発していた匂いを一気に解き放ったような、お腹がぐうぐうなるような香りがこちらまでやってくる。それから五分ほどで、卵を落としたじゃがいもたっぷりのおかゆがやってきた。美味しそうなのだが、その量にわたしはびっくりしてしまった。
「お鍋にいっぱい。わたし、こんなに食べきれない」
「わたしも一緒に食べるからこの量にしたの」それならば納得できる話で、わたしは安堵とともに起きあがる。部屋の隅にちゃぶ台を置くと、師匠はその真ん中にでんと鍋を置いて、わたしに茶碗一杯分よそってくれる。この香りも驚きだけど、口に含んでその味にびっくりしてしまった。魚の出汁に近いけれど、もっと濃い旨味だった。「その顔だと昆布のおだしは気に入ったようね。滋養もあるからたっぷりと食べるのよ」
言われなくてもこんなに美味しいものならばお腹一杯食べられそうだった。夢中で箸を動かすわたしを見て師匠はとても嬉しそうで、それが少しだけくすぐったかった。
三十分もしないうちに鍋は空っぽになり、れいむの頬は発熱と違う意味で温かく、元気が湧いてきたようで、わたしに質問を飛ばしてきた。
「とても美味しかった。こんぶのおだしって言ってたけど、こんぶって何なの? 川で取れるのかな?」
「うーん、それはちょっと難しいのよ」わたしはそう言って少し困ったように微笑む。「気に入ったようだからまた食べさせてあげたいけれど、昆布は外にしかないの」
「外、って言うと神社の外ではないのよね。この郷が狭く囲われた場所であるというのは師匠から聞いたことがあるし、寺子屋でも同じようなことを聞かされた記憶があるけど、でも郷の外には行くことはできないって話だったわ」
「そう、ここからは誰も出ることはできない」例外はあるのだが、それは実物に遭遇したとき改めて教えてもらえば良い。「ただし入ってくるものはある。この郷は色々なものを集めてくる性質を備えているからよ。そういうものを拾って商う人たちもいるの。昔馴染みのような人がいて、掛け合ってみたら丁度、昆布が売り物に出ていたの」
「そうなんだ……でもそれって高かったんじゃないの?」
「ううん、事情を話したら安く譲ってくれたわ」本当はかなりふっかけられたけれど、以前に彼の拾ってきた曰く付きの品物に関する事件を解決したこと、それなりにお得意さまであること、いずれれいむを紹介することを条件に値引きしてもらったのだ。柔らかい物腰であるのにぐいぐいと会話で押して来て、おまけに阿漕なのが実に頂けない奴だけど、いずれれいむに必要になるものを扱ってくれる数少ない場所であるから、今回は約束通りにするつもりだった。「だから何も心配しなくていいのよ」
「そっか、じゃあ遠慮なく頂いちゃったけど大丈夫ってことね。既にお腹に入ってしまったから戻せないけど」
れいむが冗談を言うのは珍しく、わたしは少し間を置いてからあははと笑う。ここに来た直後はたとえ話すらほとんど飲み込めなかったのだが、少しはそういったものも理解できるようになったらしい。
「笑い事ではないのよ。指を喉に入れれば吐き出せるけど、出てくるのはどろどろの別物なんだから」
もとい、れいむは意図して冗談をいったのではなく、わたしが勝手にそう受け取ってしまっただけのようだ。よく考えればわたしがれいむほどのときは大人の言うことをしょっちゅう真に受けていたし、まだ焦るようなこともないのだろう。
「お片づけして、お風呂に入りましょう」じっと見られていることに気付き、わたしは慌てて立ち上がるとれいむを促す。「わたしが呼びに行くまでゆっくりしてなさい」
れいむはだらしなく畳の上に寝転がり、はーいと大声をあげる。子供らしく天真爛漫な仕草がわたしの不安を拭ってくれた。
束の間の安堵が払われたのはれいむがお風呂に入って少し経った時のことだった。湯加減を調節するためにかまどの火を見ていたのだけど、れいむがいきなり驚くような声をあげたのだ。
「どうしたの、虫でも出たかしら」まだ春も中頃ではあるが、温かく湿気の多い風呂場ではたまに黒く素早いあれが出没する。れいむは虫を捕まえるのに躊躇いがないけれどあれだけは苦手らしい。「怖いなら捕まえてあげるけど」
「ううん、そうじゃないの。その、戸の隙間に何かいたような気がして」れいむの説明に、わたしは心当たりがあった。「一人の時も一度、同じような気配を感じたの」
「その時も、それは隙間にいたの?」
「そんな気がしただけ。すぐにいなくなったけれど。もしかして、何だか知ってる? まさか、神社の神様だったりするの?」
その対極にある禍々しいものよ……わたしは心に浮かんだ言葉を飲み込み、明るい声で返事をする。
「かもしれないわね。でも人里では昔から、戸や窓に隙間を作ってはいけないと言われているそうよ。もしかしたら良くないものなのかもしれないし、念のために戸締まりをしたほうがいいかもしれないわね」
「出てきたらわたしたちで退治してやればいいんじゃない?」
あれを退治できる人間なんて、初代の博麗くらいしかいないとわたしは思う。れいむもいずれはその器になるのかもしれないが、今のままではきっと歯が立たないだろう。もっともあれがわたしの知っているものであるならば、わたしやれいむに仇なすことはないのだが、妖怪の本性に耐えきれずにれいむをさらわないとも限らない。ただでさえあれはれいむに固執しているところがあるのだから。
「無駄に争いの種を蒔く必要はないのよ。向こうのほうから蒔きに来るんだから」
生半に藪をつついて毒を吐く蛇を引き寄せる必要はない。れいむは少しの間だけ無言だったが、黙ってわたしの言うことを聞いてくれたようだ。かたりと、微かに戸の動く音がしたから。
「あと六十数えて、そうしたらあがっても良いわよ」
わたしは火の様子を見ながられいむの可愛い声を一つ一つ聞く。六十になってすぐ、ざぶんと音を立てて上がっていったので、少しだけ熱かったらしい。こういうときは遠慮なく言って欲しいのだが、一年経ってもこうした微妙な距離感は色々なところに残っている。最初からの家族ではないにしろ、そういう態度の端々にわたしはほんの僅かではあるが悲しみを覚えてしまう。
「ごめんなさいとかすいませんとか、ひっきりなしに言わなくなっただけでも良しと考えるべきなのかしら」
わたしは祈るような気持ちで呟き、そして火を落とす。熱を帯び始めた不安をかき消すように。それから急いで入浴の準備をする。火を焚いてなければ湯の温度はどんどんと下がる一方だからだ。タオルと寝間着を用意すると、狭い脱衣所の中で着物を脱ぎ、手足や胸に巻いた布を解いて、姿見に己の体を映す。ここに来た頃は完全に制御されていたかに見えた体も、意図せずにすっかりと丸みを帯び、膨らんでしまった。鍛えていて、常に肉を落としているせいか里に住む同い年くらいの娘たちに比べれば控えめだけど、それでも体の動きが阻害されると感じることがままあるし、たまに酷くバランスが悪いと感じられる。子を成し、育てるために必要な変化と分かっていても落ち着かないし、わたしにそれが必要なのかどうかも時折疑問に思えてしまう。
子供の時から程度こそ違えど、そう考えてきた。女の子らしくお人形やお手玉で遊ぶよりも、草原を駆け回るほうがずっと好きで、色々な虫やときには小さな鼠まで捕まえてきて、家族を驚かせもした。だから将来のためだと言って掃除や洗濯を押しつけられ、少しだけ自由を奪われた時には少なからず反発もしたものだ。兄も弟も、男は外に出て駆け回り、太陽のもとで野良仕事の手伝いをしたり、里の見回りを手伝ったりしている。どうしてわたしにはそれができないのか分からなくて悔しくて、家族の内外に限らず、年の近い男の子に喧嘩を売って回るようになった。寺子屋に行けば三つも四つも年が上になる子にも挑みかかっていき、痣のできない日はなかった。わたしのようなお転婆極まりない娘がよく、寺子屋を追い出されなかったものだ。
あまりのきかん気に、わたしは里の道場に押し込まれ、そこで嫌というほどわたしのやっていたことが稚拙なものであることを思い知らされた。道場主に厳しい訓練を課せられ、半月ほどは筋肉痛の治まる暇もなく、反吐も唾もからからになるまで吐き尽くして、その上で肉も野菜も飯も胃がぱんぱんになるほど食べさせられた。訓練もさることながらどんなに苦しくてもちゃんと食べなければ、家に帰してもらえなかった。そのうちに少しずつ体が楽になり、一月もすると苦にならなくなった。すると体が今までとは比べものにならないほど、軽く鮮やかに動くようになった。そして武術を身に着けるのにその感覚こそが最低限必要であることを、道場の人たちと手合わせすることで感じ、するといつの間にか癇癪も激しい怒りも、まるで湧かなくなっていた。炊事も洗濯も、己の身を正すものとして受け入れられたし、自分でも意外なことにわたしにはそこそこ料理の才能があったらしい。気付けば家の料理担当になっていて、道場でも同様の役割を得ていった。それはわたしが女だからではなく、任せて一番、誰もが幸せになれるからという理由であり、より上手くやるために自発的に勉強するようにもなった。里の子供の中ではそれでも馬鹿なほうだったけれど、皆がそのことを誉めてくれた。
家はそれほど裕福ではなかったけれど、食いっぱぐれることはほとんどなかった。もちろん不作の年もあってそういう場合は一時的に苦しいのだけど、力のある家が倉を開けてくれる。といっても善意だけというわけではなく、郷にいる人間は他の場所に行けないから仕方がないという側面もある。飢える恨みは長年に渡って澱み続けるのだ。実際にそのせいで凋落し、小作となってさえ恨まれ続ける家もある。他の場所というものが存在しないこの郷では、一度生まれた憎悪は執念深く残り続けるのだ。
わたしの先代の博麗は裕福な家庭の生まれで、その立場を利用して人間関係を解決するのが上手かった。わたしが十歳のとき酷い不作があったのだけど、率先して協力を仰ぎ、来年度の豊作を祈って人心を支えたのだ。その時の巫女の姿に、わたしは強い憧れを抱いたものだ。まさかそれが、博麗の巫女そのものになることで叶うとはその頃には思いも寄らなかった。その役割が決して楽なものではないということも。
博麗の巫女は憎悪の捌け口になることもあるのだと、その頃のわたしはその程度のことにすら思いが及ばなかったのだ。
ぼんやりと幼い頃を思い出していると、湯はいつの間にかすっかり温くなっており、慌てて上がると心配そうな様子のれいむとばったり鉢合わせした。その顔からしてわたしの身に何やらまずいことが起きたのではと考えたらしい。
「大丈夫よ。今日は長湯したい気分だっただけ」
「それっていつもより疲れたから?」
自分のせいではないかと仄めかすれいむに、わたしは首を横に振る。
「ちょっと昔のことを考えていただけよ」
れいむを安心させるため、わたしはわざとらしく大股で歩いてみせる。巫女になってからはすっかりとやめていた所作だったが、れいむはその姿を見て安心したのか、それ以上は何も訊いてこなかった。
れいむが再び寝付いたのを確認すると、わたしは自室に戻る。ここに来たばかりはしょっちゅうぐずっていたから一緒に眠っていたのだが、三ヶ月ほど経った頃に別々で眠るようれいむを説得した。わたしがずっと側にいられるわけではないし、巫女には厳かな孤独さを必要とすることがままあるからだ。一人が怖いというのでは務まらない職業なのだ。
情を移すのが怖いというのももちろんある。手のかかる娘であることは違いないのだが、れいむは性根の良い子だ。ここに来る前の記憶はほぼ全て喪われているのだが、それでも無意識に出てくるらしい。といってもその良さはきちんと躾けられたからではないようだ。確かなことが言えないのはれいむを唯一、ある程度知っているものがあまり話してくれないからだ。必要なこと以外を教える必要はないとのことで、ここへやって来た時の年齢が七歳であること、これまでに酷い虐待を受けていたことだけ伝えられている。気にはなるけれど、それ以上のことを無理矢理聞き出すことはわたしにはできそうになかった。押せば折れてしまうほどたおやかな外見と美貌であるというのに、その内面から滲み出る力と気配は正直、相対するだけで気圧されそうになるのだ。我ながら不甲斐ないことだと思う。
そんな相手とこれから対峙しなければならないというのは正直いって気が引けるのだけど、彼女がここに来たならば、そしてれいむを脅かそうとしたならばいかな大妖怪といえど認めるわけにはいかない。わたしは室内に蝋燭を立て、襖を微かに開けてじっと凝視する。するとこちらを見返すようにいくつもの目が現れ、たちまち重圧のような妖力を感じられるようになった。それでも目を逸らさないでいることしばし、明らかに人の通れない隙間より人の姿が現れた。金の髪に青紫色の瞳、絵巻物に出てくる大陸の道士を思わせる服をまとい、その圧と威容たるやわたしの覚悟を吹き飛ばすに足るものであった。睥睨するような眼差しはしかし一瞬で、微かに口元を緩めるとそれだけで威圧感は内側にこもり、並の人間にも接することができるようになる。
彼女こそがこの郷において幾許かの権利を持つ大妖怪にして賢者、八雲紫である。世の境目の管理者にして、れいむの影の後見人でもあり、そしてれいむをこの世界に連れ込んだ張本人でもある。桜も散り、春も半ばとなった今頃になってようやく現れたということは、冬眠から覚めた彼女の処理しなければならない箇所が去年以上に増えたということだ。
「そう、貴女にはもう時間がないわ」わたしの気持ちを察したのか、紫はそう言うと人差し指を立てる。「もって一年、と考えて頂戴」
少し早過ぎると言いたかったが、しかしわたしが力のない博麗であることは疑いようのないことである。それにしても五年しか保たないなんて不甲斐ないと思う。
「仕事も遅いわ。引き継ぎなんて一年もあれば可能なはずよね?」
博麗の知識と力を継承し、その証を得る。わたしなどは半年ほどで一切合切を押しつけられてしまったけれど、それでも今のような世の中ならばさして問題もなかった。だがそれはわたしが既に読み書きを覚え、知識の伝達に何ら差し障りがなかったからだ。れいむにはそれを一から仕込む時間が必要であり、ようやく基礎の基礎が形になってきた程度だった。二年かけても不十分であることは彼女ならばはっきりと分かっているはずだった。それでもあと一年と言う。
「貴女はよくやっていると思っているわ。少なくとも貴女の先代みたく少々力がある程度で気位だけ高い輩よりも余程融通が聞くし、その生まれらしく実に粘り強い。れいむを育てるのに貴女ほどの適任はいないと思っているわ。だからこそわたしも余計な手間をかけることを厭わない」
巫女から霊力が十分に供給されていれば、郷を覆う結界はそう綻びないものらしい。逆に言えばそれが始まると近いうちに代替わりが起きる。それは力がある妖怪ないし、巫術や霊力に長けていれば人間でも見ることができる。わたしが現在、巫女をやっているのも一つにはその綻びを垣間見る力があったからだ。
この幻想郷では昔より、隙間を覗くことは肝試しの一環として人気が高いけれど、それは隙間に潜む妖怪や境界の綻びを見ることにも通じている。だからわたしはこの遊びが博麗の巫女となれる人材を見つけるため、紫が仕組んだものだと疑っている。彼女にそうした好奇心を向けるのは危険だから今まで訊いたことはないのだけど。
「それでも遅過ぎるわ。座学なんて後からでも身につけられるのだから、これからは実践に重きを置いて頂戴。必要ならば死なない程度に痛めつけても構わないから」
れいむを痛めつけるだなんて考えたくもなかった。子供なりに鍛えてきたつもりだけど、まだどこも柔らかいし、過去に何があったかも分からないとなれば尚更慎重に進めたかった。だが紫はそうした容赦を許しはしないだろうし、より苛烈な環境に移されるかもしれない。それならば何もかもではないにしろ、れいむのことを良く知っているわたしがやった方がいい。
「分かったわ、紫」わたしはこれまでの口調を排し、きつく呼び捨てにする。わたしにも覚悟があり、いざというときは博麗の巫女として対峙することも辞さないと示すために。「次に桜の咲く頃には、彼女は立派な巫女になっていると知りなさい」
「楽しみにしているわ」紫はどこからか取り出した扇子で口元を覆う。顔の下半分は見えないけれど、上半分だけでも彼女がわたしを馬鹿にするように笑っているのだとはっきり分かった。所詮、わたしは彼女にとって歯牙にもかけられない存在なのだ。「それでは用も済んだことだし、お暇させてもらうわ。くれぐれも彼女のこと、よろしく頼むわね」
そうして相対したまま、紫は忽然とこの場からいなくなる。気配も妖力も微塵も感じられない。わたしは思わず大きく息をつき、立ち上がろうとして、体が微かに震えているのが分かった。なまじ力を持っていると、本当に敵わないものがそうでない人間よりもよく分かってしまう。それにしても彼女と来たら、わたしがどれだけ強く出ても柳のように受け流してしまう。伝え聞くところによれば八雲紫は冷静沈着を基としながら案外、激情家なところもあるらしいのだが、そんな様子など一度も見た事がない。おそらくわたしのような木っ端でなく、博麗の礎を築いた初代の巫女ならば彼女を挑発し、相並び、怒らせることもあったのだろう。
震えが収まり、わたしは微かな隙間を閉じると布団を敷き、蝋燭を消して寝床に入る。閉じた瞼の裏にいくつも目が浮かんでくるけれど、これは単なる残像なのだと言い聞かせる。それでもわたしは少しの間、寝付くことができなかった。
翌日になるとれいむはすっかり元気になり、朝のお勤めも恙なくこなし、落ち葉の種類に気を取られることもなくなっていた。昨日の遅れを取り戻そうと苦手な座学にもできるだけ集中してくれた。心と体が乖離することなく、それだけで嬉しそうなれいむの姿を見ていると、厳しい訓練を課すことがどうにも躊躇われてしまう。だがわたしにはあまり時間がない。一年という時間もあの大妖怪が最大限の譲歩をした結果だろうし、それも気分次第であっさり覆るだろう。
昼になるとわたしたちは神社の周りに広がる林に入る。妖怪は自然深い所を根城にする場合も多々あり、退治するならば山野の駆け方を学ばなければならない。知恵のあまりない妖怪ならば身を曝すことも厭わないけれど、それでも獣や妖精よりは頭が回る。劣勢を悟れば身を隠すくらいはするし、人ならば数ヶ月かかる怪我も月の巡りが良ければ数日で治ることもある。そうすれば折角の準備も無駄になるし、妖怪はより用心してことを起こすようになるかもしれない。そして山野は雑多な気配で満ちている。わたしは先代が仕掛けた微かな目印を探るため、時には夜を徹しての、探索の修練を積まされたものだ。
れいむには当然ながらそういった無期限の探索訓練を課したことはない。小さい体には酷だと思ったし、記憶がないためか知らないけれど、自然に対して余りに無知でまた警戒心が薄い。わたしでさえ、れいむくらいの年の頃にはなんとなくだが、触って良い動植物の区別、口に入れて良いものかの大雑把な判断ができたものだ。茸は種類が豊富で、毒持ちとそうでないものが紛らわしく、手を出すなときつく言われていたけれど、食べられる木の実を時折摘んでは弟や妹たちに振る舞っていたし、花の蜜をおやつ代わりに吸ったりもした。
そうしたものも含め、まずはじっくりとこの地の自然に慣れさせるのが肝要だと思った。その甲斐もあってようやく、浅い自然ならば無理なく駆け回ることができるようになったが所詮はその程度だ。これからさせることがれいむには酷だと分かっていたが、わたしには猶予も選択肢もなかった。
「ねえ、今日はいつもより奥に行くのね。もしかして新しいことを始めるの?」そしてれいむがわたしの行動を察したことで、緩いけれど決意も固まった。「怖い顔をしてるからそうだと思ったんだけど。違うの?」
「いいえ……いえ、そうよ。わたしはこれから、新しい課題を与えるわ」その内容を説明するとれいむは特に怯むことなく、淡々と頷くのみだった。自然に弱いくせに、その中を駆け回るのは大したことではないと考えているらしい。「もう一度言うけれど時間を切ることはできないわ。そしてこの探索行は一度だけではなく時間を変えて何度も実施するわ。早朝かもしれないし、夜遅いかもしれない。たちの悪い妖精や妖怪に遭っても当然ながら助けてあげられない」
博麗の鎮守を成す杜は邪悪を寄せ付けないが、その属性が無に近い妖精やはぐれた霊などには格好の住処でもある。後者は定期的に引っ張って彼岸に渡しているが、前者は割と野放しだ。危険度は低いけれど何かものを探すのは難しい。だから未熟な修験者にとっては格好の訓練場なのだ。かつての博麗は上手いものを作ったものだと思う。
「では目印を隠して来るからここで待っていてね」わたしは何度も深呼吸をし、この身を地に縛るものを体から徐々に抜いていく。同時に霊力を体にまとい、地に縛られない己を想起する。わたしの場合は川で泳ぐことを考えるとそこから解き放たれ、空に浮かぶことができる。「十分ほどで戻るわ」
れいむは空に浮かぶわたしを見て、羨望の眼差しを隠さない。初めてこの技を見せたときもそうだが、れいむは空を飛ぶことに対して並々ならぬ憧憬を抱いているようであった。子供らしい無邪気さであれば良いのだが、れいむの飛行に対する切実さはそれを越えたものを感じる。もしかすると失われた記憶に関係するのかもしれない。
わたしは何も言わずに背を向け、林を抜けて空に出る。久しぶりというのもあるが、かつてより随分と体が重く、力を明確な形に保つことさえ難しい。この状態では軽い退魔の術を使いながら戦うことさえ苦しいだろう。紫がわざわざ期限をきって来たのもなるほど、分からないではない。
違和感の拭えないまま空を飛ぶこと少し、手頃に目立つ木を見つけ、妖力の封印された札を目立たない場所に貼りつける。妖しい気配を探るというのはどうしても実物がないと上達しないから過去の成果物を流用している。本当は実践での確認が最上だけど、大物妖怪がすっかりとなりを潜めた今の郷では散発的に起こる小物の退治が関の山であり、その機会もあまりないから、妖の力を清めずに一部所持しているのだ。陰の気を保管しておくのは躊躇われるのだが、少なくとも前の前から続いていたことだし、実害が出たことはない。
すぐに離脱して、方角を悟られないようにれいむのほぼ真上から着陸し、これで準備は完了だ。わたしは続けてれいむに修行の内容を説明する。
「この林に妖怪の発する気の塊があるわ。お札だから剥がして取って来て頂戴。無期限といったけど日が暮れるようなら一度、神社に戻ること。わたしは戻ってお勤めをしているから」
これでも生温いのかもしれないが、無理ばかりを通しても良いことはあまりないし、あの大妖怪はそのせいでれいむが窮地に陥っても助けたりはしないはずだ。
「心配しないで、きっとすぐ取って来れるから」
れいむはわたしをまるで元気付けるように言う。よほど暗い顔をしていたに違いなかった。
予想に反し、れいむは日の暮れる前に涼しい顔で戻ってきた。手には目印のついたお札を持っていたが、わたしの顔を見ると少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「あの、ごめんなさい」そして深々と子供らしからぬ辞儀をする。「すぐに見つかったの。わたしがこんなだから、優しくしてくれたんでしょう?」
手心を加えたのは確かだが、それでもれいむにとって十分に酷なものになるよう設定したはずだ。それをれいむは苦とする様子すらなかった。
「どうやって、見つけたのかしら?」
「えっと、どうやって?」れいむは唇をすぼめ、考え込む仕草を見せる。「何も考えずにしばらく歩いていたら、変な気配があるなって分かって。そこを探したらお札が貼ってあるのを見つけたの。それだけよ?」
いけなかったと言いたげにこちらを窺ってくるれいむに、わたしは小さく首を横に振る。手段の指定は何もしていない。そもそも選り好みできるような生易しいものではなかったはずだ。それなのにれいむはほとんど運だけで乗り越えてしまった。わたしは博麗の巫女が持つという強運のことを思い出す。わたしにはついぞそのようなものが身に着かなかったからすっかりと失念していたのだけど、れいむには神がかりとも言えるような驚異的な幸運が纏われているのかもしれない。それが些細な困難などあっさり吹き払うのだとしたら。これまでの生を思えばとてもれいむが幸運だとは思えないのだが、平時ではない状況でだけ発揮される能力なのかもしれない。
それを確かめるのは難しいことではなかった。先代がわたしに意地悪したように、滅多なことでは見つけられないほど微弱な目印にしてもう一度、れいむに林を探すよう伝えれば良いだけのことだった。朝に送り出したれいむは太陽が真上に来る前にはお札を見つけ、今度はもう少し嬉しそうにわたしに手渡してきた。上手くできたとほっとしており、わたしは手際の良さを褒めながら内心では戦々恐々としていた。れいむの成功は一度きりではなく、人を超えた幸運ないし勘といったものが大した条件もなくあっさりと発現し、正しい方向へと自ずと導かれるのだ。
れいむがわたしの考えを大きく超えた力をおそらく持っていることは分かっていたけれど、わたしの矮小な器が狭く定義し、その結果としてれいむの資質を大きく押さえつけていたのかもしれない。だとしたらかつて年端もいかないれいむに酷いことをしたとされる人間たちに近いことを、知らずにやっていたのかもしれない。
そのためにはもっと別の方法でも試す必要があると思った。
翌日、わたしは練習用ではない、実践で使用する退魔の道具を持ち出してれいむに与えた。妖力のみならず力に反応して追尾する呪いの込められた霊札と、ご神木の枝を加工して作ったお祓い棒だ。特に前者は博麗の術の根幹を成しているといって良い。博麗の霊札は退魔の技を振るうためのものであり、妖を少なからず傷つける力を持っているが、その真価は数をもって編んだ時にこそ発揮される。陣を組めばより強力な巫術を放てるし、結を組んで界と成し強固な守りに発展させることもできる。そしてその守りは術者の意志であっという間に攻守を逆転させ、固い守りの盾がそのまま相手を打つ矛にもなる。
これさえあれば他に道具がいらないと思えるくらいに汎用性の高いものだが、欠点もある。大きな陣になればなるほど展開に時間がかかるため緊急時の対処にはあまり向いておらず、そんな時には特定の用途を込めて瞬時に展開できる符を使用することで補っている。だがそれは割と些細なことで、最大の問題は一つの札に複数の属性を常に込める必要があるため、霊力の消費が激しくなるということだ。腕に多少覚えのある巫術使いであってもこの札を扱えば鉛のように重く、すぐに根をあげるだろう。人並み外れた霊力を必要とし、ゆえにほぼ博麗の巫女の専用道具だと考えていい。
そのために扱いのできる職人が極めて限られるという問題もあった。自前での作成が基本なのだが、たまにこちらの手に余るような代物も存在する。そうなると専門の職人に頼むしかなく、現在においてわたしが相談できるのは一人しかいない。先代は名家出身であるため、その手の問題では苦労しなかったのだが、わたしは生まれが平凡であるためかそうしたものの助力を得られなかった。深く頭を下げ、媚びへつらえばあるいは目零ししてもらえたかもしれないが、それはできなかった。かつてのわたしは散々愚弄された相手や与するものたちに頭を下げられるほど大人ではなかったからだ。いま思えば少しはそうするべきだったのかもしれない。そのせいでれいむの選択肢をより狭めることになってしまった。彼女は外側の人間だからわたし以上に味方がいないのに、手渡せる味方があまりいない。
れいむは当然ながらそんなことを構う様子もなく霊具をぺたぺたと触っているし、わたしも余程酷い扱いで無い限り、口にするつもりはなかった。わたしには札の使い方を始め、霊具のできるだけ正しい扱い方を教える必要があり、そのためにはどうすれば良いか考えていたのだが、すぐに杞憂となってしまった。れいむは馴染みの道具であるかのように、道具に力を込めて使ってみせたからだ。まるでそれが自然であるかのように霊札はれいむの周りをふわふわと浮き、力を抜くとはさりと落ちる。我流で悪い癖はあったけれど、少し指摘するだけですぐに飲み込んだし、遊びにも似た探求を通して、急速にその特性をつかんでいく。
ここでもれいむに教師は必要ではなかった。わたしが歯を食い縛って、精一杯の努力をしてやっと身につけられたものを、勝手にこつをつかんで先に進んでいく。妖怪退治にさえ近いうちに赴けるようになるだろう。そんなことを考えながら、わたしの心は徐々に重くなる。わたしにはそうして変わりゆくれいむを、諌めることはできても止めることはできないかもからだ。もしもれいむがわたしの手の中にあるうち、増長して取り返しのつかないことを起こすようなことがあれば。
だがそれをれいむに話すことはできなかった。そうして萎縮してしまえば、やはり紫はわたしをれいむから切り離すに違いないからだ。
わたしの元に久方ぶりの、妖怪退治の依頼が舞い込んで来たのはその翌週のことである。訪ねて来たのは村の南に広い土地を持つ豪農の息子だった。わたしの家を始めとして多くの家に土地を貸しており、それでいて下々にも目の行き届く配慮ができ、わたしがお転婆であることを骨の髄まで知っている。またわたしを支えてくれる数少ない名士の一人でもある。胃が弱くていつも少し青い顔をしており、細身で眼鏡をかけていて、背ばかりが高いからいつもふらふらしているように見えるのだが、いまや顔色は白に近く、不治の病を患っていると言われても信じられそうなほどだ。
彼は連れもなく、鳥居を潜ってすぐのところで躊躇うように立ち止まっていて、昼からの修練で外に出てきたところで鉢合わせになったのだが、わたしの姿を見て声をかけようか否か随分と悩んだ様子であった。それでも逃げずに踏み止まったところから彼の深い逡巡を感じることができた。そしてわたしを前にしても何も話そうとしない。どうやられいむのことを気にしているようだった。
「この子なら問題ありません。近いうち、妖怪退治に連れていく予定でしたから。あどけないですが、こと霊力に限ればわたしなど比べものにならないほどの素養を持っています」彼はこの子がと言いたげに視線を向け、僅かなりにも何かを感じ取ったのだろう。改めてわたしの顔をじっと見る。「れいむ、この方を居間に。わたしは茶を淹れてきます」
「いやいや菊ちゃん、そこまでしなくても……」
「わたしは菊ではありません。今は博麗の当代、令武です。あと一年はそう呼んで頂かないと」
「だが……いや、うん。そうだな、ちょっと参っていたようだ」彼は小さく息をつき、顔を引き締める。語る用意ができたようだった。「少し長い話になるかもしれない。わたしにも上手く語れる自信がない」
「長話には慣れてるわ」里に出れば老人たちに囲まれて、手を合わされたり拝まれたり、世間話を聞かされたり見合い相手をあてがわれそうになったりと、それで自然と辛抱できるようになったのだ。「正座するにも五分と保たない小娘ではなくなったのよ。そんなのもう分かってると思ってたけど」
冗談を振ってみても気の晴れる様子がまるでない。陰気にすっかり憑かれているようで、これはどうにも厄介かもしれないと、心中に呟くのだった。
供されたお茶を二口、三口啜るとようやく少し落ち着いたようで、わたしはこれから話すことに備え、耳をじっと傾ける。およそ妖が起こす事件というのは尋常でない場合が多く、予断が混じりやすいからだ。
「ゆっくり話してください。時間はいくらでもありますから」
だからせめて何でも話すよう、慌てて語らないよう誘導する必要がある。
「話というのは娘のことです」先程までの砕けた態度と違い、わたしへの依頼を意識したのか極めて丁重な口調だった。「あの子のことはよくご存知かと思いますが」
二つ下でわたしのことをよく慕ってくれた娘だ。名家の娘らしい、我儘なところはあったけれど、気立ての良い子だった。最近はれいむにつきっきりで家にもほとんど帰らず、少し前に遠目からちらと見ただけだが、その時は別段変わりはなかったはずだ。
「娘が今年になってから、よく田に出るようになりました」それは良いことなのではと思ったが、しかし彼はそのことを苦渋のように語ろうとしている。そこに根の一つがあるに違いなかった。「怠け者というわけではなく、むしろよく気がついて動く子ですが、年頃の娘らしく泥仕事をあまり好かない傾向にありました。それが、今年は田植えをする前から田の様子を気にし、しょっちゅうその様子を見に行くようになったんです。田植えにも精を出し、ですがこの時から兆候はありました。田のある一角に他の者が足を踏み入れようとすると急に憤り始めたのです。最初は誰も入るな一人でやると、辛抱強く説得したら男だけならばいいということになりまして。少しばかり難しい年頃なのだと周りのものを説得し、娘の普段の行いもあってことなきを得ました。わたしは作付けを急がねばという気持ちが先に立ち、田植えが終わると癇癪も収まったのでそれ以上は気にしないことにしました。わたし自身も娘が難しい年頃であるからと自分を納得させてしまったのです。それから少しして、その……」
彼はれいむをちらと見て、露骨に躊躇う仕草を見せた。子供にはあまり聞かせたくないことであるらしい。わたしは首を横に振って、その要求を無言で退ける。わたしはあと一年弱しかれいむについていられない。だとしたらその間に、大人の事情にも最低限踏み込めるよう経験を積ませるべきだと思った。本当はれいむがもっと年を取ってからにしたかったのだけど致し方ない。
彼はなおも渋る様子を見せたが、れいむの粛々と耳を傾ける様に何かを感じ取ったのかもしれない。それでも最初はわたしのほうを向いて声も小さく、れいむにはできれば聞こえて欲しくないという気持ちをもって話を続けた。
「娘が夜を忍び、外出するようになったのです。それとなく使用人が伝えてくれてわたしの知るところとなったのですが、この通り男親であるからすっかり動転してしまいまして。妻にやんわり訪ねると最初こそ驚いた顔をしましたが、素性を調べて問題がなさそうならばあとは二人のなるように任せるべきだと言うのです。確かにわたしもその、年頃には夜道を、想う人のもとまで駆けたものです。今ではそういう風習も徐々になくなりつつあるようですが、情を交わし合った二人が納得づくならば口を出すまでもありません。わたしはその手の仕事が得意なものに心づけを渡し、娘が抜け出したらあとをつけ、ことが終わるまでその場に潜み、そうしたら帰宅する男のあとをつけて素性を暴き出して欲しいと頼みました。娘はその晩にも家を抜け出し、だから惑うのはあと一日であると考えていたのです。しかし翌日、娘のあとをつけた男は顔面蒼白になってわたしに報告してきました。そして娘を拐かしているのは妖だと言い切ったのです」
話すたびに声が掠れていき、ついに一言も話せなくなったのか、彼は慌てて少し覚めた茶を一気に飲み干し、微かに息をつく。
「娘は田に入り、その中で突然、仰向けになったそうです。すると泥が人の形を取って立ち上がり、娘に覆い被さったそうなのです。その様子はまるで……田と交わっているかのようだったと、言うのです」
その姿を少しだけ想像してしまい、それが仲の良い娘だったためか酷く怖気がした。そして何故、町の退魔師に頼らず博麗神社に駆け込んだかが分かった気がした。こんなもの、他に相談できるはずもない。わたしだって立場が同じならそうしただろう。妖に犯されたと知れれば、いかな家の娘といっても嫁の貰い手など現れなくなる。
「事情は、分かりました。その、一つ不躾なことを聞きますが、何かを宿したとかそういう兆候は見られないでしょうか。その、月のものが止まったり、急な吐き気を覚えたり、酸いものを好むようになったりといった」
「いいえ、そういったことは……それはつまり、放っておけばそのようになるやもしれないと? 菊ちゃ……貴女には既に正体が分かっているのですか?」
「いえ、まだはっきりとは。そのために、こちらからさらにいくつか質問したいことがあります。答えて頂けますでしょうか? 極めて繊細なところはまず確認しましたから、そこまで心労を募らせることはないと思うのですが」
「いえ、娘のためですから。如何なることであろうと問うてください」
娘のためになんでもやるならば、力が衰え始めていると評判のわたしをこっそり訪ねるのではなく、家名に傷がつくことを覚悟で全力を尽くすべきなのだ。それができないならばなんでも、なんて言葉を使うべきではない。
わたしは冷めた茶を半分ほど啜り、気持ちを鎮める。気をつけていてもすぐ激情するのはわたしの悪い癖の一つだった。
「田の来歴についてです。あの一帯は以前、別の家の持ち物だったと聞いたことがありますが」
「ええ、確かにそうです」口にする彼の顔は嫌悪に歪みきっていた。「戦後間もなく、酷い飢饉が何年も続いたことがありました。何を蒔いても花だけがつき、決して実にならなかったそうです。木の皮さえ剥がし、土をほじくり返してミミズや百足を食べ、それすらもいなくなるくらい、食べ物がなかったそうです。人の心は乱れに乱れましたが、かつての屋敷と土地の持ち主はいつまで続くか分からない飢饉にも食糧を与えることなく、逆に贅沢の限りを尽くしたそうです。それで誰もが怒り心頭となったところを、わたしの父が先頭に立って里の有力者たちに説得し、直訴でもってその有力者を説き伏せ、血が流れることを防いだそうです」
話し合いによって全てが解決したと彼は言いたいようだった。だがわたしには都合が良すぎて到底、信じられなかった。それに自分のことしか考えられない人間が素直に土地と立場を譲るとは決して思えなかったのだ。
わたしは曖昧に頷き、それから彼に一つだけ問うた。
「そのとき、田の上で殺されたものはいなかったでしょうか」
「それは先程のわたしの話を疑っているのでしょうか?」
「お父上の功績を疑っているわけではありません。ただ酷い飢饉はどんな善人の心も歪ませます。一滴の血も流れなかったとは言い切れません」
気を悪くさせることを覚悟していたのだが、彼は少し考えたのち小さく首を横に振る。
「当時の記録を見れば分かるかもしれません。だが、父が見せてくれるかどうか」
「わたしの見立てでは、娘さんを拐かしているのは泥田坊と呼ばれる妖です」逡巡する彼に、わたしははっきりとそう口にする。「田から生まれた恨みが血と共に凝り、土地に憑くのですよ。そうして所有権を主張する。血と共に生まれたから、血を継ごうとします。農作業は働き手が沢山いなければ成り立たないものですから」
「血と言いますが、わたしの家は信頼をもって土地を託されたのです」
「率先して血を流したからこそ信頼されたとも言えます」
それに疚しいことがないなら、彼の父親が過去の記録を自由に見せないというのはおかしい気がするのだ。やはりこちらから訪ねるしかないだろう。そして血の歴史があるかどうか確認する。いざとなれば孫のためと言って押し通すつもりだった。
「翌日には伺います。娘さんを、できれば今日だけでも付きっきりで気遣ってあげてください。決して田には入らせないように。よろしくお願いします」
そう言うと彼は神妙そうに頷き、やって来たときと同じようにふらふらと病人のように去っていった。
土地に宿るものを退治するならば、方法は二つに大別される。土地に執着する原因を解決して解き放つか、土地に縛り付けた上で滅するかのどちらかだ。手間は前者の方がかかるけれど、後腐れなく誰にとっても負担は少ない。土地の来歴を汲み取り悼むというのは、古来よりあらゆる場所で行われてきたことでもある。対して後者は方法さえ整っていれば、いつ実行しても良い。しかし土地に凝ったものはとみにしぶとく、僅かでも怨念の残滓が残っていればふとしたきっかけで甦ることもある。そうした事態を避けるため、土地を縄で囲い、少しでも穢れのあるものを何人たりとも近づけないようにする。それでも駄目な時は駄目で、使えない土地を何十年も責任を持って管理し続けなければならない。
どちらにしても泥を被るのは土地の持ち主である。できれば穏便に済ませたいと思い、できる限りの資料には当たってみたのだが、この妖は素性も正体も明らかでないものが多い。名はある程度知られているが、実際にどのような害を成すのか、どういった由来で生まれてきたものなのか、書き口が曖昧なのだ。土地を奪われた恨みから口数が少なくなるというのもあっただろう。妖というものは知れば知るほど分からなくなる場合も少なくない。
どうにも考えが詰まり、ちらちらと蝋燭の瞬く中で欠伸をしていると、れいむが不安そうな顔でひょこひょこと現れた。微妙な問題もあってひとまずれいむには何も教えず、れいむもそれに従って身の回りの世話を引き受けてくれたけれど、元々知りたがり屋だ。やっぱり耐えられなくなったのだろう。
「わたしも付いて行って大丈夫なのかな?」
「最初からそのつもりよ。ただ、分からないことが多いから」
「でも、何もかも分かっているように話してたよね?」れいむは目をぱちくりさせて不思議そうにしている。「もしかして嘘をついたの?」
「できる限り本当のところを話したつもりよ。けどはっきりしていないことをはっきりと語ったのも本当。わたしたちの仕事は不安を解くという部分が大きく、はっきりしないことは良くないものの力を強くしてしまう。多少自信はなくても、言い切ってしまうのは大事なの。それにたとえ間違っていても、それに対処できるよう準備をして挑めばいいのよ」
「そっか、妖怪退治って難しいんだね。わたしはそのどろたんぼうってのを、退治すればいいのだと思ってた」
れいむならば妖怪退治をそのように単純なものに出来るかもしれないが、口にはしなかった。れいむがいくら強くなっても所詮は人間に過ぎない。手足の一本ももげればまず助からないだろう。相手の正体を見極めた適切な対処をするに越したことはない。
「あるいは妖の存在を確固のものにするのが、巫女の仕事なのかもしれない」内心を誤魔化すように曖昧なことを言うと、れいむは意味がよく飲み込めないのか不思議そうな顔をしていた。「まあそんなに心配することもないと思うわ」
心配するなとばかりに頭を撫でると、れいむは目を細めて柔らかに笑う。
「うん……ごめん、色々訊いて。なんだか不安だったの、さっきの男の人と話してることもなんだかよく分からないことだらけだったし」
気持ち良さそうにしているれいむを見ていると、わたしの心も徐々に落ち着いてくるし、少なくとも自分がこの子を育てるにあたり、情操の面では助けてあげられたことが分かる。ここに来たばかりの頃は頭を撫でようとすると恐慌を来たし、部屋の隅に縮こまってしまうほど、触られるのが苦手な子だった。これから巫女になってしまっても、褒められることに萎縮したり、卑屈になって視線を下げてしまう子にはなって欲しくない。ここは個性の坩堝のような場所なのだから尚更だ。
「わたしが手本を見せるから。少しだけ手伝ってもらうことにはなると思うけど」
「うん、分かった。絶対、失敗しないから」
あどけなく口元を引き締める様は可愛らしいけれど、やはりどこか痛々しいなとも思う。
「絶対なんて無理して言わなくて良いの。期待はしてるけど、失敗してどうにかなるほどわたしは弱くないのよ」
胸に拳を添え、心配する必要はないとばかりに笑う。根拠のない自信を浮かべるのは子供の頃は得意だったが、今でもれいむを安心させるくらいのことはできるはずだ。
「うん、それじゃあわたしも頑張るね」
「期待してる。でも身の回りにはくれぐれも気をつけて」
れいむは後半のほうをほとんど聞かず、わぁいと両手を上げて喜ぶ。まだ少し危ういなと思ったけど、れいむの前向きな態度を尊重してここでは何も言わなかった。
翌朝、わたしたちは彼とその家族が暮らす屋敷にやって来た。この辺りは里の最外縁の囲いが見えるほど南寄りで、遠目には様々な妖怪が住まうという森が広がっている。子供の頃、わたしを含めた子供たちは皆、口を酸っぱくして言われたものだ。囲いを抜けたずっと先にある、深く鬱蒼とした南の森へは決して立ち入ってはならないと。あれは妖怪の森であり、死の入口であると。わたしは幼い頃からそのことを疑っていたし、実際に何度も森の浅い場所を出入りしていたけれど、獣を超える気配は感じなかった。
更に奥へ向かえば分からないかもしれないが、しかし大人があの森に薪や細工物用の木を切りに行く姿は時折見かけていたし、あの森には妖怪などいないのかもしれない。いても大人の脅威にはならないのかもしれないし、単に子供が森で迷子になるのを防止するための方便だったかもしれない。
そうした戒めごとは他にもあって、例えば雨や霧などで水の濃い匂いがする夜は歩いてはならないとか、田んぼに血を流してはいけないとか、里の他の場所にはない習わしもいくつもあった。夜眠る前に、わたしはこのようなしきたりももしかすると、田に娘を誘う妖怪と関係があるのではないかと密かに考えていた。
「どうしたの、険しい顔をして。何か感じるの?」
「ううん、この辺りではよく遊んだから懐かしいなと思っていただけ。このお屋敷の娘さんとも昔はよく一緒だったのよ」
おままごとをするよりお手玉をするより、わたしたちは冒険に出ることが多かった。といってもたかだか六、七歳の頃のことなので、冒険といっても行ける場所などたかが知れていたのだが、その娘は二つ年下ながらもわたし以上に元気旺盛で、二、三日に一度は叱られていたものだ。畦道を駆け巡り、開墾の名残であろう土山に競って上がり、わたしの方が年上だからいつも勝ってしまい、それでずるいと泣かれたりもした。
寺子屋や、後に道場に通い出してからは疎遠になったが、会えばいつも夜遅くまで話をした。わたしが巫女になってからも神社まで会いに来ることはなかったものの、行事のたびにわたしを応援してくれた。辛かったらいつでも愚痴を零しに来てくれていいとも言ってくれた。わたしは愚痴を零すのがあまり好きでなく、ましてや相手は年下だから何となく気が引けてしまった。れいむがやって来てからは他に心を振り向ける余裕もなかったが、親しいから会いに行くという動機だけで良かったのかもしれない。
「さあ、行きましょう」屋敷の目の前で物思いに耽っていてもしょうがない。わたしは木造りの大きな門の横にある通用口から呼びかけ、使用人に素性を説明する。すると慌しなく扉が開き、中から憔悴した様子の、壮年の男性が現れる。遊びに夢中で帰りが遅くなったとき、彼女をそっと中に入れてくれた明るさと気さくさはなく、今にも溜息をつかんばかりだった。「どうされたんですか?」
察するところはあったが、男は縋るような目でわたしを見つめてきた。
「昨夜、お嬢様がその……酷く取り乱されることがありまして」きっとまた、外に出ようとしたのだろう。「ご主人様はお嬢様を、使用人たちと協力して蔵の一つに閉じ込めてしまいました。ご隠居様は孫に何をするのかときつく食い下がったそうなのですが、ご主人様は何やら耳打ちをされまして。するとすっかり意気消沈して、自室にこもってしまわれました。お気持ちが塞がれてしまったのか体調も悪くしてしまいまして、誰も通すなという按配なのですよ」
その人物こそわたしの知りたいことを話してくれる、ないし資料を表沙汰にする権限を持っているはずで、それは少しばかり面倒なことだった。正体を確固と語ることで不安を払拭しようとしたのが逆に仇になったのかもしれない。
「お菊ちゃんが来るってことはやっぱし、あれはたちの悪い……」
「今日は博麗の巫女、令武としてここに来ました。状況は一刻を争うようですから、主人へのお目通りを願います」
「あ、ああ、分かった。すぐ屋敷の中のものに伝えるから」
そう言って伝令に駆けていく様子を見守ってから、わたしは屋敷を見上げる。この幻想郷においてもいまや瓦葺きが主流で、この屋敷のような藁葺きはだいぶ珍しくなっている。物珍しさのせいか昔からここは好きな場所だったし、綺麗に整った庭や建ち並ぶ蔵を初めて見たときは素直に凄いと思ったものだ。しかしいまやそれら全てが微妙に重々しく、粘りつくような居心地の悪さを覚えてしまう。
「ここ、なんか嫌。じいっと見られてる気がする」
れいむが袖を引きながら、眉をへの字にしていた。おそらくわたし以上の霊感があるれいむはこの屋敷に憑くものの気配をより敏感に受け取っているのだろう。長居は少し危険かもしれない。
「おお、来てくれましたか!」依頼人は昨日よりも更にやつれた様子で、頬には爪で引っかかれたような赤い痕があった。「言われた通り、娘に気を配って外に出さないようにしたのですが、するとまるで人が変わったように暴れ出しまして。娘とは思えない強い力でわたしを含め三人も四人も押さえかかってようやく、その……蔵の一つに閉じ込めることができました」
彼の父に会って話もしたいが、まずは彼女の憑きものを落とす必要がありそうだ。わたしとれいむはその蔵の前まで案内され、すると中から激しく扉を打ち据える音が聞こえてくる。そして何度かの衝撃で扉が大きな音を立てて開く。太い木の閂はへし折れ、蝶番は半ば取れかけて扉はぎしぎし音を立て、中から赤い柄の着物を着た少女が……いや、白地の襦袢に血がべったりとついているからそう見えただけだ。その顔は絵巻物に出てくる鬼のように険しく、口元からはだらしなく涎を零していた。ぽっちゃりとした顔の面影はなく、目には濃い隈が浮かび明らかに憔悴している。人の身で激しい体当たりを繰り返したせいか左腕がおかしい方向に曲がっており、それだというのにこちらへ向けて全速で走ってくる。最初はわたしに向かっているのかと思ったが、彼女の狙いはれいむだった。外から怨念を発する何者かによって、人質に取りやすい子供が来たことを知らされたのかもしれない。
だがいかな膂力とはいえ、真っ直ぐ向かって来るだけの人間に遅れを取ることはない。れいむの前に立ちはだかると折れてないほうの腕で突きだしてくる拳をかわし、すれ違いざま鳩尾に掌を押し込む。鈍い声を立てて崩れ落ち、彼女はそれでも動かない体を必死に前へ動かそうとする。
「ごめんね、かなり痛いと思うけど」腹部に退魔の札を貼ると、彼女は甲高い叫び声をあげ、全身から白い煙が立ち上る。少しすると股の間からどろりと、大量の泥が流れ出て地面を生臭く濡らしていく。それを見て父親は思わず低い呻き声をもらした。だがわたしは内心、息をつきたい気持ちだった。明確な形を成さずに流れてくれたのだから。「腕が折れて、他にも色々なところが傷ついています。早く治さないと」
「分かった。だが、誰を呼べば……」
「医者に決まっているわ! 体面など気にしている場合か!」
声を荒げると、近くにいたれいむが激しく体を震わせる。それで気持ちが昂ぶっていたことに気付き、わたしは大きく深呼吸をする。地が出ないよう慎重に、短気な己を鎮めていく。
「命あっての物種と言います」わたしは彼女のこけた頬にそっと触れる。憑かれていたせいか体が酷く冷たくなっている。「冬に使うような厚い布団を敷いて、体を温めてください。弱った体に効く滋養のあるものもいつでも用意できるようにしてあげて……尽力してやってください。それができるのは親だけなのですから」
子供であり、そして博麗の巫女であるわたしには怪異から守ることはできても、それによって傷つけられたものを長い期間をかけて癒すことはできない。幸いにして彼は体面を押し通すほど酷い親ではなく、そして一度覚悟を決めるとてきぱき裁量をくだしていった。優柔不断だが同時に優れた、ものを決めてそれを他人のせいにしない人物でもある。だからわたしも小さい頃は少しだけ憧れていたのだ。
「ことは一刻を争うようです。かくなる上は……床に伏せている方を脅かすのは忍びないですが」孫のことだと脅しつけ、隠居している彼女の祖父から事情を聞き出すしかないと思った。「詳しいお話をお聞かせ願う必要があるようです」
彼は少し迷った末、大きく頷く。酷い出来事は避けられなかったから、せめてここで挽回しなければならないと考えたのだろう。取り次ぎは極めて迅速に行われた。
ご隠居様と皆に呼ばれているこの屋敷の先代当主は、年月による衰えにも負けないほどの健啖な老人であったはずだ。少なくとも最後に会った時はそうであったが、いまやその気力もすっかり萎えてしまい、枯れ木が寝そべっているかのようだった。息も細くしかも不定期で、部屋を閉め切っているせいかすっかり陰がこもっていた。襖を開け放ち、光と空気を入れることで僅かに改善されたはずけれど、こんな所にいれば体も心も長くは保たないだろう。
「誰も入れるなと申しつけていたはずだが?」それでも絞り出される低い声は迫力を備えており、わたしも少したじろぎそうになってしまった。「しかも巫女に、後ろにいるのは捨て子と評判の娘ではないか」
先代当主はわたしよりも息子よりもまず、れいむを険しく睨めつける。年を重ねた尊大な男の悪意に晒されたことのないれいむはすっかり怯えてしまい、わたしの後ろに隠れてしまった。がたがたと震えているのが見なくても分かるくらい、この身にも伝わってきた。慰めてやりたかったけれど、そんなことをすれば恐怖にさえろくに耐えられない娘を、思慮なしに連れてきたのだと詰られ、一気に態度が硬化する可能性がある。
我慢して頂戴と小声で囁くと、れいむはなおもしばらくしがみついていたが、不意に震えがぴたりと止まり、わたしの横に立つ。再び老人の視線がれいむを射抜くが、今度は決然と視線を跳ね返し、それで張りつめていた空気が大きく緩んだ。
「伊達や酔狂で連れてきているわけではないということか」
「この子はまだ見習いですが、わたし以上の力があります。次の春までには独り立ちし、次の博麗を襲名することでしょう」
「そのようだ。衰えたとはいえ、大人を睨み返すなんてその年ではできる子供はそういない。よく肝が据わっているようだ」
先代はそう言って顎をしゃくる。わたしたちを部屋に通せという合図のようだ。ここまで案内してくれた彼に礼を言い、襖を閉めると昼だというのに暗くてほとんど何も見えなかった。
「明かりを点けてもらえないだろうか。枕元にマッチもある」
言われた通り灯籠をつけると、辺りが徐々に明るくなっていく。先代の肌は蝋のように白く、まるで幽鬼のようであった。
「泥田坊、と言うらしいな。我が家を苦しめる妖というものは」
「わたしの思い当たる中ではそれが近いというだけのことです。ただどのような存在であれ、そいつはこの家に強烈に憑いています。悪意に満ち、あなたよりもその係累に仇をなそうと手管を尽くしているようです。おそらくそいつはそれがあなたを最も苦しめるのだと分かっているのでしょう」
れいむに悟られぬ程度でその生々しいやり口を語ると、先代は徐々に顔を険しくしていった。
「その理由を、わたしは知りたいのです。思い当たることを話して頂くか、かつての資料に当たる許可をお願いできますでしょうか?」
先代は微かに迷う素振りを見せたが、だとしてもそれは一瞬のことで、弱々しくもはっきりと頷いた。
「息子からはどこまで聞いておるかな?」
「この屋敷と広大な土地を傲慢で私利私欲のことしか頭にない、元の地主より引き継いだということです」
「つまり表向きの事情を余すことなくというわけだ」やはりこの話には裏の事情が含まれていたらしく、先代は口をもごもごさせるとゆっくり体を起こし、布団の上に胡座をかく。姿が露わになると、そのやつれぶりはいよいよ明らかだった。「実際は引き継ぐなどという生易しいものではなかった。簒奪したといって差し支えないだろう。しかしこれは言い訳に聞こえるかもしれないが、仕方のないことだった。誰かがやらなければこの辺りのものは皆、飢えて死ぬしかなかったのだ。わたしは裕福になれたという意味では多少の運があったかもしれないが、今の立場を必ずしも良しと考えてきたわけではない。因果応報を恐れていた」
わたしは黙って頷き、無言のまま話を促す。いちいち合いの手を打っても寡黙を旨とする類の老人は逆に言葉数を少なくする。話したいままに話させ、こちらで必要な情報を集めるのだ。
「れいむ、貴女も話を聞いて、できるなりに考えて。疑問に思えば口を挟んでも構わないから」
小声で指示すると、大人の話に割り込むことへの抵抗感からかしばらく咎めるような表情だったけれど、やがて小さく頷いてくれた。その仕草を見て先代は話を再開する。
「今から五十年ほど前のことだ。花が咲き続けるという異常現象が起き、そのため作物に実が付かず、全く収穫できないという年があった。里は暗い顔で満ち、裕福な家のものは蔵に蓄えた食糧をどのように分配するかで連日、議論を重ねてきた。冬を越すために、次の年の農作業を可能にするために。里外れに住む賢者や、その伝手を頼って妖の有力者にも相談し、それでも状況は一向に好転しなかった。
裕福なものでさえ贅沢な暮らしなどできようはずもなかったが、そうなってさえ時勢が読めない愚者は現れるものだ。かつてこの屋敷の主だった男もそうで、生活の水準を落とすことを頑なに拒んだばかりか贅沢で女を釣り、ごろつきを雇い入れ、僅かな蓄えさえも小作から搾り取ろうとした。里に住む有力者たちが明に暗に非難したが聞く耳を持たず、そうした相手をごろつきに狙わせて口を封じることまでやらかす始末だった。誰もが彼を始末するべきだと考えていた。わたしがその役目を引き受けたのは、懇意にしていた女性が泣き腫らしながらわたしの所に駆け込んできたからだ。この飢饉が終わるまで食糧を与えることと引き替えに、両親は彼女を売ったんだ。破格の取り引きだったのはその男が彼女をかねてより狙っていたからだ。
わたしはその話を聞き、男を殺すべきだと発作的に決意し、何度も深呼吸をして己を落ち着かせてから、その気持ちが収まらないことを確認した。そして彼女に協力を仰ぎ計画を実行に移した。といっても特別なことをしたわけではない。あいつは夜這いが好きだったし、その時だけは一人で行動するから彼女にはすっかり観念して受け入れたかのような態度を取ってもらったんだ。わたしは夜毎、見張りに立った。そして三日目の夜、小走りに道を歩くそいつに、鍬で殴りかかった。道を外れて逃れようとしたけれど、放蕩ばかりしている相手に追いつくのは簡単で、息の根が止まるまで殴り続けた。死を確認すると、わたしは四肢をばらばらにして、切断面を鍬でぐちゃぐちゃにしたんだ。まるで恐るべき怪力を誇る妖がねじ切り、あるいは喰らおうとしたように」
先代は鍬を振るう真似をする。よぼよぼした生彩を欠く動きであるというのに、鬼のような笑顔でそれをやるから、ましてやわたしが暮らしてきた土地で行われたともなればその光景が目に浮かぶように迫ってくるのだった。恐ろしくて両手を拳に握り、歯を食いしばらなければならなかった。
「翌日、田にばらまかれた死体が露見した。家のものたちは謀殺が起きたのだと主張したが、誰も目を伏せるばかりで取り合おうとしなかったし、稗田家の当時の当主がこれは妖の仕業であると断言してした。妖の内実を綴る生業をしてきた一族がそう言うのだから里の者たちが意見できるはずもなく、家のものたちは当主の横暴を誰も諫められなかったという咎を負わされた。そして土地や財産の管理権は分家筋に預けられていたわたしに回ってきた」
分家筋という表現に驚いたものの、確かに納得できることではあった。いくら暴君を除いたといっても一農民がいきなり地主となるのは無理がある。妖という力こそ全ての存在が跋扈するため、血筋が然程重要とされない風土ではあっても全く無視されるわけではない。実際、その血筋ゆえに長らえて来た一族もある。
「もちろんとんとん拍子に話が進んだのには訳がある。同じ日の晩、わたしは斬り落とした右腕を持って稗田の家を訪れたのだ。これが妖の仕業であることのお墨付きと、わたしがこの男と同じ立場につけるよう便宜を計ること、その代わりにこの危難において方針を違えることはけして行わず、ならず者もまとめて引き渡すと約束した。これは一種の賭けだったが、当時の稗田家当主は強かで話の分かる女だった。放埒な行いを見逃し続けることで里内の結束が乱れる愚を恐れていた。その右腕を受け取ると、彼女はわたしに血の臭いを流すよう屋敷の一角を貸し与えさえしてくれた」
因縁や争いのない大家など存在しないとわたしは思っているが、それでも稗田の家だけは例外であると思っていた。歴史を修める聖乙女の産まれる家系であり、そのために業を溜めてはならないとされており、ゆえに公正さを求める際の最終判断をしばしば委ねられるのである。だがその語り口は重々しく、とても嘘をついているとは思えなかった。仮に里全てのことを考えたとしても、稗田もまたその影響力を家命以外のために行使するのだ。それは小さい頃から里に暮らしてきたわたしにとっては強い衝撃を伴うものだった。れいむは外来人であるからその意味するところが分からず、だからわたしよりも冷静に話を聞けているようだった。
「おじいさんは人間を殺したの?」そして大人であればとても聞けないことを率直に訊ねることができた。「それは悪いことで、捕まるようなことじゃないの?」
「その通りだ。しかし自分が贅沢をするため、食べ物がない人たちに何も与えないとしたら、それはもっと酷いことだとわたしは考えたんだ。食べ物を独り占めする一人を殺せば何十人も助かる、だからわたしはそれをやった。もちろん許されることだと思っていたわけではなく、一生をかけて報いるつもりだった。だからこそ何年も続いた不作を共に堪え忍んできたし、わたしが所有する土地で暮らすものたちが貧しさで困らないよう心を砕いてきた。息子もその意志を継いでくれている。だからわたしは安心してすぐにでも死ねるのだと、そう考えていた矢先に今回のことが起きた」
わたしはその通りだとばかりに頷く。その内に住んでいたからこそ、その労苦がよく分かる。目の前にいる老人は紛れもなく人格者であり、しかし人殺しでもある。今回の事件はその歪みが引き起こしているといっても過言ではないのかもしれない。
「人殺しが悪いことならば、祟るのはわたしだけにすればいい。邪気にあてられ、みるみる弱る体を敢えて押し殺していたのもそう考えたからだ。裁きの時が来たのだと」
わたしは思わず先代の体をじっと見る。最初に見た時から娘の容態を聞いただけのショックにしては随分やつれているなとは感じていたのだが、彼こそ妖の最初の犠牲者だったのだ。
「生前の罪を裁くのは人ではなく夜摩天です」
「昨日までのわたしならその言葉を一笑に伏しただろう。だが孫娘を巻き込む謂われはない。故に妖の裁きは正しくないと感じたのだ。だからこそ我が身の恥を年端もいかぬおなごの前で曝した。遠き西の国々では懺悔と言うらしいが」
古今東西を問わず、誰かに犯した罪を聴いてもらうことで楽になりたいと思うことはあるのだろう。そうでなければ歴史はもう少し黒々としたものを底部に覆い隠したものであったのかもしれない。
「ここまで話したからには是非ともに解決してもらいたい。算段は付くのか?」
「おそらくは」先代の話を聞いて、わたしには一つ思い当たる節があった。「今回の発端が貴方にあることは間違いありません。しかしその因となるのは過去の恩讐ではないと考えられます」
「と、言うと?」先代の瞳がぎろりと光る。適当なことは許さないと言わんばかりだ。しかしそれはわたしを単なる少女ではなく、専門家であると認めてのことだ。肝が冷える思いをぐっと抑えながら、わたしは口元を引き締める。「続けてくれ」
「もし原因が単なる恩讐にあるならば、これまでも死者はこの家を祟ろうとしたでしょう。しかしこれまでには何もなかった。憎しみではないのです。誰にでも良いから記憶され、脅威と見なされる存在であって欲しかった。これまでは貴方がその役目を果たして来ましたが、息子も孫も健やかに育ち憂うことは何もない、あとは自分が死ねば全てを墓の中に持っていけると考えてしまった。即ち貴方を脅かすものにとって畏れ、崇拝の対象がなくなることを意味する。だからそれは一族の者たちに手を出し、恐怖で在り続けようとした。そして女に子を産ませ、その恐怖を子々孫々に刻み込もうとしたのではないでしょうか」
そう考えると何故、今になってなのかという疑問に答えが出せると考えたのだ。そして老人の心にも正しいと感じられたらしい。それは視線の厳しさが若干和らいだことから察せられた。
「それならば一体どうすれば今回の怪異を鎮められると?」
「明らかな崇拝の対象として、貴方が殺した男をとらえ直すのです。祠を建て、畏れ奉れば、その虚栄心は満足されるでしょう。長い時間をかければ貴方の一族を守護する神にさえなるかもしれません」
先代は流石に信じられないという顔をするが、口からでまかせでこのようなことを言ったわけではない。
「祟りや呪いが変じて守護者となる例は古来より多く存在します」日本の神話や宗教説話を読み解けば本当にそのような話ばかりが出てくるのだ。「主に恐ろしい秘め事を隠すための方便としてですが、長年をかけて罪を悔い改め続けるという意味もあります。おそらく、過ちというものは己の中に秘めて一人で購い続ければ良いというものではないのでしょう」
人の想いは時に果てしなく、時間を容赦なく飛び越えるのだ。
「罪を犯したとき、その罰を受けるのがわたしであるとは限らないということか。祀るというのは忘却された起源に端を発するものに、対抗する手段を伝えるということでもあるのか」
先代は大きく息をついた。その体は今にも死者の仲間入りをしそうではあったが、幾ばくか血色を取り戻したようにも見える。
「息子たちには隠し通したかったのだがね。これも因果応報というやつだろうな」
それから刺々しい懐疑を消し、先代は決意を込めてわたしに訊ねる。
「わたしの生み出したものが丸く収めるよう尽力しよう。他にできることは?」
「故人をどこで殺したのか、その正確な位置を。そこに封をし、祠を立てるための礎を築きます」もっともそれがどの辺りなのかは検討がついている。おそらくあの子が誘われていた所だろう。「あとは故人を祀るための象徴となる品物があれば。できれば故人の一部、身につけていたものが望ましいわけですが」
「死体はあんな状態にしたから焼いてしまったし、持ち物も全て処分……」そこまで口にして、先代は苦々しく顔を歪める。「なるほど、そういうことか」
「何か、心当たりでもあるのですか?」
「わたしが今の立場を得るため、稗田家の当主と交渉したことは先程話しただろう。その席の最後で、当時の当主はこんなことを口にしたのだ。この腕を貴方はいずれ取りに来ることがあるかもしれません、と」
つまり当時の当主は何十年も前からこうなることを予見していたかもしれないということだ。聖乙女ではないといっても優れた洞察力と見識を身につけていたに違いなかった。
「分かりました。その入手と、封の準備はすぐにでも進めさせて頂きます」
「この件に関する全てを一任する。屋敷のものはいくらでも使ってくれ」先代は鈴を鳴らし、すると従者らしき壮年の男が素早く現れた。その男は短く耳打ちされるとすぐに頷き、まるで影のようにするりと去っていく。「これですぐにでも令が伝わるだろう。わたしにできるのはこれくらいだ」
「ご協力、感謝いたします」わたしは長話で少しうつらうつらしていたれいむを連れ、部屋の外に出る。「次に会うときは首尾の報告になると思います」
先代当主は一度だけ大きく頷き、胡座をかいたまま瞑目する。横にならないのはこれまでのことを彼なりに咀嚼する必要があるからなのだろう。
廊下を歩いていると、れいむが袴の裾をくいくい引っ張ってきた。
「その、最後のほうちゃんと聞いてなくてごめんなさい」
「良いのよ。わたしだったらあの年なら豪快に鼾を立てていたと思う」そう言って笑いかけるとれいむは小さく息をつく。「それよりもれいむには大きな頼みごとがあるの。これがなければ今回の依頼は解決できないというほどの重要なことよ」
少し重圧をかける言い方だったが、今のれいむにはわたしが信頼を寄せていることを示すのが良いと考えたのだ。
「稗田の家に、取りにいって欲しいものがあるの。なんだか分かるかしら?」
「……人の、腕?」小さく頷くと、れいむは辿々しく情報を補っていく。「あのおじいさんが殺した男の人の腕のことだよね?」
「そう。おそらく骨かミイラ……水分が抜けて長期間保存される状態になっていると思うのだけど。先程までの話を説明して、ここへ持ってきて欲しいの。本来ならばわたしが行くべきだけど、封を行うための準備をしなければならないから」
土地を注連縄で囲い、徐々にその源へと狭まることで因果を一点に収束させて鎮めるのが博麗の持つ除霊術の一つなのだが、そのためには囲いに僅かな亀裂すら生んではならず、高い集中力が必要となる。他のことにはできるだけ関わり合いたくない。れいむもその難儀さは分かっているから、それだけで納得してわたしの言うことを素直に聞いてくれた。
因は解かれ、あとは果を収めるだけだ。そこまで含めてちゃんとした成果をれいむに見せることができれば良いのだけど。わたしはそう心の中で呟き、密かに拳を握りしめるのだった。
まだ寺子屋に通っていた頃、わたしは稗田のお屋敷を遠くから見たことがある。その大きさもさることながら、わたしよりもずっと背の高い土壁に、何があってもびくともしないような分厚くしっかりした門は、その中に何か重大で恐ろしいものを隠しているようで、とても怖いなと感じた。あの頃から少しだけ背が伸び、心も体もあの頃よりはずっと強くなったはずだけど、それでも一度感じた怖さは消えないらしい。
ここまで籠で運んでくれた男の人に礼を言い、わたしはしばらく立ち尽くしていたのだが、すると男の人は低い声でぼそりと呟いた。
「今の当主様は、あんたと同じくらいの子供でね。俺は一度だけ姿を見たことがあるけれど、大層可愛らしくまた神々しかったよ」そう言ってから男の人は大きな声で笑う。「でも、あんたなら多分、その子にも負けていないと思うよ。自信持って行きな」
「ありがとう、ございます」見ず知らずの人というのは苦手で、だからもっと言いたいことはあるのに、それだけしか言葉にできなかった。それでも昔に比べればずっとましになっているのだが。「行ってきます、ここで待っててください」
「おう、それが仕事だからな」
わたしが仕事を持っているように、この人も持っている。それだけで安心して、わたしは稗田の家に向かうことができた。門の前に立って大声で呼びかけると、少しして紺色の着物を着た老婆が怖そうな顔をして出てきた。
「巫女が、この家にいかなる用事ですか?」
「えっと、その……当主様に話したいことがありまして」
「つまり阿求お嬢様にご用事ということですか?」
あきゅう、というのは当主の名前だろう。一聴では男か女か分からないけれど、わたしのように可愛らしいという言い方をしていたからきっと女なのだろう。
「そのような成りですが、お嬢様にお呼ばれして遊びに来た、というところでしょうか?」
この老婆はわたしが単なるお遊戯でここに来たと考えているらしい。それはわたしにとって二重の意味で嫌なことだった。わたしはいずれ博麗の巫女になるのであり、ここにはちゃんとした用事でやってきた。まずはそれを伝えなければならない。
「稗田家の当主様にお話があります。当代に替わり博麗の名代として参りました。かつてここに預けられた腕のことでお話があると、お伝え願えないでしょうか?」
老婆の顔を見上げ、精一杯の言葉を絞り出す。大人のように口を聞く。老婆は一瞬、面食らったようだが厳しい顔で頷くばかりだった。
「承知しました、客間に案内いたします、お嬢様は執筆の最中ゆえ少々お待ちいただくことになるかもしれませんが、ご容赦願えるとありがたいです」
老婆は背を向け、わたしを中に招き入れてくれた。つまりわたしをきちんとした客として認めてくれたということだ。通された部屋は典型的な八畳間で、中央には足の低いテーブルと座布団が置いてあった。壁には達筆な書の掛け軸が飾ってあり、その側には白の綺麗な花瓶が置かれている。予め人を通すと分かっている時にはここに花を生けるのだろう。わたしは茶と菓子を振る舞われ、座布団の上に腰をかけると阿求の到着をじっと待った。
しばらくして、おかっぱ頭の少女が姿を現した。後ろでは別の大人が木箱を腕に抱えており、テーブルの上に置く。それから恭しく礼をし、無言で部屋を出ていく。だから室内にはわたしとおかっぱの少女だけが残される。
「博麗の巫女の代理の方ですね。あなたはどのような字を書いてれいむと読むのですか?」
「まだ襲名式は済んでいないので、平仮名のれいむです」
「なるほど、分かりました。わたしは稗田阿求と申します」
そう言って阿求は箱を指でそっとなぞる。
「腕のことと聞いて、すぐにぴんと来ました。そのような話を先々代であるわたしの祖母より聞かされていたので」阿求は造作なく紐を解き、蓋を開けて中のものをわたしに見せる。黴と生臭さの入り交じった、鼻をしかめるような臭いにもしかし、阿求は平然としている。まるでこんなもの嗅ぎ慣れていると言わんばかりだった。中にはかさかさに乾ききった、人の手らしきものが入っており、ものをわしづかみにするような形で固まっている。「この手には様々な業が凝り固まっている。その中にはわたしの一族も含まれており、いつか目を逸らせなくなる日が来るに違いない。そのときこの手を正しく解するものが現れるかもしれないとのことでした。貴女がその正しき者ですか?」
「正確にはわたしの師匠、当代の博麗となる人物が見出しました」
「なるほど……しかし、この腕は長いこと稗田家が管理してきました。その正体を秘匿し続けるというだけで相応のリスクを背負ってきたはずです。いかな博麗の遣いとはいえ、何ら対価もなしに手に入るとはよもや考えてはいませんよね?」
何かを期待するような阿求の眼差しがわたしに向けられる。だが対価といきなり言われても、何を差し出して良いか分からなかった。
「もう少し率直に言うならば、わたしはその対価に貴女を要求したいのです」
「えっ、わたし、ですか?」お金や貴重な品物ならばともかく、わたしが欲しいだなんてそんなこと想像だにしていなかった。「本当にわたしで良いの?」
予想していない言葉につい砕けた言葉が出てしまう。すると阿求も少しだけ打ち解けた笑みをわたしに向けてくれた。
「正確には貴女が博麗の巫女として役目に就いてから、妖と対峙した際の体験談が欲しいのです。わたしが果たさなければならない役目のために」
「役目、ですか?」
「そう、貴女が幼くして巫女にならなければならなかったように。わたしも生まれながらにして妖を紡ぐ歴史の綴り手とならなければなりません。しかし妖というのはいつの世も同じというわけではない。人の世の在り方によって形を変えていきます。だから、残された書物を今日日の言葉遣いに書き直すだけでは成り立ちません。貴女の目と耳と、そして言葉はとても有用であると思います」
阿求の笑みは師匠とよく似ていて、わたしに才能があるのだと信じさせてくれる。
「足繁く通えというわけではありません。何か面白いことがあったとき、それも広く明かせるような出来事だけで構いません」
「そのくらいだったら、別に何もなくたって……」今回のような、わたしには俄に判じかねる事件だったとき、阿求なら真面目に聞いてくれて、正しい答えをわたしにくれそうな気がしたのだ。「多分それくらいの時間だったら取れると思うから」
「その気持ちは嬉しいですけど、そういうことにしておいてください。幻想郷縁起の執筆のため、当代の博麗が協力を惜しまないという条件は、件の一族の死活問題を解決する品物と引き替えにする理由となります。それにこれは大きな繋ぎになるでしょう。貴女は当代以上に、この郷に基盤がないのですから」
阿求はわたしが博麗の巫女となったとき、少しでもやりやすいようにしたいと言ってくれているのだ。それはありがたいけれど、どうして会ったこともない阿求がそこまでわたしを助けてくれるのかが分からない。すると阿求はわたしの疑問をまるで読みとったかのように、その理由を説明してくれた。
「この郷で初めて博麗の巫女となった女性に頼まれたのですよ。いずれわたしのような外来人の巫女が役目についたとき、自分のような苦労はできるだけさせたくないと」
阿求はその博麗とまるで昔からの知り合いであるかのように話す。初代の巫女というのは百年近く前に死んでいるはずなのに。
「それにわたしも、幼くしてやらなければならないことを決められた貴女に同情する気持ちがあります。わたしもそうですから。わたしたち、よく似ていると思います」
阿求はわたしが巫女になることを嫌がっていると考えているのだ。そしてここでそうだと言っておけば、阿求はすぐにでも腕を渡してくれただろう。それでもわたしは嘘をついて誤魔化したくなかった。
「わたしはそんなこと、考えもしませんでした。巫女になれって言われて最初はよく分からなかったけれど。わたしを育ててくれた師匠と同じものになれるならば、それは悪くないなと今では考えています」
「でも! この郷で巫女になるって妖と戦うことだよ!」これまでの落ち着いた喋り方から一転、阿求はわたしが知る子供のように甲高い声で怒り始めた。「あいつら、どいつもこいつも強くて厄介な力を持ってるの。わたし阿礼乙女だからそういうの全部知ってるの。きっと辛い仕事だよ。貴女は……れいむは騙されてるの。外で生まれて何も知らないからって都合の悪いこと全部押しつけようとしてるのよ!」
それだけ口にすると阿求は胸を抑え、ごほごほと悪そうな咳をする。目からぼろぼろと涙が零れ、苦しそうだというのにわたしには何もすることができず、はらはらした気持ちのまま見守るしかなかった。
「お、おとなってみんな、そうよ……おとななんて!」阿求は絞り出すようにそう口にすると、何度も深呼吸をし、息を整える。次にわたしに顔を向けたとき、そこには笑顔も怒りも、それ以外のどのような表情も浮かべていなかった。「見苦しいところをお見せして申し訳ありません。その腕はご自由になさってください」
「その代わり、わたしは……妖にまつわることがあればそのたびに話に来る」
「そんなことしなくて良いです。あれはわたしの気の迷いでした、忘れてください」
「そういう条件をつければ、わたしが有利になると言ったのは貴女です」
「じゃあ好きにしてください。でもわたし、貴女が来たらいつも病気や怪我だったりすると思いますよ」
わたしは少ししてから大きく頷き、紐を結び直して箱を腕に抱える。
「用事が終わったのだからさっさと出て行ってくださいね」
どうやらわたしは阿求に、おそらくは彼女と同じ気持ちになってあげられなくて、それで嫌われてしまったらしい。悲しいことだけど、昔と同じことがまた起きたのだという乾いた思いしか浮かばなかった。寺子屋に通っていたときも、わたしは一緒に勉強する子供たちとしばしば、同じ気持ちになってあげられなかった。大人はそんなわたしに仲良くしよう、相手のことを思いやろうと何度も言った。わたしはいつもそうしようとして来たのに。わたしが我侭を言って、皆を困らせているということになった。
ごめんなさいという言葉すら出てこなかった。謝ると余計に相手が怒ってしまうことがあったから。何も言わずに立ち去るのが一番良いのだとわたしには分かっていた。
部屋を出ると、ここまでわたしを案内してくれた老婆がいて、酷く寂しそうな顔をしていた。きっと部屋の中で起きた話し合いを全て聞いていたに違いなかった。彼女に案内されて屋敷を出ると、わたしは少し迷ってからぼそりと言った。
「わたし、阿求のこと怒らせてしまったみたいです」
「それは気にしないでください。あの子が勤めのことで取り乱したり、癇癪を起こすのはいつものことですから」
「彼女は博麗の巫女を辛い勤めだと考えていたの。でもわたし、その気持ちを分かってあげられなかった。わたし、いつもそうなんです」
師匠はわたしが何をやっても言っても許してくれるけれど、それはわたしが師匠のことを分かっているからではない。分かっていないことを暖かく許してくれているだけなのだ、きっと。
「他人の心を分かることなんてできはしません。相手から話してくれない限りは」
すると老婆はそんなことをぽつり、と囁くのだった。そして「老人の戯言ですが」と前おいて、話を続ける。
「他人の気持ちを分かる人というのはまず話す人ではなく、まず聞く人です。全てではないにしても聞けば分かることもありますから、今度はそれを基にこちらから話せば良い。そうすればまた話してくれますからそれを聞いて、更に色々なことが分かります。人の気持ちを分かるというのはその繰り返しです」
「わたし、彼女の話すことをもっと聞いてあげる必要があるのかしら?」
「もしも聞きたいと思ったならば」
「でも彼女、わたしが来たらいつも病気や怪我だってことにするって」
それは遠回しに来るなと言っているのではないかと思ったが、老婆は小さく首を横に振る。
「お体が弱いので本当に病気の時もあるかもしれませんが、そうでなければ貴女を招き入れると思います。こんなこと話したら怒られそうですが、阿求様は寂しがり屋なのですよ。きっとお喜びになると思います」
これだけ大きな屋敷に住んでいて、構ってくれる人がいるのに寂しいというのがわたしにはよく分からなかった。師匠が出かけていて一人になったとき、このままずっと誰にも会えないのではないかという、泣き出したくなりそうな不安を阿求が感じるとはとても思えない。でも目の前の老婆が嘘をつく人には見えないし、わたしに癇癪を起こす阿求がとても辛そうに見えたのは確かだ。
でもだからといって、あんなことを言われたのに許すことなんてできなかった。少なくともすぐには無理だ。
「いつになるか約束はできないけど。また、来ると思います」
そう答えるのが精一杯だったけれど、老婆は何も言わなかった。わたしを屋敷の外に招き入れた時と異なり幾分か温かい表情で送り出してくれただけだ。わたしは待たせていた籠に乗り、がたごとと揺られながら帰路につく。気になることが増えたけれど、まずは妖怪退治に集中しようと思った。
籠に乗って依頼主の屋敷に戻ると、ちょうど反対側からやってきた師匠とばったり出会った。忙しく動き回っていたのか額から汗が幾筋も流れており、息も少し切れている。師匠はわたしがへとへとになって動けなくなるほどの運動をしてもけろりとした顔をしているから、よほどのことがあったに違いない。よく見ると着物や袴が薄茶の泥で汚れていたから、それと関係があるのかもしれなかった。
「何かあったの? わたしがいなくて大丈夫だった?」
「少しばかり格闘をね。でもその甲斐あって準備は終わったわ。その箱の中にあるものが例の腕ね?」わたしは大きく頷き、師匠に箱を渡す。「お勤めご苦労様。でも、何か変なことや嫌なことを言われたりしたの?」
隠したつもりだったのに、師匠はわたしの表情を上手く読み取ったらしい。少し考えてからわたしは稗田の屋敷であったことを素直に打ち明ける。
「もしかすると阿求って子と喧嘩したかもしれない」
「阿求といえば御阿礼の子よね。へえ、あの子は人前に出る時だといつも大人しくてはにかむように笑っていて、とても喧嘩しそうには見えないのに。年が近いと地が出てしまうのかしら」
「また訪ねてきても病気か風邪に違いないって言われたの。でもお付きの人はまた来てくださいって言ってた」
「それならばまた行けば良いわ。ああいう娘さんって立場があるからなかなか自分から折れることができないし、偉い人間であることを示し続けなければならないの。だから何もしがらみのないこちらから折れてあげれば良いのよ」
折れてあげるというのは少し強気だと思ったが、あの子ならそれくらい強く出る必要があるのかもしれない。思ったことをずけずけと口にする子だったから。
「まあその辺の詳しい話は帰ってから聞かせてもらいましょう。まずは妖を調伏させないと」
師匠は箱を持ったままお屋敷の中に入る。そこには肩を支えられたおじいさんと神社にやってきた男の人がいて、師匠はその二人の前で箱を開けてみせた。
「これが今日よりこの家の御神体となります。くれぐれも厳重に、敬意をもって扱うよう子々孫々にも徹底させてください」
おじいさんは強く震えながらその腕を睨みつけていたが、大きく息をつくと蓋を閉める。
「承知した、周知徹底させよう」
「わたしたちはこれから妖に封を打ちます。お二人ともご覧になりますか?」
その問いに二人とも小さく頷く。神社にやってきた男は箱を側にいた使用人に預け、蔵のどこどこへしまって欲しいと命じる。
「人足たちから話は聞いています。あの妖を封じ込める囲いを設けたそうですね」
「あれは仮の囲いです。本当の囲いはこれから作ります」師匠はそう言うとわたしに目配せをする。付いてこいということらしい。「仮とはいえそう簡単には出て来られないと思いますが、逃げる準備はしておいてください。閉じこめられたことに怒り荒ぶっていますから」
師匠はそう言って厳しい顔をする。わたしを叱るときよりも心なしか険しく、それがこれから退治しようとするものの厄介さを示しているようだった。
屋敷を出て十分ほど歩くと、これまで微かな振動としてのみ伝わってきた妖気が強く響くようになった。遠目にも田が泥で波打ち、外に逃れようとしているのが分かる。師匠が囲いの側まで近付くと元凶を見つけたとばかり、攻撃を仕掛けようとするが、囲いへの体当たりは何度やっても弾き返される。すると人型に姿を変え、固めた泥を投げつけてきた。しかし妖力を込めた攻撃であるためか、それもまた外に届くことはない。
戸惑い、動きを止めた泥田の妖だったが、それもおじいさんを見つけるまでのことだった。これまでの激しさが急に途絶え、より明確な人の形を取り、人間とほとんど区別がつかなくなった。泥であるためか少し不安定だけど、ぶらぶらとしたものを下げた裸の男の人だ。
おじいさんはそれを見ると膝をつき、地面に頭をこすりつける。
「許しておくれ。こうしなければ、飢えた人たちは一族の凋落よりもなお酷いことを、お前の家のものにしたに違いないのだ」
僅かに顔をあげると、泥からできた男は優しく微笑み、注連縄を越えて手を差し伸べようとする。おじいさんは何かに憑かれたかのように立ち上がり、ふらふらとその手を求めて歩き出す。わたしは咄嗟に腕を掴んで止めようとした。泥田でできた男の妖気が邪に、そして急速に膨れ上がっていたからだ。しかしおじいさんの力は強く、すっかり弱っていたとは思えないほどだった。
泥田の男はとっくの昔に、その表情を笑顔から憎しみに変えている。だがそのことにおじいさんはまるで気付いていない。受け入れられると信じているようだった。もう少しで妖と手が触れようというところでしかし、妖が激しく吹き飛ばされる。師匠の走り込みからの蹴りが綺麗に決まったからだ。師匠はそのまま結界の中に入り、泥田の妖が落ちた辺りを睨みつける。すると周りの泥が一気に集まり、巨大な蛇の姿に変わる。おじいさんは完全に腰を抜かし、わたしもその迫力にすっかり怯え、その姿を見続けることしかできなかった。師匠だけが唯一、泥の蛇と正面から睨みあい、畏れることもなかった。蛇は立ち上がるように身を伸ばすと口を大きく開け、師匠を丸飲みにしようと迫っていく。それでも師匠は構えをとかず、その体はあっという間に蛇の口に飲み込まれ……次の瞬間には頭が弾け、辺りに泥の雨が降り注いだ。
力を削がれ、今度は数匹の蛇として四方から襲いかかるが、師匠は空に逃れて攻撃をかわし、全ての蛇の頭に札を一枚ずつ貼りつける。蛇は一斉に砕け散り、次は右腕だけ非常に大きい人型に移り変わる。師匠はその腕と正面から拳を交え、砕いて泥に戻すと地面から盛り上がろうとしている所を足で踏みつけた。
「れいむ、この田に住む邪気はここに集中しているわ。今のうちに封を打って頂戴!」
大声で指示され、わたしは大きく一つ深呼吸をしてから、霊札に力を込める。妖を封じる結界が発動される直前で師匠は空を飛んで泥の土地を逃れる。既に力が弱められていたためか、八枚の札で組める最も単純な箱状の結界でも泥田の怪物を完全に閉じこめることができた。初めての技で上手くいくかどうか不安だったけれど問題なく成功したらしい。
「よくやったわね。これでこの妖を祀る土地の基盤が完成したわ」
泥田の抵抗はぴたりとやみ、周囲を満たしていた禍々しい妖気が完全に収まる。
「思ったより力を発揮されなかったのは助かったわ。きっと家を呪うため知らず知らずのうちに力を使っていたのでしょうね」
「これでもう怖いことは起きないのかな?」
「いいえ。地に潜み、力を蓄え続ければれいむの張った結界からもいずれ逃れるでしょう。ここに祠を建て、いま現れたものを祀り続けなければならない。幸い、そのための畏れはこの場に撒かれたと言って良いでしょう」
師匠は未だ起きあがれぬまま呆然としたおじいさんに手を伸ばす。しかし泥だらけの師匠を、おじいさんは酷くおそれ、後ずさるのみだった。
「あれは封じられただけです。その荒ぶる心は畏れられ続けることでいずれは守り神にさえ変わるかもしれないし、その本性は永久に変わらないかもしれません。一つだけ言えるとしたら、それさえなければあれはまた貴方の一族に仇を成すでしょう。時間をかけて供養してやってください。あのような姿で荒ぶるなどどのように残忍酷薄な人物であっても苦しいことですから」
しかしおじいさんは何も言わず、ぼんやりと田を見つめ続けるだけだ。師匠は小さく息をつくと、神社にやってきた男の人にあとは頼みますと残し、手を懐紙で吹いてから頭を撫でてくれた。
「お疲れさま。今日はゆっくりと休みましょう。実を言うと、今日は久しぶりに家族に顔を見せたいと考えていたの。貴女のことも紹介してあげるわ」
わたしは師匠の家族に出会うのが少し怖かった。本当なら師匠は家族のもとにいるのが正しいのに、わたしが独占しているという自覚があるからだ。でもどことなく弱った様子のある師匠を見ていると、嫌だとは言えなかった。
「馬鹿なことする子もいるけれど、きっと優しく迎え入れてくれるはずよ」
そう言われ、わたしは少しだけ期待を取り戻す。家族の記憶がないわたしでも、そうしたものの暖かさを少しでも感じられるかもしれないと期待してしまったのだ。
しかしそれは間違いであったことが、すぐに明らかになった。
師匠の家族は表向きは皆、優しく迎えてくれたように見えたが、わたしを腫れ物のように見る視線がいくつもあることにすぐ気付いた。しかもあからさまに敵意を向けてくる子もいて、すぐに気が詰まりそうになった。いつもは勘の鋭い師匠も幼い頃から一緒に暮らしてきた家族には疑いが向かないらしく、そしてわたしといる時には見せない笑顔を浮かべているのを見ると、みるみる気持ちが沈んでいく。
その気持ちが頂点に達したのは食事を作るため、師匠が台所につきっきりになってすぐのことだ。何人かがわたしを囲い、遊びに行ってくるといって無理矢理部屋から連れ出すと、瞬く間に別の部屋の隅に追いやられた。寺子屋に通っていた頃、子供たちにされたのと全く同じことだった。
「お前、あの時と同じように、ねえちゃんにも迷惑かけてるんじゃないだろうな!」
男の子の一人に肩を小突かれ、わたしは尻餅をつく。精一杯に首を横に振るけれど、誰も信じてはくれないようだった。さっきの言い方からして、寺子屋に通っていた頃、同じ教室にいたのかもしれない。あそこにいた人たちはほとんど誰も覚えていない。この子のことも誰か分からない。それがまた気にくわないのかもしれなかった。
「授業の邪魔をする、先生の言うことは聞かない、すぐに癇癪を起こす。先生は我慢しろって言ったけどみんな嫌がってたんだぞ! それで結局、寺子屋を追い出されて。お前のような我侭な奴、誰だって面倒見るのは嫌なんだよ」
そんなことない。わたしは師匠になるべく迷惑をかけないようにしているし、そんなわたしのことをよく誉めてくれる。昔に比べれば随分とましになったはずだ。そう言い返してやりたかったのに、彼の怒りが怖くて喉の奥から声が出ない。しゃっくりのような悲鳴が漏れるだけで、そうすると周りの怒りがどんどん強くなっていく。はっきりしない奴が、子供はみんな嫌いなのだ。分かっているのに、どうしても何も言えない。泣き出したくてたまらなかったけれど、師匠に心配をかけてしまいそうでじっと耐えた。涙を零しても、叫んだりしないように。悲鳴はわたしの心の奥だけに、誰にも聞かせたくなかった。
「黙ってないで何とか言えよ! そういうのさ、凄い腹立つんだよ!」襟をつかんで立たされ、その次には肩を掌で小突かれて壁に叩きつけられる。「それともあの時みたいに暴れるのかよ。でも俺だって、姉ちゃんと同じ所で色々習って強くなってるんだぞ。お前を押さえつけるくらい簡単に……」
「なにしてんの、あんたら!」部屋の入口から師匠の怒鳴り声が聞こえ、皆が慌ててそちらを振り向く。「信じられない。寄ってたかって弱いもの虐めるように育てた覚えはないよ!」
「だってこいつ、姉ちゃんに迷惑かけてないかって訊いても何も言わないから!」
「馬鹿もん!」師匠はわたしを追いつめた男の子の頭に容赦なく拳を落とす。「あんたがこの子くらいのとき、わたしにどんだけ迷惑かけてきたと思ってるの! 毎日のようにちょこまかとうるさくて、叱りつけると無駄にぴぃぴぃ泣いて! 飯を作るのを手伝えと言ってもさっさと逃げたの忘れてないから!」
もう一発拳骨を加えるといよいよ痛みに耐えかねたのか、男の子は激しい声で泣き始める。この騒ぎがわたしのせいだと言いたげな視線がいくつもわたしに向けられ、この場にいるのがとうとう耐えられなくなった。気付いたら人を押し退けるように囲いを抜け出し、師匠の家から飛び出していた。
曖昧な記憶を頼りに神社まで帰ろうとしたが、いつの間にかどちらに向かっているのか分からなくなってしまった。太陽で方角が分かると習ったのに、混乱した頭ではそれすらも計算できず、ただただ走り続けることしかできなかった。
背後に気配を感じられなくなったので、わたしはおそるおそる後ろを振り向く。そこには誰の姿もなく、安心して良いはずなのに胸が苦しくて、でもこんな何もない道ばたに座り込んで誰かに声をかけられるのも嫌だった。少し落ち着くと太陽の位置で方角もすぐ計算でき、神社に帰る自信も湧いてきた。
「帰ったら色々やらないとな。今日はお勉強してないし、ご飯も作らないと」
そこまで考えて、醤油がないことを思い出す。嗜好品はお金を出さないといけないが、生活必需品ならばきちんと証文を書けば融通してもらえる。勘定は里を運営するため集められる税より出されるから無駄遣いはできないけれど、今までそのことを咎められたことは一度もなかった。
商家の集う通りに向かうと、少しずつ緊張してきた。定期的にお使いを頼まれるから以前より慣れたとはいえ人通りで視線に晒されるのは、ましてや一騒動あったばかりだと何となくはばかられるものがある。彼らはわたしを見ていない、みんな自分のことで忙しいのだと心の中に言い聞かせてから通りに入り、お醤油の店に向かう。するとその店先に、何故か師匠が並んでいるのが見えた。家族と一緒にいるはずの師匠が何故、こんな所にいるのか訳も分からず、ただここから一刻も逃げ出さなければと思いながら背を向けようとすると、今日は用事のなかった店から営業用の笑顔を浮かべた男の人が声をかけてくる。
それで師匠がわたしに気付いたらしく、慌てて追いかけてくる。わたしはそのまま背を向け、周りを顧みず逃げる。まるで先回りされたみたいで、その理由が分からなくて、とても恐ろしかった。広い道を走ると追いつかれるからできるだけ狭い路地に入り込むけれど、師匠が背後に迫っているという感覚はいつまでも消えてくれなかった。それで行儀が悪いと分かっていながら、余所の家の敷地にこっそりと忍び込む。垣根に子供が入れるくらいの穴が空いているのを見つけてしまったのだ。
中は思っていたよりも広く、あの屋敷ほどではないけれど蔵がいくつも建っている。地面には石の粒が敷き詰められており、等間隔で松の木が植えられている。一番左側の古びた小さな蔵には隣接する形で広い葉の樹木が植えられており、近くには花壇もあるのだが今は何も植えられていなかった。
ぼんやりと敷地の中を眺めていたが、師匠の気配がいつの間にか感じられなくなったことに気付き、同じ場所から外に出ようとした。
「貴女、そこで何をしているのかしら?」子供らしい高い声に呼び止められ、わたしは慌てて後ろを振り向く。そこにはふわふわの黒髪を赤いリボンでまとめた女の子がいた。白いシャツの上から黒のチェック模様が入ったベストを着ており、同じ柄のスカートを穿いている。寺子屋にも洋服で通っていた子供はいたし、別に珍しいわけではないけれど、忍び込んでいるという引け目もあって気後れするものがあった。「見かけない顔だけれど……ちょっと待って、その白い着物に赤い袴って、もしかしたら貴女は巫女なの?」
「え、ええ、その通りだけど」どうやらこの子はここに住んでいるらしく、わたしと違って気後れするところがまるでない。「えっと、貴女は……」
「へえ、わたしと同じくらいじゃない。前に見たときはもっと大人だったはずなのに」彼女はわたしの話など聞こうともせず一方的に話をぶつけてくる。「巫女がここに来るってことはもしかして妖怪退治の途中だったりするのかしら?」
ここで事情を話せばこの娘はがっかりしてしまうだろう。わたしへの興味をなくしたら見逃してくれないかもしれない。何かないかと思いながら辺りを見回し、咄嗟に古びた小さな蔵に視線を寄せる。そこだけ空気が異なるような気がしたのだ。
「あの蔵の中から妙な気配がすると思って……」
すると少女はいきなり表情を消し、おそるおそる蔵のほうを向く。もしかしたら触れてはならないことかと思ったのだが、次の瞬間には先程よりも親しげな笑顔を浮かべていた。
「貴女も分かるのね! それはそうだわ。なんせわたしの母様は……」大声でまくし立ててから調子を落とし、続きはわたしの耳に囁きかけてきた。「とても素敵な魔法使いだったのよ」
魔法使いという言葉にわたしはぎくりとする。魔力をもとに様々な術を行使する、わたしのような退魔師にとって常に警戒しなければならない相手だからだ。
「とはいっても、物語に出てくる悪い魔法使いなんかじゃないの」そのことは少女もよく知っているのだろう。だから声を潜め、わたしを説得するように話を進める。「人のためになるものを作り、皆に慕われていたのよ。里の善き魔法使いとして有名だったんだから。あの蔵にはそんな母様の魔道具がいくつも眠っているの」
そこまで口にすると少女はひょいとわたしから離れ、花のように微笑む。わたしと違って嬉しい時は本当に嬉しそうに笑える娘らしい。
「それを察するなんて、貴女は小さくても本物なのね。名前を聞かせてもらえないかしら?」
ここで名乗っては危ないのではと思ったが、巫女の姿をしていることで素性は既に分かっているのだから、名乗っても名乗らなくても一緒だと思った。
「れいむ。博麗神社で巫女見習いをしているわ」
すると少女は少しだけむすっとして、頬を軽く膨らませた。
「巫女がれいむなのは当たり前じゃない。わたしは本当の名前を聞いているのよ」
「そんなものはないわ」痛いところをつかれ、わたしは咄嗟にそう返していた。「わたしは外の生まれなの、拾われてきたのよ。その頃の記憶は全く残ってないの」
師匠は余程の衝撃的なことがあったのだから仕方ないと言ってくれたが、わたしに過去が全くないのは、強い負い目となっていた。寺子屋に通う子供たちの中には家族を亡くしたものはいたけれど、何も覚えていないというのは誰もいなかったからだ。彼女はわたしの言葉に今度は泣きそうになってしまい、慌ててわたしに訊ねてくる。
「ここに来たのはいつの頃なの?」
「七つの時らしいわ」それもわたしをここに連れてきた何者かが師匠にそう伝えただけで、確かかどうかは分からないのだけど。「それから一年と少し、この郷の神社で師匠と一緒に暮らしているの。次の博麗になるために」
こんなこと初対面の、しかもわたしと同じ年くらいの子に話してもしょうがないのは分かっていた。でも彼女のころころと変わる表情を見ていると、何故か打ち明けずにはいられなかったのだ。少女はそんなわたしをじっと見てから、胸に手を当てる。
「わたしは霧雨魔理沙というの。貴女は博麗で、れいむはどんな字を書くの?」
「れいむ。まだ継いでないから平仮名の、空っぽのれいむなのよ」
「れいむ」魔理沙は抑揚なく、何の意味もこもらないよう注意してくれた。師匠以外でそうしてくれたのは彼女が初めてだった。「ではれいむ、あの蔵には本当に母様の遺してくれたものが眠っていると思う? あそこは父様がしっかりと鍵を閉めて、わたしは決して入れてくれないの。だから確かめられないのよ」
母様が遺してくれたものと魔理沙は言った。わたしにはどういう事情か分からないけれど、魔理沙にはいま母親がいないのだ。わたしのように何もないわけじゃないけれどわたしと同じように何かが欠けている。だから力になってあげたいと思い、魔理沙が指差した蔵にさっきよりもじっと注意深く気配を探る。
その途端、背筋を冷たいものが走った。この中には決して外に放ってはならない何者かが眠っているという漠然とした怖さを覚えたのだ。だが口にすることはできなかった。正直に伝えれば魔理沙を傷つけてしまいそうだったからだ。
「うん、眠っていると、思うわ」
「そう、ありがとう!」魔理沙はわたしの手を強く握りしめてくる。初対面の相手に体を触られるなんて本来なら耐えられることではないのに、何故か平気だった。緊張はしたけれど怖いとは思わなかった。「あそこには何もないかもしれないって思ってたけどそうじゃなかったのね」
あそこに何かがいることはおそらく間違いないはずだ。でもあそこにいるのが良いものだとは、わたしにはとても思えなかった。
そのことをどう説明したら良いか考えていると、遠くから「魔理沙、どこにいるんだい!」と呼ぶ声が聞こえてきた。それで魔理沙はびっくりし、慌ててわたしが入ってきた穴を指差す。
「こうりんが探しに来るわ。れいむがここにいると穴がばれちゃうから、早く逃げてちょうだい」そう言われ、わたしは押し出される形で行きと同じ穴をくぐる。「今度はちゃんとお話できると良いわね」
わたしは少し考えてから、うんと答えた。それからおっかなびっくり外に出て、師匠が追って来ないことをもう一度確認すると、神社に戻ることにした。帰り道を一人歩きながら、あんなことをして師匠から逃げ出したのだから、今頃はわたしのことを忘れて家族と仲良く笑い合っているのかもしれない、と考えてしまった。そんな姿を思い浮かべてしまい、わたしの胸はずきりと痛む。暮れていく空がそんな気持ちをますます強くする。
だから神社に辿り着き、台所の煙突から煙が出ているのを見たときは、どうしてなのかが分からなかった。そっと顔を覗かせ、師匠が夕食を作っているのだと知り、驚きで声をかけられなかった。師匠はそんなわたしに気付くと、慌てて駆け寄ってきた。わたしのことが心配でたまらないという顔をしてくれた。
「あの、逃げ出して、ごめんなさい」だから謝るための言葉もすぐに出てきた。「わたし、あそこにいるのが辛かったの」
「謝るのはこっちよ。れいむが辛い身の上であること、前もって話してたから大丈夫だと思ってたの。あの子たちがあそこまでするなんて考えもしなかった。れいむを辛い目に遭わせてしまって……ほんとごめんなさいね」
師匠はわたしに笑いかけてくれた。それで辛い気持ちが一気に晴れて、代わりにお腹がぐうと鳴った。
「こうなると分かってたから、ご飯の準備してくれてたのね」
「れいむが帰ってくる場所はここしかないと分かっていたから。だから戻ってきたとき辛い気持ちにならないようにって」師匠は家族のことも大事だけど、わたしのことも大事に思っていてくれたのだ。そして逃げたわたしを叱ることなく迎えてくれた。「お昼も食べていないから、すぐに食べられるものでもと思って。足りない調味料をもらいにお店へ行ったのよ」
「だからあそこでばったりと出会ってしまったのね」
「ええ。見失ったときは慌てたけど、れいむがあの店に来た意味を考えたの。それで追いかけるよりここで待っていた方が良いのかなって」
わたしは何も言わず、大きく頷いてから台所に立つ。師匠と一緒にご飯の準備をして、お風呂に入って、少しだけ勉強をして、それから眠るのだ。
そして明日からはまた同じ生活が始まる。いや、これまでよりもっと励まなければならない。あの恐ろしい化け物、わたしを取り囲んだ人たち。どちらにも負けないようにもっと心と体を鍛えなければいけない。そのために師匠の戦い方をもっと学ぶべきだと思った。
あの強く、勇ましく、恐怖をはねつける戦い方を。
先の妖怪退治が終わってから、れいむは前にも増して格闘術を教えてくれるよう、わたしにねだるようになった。それは泥の妖怪に対峙したとき感じた恐怖を払拭したいからというのが大きいのだろう。喪われた記憶に関係しているのか、それとも生来の負けず嫌いなのか、れいむは脅かされることに強い拒否反応を示す。これまでは癇癪を起こしたり叫んだり、震えて縮こまったりでそれを表現してきたのだが、前向きに立ち向かえるようになったというのはとても良いことだ。
とはいってもわたしではれいむに博麗の戦い方をこれ以上教えることはできなかった。今のわたしの霊力では札を六、七枚同時に操るので精一杯だったからだ。誘導などの操作を考えなければもっと扱えるのだが、それも限度があるし、力を放ち続ければそれだけですぐに力尽きてしまう。わたしは武術に関しては優れているけれど、強靱な肉体を持つ妖にはそれだけでは通じない。
だからわたしは身体強化一本に絞っている。拳や足、肘や膝など主要な箇所に霊札を巻き、強化された身体能力によって一気に撃ち込むのだ。弱い妖ならば覿面に効果があるし、見た目のインパクトは大きい。だがそれは博麗の戦い方ではない。わたしの戦い方だ。博麗はおめでたく空を飛び、溢れる霊力から術の限りを尽くして妖を撃滅するものだ。人と妖の身体能力の差を埋めるため、遠隔操作による自在な術法とそれを実現する独特の退魔具。汎用というものを極めたためあらゆる属性の魔物に対抗する。打ではなく、射こそが博麗の神髄なのだ。
れいむはわたしの戦う姿を見てしまい、打が強さに結びつくと考えてしまった。だから格闘を学びたいと考えるようになってしまった。もちろん護身術も身に着けておいて役に立たないわけではない。これもまだれいむには説明できないことだが、女は女であるからというだけで脅かされることもあるからだ。
だがそれは博麗としての鍛錬を遠ざけてしまうということを、わたしはれいむに教えなければならなかった。そこでわたしが取ったのは少々荒っぽいやり方だった。
梅雨も迫ってきた頃になって、わたしはいつもの修行が終わったのち、れいむに本気でかかって来るよう指示を出した。それを聞いてれいむは気が引けるという風にわたしを見上げてきた。
「殴ったり蹴ったりすると痛くない?」
「れいむの突きや打撃なんかまともに通らないから安心しなさい。それよりわたしも反撃するから、防御の術はきちんとかけておくのよ」
えっ、と驚きの声をあげるれいむの前に、わたしは拳を突き出す。悲鳴こそあげなかったものの、れいむは唐突な暴力にかなり動揺している様子だった。口を開こうにもぱくぱくと動かすばかりで、視線の動きが忙しなくなる。
「今から十分間、全力でかかってきなさい。一度でもわたしに膝をつけさせたられいむの勝ちよ」わたしの言葉にれいむはすぐには反応できなかった。十秒近くも経ってからようやく首を縦に動かした。「ではいつでもかかってらっしゃい」
れいむはしばらくぼうっとしたまま突っ立っていたが、やがて気合いの抜けきった拳をふるってきた。ひょいとかわして軽く足を払うと簡単に転び、腕をすりむいて血を流してしまう。可哀想だなとは思ったけれど、これは姉妹の遊びではないのだから、手加減はしても情を加えてはいけない。
れいむはわたしの顔を見ると滲んでしまった涙を拭い、身体強化の術を全身に仕込み再び殴りかかってきた。それでもわたしからすれば十分に遅く、リーチの差を利用して容赦なく横っ面に拳を加えた。派手に転んだけれど、れいむは素早く立ち上がり、頬をそっと撫でる。最初に転んですりむいたときよりも痛みはずっと少ないようで感情を乱すこともない。一切強化していないわたしの拳のほうがひりひりする。れいむの力は思っていたよりもずっと強くなっていて、下手をすれば単純な殴り合いだけで力の差があまりないことを悟られてしまいそうだった。回避を取って後の先で対処した方が良さそうだと判断し、残りの時間は単純に打ち込んでくるれいむをあしらい続けた。
全力で休みなく十分、ただいなされ続けるというのは心にも体にもきついらしく、れいむは地面に仰向けになり、大の字になりながらぜいぜいと息を荒げる。
「実践ではわたしに利があるわね」こちらは力を受け流し続けただけだから大した疲れもない。平然を装う必要すらなかった。「これを毎日、夕方にやりましょう」
「こんなの、どれだけやっても師匠には敵わないよ」
「敵うようになるわ。いや、もう少し厳しく言いましょう。敵うようにならなければいけないのよ」
「でもわたし、手も足も師匠よりずっと短いし、体も軽いよ」
「妖怪ならばどんな人間だって紙のように軽くあしらえるわ。そうね、れいむはわたしのこと人間ではなく妖怪と思って挑んでくれば良いかもしれない」
そう助言しただけでれいむはこれまでの弱々しい顔から、わたしへの勝ち方を模索し始める。怖がり屋ではあるけれど、同時に負けず嫌いでもあるのだ。あるいは自分の不甲斐なさを何とか払拭したいのかもしれない。
「それはお札とか使っても良いってこと?」
「そりゃそうよ、それが博麗の戦い方だもの。霊力をふんだんに使い、手数で相手を圧倒する。どんなに強い力の持ち主だって、範囲外から狙いを澄まして撃ち抜けばいい」わたしには決してできなかった戦い方を、れいむには身に着けて欲しいのだ。「あらゆる局面で強いというのは理想だけど、有限の時間しかない人間にそれを望むことはできない。だから自ずと特化する形になるのよ」
汎用性に極限まで傾斜する矛盾的な性質こそ、博麗の巫女という人間が操る特化された強さなのだ。
「それは何だか狡い気がするけど」
「妖怪はその存在自体が狡いと言って良いの。力の強い種族なら何百年も何千年も生き人のあらゆることを超越する。しかも努力の必要なしに。狡く立ち回るくらいでちょうど良いのよ」
れいむはあまり納得できない様子だったが、わたしの言葉だから心に留めてはくれたらしい。小さく何度も頷き、それからよろよろと立ち上がる。
「自信ないけどやってみる。それに勝てなくてもきっと強くなれる」
「うん、頑張りなさい」強くなりなさいと言いたかったけど、何故か躊躇われた。強くあろうとするのは悪いことではないのに、れいむを強くしようとしているのに、この際になってもわたしの中には納得のできない部分があった。「では夕食の準備にしましょう。手伝えるかしら」
れいむは若干ふらふらしていたものの、いつもと同じようにお務めを手伝ってくれた。
翌日のれいむは最初から強化を目一杯にかけ、お札を繰って挑んできた。退魔の札は人間には効きにくいけれど、十分に霊力を込めれば人を吹き飛ばす程度ならわけがない。そうして遠距離だけの攻撃でわたしを倒そうとしたのだろう。だがまだ反則をしているという後ろめたさがあるのか、遠くから単調に札を投げつけてくるだけだった。わたしは全速力で前へ駆けながら全てを紙一重で避け、霊力を相殺するよう霊札を巻き付けた箇所で的確に撃ち落とし、あっという間にれいむに肉薄して腹部に一撃を与える。呼吸が乱れると霊力を練ることができず力が一気に衰える。だから人体の急所と同じ優先度で、呼吸に関する部分は守りは特に固めろと教えていた。れいむはその教えをきちんと守っていたのか、数メートルほど後ろに吹き飛ぶだけですぐ立ち上がったが、次に何をして良いのか分からないという表情をしている。わたしは答えを出す時間を許すほどの手心を加えるつもりはなかった。だから慌てふためくれいむを一方的に残りの時間で追い詰め続けた。
こんなことはやはりしたくない。ただでさえ暴力を振るわれることに恐れを抱くれいむには実践の気構えを、時間をかけて教え込むべきなのだ。しかし紫の要請と、そしてわたしへの憧憬がそれを許さない。れいむがすぐ泣きやんでくれたのは、そんなわたしの気持ちを表情から読み取ったからかもしれない。だが三日目になるとれいむの膝はがくがくと震え、俯いて何もすることができなかった。流石のわたしもそんなれいむを一方的に痛めつけることはできなかった。それは訓練とは決して言えないものだからだ。表面上は何も気にしてないという素振りを見せていたが、食が細くなり、わたしのことを微妙に避けるようになってしまった。そしてそれは一週間ほども続き、流石に酷くやり過ぎたかと感じ始めた頃だ。
れいむが寝てから暗闇の中でああでもないこうでもないと考えていると、障子戸の隙間から複数の禍々しい目が唐突に浮かび上がってきた。
「この頃ようやくやる気になってくれたと思ったらたったの二日でやめちゃって。どうかしたのかしら?」
「無抵抗の相手を一方的に打ちのめすのが修行とは言えません」
「いいえ。強いものは弱い相手をいつでもいつまでも容赦なく圧倒できるんだってこと、きちんと教えてあげないと。あの子の強さがまだ貴女の手に負える今がそれを教授できるほとんど唯一の機会だというのに」
「そんなこと、知る必要はありません。わたしだってそんなことを思い知らされたことはありませんよ」
実践形式を通じて先代の術に酷く痛めつけられたことはあったけれど、こちらも自前の身体能力で決してやられっ放しではなかった。わたしはれいむを酷い状況に追い込むことができるけれど、だからこそ必要性を感じなかった。だが紫はそうでないと考えているようだった。
「わたしの眼鏡に適う巫女ではないならそこまでは求めない。でもあの子はそうなの。できるだけ多くの、戦いに関する状況を学ばせなければならない。緩やかで執拗な暴力も、一方的に痛めつけられて誇りを踏みにじるような暴力も、叫び声を振り絞っても狂ってしまうほどの痛みも。わたしは今すぐにでもあの子に覚えて欲しくてたまらないのに、じっと貴女がやるじれったい修行の真似事を見守っているのよ。でもそれもそろそろ度が過ぎてきたわ。あの子はね、前にも言ったけど貴女などとは比べものにならないほど強くなるの。一時期叩きのめされ続けても、すぐに貴女に勝つ方法を思いつくわ。お前の才能であの子を計るな」
最後の命令口調が、境界の妖が抱える激しい苛立ちを表しているようだった。
「分かったならば明日にでも実践形式の修行を再開しなさい。あまり手心を加えると、もっと厳しい師匠のもとへあの子を送り届けるわ」
障子戸がそっとしまり、妖の気配も何処かへ消えていく。何かに八つ当たりしたかったけどわたしの側には座布団しかなく、壁に投げつけてもまるで憂さを晴らせなかった。この大して異変も起きない現状でそこまで厳しくする理由がどこにあるのか滔々と質問を投げつけてやりたいと今更ながらに思えてきたが、彼女はわたしからの呼びかけになど決して答えはしないだろう。
これまでのようなことを続けたられいむが壊れてしまうかもしれない。あるいはそうなっても良いと紫に思わせるほど過度の期待を押しつけられているのかもしれない。だとしたられいむはわたしが思っているよりもよほど不憫なのかもしれない。
布団に入って目を瞑っても、どうしても彼女の言葉が甦ってくる。寝付きの良いのが自慢なのに、その日はじりじりした気持ちでなかなか眠ることができなかった。
朝のお勤めで境内の掃き掃除をしていたつもりだったけれど、ふと我に返って辺りを見回せば掃き跡を適当につけただけで、掃除がちっとも進んでいない。慌てて逆順に、今度は気をつけて箒を動かすけれど、細かい所が気になってなかなか進まなかった。ようやく半分ほど終わった所で師匠がわたしのもとにやってきて、お勤めがあまり進んでいないところを見ると額に手を当ててくる。熱が出て調子が悪いのかをまず確認したのは、わたしがまだ信頼されているのだということだ。
「熱はないけど前のこともあるから油断はできないわね。今日もやめておく?」
わたしは少しだけ躊躇ってから大きく首を横に振る。昨日も一昨日も同じ態度を取って結局のところ何もできなかったというのに、師匠は今日もわたしの頭を優しく撫でてくれた。今度は期待に答えたいけれど、そう考えただけで喉が詰まりそうになる。師匠は掃除を手伝ってくれて、朝食も任せてしまったけれど、甘えてしまったことへの自己嫌悪がすぐに湧いてくる。これでは今日も駄目だと思い、せめてそれ以外のことはきちんとこなさなければと、座学の準備を始めたところで大きく二度、手を打つ音が聞こえてきた。次いで少し小さな音が二つ。参拝客が二人いるらしいと、食事の片づけをしている師匠の代わりに顔を出せば、そこには大人の男性と女の子がいた。
「あっ、れいむだ。久しぶり!」女の子のほうはかつて師匠から逃げていた時に迷い込んだ家で出会っている。確か魔理沙と名乗ったはずだ。「ここに住んでるって聞いたから来ちゃった。また訪ねてくるって言ったのに、あれから全然来ないんだもの」
それどころではなかったし、まだ一月ほどしか経ってないはずだが魔理沙にとっては我慢の限界であったらしい。魔理沙は横にいる男性の腰を平手でぺしんと叩く。銀の髪に丸眼鏡をかけた背の高い男は、魔理沙の行動に困ったような笑みを浮かべた。
「こいつったらわたしのこと、なかなか外に連れて行ってくれないの」
「人里の中なら付いて行きますが、外となるとおいそれとは出かけられませんよ。何しろ妖が大なり小なり、幅を利かせているのですから」
「だから一ヶ月ずっと良い子でいたのよ。課題も全部やったし」
「それが当たり前なんですけどね」
魔理沙は聞かない振りをしてわたしのほうを向く。
「れいむ、今日はお暇かしら」
そう訊かれ、わたしは即答できなかった。師匠との修行をずっとさぼってきたから、その上で魔理沙と遊ぶなんてもっての他だと思ったからだ。でも折角来てくれた魔理沙をそのまま追い返すのも嫌だった。
「ちょっと待って、師匠に訊いて来るから」
「用事があるのだったらまた近いうちに改めてのほうが良いのでは?」眼鏡をかけた男の人はわたしと魔理沙を見てそう言ってくる。「別に今日を逃せば二度と会えないなんてことはないのだから。乙姫と彦星、ロミオとジュリエットみたいな関係でもなし」
乙姫と彦星は分かるけれど、もう一つのほうはよく分からなかった。離れ離れでなかなか会えない二人の話というのが何となく伝わってきただけだ。
「別に良いわよ」そう言われて断ろうかと思っていたのだが、背後から師匠の許可が出てしまった。「年の近い子同士、仲良くする機会って大事だもの」
「ふむ、一理あるな」眼鏡の男はそう言いながら大きく頷く。「魔理沙、わたしは仕事があるからここでの用事を済ませたら一度戻るよ。ここでずっと遊ぶなら夕刻前に迎えに行くし、もし人里に遊びに来るなられいむのお師匠さんに送ってもらいなさい。良いかね、紙に書いて渡そうか?」
「そんなことしなくても大丈夫よ」魔理沙は突き放すようにそう言う。「じゃあお許しも出たし。良かったら神社の中を案内してくれないかしら」
「うん、分かった。その……」わたしは眼鏡の男に向き直る。「わたし、れいむと言います。まだ半人前だからひらがなのれいむです」
「僕は森近霖之助。魔理沙は香霖って呼ぶし、そこの博麗さんは霖之助と呼ぶ。どちらでも悪くないと思っているから好きに呼べば良いよ」
「えっと、じゃあ霖之助さんで」香霖というのは親しい相手にだけ許す呼び方のような気がしたし、そちらの名前を名乗ったとき魔理沙が少しだけ肩を震わせたからだ。「今日は魔理沙を連れてきてくれてありがとうございます」
「そんな畏まらなくても良いよ。僕も魔理沙には同い年の子と遊んで欲しいと思っていたから」
「別に香霖に言われるまでもないわ。さあれいむ、案内してくれるわよね」
魔理沙の勢いと引く手に、わたしは引きずられるように神社に上がる。とはいってもここはそんなに広くないから案内できる場所など限られてしまう。それでも魔理沙はどの部屋も興味深く眺めて回り、古い巻物や本に手を触れようとした時は慌てて止めなければならなかった。古くなった紙は注意深く触れないと、あっという間に破れたり崩れたりするのだと説明したら、魔理沙はふむふむと頷き、それから次の場所に移る。わたしも人のことは言えないけれど、魔理沙はわたしにも増して興味がころころと変わってしまう性格らしい。そんな魔理沙も本殿に足を踏み入れると流石に雰囲気を感じるのか、少しだけ慎重にあちこちを見て回るようになった。
「ここだけ木張りなのね、他は畳張りなのに」この神社の中では一番古い建物で、師匠曰く百年近くは経っているとのことだ。そのため最近では雨漏りがちょくちょくあり、また壁からも強い横風を含む雨があると水が染み込んでしまい、酷い時は人里の大工に頼んで直してもらっている。この中で新しいのは十二年ごとに作り直す、御神体を飾る奉納棚だけだった。一通り見回すと魔理沙の興味はそちらに集中する。
「赤と白の、この形って何だっけな。香霖に教わった気がするのだけど」
「陰陽?」魔理沙はそうそうと言って、紅白の溶け合う構図をした陰陽玉を指差す。「本来なら黒と白なんだけど、うちのは赤と白なのよね」
「わたしの家で同じ模様を見たことがある。そう、母様の好きだった模様よ」
魔理沙は陰陽玉をじっと見つめている。あまりに真剣だったので、ついわたしの方から質問をしてしまった。
「この形に拘っていたということは、魔理沙の母様ってわたしと同じようなことをしていたのかしら」
博麗の巫女とは別に里付きの祈祷師、呪い師の家系はいくつかある。先々代の博麗はそれらの一つから出たのだと師匠に聞いたことがある。
「ううん、魔法使いよ。金の髪が似合う、素敵な女性だったらしいわ。わたし、それすらもあまり覚えてないんだけどね」
「それって魔理沙が小さい頃にいなくなったってこと?」
「うん、死んじゃったの。魔法の実験が原因でね。でも本当にはっきりしないけれど、優しくしてくれたことは覚えているの。お葬式のとき、沢山の人が悲しくて泣いてくれたことも」
魔理沙はそのことを淡々と話す。親兄弟を亡くした子はわたしも何度か見たことがあるけれど、死んだ人間をそこまで冷静には話せなかったような気がする。
「れいむはいいなあ、この模様に近いところにいて。わたし、そういった不思議な記号さえほとんど見せてくれないし、どういう意味があるのかを知ろうとすると酷く怒られるの。父様はね、魔法や不思議な力が嫌いなの。だから神社に行きたいって言ったら、すぐに駄目だって怒られたわ。香霖が条件付きなら良いことにしてくれたの」
「こうりんっていうのは魔理沙の隣にいた男の人よね」
「うん、本名は霖之助なんだけどわたしは呼びやすいからそう呼んでるわ。父様のその父様が付けた屋号らしいの。本当は別の店を持ってるんだけど、わたしが一人前になるまで家庭教師をやってくれるんだって。わたし本当は寺子屋に行って皆と一緒に勉強したかったんだけど」
「そっか、だから寺子屋に通ってるとき、一度も見たことがなかったんだ」
年が近いしよく目立つ格好をしているから、いくら顔を覚えられないといっても思い当たる節くらいはあっても良かったのにと思っていたのだ。元々通ってないならそれも納得できた。
「じゃあれいむは寺子屋に通ってるんだ。いいなあ、きっと楽しいだろうな」
魔理沙ならばきっとすぐに友達ができただろう。でもわたしは他人に迷惑をかけてばかりで最後は追い出されてしまった。
「楽しくなんてなかった。それにすぐ来なくて良いって言われたの。わたしがいると他の子に迷惑がかかるからって」
「へえ、じゃあ悪い子だったのね。とてもそんな風には見えないのだけど」
悪い子と言われ、わたしは大きく首を横に振る。自分ではそんなことをしているつもりなんてちっともなかったからだ。そう思われるのは仕方ないのかもしれないけれど、魔理沙には何故かそう思われたくなかった。
「わたし悪くない。分からないことをいつも納得いくまで訊いただけなの」
「わたしだってそれくらいするけど、香霖に嫌がられたことなんて一度もないわ。分からないことをはっきりさせようとするのは大事なことだって」
「わたしだってそうだったわ!」まるでわたしに問題があるように言われ、悔しくて大声をあげてしまった。「分からないことをはっきりさせたいだけだったのに!」
それからついかっとなって、魔理沙の肩を押してしまった。魔理沙は床に手をついたが他の子と違って泣くことはなく、かといって怒る様子もなかった。ただ少しだけ悲しそうな顔をしただけだ。
「そうやって嫌なことした相手をそのたびに押したり、ぶったりしたの?」
「そんなことしないもん!」床を足でどすどすと蹴り、そう喚き散らす。「どうしてそんな嫌なこと言うの?」
魔理沙は何も言わずに立ち上がるとわたしに近付き、平手でわたしの頬を打つ。乾いた音とともに痛みで頬がひりひりした。
それからはもう、本当に頭が真っ白になってしまった。わたしは魔理沙につかみかかり、大声で叫んでいた。一緒に転んでもみ合って、何がなんだか分からなかった。ただ目の前の相手が嫌で、叩かれたくない一心で必死で叩いて、でも魔理沙も叩いてくるからまた叩きたくなって、その繰り返しだった。師匠と霖之助がやってきてお互いの腕をつかみ、引き剥がしてくれなければ取っ組み合いの喧嘩が続いていたと思う。
気持ちが落ち着くと、わたしと魔理沙は木張りの床に正座させられた。師匠の顔はこれまでに見たことのないようなおっかない表情で、考えていたよりもずっといけないことをしたのだという思いが今更ながらに湧いてきた。
「どうして喧嘩なんてしたの!」そう怒鳴ってから、師匠は眉と眉の間を指で何度も押さえた。それで表情が少しだけ緩くなる。「会ってすぐ喧嘩なんて余程のことだわ。何があったのか教えて頂戴」
「れいむとちょっとしたことで言い合いになったの。それでかっとなったれいむが、わたしの肩を押したのよ」
「それは本当なの?」師匠の質問にわたしは小さく頷く。最初にわたしが手を出したのは間違いないし、冷静になると馬鹿なことをしたなと思う。でもむすっとした顔の魔理沙を見るとまた腹が立ってきて、そんなことさえちゃんと言えなかった。「だとしたられいむが悪いわね。魔理沙ちゃんにきちんと謝らないと」
「いや、それだけでは不十分だ」すると霖之助は師匠の言葉を遮り、魔理沙に対して厳しい顔をする。「魔理沙、いくら突き飛ばされたからといってやり返して良いってことにはならないよ。それに突き飛ばされるくらい、魔理沙はれいむちゃんを怒らせた。最初に手を出したのはれいむちゃんでも、魔理沙が悪くないことにはならないんじゃないかな?」
「わたし何もしてないもん!」
「じゃあれいむちゃんが一方的に悪いのかい?」
霖之助がそう言うと魔理沙はたちまち黙り込んでしまう。わたしにはそれが意外だった。魔理沙は悪いことをしていないと思っていたからだ。
「お互いに悪いことがあるならば、そのことをそれぞれ謝って、それで終わりにしたら良いと僕は思うけれど」そう言って霖之助は師匠のほうをちらと見る。「そちらの保護者さんはどうかな」
「別に構わないけれど」師匠は不機嫌そうに言い放つ。今日はなんだかいつもより少しだけ刺々しいなと思う。「こればかりは本人同士が納得しないと」
「子供の喧嘩に保護者は出るべきではないという方針なのかな?」
「少なくとも、子供の頭を無理矢理押さえつけて謝らせるようなことはしたくない」
「それは僕も同感だね」霖之助はまず魔理沙を、そしてわたしを見る。「もしかして、僕たちのいないほうがやりやすいかい?」
わたしはどちらでも良いのだけど魔理沙は何度も必死に頷いた。
「ならば僕たちは少しだけ離れることにしよう。こちらも話の途中だったし」
「貴方が勝手にふっかけてきただけで、わたしはどちらでも良いのですよ」
師匠はわたしを気遣わしげに見てから名残惜しそうにここから離れていく。霖之助も黙って続き、再びわたしと魔理沙だけとなった。
「ごめんなさい。わたし、ああいう癇癪は随分収まったのに」わたしの悪い癖を師匠は辛抱強く正してくれた。寺子屋を追い出された頃のわたしではなくなったはずなのに。「何故か魔理沙の言葉に我慢できなかったの」
「うん、それはわたしが悪かったわ」魔理沙は口をもごもごさせ、それからわたしの目をじっと見つめる。ちょっと落ち着かなくなるけれど魔理沙が真剣だということは分かっているからじっとしていた。「香霖は父様を始め、わたしの家に長らく世話になっているの。だからわたしがどんな我侭を言っても我慢してくれる。わたしがれいむに比べて良い子だというわけじゃなくて」
魔理沙はそう言うと少しだけ照れ臭そうに笑う。
「どちらかと言えばわたし、悪い子なのよ。前にれいむが入ってきた穴からこっそりと外に出たりするし、最近では木登りの練習もしているの」魔理沙は内緒よと言わんばかりに指を唇に立て、片目を瞑る。「お勉強もあまり好きじゃないの。香霖はわたしが商家の娘で、いずれ家を継ぐんだから数字には強くなるべきだって言うんだけど。数字なんて見ているだけで眠くなってしまうわ。文字を読むのは好きなんだけど」
「そう? わたしは数字、好きだけど。逆に文字を読むのは苦手なの」数字は零から九までの数字と決して多くない記号の組み合わせだから楽なのだ。「それに比べて文字は沢山あって、疲れていると目が滑ってちっとも入ってこないわ」
「へえ、わたしたち全く逆なのね」
確かにお互い、欲しい才能が全くの逆だった。それに見た目もわたしと違ってふわふわの髪の毛に、目は二重でぱっちりとして、頬はとても柔らかそうで可愛らしい。わたしはさらっと零れる髪で、目元はすっと細くて、頬は刀で削いだように痩けている。魔理沙もわたしのことをまじまじと見回し、そして小さく息をつく。
「れいむのさらさらの髪の毛、羨ましいなあ。わたしの髪の毛は父様に似たのかもこもこしていて、寝癖もよく酷くなるの。れいむは寝癖なんてほとんどないでしょ?」
「うん、でももう少し髪が固くなってくれないと髪飾りをつけることもできないのは、嫌だなと思う」
そんなものかーと言いながら、魔理沙はわたしの髪に手を伸ばしてくる。初めて会ったときもそうだったけどわたしは魔理沙なら触られるのが怖くないらしかった。わたしの方からも魔理沙の髪の毛を触ってみたけれど、特に驚いたり怖がったりという仕草は見せなかった。
それからわたしは魔理沙に改めて本殿と、そして他の場所へも連れて行った。台所にも足を運び、魔理沙はいちいちその造りに感心していた。
「わたしの家は住み込みのお手伝いさんなんかもいて、料理を作るのにも専用の賄い婦がいるのよ。だから台所に足を踏み入れると怒られるの」
魔理沙は竈を覗き込み、灰にふーっと息をかけて飛び散らすものだから巻き込まれて咳き込んでしまい、少しの間苦しそうにしていたが、可笑しいことだったらしく声を立てて笑ってしまった。それからわたしに興味の眼差しを向けてくる。
「れいむってお料理はできるの?」
「師匠のこと手伝っていたら少しはできるようになったわ」
「へえ、いいなあ。わたし、一度料理をやらしてって言ったらまだ二年は早いって言われたの。外に出るのも香霖がいないと駄目だって言われるし」
だからあの穴が魔理沙には必要なのだろう。それに比べると博麗神社は割と寛容だ。人手が足りないからわたしのように小さな手でも使うしかないというのが正しいのかもしれないが、少なくとも人里に出ることは特に制限もなく許されている。そうそう出かけたりはしないのだけど。
「まあ、それもそうよね。れいむは次の博麗の巫女になるのだし、外を出歩いても心配されないくらい強いに決まってるわ。厳しい修行に耐えて一人前になるんでしょう? どんなことをやるのかしら?」
「えっと、色々かな。霊力の使い方だったり、妖怪退治の道具の使い方だったり、あと師匠と一対一で戦ったり」
「へえ、わたしそんなことしたら間違いなく、父様にこっぴどく叱られてしまうわ」
魔理沙はわたしのことを羨ましそうにするが、そうすると怖いからという理由だけで訓練を避けているのが何だか恥ずかしく、そして勿体なく思えてくる。
「れいむが師匠って言うくらいだし、博麗の巫女だからやっぱり強いのよね。そういや里でも小さい頃から滅法強かったって評判だった気がする」
「うん、本当に強いの。わたしじゃまだまだ敵わないかな」一方的に追い詰められ、泣いても喚いても決して許してくれない。大抵の我侭を受け入れてくれるからこそ、容赦のなさが余計に恐ろしかった。ここで失敗すれば、師匠を酷く失望させてしまうのではないかという不安が抑えきれない。「もっと強くならないといけないのに」
わたしはきっと暗い顔をしていたと思う。少女はそんなわたしを見て、少しずつ真面目な顔になっていく。
「でも羨ましいな。わたしは強くなりたいけど体を鍛えたり、戦い方を習ったりなんて父様がきっと許してはくれないだろうから」
「でも、殴られたり蹴られたり、とても痛いのよ」
「痛みを味わって強くなれるなら、それでも良いの」
わたしは痛みが、一方的に振るわれる暴力が怖くてたまらないのに、魔理沙はそれでも構わないと言っている。そんなのは嘘だ、あんなのに耐えられるはずがないと怒鳴りたくなるのを我慢して、わたしは代わりに静かに質問する。
「魔理沙はそこまでしてどうして強くなりたいの?」
それは魔理沙にとって訊かれたくないことだったのだろう。先程までのお喋りが嘘のように口を閉じ、俯いてしまった。
「話したくないなら、別に話さなくても良いのだけど」
「母様が正しいことを分からせたいから」魔理沙はわたしの言葉にはいともいいえとも言わず、俯きながらぼそぼそと話し始める。「母様はわたしが五歳のとき亡くなったの。その頃はまだ小さいからその意味は理解できなくて、それから母様のこと、少しずつ知っていったわ。里の善き魔女と呼ばれ、博麗の巫女と同じくらい妖やその他の怪異にも対抗できて、多くの人に好かれていたってこと。とても強い魔法使いで、けどわたしには優しくしてくれたという微かな記憶しかなくて。だからわたしは母様を知るために母様のようになりたいの。でも父様は母様が使っていた魔法の道具や本を隠して、わたしには決して触れないようにしたの。寺子屋にも通わせてくれないし、わたしが女の子らしくしていないとそのたびに怒るのよ」
魔理沙はぐすんと鼻を鳴らし、目元を拭う。
「汚い言葉遣いも駄目、里の子供たちが読むような絵本や小説も軽薄だから駄目、ちゃんとしたものだけ読みなさい、触れなさい。そういうことばかり言うの」
話が進むごとに魔理沙の息苦しさがわたしにも伝わってくる。気持ち悪くて喉をかきむしりたくなったけれど、右手で左手をつかんで我慢する。
「それは辛いとわたしも思うけど。でもここだってそんな自由じゃないよ。それに師匠は優しいけど、大事なことは容赦をしてくれないの」
体が震えてくるのを、わたしは手を強く掴んで必死に堪える。
「わたしはどんなに痛くても、強いほうが良いわ」
「わたし、本当は……」わたしはその思いを喉の奥に押し込もうとする。あまりにも魔理沙にとって不誠実なことだからだ。でもいま、この気持ちをここで口にせずにはいられなかった。「強くなくても許されるほうがいい。博麗の巫女じゃなくなってもわたしを受け入れて欲しい。ここにいる人たちみんな、優しい人も怖い人もわたしに強くなることしか求めてないもの」
取り返しのつかないことである自覚はあったけれど、言葉が止まらなかった。それがあまりにも本当のことで、怖くて泣いてしまいそうだった。だから魔理沙が乾いた笑い声をあげなければ、本当に泣いていたに違いなかった。
「本当にわたしたち、いる場所が逆だったら良かったのね。わたしはここでどんどん強くなって、れいむは強くならなくてもわたしの家で優しく受け入れられて。こういうのままならないって言うのよね、確か」
そう、本当にままならない。けどわたしは魔理沙になれないし、魔理沙もわたしにはなれない。わたしにはそれが苦しいことのように思えた。そんなわたしの目を魔理沙はじっと見つめてくる。
「わたし、それでもれいむには強くなって欲しいなって思う」
「それは、わたしが魔理沙の代わりになれということ?」
「ううん、れいむはわたしの代わりじゃない。わたしは父様を悲しませることがあってもやっぱり強くなりたいの。でも一人だったら挫けてしまうかもしれない。そんなときれいむがわたしと同じように強くなろうとしてくれることを考えたら、いくらでも我慢できると思うの」
魔理沙の考えることはわたしなど思いもよらぬことで、前向きで、そしてわたしに博麗の巫女になるのとは違う理由を与えてくれた。わたしが強くなれば、魔理沙はわたしが博麗の巫女ではなくても良いのだ。それが嬉しくて、わたしは大きく頷き、魔理沙の目を見つめ返す。
「わたし、もう少しだけ頑張ってみるわ」
「うん。わたしも早く追いつくから。そうしたらいつか勝負をしましょうね」
魔理沙が差し出した小指に、わたしの小指をそっと絡める。本当は針千本を飲ませるのだけど、わたしも魔理沙もそれを口にはしなかった。
指を離すとわたしは残りの場所を案内して回り、それから夕方までずっと話をした。お互いに話すことは沢山あって、言葉は全く尽きなかった。霖之助が迎えに来たとき、わたしはまた少しだけ泣きそうになってしまった。
「そんな顔しないでよ。また来るから、少し時間はかかると思うけれど」
わたしは無言で頷き、日の傾くほうへ遠ざかっていく魔理沙を姿が見えなくなるまで見送った。そんなわたしに師匠は優しく話しかけてくる。
「良かったわね、お友達になれて」
小さく頷いたけれど、わたしは魔理沙が友達であるとは思っていなかった。もっと別の、上手く言葉が見つからない、そんな関係だ。でもいま師匠にそのことを説明する気にはなれなかったし、きっと説明できないだろう。
「ねえ師匠。今日は大丈夫だと思うわ」
だから言葉にならない不実さの代わりに、わたしは拳を突き出す。師匠は何も言わず停滞していた訓練の続きに付き合ってくれた。
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初めましての方は初めまして。
以前もあとがきを読んだ方にはお久しぶりです。
文章系サークル「La Mort Rouge」の管理人、仮面の男です。
このたびはこのあとがきを訪れてくださり、ありがとうございます。
さて、以下の内容には「浮世の巫女(上)」のネタバレが含まれます。未読の方でネタバレが気になるならば、このページから待避することを推奨します。
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今回の話は霊夢を巡る悲喜交々と、空を飛ぶことについてです。
霊夢を主として書くことは随分と前から(その切っ掛けは全て書き終えたあと、別途語ることにします。完結していない内からあれこれ語るにはあまりにも恥ずかしいことなので)予定がありましたが、主に二つの理由から先延ばしにしていました。一つにはあまりに長くなり過ぎるので、そのための時間を確保しなければならないこと。もう一つは幻想郷を構成するための手持ちのパーツがまるで足りないことです。
前者は見切り発車でも何とかなる点です(実際、上下巻に分かれた段階でかなり見切り発射感が強いです)が、後者に関しては如何せんというものがありました。なにしろ霊夢は東方Projectのいわば主人公的存在で、彼女に関わるものは実に膨大なものとなります。彼女を語り尽くすならば全てではないにしろ、幻想郷のかなりの部分を自分のものとして掌握しなければならないのです。土地、キャラクター、世界観、外側との関係性(これは魔界や夢幻界といった場所も含まれます)、これらを大まかに網羅するだけでも相応の準備が必要でした。具体的にはその蓄積のため(もちろんそれだけではありませんが)に、数年に渡って様々な形の幻想郷を、過去から未来から活写し続けてきました。
その蒐集行為がようやく完了したと判断したのが、二〇一三年末です。その翌年は、だからもう一つの話と並行して、ひたすらに霊夢(れいむ)と向き合う日々でした。ただし上巻の霊夢はまだ過渡期で、紅魔郷以降の彼女とは見せる態度や心情が異なり、どちらかといえばそこに繋がっていく存在として書かれています。下巻では冒頭に描写されるある事件を境として、従来の性格に近い霊夢へとぐっと寄って行く予定となっており、そこからは馴染み深い感じになると思います。つまり下巻が、霊夢と真に向き合う必要性があるパートということになります(ふるえ
また、空を飛ぶことについてと冒頭で述べましたが、上巻ではあれほど思い焦がれているというのに、ほとんど自力で空を飛んでいません。空を飛べない時期を長く取ることも後々に必要なことなので嘘偽りというわけではないのですが、空を飛ぶ霊夢については、下巻でたっぷりと語られることになると思います。霊夢の飛行描写はあれこれ考えていたのですが、それもまた次回のお楽しみということになります。
†
主題は話の全体に渡ってしまい、どうしても語りにくいので、それ以外の内容をちらほらと語りたいと思います。
上巻は大まかに二部構成となっております。
第一部は霊夢がれいむだった頃の修業時代です。これに関しては、霊夢も桃から産まれておぎゃあという訳ではないのだから、どこかで苦労して力を身につけたり、未熟さに振り回されてままならなかったり、巫女の役割を忘れておののいたり、ということをしっかりと描写してやりたいという気持ちが以前からあって、それが今回しっかりと叶った形となります。先代の巫女さんは割と自己主張の強いオリキャラなので気に入ってもらえるかな、というのが、個人的には少し心配だったりするのですが、どうだったでしょうか?
第二部はスペルカードルールが発案される前の、妖怪や神と命を賭けた戦いをしなければならない時期(いわゆる旧作時代)を書いています。Win版の雰囲気では描けない、戦いの中で友情を育み、死中に活を得て成長していく霊夢という素敵な展開です。わあ、まるで物語の主人公みたいだあ! と思いながら書いてました。
強くなったらなったで問題は出てきますし、少女になったら避けられない感情ともやがて直面することになるでしょう。でも、上巻の霊夢は悩みに立ち向かいながらどんどん強くなっていく最中です。こんな感じの霊夢も、まあたまには良いのではないかと思います。わたしも書いていて楽しかったです。
こう書くと語弊がありますが、若々しい霊夢の姿を楽しんでいただけたならば、わたしとしては一番嬉しく思うのでありました。
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Webなのでいくらでも書けるのですが、きりがないので上巻のあとがきはこの辺りで締めようと思います。本著参加者への謝辞は別所にて書きましたので、ここでは次回予告のみを。
下巻では上巻のエピローグの直後から始まり、幻想郷に命名決闘法が敷かれるきっかけとなる事件が描写されます。そこから紅魔郷以降の割と馴染み深い内容に入っていく予定です。発刊は今のところ、コミックマーケット88を考えております。諸処の事情でもしかしたら変更になるかもしれませんが、おそらく問題ないと思います。ない、と信じたい……。
上巻に引き続き、この長い長い物語につき合っていただけば幸いです。
それでは最後に、読んでくださった全ての方への感謝とともにあとがきを締めることにします。
下巻のあとがきで出会えることを祈って。
2015/01/05
仮面の男
東方Projectは上海アリス幻樂団様の制作物です。当作品は二次創作作品であり、上海アリス幻樂団様とは一切関係ありません。
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