上巻頒布前後において、次の夏コミ(コミックマーケット88)で下巻を頒布する予定ということを告知しましたが、元々下巻に予定していた話の分量が思った以上に長くなりまして、上巻、中巻、下巻という形で全三巻としてまとめるよう、話を再構成することになりました。
当初の予定ですと、紅魔郷以降の本編に相当するパートはダイジェストに近い形で終わらせる予定だったのですが、鈴奈庵や深秘録の内容を鑑みて、そこら辺もきちんと書かないと霊夢の移り変わり、のようなものを追うことは非常に難しいなと感じたからです。これでも各異変のパートは可能な限り圧縮ないし登場キャラを絞っておりますし、それでも語りきれなかった部分はかなりあります。あれもこれも書いてしまうと、更に分冊が進んで心が死んでしまうので、泣く泣く絞ったところもあります。
可能ならば中巻、下巻を同時に頒布したかったのですが、主に二つの理由より難しいと判断しました。一つはわたしの筆量、もう一つは……下巻が月面周りの話となるため、深秘録と紺珠伝の内容をできれば取り入れたいと思ったからです。新作が月周りの話だと知った時のわたしの顔は割と変な笑顔だったと思います。
下巻ですが、スムースに行けば冬コミ(コミックマーケット89)にて頒布できると思います。もう一冊増えてしまい、また完成が遅れてしまって申し訳ないのですが、最後まで付き合って頂けるとありがたいです。
2015/07/16 仮面の男
博麗神社の境内は今夜も大盛況だった。
満月には僅かに届かないが、遮るものが何もなければ人間でも灯りなしで歩けるほどには明るく、人と妖が混じって騒いでいるのがよく見える。もっともわたしならば月や星の助けがなくても、暗闇の中にあるものを見るのは容易いのだけど。
わたしはかつて夜を往く人間をよく見ていた。彼らはまるで病のように闇を恐れる。そこに何かいなくても、何かがいるように振る舞うことさえある。ときとして闇の中から本当に何かが生まれて牙を剥く。蝕まれ、喰らい尽くされる。血の香りだけでも酒の肴くらいにはなるが、わたしが本当に望むのは怪物に挑みかかるものたちだった。自らを殺してより強くなる彼ら、彼女らを人間はいつしか英雄と呼ぶようになった。
わたしは英雄が好きだ。いや、最初から好きだったわけではない。わたしは徐々に彼らが放つ光に惹きつけられていった。そしてとうとう人の領分に入り込み、試すようなことまで始めた。そのために彼らが大事にするものを奪うことさえした。わたしの目論見通り、それは人間をより英雄的な行動へと走らせた。誰もわたしには敵わなかったが、それでもわたしは彼らの行動を素晴らしいと思った。だがそれもわたしという恐怖が人間に広まりきるまでのことだ。誰もがわたしの言うことにすぐ従い、嬉々として宝や美女を差し出すようになった。
退屈になったわたしは都に向かうことにした。政の中心である都には日々強者が集い、切磋琢磨しているという噂を聞いたからだ。その頃のわたしのただ一人の朋友【ほうゆう】はがみがみと叱りつけて止めようとしたが、わたしの意志が変わらないと分かると一緒についていくと言い出した。あいつは昔からそうだ。わたしが間違っていると判断すれば何としてでも止めようとしたし、それでもわたしが考えを変えないと、その過ちを一緒に受け入れる覚悟でついてくる。なんとも困った奴だった。
そして……あいつの言うことは昔からいつも正しくて。
外れたことなんて一度もなかったのだ。
益体のない過去の記憶からわたしを呼び覚ましたのは、夜空を見上げる鋭い眼差しだった。すぐに何事もなく宴会に戻っていったが、あれは酒に酔いぼんやりとした視線ではない。明らかにわたしを見据えようとしていた。両腕にひらひらした袖を着けた、涼しそうな服の少女。あどけない顔立ちにそぐわぬ怜悧【れいり】とも言える眼差しは、わたしを歓喜させるものだった。
「あら、嬉しそうな顔をしてますわね」
横からの、突然の声に慌てて振り向くと、そこには見知った顔があった。
「なんだ、お前か」わたしは小さく息をつく。都でお山の大将ごっこをやっていた頃からの昔馴染みだった。その頃は八雲紫という仰々しい名を名乗っていた。「まだ生きていたんだね、今も八雲紫なのかい?」
色々と策謀を巡らすのが好きな奴だったから、どこかで逆に欺かれて野垂れ死にでもしそうだなと密かに思っていたのだが、どうやら今まで上手くやって来たらしい。しかも昔に比べ、かなり数が増えている。わたしほどではないけれど。
「わたしはそう簡単にいなくなったりはしませんし、いつだってわたしですわ」いかにも彼女らしい、ひねくれた言い回しだった。「それより貴女こそずっと姿を見せなかったのに、いきなりこんな所に現れて。差し迫った理由でもあるのかしら?」
「そういうわけではないんだ。気がついたらいつの間にかここにいた。わたしはとうの昔にいなくなっていたと思っていたのに」
「ここはないものが集まる場所なの。そのようにわたしが創ったのよ。でも貴女までやって来るとは思わなかった。貴女は萃める側だから。何かに流されるのではなく、流れの頂点にあり、あらゆるものに流れを見せるものだった。だからかつて、皆が貴女の元に集まって来た」
「だが、それは誤った流れだった。行き止まりに辿り着き、やがてみんな腐ってしまった」わたしはかつてそれを嫌というほど実感した。英雄の賤【いや】しさ、同朋の賤しさ、そして何よりも己の賤しさを。たがらこそあの山は滅び、わたしは首を斬られて晒しものにされたのだ。「今のわたしに流れを創ることはできないだろう。いや、わたしがいれば新たな流れができるかもしれないが」
「あら、鬼らしい尊大なことを」
「お前こそすっかりと尊大になったよ。いや、かつてのお前は単なる虎の威を借る狐だった。卑小で、語ることだけが大きな奴だった」人間に討伐された木っ端の妖たちが、素性もろくに分からない娘にとり憑いて一つとなったのが、八雲紫と名乗る妖の原型だ。紫と同じものは妖退治が隆盛を誇った頃、至るところに存在していた。塊【かい】と呼ばれ人にも妖にも蔑まれたそれらはほとんどが獣並の知性しか持たなかったが、紫は数少ない例外だった。核となった人間がよほど頭の良いやつだったのか、とり憑いた妖の中に切れ者がいたのかは知らないが。「それがいまや、言葉に見合うだけの力を手に入れた」
「力の具現たる鬼にお褒めを預かり、光栄の至り」
紫の顔には我執【がしゆう】がほとんど浮かんでいない。強者の余裕といえばそれまでだが、ことあるごとの主張を欠かさないほど自己愛の強かった彼女が、たとえ一千年余の月日を経ようとその性質が変化するなど、わたしにはとても思えなかった。もし本当に変わったならば、一体どのような出来事に遭遇したのか。わたしはそれを見定めるため、改めて彼女をじっと見る。存在こそ途方もないほど拡大されているが、その中には昔のように八雲紫の核が存在する。それでもわたしは訊ねずにはいられなかった。
「お前は一体、何者なんだ?」
「もちろん、八雲紫よ」躊躇いのない即答だった。「わたしのような塊にも期せずして機会が訪れたの。妖怪退治に功を成す時代が終わり、暫くすると塊は複数の怪異が織り混ざった、純粋な妖よりも恐れるべき怪として認識されるようになったみたい。都中の恐怖が糧となり、わたしは嬉々としてそれらを啜ったわ。お陰でこんなこともできるようになったの」
そう言って指でなぞる仕草をすると、何もない空間に冥い亀裂が、まるで生き物のように開かれていく。その両端は可愛らしい柄の布で結ばれ、完全にこの場に固定された。
「驚いたな。昔から視ることは得意だったけど」紫にはどんなに些細な境目でも視る眼があった。その力こそ気宇壮大なだけの塊である彼女を側に置いていた、二つの理由のうちの一つだった。彼女の眼は山の崩壊こそ防げなかったが、かつてその力のお陰で由々しき事態を何度も回避することができた。だがそれだけだ。ものの境目を自由にするのは、ただ視るだけとは難易度が月と地獄ほど違う。わたしにだってそんなことはできない。「その力があれば月との戦争にも勝てたろうな」
紫はかつてしきりに吹聴していた。月は万物の源であり、そこにある力を手に入れることで理想を手に入れることができるのだと。そんなもののために月を攻めるなど愚行の窮みであり、提案の度に退けてきたけれど、力が手に入ったなら試さないはずがなかった。そして、その首尾はどこか拗ねるような表情から察することができた。
「いえ、駄目だったわ。いかな強い力も、個としての限界を覆すことは能【あた】わなかった。山の精鋭たちが健在ならば話も変わっていたかもしれないけど、天狗や河童は東へ、鬼や蜘蛛は地獄へ、それぞれ存在の場を移して幾星霜。都に残された手勢をかき集めた程度ではどうしようもなかったの」
「ふむ、それほどになっても駄目か。月の叡智は塵ほども手中にはできなかったと」
「いえ、戦には負けたけどいくつかの技は得たわ。それはこの地を拓くために役立ったのよ。ここはわたしが理想を得るための場所なの」
「こんな結界を張って、日々手勢を囲い込んでいるのかい? 再び月へ攻めるために?」
わたしは宴会騒ぎをぐるりと見回す。あの巫女もそうだが、ここには強い力を持った者たちが集まっている。かつての部下だったものたちも粗方がこの地へ移住している。それもこれもこの地が再び戦争を始めるための準備の場所だとしたら筋が通るのだ。
それは破滅への進軍と同義である。ことと次第においては昔馴染みでも容赦しないと思ったが、紫は曖昧に微笑むだけだった。
「わたしが求めるのは永遠の楽園ですわ。結界も、月も、その一手段に過ぎない」
なんとも判じかねる答えだった。ただ、諦念めいた平板な物言いが、逆にそれへの強い渇望を示しているよう、わたしには思えた。
「ずっと昔から、お前はそのことだけを考えてきたのか?」紫はわたしの問いに、瞬きを二つするだけで何も言わなかった。常に雄弁であるからこそ、その沈黙にはきっと鬼のような正しさが秘められているのだろう。だが、それにしても紫ほど頭の良いものが目指すような代物ではない。むしろ愚者の行いに近いものがある。「だとしたら言わせてもらうが、永遠の楽園なんてものはないよ。どんなものも流れずにはいられないし、変わることは避けられない。お前は山が滅んだ原因を知っているはずだ。だからかつて、わたしに忠告を残して姿を消した。その過ちを繰り返しているならば、お前は力こそ得たが詰まらない奴になったよ」
力を得たからこそ安寧を求めるようになるというのは分からないでもない。でも、あの八雲紫がそうなったとは信じられなかった。それにここはわたしがいる余地のある世界だ。ここが永遠の楽園とは考えられなかったのだが。
「貴女がそう思うならば、そうなのでしょう」
紫は曖昧に言葉を濁すだけだ。つまりこれ以上は何も言えないということだ。あるいはわたし自身で考えろということか。どちらにしてもどう答えて良いのか分からず、じっと押し黙っていると、今度は紫から声をかけてきた。
「ところで貴女はまだ、英雄を求めているのかしら?」
わたしは少し考えたのち「分からない」と素直に答える。紫ならもう少し回りくどく複雑な言い方でもすぐ理解したと思うが、わたしは考えるのが苦手だから、すぐに面倒臭くなるのだ。
「でも、そうなのかもしれないね」
わたしはそっと、先程の少女に目を向ける。
「相変わらず、お目が高いのね」紫はわたしの視線を追ったのか、そんなことを言いながらくすくすと笑う。「確かにあの子なら貴女の英雄になるかもしれないわ」
「そうか、お前がそう言うならそうなんだろう」わたしは紫の言葉をあっさりと受け入れる。彼女は己のために平気で嘘をついたが、わたしにだけは偽ることをしなかった。処世術だと気付いてはいたが、それでも明け透けに黒い腹の内を語る紫のことが、わたしは何故か嫌いになれなかった。彼女を側に置いていた理由の二つ目がそれだ。「ならばわたしは鬼としてそれを迎え打つのみだ。この郷には面白い遊戯があると知っているぞ。スペルカードだっけ? あれなら思う存分に楽しめそうだ」
口元が思わず緩む。わたしは結局どこまで行っても鬼という業から逃れることはできないらしい。
「では、わたしは高みの見物と洒落込みますわ。さて、この郷は鬼を迎え入れることができるのか。これはちょっとした試練……いや試金石かしらね」
わたしは金のように柔らかくはない。金剛石すら、この拳の一撃には敵わないのだから。試すなんて生温さで打ち倒されてやるつもりはない。遊戯とはいえ……否、遊戯だからこそ本気が一番面白い。
「では、今日はこれで失礼しますわ。楽しい宴となることを期待していますね」
紫は隙間に半ば体を押し込み、それから最後にちらとだけ宴会の方を見て、音もなく姿を消した。その視線を追うと、わたしを見つけようとした紅白の少女がいた。
わたしは小さく首を横に振る。まさかあの紫がただの人間に対して焦がれるような視線を送るなんて、あり得ないだろうと思ったからだ。でも、もしそうだしたら。彼女を手中に収めれば紫もまた、英雄的な行動に出るかもしれない。あの紫が英雄になるなんて、考えただけでも可笑しくて堪らなかった。
「嗚呼、こんなに楽しい気分は本当に久しぶりだ!」
高鳴る心に呼応するよう、宴会もいよいよ盛り上がり、皆が酒を飲み比べ、炎はますます赤くなる。わたしも咄嗟に腰の瓢箪【ひようたん】をつかみ、中に入っている酒をぐっとあおいだ。
朝の目覚めはいつも気だるいが、今日はそれに微かな痛みが伴っていた。こめかみをぐりぐりと指で刺激することしばし、少し気分が落ち着いてきたのでゆっくりと立ち上がる。どうにも足元が覚束ないし、胃に重いものが残っている。瞼が少し腫れているのが鏡で見なくても分かった。
柄にもなくレミリアと飲み比べをしたのが宜しくなかったのかもしれない。童女の姿をしているとはいえ、彼女はれっきとした妖怪だ。普通ならこんなこと考えないのに、昨夜はつい相手の挑発に乗ってしまった。勝ったからまあ、良しとするけど、これで負けてたら呑まれ損だった。
負けたというか、咲夜の的確な制止がかかったというか。レミリアはふにゃふにゃになりながら、明日だったら負けなかったのにと、往生際の悪いことを何度も口にしていた。その前に勝負を止めた咲夜をクビにしていたが、二人とも帰ったところを見ると元の鞘に収まったのだろう。宴会の終わり頃の記憶が曖昧で一部、靄がかかったようになっている。これもわたしにとっては極めて稀なことだった。もしかしたら周りに妙なことを零していたら嫌だなと思いながら、靄をなんとか払おうとこめかみをもう一度押さえる。
真っ先に浮かんできたのは、酒に酔った魔理沙とべろんべろんになったアリスが口論の果てに決闘を始めた場面だった。酒の席が昂じて勝負に発展するのは神社で行われる酒宴では割とありがちなことで、残った者は料理や酒に僅かだけ気を使い、下からやいのやいのと声をかけるなりする。わたしは割と口汚くアリスを応援していたような気がする。これもまた普段ならばあまり考えられないことだ。
勝負はスペルを一つずつ披露して三分という短期間で終わった。勝負が本格化する前にアリスの酔いが回りきってしまったからだ。それから魔理沙は胃の中のものを戻すアリスの背中をずっとさすっていたはずだ。そんな二人を他所に、パチュリーはまるで機械のように酒を飲み続けていた。何気にあの中で一番、酒を飲んでいた気がする。魔理沙とアリスの二人を連れ帰ったのも確かパチュリーだったはずだ。かつては出不精の権化だったというのに、随分と面倒見が良くなったものだ。彼女はそのことをわたしに告げ、それから何か付け加えた気がする。だが、いくら頭を押さえても何も思い出せなかった。
騒ぎといえば、勝負が中途半端に終わったから余興をということで、幽々子が妖夢に刀を使った芸を色々演じさせていた。妖夢は主の杯を律儀に受けてかなり酔っぱらい、危なげに見えたのだが剣の腕はぶれることがなかった。春を盗む異変のときより冴えていたと感じたほどだ。余興が宴会の場を再び盛り上がらせ、そこからわたしとレミリアの飲み比べが始まり……。
まだ散らかっているのかなと思いながら外を見ると、きちんと丸められたござが地面の上に置いてある。食器や酒瓶はどこにも見当たらない。既に片付けたのかと思いながら台所に向かうと、綺麗に洗っていつも通りの場所に戻してあった。わたし以外の人間が片付けたならば食器を納める場所や皿の重ね方が微妙に異なるため、気になって直したくなるはずだ。それがないということは、宴の始末をしたのはわたしだということになる。もう一度こめかみを押さえてみたが、何も思い出せなかった。
「まあ、良いか。問題は何もないのだし」
昨夜のわたしがきちんとしていたのだと結論づけ、わたしはいつも通り朝のお勤めを始めることにした。
実は全く良くないことが分かったのは朝食を作ろうとした時だった。米から野菜から調味料から、何もかもがまるで足りていない。しかも一人のときこっそり飲もうと思っていた、とっておきのお酒がほとんどなくなっている。昨夜の宴会で興に乗って何本か放出したが、それでも十分な数があったはずである。気付かず飲んでしまったのかもしれないと記憶を遡り、わたしは奇妙な事実に気付いた。一昨日もその前の日も、夏の気配が遠ざかってからこちら、宴会を開いていない日がない。そしてここでいま、じっと考えるまでそれがおかしいことであると全く気づいていなかった。なんとなく皆が集まり、宴を開き、去っていくのが当然のことだと受け入れていた。これは明らかに異常事態だ。異変とまではいかないかもしれないが、わたしだけではなく、力のある妖怪を複数巻き込み、まとめて認識を歪めている。並大抵の奴にできることではない。
どうやってを少し考えてみたが、まるで見当がつかない。だから次にどうしてを考えてみた。
楽しい宴会を楽しみたい。実に単純で分かりやすい理由だ。他に隠された意図があるかもしれないが、まずはこの線で追ってみることにしよう。そうなると犯人はあの宴会に参加していた誰かであるという可能性が高い。それは認識を歪めるのが高等技術であることとも合致している。少なくとも昨夜、宴会に参加したものたちは皆、強い力と特別な能力を持っている。
最後に誰がを考えてみた。宴会を楽しみそうなやつ。わたしの頭の中に浮かんだのはレミリアと魔理沙の二人だ。幽々子もそういうのを楽しみそうだが本来、積極的に画策するタイプではない。怪しいのは断然レミリアだが、まずは魔理沙から攻めることにした。どのような理由であれ、レミリアの所に乗り込めば門番と従者がその道を阻むことはほぼ間違いない。魔理沙にはそのような相手はいないし、異常の首謀者ならば御の字、不正解ならば焚き付けて紅魔館を攻める戦力に加えれば良い。当面の目標を立てたところでまずは食事を作ることにした。少しくらいは食べ物を口にしなければ力が出ない。お粥と、あとは塩味のため漬物を少々。考えるだけで胃がじくじくしてきたけれど、酒と妖の力に負けた自業自得と思うことにした。
朝食を済ませ、気合を入れ直して酒を完全に抜くと、早速魔理沙の家に向かい、準備中の札がかかっているのもお構いなしにドアをノックする。適度な間を置いて規則的に呼びかけ続けると、六度目と同時でドアが開いた。寝起きで慌てて出てきたのか寝間着のままで、髪も寝癖で跳ね返りまくっている。息も切れ切れで、よほど急いでやって来たのがはっきりと分かる。それでいて何処となく余所余所しく、何かを気にするように視線が忙しない。これはもしかするといきなり当たりを引いたのかもしれなかった。
「というわけで、何か申し開きはあるかしら」
「……すまん、言ってることがよく分からない」
「しらばっくれても無駄よ。わたしには全てお見通しなんだから」本当は何も知らないのだが、相手の反応を見るために軽くかまをかけてみる。すると、魔理沙は目に分かるくらい顔を真っ赤にした。これはいよいよ怪しい。「もう一度言うわ。わたしは魔理沙が何をしたのか全て知っているのよ。さあ、観念して白状なさい」
「いや、わたしは知らない。何かが起きたとしてもそれはいわゆる事故ってやつだ!」
「事故であんなことになるわけないでしょ。さあ、今なら罪も軽いわよ」
「つ、罪ってお前、そこまで言うかよ!」わたしは動転して声の大きくなる魔理沙にはっきり頷く。「というかどうやって知ったんだよ。まさか紫の能力をあれこれ借りて中を覗いたとかしたんじゃないだろうな。それとも博麗の技にそんなものが……」
なんだか微妙に話が噛み合っていない気がする。そのずれを直す必要がありそうだが、どうやれば良いのかが分からない。ここはひとまずずれたままで、それでも話を進めるしかないだろう。
「別に中を覗かなくても分かるわよ。簡単な推理ですぐに察することができたわ」
「えっ、なんだそれ、訳が分からない……いやさ、確かにまあなんというか、見違えたなとは思ったけど、そういう目で見たことは一度もないんだが」
「でもきっと、貴女がやったに違いないわ」
「やってない! わたしは無実だ。あいつとあんなこと、いくら無意識のうちだからってするはずがない!」
魔理沙の話には依然として噛み合わない部分があるけれど、何かをやったという自覚はあるらしい。
「無意識なら仕方ないわ。まあ、毎日のように騒ぎたいという気持ちは分かるけど、やるなら神社でない所にして欲しいわね」
「じ、神社? ちょっと待て、わたしはそんな所でもやったのか? どういうことだよ、おい。いくら酔っていたと言っても、わたしはそこまで破廉恥じゃないだろ? 頼む、嘘だと言ってくれ?」
魔理沙はわたしの肩を掴み、懇願するように軽く揺さぶってくる。少しだけ可哀想だなと思ったが、わたしは首を横に振ることしかできなかった。
「な、なんてことだ。わたしはもう恥ずかし過ぎて生きていられない! 霊夢、教えてくれ。わたしはどうすればいい!」
魔理沙がここまで己の過ちを悔いるのは少し怪しい気はしたが、わたしをじっと見つめるその瞳には強い切実さのようなものが感じられた。これならば信じて良いのかもしれない。だから、わたしで良ければ協力すると口にするつもりだった。
そのとき、魔理沙がいきなりわたしの体を押してくる。よもや逃亡するつもりではとすぐに体を起こしたところで、わたしの視界に下着姿のアリスが映った。カチューシャをしてないせいか前髪が目にかかっており、その隙間からは腫れぼったくて真っ赤な目が見える。口元は怒りに歪んでおり、肩に乗った二体の人形は槍を構え、表情はないというのに心なしか攻撃的に見える。
「うるさい」アリスはわたしにそう告げると、手で頭を押さえる。どうやら昨夜の酒がまだ残っており、酷い二日酔いに悩まされているようだ。「おねがいだから、だまって」
いつものアリスとは思えないほど低く、余裕のない声だった。あまり刺激するのは良くなさそうだ。わたしはアリスの頭を刺激しないよう無言で頷き、魔理沙をそっと引き剥がす。あとはこのまま静かにしていれば不機嫌も収まるはずだったのに、魔理沙は体を起こすとアリスに不安そうな顔を向け、先程までの興奮した様子でまた話し始めた。
「いや、だって霊夢がさ。わたしとアリスが神社で、その、あれなことしたって。でもわたしはそんなことしてないし、アリスだって分かって……」
全てを言い切る前にアリスは肩の人形を無言でけしかける。魔理沙は慌てて後ろに退き事なきを得たが、攻撃をかわしたことでアリスを完全に怒らせてしまったらしい。両手を横に目一杯伸ばすと左右に三体ずつ剣装人形を召喚する。
「あたまいたいの。うるさくするならだまっちゃえ」
計六体の人形が一斉に浮かび上がり、剣の先から鏃形の弾を大量に撃ってくる。わたしは横飛びで弾をかわしながら、弾源となる人形に霊札を撃ち、黙らせる。続いてアリスに大技を叩き込もうと符を構えたのだが、さっきまでの場所には人形が落ちているだけで姿が見当たらない。真横から嫌な気配を感じて咄嗟に振り向くと、アリスは大きく足を振りかぶって胴を薙ぎに来た。防御する間もなくまともに喰らい、地面に叩きつけられるのだけは滑空しながら何とか防ぐ。蹴られたところは痛いけれど、異変用に身体強化を積んでいたから軽い打ち身で済んだ。そうでなければ骨の二、三本は持っていかれたかもしれない。それにしてもアリスと来たら、あの姿になってから余裕のある態度を取るようになっていたが、少しでも負荷がかかるとたちまち化けの皮が剥がれるらしい。わたしは口元に指を当て、これ以上は五月蝿くしないことを示したが、アリスは据わった目でこちらに敵意を向けている。その視線を受けながら魔理沙の姿を横目で追うと、いつもらしくない動転を浮かべており、攻撃も防御もせずにあたふたとしているだけだ。こちらに攻撃を引き付けなかったら、すぐにやられていたかもしれない。
「すまない、悪気はなかったんだ!」しかも魔理沙と来たら、アリスが機嫌を悪くしている理由に気付いていない。だが今の距離で魔理沙にそのことを口頭で伝えようものなら、アリスがいよいよ機嫌を崩しかねない。微妙に進退窮まる状況だった。「その、なんというか責任? みたいなものは取るからさ。頼むから機嫌を……」
「だまれ、うるさい、ねてろ、もしくはしね」
アリスは魔理沙に狙いを変え、先程までとは別の人形を一体召喚する。赤色のオーラを放つ、いかにも剣呑な雰囲気のこもった作品だった。
「りたーん、いなにめと……」そこまで口にしたところでアリスは急に膝をつく。人形が虚空に消えると同時、その容姿にそぐわぬ声をあげながら地面に嘔吐する。どうやら二日酔いで動き過ぎたせいか、吐き気が一気に襲ってきたらしい。「うう、ぎぼぢわるび……」
それでようやく魔理沙にも、アリスがお冠な理由が分かったらしく、慌てて駆け寄るとゆっくり背中を擦る。
「ほら、慌てなくて良いから」先程までと違い、魔理沙は囁くような、酒飲みの頭に響かない声を出す。「気持ち悪いなら全部出してしまえ」
アリスは四つん這いの姿で微かに頷く。こんなこと言ったら怒られそうだから思うだけにしたけれど、飼い主の言うことに素直に従う犬のようだった。アリスは促される前に胃の中のものをひとしきり吐くとふらふら立ち上がる。魔理沙が肩を貸すとアリスは力なく笑い、もたれかかりながらゆっくりと家に戻っていった。わたしはアリスの粗相したものから少しだけ距離を取り、魔理沙が戻ってくるのを待った。
再び姿を見せた魔理沙はすっかりと落ち着いており、多少のかまかけには動じそうにない様子だった。
「待たせたな。といってもお前のほうから勝手に押しかけて、変なことを言ってきただけだが」
「別に変なことは言ってないわよ。あんたが無意識のうちにやらかしたんでしょう?」
「いや、わたしは何もやってない。潔白であり、無実であり、清らかでもある。決して酒に酔った知人と桃色な行為には及んでいない」
雲行きが悪くなるのを通り越して一気に大雨となってきた。それでも一縷の望みをかけ、わたしは魔理沙に率直な疑惑をぶつけた。
「宴会が毎日開かれるように目論んだりはしていないってことね?」
「なんだそれ。毎日宴会を開くなんてそんな酔狂なこと、誰が……」そこで魔理沙は大きく首を傾げる。おそらくわたしと同様の思考を辿り、現状のおかしさに気付いたのだろう。「やってるな。わたしも、霊夢も。それだけじゃない、レミリアに咲夜にパチュリー、幽々子に妖夢にアリス。どういうことなんだ、これは?」
「だから毎日のように宴会を開きたい奴がいると思ったのよ、参加者の中にね。だからまずあんたの所に行ったのよ。お祭り騒ぎとか好きそうだし」
「そりゃまあ嫌いではないが、毎日では流石にうんざりもするよ。いや、さっきまでは気付かなかったけど」
「わたしは食事や酒を提供する側だったけど、それでも今朝まで気付かなかったわ。余程の使い手がわたしたちを幻惑しているの」
「ふむ、それで一番怪しいと見てわたしの所に来たのか。何だか買い被られているようで恥ずかしいな」
「魔理沙か、そうでなければレミリアが怪しいと思ったの。それなら御しやすいほうからにしようかなって」
種を明かすと魔理沙は途端にしょんぼりしたが、すぐに顔をあげる。何かに気付いたらしく、額を指で何度もとんとんと叩く。
「そうだ、思い出した。パチュリーが酒の席で珍しく、変だと感じることがあれば巫女に伝えなさいって言ったんだ。その時は何のことかと思ったが」
そう言えば、わたしもパチュリーに声をかけられた記憶がある。何を言われたかまでは覚えていないが、おそらくは同じことだという気がした。おそらくあの魔女は独自の嗅覚をもって、何らかの異常が発生していることにいち早く気付いたに違いない。
「では早速行ってみるわ」
「わたしも行く。アリスを置いていくのは少し不安だが、二日酔いだから安静にしていれば昼頃には治るだろう。五分待ってくれ」
期待できる戦力だからいくらでも待つつもりだったのだが、魔理沙は本当に三百数えると同時、服と装備を整えてやって来た。空を飛ぶとき以外も忙しないやつだなと思う。そして背中に大袈裟な胚嚢を背負っているところを見ると、用事のついでに本を拝借するつもりらしい。なんともちゃっかりした性格になってしまったものだ。
「では出かけるとしよう。さて、鬼が出るか蛇が出るか」
紅魔館なのだから出るのは鬼だけだが、妙な蛇を飼っていてもおかしくない。そんなことを口にして、実際に鬼よりも変なものに出くわしてしまったらどうするんだと思ったが、巫女の癖に怖がっているのかとからかわれそうだったし。
どうしてそんなことを考えてしまったのか、自分でもよく分からなかったから、何も口にしなかった。
紅魔館の門番である美鈴は、門の前で奇妙な運動をしていた。何をしているのかと訊けば、国民健康体操だという。
「外の世界から流れてきた本に書いてあったんです。この国民ってのが何を指すかは知りませんけど、全身満遍なく動かせて体への負担もあまりない。いつも運動不足のパチュリー様にも試して頂けるのではないかと思い、実演のために練習をしているのです」
そう言って美鈴はわたしと魔理沙に体操を披露してみせる。確かに健康と名付けられただけあって、体をほぐすのに丁度良さそうだなと思った。
「でも、なんだっていきなり。パチュリーを運動させるのは美鈴だって諦めてたはずだったが」
「実は最近、毎日のようにお出かけになられるのです。これは再三の説得が遂に実ったのかなと」
美鈴は魔理沙をちらちらと見る。どうやら魔理沙の家に行っているのだと誤解しているらしい。
「まあ、そんな感じだな。で、今日はそのときの忘れ物を持ってきたというわけだ」
「なるほど、だから今日は素通しで良いと言っていたのですね」美鈴は魔理沙にある種の律儀さを感じたらしい。実際はパチュリーがこの展開を予測していただけなのだが。「できればもっと明るいうちから外に出るよう、言ってやってください」
「考えとく」明らかに気のない返事だが美鈴は気にする様子もなく、体操の続きに取りかかった。わたしと魔理沙はそれを尻目に門を飛び越え、紅魔館の地下図書館へと向かう。幸いにして今日は従者や小うるさいメイド妖精に見つかることもなく、人工的な魔法の光の瞬く地下への階段を進み、入口まで辿り着くことができた。「以前より明るくなったな。そういやまた目が悪くなったって言ってたっけ」
彼女ほど極まった魔法使いが目を悪くするとも思えないのだが、貧血や喘息で悩まされているのだから寿命を克服しても変質からは逃れられないのかもしれない。魔法に明るくないわたしにはそこの所の事情がよく分からないのだけど、心配するような魔理沙の表情を見ると、あまり楽観できる状況でもないようだ。
ドアを開けると、視界を埋め尽くすのは本が一杯に詰まった書庫ばかりである。以前に訪れた時よりもなお拡大している様子だった。
「お待ちしておりました」声とともに、パチュリーに仕えている使い魔が目の前に現れる。短距離の空間跳躍と抜群の記憶力、主人の偏屈に耐え得る気さくさと、何よりも本への淫し方はある意味主人をも凌ぐことさえある。正に図書館司書を務めるために生まれてきたような使い魔だ。「パチュリー様から霊夢さんが来たら案内するよう仰せつかっています。魔理沙さんは即時排除と命令されてますが」
美鈴に伝わっている命令と異なるが、紅魔館はレミリアとパチュリーの命令系統が独立しているためしばしばこのようなことが起きる。魔理沙も不満げではあるがその辺りの機微は分かっているらしく、もちろん使い魔はわたしたちよりもよく理解していた。
「面倒ですし、下手に暴れて酒に潰れたレミリア様を刺激するようなことがあったら大変ですからね」
アリスと同様、レミリアも酒にやられてろくに身動きが出来ないでいるらしい。咲夜はそんな主人のことを大変だなと零しながら、微笑みとともにいなしているのだろう。目に浮かぶようだった。
「だから貴方たちを、わたしはうっかり見逃してしまったことにします。ゆえに場所は教えられませんが、数打って当ててください」
それだけ言い残すと使い魔は再び短距離の空間跳躍を使って去っていく。咲夜といいあの使い魔といいこの屋敷はどうも主人を雑に扱うことが多い。
「厚い配慮、痛み入るわ」わたしは本に目移りしている魔理沙の肩を叩く。「パチュリーが良くいる場所を片っ端に探すわ。ここではあんたが先輩なんだから先導しなさい」
「お、おう、了解だ」魔理沙は箒にまたがり、空を飛ぶ。「パチュリーだって探してるのが分かっているんだから、見つけやすい場所にいると思う」
同感とばかりに頷くと、わたしは広大な図書館の探索に乗り出したのだった。
パチュリーは最初に向かった場所であっさりと見つかった。背もたれの広い椅子に窮屈そうな姿勢で座り、書物の内容を頭に叩き込もうとしているのか、とても気難しそうな顔をしている。声をかけるのが若干躊躇われる雰囲気だったが、魔理沙は気さくに「よお」と声をかける。なんでお前がいるのというきつい視線ののち、わたしになんでこいつを連れてきたのという目を向ける。そして、まあ良いわと言いたげに本を閉じる。無駄なことを喋らない代わりに所作で感情を表現するのは魔法使いゆえなのか、それとも元々なのか。どちらにしても割と独特だなと思う。レミリアにも似たようなところがあるから、もしかしたらお国柄みたいなものなのかもしれない。
「お邪魔虫が一匹いるけどまあ良いわ。ここに神妙な面をして現れたということはようやく気付いたのね。毎夜ごと何者かに引き寄せられてることに」
「引き寄せられている、だと?」
「そう。しかも体や心と関係ない無意識下に働きかけている。意識の下の下というものを意識していない者たちにとってはゆえに抗い難いし、異常が起きたと気付くこともない。わたしですら数日は気づかなかったくらい、深く密【ひそ】やかで、かつ強い力よ。こんなに強引な影響力は初めてだわ。レミィだってここまで酷くはないもの」
暗にレミリアを非難しているようだったが、あの暴君ぶりなら付き合いの長いパチュリーはさぞかし苦労させられて来たのだろう。少しばかりの愚痴はだから、聞かなかった振りをした。
「力の出所を、酒を飲んで騒ぐ振りをして追っていたの。そうしたら昨夜ようやく、貴女の神社の屋根から、妙な気配が微かに感じられたわ。何らかのきっかけで気が緩んだのか、それとも故意に誘ったのか。おそらく後者だと思うのだけど」
わたしはその話をぼんやりと聞くことしかできなかった。不意にあることを思い出したのだ。昨夜、神社の屋根に奇妙な気配を感じたことを。だがそれは見知った気配に変わり、そっと唇に人差し指を当てた。わたしは、少し苦笑してから何もなかったように席に戻った。そして空の上で一人、杯を傾けている彼女に思いを馳せたのだ。
「……もちろん、妖力でもない。未知の力がこの郷に、しかも東の要たる博麗神社に居座っている。これは由々しき事態であり、早々にその正体を暴き、なおかつ除く必要があるの」
妖力、未知の力、博麗神社の屋根、除かなければならない。パチュリーのぼそぼそとした声から、わたしはそのようなことを断片的に聞き取ることができた。
「ちょっと、ちゃんと聞いてる?」
わたしはパチュリーの責めるような問いかけに大きく頷く。途中少しだけ聞き取れなかったことはあるけれど、それだけ分かれば十分だった。結局のところ、あいつが何もかもの原因だったのだ。わたしたちが毎夜どんちゃん騒ぎするのを神様みたいな気持ちで楽しんでいたに違いない。腹の奥底が痛みと共に熱くなり、怒りが満ちる。
「ええ、何をすれば良いかはっきり分かったわ。では、わたしはこれで」
後ろから魔理沙とパチュリーの制止する声が聞こえてくるけれど、そんなの構いやしなかった。わたしは全速で図書館を出て階段を昇り、玄関から外に出る。その先にあったのは青空と緑溢れる光景ではなく、陰鬱な光を放つシャンデリアの輝く、窓一つないダンスホールだった。そして目の前には嬉しそうな顔をする子供のような吸血鬼がいる。蝙蝠のような翼をぱたぱたさせているところを見ると、それなりに上機嫌のようだ。きっと悪戯が成功し、してやったりと考えているのだろう。
「悪いけど今はあんたの相手をしている暇はないの。通してくれないなら壁を壊して出るまでよ」
「それを決めるのはお前ではない。この屋敷の主はわたしなのだから」
客人を外に出さないなんて不躾の極みだと思うのだが、そんなこと気にする様子もない。いつもなら少しだけ付き合ってやっても良いけれど、今は一刻も早く神社に戻らなければならない。無言で霊札を構えると、レミリアは翼をピンと立てた。
「そういう喧嘩っ早いところ、嫌いじゃないよ!」
レミリアの手の中にはいつの間にか数本の短剣が握られていた。血液から生み出されたためか、どれもが鋭い妖力を放っている。そして動作のない投擲で短剣を放つと同時、猛烈な速度でこちらへ向かって来た。わたしは短剣に誘導型の札を、レミリアには針状に固めた札を放つ。
短剣は札に接触して蒸発したが、レミリアは針を食らいながらなおも直進してくる。少なからぬ痛みを感じているはずなのに笑みさえ浮かべており、あっという間に懐まで入り込んできた。咄嗟に針を収めて結界を張り、鋭い爪の一撃を辛うじて受け止めたが、吹き飛ばされることは避けられなかった。わたしは咄嗟に浮いて攻撃の勢いとともに背後へ素早く移動し、レミリアへ向けて針を撃つ。何故か微動だにしないことを疑問に思うと同時、針が命中して派手に爆ぜ、赤い霧を撒き散らした。いつの間にデコイとすり替わったのかと思いながら辺りを探すと、天井近くで一気に妖気が膨らみ、わたしは咄嗟に頭上を確認する。レミリアの手には赤く輝く槍が握られていた。
それをわたしに放つのと、霊符を破って結界を貼ったのはほぼ同じタイミングだった。わたしのほうが一瞬だけ遅かった。だから相殺しきれぬ力の余波を、微かに受けてしまった。思わず膝をつき、この場にいては二波目を食らうと判断して、横に飛び退きながら次の攻撃を窺う。だが、レミリアは何も仕掛けてこなかった。妖力を解除すると蒼白な顔で胸をしきりにさすりながら、ふらふらと下りて来たのだ。わたしはその症状にはっきりと心当たりがあった。
「あんた、二日酔いが治ってないのに喧嘩吹っかけてきたの?」
「負け続けの負けっ放しは悔しいからね。少しは意趣返ししないと。どうやら上手く行ったみたいだ」
気分が悪いくせに無邪気にはしゃいでいるレミリアを見ていると、さっきまで胸の中にあった毒気がみるみる消えていく。思わず笑みさえ漏らしてしまった。
「まあ、少し本気を出せばこんなものだ……と言いたいが、本来のお前なら多分引っかからなかっただろうな。わたしと戦おうというのに、まるでわたしを見ていなかった。他のものを見ていた。だから、あっさりと騙される。負けてしまう」
説教のようなことを口にされ、わたしは何も返すことができなかった。途中からそんな余裕はなかったけど、わたしはレミリアと対峙しながら紫への怒りに囚われていた。そのつもりはなかったが、彼女を侮ってしまっていた。勝てる筈がないのは当然だ。
「何に急いて、何に怒っていたかは知らないが、お前は何にも動じず、何にも変えられないというのが取り柄のはずだ。だからこそ満月の夜のわたしほど不変の存在を一度は退けて……」
そこまで喋ったところで、レミリアはいきなり口元を押さえる。そのタイミングを見計らったかのように、洗面器を手に持った咲夜が現れた。大丈夫ですからねと励ましながら背中をさするその姿は、きっと激怒するから言わないけど、まるで母娘のようだった。それにしても、血と酸っぱい臭いが混ざっているのは分かるとして何故、酒の臭いが少しするのだろうか。
「ほら、迎え酒は体によろしくないと言いましたよね」咲夜がわたしの疑問に答えるよう、優しく声をかける。「ささ、興も落ち着いたことですし、ベッドに入りましょう。その前に口をお濯ぎください」
咲夜は水の入ったグラスを空中から取り出し、レミリアに渡す。割と律儀にうがいをすると、支えられているのが恥ずかしいのか、それともわたしに見られているのが恥ずかしいのか、咲夜の手を払ってから改めてわたしの方を向いた。
「その力を神社で無邪気にはしゃいでいた奴に見せつけてやれ。本当はわたしがやるつもりだったんだ。今日は満月だから、あの時のような最高の戦いができるはずなんだが……」
その言葉を遮るように、金属同士を打ち付ける音がする。咲夜がこれまたどこから取り出したのか、フライパンをお玉で叩いて音を立てたのだが、レミリアはそれだけで頭を押さえ蹲ってしまった。
「お嬢様、お部屋に戻りますよ」咲夜は調理道具を瞬時に消し去ると、わたしに微笑みかける。館を管理する従者の余所余所しく完璧な笑みだった。阿求の屋敷にも似たような従者はいたけど、彼女は役割に徹すると驚くほど非人間的になれるらしい。伊達にこの館で人間ながらに勤めているわけではないということだろう。「空間は元に戻しておきました。お連れの方が玄関でお待ちですよ」
わたしは力なく頷き、二人の後について外に出る。だが廊下にはどちらの姿もなく、出口案内と書かれた旗を持った妖精が一人いるだけだ。ぴょこぴょこ跳ねながら進むそれを追いながら、わたしはレミリアの言い残したことを反芻していた。屋根で無邪気にはしゃいでいた奴とはやはり紫のことなのだろう。彼女のことを考えると悔しいけれど、軽く汗を流したせいか良い意味で臍【へそ】に力が入っており、あいつを捕まえるにはどうするか少しだけ冷静に考えられるようになった。
いくつか謀を巡らしているるうちに玄関まで辿り着き、恐る恐るドアを開けると今度は正しい光景がわたしを迎えてくれた。ついでに居心地悪そうな様子で立ち尽くす魔理沙も。服がところどころ破れているのを見ると、誰か……おそらく咲夜と一勝負したのだろう。レミリアがわたしと勝負したいならば、邪魔をしないよう足止めする役割が必要だ。
「随分と楽しんだようね」
「お互いな。全く、この館は主人から従者まで物騒なのしかいない。困ったもんだ」
したり顔で頷く様子からみて、魔理沙はまるで気付いていない。その頬に血と異なる薄い赤が、唇の形で広がっていることを。自分で気がつくまで放っておこうと思ったが、それは流石に可哀想だと思い、赤い箇所を指で差す。
「ん、血でも付いてるのか?」魔理沙は手に収まるくらいの小さな手鏡で顔を映し、一瞬固まったのち慌てて手でこすった。
「だから言ったでしょ、随分と楽しんだようだって」
「馬鹿、誤解するな! あいつはこの手の悪戯が好きでしょっちゅうからかって来るんだ」
咲夜は館の中だと礼儀正しく素っ気ない。主の命令を遂行しているならば尚更だ。それを圧して気を引いて来るのだからなかなかのものだ。同類と同種のどちらを選ぶのかとからかってみたかったが、今はやめておいた。藪を突いて蛇を出している場合ではない。
「まあ、それはどうでも良いとして」
「良いのかよ!」
魔理沙の反射的な返答を無視し、話を続ける。
「犯人をとっちめるのに、魔理沙も協力して欲しいの」
神社まで戻り、呼び出して問答無用のつもりだったが、ずる賢いあいつのことだからそれくらいでは出てこないだろうと考え直したのだ。わたしは魔理沙の耳にそっと、その案を囁く。
「うーん、そんな単純な手で大丈夫か? 気づかない間に人や妖怪を集めるような奴なら、今夜も同じことになりそうだが」
「いえ、一度認識してしまえば大丈夫のはずよ。パチュリーはずっと監視してたって言ってたじゃない」
「そもそもそこが怪しい。認識していてもなお、集まるべくして集まるような、強制力の高い能力なのだとわたしは思っている」
「反対だって言うなら協力してくれなくて良いわよ。わたし一人でやるから」
「まあ待て、何も協力しないとは言ってない。まずは霊夢の提案を試し、駄目ならば別のやり方を考えれば良い。赤い霧の件や春泥棒の件と違い、解決を焦る必要もない。あと数日くらいなら、酒や美味いものが食えるのも悪くはないしな」
こいつが犯人なら良かったのになあと改めて思いながら、呆れたことを示すため大きく息を吐く。魔理沙はそんなわたしの態度に悪びれる様子すら見せなかった。
「とはいえ飽食には代償もつきものだ。体調は悪くなるし、お腹周りも緩くなる。腹が一杯だと感覚も鈍くなるしな。そうそう長くは付き合ってられん」
反射的に腹の肉を摘み、予想外の柔らかさにぎょっとする。そして以前、紫がわたしにもう少し肥えたほうが良いと耳打ちしたことを思い出し、歯を噛み締める。
「絶対に今夜倒すわ」
わたしは決意を新たにし、紫を懲らしめるための準備をするため神社に戻るのだった。
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中巻なので初めましてはないと思うのですが一応。
初めましての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶりです。
このたびは『浮世の巫女』中巻をお手に取っていただきありがとうございます。
以下は本編の内容をふんだんに含んだものになりますので、もし読了していない方がいましたら回れ右をお願いします。
問題ないという方だけ、↓を辿ってあとがきまで下りてきてください。
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お待たせしました、ゆかれいむのターンです!!
以前からずっとゆかれいむと言い続けてきたのですが、ようやく二人の関係を書けるところまで辿り着くことができました。それにしても原作に一応準拠した流れだから仕方なくはあるんですが、メインキャラだというのに話の尺にして折り返し地点でようやく、名前を伴っての登場というのは何とも気の長い話ではあります。こんなこと二次創作じゃないと絶対許されないよな……一応、裏でもぞもぞと暗躍はしていたのですが、表に出てきてもその傾向はあまり変わらなかった気がします。もっと積極的に霊夢を誘って、色々と甘いことをして欲しかったのですが、上手くいかないものです。
おまけに中巻の段階では微妙なしこりも残っていますが……その辺がどう解決するかは今後頒布予定の下巻をお楽しみということで。話の中身もWin版の、いわゆる皆に馴染みのある東方に入って来て、親しみも増したのではないかと思います。代わりにフェイドアウトしてしまったキャラもいるのですが、そちらについては下巻でそろりと出てきたりする予定です。
†
さて、今回は非常に綱渡りの製作でもありました。というのも原作のほうでかなり大きな動きが連続してあり、逐一捕捉しないわけにはいかなかったからです。作業時間としては十分な余裕を見越しつつ、結局ギリギリになったのも、その辺りに大きな要因があります。筆が遅いというのもありますが、それはもうどうしようもありませんので……。
深秘録、紺珠伝の発表とその内容を知った時は随分ひやひやしました。外部からの幻想郷侵攻、防衛の事実上失敗から有事対策としての弾幕決闘の敷衍という序盤の展開、ひいては話の根幹が崩れる可能性があったからです。紫がどちらかの話で八面六臂に駆け回り必死に消化活動をする、なんてことが本編で描かれたらそうなっていました。周りでは紫がどうして出てこないんだと悲鳴のような声が上がっていましたが、わたしは逆に『紫が目立つ形で出てきませんように』と心密かに祈ってました。
結果としては特に波風が立つこともなく、むしろ下巻で考えていた月関連の話に絶妙に絡ませられる内容でした。幸運と言うべきか、波長が合ったのかは分かりませんが、お陰で当初の予定通りの流れで書き進めることができそうです。
†
下巻ですが可能な限り次回冬コミでの頒布を目指していきます。上述の通り、大幅な改稿が必要な事態は避けられましたし、上巻、中巻ほど話は膨らまないはずですので、何とか作業を収められるんじゃないかと思います。そう信じたい……(ここまで書いてから既視感を覚え、上巻のあとがきを見ると同じようなことを書いてました。次こそは大丈夫です、ええ。
序盤にある人物の出自が語られたのち、風神録以降の内容を交えながら主として月関連のエピソードが描かれていく予定となっております。物語ももう一息で終着点となります。最後まで付き合っていただければ、これほど嬉しいことはありません。
謝辞は別所に記載しましたので、最後に、一つだけ。
お読み頂いた全ての方に感謝を。
今度こそ、下巻のあとがきで会えることを願って。
2015/09/02
仮面の男
東方Projectは上海アリス幻樂団様の制作物です。当作品は二次創作作品であり、上海アリス幻樂団様とは一切関係ありません。
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