中巻の頒布より4ヶ月ほどが経ちましたが、ようやく下巻の頒布をお知らせすることができました!
一応、中巻を書き終えたほぼ直後から話を練ってはいたのですが、本格的な書き始めは8月下旬頃からでした。というのも紺珠伝の内容までを何とか盛り込みたいと画策したからでして、月のあれこれに関して当初の予定よりかなり盛り込んでお届けすることができそうです。そのために当初、1.5倍くらいになるだろうという分量が2倍近くにまで膨らんだのですが、話を分厚くすることができたのでこれはこれで良しとしたいところです。
今巻ではもう一つ、本来の主軸として霊夢の博麗の巫女としての黄昏もまた語られます。第一部と対を成す、もう一つの継承の物語となります。ある意味ではここを書きたいがために長大な物語を綴って来たところがあります。どの話にも増して反応の怖いところでして、楽しんで頂ければ良いのですが。
感慨もひとしおで語りたいことも沢山あるのですが、ひとまずは留めおきます。博麗霊夢の物語を追い続けて来た全ての方に、いま一度お付き合い頂ければこれほど嬉しいことはありません。
2015/12/15 仮面の男
秋もようよう深まり、葉が黄や赤へとその色を深め、緩やかな風とともにはらりと落ちるようになった。
落ち葉を一頻り集め終えると縁側に腰掛け、ぼんやりと空を見る。青く抜けるような、鮮やかな空だった。夏の厚い雲は既に記憶の彼方、秋の羊が群れたような薄い雲も見られなくなってきた。吹き抜ける風は冷たく乾き始めている。これから徐々に色が少なくなり冬支度のことも考えなければならなくなるのだろう。
今年は随分と長く感じられる一年だった。春の狂騒こそあったもののそれから目立つような事件はなく、すっかりと凪いでしまった。大きな事件はおろか、小競り合いや子供のような喧嘩すらほとんど起きなかった。六十年に一度の開花は記憶を洗い流すのだというあの胡散臭い鴉天狗の言う通り、新たな始まりに忙しくて事件を起こす暇がないのかもしれない。あるいはどこかの誰かが密かな企みを、水面下で巡らせているのだろうか。
「あるいは……」わたしは北西にそびえる巨大な山を見る。「騒動の中心が移っているのかもしれない」
わたしは関与していないのだが、妖怪の山ではいま、突如として中腹辺りに現れた神社のため大わらわらしい。一緒に現れた湖はまるで神意を映すかのように清く澄んでおり、山に新たな彩りを添えたというが、そんなものを楽しんでいる余裕はないのだろう。特に天狗たちにとっては秩序の崩壊に繋がりかねない。天狗の棟梁を頂点とした社会を築いていたのに、その更に上があると示されてしまったのだから。いつも人間を見下してきた彼らが見下される側に立つというのは胸のすく話ではあるが、誇りの高さを旨とする種族を刺激するというのは危険なことでもある。それに博麗を定める権限者が天狗の中にいる以上、わたしも完全に蚊帳の外というわけにはいかない。まさか天狗の代理として神社を叩けなんて命じられることはないと思うが、何らかの片棒を担がされる可能性はある。
わたしの方でも何らかの布石を打ち、面倒事を避けられるようにするべきではないか。そんなことを柄にもなく考えてみたが、腹芸などするたまではないとすぐに諦めてしまった。色々なことが上手く運んで弾幕の勝負に雪崩れ込んだりしないだろうかと、捕らぬ狸の皮算用もしてみたが、そんなことはなかった。
話によると社には仰ぐべき神がおらず、祭祀を取り仕切る人間とその祖母だけで住んでいるらしい。それだけ聞けば猛獣の檻に兎を放ったかのようにも思えるのだが、何とか上手く協調しているらしい。この二人が妖怪に脅かされているという筋書きも考えたのだが、天狗たちに上手く懐柔されているのか助けてのたの字も聞こえて来ない。
もやもやしているわたしと違い、最近妙に楽しそうなのが萃香だった。そういえば彼女はかつて、天狗や河童を従えてお山のてっぺんにいたのだと思い出し、朝っぱらから秋の光景を肴に酒をちびちびやっている彼女にそれとなく探りを入れた。
「かつての部下が右往左往しているのが楽しいのかしら?」
「そりゃあ少しはね。でも楽しい気持ちでいるのはそれだけじゃない」萃香は懐から灰色がかった紙を取り出す。天狗が新聞を刷る際御用達にしているものであり、彼らがてんてこ舞いの大慌てであることを示す記事が書いてあるのかと興味半分で受け取り、ざっと目を通してすぐに大きな溜息が漏れた。旧弊な支配者である鬼を散々にからかう、眉を顰【ひそ】めたくなるような手紙だったからだ。大江山の失墜を小馬鹿にし、最近になってのこのこと姿を現しながら神社に半ば住み着き、権威を復する素振りすら見せない腰抜けであると断じていた。「なんともこすい煽りじゃないか。天狗らしい堂々たる気の弱さがそこかしこに感じられる」
気の弱い奴が堂々としてるわけはないのだが、天狗に限ればあり得ないことではない。奴らと来たらどんな状況に陥っても妙に偉そうなのだから。呆れと共に手紙を返すと、わたしはわざとらしく渋い顔をして見せた。
「それにしてもこれはあからさま過ぎない?」
「霊夢もそう思うだろう? こんなことで鬼が釣られると奴らは考えている。そしてそれは全くもって正しいのさ」萃香は挑発の書かれた紙を大事にしまう。まるで喧嘩御免状でも扱うかのようだった。「虚仮にされてばかりでは鬼の面目が立たないからね。たとえ鼻で笑い飛ばしてしまえるような内容でもだ。これを書いた奴はつまり鬼のことをよぉく知っているということさ。わたしを山の騒動に巻き込んで波風を強くしたがっているのか、あるいは……」
萃香は腰の瓢箪から酒をぐいと呷る。普通、酒を飲んだら思考力が落ちるはずなのだが、萃香は考えごとをするときほどよく酒が入る。頭の中が熱くなって思考が加速するとのことだが、本当かは定かでない。鬼とはそういう生き物なのかもしれないし、悩むのが面倒くさくてノリだけで行動するという宣言なのかもしれない。
「どのみちわたしが出張れば全ては終わる。鬼とは全てを解決する力そのものだからね。策略の一部となるのは癪だけど、楽しい喧嘩ができるならそれで良しとしよう」
萃香は勝手に何かを決めたようで、野暮用とだけ口にすると神社を後にする。住処を見つけたのか、それとも他に居候先でもあるのか、最近の萃香は予告もなくふらりと出て行きしばらく帰って来ない。山が騒がしくなる前からそうなので関係ないとは思うのだが、神社にいると家事の大半をわたしに任せっきりなのできちんと生活できているか少しだけ心配だった。神社に戻って来るときに薄汚れた様子はないので少なくとも風呂には入っているみたいなのだが。
わたしの幸運は暇を持て余しているとき、解消する方向ではあまり働かないらしく、仕方がないので先日借りた……というより小鈴に半ば押し付けられたやけに分厚い本を読むことにする。と言っても文字の苦手なわたしが、散漫な頭で読んでも話が入ってくるはずもない。いつの間にか平仮名のあの字を数える作業に没頭していたのだが、不意に本の上へ影が指した。顔を上げると何時ぞや説教を垂れてきた天狗が、楽しそうな顔をしているのだった。
「何をにやにやしてるのよ?」
「いやいや熱心なことだと思いまして……それにしてもなんですかその煉瓦みたいな本は」
「外の世界の本らしいわ」妖怪を絡めた謎解きもので、霊夢さんなら絶対に気に入ると言われたのだが、既知に過ぎることを延々と語るばかりで話がちいとも進まないときたものだ。かといって読まないまま返すのも気がひける。「姑獲鳥、と呼ばれる妖に関する話みたい」
「ふむ、それは物騒な話ですねえ。あいつら大陸くんだりから船荷に紛れてこっそり入って来て、まるで我々のように幼児を拐かすものだからなんとも目障りでして。かくいうわたしも一度ならず懲らしめてやったことがありますよ」
いよいよ本の有り難みがなくなるような話であった。読書意欲が完全に失せ、わたしは本を隣に置く。文は代わりに手に取ると、カバーを外したり本を開いてぱらぱらめくったりと検分を始めた。
「又貸しすると怒られるから貸さないわよ」
「製本技術に興味があるだけです。河童でもこんなに分厚いのは無理ですねえ、背を綺麗に補強する糊がないんですよ。こんなものを大量生産しているとしたら、外の世界の人間はいよいよ書痴ばかりということになりますが」
一頻り調べ終えたのか本を丁寧に戻すと、何故か遠くを見るような仕草を見せた。それで不意にピンと来るものがあり、縋るような気持ちで、しかし弱みを感じさせないようにさりげなく訊ねる。
「いま、新しい神社の娘のことを考えていたでしょう?」図星だったらしく文は表情を強張らせる。予想以上に深く刺さったらしい。「外の世界から来たのならこの本も読んでるかしら。ねえ、聞いてきてもらえない?」
何らかの交換条件は覚悟していたのだが、文は渋い顔を浮かべる。
「山の神社と天狗たちの橋渡しをしてるって聞いてるけど。訊くだけならただなんだし、良いでしょう? それとも外の世界では、どんな本を読んだか訊くのは礼節に反するのかしら?」
「いや、そんなことはないと思いますが、なんというか、その……」
「歯切れが悪いわねえ。もしかして最近、喧嘩でもしたの?」
「そういうわけではないのですが、なんというかその、あの子に借りのようなものを作りたくないというか。うーむ、自分でも上手く説明できないなあ……」なんだか随分ともやもやしているものを抱えているらしい。文をしてそこまで悩ませるほどの相手なのだろうか。だとしたら妖怪の山で暮らしていけるのも納得できるというものだ。「本の内容を知りたいんですよね? 良いですよ、ここで読んでしまいますから少々お待ちを」
そう言うと文はわたしの隣に座り、本を読み始める。こんなもの日が暮れても終わらないからやめておけと言おうとしたのだが、文はページを一瞥するだけでさっとめくり、それを素早く繰り返してあっという間に最後まで辿り着いてしまった。速いことを兎角自慢している彼女だが、それは空を飛ぶことだけではないらしい。
「終わりました。終始通俗的な内容ですから簡単でしたね。さて、お教えしても宜しいですが、一つお願いがありまして」
「新聞なら取ってるけど、他に何か?」
「博麗の巫女に密着取材……というのも良いですが」そう言って文は新聞に使う紙を懐から取り出す。先程、似たような光景をどこかで見た気がした。「天狗のコミュニティにこんなものが巻かれまして」
それは萃香が見せてくれた手紙と同じ書き手によるものと思われる檄文だった。人の下に甘んじるくらいならば、愚王を抱いてでも妖怪としての誇りを取り戻そうではないかという序文から始まり、噎【む】せ返るような熱気で書き立てられていた。
「萃香を愚王と言うのはちょっと酷いわねえ」
「全くです」文は深い同意の頷きを返す。「あの方が愚かならば人間はおろかほとんどの知性ある存在がより強く当てはまると思いますね。破天荒で人騒がせではありましたが……」
嫌な思い出の一つでも掘り起こしたのか、文は一瞬だけげんなりしたような表情を浮かべ、それから話を続ける。
「兎に角、不穏なのですよ。天狗というものは誇りを刺激されると普段なら考えられない馬鹿をやらかしますからね。これであの方までその気になっては堪らない。そこで先手を打って、その気にならないよう平身低頭お願いをするつもりでした。あの方は霊夢さんによく懐いていますから、同席してもらうことで一層、角が取れるのではないかなあと。是非とも引き受けてもらえませんかね?」
「それはまあ良いのだけど、一手遅かったわね」わたしは萃香宛てに挑発文が届いたこと、成り行きはどうあれ楽しませてもらおうと臍【ほぞ】を固めてしまったことを説明する。文の顔が目に見えて曇り、話し終えると頭を掻き毟った。「あいつ一度決めると梃子でも動かないわよ」
「知ってますよ、元上司ですから。いやはや困ったなあ、今更あの方に君臨されても困るのですがね」
「あいつだって過去の轍を踏むほど馬鹿じゃないでしょう。水を差しても山の上に立つようなことはしないと思うけど」
わたしは萃香がこの郷に現れた理由を知っているからそう言えたのだが、文はまた別の見解を持っているらしかった。
「その気はなくても象徴となってしまえば同じことです。たとえ妖怪退治を生業とする人間の娘がお気に入りだとしても。一度意味が決まってしまえば、例えばどんなに薄汚れたお地蔵様でも、その形が失われてなお敬われ続ける。いわんや怪力乱神の語り手をば」
「それならばどうすれば良いの。わたしに萃香を★説得【傍点】しろとでも?」この場合の説得はもちろん言葉ではなく、折り目正しく規則に沿った暴力だ。萃香は自分を曲げることくらいならできるとしても自ら折れることはない。彼女のやりたいことを止めるならばへし折らなければならない。「まあ少しサービスして、先程の件と差し引きで手を打たないでもないけど」
積極的に手出しをするつもりはなかったのだが、文の話を聞く限り、萃香に山へ乗り込まれたら大変なことになりそうだ。下手すると増長した天狗たちが騒ぎを山の外側にまで広げかねない。彼らが行動を始めたら流石のわたしでも規則の範疇に事態を収める自信がなかった。
「そうですね……いえ、ここで博麗の手を借りたら余計に事態が拗れかねません。穏健派が人間の退魔師に色目を使ったなどとがなり立てれば良いのですから。わたしがこの擾乱【じょうらん】を引き起こした張本人だとしたら間違いなくそうしますね」
文の指摘に思わず唸り声をあげる。天狗は老獪【ろうかい】だからそれくらいの手は打ってくると考えた方が良さそうだった。
「だとすれば、わたしにできることはないと?」
文は俯きがちに目を伏せ、しばらく考えこんでいたが、何か良い案が浮かんだらしい。顔をあげるとともに口を開いた。
「いえ、一つだけあります。山の神社に住まう巫女、本人は風祝を自称していますが、彼女の指導をお願いしたいのです」
「それは別に構わないけれど、そんなことして何の意味があるの?」
「巫女という新たな権威が、旧い権威であるあの方を打ち倒す、という舞台をお膳立てできればことは円満に収まります。要するに革命です。鬼より強いものはなしという価値観を打ち砕くのですよ」
それは確かに名案ではある。だが同時に極めて困難な方法でもあった。文もそのことを知っているからこそ、わたしに付けて少しでも鍛えようとしているのだろう。
「あの調子だと長くは保たないわよ。短期間でものになるような娘なの?」
「いえ、無理でしょうね」何とも清々しい一刀両断だった。「でも彼女はあくまでも山の神社として立つことを望んでいます。無理を通すならば道理の一つくらい引っ込めてもらわなければ」
まるでそんなことはできないだろうと言わんばかりだった。これが天狗の性格だと分かっているのだがわたしだって人間だ。腹が立つことくらいある。
「では道理を打ち崩す方法を伝授するとしましょう」
特に策があるわけではなかったけれど、澄まし顔を少しでも歪めてやろうと思ったのだ。文はそんなわたしにいつもの胡散臭い笑みを浮かべるでもなく、わざとらしいしかめっ面を見せることもなかった。表情を消し、微かに俯くのみだ。そして色が失われると、端整な顔立ちがいよいよ際立って見えた。紫が分かりやすく女性らしいとしたら文は性の見えない透明さ、潔癖さのようなものを感じる。
わたしに見られていると気付いたのか、文はにへらと相好を崩す。
「期待していますよ。博麗の言うことは全て正しいというのが嘘でないと証明してみせてください」
顔は笑っていても口では全く笑っていない。
「そんな態度で良いの? あんたその子のお目付役みたいなことをやってるんでしょう?」風の噂では政略結婚をしたらしいが、わたしはあまり信じていなかった。こいつは根っからの自由人だし、形式だけでも人間の番いになるなんて真っ平御免だと上司相手でもきっぱりと言ってのけそうだった。「もしかして今回のこと、あんたが企んだんじゃないでしょうね? 人間の相手なんかしてられないからって」
人間に近くてもこいつだって天狗の一人なのだ。それくらい頭を巡らせても不思議ではない。
「だとしたら話は簡単なんですけどね。それに侮らないで欲しいものですが、たかが人間の小娘一人、どうということはありません」
これまた天狗らしい傲慢さだが、少しだけ引っかかりを感じた。やけに突っかかってくる感じというか、主張が強過ぎる気がしたのだ。怠けるために山を乱すなんてことはしないにしても、もしかしたら若干持て余しているのかもしれない。これまでも気にはなっていたが、天狗を困らせているかもしれない人間の娘に俄然興味が湧いてきた。
「指導するのは構わないけど、扱いやすい子なの?」
だから参考にしたいという体裁で興味本位を文にぶつけた。
「ええ、素直ですよ。愚直と言うべきかもしれないし、単なる物知らずなのかもしれない。天狗にも河童にもまるで恐れを示そうとせず、まるで人間のように扱おうとするのですから」
それは確かに落ち着かないだろうなと思う。天狗なんて特に、人間に怖がってもらってなんぼの妖怪だからだ。一時期は不可解な現象が起きればまず天狗の仕業とされたらしいから、さぞかし気分も良かったのだろう。昔からの着実な蓄積は今でも強さとして現れている。理屈としては分かるが、文の説明には一つだけ不可解なところがある。
「それならわたしだって、あんたなんか怖くないのに」
「強力な呪を用いて対抗せざるを得ないという霊夢さんの態度からは恐怖を感じることはありませんが、畏怖は伝わってきます。だから落ち着かないどころか非常に居心地が良いです。この神社に妖怪が集まるのも霊夢さんがその強さゆえ、正しく畏怖できるからです。わたしのような天狗はおろかあの方のような生粋の鬼、吸血鬼に亡霊、果ては妖精に至るまで強弱を問わず。霊夢さんは骨の髄まで巫女なんですよ。対するあの娘は神職の家系に生まれたというのにそれが全く分かっていません。一時的な恐怖を覚えても畏怖の実感がない。あの神社は神意に溢れていても神がいないのですが、わたしにはそれが原因のように思えてなりません」
「つまり、畏怖するものを見出せなかったということね。でもわたしは教えられるまでもなくそのことが身についていたような気が……」
そこまで口にしてから慌てて首を横に振る。記憶から喪われていただけで、畏怖の対象は心の奥底に眠っていて、きっとわたしを刺激し続けていたに違いない。口を噤んだのは畏怖を知らない巫女の役には立たない話であり、わたしと紫が共有する一番大切な秘密だからだ。
「天狗の人さらいもその一環なの?」
「もちろんです。今は禁じられていますがね。仮に攫って痛い目に遭わせたところで畏怖は身に着きやしないと思いますが。わたしは彼女、守矢神社の風祝に正統な畏怖を知って欲しいと心から望むものなのです。そうすれば居心地の悪さからも解放されるに違いない」
文はほんの一瞬だけ、険しい表情を浮かべる。忌々しさとも苦々しさとも取れる、本音に近い気持ちに思えた。やはり何らかの噛み合わなさというか、その巫女に苛々させられているような、何にしろ非常に強い感情が文の中で渦巻いているのは見て取れた。だがここで指摘しても、少なくとも今は何も話さないだろう。だから目下の疑問を突きつけることにした。
「天狗でも与えられないものを彼女に与えるにはどうすれば良いのかしら?」
「神憑ろしの体得」文は自負する速さを示すように即答する。「彼女に畏怖を与えるべき、社の祭神を取り戻させるのです。博麗の巫女には秘伝の降神術が伝わっていると聞きます」未到達の分野をいきなり口にされ、わたしはうんともすんとも答えられなかった。動揺を隠すので精一杯だったから。「八百万の神を憑けるその技の一端、伝授とまではいかないにしてもその入口までは導いて貰えないでしょうか。あとは彼女が持つものであることを期待するだけです」
持つものというのが何を指すかは朧気【おぼろげ】に察することができた。いくら術に長けていても流れ弾に当たって呆気なくやられる場合もあれば、未熟さを補い得る運気に助けられるものもいる。そして大成するのは大体、後者だったりする。
「ま、まあわたしにかかればそれくらいお茶の子さいさいね」
「ありがたい」文の破顔に、実はあまり修行してなくて自信がないとは言えなかった。師匠に多少の手解きは受けたのだが、少々の口寄せが精一杯なのだ。「わたしもこれ以上、事態が悪化しないよう手を尽くします。ですがいざという時はよろしくお願いしますね」
天狗らしからぬ丁寧な一礼とともに、文は瞬く間に空へと上がる。善は急げということだろうか。
「そうだ、その折には新聞を一年分、サービスしますね!」
いらないと叫ぼうとしたけれど、文の姿はあっという間に姿が見えなくなり、一人残されたわたしは今更ながら後悔に苛まれていた。安請け合いに修行不足。しかも後者に関しては最近、紫からせっつかれていたので、このことを知られたら我が意を得たりとばかりに押し付けてくるはずだ。いや、もしかしたら先ほどの会話に聞き耳を立てており、正に今しめしめと黒い算段を巡らせているのかもしれない。
「紫、聞いてたんでしょう?」ならばこちらからやる気になったという体裁を見せなければ癪で仕方がない。「あんたの言ってた修行、やってやるから槍でも境界でも持って来なさい!」
すると眼前に黒い亀裂が現れ、忍び笑いが漏れる。続いていつものように逆さま姿で登場した。こいつは他の誰かがいると普通に現れるのだがわたしだけの時はしばしばそうするのだ。
「神を喚ぶのに槍も教会も必要ないわ。磔にされた聖者を喚び出すには必要かもしれないけど」
また珍妙なことを口にすると思ったが、紫の変なところをいちいち指摘してはきりがない。蝿をあしらうように手を払うとまるでもぐらのようにすうっと境目に姿を消した。かと思えば背後に気配が生まれ、わたしはあっという間に背中から抱きすくめられていた。甘い匂いと柔らかな感触、耳元にかかる息の微温【ぬる】さに体が強張り、でもすぐに力が抜けていく。しょうがない奴だという諦めと、気軽に距離を詰めてくる紫への愛しさに、つい息をついてしまった。
「そう、神を憑ろすのにはね、受け入れなければならないの。わたしの抱擁を受け止めたように、魂の座へ滑り込んでくるその御霊を感じ取り、導き入れるの。そうして一度受け入れたら決して逆らっては駄目よ。すぐにそのことを察知し、居心地の悪い座だと判断して出て行ってしまう」
耳元で囁く声に、わたしの体をなぞる手に思わず身震いする。気持ち良いと思ったのが二割くらい、残りはどさくさに紛れて好き放題触ってくることに対する怒りだ。気持ちに応えると見せかけ、そっと手を取ると素早く腕を極めてやった。
「痛い痛い痛いちょっと霊夢、ギブ、ギブ、降参よ!」どうせすぐに戻るのだからこのまま折ってやろうとも考えたけれど、流石にそれは可哀想だと思い、突き放すように腕を解くと十分に距離を取る。「全くもう、乱暴なんだから。そこもまた素敵なのだけど」
「戯言は良いからちゃんとしたことを教えなさい。冗談に付き合っている暇はないのよ」
「ふざけたのは確かだけど伝えたことは本当よ。身を濯ぎ、清廉な一個の器として己を定義するの。さすれば神意は正しき畏怖とともに訪うでしょう。ただし今の霊夢は力こそ人間にしては並外れているけれど、それでも神意を迎えるにはまだまだ小さい。だから少しは鍛えておくよう繰り返し伝えていたはずだけど」
そこまで言われなくても己の怠慢は身に沁みてよく理解している。まさかこんな事態になるなんて思いもよらなかったのだ。
「紫はこうなることを予見していたのね。だからわたしに修行の必要性を説いたのだわ」それはつまり山の情勢をかなりのところまで把握しているということだ。「それならば萃香を説得してよ。あの子、山に喧嘩を売る気まんまんなんだから」
そうすれば修行などする必要もなくなるはずだったが、紫は愉快そうな笑みを浮かべるだけだ。止める気などさらさらないらしい。
「あらあら、それはそれは面白いことになりそうね」
「山の擾乱は秩序を乱すのではなくて?」
暗に異変の可能性を示唆したのだが、紫は鼻で笑うだけだった。
「お山の大将にもなれない天狗どもの右往左往など博麗が赴くにも値しない」更に言い立てようとしたわたしの口に紫は人差し指を添える。「それに霊夢が自分からやる気を出したのだから、利用しない手はないでしょう?」
妖怪の山の一大事さえ紫にとっては奸計の一要素でしかないのだ。そして今更ながらに読みが浅かったことに気付かされた。紫は山の件など関係なく、わたしに神憑ろしの技を身に着けて欲しいと考えている。もっと別なことで、わたしを何らかの計画に利用するためだ。それが何かは分からないが、ここで力をつけない限り、わたしはいずれ紫と同じ視座に立つことすら許されなくなるだろう。
文との約束があり、まだ見ぬ後輩に範を示したいというのもある。だがそれはいざとなれば反故にしても良いことだ。でも紫に置いていかれるのは嫌だった。追いかけるだけでは、焦がれるだけでは、また永夜異変と同じことになってしまう。
「それで、どれくらいで力を身に着けられるの?」
その問いに、紫は立てた人差し指を軽く振る。
「いくつかのプランを練っていたけれど、霊夢って気の乗らないことには飽きっぽい性質でしょう? だから一週間でこなしてもらうわ。根をあげても叩き起こして、わたしが良いと言うまでは決して休ませない。一日を三十六時間、四十八時間にしてでもよ。体の髄まで染みついて決して抜けないようにする。覚悟は良い?」
紫のぎらぎらとした、物欲しそうな目がわたしを射抜く。だけど紫が欲しいのは今のわたしじゃない。修行を乗り越えて望む力を手に入れたわたしなのだ。それを間違えてはいけない。自分にそう言い聞かせ、覚悟を決めると深く頷いた。
修行の内容はとても単純でそれゆえ誤魔化しようのないものだった。空になるまで霊力を使わせて、意識を失ったわたしの中に無理矢理注ぎ込むの繰り返しだ。
紫が張った結界の中で終わりのない弾幕をひたすらにかわし続け、力尽きたら被弾と痛みが待っている。服はあっという間に擦り切れたが、半裸同然になっても服なんて支給されなかった。全身にすり傷や切り傷がつき、打撲を負い、骨が折れるようなことがあってももちろん治してくれたりはしない。霊力で固定して痛みに耐えながら逃げ回るだけだ。札や針が尽き、緊急回避用の符を撃ち尽くし、最後はいざという時のために懐へ忍ばせておいた霊札を手に巻き、必要最低限の弾幕だけをいなした。四方八方へ目まぐるしく飛び回り、天地が狂う感覚を久々に味わいもした。
これを一時間みっちりとこなし、十五分の休憩を挟んでから新たに服と装備を身につけ、怪我を修復する。いつもなら完治に一週間くらいかかる切り傷も、一ヶ月はかかる骨折もあっという間に治っていくのはまるで妖怪になったようで気持ち悪かったが、すぐにそんなことも考えていられなくなった。全身を灼くような凄まじい痛みが襲ったからだ。紫の弾幕で傷つけられた時よりも痛みだけ取ればきついかもしれない。呻き声をあげるわたしに、紫は姿を見せず涼しい声をかけてくるのだった。
「人間の身で傷を無理に治すのだから辛いに決まっているわ。その痛みが嫌だったら被弾を少しでも少なくすることね。まあ、わたしは霊夢の呻き声って大好きだから全然構わないのだけど。桃色な行為に耽っている時のことを考えてぞくぞくするの」
一瞬気が抜けてしまい、箍【たが】が緩むと痛みが背筋を走り、耐えきれなくて酷い声をあげる。確かに紫に弄ばれているとき、同じような声をあげたことがあるなと思った。
「後で覚えてなさいよ!」
怒鳴り声はこだますることなく消え、後には紫のからかうような笑い声だけが残った。そしてこのやり場のない怒りのお陰で、わたしはその日の修行を全てこなすことができた。合計八セット、約半日間。紫から今日はこれで良いでしょうと言われた時にはあられもない姿で、傷だらけだというのに地面に倒れこんでしまった。これをあと六日も続けるのかと思うと、心が折れそうになる。
「さあ、運動の後はご飯の時間よ」わたしは思わずうええと声をあげる。胃に鉛が詰まったようで何も食べる気になれなかったのだ。「安心なさい、料理の達人を派遣したから。ただし全部食べるまでは決して許してはくれないけれど」
抗議しようと開いた口から苦悶が漏れる。紫に傷を治され、痛みに襲われたからだ。後できっと仕返ししてやると、わたしは心の中で誓ったのだった。
体が治っても気持ちが付いて来ないし、心とは異なる何かを消費し尽くしたという感じがあった。もしかすると生死の反復に近いことを短期間に繰り返したからかもしれない。だとしたら迷いの竹林に住む不死者や永遠亭の宇宙人たちも死と復活を繰り返せば同じような苦しみを味わうのだろうか。
少なくとも今のわたしは驚くくらい空だった。この空漠にこそ神は降りるのだろうか。それともまるで関係がないのだろうか。どちらにしても今日はこれ以上、何もする気が起きなかった。夕飯を食べろと言われているが胃ではなく心が受け付けそうにない。では眠いのかと言われればそれも違う。本当に何もしたくないのだ。瞬きさえも厭わしい。呼吸をやめてもまるで苦しくなかった。このままふわりと浮き上がり、自己を滅却できそうな気がする。内側と外側が曖昧で、このまま霧のように広がることも、その更に外側へ拡張することさえ容易い気がした。耳は遥か遠くから聞こえる途轍もない騒がしさをぼんやりと受け止めている。目は全象を捉え、近くも遠くも等しく見える。この世界は神様や仏様で一杯だった。曖昧なものがほとんどだけどそこそこはっきりした形の神もいた。背中に蛇のような意匠を背負っていたり、蛙のような帽子を被っていたりとなんだか変てこだ。
「我を呼ぶのは……汝なりか?」
「違う違う、この娘は早苗とよく似ているけれどまるで別物だ。いずれ我らを遣う時が来るかもしれないが今は商売敵だ。居心地は良さそうだけど宿ってはいけないよ」
二人……いや、二柱はどこかわたしの与り知らぬ遠くへ離れていく。更に遠くを見ると先程までわたしを鍛えていた紫の姿が見えた。いつになく儚げでその目はひたすらに上を目指している。その先にあるものは白く煤けたまん丸い石の塊だった。いつものように光っていないからそれが月だと気付くのに少しだけ時間が必要だった。
月を憎んでいると言ったのに何故、焦がれるような視線を向けるのだろう。わたしを見るのと同じくらい、もしかするとより強い熱を帯びているかもしれない。紫に月を見て欲しくなかった。だから背後にそっと回り込み、両目を手で塞ごうとした。だが何も掴めなかった。まるで幽霊のようにすり抜け、そして何かがわたしの中に入り込んで来る。視界一杯に月が映り、だがそれはこれまでわたしの見て来たものとはまるで別物だった。比類なき力と目映い光を放ち、怪奇複雑に織り成された空間が、何者をも受け付けないかのように周囲を覆っている。人間の目に見えるものは本当に表面だけなのだとわたしでも分かるくらい、大量の情報が瞳の中に溢れている。こんなものを全て受け止めていたらすぐに頭がおかしくなってしまうだろう。そのための計算能力が必要だ。この世界とは即ち情報であり、理を統べるには誰よりも何よりも速く計算し処理しなければならない。妖精を見るためには妖精の目がいると言うが、世界を見るためにわたしの目は世界そのものとなる必要がある。それを超えるならば凌駕しなければならない。わたしにそれができるだろうか……いや、何としてもやらなければならない。わたしには取り戻さなければならないものがあるのだから。そのためにはあの恐るべき事象変異装置、時と空間を牛耳り地上を抑えつける無慈悲な月を制さなければならない。高次元の空間に設置された障壁を巧みにかいくぐり、無限の愛と対峙しなければならないのだ。わたしにそれができるのだろうか。わたしの愛は彼女の愛と同じく無限足り得るのか。
その心に応えるよう、月がぐにゃりと形を変えていく。グロテスクなヒキガエルのようなその顔は愉快そうに歪み、ゲタゲタとおぞましい笑い声を振りまくのだった。
「活!」気合のこもった一撃が掛け声とともに頬へ見舞われ、視界が月からわたしの部屋へと移る。奇妙な光景は既になく、わたしは完全に自分の中へ戻って来ていた。「良かった、完全に抜けていたからどうしようかと思ったぞ」
目の前には紫の式神を務める金髪の妖狐がいて、安堵の表情を漏らしていた。どうして彼女がここにいるのだろう。
「紫様にお前の食事を用意するよう命じられたんだ」ああ、そういえば紫が料理の達人を派遣するとか話していたような気がする。先程までの光景があまりに鮮烈で少し前の記憶もやけにぼんやりしている。「人間相手に腕を振るうのは久しぶりだからあれこれ材料を仕入れてから来てみると、抜け殻になった貴女がいる。ただの霊体離脱なら肉体との繋がりが残っているのにそれもない。きつくしごいたと聞いていたから力尽きてしまったのではないかと、急いで体に賦活を与えたのだ。すぐに戻って来たから死んだ訳ではないらしいが、どこへ行っていた?」
「よく分からない。妙に静かで騒がしくて、見えにくいのに色々なものが見えて……」わたしの認識ではとても追いつかない世界だったように思える。記憶が酷く乱れているのもきっとそのせいだろう。まるであまり印象に残らない夢を見た後のようだ。「二人組の何者かがいたのは微かに覚えてる。蛇と蛙、のようなものだったと思う」
その後に誰かに会ったような気がするのだけどよく思い出せない。忘れてはならないものを見たような気がするのに、もやもやするだけでその先に辿り着けない。
「その話だけで確定はできないが、おそらく神霊の領域に足を踏み入れたようだ」己の知識に触れるものがあったのか、藍は難しそうな唸り声をあげる。「これは受け売りだが、神霊の普段おわす場所はあらゆる知性に共通した基盤、無意識の更に下を流れる高次元の領域であるらしい。そこに接触し得るものは知性となり、創造の術と幻想するための心を獲得する。あらゆる法則の外縁であり、理論上は無限に近いエネルギーを取り出すことが可能となる。また知的活動を通して領域は拡大し、あらゆる場所を瞬時に繋げることもできるらしい」
藍の説明はあまりにも途方がなく、思わず溜息が出そうになった。
「わたしはそんな凄い場所に辿り着いていたというの?」
「まあ端的に説明すれば、夢の世界なのだけどな」
あまりなまとめ方で思わず肩の力が抜けてしまう。だが藍は硬い表情を崩してはいなかった。
「夢を見るだけで魂が飛んで行ったりはしない。多分、貴女は神を憑ろそうとしたのではなく、憑ろす神を自ら選ぼうとしたんだろう。何とも不遜な考え方をするものだ」
「そんなことを考えた覚えはないわ。そもそも今のわたしに神を憑ろして何かをする必要なんてないのだから」
「神霊を自由にすれば辛い修行も終わりにできると無意識の内に考えたのかもしれない」
その指摘にわたしは何も返すことができなかった。いかにもわたしが思いつきそうなことだったからだ。
「夢の世界はその影響を受けるだけならば簡単だし害もない。だが積極的に介入し、影響を与えようとすれば途端に牙を剥く。わたしも紫様の真似をして試してみたがあそこに渦を巻く力は途方もなかった。全く処理が追いつかないし、情報の奔流で意識を押し流されてしまう。だから神だって可能であれば顕界するんだよ。あそこでは自我を保つことすら困難になるからね。夢を自在に操ることは何人たりともできない。もし試すような真似をすれば途轍もないしっぺ返しを食らうだろう」
藍の滔々とした説明をわたしは途中からまるで聞いておらず、右から左に素通りしていた。
わたしはあそこに紫がいたことを思い出していた。その視界から世界を見た。その思考を垣間見ることさえした。だが具体的な内容となるとほとんど思い出せなかった。月をじっと眺めていたことだけは覚えているのだけれど。
「気をつけてくれよ。人間は軽率に死ぬのだから」藍がわたしの瞳をじっと覗き込み、思索に迷い込んでいたことに気付く。どうやら彼女はわたしのことを本気で心配しているらしかった。「貴女がいなくなれば紫様はしょげてしまうのだから」
もとい、主のことを心配しての言葉だった。
「全く、紫様はよくもまあ目を離していられるものだ。冬眠される時はわたしが様子を見ましょうかと言っても余計なことをしなくて良いの一点張り。なおも食い下がれば本分を果たしなさいと怖い顔をされる。主のものを横取りするなんて浅ましい真似はしないと分かっているはずなのだが、過去の行いはなかなか拭えないのか」
藍は愚痴と溜息を漏らし、それから何かを思い出したかのように慌てて立ち上がる。
「もう少し寝ていると良い、夕飯を作ってくる」
そして軽やかな足取りで部屋をあとにする。紫の身の回りのことはいつも彼女が行っているのだろう、妖怪のくせに妙に世話慣れしている。お腹は空いていないと口にする余裕すらなかった。
少しすると居間にまで鼻をくすぐる芳しい匂いが漂ってきた。これまで一度も嗅いだことがないのに、美味しいということは嫌というほど伝わってくる暴力的な匂い。何も食べる気がしなかったのが嘘のようにお腹が鳴り、口の中に唾が満ちる。あの妖狐は一体どんな魔術を使ったのだろうかと疑うほどの代物だった。寝返りを打つように畳の上をごろごろすることしばし、藍が持って来たのは実に奇妙な一皿だった。ご飯の上に肉じゃがを乗せたようにも見えるが、汁には葛湯に比較的良く似たとろみがついている。ご飯とよく絡まるように配慮されたものであると考えられた。
「これは一体、どんな料理なの?」
慌てて訊ねたわたしに、藍は満足そうな笑みを浮かべる。
「カレーライスと言って外の世界で老若男女に人気のある食べ物だ。どんなに食欲がなくともその匂いを嗅げばたちどころに腹の虫が騒ぎ出す。ただし郷の中で育たない香辛料も多く含まれているため八雲の食卓でもそうそうは並ばない。紫様のご厚意に感謝し、慎重かつ大胆に食べると良いよ」
よほど上手くできたのか妙に高いテンションだった。それともこの匂いには気分を高揚させる効果があるのだろうか。紫の厚意という言い方は気に入らなかったけれど、この匂いには抗えなかった。スプーンを手にし、汁のかかったご飯を掬い取ると、思い切って口に運んだ。辛味と甘味、僅かな酸味とともに、爆発的な旨味が口の中に広がり、気づけばもうひと匙、もうひと匙と、慌てて口の中に運んでいた。あまりにも慌て過ぎて喉が詰まりそうになり、水で流し込んでからようやくがっついていたことに気付き、少しだけ気分が落ち着いてくる。口の中が辛さで徐々にひりひりとし出したのも、逸る気持ちを抑えてくれた。
「焦らなくても目の前の食べ物は逃げたりしないよ」
「分かってるってば」分かりやすく茶化されて癪だけど、それでも藍が作った料理の味には抗えなかった。「あんたら、いつもこんなに美味しいものを食べてるなんてほんと狡いわ」
「いつもじゃない、紫様が冬眠から目覚められた日などの限られた場合にしか外の食べ物には手をつけない。誰も見てないから良いではありませんかと言ってみたが、頑なに首を振るばかりだった。そういうお方だからこそ仕え甲斐もあるというものだが」
規則を作るのが好きだという理解はあったけれど、そこまで徹底しているとは思わなかった。いや、わたしに接する際の頑なさや線の引き方を考えればあり得ないことではないのかもしれない。
「おっと、こんなことを話しているうちにも飯が冷めてしまう。熱いうちに食べるのが何よりも美味いのだから、こんなことは後回しにしよう。お代わりもあるから遠慮なく言ってくれ」
藍はわたしの知らない紫を知っており、興味は尽きないのだが、ここで話をせがんだらへそを曲げかねない。わたしはもう一度カレーライスと対峙し、改めてスプーンを握る。皿はあっという間に空となり、お代わりを所望して今度はもう少しだけゆっくりと味わいながら食していく。二皿分がぺろりと胃の中に収まり、久々にお腹が膨れる感覚というものを味わった。
「ごちそうさまでした」藍に向けて手を合わせると、わたしを満足させたのが嬉しいのか、それとも料理を美味しそうに食べてくれたのが有難いのか、人の良さそうな笑みを浮かべる。「これは確かに抗い難い味覚だったわ。外の世界ではこんなものを日常的に食しているなんて、文明の力というのは恐ろしいのね」
「わたしは幻想郷の味も好きだがね。外の世界の料理というのは、たまに食べるなら良いけれどいちいち主張が激しい上に、旨味だけを強調するきらいがある。今日は刺激が必要だからカレーライスにしたが明日からは郷で採れるものだけを使った料理にする。もちろん、味は紫様の折り紙付きばかりだ」
うちで出す料理にけちをつけたことはほとんどないが、紫はいかにも味に五月蝿そうではある。従僕でいる時間が長ければ自然と料理も上手くなっていくのだろう。
「そういえば、紫は料理を作らないのかしら」拘りがあるならば自分でも作るのではと思って訊いたのだが、藍は芳しい顔をしなかった。「もしかして苦手だったりするわけ?」
そうだとしたらからかってやろうと思ったのだが、藍は慌てて首を横に振り、そして何故か浮かない顔をするのだった。
「そういうわけではない。以前、気紛れで料理をされたことがあって、その時に出てきた料理はどれも美味しかった。これは主従だからではなく偽りのない言葉だ。しかしなんというか、非常にくっきりした味と言えば良いのだろうか。わたしが今日作ったカレーライスも非常に主張の強い味だが、それを更に強調したというか、強いて言うならば旨味の塊みたいな味わいだった。美味いのは一口で分かるが、すぐに飽きが来てしまうんだ。何を食べても似たような旨さしか感じないんだよ。もしかすると紫様の力が無意識のうちに反映されるのかもしれないし、そういう料理の仕方を学んできたのかもしれない。どこでなんて訊かないでくれよ。わたしが紫様の生い立ちなどという最重要機密など知る由もないのだから。とにかく一度食べて見れば分かるんだが……」
藍は胸の下で腕を組み、悩ましげな唸り声をあげる。きっと長いこと疑問のままでいるのだろう。わたしはと言えばもっと根本的な部分で驚きというか、これまで考えたこともない疑問に直面していた。これまで紫に生まれや育ちがあるなんて全く考えたことがないのに気付いたのだ。どこかでひょっこりと生まれ、遥かな過去から今の今までずっと紫のままなのだと疑わなかった。萃香は紫の古い知り合いだが、彼女は自分のことを話しても紫についてはほとんど語ってくれなかった。昔からああいう奴だったと匂わす程度だ。
「霊夢ならある程度は知っていると思ったけど」特に探りを入れるというわけではなく、藍は主人への興味から訊いているようだった。「まあ知ったところでどうしようもないけどな。わたしにこの生き方を与えてくれた紫様への気持ちが揺らぐはずもない」
「それは、優れた主人に仕えるということ?」あるいは紫のことを慕っているのか。もし後者だとしたら強敵なのだろうと思ったのだ。「それとも別の理由?」
狡い訊ね方だったが、藍は特に気にする様子もなく、首を横に振った。
「両方かな。これは自業自得なのだけど、王や政治家を幾度となく堕落させ、国を傾ける様を何度も見届けたこの身として、優れた施政者であり続ける紫様に仕える喜びを覚える。そしてわたしに国を維持する大変さを教えてくれた。これまで壊してばかりいたわたしに因果を吹き込むかのようで最初は戸惑ったがね。取り返しのつかないことをしてきたわたしだから、せめてこれからのために尽くしたいし、その意義を与えてくれた紫様に感謝をしている」
殊勝で淀みない気持ちを打ち明けられ、わたしには何も返すことができなかった。なんという完璧な忠義だろう。あるいは紫が長い時間をかけて調整してきただけで、本当はもっと複雑だったのだろうか。
「わたしが未熟だからその深遠なるお心の全てまで汲み取ることはできないがね。それにわたしでは決してできないことがある。紫様の心労を緩め安らかにすることだ。これまで口にしたことはなかったが、霊夢には感謝しているんだ。心から楽しそうな顔をすることが増えたし、痛々しいほどの硬さが緩んできたような気もする」
紫が硬い奴だなんてわたしには想像できなかった。わたしにとっては人をからかってばかりの緩い奴だからだ。分かってはいたけれど、わたしに見せない部分を他の誰かが知っているとやはり悔しいものがある。
「それになんだかんだいって紫様のために手を尽くしてくれる。今回の修行だって紫様の目的のためにかって出たんだろう?」
「まあ、そんなとこね」紫の目的なんてちっとも知らないが、正直に言って情報を逃す必要はない。「紫もまた大それたことを考えるものだわ」
「ええ、全くです」
「あの神を憑けることであんなことを実行するつもりだなんて」
「ええ、全くです」藍は完璧な笑顔を浮かべ、同じことを繰り返す。「これ以上のことを話す権限がわたしにはありません」
どうやらわたしの考えが甘かったようだ。藍は差し障りのない情報、紫にとって都合の良いことしか話すことが出来ないらしい。
「わたし自身、力不足を感じ始めていたところだし」
「なるほど、鍛錬に励むのは良いことだ」先程までの馬鹿丁寧な言い回しを忘れたかのように、藍は機嫌の良い笑みを浮かべる。「腹も膨れただろうし、風呂を沸かして来るよ。じっくりと温まったら数多の王侯貴族を蕩【とろ】かしてきた必殺の按摩【あんま】を披露しよう」
按摩を受けるような年ではないと思うのだが、やってくれるというのであれば断る理由もない。それに体を全力で動かしたのは本当に久々なので、筋肉をほぐしてもらうのも悪くはないのかもしれない。
「それにしても本当、至れり尽くせりなのね」紫にしてもそうだし、藍もこんな所で家事手伝いをするような奴じゃない。わたしに少しでも力を付けようと躍起になっている。「全く、何を押しつけられるのやら」
紫が今回の件と引き換えに無理難題を言ってくるのが容易に想像できて、息をつかずにはいられなかった。
翌日以降もやることは対して変わらなかった。目や体が慣れないよう時折調節が入るだけで、迫り来る弾をひたすらにかわし、あるいは撃ち落として凌ぐだけだ。力試しの模擬戦くらいやらせて欲しいと何度も訴えたのだが「霊夢に必要なのは徹底的な基礎訓練」の一点張りだった。
「博麗の巫女をやっていれば力試しの機会などいくらでもあるわ。それに霊夢は実践となれば天才的と言える勘で、訓練の意味合いをあっさり消してしまいかねない。あとは体質的に単純作業を繰り返したほうがよく身に着くというのもある。さぼり癖があるから何気に難儀よねえ」
微に入り細を穿つように説明されるとぐうの音も出なかった。仕方なく紫の設定したステージを繰り返し、難易度をどんどん上げていくだけの日々をひたすら続けていった。今度は紫のためでなく、妖怪の山で蠢いているかもしれない陰謀への対策であり、博麗の巫女としての本分を果たしているのだと言い聞かせることで、数々の鬼畜弾幕に立ち向かうことができた。あとは訓練の後に藍が振る舞ってくれる食事と按摩のために。年寄りだけのものだと決めつけていたけれど、わたしのような若い体でも気持ち良かったし寝つきも目覚めも全然違った。霊力の使い過ぎによる痛みは筋肉痛とは異なるはずなのだが、上手く揉み解してくれたのか砂の入った袋を背負っているくらいの重さしか感じなかった。いつもだったら身体中に鉛が詰まっているようになるのだが。王侯貴族を蕩かして来たというのもきっと嘘ではないのだろう。紫はつくづく便利な妖怪を式にしたなと思う。
とはいえ日が進むにつれ徐々に不安を覚えて来た。訓練ばかりで神を憑ろす方法については全く教えてくれなかったからだ。自分が強くなっているという実感も思ったほどは得られなかったし、最終日の訓練が終わっても何も言わないのだったら胸倉を掴んででも聞き出すつもりだった。だから初日と比べ物にならないほど激しくなった弾幕の中で、紫をどのように成敗してやろうかと密かに算段を巡らせていた。
するといきなり攻撃が止まり、結界の中央に紫が現れる。まだ終了の時間にはなっていないはずだが、直に攻撃を仕掛けてくるのだろうか。あるいは考えていることを見抜かれてしまったのかもしれない。それならば逆に好都合であり、攻撃を仕掛けてくるのをじっと待ち受けるのだが、いつまで経っても何もしようとして来ない。
「九段階目まで対処できるようになったみたいね。まあ、これくらいはやってもらえなきゃ困るんだけど」意味深なことを口にすると、こちらへ手招きする。あからさまに怪しいのだが、ここでぼんやりしていても話は進みそうにない。いつでも一斉攻撃をかけられるように準備してからそっと近付き、紫の魂胆を引きずり出そうとした。「疑うことなく近付いてくれたのね。霊夢ったら本当にわたしのこと信頼してくれてるんだ、嬉しいわ」
言葉とは裏腹に紫は姿を消し、代わりにわたしを取り囲むような無数の弾幕が露わになる。こちらの札と同じ模様が描かれており、その全てに強い妖力が込められていてわたしに対する殺意が漲っていた。
「第十段階、無数に迫り来る攻撃から抜け出すことができるかしら」
そう言われても、抜け出せるような隙間は一切ない。いや、紫に誘い出されなければいくらでも対処はできたはずだ。油断した段階でもう、勝ちの目はないということだろうか。周囲をぐるりと見回し、薄い点がないことを確認すると前方に幾重もの結界を一気に展開させる。多少の被弾は覚悟で突っ切り、突破する。これしか方法はないと思った。
こちらの覚悟に反応するよう、弾幕がゆっくりと中心に向かってくる。こちらも一気に加速して弾幕の一角に突撃したが、強固な壁のような感触とともに押し返されてしまい、慌てて勢いを殺し中央でぴたりと静止する。この弾幕は点となって押し寄せてくるだけではなく、強力な結界を形成しているらしい。札を撃っても針を発してもあっさりと弾かれ、わたしを押し潰すためじりじりと迫ってくる。本当の本当に抜け出せないのだろうか。それともわたしが何も思いつけないだけなのだろうか。ここで出せる最大の攻撃力は何なのかと考え、大きく深呼吸をすると残りの霊札を総動員し、霊力の容れ物を構築する。紫はおそらくこの一週間でわたしがどれだけ成長しているのかを計ろうとしているのだ。
「お望み通り、新しいわたしを見せてやるわ」
何百枚もの札によって形成された器にありったけの力を注いでいく。チューブに入ったものを慎重に練り出すよう、わたしの全力を一滴残らず注ぐことを想起する。流石に翌日は痛みでのたうち回ることになるかもしれないが、構いはしなかった。白光する霊器の球体を構え、気合いとともに迫り来る結界へと放り投げると、二つの力がぶつかり合い、じりじりという音を立てながらお互いを削っていく。わたしの放った霊気の塊は内側から外へ、紫の張った結界は全ての力を飲み込んで内側へ。力の差は圧倒的でも一点を突けば打ち破る自信はあったし、抜け出す準備はいつでもできていた。だがいつまで経ってもわたしの術が突破することはなく、遂には完全に力負けして霧のように消えた。脱力しそうになるのを辛うじて堪え、せめてもの抵抗に拳を叩きつけてもこちらが痛いだけだった。いよいよ体のどこにも力を入れることができず、紫の結界が四方八方から押さえつけ始める。紫を呼ぶ声は窮屈な空間の中で耳の内側が痺れるほど響き、為す術もなかった惨めさを示すだけだった。紫の眼鏡に適わなかったわたしはこのまま潰されて肉饅頭にでもなってしまうのだろうか。このまま耐え続けるより、力を抜いた方が苦しみは一瞬で済むのかもしれない。一度そんなことを考えてしまうともう駄目だった。最後の力も抜け、結界に潰されるのを待つだけとなってしまい、わたしは中心に集まって点となった自分をふと想像してしまった。
途端に体がぱたぱたと畳まれていき、嵩が少なくなっていく。まるでわたし自身が折り紙になったかのようだった。そして遂には本当に点となってしまったが、紫の結界はそれすらも逃さないように容赦なく狭まってくる。
潰されたと思った次の瞬間には妙な所にいた。遥か遠くから聞こえてくるのに妙に騒がしく、目に見える以上のものが見える不思議な世界。体はいつの間にか元に戻っていて、右手を紫が掴んでいた。何が起こったのか全く分からず、何か考えようにも目や耳から入ってくる情報が多過ぎてすぐに混乱してしまう。視界を覆う五月蝿い弾幕ばかりを相手にしてそんなもの慣れてしまったはずなのに。それでも柔らかな笑みを浮かべる紫を見て何とか思考を巡らせることができた。
「紫がわたしを助けてくれたの?」
「いいえ、霊夢の力よ。貴女は体を点と定義し、確率的になることで結界の中に存在しなくなり、同時に外側へと存在することで脱出を図ったの」
「……ごめん、何を言っているのか全く分からないわ」
紫がわたしよりも複雑なことを考えているのは知っているけれど、それにしてもまるで意味を成さないように思えた。だが紫は自信に溢れた表情を浮かべるだけだ。
「物事はマクロやミクロで捉えると日常では想像もつかないようなことが起きるのよ。霊夢は無知だけどどうすればあの状況から助かるかを無意識のうちに実践しようとした。それがつまり本当の意味での神頼みであり、その結果として霊夢はここにいるわけね」
「わたしが、神を頼んだから」力を使い果たし、冴え渡る勘すらも働かず、それでもどうにか助かろうとした。何かに縋ろうとしてしまった。紫が決して助けてくれないと思ったから、別の何かを求めるしかなかったのだ。「紫がそうするように仕向けたのね」
「苦労したのよ。霊夢ったらべらぼうに強い上、神の如き勘を働かせる。だからそのどちらも機能しないような状況に追い込む必要があった。強過ぎるっていうのも時には問題ってことかしらね。掘った穴を埋めるような作業を繰り返させ、思考力を徐々に奪っていく。辛いと思ったならごめんなさいね」
話の途中までは文句の二つや三つ、口にしようと考えていた。でもそこまで素直に謝られると何も言えなかった。そして繋いだ手の感触が今更ながら、わたしにあることを教えてくれた。
「紫は結局のところわたしを助けてくれたのだわ」
「ここまで手を伸ばしてくれたからよ。だから掴んであげることができたし、結界を通過できる術を授けることができた。霊夢の中にわたしを導くことで」
いつもわたしを誘う時の焦がれるような顔に思わずどきりとしてしまう。それで訓練の初日に、夢の中で同じような顔をして月を眺めていたことを不意に思い出した。目隠ししようとして紫と混ざり合い、その視界や心の内を覗いたことも。ここに来るまですっかり忘れていたけれど。
「六日前にもここで会ったわよね?」
「ええ、そうね。疲労と焦燥で無意識のうちに接続してしまったのでしょう。あまりにも不意だったからあの時だけは焦ったわ。まずは何日か痛めつけて徐々に繋げるつもりだったのだけど、まさか初日だなんて。霊夢ったら本当にわたしの予想を超えて一気に飛びついてくるんだもの」
手に込められた力が少しだけ強くなる。紫に気に入られるのは悪いことではないのだが、今は時と場合を弁えて欲しかった。
「月をじっと見ていたわ。色々なことを考えていて全部は覚えていないけれど、取り戻さなければならないものがあるということだけはよく覚えてる」
その全てがわたしに向けられたものではなくて、とても悲しくて。だからわたしの中から零れ落ちなかったのだ。手の感触がするりと抜けて空っぽになったのは、きっと図星だからなのだろう。どんな表情をしているか、怖くて見ることができなかった。
「これまでのどの時代にもわたしの居場所はなかったわ。まだ見ぬ未来にだけ存在する。そのためにいま、取り戻さなければならないものがあるの」
「それは一体、何なのかしら?」その問いに紫は押し黙ったままだった。「わたしはそのための道具に過ぎないの?」
「いいえ、そうではない……いえ、道具と考えていることは確かだけど、決してそれだけではないのよ。使い潰すなら甘い言葉だけ吹き込んで手足のように動かすだけだもの」
紫はきっとこれまでに少なからぬものを操るだけ操り、使い潰して来たのだろう。だから敢えてそうでないと打ち明けてくれたことには意味があるのだと思う。それすらも紫の計算かもしれないけれど、それでもわたしの手足の代わりをしてくれたのは事実だ。
「いつかは話してくれることなのかしら?」
「分からない。その機会はすぐに来るかもしれないし一生来ないかもしれない。わたしが成功すれば良いのだから。でもわたしはこれまで失敗し続けてきた。誰よりも遠くを見据える見識、境界を操る力、これでも全てを統べるにはあまりにも足りない。わたしには絶対的な正しさが必要なのよ」
それがわたしなのだろうか。博麗の巫女が言うことは全て正解だなんて面白い冗談だと思っていたけれど、祈るような気持ちを込めていたのだろうか。
「今はここまでかしら」聞きたいことは山ほどあるというのに、紫はそう言って柏手を打つ。「では霊夢、良い現実を」
急速に掻き消えていく夢の世界の中、わたしは紫の顔をじっと見つめる。ぼやけていたから確証はないけれど、いつもの笑顔であったように思えた。
目が覚めると、これまでに味わったことのない、美味しそうな匂いが漂ってきた。慌てて体を起こし、元を辿ろうとして鼻をひくつかせると、紫がお盆を持って部屋の中に入ってきた。
「実は料理が下手だ、なんて思われていたら癪だから」
神社に割と頻繁な出入りをしている紫だが、料理を作ってくれたのは初めてだった。しかも鼻先を針で突かれているかのような芳しさである。わたしの語彙では適切な表現を思いつかないくらいに暴力的な美味の予感が漂っていた。お盆の上に並んでいるのは筑前煮、川魚の塩焼きに冷奴、出汁たっぷりの茄子のおひたし、それから蓋をされたお椀が二つ。中にはそれぞれきのこの炊き込みご飯とミツバのすまし汁が入っていた。体力も霊力も空だというのに体は目の前の料理を求め、お腹を虎のように鳴らす。
「慌てなくても料理は逃げないのだからゆっくりとお食べなさい。一口一口感謝を込めるのよ」
お仕着せがましい言い方が何とも紫らしくて、わたしは苦笑しながら箸を動かしていく。ご飯もおかずもどれも美味しくて、藍の料理と同様米一粒まで夢中で食べてしまうのだろう……と、半分ほど食べ終えるまでは思っていた。だが徐々に、ほんの少しずつだけどその美味しさが気になってきた。味付けがやけに平たくて、起伏が全く感じられないのだ。ご飯の美味さとおかずの美味さがまるで同じもののように感じられる。どうしたらこんな味付けができるのだろうか。不躾なのは分かっていたが、あまりに奇妙だからごちそうさまの後で訊ねずにはいられなかった。
「紫の味付けってさ、わざとなの?」
その質問を予想していたのだろう。紫は苦笑を浮かべ、わざとらしく息をついた。
「霊夢にもやはりお気に召さないようね。料理なんて分量を計れば誰にもできるはずなのに、何故か上手く行かないの」
「そういうわけではないわ、美味しかったのよ。でも美味しいだけというか、雑味が全くなくて困ってしまうの」独特の味覚を持っているのだとしたらまだ理解できるのだが、本人にもどうしようもないのが話しぶりから伝わってくる。境界を操る能力に起因しているのか、それとも全く別の理由があるのかは分からないけれど、おおよそ万事をこなせることができそうな紫にも瑕が存在するというのはわたしの心を少なからず愉快にさせた。「紫にも上手くできないことがあるのね、ちょっと安心したわ。そういうことを指摘されるのは嫌いかもしれないけど」
「ううん、良いの。できないことはしょうがないし、上手くやってくれる人が代わりにいれば良いのだから。自宅では藍、ここでは霊夢。だから何も困ることはないのよ」あっけらかんとした物言いの中に少しだけ寂しさを隠したような笑みを浮かべられると、胸が無性にきゅうっとなる。やっぱり紫は狡いなあと思った。「わたしができなくても良いって素敵なことよ。それはもはや深刻でも怖ろしいことでもないのだから」
紫もかつて、料理が一人でできなくて深刻に悩んだりしたのだろうか。それもまた微笑ましいというか一種想像できないことだった。
「さあ、今日は疲れたでしょうからお風呂に浸かってゆっくりとお休みなさい。調度良い湯加減の風呂が既に用意してあるわ」紫のことだから温度の境目を操って沸かしたのだろう。顔や服を煤だらけにして風呂を焚くなんてあまり考えられなかった。どちらにしろ沸かさなくても入ることのできる風呂はありがたいものだ。お言葉に甘えて堂々と長風呂を楽しむつもりだった。「背中を優しく流してあげるから」
前言撤回。そんなことをされると緊張で風呂に浸かってなどいられなくなる。ただでさえむずむずして仕方がないというのに。
「そういうことされると寛げないとは思わないの?」
「人間は愛しい相手に労をねぎらってもらえると疲れが取れるのでしょう?」
あまりにもいけしゃあしゃあと言われ、堪忍の限界が来た。というよりは積もりに積もった欲求が一気に噴き出したのかもしれない。観念した風を装い、風呂場まで向かうとわたしはくるりと振り返り、紫のことをぎゅうと抱きしめる。どうしてとは訊かれなかった。
「明日の朝に起きられないと言っても見逃さないわよ」
わたしは紫の肩を頭で軽く押す。そして今更ながらに恥ずかしくなってきた。自分からこうも積極的に誘ってしまうなんて嫌らしい奴だと思われたりしないだろうか。そんな心中を読んだように、紫はそっと耳元で囁くのだった。
「悪い子ね。でもそういうところも愛らしい」
紫はわたしの腰に手を回し、間近で見つめ合う形となる。唇が自然と合わさり、すぐに他のことは何も考えられなくなった。
わたしの目が離れていたほんの一週間程度の間に事態はかなり深刻な方向に進んだらしい。どこかにふらりと出かけていた萃香がなんとも難しい顔をして神社にやってきた。いつも酒を飲んで太平楽そうな萃香がそんな顔をするなんて余程のことだ。
「これが三日前に届いたんだ」すぐ神社に来なかったのはわたしの気を乱そうとしないためだろう。目も当てられないほどの酷いことが書かれた怪文書だった。萃香本人というより鬼全体への侮辱の言葉が、まるで呪いじみた執念深さで綴られており、書いたものの底知れぬ怨念が垣間見えるようだった。前に萃香へ送られた文書はどちらかというと天狗らしい皮肉が多分に含まれていたが、これは陰湿というか天狗らしい余裕がまるで感じられない。別人の可能性すら考えられるほど性質の異なるものだった。
「こんなもの送られると本当に困るんだよね。喧嘩を吹っかけてくるだけならば楽しいで済んだのに興醒めだよ。かといって黙殺するわけにはいかない。こんなものを見せられてもなお無視したと広まれば、鬼の沽券に関わる。これはある種の脅しに近いなあ。鬼を脅すだなんて、気概がある奴だと言えないこともないんだがね」
力で押し込める案件でないためか、それとも同類を酷くけなされたためか、流石の萃香も肩を落としているようだ。酒にでも誘って元気付けたいのはやまやまだが、鬼をもてなすのは今のわたしの立場だと良くないのだろう。何とも面倒臭い案件だった。
「これを書いた奴はさ、わたしがどういう奴か知り尽くしてるね。血気にはやった若衆たちの仕業じゃない。少なくともお山の大将やってたとき、下についてた天狗の誰かがやってる」
となると少なくとも千年は生きたかなり旧い天狗ということになるだろう。力量も山での立場もそれなりに高いはずだ。そうした立場のものが裏で糸を引いているのだとしたら厄介だなと思ったが、ふと疑問が浮かんできた。
「巧妙に山の社会を煽っておきながら、正体を絞られるような真似を敢えて冒すものかしら?」
「それが分からないんだよね。前回は若々しく露骨な挑発、今回は赤裸々な悪意。この二通は発案者が異なるのではないかとも考えたんだよ。天狗も一枚岩でないから、前者に乗っかる形で後者の文書が出された可能性もある。相手の魂胆があまりにも読めないというのが流石に少し気持ち悪く思えてきてね。そこで山に登って気難しい妖怪社会の中で暮らしたがる変わり者の人間を見てきたんだよ。周りの思惑はどうあれ彼女が中心人物であることに変わりはない。見定めれば何かが分かると思ったんだがね」
しかし萃香の口調はいまいちはっきりとしない。どうやら上手くいかなかったようだ。
「半日ほどじっと観察してみたが、善良と呼ばれる人間の典型だね。臆病なくせに気丈な振る舞い、疑り深いけど一度受け入れたものには信を置き、根拠もないのに潔癖でいたがる。いかにも陰湿な怪文書を書きそうなタイプだ」正しく一刀両断だった。文の話を聞く限りではそこまで印象の悪い娘ではなさそうなのだが、萃香は少女に悪い印象を抱いたらしい。「ああいうのは腐るほど見てきた。ちょっと傷めつけたらすぐに掌を返すに決まってる。天狗も随分と甘い種族になったものだ。あんなものを飼い慣らしてへらへらしているなんて」
飼うだなんてなんとも辛辣な言い方だが、現状を正しく理解した上での結論なのだろう。
「性格はさておき、巫女としての技量はどうなの?」
「霊夢には遠く及ばない、わたしなら指先一つで蹴散らせるだろう。精進を積めばいずれはわたしとも渡り合えるようになるかもしれないが、今の性格で郷に適応するのは難しいかな。兎にも角にも妙に後ろ向きなんだよ。強者の数多ひしめく中で人間がやっていくためには一にも二にも前向きさ、あるいは根拠のない自信が必要だ。魔理沙や霊夢を見ればそれがよく分かる」
引き続き手厳しい意見だが、それでも才能や能力を全否定するものではない。磨けば相当光るものになるのだろう。問題は角を削って丸くするのに酷く難儀するということだろうか。
「腕が立つなら自信を付けさせてやるしかないかなあ」外からやって来た人間に自信を与える方法なんて一つも思い浮かばないが、静観してどうにかなる状況では完全になくなっている。おまけに萃香の覚えがめでたくないのも良くない。腹立ちが極まって鬼隠しで解決してしまうかもしれないからだ。「あんたも一応年長なんだから少しくらい我慢しなさい。神輿【みこし】に担がれたくないんでしょう?」
「あんな人間がてっぺんに立つなら考え直しても良いかなあ……」
一体全体、山の上の巫女は何をやったのだろう。鬼にここまでそっぽを向かれ、ねちねち嫌がられるなんて相当のものだ。少なくとも怪文書の一件だけでは説明がつきそうにない。そういえば文も彼女に対して妙に頑なな態度を取っていた。妖怪に対して敵意を持たれやすい体質なのだろうか。だとしたら尚更のこと、妖怪の山にいるなんてまずいと思うのだが、本人はどう考えているのだろうか。
「ほらほら、妖怪の山に鬼が立ったりしたら面倒だって知ってるでしょう? それに……そう、文だって困るだろうし」
おそらく旧知の仲であろうと踏んで名前を出したのだが、萃香はいよいよ顔を赤くして比喩でなく蒸気を噴き出すのだった。怒り心頭に達したと言わんばかりの反応に、しまったと口を塞いでももう遅い。
「もう知ったことか! 全部滅茶苦茶にしてやるからな!」
そして取り返しのつかない捨て台詞を残し、全速力で駆け去って行った。鬼は嘘を嫌うからああ言った以上、妖怪の山へ乗り込んで行くに違いなかった。
訳が分からず呆然とする暇さえ与えないと言わんばかりの入れ違いで文が神社にやって来た。しかもへらへらと笑っているものだから、腹が立つのも仕方ないというものだろう。
「こんにちは霊夢さん、修行の成果はどうでした……って、不機嫌そうな顔ですね。芳しくありませんでしたか?」
「ついさっきまで萃香がここにいたの。全部滅茶苦茶にしてやるですって」面食らう文の顔に僅かだけ溜飲を下げると、二通目の怪文書の内容を掻い摘んで文に伝える。よほど酷い内容だったのか、その表情はみるみる曇っていった。「旧い奴が一枚噛んでるんじゃないかって萃香は考えてたわ」
「さもありなん、わたしでもそう考えたでしょうね。妖怪の山にも檄文が密かに広まりつつあるようで、新しい支配者と旧い支配者の対決はもう避けられないといった情勢になっています。こうなるとわたし程度の政治力ではどうしようもありません」
「その割には最初はへらへらしてたじゃない」
「それはまあ、霊夢さんは山も天狗も関係ないですからね、気楽なんですよ。少しくらい息抜きしないと眉間に皺が寄りすぎて爆発します」
実際には余計な厄介事まで知る羽目になったわけで、こちらもままならないなと思う。だが同情している余裕はない。
「萃香ったら、あんたの名前を出したらえらくお冠になったわよ。何か怒らせるようなことを仕出かしたの?」
「さあ、よく分かりませんね。取材と称して様子を伺った時はお互いに元気そうで何よりだ、みたいなことを言われました。その後で散々、弾幕決闘に付き合わされましたが。かつては豪放磊落【ごうほうらいらく】を旨とした御仁がちまちました遊びに熱を上げるなんて思いもしませんでしたよ」
やはり文は萃香のことをよく知っているらしい。話すうちに少しずつ表情が緩んできたからそれなりに馴染みもあったのだろう。
「大江山って所にいた頃は仲が良かったの?」
「鬼と天狗では身分が違いますよ。ただあの方は若干、変わった趣味を持っていましたね。口だけ達者なずる賢い妖怪もどきを囲ったり、わたしも何故かは知りませんが、やけに気に入られていました。鬼は宝を集める趣味があると言いますが、あの方のセンスはお世辞にも良くなかったですね。金銀財宝も美姫も大好きでしたが、それとは別にくすんで打ち捨てられたごみのようなものを密かに愛でるのですよ」
仕方のない奴だとばかりに萃香のことを語る文に同意しかけ、ふと妙な違和感を覚える。自分のことをまるで価値のない代物のように話すだなんて天狗らしくない。以前にも疑問に思ったことではあるが、文はどうも型通りの天狗というわけではないようだ。それとは別に萃香が腹を立てた理由も分かった。かつて所持していた宝の一つが奪われたとでも考えたのだろう。山の神社に住む巫女に対するねちねちした態度もそれで納得がいくというものだった。
逆に言えば取られたと考えるほど、文はその巫女に対して傍目にも分かるほど好意的に接していたことになるのだが、その辺は邪推になりそうなので深くは考えないことにした。
「その話を聞く限り、萃香のご機嫌を取れるのはあんたしかいないように見えるのだけど」
「そうですね、だから少しだけ痛いのを我慢します」文はそう言って袖をまくり、腕っぷしを示す。「一度本気で戦ってみたいと言われたことがあるんですよね。当時は立場の差も今よりずっとくっきりしていましたし、万が一わたしが勝ったら大変ですから」
その物言いは過剰なくらいに天狗らしかった。わたしが疑問に思ったことを感づいたのかもしれない。にへらと笑うその様子からはその心中を量ることは出来なかった。
「神社側としてなんとか物事が丸く収まるよう頑張ってみます。努力とか頑張るってあまり柄じゃないんですけどねえ。どうにもわたしは昔から損な役回りばかり回ってくるような気がしますよ」
「それは自業自得なんじゃない?」
文は頭を掻きながらあはは、と力なく笑う。それでこちらも萃香の件で張っていた肩の力がすっかり抜けてしまった。
「先の件は今日話を通して、明日にはこちらへ寄越します。こうなるといよいよ、少しでも強くなってもらわないと」
どうやらようやく、山の巫女に会えるらしい。どんな少女なのだろうと想像を巡らせるがどうにも固まらない。外の人間だなんて冴月と名乗っていたあの吸血鬼の少女くらいしか思い当たる節がなかったからしょうがないとは言えるのだが。
「では、わたしはこれで失礼します。あれやこれやとやることが多いので」
ああ忙しいと零しながら飛び去っていく文を見てから、わたしは眉間を揉みほぐす。いつの間にか皺が寄ってないか確かめたのだが、幸いにしてすべすべした手触りだった。
翌日の朝早く、神社の外からたのもー! と、気持ちの良い高音が響いてきた。あれが例の山に住む巫女なのだと察し、眠気を抑えながら慌てて身だしなみを整え、外に出る。向こうもわたしに気付いたのか深々とお辞儀をし、だが顔を上げてもこちらに近づいて来ない。じっとこちらの様子を窺うだけだ。文が言外に難儀だと伝えていたのはこういうことなのかと妙に合点がいった。こちらから手招きをすると少女はもう一度小さく礼をして小走りで近くまでやってきた。とはいえ微妙に距離があり、わたしから一歩詰めるとさりげなく半歩、少し間を置いて半歩下がった。これ以上近づくなという態度が表情にありありと浮かんでいる。
「東風谷早苗です、よろしくお願いします。ちなみに東に風に山谷の谷でこちや、早いに田んぼの苗で早苗と読むのですが……貴女は博麗の霊夢さんですか?」
「のはいらないわよ。博麗霊夢、よろしくね」もう一度半歩だけ近付き、今度は退いたりしなかったけれど、責めるような色が瞳の奥に浮かんだような気がした。「早苗で良いかしら?」
訊ねると早苗はしゃっくりをするようにびくんと震えた。
「えっと、あっ、はい! 早苗です」
「取って食べたりしないわよ。文ったらわたしのこと、なんて話したのかしら」
「鬼を倒せるほど強いのだと……その、霊夢、さん!」何故か強い調子で呼ばれたあと、早苗は一気に俯いてしまった。「霊夢さん、鬼とはどれくらい強い物なのでしょうか?」
「少なくともここに来て数ヶ月程度の人間が、それなりに人並み外れた力を持っているだけの理由で挑んで良い相手では決してない」
本当なら避けろと言いたかったけど、もはやそれが通用するような状況ではない。それならばせめて、己がどれだけの無茶をしているのか認識させたかった。
「文さんは数合わせで良いと言ってくれてますが」言うに事欠いて文さんと来たものだ。本来なら少し虚勢を張ってでも妖怪に強く出るのが巫女としての在り方なのに。これではさぞかし御し易かったろう。「わたしは強くなりたいのですよ!」
「強くなれって文に言われたの?」少し突いてみると早苗は顔を赤くして首をぶんぶんと振る。「言っておくけどあいつは平気で気休めを言うし、嘘も付くわよ。どんなおだてに乗せられたかは知らないけど」
「自分に都合の良いことばかり口にする人……もとい天狗であることは知ってます。わたしを心の底では全く信頼していないってことも」
「じゃあどうしてうちを訪ねてきたの?」
そう訊ねると早苗は意を決して顔を上げ、ふんすと鼻息を鳴らすのだった。
「だって悔しいじゃないですか!」先程までの弱気は鳴りを潜め、その目には強い光が灯っていた。「外の世界では信仰も神社も単なるお飾りで、お神輿に乗ってにこにこ佇んでいるだけでした。ここではそのどちらとも当然のように受け入れられているのに、それでも同じ立場に甘んずるしかない。ほんの少しでも良いからあの澄まし顔した天狗を驚かせてやりたいのです!」
早苗は半歩前に進み、わたしの手を進んで取る。始めの一歩こそ酷くのろ臭いが、一度こうと決めたら一直線に、それこそ天狗よりも早く踏み込んでくるらしい。文の調子がいつもと違うのも、もしかしたら彼女の両極に触れる性格に振り回されたからかもしれない。
「急仕込みだから荒っぽくなるけど、良いかしら?」
「はい、修行のためでしたら亀の甲羅でも鉛入りのリストバンドでもなんでも装着しますから」
「いや、そんなものいらないから」どこで仕入れてきた知識なのかは分からないが、これからすることを格闘の稽古とでも勘違いしているらしい。「神と交信する術を学ぶのに腕力は必要ない。でもきっと体を鍛えるよりきついわよ」
早苗はごくりと唾を飲み込み、拳を握り締める。良くも悪くも純粋というか猪突猛進なところのある少女だった。手綱は気をつけて握らなければと、わたしは心密かに思うのだった。
やることはわたしの時と同じだった。ひたすらに力を使わせて心身を疲弊させ、一種の無我状態に持ち込むのだ。そのことを早苗に前もって伝えたりはしない。話してしまうと無意識のうちに考えてしまい、限界を僅かに手前へと定めてしまうかららしい。あの修行はそんな生易しいものではなかったと思うのだが、紫は首を横に振るだけだった。人間の自己に制限をかける能力を甘く見てはいけないのだそうだ。まるで人間は天性のサボリ魔だと言われたような気がしたけれど、少なくともわたしには何も言い返せなかった。
霊力を高めるためと称して適当にそれらしい舞台を作り、早苗をその中心に立たせて、紫曰く穴を掘って埋め直す作業をしてもらうことにした。神事に詳しくて何も意味がないことを指摘されたらどうしようかと身構えていたが、早苗は目を輝かせ進んで中心に立ち、霊力を込めた御串を気合を込めて振り始める。数分ほどは見ていたけれど、サボるようなことはないだろうと判断して早目の買い物に出掛けることにした。今日から少しの間、二人分の食事を用意しなければならないからだ。萃香が居着いていた頃はいつも二人分用意していたけれど、元々風来坊の気質があったのか徐々に疎遠となってしまい、また元に戻ってしまったのだ。
買い出しを終えて戻って来ると絶句するような光景が広がっていた。色とりどりの紅葉が境内を覆い尽くすように落ちていたのだ。一体何が起こったのかと早苗のいる所に向かえば、先程より若干疲れているものの御串を力強く振り続けていた。
「早苗、中庭の惨状は一体全体どういうことなの?」
険を込めて問い質すものの、何のことだかまるで分からないといった調子だ。早苗の反応を見ようと訓練をやめさせてから中庭に引っ張っていこうとしたのだが、不意に物陰からじっとりとした視線を感じた。禍々しい気配であり、早苗の力に釣られて山から下りてきた妖怪ではないかと警戒しながら近づくと、リボンをふんだんにあしらった毒々しい色合いのドレスを着た少女が姿を現した。あからさまに不機嫌そうであり、その表情からも友好的とは言い難いようだ。
「いきなりこんな所に喚び出されたかと思えば放置だなんて、巫女の癖に神への扱いを心得ていないのね」
お前のような禍々しい神がいるかと言いかけ、思い当たる節に一つだけ辿り着いた。
「もしかして厄神様なのかしら?」神社の仕事に使わなくなった古い物を定期的に集め、供養するというものがあるのだけど、時折何時の間にか姿を消すことがある。子供の頃に一度遭遇して師匠に慌てて報告すると、厄を祓う神様が持って行ったのだと慰めてくれたのだ。「今は古い物が全くないの。もう少ししたら集まると思うのだけど」
「それならば喚びつけないで欲しいけど……まあ良いわ、未熟な巫女が仕損じてわたしを喚ぶのは良くあることだし。良い厄も吸えたから良しとするけれど」そう言って厄神様は早苗に憂うような表情を向けるのだった。「自分を憐れんでばかりいると、冥い感情が溜まるばかりよ。貴女はただでさえ喚びやすい体質なのだから気をつけなさい」
それだけを残し、厄神様はさっさと立ち去っていった。早苗は思い当たる節があるのか暗い表情を浮かべていたが、わたしの視線に気付くと慌てて手を振り、ぎこちない笑みを浮かべた。
「それよりも中庭の惨状とはどういうことなのでしょうか?」
当初の目的を思い出し、わたしは早苗を落ち葉の海へと連れて行く。早苗の驚きに嘘はなく、意図したことでないのは明らかだった。しかし同時に彼女の仕業であることも半ば確信していた。おそらく厄神様だけでなく秋の紅葉の神様までここに喚び寄せていたのだ。
「申し訳ないけど、片付けを手伝ってくれないかしら」
早苗は一も二もなく頷き、そして二人で額に汗水垂らしながら落ち葉を掃き集めていった。
わたしは特に気にならなかったのだが、早苗が汗臭くてべたべたするのを嫌がっていたため、食事より先に風呂を用意することにした。早苗を先に入らせたから温めのお湯にじっくり浸かることになったのだが、自分で思うよりもずっと疲れていたのだろう。つい長居してしまい、冷めた湯に震えて気付くほどだった。夕飯を待たせて申し訳ないなと思いながら急いで風呂から上がると、作っていないはずの料理の匂いが漂ってきた。慌てて着替えてから台所に向かうとエプロンに三角巾を身に着けた早苗が火の前に立っている。外から来たと言うから不慣れだと考えていたのだが上手く火を使っていたし、魚のわたも綺麗に抜いてあり、包丁捌きも見事なものだった。母親によく仕込まれたのか、あるいはわたしのように小さい頃から一人暮らしで料理を作らなければならない生活をしていたのだろう。じっと観察していると早苗もこちらに気付き、申し訳なさそうに頭を下げた。
「差し出がましいかとも考えたのですが、逗留するだけというのも申し訳ないですし、材料から献立も見当がつきましたので。ご迷惑でしたか?」
「いいえ、大助かりよ。でも大丈夫なの? 結構きつくしごいたはずだったけど」
修行が終わった直後は気の毒なくらいばてていて、先に風呂へ入ったら食事をする間もなく気絶するように眠ってしまうかもしれないと思っていたのだが、ことのほか元気そうだった。かといってわざと疲れたように見せ、余力を残していたとも考えにくい。
「それがお風呂に浸かっているうち、少しずつ疲れが取れてきたみたいでして」
たかだか数十分の入浴で何とかなる疲れでもなかったはずだ。もしかすると普通の人間よりも、下手をすると妖怪じみて回復力が高いのかもしれない。
「昔からそうだったの?」
「ええ、子供は疲れ知らずなんだなって呆れられることも多かったですね。ただ運動神経はそれなりに毛が生えた程度でしたけど……もちろん何の力も使わずにですよ」
「能力を使って狡してたとは言わないわよ。そういうことできそうにも見えないし」
すると早苗は失礼なことにくすくすと笑いだした。
「文さんと同じようなこと言うんですね」それはどういうことかと訊ねたかったが、料理の煮立つ音が邪魔をした。「居間で待っていてください、もうすぐ完成しますから」
やんわりと追い払われ、わたしは襦袢を着てぼんやりと料理の到着を待った。一人暮らしが長いせいか他の人が料理を用意してくれると時間を持て余してしまうのだ。完成には十分とかからなかったが、何度も欠伸を噛み殺してしまった。
早苗が用意してくれた料理は流石に藍ほどではないけれど、どこに出しても問題がないくらいには味も盛り付けも申し分がない。全体的に味付けがくっきりしていて、僅かに紫の料理を思い出したけれど飽きが来ることは一切なかった。
食器を片付けてから早苗の布団を客間に敷こうとしたのだが、すると「同い年くらいの女子がお泊りする時には、寝床でお喋りと話が決まっています」と、拳を固めて力説されてしまった。
「霊夢さんともう少しお話したいと思っていたところですし」
修行の疲れなどもはやどこにやらといったところだ。やはり彼女はただの人間として扱うには些かかけ離れすぎている。本人に自覚がないから余計に性質が悪い。文が早苗を持て余していたのは人間とそうでないものを激しく行き来することに振り回されたというのもあるのかもしれない。
「もう眠いから、付き合うのは少しだけよ」
嬉しそうに付いてくる早苗を見て、わたしは心密かに思うのだった。この子は外の世界で友達が全くいなかったのではないかと。もちろんそんなこと口にはできなかったのだけど。
早苗は寝床に入った途端、細々とした声でわたしを質問攻めにしてきた。といってもわたしが巫女としてどのような活躍をしたのかというのが主で、生まれや育ちに踏み込んでくることはなかった。好奇心に駆られてはいるが一線は理解しているということだろうか。少し考えたのち、その日は紅魔館の連中が起こした騒ぎについて掻い摘んで話をした。早苗に自信をつけるならわたしが至らなかった頃の話をすれば良いのは分かっていたが、魅魔の出てくる話をするのは何となく憚られたのだ。早苗は特に疑問に思うこともなくわたしの話を楽しみ、そして途中でころんと眠ってしまった。話しているうちに反応や相槌がなくなったので分かったのだが、なんとも自分勝手というかマイペースだ。あるいは体が大丈夫でも心には疲れが溜まっていたのかもしれない。枕が違うのでゆっくり休めるかは分からないけれど。
それにしてもあまりに無防備な寝姿だった。泥酔した魔理沙でさえ、もう少し気を張って寝ていたような気がする。外の世界が彼女にとってどうだったかは知らないが、少なくとも平和な場所ではあったらしい。妖怪に襲われることも、それ以外の敵に脅かされることもなかったのだろう。それは素敵なことだが、ここに来た以上は危ういことでもある。とはいっても今後、寝首をかかれるようなことがないように願うことしかわたしにはできないのだが。
二日目になるとわたしの懸念はより確かになった。どんなに力を濫費させても少し休めば回復するし、遂には休憩なしでもへたれなくなってしまったのだ。何度も手抜きを疑ったのだが、その瞬間の疲労は本物であるし、それが数分後まで持続しないのもまた確かだった。外の世界から来た人間に時々あることだが、この地に来て自然と力を獲得しつつあるのかもしれない。初日に見せた厄神様や秋の神様の召喚も全く起こる様子がない。無我に至るほどの強烈な疲労にまで辿り着かないのだろう。
三日目、四日目はあっという間に過ぎ、早苗は神社での生活にすっかり適応してしまった。最初に覗かせていた人見知りがポーズであるかのように神社の家事を半ばしきり、放ったらかしにしていた細かい箇所を指摘しては手を入れるまめさも発揮していく。わたしのほうが疲れてしまうくらいで、紫がわたしにやったのと同じ方法で神憑ろしをその身に実感させるのは極めて困難だろうと判断せざるを得なかった。そこで仕方なく別の手段を試してみることにした。
神を憑ろすには一種の無我状態に持ち込み、その中で神の住まう世界との繋がりを実感する必要がある。だが修行不足なのか、それとも早苗と同じような体質だからか、なかなか自力で辿り着けない霊能力者も過去には大勢いたらしい。そこで酒や種々の薬物を使い、無我に至る一助と成した。それで成功した例も少なからず存在するらしい。だが、あまり推奨できないと紫は言っていた。よほど綺麗に意識を飛ばす必要があるらしく、そうなると濃度の高い酒、効き目の強い薬物を使う必要がある。しかも使用を続けるうちに耐性がつき、効き目が悪くなる。依存症に陥り、無我よりも意識混濁に向かいやすくなる。いよいよ上手く行かないとなると、神に憑かれた振りをして衆生を騙すようにすらなる。少々の力や信仰と天秤にかけるにはあまりにも代償が大き過ぎるのだった。
それでも実行しようと決めたのは、軽い気持ちでお酒でも飲まないかと誘ってみたとき、少し口にしただけでべろんべろんになってしまうという話を聞いたからだ。巫女なのに酒に弱いとは難儀なことだと思ったが、慣れないうちにこつを掴んでもらうのはありかもしれない。五日目の夜、わたしは早苗を強引に押し切って食後に軽い飲み口のお酒を飲ませることに成功した。顔がみるみる赤くなり、目つきがとろんとするまでは良かったが、突如としてがくんと首が落ち、テーブルに頭をぶつけてしまった。かなり派手な音がしたから瘤【こぶ】ができていないか確認しようとしたのだが、唐突に強い圧迫感を伴う気配が生まれ、ゆらりと顔を上げる。瞳の色は爛々とした金色であり、髪の色も心なしか黄みがかっているように見えた。厄介なものが憑いたのかもしれないと慌てて札を構えたが、早苗の体にいる何者かは慌てて手を振りわたしを制止しようとする。
「待っておくれ、怪しいものでは……いや、こう言ったほうが良いかな。早苗を害するつもりはないのだと。わたしはこの子の味方なんだ」
わたしは警戒を保ちながら腰を僅かに落とし、足を崩したままにする。いざとなったらすぐに立ち上がり、目の前の怪異を祓うためだ。
「ゆえあって名乗ることはできず、素性も明らかにすることができない。ここで名乗るとお前に対する影響力が生まれてしまうからね。名前を握られると惹きつけられてしまうんだ、不躾なことは勘弁して欲しい」
その説明だけでわたしには彼ないし彼女が何者か分かった。きっと早苗に縁の強い神なのだ。神社とともにこちらへやって来た柱なのだろう。その来歴は気になったが、それよりもまずは訊かなければならないことがあった。
「その体を借りて話しているということは、早苗には神を憑ろす素養が既に備わっているということね」
「ああ、実力は劣るがそちらの方面に関してだけ見ればお前よりもずっと優れている。ただし一つ問題があってね……異物を己の中へ招き入れるのに強い抵抗感があるんだ。喚ぶだけで憑依することがないのはその証左とも言える。今は酒で意識を失っているからするりと入り込むことができるのだがね。これまでもそうすることで早苗を守ってきた」
霊を受け入れ過ぎる肉体は邪な霊や神が利用しようと企むはずだ。そうなる前に憑いて悪い虫を追い払っていたのだろう。
「早苗の持つ自己否定の強さはシャーマンとしてうってつけなのだが、それも度が過ぎると上手く機能しなくなる。調和の取れない力は容易に暴走へと向かうわけだ。酒や薬に頼るのは無我の状態を作り出しても力を使うための強い精神力を冒しかねない。本来なら使いたくないのだが、導入として使わざるを得ないのが現状だ。何とかして酒を飲ませてその隙に憑依することで少しずつ適正を上げているのだけど、早苗は酒で自己を喪失することに強い抵抗感を示すようでね。滅多なことでは口にしてくれない。精神の連続性が担保されなければ許されないという強迫観念があるらしい。わたしくらいの視座を持てば時も精神も決して連続しているわけではないと分かるのだが、人間の認識でそれを理解させるのは難しいんだな」
厳かな雰囲気での登場とは裏腹に、何とも友好的で多弁な神様だった。それはつまり神としての個が長い時間をかけて形成されてきたことを示す。やはり相当に力の強い神様なのだ。それがいまや巫女の体を借りてしか登場することができない。外の世界で不可思議が失われつつあることを肌に感じたことはあるけれど、更なる実感をもたらすには十分だった。
「今日ここに現れたのは早苗に酒を飲ませてくれた礼と、これからも機会を狙って欲しいという依頼だ。それがままならないならば神憑ろしに対する安心感を早苗に与えてやって欲しい。わたしではそれを与えるどころか、恐怖を染みつけることしかできなかった」
深く憂う表情を見て、外の世界で何らかの問題に直面したことが察せられた。だが話し終えて頑なに口を閉じた様子からして打ち明けるつもりはないらしい。流石にそこまでは信用されていないというわけだ。ならばわたしから信頼を示すしかない。
「何とかやってみるわ。その代わり、ことが上手く行ったら神様なんだからこちらにも益になるよう計らいなさいよ」
「それはもう。笠地蔵もかくやの贈り物を期待しておくれ」
それだけを残すと早苗の瞳が金色から、くすんだ黄色に戻っていき、今度はゆっくりとテーブルに突っ伏す。圧迫感も急速に薄れ、何度か瞬きすると神の気配は完全に消えてしまった。
「あれ、どうしましたか? わたしのことをじっと見て」一瞬、早苗本人の気配すら感じられなかっただなんて言えなかった。そんなことを話したら何かが憑依していたのだと教えることになるからだ。「もしかして変なことでも口走りました? 美味しいお酒なのでつい度を越して飲んでしまったみたいですね、申し訳ないです」
ぺこぺこと頭を下げる様子からして、本当に酒で自分が変わることを恐れているらしいことが分かる。その顔には少なからぬ怯えが浮かび、体も微かに震えていた。
「妙なことは口走ってないから大丈夫よ。綺麗にことんと眠っただけ。今もきちんと話せているし。量は飲めないけど弱いというわけではなさそうよ」
「だと良いのですが。母も祖母も鯨飲なのに、わたしにはどうも遺伝しなかったみたいです」
薄くはにかむ早苗からは独特の儚さというか、存在の虚ろさのようなものが感じられる。まるで空っぽの器のようだ。これまで全く気付かなかったのだが、神の憑依とその離脱によってそのことがわたしの目にもはっきりと分かるようになっていた。
「お酒のせいかとても眠いですね。名残惜しいですが、今日は片付けをしてお風呂に入ったらすぐに休みましょう」
そう言って明るく笑う早苗から空虚さは感じられなかったけれど、きっと彼女の欠落は心の奥深くに根付いているのだろう。暢気と思えるほど熟睡できる暮らしをしてきたからといっても、この郷に入ってくるだけの事情があるのだ。
願わくば彼女の負担と空虚さが良い形で埋め合わされるように。わたしは柄にもなくそんなことを思ってしまった。
残りの二日は早苗の体に憑依した神様の言う通り、飲酒の機会を作るよう試みてみた。だがお酒を飲んで意識を失ったことをよほど気にしているのか、静かな物腰できっぱりと断られ、強引に別の話題へとすり替えてしまう。よほど大きな失敗をしたのではないかと容易に推測できるが、あまりにもつっけんどんで詳しく問い質す空気さえ生まれる様子がない。結局のところ早苗に酒を飲ませることはできず、最後の日を迎えてしまった。
その日の夜遅く、早苗から「どんな気持ちで神様をお迎えするんですか?」と訊かれてしまった。予想していた質問であり、わたしなりに答えを考えてはいたのだが、相応しい言葉は結局見つからなかった。本当に夢中で何も考えていなかったからだ。
「ただ一心に、受け入れてるのかしらね」
口にできたのは忠言にもならないぽつりとした呟きだけで、だから大した意味を成さないと思った。だが早苗には感じ入るものがあったのだろう。妙に穏やかな微笑みとともに、そっとお腹に手をやり、さするような動作をする。なんだか落ち着かない気持ちになり、わたしは胸に手を当てる。そこに何かが入るとしてもそれは神様ではないと思うのだ。しかし幸福そうな早苗の様子を見ていると、口を挟むことはできなかった。それにわたしにだって何に神が宿るかなんてはっきりとしたことは言えない。生き物だけでなく、物にだって神意の宿ることはある。胸の奥に宿るのか、腹の中に宿るのかなんて些細な違いなのかもしれない。
最後の夜はわたしも名残惜しいのか、布団に入ってもあまり眠くならなかった。妖怪退治の話をせがんでくる早苗にも少しだけ寛容な気持ちになれたが、いざ話をしようとしてネタが切れてしまったことに気付く。紅魔館の吸血鬼、白玉楼の亡霊、人騒がせな鬼の悪戯に、永遠亭の月人たち、一日飛ばして昨夜は四季の花が咲き乱れる異変。未来を読む力などないから、仕方なく過去の、わたしが最も未熟だった時のことを語るしかなかった。即ち神社が悪霊に乗っ取られ、ほうほうの体で逃れたのち逆襲に転じることができた顛末だ。最後まで語り終えると、早苗は弾んだ声で訊ねてきた。
「霊夢さんにも初めての頃があったんですね」
「そりゃそうでしょ。あんたわたしのことなんだと思ってるのよ」
わたしがまるで土を捏ねて創り出されたかのような物言いだった。表情から察するに深い意味はなさそうであり、はたして早苗は無邪気な調子で話を続けるのだった。
「見た目だと同い年くらいなのにとてもしっかりしてるから、中途半端だった時期というのが想像できないんですよね。それくらいの才能がないとここではやっていけないのかなあと少し……いや、かなり不安でした。でも、こういうことを言うと怒られそうなんですけど、霊夢さんくらいの人でも失敗するんだなあと知ることができて少しだけ……いえ、かなり気持ちが楽になりました」
割といつでも失敗してばかりなのだが、早苗にはそういったところが一切映らなかったらしい。それにしても、失敗談一つでこんなにも落ち着いてくれるのであれば、これまでの話にもちゃんと盛り込めば良かったなと今更ながらに後悔の念が湧いてきた。下手を打った箇所はちょくちょく誤魔化してしまったのだ。一つだけで満足しているようだから問題はなさそうなのだけど、いずれ来る次があればもう少しだけ気をつけようかなと思った。
「言っておくけど、失敗しても良いというのは最初から失敗すると決め込んで良いというわけじゃないのよ」
「ええ、分かってます。だからわたしはいま、ここにいるんです。短い時間ですが、少しは力を身につけられましたし」それは単に疲れにくくなっているだけで、地力が格段に向上しているわけではない。それが分かっているのかと不安になったけれど、早苗に必要なのはなんであれ自信を付けることだと考え直し、厳かに頷いておいた。あとは文の言う通り、彼女が持っているものであることを祈るしかない。「霊夢さんには本当に感謝しています。報いることができれば良いのですが」
「それならば山の問題を解決しなさい。あるいはわたしが解決できるような形に整えるだけでも良いから」
「問題を解決できる形というのはどういうことですか?」
「弾幕決闘で万事が収まる異変。倒すべき敵がいて、そいつをわたしが退治したら一件落着になるの」
早苗はしばらく黙り込んでいたが、しばらくして「善処してみます」と囁くように言った。天狗の起こした騒動を人間が収めるというのはやはり、ただの人間には非常に難しいことなのだろう。前向きに検討すると口にできただけでも十分としておいた。
「いざとなればわたしがお尻を支えてあげるから。山が乱れるばかりというのはわたしにとっても問題だし。まあ早苗の場合、その役目は文がやってくれるのかな?」
再び長い沈黙。今度はじっと待ってみても答えが帰ってこなかった。文に対して何らかの不信でも抱いているのだろうか。答えは不安と怯えの入り混じった顔を浮かべたことから知ることができた。
「霊夢さんは文さんをよく知っているんですか?」
「たまにちょっかいをかけて来るだけよ。最近だと山の様子が面倒臭いことになってるから、いざとなったら協力して欲しいとか。きっと早苗のことを考えてくれてるんじゃない?」
天狗はそんなに生易しいものではないのだが、早苗の反応が見たくてわざとそんなことを言ってみた。果たして早苗は頬を赤くし、込み上げる嬉しさをなんとか堪えようとしていた。薄々勘付いてはいたが、この娘は厄介な天狗の一人にお熱なのだ。
「だと良いのですけどね。きっと天狗社会のため、みたいなことを考えてのことだと思います」
「もう少し自信を持って良いとは思うけどね。というより相手は天狗なんだから、我を強く持たないと呑まれるわよ。逆にこちらが丸呑みするくらいの気概でいかないと」
「なるほど、それでこそ守矢という気もしますし、心掛けてみます。文さんをぺろりと……」
自分で口にしておいてツボにはまったのか、早苗は顔を赤くしてしまい、布団に潜り込んでしまった。こちらも妙に照れ臭くなってしまい、早苗と同じように布団を被り、眠った振りをする。その内に早苗の寝息が聞こえてきて、わたしの意識もいつの間にか緩んでいった。
八日目の朝、早苗は来た時より少しだけ自信ありげに神社を後にした。こそばゆいくらいのお礼と、また来ますという約束を残して。以降は関係者が誰も訪ねて来なかったから、どのような結末を迎えたかは分からないが、何らかの事由があり結果があったのだろう。
そして紅葉も深まり、風とともに舞い散り始め、いよいよ冬も近付いて来たなという頃になって前触れもなく萃香が神社に転がり込んできた。珍しく酒を入れておらず、気鬱そうな表情で、美味い酒を勧めてもちっとも乗ってこないし、理由を聞いても塞ぎ込むだけだった。ご飯を持っていっても全然手を付けないし、あまりの落ち込みようで遂にはじとじとと辺りが湿り気を帯び始め、冬の到来を予見させる乾いた風すらも打ち払うことが叶わない有様だった。このままでは萃香の陰気に包まれて神社が駄目になってしまう。翌日になっても立ち直らないなら無理矢理外に引っ立てて、一勝負吹っかけるつもりだった。
その日の午後遅く、早苗が神社にやってきた。何やら神妙な顔をしており、萃香さんはいませんかと訊ねてきた。酷く落ち込んでいると話したら何かに気づいたかのようにはっとした顔をして、わたしに断りも入れず部屋に上がりこんでいく。そこで萃香とおそらくは二言、三言会話を交わしたのだろう。早苗は何かを決意したような顔で飛び出していき、そして萃香が天岩戸から姿を現した。
「霊夢が前に話していた、とびきり美味い酒をご馳走してくれないかな」とびきりとまでは言ってないが、何か大切なことが会ったとき、開けようと考えていたものだ。「酔って、調子を取り戻したい」
「しょうがないわね、付き合ってあげる。いっそのこと人を集めてぱーっとやりましょうか」
「いや、良いよ。霊夢と、あと一人だけいれば」
「あらあら、お呼びかしら」紫の声がして、わたしと萃香の前に見覚えのある亀裂が現れる。今日は足の方が地面に向いていて、手には酒瓶を持っている。「霊夢のとっておきには勝てないかもしれないけれど、僭越ながら楽しく酔えるお酒を持ってきました。これで重苦しい湿り気を払ってしまいましょう」
少し早まったかなとも思ったが、たまには二日酔いも良いだろう。今日はこの小さな鬼にとことんまで付き合ってやるつもりだった。
それから更に時が過ぎ、落葉も盛んとなり、いよいよ冬支度の準備を始めようという頃だった。そんな空を眺めているとこちらへ向かってくる人の姿が遠目に見えた。もうすぐ冬だというのに、早苗は腋の空いた服を着て寒がる様子が一つもない。子供は風の子と言うけれど、風そのものである彼女にも寒さは堪えないのかもしれない。頬が微かに上気していて、ここに来る途中で決闘に巻き込まれたかなと思いながら出迎えると、いきなり御幣をびしりと突きつけられた。
「この神社をこれから守矢の管轄とします。異論はありやなしや?」
いきなりとんでもないことを言い出した早苗に、言葉が咄嗟に出てこなかった。
「いや、駄目に決まっているでしょう。山の空気にでもあてられていよいよ頭がおかしくなってしまったの?」
「神なき社に意味はない。それならば神を得たわたしたちが有効に活用すべきとの、御柱【みはしら】様からのお言葉です」
その口ぶりからして早苗は求めていた神を見出すことに成功したらしい。やけにつやつやしているのもきっとそのせいなのだろう。
「霊夢さん、この社にも神を喚ぶべき時が来たと思いませんか?」
「いいえ、ちっとも、これっぽっちも」
「では守矢の社までご足労いただければ。わたしは神の伝言役にしか過ぎません。詳しくはこの郷の規則に従い、直に談判していただければ」
早苗はにっこり笑うと周囲に風を巻き起こし、木の葉とともにどろんと消える。落ち葉が大量に撒き散らされた境内でしばらく呆然としていたが、そのうちに早苗の発言や行動の意味が分かってきた。弾幕決闘で万事が収まる異変の形をわたしに示したのだ。その上で不敵にもわたしに挑戦している。
「面白い」口元が思わず笑みに歪む。普段のわたしなら面倒臭いと思っただろうが、手を出せない事態が長く続いて鬱憤が溜まっていたのかもしれない。「あんたが求めていた神様とやら、見せてもらうわ」
札や針の他に、暇をあかしてあれこれ思考錯誤していた装備の見せ所でもあるのだろう。高揚する気持ちを抑えながら、わたしは境内に散らばる落ち葉を見ない振りをして、異変解決の準備に取り掛かるのだった。
準備中
初めまして、あるいはお久しぶりです。
長い修羅場が終わり、平穏を取り戻したばかりのサークル管理人、仮面の男です。
以下には浮世の巫女全編のネタバレが含まれますので、未読の方はブラウザの戻るボタンを押して引き返すことを強く推奨します。
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これをもちまして、霊夢を主とした物語もようやく完結となります。原作ではまだまだ元気に活躍するのでしょうが、それに先んじて彼女の最果てまでを描いてしまったことになります。これは二次創作に寛容な原作者をしてもなかなかに不遜なことであり、どのような結末にするかについてはかなり悩みました。
霊夢の死に関しては確定していたのですが、幻想郷にとって死は必ずしも消滅を意味しません。霊夢ほどの存在ならいくらでも人間としての死から逃れる方法はあり、そういった結末も可能性として頭の中に入れていました。
最終的にあの結末を選んだのはやはり鈴奈庵の25話を読んだというのが一番大きいと思います。あの話はわたしの観測範囲ですと、人から妖に化した存在を容赦なく屠る霊夢のメンタリティについての衝撃が主に取沙汰されていたと思うのですが、わたしはあの話を読んで、この子は人間以外のものとして生きるつもりはないのだなあという強い感慨を覚えました。原作の設定に敢えて目を瞑るのもまた二次創作の在り方の一つではありますが、少なくともわたしにはあれを読んで霊夢を人間以外の何かにするという選択肢を選べませんでした。
中巻でもその傾向はありましたが、霊夢をあくまでも人間とするため時には深く懊悩させる必要があり、いくつもの苦い決断をしなければなりませんでした。また彼女には不死に通じる数多の誘惑をはねのけるだけの強さが必要であるため、じっくりと順を追ってその成長を描かなければならず、ここに深秘録や紺珠伝の公開が重なって当初想定していたよりもずっと話を膨らんでしまいました。そして下巻の作業の大半はある意味、霊夢の苦味を煮詰める作業であったといっても過言ではありませんでした。
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上述した内容と相反すると思われるかもしれませんが、浮世の巫女は博麗霊夢の幸福についての物語です。空を飛ぶことというもう一つのテーマとともに、その意図は上巻から常に一貫していたと思います。
どうしてそのようなテーマになったのかと言えば、この話を書くきっかけとなったのが博麗霊夢と幸福論という二次創作小説だったからです。それまでも霊夢について考えを巡らすことはあったのですが、あの本によって彼女と真正面から向き合わなければならないという気持ちにさせられました。それほどに強い衝撃を受けた作品だったのです。
テーマがうまく消化されたかどうか、正直言うとわたしにも自信はありません。幸福というにはあまりに暗く、けれども不幸というのもまた違う、異なる到達点に辿り着いたような気がするからです。五年という歳月は幸福を純粋なものに保つにはあまりに長く、多くの不純物が混ざり込んでしまいました。
書けるだけのことは書きましたし、真摯に向き合ったという矜持はあり、また一歩を踏み出せたという朧げながらの自信もあります。
それでもやはり、わたしは皆様にこう問い掛けるしかないのです。
この物語に霊夢の幸福はあったでしょうか? と。
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まだ語りたいことは山ほどあるのですが、あとがきという領分からは離れてしまいますので、ここで一度、全てを〆たいと思います。
ここまで長大となった物語の最後まで目を通してくださった皆様へ。本当にありがとうございました!
2016/01/05
仮面の男
東方Projectは上海アリス幻樂団様の制作物です。当作品は二次創作作品であり、上海アリス幻樂団様とは一切関係ありません。
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