物語が終わり、新たな夢が始まる。
夢が終わり、新たな物語が始まる。
わたしは寝付きの良いほうではなく、少しでも環境が変わると途端に眠りが浅くなる。夢は浅い眠りと共に訪れるというから、わたしはきっと平均よりも沢山の夢を見ているのだろう。その内容も超能力を反映してか破天荒で念の入った悪夢ばかり。休息を取っているというのに疲労が溜まり、ときとして翌日の活動にまで尾を引くことさえある。だから夢を見るのは好きではなかった。
あの神社のすぐ近くにいると気付いた時も、口をついたのは重たい息であった。あれほど焦がれた場所であるにも拘わらず、夢の中だと分かっただけで憂鬱になる。これからどのような理不尽が襲いかかるのだろうか。妙な奴ら総出で散々追い回された悪夢のような現実を越えることなんてそうはないと信じたいけれど、このわたしの夢は悪い方向にばかり予想を上回る。
「あんた、そこでなにしてんの?」
聞き覚えのある声が耳を打ち、思わず背筋が伸びる。声がした方を振り向くと涼しげな紅白の出で立ちをした少女が立っていた。
幻想郷を這々の体で逃げ出したわたしに追い縋り、圧倒的な力でわたしの企みを粉微塵にした、悪夢の体現とさえ言える人物。名前は確か博麗霊夢だったはずだ。
これからさぞかし理不尽を投げかけられるのだろう。一刻も早く夢から覚めたかったが、いつも通りの悪夢ならばわたしは意識しながらも干渉することができない。まるで三文芝居のように理不尽な劇の登場人物として踊らされるだけだ。
「そんなこと、わたしのほうこそ聞きたいわ!」
だからわたしは半ば開き直り、振り向くと同時に質問を投げ返してやった。すると霊夢は額に指を当て、何やら考え込むような仕草をするのだった。
「あんた、どこかで見た顔ね。つい最近、出会ったりしなかった?」
「つい最近も何も、少し前に会ったばかりじゃない!」
わたしは霊夢がオカルトボールを追ってやって来たこと、最後の一勝負を制してわたしの企みを挫いた顛末をかいつまんで聞かせてやった。するとようやく気付いたとばかり、ぽんと手を打つのだった。
「ああ、思い出した。外の世界からやってきたお騒がせ人間か……ん、ちょっと待って」
言葉がやむとともに目つきが鋭くなり、わたしの顔をじっと睨みつける。わたしが一種のお尋ね者であったことも思い出したらしい。こういう都合の悪いところだけきちんと現実を踏襲するのが忌々しい。
「また結界に穴を空けた? でも都市伝説の絡繰は機能を停止したはず。せいぜい郷の中で妙な噂が流行りやすくなるくらい。それもまあ面倒なんだけど」
霊夢の手の中にはいつの間にかお札が握られている。体を貫くような気迫が徐々に高まり、わたしは思わず後ずさる。気圧されたら負けだと分かっていたけど抗えなかった。
「今度は何をやらかした? 正直に言えば五体満足で帰してあげるけど」
「だからそれはわたしの方こそ訊きたいんだって……というかさ、わたしの夢なんだから少しくらい手心を加えてくれても良いじゃない」
「何を訳の分からないことを。わたしがあんたの夢、ですって?」
素っ頓狂なことを言ったのは分かっていた。この好戦的な巫女はわたしの言葉に何らかの企みを感じて襲いかかってくるだろう。今度もこてんぱんにされ、そして現実と違い目が覚めるまで決して逃れることができない。
覚悟を決め、せめてもの抵抗を示そうと内奥に存在する力を意識する。今回の夢はどうやら超能力を取り上げるほど無慈悲ではないらしい。せめて先制攻撃をと右腕にサイコキネシスをまとって構えれば、霊夢からは先程までの刺々しい気配がすっかり失せていた。
「気が変わった。話を聞かせなさい」
「でもわたし、本当に何も知らないのよ」
「良いわ。知りたいことは勝手に探す。あんたはただ話すだけで良いの」
何が霊夢の気持ちを変えたのかは分からなかったし、知るつもりはなかった。ここはどうせ夢なのだから、きっと理屈なんて存在しない。
「だから腕に込めた物騒な力、収めてくれると助かるわ」
即座に頷き、力を解消する。それで霊夢もあっさりと札を収めてくれた。
とは言っても本当に話せることなど何もなかった。気怠い一日を終えて床に就いたと思ったらいつの間にか神社の真ん前にいた。わたしの記憶通りならば以前、二つの世界を繋ぐ穴の空いた場所だったはずだ。そこに何らかの含意を汲み取ることもできそうだが、いずれにしろ与り知らぬところだった。
霊夢はお茶を一口啜ると、納得したとばかりに頷いた。この奇天烈な状況にきちんとした説明をつけてくれるのかと一瞬期待したが、黙して何も語ろうとしない。夢の中なのだから、わたしが知らないことを説明できると考えるほうが馬鹿だったのだと思い直し、動き出そうとしない状況をどうするべきか思案を巡らせる。
机に何度も頭をぶつけてみれば、目覚められるのだろうか。いや、それこそいよいよ馬鹿らしい。それにこれは夢なのだから、せめて少しでも苦痛を免れたい。黙り同士のまま向き合う重たい空気に耐えられず、わたしは霊夢の煎れてくれたお茶に手を伸ばす。
手がするりとすり抜け、何もつかめなかった。地面に足がつき、神社の中に上がることができて、慣れない正座までして、ここまで何一つ現実を違えなかったのに。
「ああ、やっぱり。なんだか薄いと思ってたのよね」
夢の中だというのに、現実感を喪失したという奇妙な怖れが浮かぶ。今すぐにでも足下が崩れ、目が覚めるまで延々と落ち続けるのではないか。それがこれまでに見たことのない、新たな悪夢の結末なのだとしたら。
「でも幽体ではない。だとしたらわたしに分からないはずがない。そこら中に野良幽霊がふわふわと浮いているのでもない限り」
霊夢はわたしをじろじろと見回したかと思えば次には札を取り出し、予告もなく撃ち出す。顔の上半分を覆うように札が貼りつき、視界が封じられてしまった。
「やはり幽体ではない。だとしたらこの札を受けて無事でいられるわけがないもの。かといって本体でもない。それならあんたの手が湯飲みを取り損ねるなんてあり得ない。えっと、なんて言ったっけ? 外の世界でさ、遠距離にいる相手に声を飛ばす道具ってあるでしょ?」
「……もしかして電話のことを言ってる?」
「そう、それ。あんたは電話と似たような理屈で、声だけでなく存在の一部をこちらに飛ばしているのかもしれない。外の世界の技術なら遠くにいながら相手の姿を見て会話ができるって聞いたことがあるような気がする」
霊夢の言う通り、その程度のことならわたしの持っている携帯端末からでも容易に実現できる。ビデオチャット用のアプリを使えば良いだけだ。しかし同じ理屈で存在の一部を送り込むなんてできるはずが……いや、相手の目に見えて、声が聞こえるのならばそれはわたしの一部を相手に送っているのと同じことかもしれない。
だがこれはそうした解釈の問題ではない。
「わたしはいま、ここにいるのよ」
「知っているわ。その気持ちとともに物をつかもうとすれば、今度は手にすることができると思うの。まあわたしの勘みたいなものなんだけど」
勘という割には自信ありげな笑みだった。そう言えばわたしを追い縋って来た理由を聞いたら同じようなことを言っていたような気がする。
深呼吸をし、おそるおそる湯飲みに手を伸ばす。今度はすり抜けることなく陶磁器の感触をこの手に収めることができた。
大きな安堵が浮かび、続けてこれは一体どういうことなのかと問うてみたくなった。だがその前に目眩のような浮遊感が襲い、全てがあっという間に遠ざかっていった。
目が覚めるといつものベッドの中にいた。
やけに鮮明でそれでいて理不尽なところがない、わたしの意志のままに動くことのできる夢だった。まるであの事件の続きが始まったかのような高揚感を覚え、ちらと視界の端に映った目覚まし時計を見てたちまち消えた。急いで家を出なければ遅刻してしまう時間だった。
慌てて制服に着替えると寝癖を櫛で撫でつけ、言うことを聞かないから超能力で無理矢理寝かせて整える。鞄は昨日の内から用意していたから問題なし。忘れ物をしても瞬間移動を使って取りに帰れば良いけれど、日常生活に超能力を持ち込むのは極力控えたかった。些細なことだからと手を抜けば必ず、どこかでボロが出てしまう。寝癖を直す程度が上限だろうと個人的には思っている。
朝ご飯を食べている余裕なんてなかった。慌てて家を出る前にダイニングのホワイトボードを確認する。
『お弁当を作る時間がなかったから机の上に昼食代、わたしもパパも今日は十九時頃に帰宅予定。前にも話したけど、明日は二人で観劇に行くからお留守番お願いね』
前々から話していた劇団の芝居のことだろう。夫婦仲が良いのは素晴らしいことだ。それでいて娘であるわたしへの気遣いも忘れていない。パパもママも善良で、それが他者への嫌味とならない、本物の人格者。どうしてあの二人からわたしのようなひねくれ者が生まれてしまったのだろうか。わたしがまだ小さな子供の頃には酷く険悪になったこともあるのだけど、そのような過去を感じさせることは微塵もない。
普通の家庭ならば二人の仲睦まじさに多少のむず痒さを感じる程度なのだろう。でもわたしにとってはもう少し複雑だった。超能力者であるため両親と同じ模範を示すことができないのだという罪悪感と、男女の関係にまるで興味を持てないことへの後ろめたさのようなものが存在するからだ。
いずれパパのような男性が現れ、意中ともなれば逢瀬を重ね、もしかすると新たな家庭を持つかもしれないと想像してみてもちっとも現実味を帯びないのだ。クラスの中には恋人がいることを隠そうともしない輩がいるけれど、憧れを感じたことは一度もない。羨ましいとも思わない。むしろ気持ち悪いとすら感じてしまう。
他者に対して強い情欲、所有欲を持たれるだなんて考えただけでも肌が粟立つ。おぞましいことこの上ない。そうして生命を繋いできたのが人間だと説明されれば納得はするけど、わたしにまで適応して欲しくない。とは言っても超能力者だから特別扱いにして欲しいというわけではなく、いわば一種の潔癖性みたいなものだ。体にこびりつく汚れではなく心にこびりつく汚れが許せなかった。
身震いとともに我に返り、いよいよ時間がないことに気付く。思索を打ち切り、あの不思議な夢のことも今は頭から追い出すと、わたしは施錠を確認してからラップ更新の勢いで最寄り駅までひた走った。
なんとか電車の時間には間に合ったものの、全力疾走の反動か疲弊が激しく、一時間目から眠くてたまらなかった。それでも三時間目までは何とか耐えたが四時間目の途中で限界が来たため、教科書を立てて机に突っ伏し、当てられないことを祈りながら目を瞑る。いつもと比べて睡眠時間が足りないわけではなかったが、無性に眠たかった。駅までの全力疾走だって初めてではなかったというのに。悪夢ではなかったけれど、現実感の強さによって知らず知らず疲弊してしまったのだろうか。
こんなことは滅多にしない。特別な力を持つならばそれ以外で少しでも目立つようなことをしてはならないと考えているからだ。普段の素行を鑑みれば調子が良くないから保健室に行っても良いかと言えばおそらく許可されただろうが、それすらも面倒だった。それでも居眠りやお喋りをいちいち咎める教師ならば気力を振り絞ったかもしれないが、今回はそうではなかった。教室で居眠りをしたほうがおそらくは目立たないと判断して、わたしは速やかに眠りへと落ちていく。
目を開くとまた、あの神社の前に立っていた。辺りを見回せば前回の夢よりも全体的に明るく、空を見上げれば太陽がほぼ直上に来ていた。記憶から前回の太陽の位置を思い起こしてみたが、確か早朝だったように思える。
実時間と対応しているだなんていよいよ念の入った夢だ。この時間の霊夢は一体何をしているのだろうか。神社に勤める人間が日柄どうやって過ごしているかなんて想像もできない。定例で行われる神事の準備をしているのか、それとも神学関連の勉強をしているのか。もしかすると妖怪と戦うための訓練をしているのかもしれない。
わたしの超能力に対してあそこまで圧倒的だったのだ。その線は十分にあり得る。わたしはそんな霊夢の練習台にされたりするのだろうか。これまでに見てきた悪夢の傾向からしてないとは言い切れなかった。
敢えて虎の巣に飛び込むか否か悩み、視線をあちこちさ迷わせていると、鳥とは明らかに異なる飛行物体が映った。じっと目を凝らせば細長い何かに跨がった人間のように見える。そこまで思いを巡らせて彼女が何者であるか分かった。わたしの構築したシステムによって最初にやってきた箒乗りの自称魔法使い、確か名前は霧雨魔理沙だったか。魔法なんてものが本当にあるのかとその時は割と眉唾だったけど、その後立て続けに空飛ぶ怪人たちと出会い、ならばそれくらい存在しても不思議ではないと自分を納得させた記憶がある。
わたしの超能力と互角に渡り合い、ともに力が尽きて痛み分けとなったあと、彼女は好奇心を剥き出しにして近付いてきた。そしてこの不可思議な世界のことを余すことなく教えて欲しいと希い、しかしその望みは叶わなかった。突如として発生した亀裂に飲み込まれ、あっという間にいなくなってしまったからだ。
どこか別の場所に行って欲しいという望みを、しかし底意地の悪い夢が聞き入れるはずもなく。魔理沙は手慣れた調子で減速、着地すると隠せぬ好奇心とともに近付いて来た。
「おお、お前は外の世界にいたマント女じゃないか。今はマント姿じゃないようだが」
「あれは、フィールドワーク用なの」
恥ずかしいことをしていると指摘されたみたいで、つい話し方がぶっきらぼうになる。やはりわたしの夢はわたしに対して意地が悪い。
「なるほど……まあそれはさておき、あんだけ派手に結界破りなんてやらかしておいてこんなにも早く姿を現すだなんて、流石は面の皮が厚いな。わたしは嫌いじゃないけど」片目をぱちんと瞑る仕草がさっぱり似合っていない。きっと普段はやらない仕草か、あるいはウインクが絶望的に下手くそなのだろう。「しかも博麗神社の真ん前にいると来たものだ。もしかしてお礼参りでもしに来たのか? だとしたら喜んで立会人になってやろう。やばそうなら早めにレフェリーストップをかけるから、形振り構わず全力を出して問題ないぞ」
「いや、そんなことするわけないじゃない」あれだけの実力差をつきつけられて何の対策もなく再戦を挑むなんて、いくらなんでもそこまで無謀ではないつもりだ。「それよりこんな所に外来人がいるのに、追い出しにかからないの?」
「ただの外来人なら、あるいはそうするかもしれない。ここは何の力も持たない人間にとって危険な所だから、霊夢に話して然るべき処置を取ってもらう。だがお前はただものではない。外の世界に住んでいるだけでなく、不可思議な力を苦もなく操る。我が家に招いて根掘り葉掘り問い質したいところだ」
魔理沙は宝物でも見つけたかのような喜びととともに、朗らかな笑みを浮かべる。ウインクは苦手らしいが、笑うことはとても上手らしい。少しだけ招かれたいと気持ちが傾いてしまうくらいには。けど、朝の夢があんな形で終わってしまったのがどうしても気になった。
「その前に、神社に寄っても良いかしら。その、色々と迷惑をかけたようだし」
「それならば二度とここに現れないのが一番の罪滅ぼしだが、それは意地の悪い言い方だな。わたしが外の世界を見つけたようにお前もここを見つけた。簡単には諦められないよな?」
すると魔理沙も外の世界に出ることを諦めていないのだろうか。あるいは彼女も結局は夢の産物なのだから、わたしにとって都合の良いキャラクターであるだけかもしれない。あまりそういうことを考えるのも面倒なのでひとまずは夢の中で自分勝手に動く、ノンプレイヤーキャラクターのようなものだと思うようにした。
「そうと決まれば善は急げ。さっさと霊夢に頭を下げて、わたしに付き合ってもらうからな」
良いとは言ってないのだが、彼女の中では決定事項らしい。わたしはあまり彼女のような強引さが好きではないのだが、なんとなくしょうがないなと流せてしまうから不思議だ。付き合いの長い相手ならばきっと、毎日のように似たような思いを味わっていることだろう。
ずるいやつという言葉を押し込めて彼女の後に続く。庭の方に回り込み、そして「霊夢!」と気さくに声をかけるが誰も出てくる様子がない。その割には戸締まりをした様子もなく、そもそも鍵をかける場所があるのかすら怪しかった。
「ふむ、どこかに出かけているようだな」
魔理沙は箒を立てかけると縁側の戸を開け、家主の断りなく中に入る。廊下を挟んで向かい側の障子を開けるとテーブルに古めかしい箪笥だけの慎ましやかな居間があり、テーブルの上には書き置きが残されていた。
「こんなものを残していくとは珍しい。ふむふむ……」あてもなく乗り込んだのかと、半ば呆れながらその様子を眺めていると、彼女は手紙をこちらに押しつけてきた。「どうやらお前に関係のあることらしい。わたしには判じかねるから自分で目を通して判断してくれ」
ごわごわとした和紙に綴られた文字は滑らかで、かっきりとした文字に慣れてしまったわたしには些か読みにくいものであった。
『結界破りのお嬢さんがもう一度やって来た時のためにこれを残す。待つのが苦手でないならば、ここで足を伸ばして待っていて頂戴』
わたしがいま見ている夢はこれまでと違う。連続性を持ち、理不尽もなく、わたしが自分で進む先を決めることができる、そんなものであるらしい。まるで現実のようであるが、それでいて現実のわたしが眠りに就いている時にしか訪れない。
これは夢なのだろうか、それとも現実なのだろうか。
大問題が胸に浮かぶと同時、背後に気配が降り立った。振り向くと朝に出会ったばかりの巫女が、今度は少しだけ歓迎するような笑顔を向けてくれた。それから箒少女に向かい、蠅を払うような仕草をした。
「えー、なんでだよ。わたしと霊夢の仲じゃんか」
「彼女はわたしと話をする予定でここに来たの。内と外に関する出来事はデリケートなんだから、魔理沙と言えどおいそれと聞かせるわけにはいかない」
魔理沙はわたしが結界に穴を開けた騒ぎでも当事者の一人だったのだから話を聞いても問題なさそうな気はするのだが、霊夢はあくまでも魔理沙を追い払おうとしている。詳しい原因が分からないから安全を取ったのかもしれないが、彼女にはどうにも逆効果のようだった。
「わたしは魔法使いだ。つまり真理の探究者であり、その一端が目の前にいる。みすみす見過ごせると思うか?」
「もちろん思っていない。ちょっと……表出ましょうか。あなた、えっと……その、名前なんだっけ?」
そして霊夢はかつて名乗ったはずの名前すら忘れていたらしい。魔理沙が呆れ顔を見せても意に介する様子はなく、わたしは溜息のように名前を口にする。
「ふむ、菫子か。それとも菫子さんと呼んだほうが良い?」
「菫子で良いわ」年の近い相手に名前を呼び捨てにさせるなんて小学校高学年の時以来で無駄に緊張してしまったけれど、夢の中なのだからそれくらいの役得は許されて良いのではないだろうか。朝にやって来たわたしのことを霊夢が覚えていることといい、どうも普通の夢ではなさそうなのだが。「よろしく、その、霊夢……さん」
それでも遠慮してしまうのが我ながら情けなかった。彼女たちの中にあるのは強気の侵略者というイメージなのだから、呼び捨てにするくらい堂々としていても構わないはずだ。霊夢は内心の葛藤に気付く様子もなく頷き、すると魔理沙が横から挙手するのだった。
「わたしは魔理沙でも魔理沙さんでも魔理沙様でも好きなように呼んでいいぞ」
「えっと、では魔理沙さん……で良いかしら?」
霊夢をさん付けにした以上、魔理沙のこともそうするしかなかった。一つの失敗が続けて失敗を生む、よくあることだが肝心なところでやらかすのはなかなか厳しいものがある。もしかすると今回の夢はちくちく減点を稼ぐタイプの悪夢なのかもしれない。
「もちろん。さて、折角少しばかり進展があったのだからここは気張らないとな」
魔理沙は腕まくりをし、勇んで外に出て行く。霊夢は困惑気味のわたしにこれから行われることを丁寧に説明してくれた。
「これから魔理沙の意見が通るかをかけて一勝負するの。十分ほどで終わるし、ここでの流儀も学べると思うから見ていくと良いわ」
「一勝負って、弾幕とかそういうやつ?」
お札や針を縦横無尽に投射しながらわたしの超能力をすいすいとかわし、肉薄する様を思い出して僅かに身震いする。あの霊夢にさらりと勝負を挑む魔理沙のことが信じられなかった。彼女とも一度勝負したけれど、霊夢ほど圧倒的ではなかったはずだ。
「ええ。ここではまあ一種の挨拶みたいなものだから」
もしかするとかつてこの世界でわたしを追い回した輩の中にも、挨拶みたいな気持ちで仕掛けて来たやつがいたのかもしれない。
ふと、あの奇妙な白髪の少女を思い出し、すぐに頭から追い出した。二人が空に浮かび上がり、勝負が始まろうとしていたからだ。心の準備などはなく、思い立ったらすぐということらしい。つまり荒事にはすっかり慣れっこということだ。
「手短に済ませたいから一被弾で終了ということにしましょう」
「良し。実を言うと手持ちがそんなになくてね、早く済むほうがありがたい!」
言うやいなや、魔理沙は周囲に複雑な紋様をいくつも展開させ、星形の弾を発射する。晴天に七色の星が舞うという、なんとも慌ただしい空模様となった。霊夢は迫り来る弾をまずは上昇してかわし、追いかけてくる射撃に対しては大きく弧を描きながら水平方向に逃れていく。どういう理屈か知らないが霊夢の飛行は実に闊達で変幻自在だった。静止、急加速、上下左右と思いのまま、魔理沙がいくら弾をばらまいても掠りもしない。魔理沙の箒は霊夢より速く、追い縋るまではできるのだけど、そのたびに霊夢は反則的な軌道によってひょいとかわす。そして魔理沙が軌道修正をする僅かなタイミングを見て狙い澄ましたように札と針を投擲する。札には相手を追尾する能力があり、魔理沙はその効果が及ばなくなるまで待避、ないし迎撃を余儀なくされる。
派手さと弾量では魔理沙が上だろう。しかし霊夢のほうが一枚上手といったところだ。魔理沙はそのことに気付いているのだろうか。
「ふむ、暖まってきたな。では二速と行くか!」
魔理沙は八角形のオブジェクトを取り出すと箒の尻に取り付ける。途端に箒の速度が増し、それでいて霊夢が放つ札や針の中にも怯むことなく飛び込み、紙一重でかわしていく。目が良いのか、それとも何かの術によって動体視力を強化しているのかは分からないけれど、並の人間にできるようなことではない。
かつては互角だったなんて、甘い見積もりにも程があったのだとはっきり気付かされた。わたしと戦った時もそれなりに本気であったかもしれないが全てを披露したわけではないのだ。
魔理沙は八の字に旋回し、付いては離れを繰り返す。霊夢は冷静に捌いているけれど、徐々に押されつつあるのは明らかだった。このままやられるのか、それとも逆転の目を狙うのか。
両手でいつのまにかスカートの端をつかみ、ぎゅっと握りしめていた。それくらい夢中で、それこそ食い入るように二人の勝負を見守っていたのだろう。上空だから声はあまり聞こえないけれど、魔理沙がしきりに挑発をかけているのが分かる。そう言えば、わたしとの勝負でも声をかけてきたり、野次を飛ばしてきた。そうやって相手の精神的動揺を誘うスタイルなのかもしれない。霊夢にはまるで効いていなかったが、魔理沙はそこで体を動かすことに専念したのか、旋回速度が更に増していく。霊夢はまるで巣をつついて蜂に取り囲まれているかのようだった。そしてその速さに耐えきれなくなる瞬間がやってきた。魔理沙が完全に背後を取り、無防備な霊夢に星の屑が降り注ぐ。どんなに上手く回避しても一被弾は避けられないだろう。少なくともわたしには逆立ちしてもかわせそうになかった。
だが霊夢は素早く振り返ると上へ下へ、左へ右へ、前へ後ろへと、物理法則を完全に無視した動きで、ひらりひらりとかわしていく。決して速くないのに気が付けば危難を一つ、また一つと回避し、そのただ中から一撃ももらうことなく抜け出してみせた。
降りつける雨さえ彼女に一粒の齟齬も与えることはできないのかもしれない。そんなことを考えてしまうくらい、何もかも当たる気がしなかった。かつてわたしの味わった恐怖が見事に再来していた。では魔理沙もまた恐怖しているのだろうか。
しかし魔理沙は肩を竦めるだけだった。こんなもの当たり前だと言わんばかりで、そして箒のお尻に着けていた八角形のオブジェを取り外し、前方に構える。どうやらこれからが本当の勝負のようだった。対する霊夢も大量の札を周囲に展開させ、攻撃への備えを整える。
「調子が尻上がりなのを狙って速攻を仕掛けたが、上手くいかなかったか」
「今日はまあ、仕事に近いからね」
「ふん、こちらはいつも通りにやるだけだ。遊びだろうが仕事だろうが」
二人の間に緊張が高まり、力も高まっていく。単なる一勝負だというのに息苦しいほどだ。これがここでのルールなのだろうか。知恵と力を振り絞り、本気で遊ぶ。思わず震えが走り、ごくりと唾を飲む。わたしは恐れているのだろうか。この幻想郷の流儀を。
否、わたしの胸は高鳴り、顔は熱を帯びている。きっと興奮で赤くなっているのだろう。
再びこの世界に関わる機会が巡り、二人の勝負を目撃し、わたしは改めて悟る。
幻想郷はわたしの力を受け入れる世界だ。
わたしは目を見開き、一瞬でも見逃すまいと勝負に集中する。それがこの世界に関わるための大きなヒントになると思ったからだ。
しかし、そこでわたしの意識は反転した。
目を開くと教室の中で、チャイムが鳴り響いていた。時間を確認するまでもなく、室内の騒がしさから四時間目が終わったばかりだと分かった。
やはりわたしが見る夢は理不尽だ。肝心なところを見せてくれないのだから。期待させておいて一気に突き落とす。改めて机に顔を伏せ、寝ようとしてみたが気持ちの高ぶりが現実にまで付いてきたようでちっとも眠気が訪れない。仕方なく体を起こし、学食に向かう。出遅れたから混み合っているだろうなと思ったが、端の席は完全に埋まっており、グループとグループの隙間にできた窮屈な空き席がところどころにあるだけだ。この光景を眺めているだけで食欲が失せる。
スマホにダウンロードしたゲームをプレイする気分ではなく、ネットサーフィンしたい気分でもない。何もしたくないわけではないが、手持ちにしたいことが何もない。こんな時はいつもなら図書室に行き、適当に一冊取り出して読む振りをする。活字をぼんやり追っていれば時間は過ぎるし喧噪を気にする必要もない。だが今日はそんなことをする気分でさえなかった。
気が付けば自然と保健室に向かっていた。どうやらわたしは何がなんでも眠り、あの世界へ戻りたいらしい。夢なんて理不尽なだけで、もし眠ることができても幻想郷ではなく、まるで異なる世界と展開が待ちかまえているに違いない。それでも縋ろうとしたのは、きっと霊夢と魔理沙の姿に未来を見たからだ。オカルトボールを使った企みは完全に阻止されてしまったけれど、他の手段でもう一度あの世界へ行けるならば試せることは全て実行しておきたかった。
幸いなことに保健室には誰もいなかった。この時間に来るといつもは保険医目当てでやって来る生徒たちが昼食を囲んでいるのだが。カーテンをめくり、三台並ぶベッドのどこにも病人や怪我人がいないことを確認すると、上履きを脱いで左端のベッドに体を横たえ、カーテンを閉める。布団を被ると徐々に体が温まってきて、微睡みが徐々に覆い被さってくる。
ドアを開ける音が聞こえてきて、眠気が一気に吹き飛んだ。足音の調子からして保健医のユカリ先生が帰ってきたのだろう。
このまま狸寝入りを決め込もうと少しだけ考えたけれど、彼女ならすぐに見抜いてしまうだろう。仮病を使って追い出されることはないけれど、それ以外の嘘に対しては教師と思えない悪戯を仕掛けて来る。かつてわたしは額に第三の目を、頬に某猫型ロボットのような髭を描かれてしまった。こすればすぐ取れるパーティー用のペンだったから良かったけれど、その時に次は油性マジックで描くと宣言されてしまったのだった。
だからカーテンを開け、こちらから姿を見せた。びくりと肩を震わせたのが、いつも剛毅に振る舞う彼女にしては珍しいと思った。
「なんだ、宇佐見か」いつもは気持ちが良いだけの笑みも今日は少しだけぎこちない。保健室を空けていたのにも何か特別な理由がありそうだった。「いかにも察したって顔をするのはやめて欲しいなあ。根掘り葉掘り訊かれるよりはましだけど」
「すいません、意図してやっているわけではないですけど」
「いや、こちらこそすまない。責めてるわけじゃないんだ。生徒に暴かれるほど崩れたわたしが悪いというだけのことで」
きびきびとしてニュートラルな話し方も、普段より少しだけキレがない。自覚していても立て直せないほどきついことがあったのだ。
「でもまあ、宇佐見なら仕方ないかあ。頭も目も良いしな」
「わたし、目は悪いですよ。眼鏡をかけていないと視力検査表の一番上も見えませんし」しかも近眼は未だ進行中だ。もしかしたら超能力の副作用ではないかと最近少しだけ疑っているのだった。「頭はまあ、授業に付いていくことならままなります」
わたしはおそらく的外れなことを口にしたのだろう。ユカリ先生はいつものどこか気怠げな笑みを浮かべ、動揺を覆い隠してしまった。
「目が良いっていうのは視力ではなく、よく特徴を捉えてるって意味だよ。自然と目をよく使うから、近眼も進みやすいのかもしれない」
そんなものなのだろうか。優れたスポーツ選手の中にはわたしよりも余程、目をよく使っている人もいるはずだけど、視力を悪くしたという話は聞いたことがない。
「目は自動的にものを映す。呼吸するように、血が全身を巡るように、自覚がないだけで膨大な情報を受け取っているということはあり得る。近視の原因は遺伝だとも目の酷使だとも言われているが、両親が強度の近眼で目をよく使う職業に就いていても、ちっとも視力の下がらない人間というのは結構いるものだ。また暗所の作業は近視の進行とあまり影響がないという結果も出ているらしい。どれも一つの傾向ではあるが全てではない。目から入ってくる情報量をコントロールできるようになれば、人類は近視をなくすことができるかもしれない。もしかするとこの世の全てを映し出す魔眼にすら手が届くのかも」
どこまで本気で言っているのかよく分からなかった。そもそも人間の目にそれほどの個人差があるだなんて、いまいちぴんと来ない。もしかするとあの世界には魔眼の持ち主が存在するのかもしれないけれど。例えばかのメデューサみたく、目を合わせたら石に変えられるとか。
「まあ、与太話はこれくらいにしておこうか」ぼんやりあの世界に思いを馳せていると、ユカリ先生は強引に話の流れをねじ曲げる。「今日は……いや、しばらくは突発的な怪我や体調不良以外で昼休憩にここを訪れて来るものはいないだろう。宇佐見が望むならこれまでみたいに好きに使って良いよ」
その言い回しで何となく起きたことを察した。彼女は美貌の人であり、性に対してニュートラルな言動を取る。そして男の影が一切感じられない。そのせいか彼女には一つの噂が強固につきまとっている。入学してすぐ、わたしの耳にも流れてきた。いつも独りのわたしにさえ伝わってくるのだから、他の生徒はもっと知っているだろう。
東深見高校の保険医は同性愛者である。
恋い多き人物であり、複数の相手と付き合うことも厭わない。
きっと今日、一人の生徒がそれを信じて玉砕したのだ。彼女と一緒にいた生徒はおそらく恋の行方を見守っていたのだろう。同情はするがわたしにとっては好都合だった。
「分かりました。もしかすると午後の授業は体調不良ということになるかもしれません」
あの世界にもしも、本当にもしもだけど夢見ることで自由に辿り着けるのならば。できる限り眠りは妨げられたくなかった。
「ふむ、体調不良ならしょうがないな」
いつも通り、休みたいなら勝手にしろということだ。オカルトボールを利用した計画が打ち砕かれて全てが終わったと思ったから、もうここを利用することもないと宣言したばかりなのだが、そのことは指摘されなかった。
『誰だって好んで嘘をつくわけではない。十代半ばの多感な少年少女たちが檻のような場所に押し込まれているような状況では尚更だ。逃げ場は必要だよ』
確かお偉方の教師に釘を刺されたとき、悪びれずにそう言い切っていた。
わたしは逃げているわけではない。そして彼女はそのことに気付いているようだが踏み込んでは来ない。話せないならばそれで良いということなのだろう。
彼女ならばわたしが超能力者と打ち明けても真剣に話を訊いてくれるかもしれないが、どんなに生徒想いでも所詮は大人の一員に過ぎない。虚言癖と判断され、心療内科にでも通ったら良いとアドバイスされたらおそらく耐えられないだろう。
無言でベッドに戻ると、ペンを走らせる細かな音が室内に響き始める。それが気持ちを静めるように作用したのか少しすると強い眠気が襲い、わたしは大きな欠伸とともに目を瞑った。
目を開けると三度同じ場所に建っていた。神社の中だったら話が楽だったけれど、そこまで都合は良くないらしい。最近流行のサンドボックス型ゲームではリスポーンポイントと呼ばれる場所で復活する仕様のものが多いけど、それと似たようなものなのかもしれない。
一つ気になることがあってポケットの中を探ると、スマホが入っていた。夢の中なのに現実のものを持ち込めるらしい。ホームボタンを押して待ち受け画面を表示させ、まずは時間を確認する。現実で眠りに就いたのとほぼ同じ時間だった。電波状況は圏外で小刻みに移動しても何も変わらない。念のために地図ソフトを起動させてみたけれど、圏外のメッセージ以外は何も表示されることがなかった。
わたしは現在地の確認を諦め、神社に向かった。二度も目の前から消えたのだからさぞかし怒っているに違いないと思ったのだが、霊夢は居間で足を崩してのんびりしていた。そして魔理沙の姿はどこにもなかった。
「あら、もう戻ってきたのね。朝、昼前だったから、次は夕方くらいに現れるものだと思っていたのに」
声の調子から感情を害してはいないようだ。わたしが突如現れていなくなることをそういうものだと受け入れているらしい。
「魔理沙さんがいないのは霊夢さんが勝ったから?」
「そう、だと言いたいんだけどね。わたしは魔理沙の攻撃を防ぎきり、そして魔理沙はわたしの攻撃を全てかわすか撃ち落とすかした」
「つまり引き分けってこと?」
「いいえ、二人とも勝ったのよ」同じ意味のはずだが、そう言うとなんだか前向きで、優しい響きがあった。「わたしと魔理沙の勝負だと一番多いパターンね。だから魔理沙も一緒に話を聞く予定だったけど、あんたがいなくなってしまったから帰っちゃった。またやって来たらうちにも寄ってくれと誘いがあったわ。応じるかどうかはあんた次第だけど」
「そうね、寄ってみるわ。霊夢さんと同じくらい、魔理沙さんからも訊きたいことがあるし」
「それは幻想郷について? それとも魔法使いについて?」
「両方かしら」
霊夢から話を訊けるならば前者は必要ないと思ったが、よく考えてみれば同じ世界でも個々人によって考え方は違う。わたしの住んでいる世界だって、自分の住んでいる街や国についてどう思うかは実に千差万別である。
「郷についてならわたしが差し障りない程度で話してあげるけど」
「それでも訊きたいの。霊夢さんが信用ならないってわけではなく」
「ふむ、つまりあんたには聞く耳があるってことか。問答無用で結界に穴を開けて入ってきたから傍若無人な奴かと思ってたけど」
「それについてはまあ、申し訳ないと思わないでもないかな。外の世界だって国境を侵犯すれば問答無用で捕まえられるはずだし」
あの頃のわたしは未知の世界への興味に突き動かされていた。今から振り返るとどうしてあそこまで熱中したのか訝しく感じるほどに。そういう『運命』にならなければおかしいと、そんなことを考えていたような気はするけど、わたしはいつもならそんなことを心の拠り所にはしない。神仏だってろくに信じたことがないというのに。
「わたしは結界が破られなければ、人間の一人や二人入ってきてもどうとは思わないのだけどね。丁重に送り返すだけよ。あんたもそれを察したからこそ結界を破らない方法で、すなわちそんな姿になってここまでやって来たのでしょう?」
「それがわたしにも訳が分からないの。わたしは夢を見ているはずだし、それなのにここはかつてわたしが辿り着いたのと同じ場所らしい。この世界は夢でできているとでも言うの?」
夢は個々人の脳内で生まれ、消えていくはずのものである。だが、それとは別に夢でできた世界なるものがあるのかもしれない。だとしたら夢のたびにここへ来る説明になる。だが、霊夢は何を言っているのと言わんばかりの怪訝そうな表情を浮かべるのだった。
「夢は眠っている時に見る幻のようなもの……少なくともわたしはそう考えている」
「少なくとも、わたしは」気になる箇所だけを鸚鵡返しに呟き、そこから生まれた疑問を霊夢にぶつける。「別の解釈をする人もいるってこと?」
「全ての夢は無意識の更に下で繋がっている、なんて主張をするやつがいるの」霊夢はその何者かが気にくわないのか、目に見えて不機嫌になる。「あんたの夢がここにいる誰かの夢と繋がったのかもしれない。誰と、どうやって、なんて訊かないでよ? そうしてあんたは夢のまま、この世界に現れたのかもしれない」
夢を辿り、夢のままで。するとわたしは夢の中にいるのではなく、夢としてここにいるのだろうか。そんなことが本当に可能なのか。
「その、別の解釈をした人ってどこにいるのかしら?」
できれば会って話を聞いてみたかった。そうすればわたしが陥った状況に腑の落ちる説明をしてくれるかもしれない。だが霊夢は何も言わず、ますます機嫌を悪くするだけだった。
「こっちが知りたいくらいよ。全く、必要な時に限って姿を見せないんだから!」
わたしの世界にやって来たときとはまた異なる子供らしい怒りだった。おそらくどんなに宥め透かしてもこれ以上の情報を得ることはできないだろう。サイコメトリーの力が生きていたらなにがしかを読み取ることができたかもしれないが、ないものねだりしても仕方がないからこれ以上は追求しないことにしておく。
「この姿のままでいることに何か問題はないのかしら?」
「そう、そこが問題なのよね。結界を侵犯したわけでもなし、変な騒動を起こしたり外の知識を過度に吹き込んだりしなければ目零しするにやぶさかではないのだけど。健康を害するのであれば夢を見ないようにしなければならないし、もしも郷の根幹を揺るがす影響を与えていたとすれば、問答無用で退散願うことになる」
かつて外の世界で見た、獰猛に輝く赤い瞳を想起したのもしかし一瞬のことで。霊夢はにへらとだらしのない笑みを浮かべた。
「あんたのことがあってから結界の侵犯には気を配っているから、それでも何も引っかからないってことはおそらく大丈夫なんでしょう」
わたしの身に何が起きているのかは分からないが、少なくとも目の前のおっかない巫女が再び立ちはだかるということはなさそうだ。それだけでも随分と気持ちが楽になる。同時に様々な可能性がわたしの中に浮かび上がる。
「では、わたしはここで自由にしても良いの? 例えば誰かを訪ねるとか」
「うーん、構わないと思うけどね。具体的に思い浮かべてるなら、話してくれれば場所くらい教えてあげる。ただ、どこへ行くにも必ず安全な場所はないと考えて頂戴。華扇やマミゾウの追跡すらかわしきったあんたなら大抵の場所は大丈夫とは思うけど」
華扇という名前にもマミゾウという名前にも心当たりがあった。かつてここにやって来たときわたしを追いかけてきた中の二人であり、幻想郷のことは他言無用と脅しつけてきたのだ。霊夢がわざわざ名前を挙げるのだから怪人だらけのこの場所においてなお実力者なのだろう。
二人に限らずわたしを追いかけてきた輩どもは皆、一角の実力を有していると考えて良いのだろう。どの相手も強く、また執拗にわたしを追ってきた。明らかに違うのは一人だけ、郷を案内してくれて、最後に流れを読まず勝負をふっかけてきた変てこな少女だけだ。
見た目はわたしと同じ歳くらいの少女なのに、老婆よりも徹底して真っ白な髪が印象的だった。それから透き通るような白い肌に、眉目の整った顔立ち。少年のようにはにかむくせに、時折老輩のような影のある表情も見せる。
彼女はなんと言っていただろうか。
拾った落とし物を渡したい、だったっけ。
溢れる記憶とともに胸の中が熱くなり、わたしは不意に思い出す。こんな気持ちになるから故意に、彼女のことを考えないようにしていたのだ。何故か心が酷くかき乱されるから。
「魔理沙さんの家にはどう行けば良いのかしら?」
馬鹿なことを考えるのはやめにして、わたしは義理を果たすことにした。
「それならば今回だけはサービスして直接案内してあげる。その前にこれは主にあんたの安全のためなのだけど、どういう場所があってどこに行って良いのか、あるいは駄目なのか聞いていきなさい。面倒なんだけど何も話さず、あんたが予期せぬ危難にあって死ぬようなことがあれば目覚めが悪いもの」
わたしだって何も知らずに死ぬのは嫌だ。この力を誰はばかることなく存分に振るうことのできる世界に来られたのに。だからわたしは霊夢の話にしっかりと耳を傾ける。それこそ一字一句逃さぬように。
魔法の森、紅魔館、冥界、迷いの竹林、永遠亭、霧の湖、太陽の畑、妖怪の山、無名の丘、彼岸、地底世界、仙界、逆さ城、天界。
用もないのに近付くなと言われた場所の一覧だ。では逆に用がなくても行って良い場所を、と訊ねたらここか人里くらいのものだと言う。人里という言い回しが引っかかり、ここにも人間が住んでいるのかと質問したら霊夢はきょとんとした様子で、そりゃ人間くらいいるでしょうと返された。ここには不思議な力を身に着けた怪人しかいないと思い込んでいたのだが、話を聞けば妖怪に太刀打ちできる人間というのはごく限られているらしい。
「空を飛べるような人間だなんてわたしが知る限り、両手で数えるくらいしかいないわ。ちょくちょくここを訪れるつもりがあるならばいずれ出会うこともあるでしょう。魔理沙は話を合わせていれば害はないし、早苗もまあ大丈夫か……早苗というのは数年前に外の世界からこちらへやって来たやつなんだけど」
「えっ、そんな人がいるの?」外の世界からこちらへ来ようと考えるなんてわたしくらいだと思っていたのだが、同じことを考えた人間はいたらしい。「その人はどこに行けば会えるのかしら?」
「妖怪の山。あそこは名前の通り、性質の悪い妖怪がうようよしているから新参者が近付いては駄目なところね。もしかしたら河童……妙な機械を操る性格の悪そうな奴に出会ったことがあるかもしれないけど、ああいうのが沢山いると考えて頂戴」
霊夢が言った通りの怪人にならおそらく遭遇したことがある。ジェットパックにプロペラという一昔前の空想科学小説に出てきそうな飛行装置を身に着け、激しい水流を弾やレーザーのように撃ち出して襲ってきた。一人だけでも撒くのに苦労したのに、複数いるのでは襲われたらひとたまりもないだろう。
「ちょくちょく麓にも下りてくるからそのうちひょっこり出会うかもね。魔理沙と同じで危険なところはないはず。彼女の信仰を蔑ろにしなければの話だけど」
信仰なんて単語が出てくるということは、霊夢と同じで祭祀者なのだろうか。そう言えば外の世界へ出てきた怪人の中に、仏やら信仰やらとやけに説教臭いやつがいたことを思い出す。紫と金のグラデーションがかかった髪型こそ奇妙だったが、言葉遣いも物腰も柔らかく、包容力を感じさせる女性だった。そいつの同類みたいな人間なのだろうか。
「他の人間は……まあ、妖怪とさほど変わらないと考えて頂戴」
酷いまとめようだった。空を飛び、不思議な力を操るならば危険であると考えるのは間違っていないのかもしれないが。わたしだってここに住み続けていたならば似たような分類をされるかもしれないし、むしろ力を持ちながら害はないと判断される魔理沙や早苗なる人物のほうがここでは変わり種なのかもしれない。
「最低限の説明はできたと思うけど、危ない場所、危ない存在はいくらでも潜んでいると考えたほうが良いわ。探索は抜かりなく、背後の用心も抜かりなくね」
神妙に頷くと霊夢は気怠そうに微笑んだ。
「ちゃんと受け止めてくれてるみたいで本当に助かったわ。ここの連中と来たら誰も彼も話を聞きやしないんだから」
彼女がどういう役目を果たしているかはざっくりとしか聞いてないが、苦労しているのだということはその態度からして十分に明らかだった。
「わたしから話しておくことはこれで本当に終わり。今回は途中で消えることもなかったみたいでほっとしているわ」
「消えたくて消えていたわけじゃない」
「分かってるって。あんたの話が確かならば、夢を見てなきゃ駄目なんでしょ? 今はどこで眠っているのかしら。もうすぐ起きてしまいそう?」
スマホで時間を確認すると昼休憩が終わって少し経ったくらいだった。それでも目覚めてないということは体調不良続行中というわけだ。
「今回はあと二時間くらいは起きないと思う」
「それならあと一カ所くらいなら大丈夫か。では早速出発しましょう」
タイムリミット付きだなんて不便だけれど、それでも霊夢の後に続くわたしは期待に満たされていた。これまでの理不尽な夢ではなく、わたしによるわたしのための夢を、これからじっくり味わうことができそうだと分かったからだ。
魔理沙の家は霊夢が入ってはいけないと真っ先に挙げた魔法の森の中にあった。そんな場所に住んでいられるということは、やはりただ者ではないのだろう。迷子になった童話の登場人物が辿り着きそう、という表現がぴったりの一軒家であり、煙突からは微かに白い煙があがっている。ドアには営業中を示す木製のプレートがかけられていたが、辺りを見回しても店名が書かれた看板はどこにも見当たらなかった。
霊夢がドアをノックすると、魔理沙は不機嫌そうな様子を隠すことなくドアを開ける。そして視線が霊夢に合わさると、不思議なものを見てしまったという顔になる。どうやら霊夢から魔理沙の家に訪れるのは珍しいようだ。後ろにいるわたしに気付くのが遅れたのもきっとそういうことなのだろう。
「今回はあと二時間くらいは保つそうだから連れてきてあげたの。あとは煮るなり焼くなり好きにしなさい」
それだけ残して霊夢はすいと空に昇っていく。鬱蒼とした木々のせいで頭上に視線を移してもその姿を見つけることはできなかった。あとにはどこか気まずい調子の魔理沙と、少しばかり途方に暮れるわたしが残されるだけとなった。
「こういうところだけ律儀なんだよな。面倒くさがりなくせに自分の敷いたルールには頑な過ぎるほど忠実だ。お前ももしかして知ってるかもしれないけど」
わたしに対して殺さないという強い信念をぶつけてきた霊夢の姿を思い出し、無意識のうちに頷いていた。
「まあ立ち話もなんだ、上がっていってくれ。昼飯が終わって茶でも一服という案配だったからちょうど良い……っといけね、火をかけっぱなしだった。中に入って適当な場所で休んでいてくれ」
魔理沙が慌てて駆けていくのを見届けてから、お邪魔しますと声をかけて中に入る。客対応のカウンターは備え付けられていたけれど、ざっと見渡しただけではどのような店なのかさっぱり分からなかった。少なくともわたしには本とがらくたが所狭しと並べられているようにしか見えなかった。
部屋の奥にはテーブルを挟んでそれぞれに二人掛けのソファが備え付けられており、詮索を諦めたわたしは黙ってそこに腰掛けた。テーブルの上には灰皿が置いてあって、灰が少しだけ積もっている。喫煙者なのかもと思ったが、煙草特有のヤニ臭さはない。微かに甘い臭いがするけれど、灰皿に鼻を近付けて意識を集中してみても、何の臭いかは分からなかった。
魔理沙はお盆に二人分のティーカップを乗せて戻ってくる。果実のような甘い匂い、こちらには心当たりがあった。
「ハーブティーだなんて、いでたち通りの西洋風なのね」
「いや、いつもは緑茶なんだがね。お節介な隣人がたっぷりと用意してくれたんだ。慌ただしい心が落ち着くとのことだがわたしをなんだと考えているんだ」
その隣人が何者か分からないが、魔理沙のことをよくよく分かっているらしい。世話を焼かれることに複雑な気持ちを抱いているのか、魔理沙は拗ねたような表情とともにお盆をテーブルの上に置いた。
香りとともに一口啜ると微かな甘みと苦みが広がり、緊張が心なしかほぐれていくようだった。魔理沙は渋々そうに口にして、思わず大きく息をつく。余程好みの味だったのだろうか。わたしに見られて忌々しいと言わんばかりに視線を逸らしたところからして、その推測はおそらく間違っていないのだろう。
「それでは舌も潤ったところで、色々と聞かせてもらって良いだろうか。あるいは先に訊きたいことがあるなら遠慮せずに言ってくれ。どうせ霊夢はろくな説明もしなかったのだろう?」
「いえ、大体のことは聞いたと思う。かなり懇切丁寧に叩き込まれたわよ」
「へえ……いや、菫子は人間なのだから当然か。早苗にも手厚かったしな、あいつ」
「早苗というのはわたしよりも先にやってきた外来人のこと?」
「ふむ、説明を受けているというのは嘘ではなさそうだ。その通り……まあ最近はわたしよりずっと郷の住人らしいがね。あの狸にしてもそうだし、外の奴らは順応性が高いらしい」
魔理沙の言うことが本当ならば、早苗なる人間はわたしと全く異なる人種らしい。普通にコミュニケーションを取り、見知らぬ土地でもしっかりと馴染むことができるのだから。少なくともわたしにはできそうにない。
「とまれ、説明の手間は省けたということだ。それならこちらから色々と聞かせてもらおうとしよう。まずは、そうだな……菫子だっけ? 外の世界は最近どんな感じなんだ? 早苗から以前にも聞いたことがあるし、外から流れてくる雑誌で多少は知ることもできるが、どうにも非現実的でどこまで本気で受け止めて良いのか分からない」
わたしからすれば飛行機もなしに空を飛ぶ輩がうようよしているこの世界こそ破天荒で現実味に乏しいのだが、魔理沙の意見は全くの逆らしい。
「数百もの人間を乗せて動く鉄の鳥、その十倍の人間を乗せて地上を走る鋼鉄の箱に、小説や専門書を何百冊も入れておける薄い板、そびえ立つ高層建築、夜になっても光に溢れて眠らない街。その全てが科学という価値観に基づいて築かれているらしい。魔法でさえそんなことはできないというのに」
そして魔理沙は科学を不思議な力の一つとして捉えているらしい。わたしの知る科学はものの考え方における規範の一つに過ぎない。自己批判する能力が他の規範より高く、貪欲に知識を取り込む性質があるから台頭しただけのことだ。
魔理沙の想定する科学に近いものを挙げるとすれば、それは電気だろう。あらゆるものを動かすのに統一して用いられるのだからある種、魔術のような力ではある。
「外の世界では効率良く扱いやすいエネルギーが徹底的に追求され、最終的に電気が採用されたの。そのお陰で機械化がどんどん進み、技術も発展していき……」
「それくらいはとうに知っている。だがね、どうにも納得できないんだよ。わたしはこれまで何人もの電気使いを相手にしてきたが、どいつもこいつも酷く荒ぶって難儀したし、これまで電気の力を魔法に取り込もうとして何度も四苦八苦したが、上手くいった試しがない。山の連中は電気こそ郷の生活水準を引き上げる要だと主張するが、わたしに言わせれば宗教家の世迷いごとの類だよ」
「でも電気は実際に、世界のほぼありとあらゆる場所において使われているわ。それは覆しようのない事実よ」
「ならば電気がなにゆえに、そこまでの伝播力を有するのか一から説明できるか? お前が知らないだけで、異なる力を隠れて使っていないと言えるのか?」
電気がどのようにして生まれるかは、ざっくりならば説明できる。様々な力を利用するが、最終的にはタービンを回して電力を得る。発生した電気は送電線によって引かれ、各家庭や各種施設へと供給される。わたしたちは電気を好きなタイミングで使用し、その量に応じてお金を払う。だが魔理沙の知りたいことはそうではない。納得のできる歴史を示せということなのだろう。おそらく魔理沙はかなり正確な知識を持っている。それでも承伏しかねるのだ。
「前者に関しては、わたしと魔理沙の知識はほぼ変わりないはず。後者に関しては悪魔の証明を求めるのはやめてとしか言えない」
わたしの回答に魔理沙は一瞬だけ失望の色を見せた。彼女はわたしに外世界の人間として、強い期待を寄せていたのだろう。だがすぐに屈託のない笑みを浮かべる。
失望には既に慣れっこだということなのだろうか。今まで同じくらいの年頃の人間が同様の態度を取ってもさして感じるものはなかったのに、魔理沙の態度は少しだけ癪に触った。
「かつて外の世界には何も良いものなどありはしないと忠告してくれた奴がいるけれど、当たらずとも遠からずなのかもしれないな。それでも一度ちゃんと見て回りたいけれど」
あれだけ入るのが難しかった世界なのだから、出ていくのも難しいのだろう。かつて外の世界に出てきた時もすぐ戻されていたし、正式な手順以外での外出を認めないのかもしれない。
「だからこれは他の奴ら、特に霊夢には秘密だが結界を破ってくれて感謝してるんだ。短時間とはいえ外の世界を見て回ることができたんだから。机上でも知識は増やせるが、やはり体感しなければ身につかない。それは魔法使いの態度ではないと説教する奴もいるがね」
座学だけでは実を得られない性格なのだろう。わたしはそうでもないが、実際に試してみなければ気の済まないタイプの人間は小中高とどの教室にもいた気がする。あまりクラスメートを意識したことがないから曖昧な記憶でしかないけれど。
「こんな感じで他にも色々と聞かせてもらおうと思っているが良いかな? 茶のお代わりは出すし、とっておきの菓子も弾む。知りたいことがあればわたしの分かる範囲でならなんでも教えてやろう」
自然と主導権を取りにいく態度もいつもならもう少し嫌な気持ちになるのだが、魔理沙に限ればちっとも気にならなかった。
魔理沙の興味の幅は実に広かった。メインは科学技術だったが、どういった社会が築かれているのか、国とはどういうものなのか、数十億という莫大な世界人口はどのように維持されているのか、どのような本が流行っているのか、などなど、疑問は湯水のように溢れて止まらない。制限時間のある身だからどこかで打ち切りたいのに仔犬がじゃれるように質問を飛ばしてくるのでなかなか止めることができなかった。
渡りに船をつけてくれたのは新たな来客者の出現だった。金髪なのは魔理沙と同じだが顔立ちはより西洋的で、苛立たしげな様子すらもどこか艶やかだった。魔理沙の容姿も上のほうで通用するけれど、新たな客人は次元が二つくらい違った。偶像に仕立てても十分に通用する本当の美人だ。あまりに整い過ぎていて逆に怖いくらいだった。
午後から研究の手伝いをしてくれる約束だったのに、いつまで経っても現れない。一人ではできない実験なのだからとっとと来いと厳しい剣幕を叩きつけ、玄関先で睨みをきかせていたのだが、奥のほうにいたわたしに気付いたらしくじろりと視線を向けてきた。まるでわたしにも責任の一端があると言わんばかりだ。
「見慣れない顔だけど、まさか外来人を連れ込んでいたの?」
「前に話しただろ、外の世界から結界を破って入ってきた人間がいるって」
「彼女が? ふむ、それならば知識欲を抑えきれなくなるのも分からないではないわ」顔から怒りが消え、瞳に好奇心の煌めきがぱっと宿る。それで魔理沙と同じ魔法使いであるのだと言葉での説明よりも納得してしまった。「どういう話を聞き出したか次第漏らさず伝えなさい。それで遅刻には目を瞑ってあげる」
「お気に召すまま、仰せの通りに」恭しく頭を下げると、客人はぷうとむくれてしまう。見た目は大人びているけれど割と子供っぽいところもあるのかもしれない。「というわけでわたしはこれから出かけなければならなくなった。申し訳ないが一人で行動して欲しい。空が飛べるなら真上に抜ければ良いから迷うこともないだろう。ここからまっすぐ南下して少しだけ西に向かえば人里に出る。他に行きたい所があるならばそろそろ陽も落ちてくる頃合いだ、明日以降にするのが良いだろう」
薄暗い森の中だが、魔理沙の家の周辺は拓けているので窓からでも辛うじて太陽を見つけることができた。赤みこそ帯びていないもののかなり西に傾いている。スマホを確認すると午後三時をいくらか過ぎていた。そろそろ放課後なので目が覚めるのも間近だろう。運が良ければ人里の様子を軽く見て回ることくらいならできるかもしれない。
「そちらからの質問は次の機会ということでよろしく頼む。一つ二つくらいならこの場で聞いてくれても良いけど」
魔理沙のうかがうような目に、もう一人の客人は仕方ないわねと言わんばかりに頷く。当意即妙な受け答えからして付き合いが長いことは十分に見て取れた。
とまれ、一つ二つとなれば訊ねるべきは一刻も早く知りたいことだ。
真っ白な髪をした少女の居場所を教えてもらえないかしら。
喉元まで出かけた問いを飲み込み、大急ぎで別の質問を拵えた。
「お土産になりそうなものを売っている店はないかしら?」
ここで手に入れたものを現実に持ち帰ることができるかは分からなかったが、スマホを持ち込むことができたのだから逆もできる可能性は高い。お土産とは言ったけれど、そこらに落ちている変わった形の石ころでも良かった。外の世界で手に入らないものならば、わたしが幻想郷に夢としてやって来たのだとより確かに証し立てられる。
「ふむ、それならば里に細工物屋がある。知り合いが髪飾りを卸していて、お客さんになってくれそうな奴がいたら勧めてくれと言われているんだ。わたしの紹介だと言えば、割り引いてくれるだろう。物見櫓の近くだから探せばすぐに見つかるはずだ」
髪飾りなんて身に着けたことはないのだが、手製の品物ならば目的に叶っている。机の上に置けば飾りくらいにはなるだろうし、一つ買っていくことにした。
礼を言って魔理沙の家を後にすると頭上に出て、コンパスアプリで南を確認する。念のために太陽の位置からも方角を計算してコンパスの正しさを確かめたから問題ないはずだ。
南に向かうことしばし、柵と塀で二重に囲われた土地が見えてきた。遠目に人の行き来が見えるから、あれが魔理沙の話していた人里で間違いないのだろう。塀の内側には京都の映画村で見かけるような建物が並んでおり、電柱や電灯が立っている様子はない。物見櫓は建っていたが一つではなかった。魔理沙にとっては近くに細工物屋がある櫓は一つだけだから説明する必要もないと考えたのだろう。
数は少ないから虱潰しにすればそのうち見つかるだろうとたかを括り、一番近い櫓の側に着地する。里の人間たちはそんなわたしを見て露骨に警戒の色を示し始めた。
目立ち過ぎたと気付いた時には手遅れだった。そう言えば霊夢も空を飛べる人間のほうが珍しい、空を飛ぶのは基本的に妖怪だと言っていた。わたしはもしかすると新手の妖怪に間違えられたのかもしれない。
誤解を解くことは難しそうだった。それならばせめて用事だけでも手早く済ませ、ここから離れる必要があった。幸いなことに細工物屋は最初の櫓の近くで見つかり、誰かに訊ねるというリスクをかけることなく辿り着くことができた。
適当な髪飾りを一つつかみ、番をしている店員に声をかける。値札がついていないのでいくらか訪ねると、信じられないほどの価格を提示された。あまりにも物価が安過ぎる。嫌な予感がして財布から千円札を取り出して見せると、それはなんだという顔をされた。ここでは外の世界で使っているお金が通用しないのだ。
慌てて商品を戻し、店を出ようとしたところで同じ服を着た男性が何人かで壁を作り、わたしの行く道を塞いだ。里の警察か、あるいは自警団のようなものか。武器は持っていないが、霊夢が使っていたものによく似た札を手にしている。あれは人間にも効き目があるのだろうか。それとも妖怪にだけ効力を発揮するものだろうか。
わたしは人間だし、誰かに危害を加えるつもりはありません。
頭の中ではとうの昔に出来上がっている言葉が口にできない。わたしに集中する視線が恐ろしくて体が震えそうになる。目が覚めてここから消えてしまうことができたら良いのに、現実のわたしは暢気にすやすやと眠っているらしい。
このまま上空まで一気に突き抜けようかと考え、ちらとだけ視線を上に向ける。そして考えが甘いことを知った。はっきりとは見えなかったが、空を飛ぶ何者かがいる。空を飛べるということは間違いなく実力者だろう。座標を決めずに長距離テレポートすることもできたが、最後の手段にしたかった。以前にそれをやったとき、右腕が石と重なって消失するということがあったのだ。慌てて別の場所にテレポートしたら腕は付いてきたけれど、もしかすると右腕を永久に失っていたかもしれない。
無言のまま突っ立っていると一番年輩らしき男性が一歩、前に出てきて低く威圧するような言葉をかけてくる。
「掟を守らぬ妖怪よ、お前にこの言葉を理解する頭があるかは分からないが、どのみち咎は受けてもらう。痛みに怯え、二度と里に近寄らぬようにするのだ」
微かに声が震えていた。他の男たちも大なり小なり警戒の念を抱き、及び腰となっている。彼らにとって妖怪は本当に脅威なのだ。悪いことをしたなとは思ったが、だからといって一方的に痛めつけられるわけにもいかない。ここから退散するとしたら頭上に陣取っている何者かの攻撃から逃れる必要があるだろう。
まずは物見櫓の頂上にテレポートする。それで地上の人間たちに害を及ぼすことはないだろう。あとは出たとこ勝負でやるしかない。覚悟を決めたところで遠くから「おーい、何をやってるんだ?」とのんびりした声が飛んできた。
かつてわたしの前に現れ、この郷に忍び込んで追われたとき無邪気に近づいて来たあいつの声だった。目を向けるとはたして、腰までの白髪を沢山のリボンでまとめたあの少女がいた。彼女のほうでもわたしに気付いたのか相好を崩し、足早に近付いてきて、わたしの手を気安くぎゅっと握る。その手はぞくりとするほど冷たかった。
「おお、久しぶりだな。というかまた会えるとは思わなかった。追い出されたと聞いたから」
わたしを包囲していた男たちは一様に戸惑いを隠せない様子だった。何かを問いたげな彼らの視線に白髪の少女はまるで気付くことなく、手を離して欲しいと言うべきか迷っていると、空から何者かが下りてきた。外の世界でも見かける青主体のオーソドックスなワンピースに、飾りのついた奇妙な帽子を被っていた。
「もしかして、妹紅の知り合いなのか?」
そして白髪の少女を妹紅と呼び、既知らしい様子で話しかける。妹紅はわたしの手を離し、その通りだとばかりに大きく頷くのだった。
「ほら、以前に話したよね? 外の世界からやってきた不思議な人間のことを。彼女がそうだよ……ところで妙に物々しい雰囲気だけど、妖怪でも迷い込んで来たの?」
妹紅は男たちがわたしを取り囲んでいたことにようやく気付いたらしい。こちらに来る途中で自然と目に入ったはずなのに。もしかすると彼女は不穏な気配を察して、割って入ってくれたのかもしれない。
「見慣れない何者かが空からやってきたと報告があったんだ。ただならぬものだと警戒するのも仕方がないだろう?」
「それは確かに。おそらく彼女はその辺りの流儀を全く知らなかったのだと思う。ここはわたしに任せてもらえないかな? 悪いようにはしないから」
「それならわたしは皆に彼女が今後、里に入っても騒ぎにならないよう取りなそう」
二人の間でどんどんと話が進んでいく。おそらくはかなり親しい間柄なのだろう。二人の世界というか余人には近寄りがたい空気を感じ、何故か胸が少しだけ息苦しくなった。もやもやする気持ちを押し殺しているうちに包囲が崩れ、里の往来が徐々に復活し、ちらちらとこちらを見やる視線も徐々に減っていく。
「では、場所を変えようか。その前に用事を済ませるから少しだけここで待っていてくれ」
妹紅はわたしが先程までいた店に入り、店主に品物を持ってきたと気さくに話しかけ、風呂敷の包みをほどく。遠目でも細工を凝らした飾り物であることが一目で分かった。店の主人はまた腕を上げましたねと褒めそやし、妹紅も満更ではない様子だった。わたしをちらと見る視線には若干の警戒が含まれていたものの、普段通り接すると決めたようだった。
わたしは妹紅が用事を済ませるのを見ながら、魔理沙の言葉を思い出していた。
『知り合いが髪飾りを卸していて、お客さんになってくれそうな奴がいたら勧めてくれと言われているんだ』
まさか妹紅のことを言っているとは思わなかった。わたしが知る限り、彼女は割と大雑把な性格で細かな作業に向いているようには見えなかったのだ。人は見かけに寄らないと言うべきか、わたしがまだちっとも彼女のことを知らないだけなのか。
胸にちくりと痛みが刺し、それが合図のように意識がすっと遠ざかっていった。
目を開くとぼんやり人型をしたものが見えた。眼鏡をかけるとユカリ先生が真剣そうな表情でわたしを見ていることが分かり、少しびっくりしてしまった。いつもは体調不良の生徒を覗きに来たりはしないのだが、あまりにベッドを占有していたから堪忍袋の緒が切れたのだろうか。それとも寝言であちらのことを漏らしてしまい、怪訝に思ったのだろうか。すぐにだらしのない笑みへと変わったから彼女が何を考えていたのか察することはできなかった。
「もう放課後だからな、どんなねぼすけでもそろそろ起きる時間だ」
「ありがとうございます」ベッドから抜け出し、礼を言うと足早に保健室から出ようとした。だがやはり彼女の考えていることが少しだけ気になってしまった。「変な寝言とか口にしてませんでしたよね?」
「身動きすらほとんどしないほどの熟睡だった。あまりに動きがないから心配して覗きに行ったくらいだ。あれでは夢を見る暇すらなかっただろうね」
夢を介して別世界に行っていたことを示唆するかのような発言だった。特に何かを意図したわけではなく、夢は眠りが浅いときに見るものだという知識を披露しただけだとすぐに気付いたが、わたしの動揺を彼女が見逃すはずもなかった。
「もしかして良い夢でも見ていた? それを邪魔されて機嫌が悪いとか」
「実は空を自由自在に飛ぶ夢を見てました」
事実の一部を口にし、ユカリ先生の様子をうかがう。そんなことはないと思うけど彼女は職業柄、色々なことをよく察する。わたしが尋常ならざる力を持っていると僅かでも疑っていないかを確認したかった。
「へえ、宇佐見でもそんな子供っぽい夢を見るんだ。で、どんな世界だった? 緑の服を着た勇ましい少年に出会ったとかそういうことはないだろうね?」
ピーターパンのことを言っているのだとすぐに分かった。つまり夢の出来事が現実に重なるなどとは微塵も考えていないのだ。安堵する反面、さっぱり信じていないことが少しだけ気に入らなかった。だからもう少しだけ夢の話を聞かせてやることにした。
「わたしが見た夢では空を飛んでいたのは涼しそうな服を着た少女でした」
本人は巫女服だと言っていたが、わたしとしてはあんなものを巫女服と認めるわけにはいかなかった。あくまでもあの世界で巫女が勝手に着ている私服に違いない。
「それはさぞかし目立つだろうね。涼しそうというのはシースルーとかノースリーブとか、夏に見かけるような格好のこと?」
「そう、ですね。ノースリーブに、膝までのスカートとここまでは普通なんですが、着脱式の袖とでも言うのかなあ。そんなものを身に着けてました」
「ふむ、なんだかファッションショーに出てきそうな格好だな。お洒落にはちっとも興味ないように見えて、心の奥底では結構気にしているんじゃないか?」
「夢が願望を見せるだなんて心理学では既に手垢がつきまくっているんじゃないですか?」
かつて他の生徒に向けてそう説いていたはずだ。しかし彼女は悪びれる様子すらなく、むしろ興がのったようだった。
「あれは悪い夢を見たというからくよくよしないように配慮しただけのことだ。夢には記憶の整理以外の意味はないとされているけれど、それだけでは説明のつかない夢だってないわけではない。臨死体験にしても予断を与える質問の仕方によって誘導されたものだという考え方が大勢を占めているけれど、すり抜けてくるものはある。無意識には個人の記憶を超越する何かが潜んでいると考えるのはおかしいことではない」
「別の生徒には建前を騙り、わたしには本音を語るんですね」
「教育者として不誠実だと思う?」
「だからこそ信頼できると思っています」
嘘を吐いてくれるからこそ守られているものがある。欺瞞を責めているのではなく感謝しているのだと伝えたかった。だが彼女はわたしの言葉を聞いて、ぷっと噴き出してしまった。
「宇佐見に、くくっ……そんなことを言われるとは思わなかった」
感謝を口にするのがそんなに可笑しいのだろうか。なんとも失礼なことだと思ったけれど、普段の言動を鑑みれば俯くしかなかった。
「担任には報告してあるけど顔は出していきなさい。できるだけ調子悪そうに、申し訳なさそうな表情をすること」
「はい、分かりました。では、失礼します」
なんとも気恥ずかしくて、そそくさと部屋を出ようとしたところで彼女に呼び止められた。
「その夢はやっぱり悪い夢だった?」
かつて、わたしが悪夢しか見ないことを打ち明けたことがある。きっとそのことを気にしてくれたのだろう。
「不可思議なところだらけでしたが悪い夢ではなかったと思います」
「そうか、それは良かった」
気さくで優しさに満ちた笑みだった。だから誤解する人が出てくるんですよと悪態の一つもつきたくなったが、噛み殺せなかった欠伸がわたしの口を塞いだ。
日頃の行いの賜物だろうか、担任はわたしの体調不良を全く疑わなかった。今日はゆっくり休みなさい、翌日も辛かったら無理はしないようにと言われただけだ。
学校を出るとようやく、幻想郷での出来事を考えられるようになった。
「タイミング最悪よね、やっぱり」
窮地から救ってもらったのに礼の一つもなく姿を消してしまったのだ。わたしだったらなんだあの恩知らずと少なからず憤りを覚えるだろう。仕方のないことだと分かってくれたのだとしても良い気分にはならないはずだ。
「次もやっぱりあそこに行っちゃうのかな」
幻想郷と繋がりを得られたことがあんなにも嬉しかったのに、今は憂鬱でしかない。消える間際に見せた妹紅の戸惑うような顔を思い出すだけで重い息が漏れる。わたしの能力と対等に渡り合える相手ならば妹紅でなくても良いはずなのに、彼女に嫌われていたらと考えるだけで胸がちくちくと痛む。ああ、なんて忌々しいのだろう。
「別に一人や二人、嫌われたくらいでどうってことないはずよ」
霊夢や魔理沙は親身に接してくれたし、礼を失することもなかったはずだ。まだ出会ったことはないけれど、わたしより前に郷へ越してきたという人間ならば間違いなく、わたしのことを理解してくれるはずだ。
「そう、妹紅に嫌われたくらいでなによ!」
不意に周りから視線が突き刺さり、歩く間にぶつぶつと思考が漏れ出ていたことに気付く。慌てて誤魔化すような笑みを浮かべると、すぐに誰からも注目されなくなった。こういうところは都会も悪くないなあと思う。不必要な興味を持たれることなく、若干の奇行も気にされない。これが人口の少ない場所だったらあることないこと口さがなく噂されていただろう。
駅に着くとほぼ同時に電車がやって来た。あと五分ほどかかるはずだがと思いながら案内板を見ると、安全点検のために遅れが生じているとのことだった。遅れているからいつもより速く乗れるなんて変な話だなと思うが、本数の多い都会ではたまにあることだ。
得したなという気持ちもしかしほんの一瞬で吹き飛んだ。この時間帯ならいつもは座れないなりに十分な余裕があるはずなのだが、今日はすし詰め状態であり、あらゆる方向からぎゅうぎゅう押しつけられる羽目になった。まあ、これだけならたまにあることだし我慢できなくはなかった。
我慢できなかったのは少ししてお尻に押しつけられた不躾な手だった。これだけ窮屈なのだから仕方がないのかなと思ったけれど、まるで撫でるように手が動くから流石に察せざるを得なかった。
こういうとき、どうして痴漢ですの一声を出せない女性が大勢いるのか分かった気がした。怖いという気持ちもあるが、とにかく不愉快で気持ち悪いのだ。少し我慢すればこの気持ち悪さを与えてくる何者かと一生関わり合いにならずに済むならば、黙っていたほうがましだと考えてもおかしくない。
わたしも少しだけそう考えた。でも手の動きが撫でるから揉むに変わったところで堪忍袋の緒が切れた。サイコキネシスを手にまとわせると痴漢の手首をつかみ、そっと力を込める。骨が折れないくらいの強さだが十分に痛いはずだ。
次の駅に着いたところで離すとわたしの左隣にいた男性が慌てて下りていった。腕に痣が付いていたから彼が犯人で間違いないのだろう。相当な痛みにも拘わらず声一つあげなかったのは根性があると言って良いのだろうか。
窮屈な車内も数駅行くと大分ましになり、目的の駅で降りると思わず息が漏れた。
「わたしなんかじゃなくもっと可愛い子を狙えば良かったのに」
あんな状況では選り好みする余裕などなかったのだろうか。それとも女性のお尻なら誰でも良かったのだろうか。
「気持ち悪い」思わず冥い呟きが漏れた。誰かに聞かれたら不審がられると分かっていても我慢できなかった。「男って我慢できなかったら誰でもいいんだ。厭だなあ……」
上手く撃退できたことなど何の慰みにもならなかった。欲望の捌け口として選ばれたこと、数十秒程度であっても名も知らぬ男の欲望を満たさせてしまったことがおぞましくて溜まらなかった。
少しくらい触られたって減るものではない? 冗談じゃない。目には見えないだけで明らかに減るものはあるのだ。それを最悪な形で思い知らされてしまった。
家に帰ると玄関の鍵が開いていて、ママが出迎えてくれた。帰宅は十九時頃のはずなのにどうしたのと話を訊けば、ずっと有給を取っていないことを指摘され、それでは午後だけでもと渋々帰ってきたらしい。
「だから溜まっている家事や用事を済ませていたの。さっきようやく終わったとこ」
ママはワーカホリックというほどではないけれど、常に何かをしていなければ気が済まない人だ。これがパパだったらひたすら何もせず、ぼんやりとしていただろう。他にも正反対のところは多々あるけれど夫婦仲は不思議と良い。だからこそ、と言うべきなのだろうか。
「……顔色が少し悪いようだけど、大丈夫?」
普段はあまり気がつくほうではないけれど、気付いて欲しくないことばかり妙に察する。かつてサイコメトリーが使えた頃に散々思考を読んでいるからわたしの能力に気付いているわけではないと分かってはいるのだけど、それでもたまにどきりとしてしまう。
「体調が悪くて午後は保健室で休んでたの。もう大分良くなったけど」
こういうときはあまり嘘を吐き過ぎないのが良いと思い、保健室で休んでいたことだけはきちんと打ち明けることにした。もちろんその目的までは話せないけれど。
ママは微かに目を細め、鼻の頭をさする。不安に感じたとき、ママは無意識のうちに鼻の頭に手をやる癖があるのだ。子供の頃、その仕草をしない日がないくらいいつも不安にさせていたから、嫌でも察せざるを得なかった。
「今日はゆっくりと休みなさい。夕飯は部屋に持って行ってあげるから。何か食べたいものとかある? 今から買って来るけど」
「えっと……それじゃあ、アイスを買ってきてもらっても良いかな。いつものやつ」
何も欲しくないが、遠慮されていると思うたびに悲しそうな表情を見せるから適当な用事を口にしたほうが良いのだ。アイスは嫌いではないし、役得だと思うことにした。
出かけていくママを見送ると自室に戻ってパジャマに着替え、ベッドに横たわる。四時間近く眠ったあとではちっとも眠くならず、すぐに落ち着かなくなって近くに置いてあったスマホに手を伸ばす。まずはニュースに目を通したが、暗い出来事ばかりが掲載されていてすぐに指で追い払う。いつもはざっとでも目を通すのだが、今はそんな気持ちにすらなれないようだ。
ふと気になって、自分のお尻を触ってみた。最初は撫でるように、次は少しだけ力を入れて揉んでみたけれど、何が良いのかさっぱり分からなかった。
性的な知識は人並みに有しているはずなのに、実感がさっぱり湧かない。誰かに触られると想像するのは気持ち悪いのに、自分でやってみてもちっとも感じない。体育の授業でお互いの胸やお尻を触りあいくすぐったがっているクラスメートを思い出し、少しだけ乱暴に胸を触ってみたが、やはり何も感じない。揉んでみようにもそのための膨らみすらろくにない。わたしはきっと石のような女なのだろう。もしかすると超能力を得た代償なのかもしれない。なるほど、奇妙奇天烈な力の持ち主が繁殖によってぽこぽこ増えたらたまったものではない。
では力を持つことが当たり前の世界に生まれていれば、わたしも人並みに女を感じることができたのだろうか。
これまで生きてきて一番気持ち悪い自問自答だなと思った。強い吐き気が襲ってくるのをなんとか我慢すると、頭の中から無理矢理追い払った。
夕食を自分の部屋でぐうたらと食べるのは楽だけど、なんとなく後ろめたい気持ちが湧いてくる。今夜だけだと自分に言い聞かせ、具だくさんで薄味のうどんをゆっくりと胃に収める。一息つくと少しだけうとうとしてきたけれど、体はちっとも疲れていないのだろう。目を瞑って眠ろうとしても上手くいかなかった。
ドア越しに帰宅したパパとママが何やら会話を交わしているのが聞こえてくる。パパはノックしてから少し待ち、そっとドアを開けて様子をうかがってきた。
「体調が悪いんだってな。大丈夫か?」
「一晩寝たら大丈夫だと思う。それでも辛いようだったらちゃんと言うから。その……ありがと、心配してくれて」
嘘には慣れているけど、気遣われて何も感じないでいられるほど面の皮は厚くないらしい。照れ臭さを装って布団を被り、顔を隠すとすぐにドアの閉まる音がした。
パパもママも善良であり、常に偽りを口にしなければならないのが少しだけ重い。かといって超能力のことを打ち明ける気にはならなかった。
子供の頃、わたしは力の制御をろくに知らず、結果として騒霊に近い現象を引き起こしていた。両親は原因の分からない現象を鎮めるため、お祓い師や霊能力者に依頼をかけ、お金と時間を随分と浪費し、心身を徐々にすり減らしていった。特にママはノイローゼの一歩手前までいってしまい、あとで聞いた話によれば離婚寸前という状況だったらしい。
幼い頭を振り絞り、能力の漏出を防ぐ方法が分かったお陰で危機は回避されたのだが、一連の出来事を通じてわたしは一つの実感を得ていた。
両親にはわたしが有する力の責任を負う能力は全くないということだ。この力はどんなことがあってもわたし自身が何とかしていくしかない。
怪現象が収まってもなお不安を拭えない両親が別の霊能力者に相談すると、わたしは特別な星の巡りをしており、そのことを憂う先祖の霊が守護者として強い力を発揮したから、様々な怪奇現象が起きたのだと説明した。見当違いも甚だしかったが、わたしは何も言わなかった。それで両親が安心すると知っていたからだ。
わたしにも意外だったのはその霊能力者が本物だったことだ。念のために少しだけお祓いをと言って両親のいないところまで連れて行くと、それまでの穏やかな表情から一変して、まるで怪物であるかのようにわたしを睨みつけた。
「その力はよく制しないといけないよ。神や仏さえ滅するものだから」
「神や仏が何なのかは分からないけど、パパやママが悲しむ力だってことは分かっていますから。これからは気をつけます」
それで霊能力者は満足したらしく、空中に何かを描く仕草をした。それが九字を切る仕草であり、邪気を祓う意味があることを知ったのはかなり後のことだ。
わたしは人間の姿をした邪悪であるのか、将来わたしに近寄ってくる悪いものを少しでも遠ざけようとしたのか。住んでいる場所も名前も知らないからその意味を改めて訊ねることはできなかったのだが、彼の言葉は今でも心の奥底に潜み、わたしを律しているのだと思う。
目を開くと暗闇のただ中に一人で立っていた。光を求めて空を見上げ、わたしは思わず息をつく。都会では決して見ることのできない満天の星空が、視界中に広がっていたからだ。
初めてこの場所にやって来た時も夜だったが、空を見上げている余裕なんてなかった。侵入早々、郷の怪人たちに追いかけられ息をつく暇もなく逃げ帰ったからだ。それにあの夜、空を占めていたのは星より目映い弾幕ばかりだった。都会よりもなお星など見えなかっただろう。地方に住んでいる親戚もいるから、星に溢れた夜空が初めてというわけではない。それでもいま見ている夜空よりは空疎であったと思う。それほどに密度が濃く、かつて人々が川と称したのも理解できようというものだった。
月が出ていないのも原因かもしれない。今日は新月だったか気になり、スマホを取り出して月齢を調べようとしたところで、視界の端に光が瞬いた。何者かと視線を向け、思わず安堵の息をつく。妹紅が指先に赤い輝きを生み出しており、口にくわえた煙草に火を点していた。わたしと戦ったとき派手な炎を扱い、容赦なく放ってきたことを今更のように思い出す。サイコキネシスによる防壁が勢いだけでなく熱も防いでくれたから良いけれど、全身を包むほどの巨大な火の鳥の弾幕なんてまともに食らえば怪我では済まなかっただろう。
吐き出された煙は一瞬で闇夜に消える。妹紅は指でぎゅっと摘んで煙草の火を消すと、わたしの方に向かってきた。一服ならぬ一呼吸と言ったところだろうか。
「禁煙していたのをすっかり忘れてた」
愉快そうに笑う妹紅にわたしは何も返せなかった。煙草を嗜むことも、健康を気にしてかなんとかやめようとしていることも。わたしは妹紅のことを何も知らないのだ。
「どうしてそう、都合良く現れるの?」
何よりも不思議なのは妹紅がここにいるということだ。わたしは弁明の一つもなくあの場所から姿を消したというのに咎める様子すらない。意味が分からなかった。
妹紅はわたしの思いなど露知らず、そのいかにも軽そうな口をぺらぺらと動かし始めた。
「あの場を何とか収めてから、霊夢の所に行ってみたんだ。結界を越えて現れる人間の行方を探るとしたら、彼女に事情を訊くのが一番だからね。職務のことになると口が固いから一勝負交えることも覚悟したんだが、霊夢はあっさりと話してくれたよ。お前が今朝から何度か、いかなる方法によってかは知らないが、外の世界からこちらにやってきていること。登場地点がかつて何度も結界が裂けたこの場所であることを。だから次にやってくるのを待っていた。ほらね、難しいことは何もない」
簡単に言うけれど現れるかどうかさえ分からない相手を待つだなんて尋常の精神ではない。だからつい訊ねてしまっていた。
「こうしてすぐにやってきたから良いけれど、もしも二度と現れなかったとして何時まで待つつもりだったの?」
「さあ、考えてなかった。飽きるまでとしか言いようがない。二日か、あるいは三日か……」妹紅はわたしの問いに腕を組み、真剣に考え始める。そして自信満々に、笑顔とともに言ってのけた。「半月くらいは待ったかもしれない」
「家にも帰らず? ずっとここで待ち続けるつもりだったの?」
「ああ、そうだね。目を離した隙に姿を現すかもしれないから」
「飲まず食わずで? 飢えも渇きも、煙草で誤魔化すには限度があるわ」
水を一滴も飲まずに生きていられるのは一週間が限度であると、どこかで目にした記憶がある。多少前後するにしても半月では到底、命はないだろう。
それで今更ながら考えて然るべき可能性が浮かんできた。
「貴方は妖怪なのね。だから半月程度、飲まず食わずでも平気なんだわ」
妹紅はわたしの問いかけに何も答えず、曖昧そうに微笑むだけだった。否定しないということはきっと正しいのだろう。
「霊夢はわたしのような人間を取って食おうとするのが妖怪の本質であると説明してくれた。貴方はわたしを助けてくれたけれど、それは何も知らないわたしに取り入って隙あらば食べるためだったの?」
そうではないと言って欲しかった。だが妹紅は肯定も否定もしなかった。かといってここから立ち去ろうともしていない。だとすればわたしはどうするべきだろうか。夢から覚めて妹紅の前から立ち去るか、それともここからいなくなってもらうか。
「ここでは問題が起きたら、弾幕決闘と呼ばれる方法で勝負を決めると聞いたわ」
指先から掌、手首から肘に向けて腕を徐々にサイコキネシスの膜で覆っていく。不意打ちをかけられても怯まないよう、妹紅の一挙手一投足をじいっと見つめる。彼女が実力者であることは過去に二度、手合わせをしたことがあるからよく分かっている。炎を操るのも厄介だが、それ以上に恐ろしいのはあらゆる行動に一切の躊躇いがないということだ。あの霊夢でさえ可能な限り傷つけられないよう立ち回ったというのに、妹紅は回り道を一切しない。追い払うならば最初から本気でいかなければならないだろう。
「良いね、追い詰められなくてもそんな顔ができるようになったんだ。もうお前は甘っちょろいガキなんかじゃない。力によって己を表現することを覚えた、人間という怪物だ」
妹紅の手にはいつのまにか、鮮やかな朱で刻印された札が握られていた。霊夢の札のように追尾したり、陣を組んで結界と成すような真似はしなかったけれど、数でこちらの守りを確実に削ってくる厄介な代物だ。
「外の世界に住む、未知の力を持った怪物よ。かつて見せた力だけが全てじゃないんだろう? わたしに本気を見せてくれないか?」
言われなくてもそうするつもりだった。興味のある素振りを見せて、危ういところを助けてくれて、どれもこれもわたしを美味しくいただくための演技だとしたら許すつもりはない。
燃えるような憎悪とともに力が全身を覆い、地面が微かに鳴動する。溢れた力が掌に集い、大量の粒弾が眼前に展開される。銃がなくてもこれらの弾を撃ち出すイメージを、わたしは自由自在に描くことができた。
なんて気持ちが良いのだろう。こんなにも力を使って良いだなんて。
妹紅の顔は悦びに歪み、気持ちの高ぶりを示すかのように札が燃え、炎の羽根を持つ鳥が現れる。離れていても熱と圧がこちらまで伝わるほどの強い力だ。でも怖くはなかった。むしろ愉快だった。わたしもきっと妹紅と同じような顔をしているのだろう。人を食わないだけで、わたしは妹紅が言うように怪物なのだ。ならばせいぜい怪物らしく行ってやると決めた。
火の鳥が妹紅の手から離れたのを見てから、サイコキネシスの弾丸をありったけ発射する。不死を示すその特性とは裏腹に、火の鳥は穴だらけになって消えてしまったが、既に妹紅の手には二匹目がいた。このままではやがて相殺されてしまうだろう。
だから二匹目の鳥とぶつかる直前で軌道を逸らしてやった。霊夢の追尾する札を見て自分の力でも似たようなことができると考えていたのを試してみたのだが、上手くいったらしい。こちらに向かってくる火の鳥は短距離テレポートで回避し、過ぎゆく熱を背後に感じながら妹紅の様子をうかがう。この攻撃方法は一度も見せたことがないから不意を打てるはずだった。
妹紅は全く動揺する素振りもなく、力の直撃を受けた。全身から血が噴き出し、左腕は半ばちぎれてぷらんぷらんと垂れ下がる始末だった。まともな人間ならば耐えられないはずだが、妹紅の体は炎に包まれ、その中から傷一つない姿が現れた。やはりこの程度では怯ませることすらできないようだ。
どういう仕組みか知らないが、妹紅には異常なほどの治癒能力が備わっている。かつて切り札の一つである鉄塔召還の直撃を受けてなおけろりと立ち上がって来たのを見たときにはぞくりとしたものだ。同じ怪物でも獣の尻尾を生やした眼鏡の女性や巨腕を発射してくる隻腕の女性は攻撃を受けたら痛がっていたし、怪我が瞬時に治ることもなかったと思う。
妹紅はわたしの戸惑いを他所により深い悦びの笑みを浮かべる。痛手を被ったことが嬉しいと言わんばかりだった。
「強いだけでなく柔軟性もある。ただの人間を殺すならばそれで十分過ぎるんだろう。だがわたしは少しばかり変わった人間でね」
全身に穴が空いてすぐ治る人間なんているものか!
心が叫んだけれど、あまりに突拍子なくて声に出すことができなかった。
「わたしを倒すならもっと念入りに、髪の毛一本残さずすり潰さなければならないよ。ちまちました弾を撃ち続けるのではなくてね。それとももう一度試してみる?」
妹紅は両腕を広げ、無防備な姿を晒す。本当にもう一度攻撃を受けようとしているのか、それとも何らかの罠であるのか。
「攻撃する意志を見せないと言うならば、溶岩よりも熱いわたしの炎で、お前を骨まで灰とするほかないだろうね」
相手をすり潰す力なんてイメージしたことはなかった。そんな力を発揮する必要なんてこれまでに一度もなかったからだ。でもきっとできるはずだ。求めればどんな力だって手に入れることができたのだから。
こんなところで死ぬつもりはなかった。この世界に存在するあらゆる不思議を根こそぎ掘り返すつもりだった。そのためには目の前の不思議を平らげることができなくてどうするのか。
これまでにない力を想像する。目の前の怪物を、それこそ跡形もなく滅する力。名もなき鉄塔では駄目ならば、より強い力と意味を持つ塊が必要だった。東京を象徴し、天を貫かんばかりの巨塔。あれならばどんな存在でも、例え不死身の怪物であってもすり潰し、永遠に甦らなくすることが可能だろう。
想像するとともに体の力が一気に抜けていく。わたしが扱うにはあまりに巨大過ぎるのだろうか。それとも想像力が足りないのだろうか。できるというイメージを、もっと堂々と掲げるべきなのか。
妹紅は両腕を広げたまま動かない。わたしは消耗していくこの身をおして、更なる力が集うことを必死に想像し……。
「こら! 二人ともそんなところで何をやってるの!」
鋭く甲高い声に阻止され、集中が一気に切れる。霊夢がお祓い棒を構え、強い憤りを表情と気配で示していた。かつてこてんぱんにされたことを思い出し、わたしは慌てて妹紅を指差してから言い訳を考えた。
「彼女が物騒なことを言って、その、襲いかかろうとして来たの」
「わたしは流儀に則って決闘を申し込んだだけだがね」
わたしの告発を何食わぬ顔で言い逃れようとした妹紅だが、流石に通用しなかったらしい。霊夢の二等分されていた怒りが妹紅に集中した。
「彼女はかつて侵略者だったけど、郷については無知と言って良いわ。少しばかりからかったつもりなんでしょうけど、藪をつついて蛇を出すかもしれない」
「霊夢は異変解決するとき、いつもそんな感じじゃないか。でも、それで上手く行っている。わたしも少しばかり参考にさせてもらっただけだよ」
妹紅はそう言ってからわたしに近付き、いきなり肩に腕を回してきた。ひんやりとした感触が、微かな甘い匂いがまとわりつき、思わずどきりとしてしまう。
「この通り、わたしたちはすっかり打ち解けてるんだ」
「彼女、露骨にびくびくしてたわよ」
「ははは、それは気のせいじゃないかな」
ここで腕を払い、距離を取ることもできただろう。でも、そうはしなかった。妹紅が耳元でそっと「ごめん」と囁いて来たからだ。それだけで先程までのやりとりをなかったことにするだなんて、我ながら馬鹿なことだけど。
「まあ、そういうことにしといてあげる。勝負ならわたしの目や霊感が届かないところでやりなさい。神社の周りでどんぱちやられたら駆けつけるしかないのよ」
霊夢は既に撤収を決め込む様子だったが、最後にわたしのことをちらりと見た。本当に自分がいなくて良いのかと心配しているようだった。
「ごめん、気をつけるわ。里で起こした騒ぎといい、わたしはまだここのことを全くと言って良いほど知らないのだから」
「そのことが分かっているならば、今日はもう何も言わない。夜は危ないけれど、こいつが一緒ならば問題はないでしょう。偏屈だけど腕は立つし、一時的にでも行動を停止させるには最低でも十回は殺さないといけないから」
殺す、と霊夢は言った。そして妹紅もその言葉を訂正する様子はない。辛うじて頷くことはできたけれど、わたしの心はすぐさま疑問に満たされてしまった。
「それでも十分に気をつけなさい。早く夢から目覚めることを祈ってるわ」
それだけを残し、霊夢はわたしたちに背を向け神社に戻っていく。完全に姿が見えなくなったのを確認してから、わたしは妹紅の腕を払った。
「別に触られても減るものじゃないだろう?」
「減るのよ。体は減らなくても心は減るの」
「良い生地の服を着てるからそうじゃないかと思っていたけど、育ちが良いんだな」妹紅は離れるばかりか、じっと顔を近付けてくる。口元には下卑た笑みが浮かんでいた。「肌も綺麗で血色も良い。何よりもその気位の高さだ。両親は身分の高いお役人様か何かなんだろうな」
妹紅はわたしの力でなく、服や生まれを基にじっとりと品定めしてくる。その仕草にわたしは嫌悪感しか覚えなかった。
その気持ちを妹紅はすぐに察したのだろう。厭らしい態度と表情を引っ込め、申し訳なさそうに眉をしょんぼりとさせた。
「すまない、我ながら何とも下品だった。昔、全く同じことを口にした奴がいたんだ。それでつい、むらっと来てしまって」
「もしかして、女性を口説ける人なの?」
むらっと来た、というのがそういう意味なのだとしたら。間近で顔を合わせているのが途端に恥ずかしく思え、咄嗟に距離を取る。妹紅は慌てて手を振り、口元を微かにすぼめた。
「否定はしないがそういうことじゃないんだ。うーん、まあ求愛した方もスマートではなかったのかもしれないけどね。手をつけられようとした方がそう言って拒んだんだ。求愛した方は酷くがっくりと来て、しばらく屋敷の外に出ることさえできなかった」
それは失恋の痛みというやつなのだろうか。確かに意中の相手からそんなことを言われたらがっくり来るかもしれないが、それにしてもあまりにせせこましい。
「それはあまりに繊細過ぎる、とでも言い足そうな顔だ。確かにわたしも並の美人ならばそう考えただろう。だがね、相手は正しく珠のような、他に類を見ない美貌の持ち主だった。当時は全体的にふくよかな体型の女が好まれていたものだが、彼女は竹のようにぎすぎすした体躯であるにも拘わらず、あらゆる男性の目を釘付けにせずにはいられなかった。千年先も称揚される美とうたう人もいたね。そんな相手に迷惑だからやめて欲しいと言われたらいかに立場のある大人の男でもね、やはりがくりと来るものだよ」
懇々と説かれてみてもやはりぴんと来ないものがあった。分かってはいたがわたしは男女の機微というものについて非常に鈍いらしい。
「でもね、減るものは減るんだからしょうがないわ。少し前のことだけど、知らない男の人にお尻を触られた時は減ったって感じがしたもの」
ごつごつした手がわたしを撫でていたと考えるだけでも何かが削られているような気持ちになった。こんな不快さを味わわせて来るのだから、相手が傷つくなんて知ったことではないと思ったのだ。
妹紅はわたしの顔から視線を逸らし、ぽつりと訊ねてきた。
「わたしが肩に触れたときも減ったと感じたの?」
そう言われ、わたしは先程のことを思い出す。
「いえ、そんなことはなかったわ。きっと貴方が女の人だからね。不潔じゃないし変な臭いがしないというのも大きいかも。袖がぼろぼろの服はちょっと何とかして欲しいけど」
「これはまあ気にしないで欲しいかな。でも良かった、無理につきまとっているのが迷惑だったんじゃないかと少し不安になったんだ」
妹紅はわたしを案内していると思っていたのだが、彼女のほうでは強引に付いて来ているという認識らしい。そう言えば出現地点で待ち伏せていたり、以前も超能力カードをわざわざ届けに来てくれたりと、まめに接触をかけている。
「妹紅はもしかして、わたしと友達になりたいの?」
だから柄にもなくそんなことを訊ねてしまった。半ば推測、半ば希望的観測。わたしも妹紅のような友人がいてくれたら良いなと少しだけ期待しているのだろう。意を決して呼び捨てにしたのは少し先走り過ぎたかとも思ったが、妹紅は気にしていない様子だった。
「友達か。まあ、それでも良いのかな? 一緒にいて良い関係ならばなんでも構わないよ」
曖昧な発言だったが、わたしと仲良くなりたいという思いを抱いていることはなんとなく伝わってきた。それにしても一緒にいて不自然でないならなんでも良いだなんて。それでは恋人になってくれと言ったら、それでも二つ返事で頷くのだろうか。
胸の内で何かが盛大にはねた。鼓動の高鳴りと気付くのに少しだけ時間がかかった。息苦しくて、意識しなければ上手く呼吸ができないくらいだった。
あまりにも馬鹿らしい反応だった。胡乱なことを意識して苦しいと思うだなんて。
「郷を案内して頂戴。安全な所も危険な所も。それから妹紅自身の話も聞かせて欲しいかな」
わたしは迂闊な心を隠し、これからいくらでも楽しいことがある子供のように振る舞った。妹紅はわたしの心に気付くことなく、照れるように笑う。
「それくらいで良いならば。その代わり、一つだけ頼みたいことがある」
そして同じ表情のまま、こう言ったのだ。
「試させて欲しいんだ。菫子の本気ならわたしを殺せるかどうか」
流石に笑えない冗談だった。鼻であしらうか、冗談はやめてと怒った振りをするか、何かをすべきだと分かっていたのに、黙っていることしかできなかった。妹紅はわたしの言葉を何も言わずじいっと待ち続け、時間だけが過ぎてしまい。
幸か不幸か目覚めの時が来てしまった。
「殺せるだなんてそんな、まさか……ねえ?」
からからの口から思わず声が漏れる。妹紅の口にしたことが信じられなかった。だが紋切り型に否定するには色々なものを見過ぎていた。妹紅はわたしが呼び出した鉄塔に圧し潰されてもサイコキネシスの散弾を食らってもすぐに元通りの姿に戻っていた。それに霊夢が確かこう言っていたはずだ。妹紅を大人しくさせるには最低十回は殺さなければいけないのだと。何かの比喩だと思っていたが、本当にそれだけ殺さなければならないのだとしたら。
わたしの中に一つの可能性が浮かび、心を埋め尽くす。
妹紅は不死の怪人なのではないか。
それを確かめるためにもう一度幻想郷に行きたかった。しかし、昼も夜も眠ったせいで頭が冴えていた。身を横たえ、目を閉じたくらいでは眠気など訪れそうにない。もう少しだけ粘ってみたが効果はなく、わたしはベッドから抜け出すと、勉強を始めるため机に向かった。頭を酷使すれば疲労が襲いかかってくると考えたのだ。
二時間ほど学生らしく振る舞ってみたものの、眠気が訪れることはなかった。それどころか軽い頭痛がこめかみから耳の裏側にかけて走り、余計に眠りから遠ざかってしまった。花粉症やアトピーのようなものも含めて慢性的な持病は持っていないけれど、若干の頭痛持ちで集中して物事に当たり過ぎるとたまにちくちくするような頭痛に襲われてしまうのだ。
こんなとき、力を使うと何故か楽になるのが不思議だった。
わたしが力を使うとき、額に何かの集中する感覚がある。だから脳に何らかの負荷がかかっているはずなのに、思考の淀みを軽く洗い流してくれるようなのだ。思考と超能力では頭の使用する部分が異なるのだろうか。しかしかつて主流とされていたナイトヘッド仮説は既に否定されているはずだ。人類に眠っている脳の部分などない。あるいは新しい常識すら通用しないからこその超能力なのだろうか。
意味もなくボールを浮かせ、ぶつけ合わせてみたり、ペンをノートに走らせてみたり、日によってどんな解消をするかは特に決めていない。しばらく力を使っているうちに痛みが消え、心が徐々に落ち着いていき、そして緩やかな眠りが訪れる。
今日もそうしようかなと考えたところでふと良いことを思いついた。
これを使えば割と自由自在に眠ることができるのかもしれない。でも、ものを浮かせたり動かしたりする程度のものなら何十分も使い続けてようやく少しの疲労が襲う程度だ。大きなものを動かしたり倒したりすればもう少し早く疲れるけれど、それではあまりに目立つ。誰にもばれないで、かつすぐに疲労する能力の使用が求められていた。
今日のところは思いつかなかったからペンや物差しにダンスを踊らせてみた。所詮は物だから面白い動きに見えるわけではないけれど、眼精疲労による疲れや頭痛は徐々に抜けていく。あとは成り行きに任せようと再び横になってみたけれど、肝心な眠りだけが訪れない。
ようやくうとうととし始めたのはいわゆる草木も眠るという丑三つ時だった。こんな時間に眠ってみても騒がしいのはきっと妖怪ばかりに違いない。
「それはそれでまあ、悪くはないんだけどね」
妹紅はねぐらに戻り、今はもう眠っているだろう。そう考えたら少しだけ腹立たしかった。
星だけが光を与える本当の夜が再びわたしの前に広がっていた。こうなったら新しい妖怪の一人や二人でも見つけだしてやろうと思い、勇んで一歩前に出たところで柔らかいものを踏んづけた。下を見ると妹紅が寝転がっており、わたしを見て愛想の良い笑顔を浮かべた。
「なんでこんな所にいるのよ」
「菫子を待っていたに決まっている。で、その間の暇つぶしに星を数えていたんだ。なにしろわたしの年齢よりもなお多くの星々が空には瞬いているんだから」
突飛なことを言われ、気のない息をつくことしかできなかった。星を数えるなんて徒労も良いところだし、わたしを待ち続けていただなんてそれこそあり得ないことのように思えた。
「それよりも早く足をどけてくれないかな」
それで妹紅の感触が確かにあることを思い出し、慌てて足をのける。これは夢でも幻でもない。妹紅はずっと来るかどうかも分からないわたしを待っていたのだ。
「貴方、馬鹿じゃないの?」
きつく突き放すと妹紅は頭を掻きながら力ない笑みを浮かべるのだった。
「よく言われるよ。昔から学問は苦手なんだ。実地で身につけるのは好きなんだけどね。慧音なんてよく、大量の書物と毎日のように睨めっこしていられると思うよ」
妹紅はふわりと立ち上がり、それからわたしの顔をじっと見つめてきた。
「それでさっきの話はどうだろうか。わたしを殺せるか試してみない?」
「貴方、馬鹿じゃないの?」同じことを口にしたが、今度はぴくりとも笑わなかった。「本気なの? わたしの力なら首の一本や二本、簡単にねじ曲げてしまえるのよ」
「さっき穴だらけになっても死ななかったのに、それくらいで死ぬと思う?」
妹紅はじりじりと近付いてきて、そのたびに一歩後ろに下がる。いまようやく悪夢が形になり、襲いかかってきたのだと思った。朝から何度もわたしを騙し、浮かれさせたところでこの仕打ちはあまりにも酷いと思った。
「脅かすつもりじゃない。これは真剣な頼みごとなんだ」
「事情も知らず、殺せだなんて言われてはいそうですかと手をくだせるわけがない」
「では事情を知れば殺してくれる? だとしたら一から十まで話すよ。といってもそんなに面白いわけではないけど」
猫も殺すような好奇心はわたしに、いますぐ誘いに乗れと訴えかけている。冷静な自分はこんな狂人など避けるべきだと訴えている。もう少しだけ感情的な自分はこれ以上妹紅が迫ってくるのは困ると何故か考えていた。
「分かった、話を聞いてあげる」手を前に突き出し、妹紅の前進に待ったをかける。それをこともあろうに何をどう勘違いしたのか、妹紅は制止の手をつかみ、わたしをふわりと空まで持ち上げた。「ちょっと、何をするのよ」
「長い話だから落ち着ける場所へ。昼間なら神社の縁側を借りることができるし、人里にある茶屋でお茶とお菓子を楽しむことができる。でも今は真夜中だから、わたしの狭苦しい小屋くらいしか案内できるところがない」
いきなり家だなんて不躾だと思ったし、すぐに手を振り払ってしまおうかと思った。それなのに実際は妹紅のエスコートに従っていた。夜の空を手を繋いで二人。気恥ずかしいと感じてしまうのがなんだか無性に腹立たしかった。
少しすると前方に鬱蒼と竹の生え茂る林が見えてきた。ざわざわと風に揺れるその姿は夜の闇と星の光を無邪気に喜んでいるようで、少しだけ不気味だった。妹紅がその中に入ろうとしたとき、だからわたしは慌てて引き留めてしまった。
「ここは、あまり良くないと思うのだけど」
「わたしが案内するなら危険なことはないし迷うこともない。狼の遠吠えが聞こえるようなこともあるが、満月の夜でさえ穏和なのだから気にする必要もない。この中に住んでいるわたしが保証するのだから間違いないよ」
狼を何の問題でもないかのように堂々と言われても困るのだけど、獣は火を恐れるから妹紅がいれば確かに安全なのかもしれない。それにわたしの力だってただの獣程度ならば何ら問題はない。たとえ狼であろうともわたしの敵ではないだろう。
ではわたしは何を恐れているのだろうか。妖怪や獰猛な獣に会うのが怖いわけではない。わたしは何を躊躇って竹林に入ろうとしないのだろうか。
「わたしの手を握っていれば暗闇でも怖くないよ。なんなら目を瞑っていてくれて構わない。大丈夫、ここまで来たら本当にすぐだから」
強引に手を引こうとする妹紅に根負けし、手を繋いだまま竹林へと足を踏み入れる。星の光までが遮られるから中は本当に真っ暗で、すぐ側に何かが立っていても分からないだろう。実際、隣にいるはずの妹紅がひどく薄ぼんやりとしており、手を離せば二度とここから出られないのではという確信が徐々に強まっていく。目を瞑っていれば良いとは言われたけれど、本当にそうしているのと大して変わりがない。それなのに妹紅は迷い一つなく、竹林の中を一度もぶつからず、躓かずに歩いていく。
「明かりがなくても大丈夫なの?」
「道順は覚えているからね。それに明かりを点けると妙なのや面倒臭いのが追ってくるかもしれない。獣は火を恐れるが、蛾のように己から火の中に飛び込むような輩もいる。暗闇を進むのが実は理に叶っているんだ」
そう言われるとろくに事情も知らないわたしは黙り込むしかなかった。妹紅はそれを了解と取ったのか更に足を早め、わたしは地面に足を取られずついていくので精一杯だった。
「よし、着いた」妹紅の宣言と同時、僅かに明るく拓けた場所へと出ることができた。前方には小さな小屋があり、積んである薪やものを燃やした跡など誰かの生活している痕跡がある。「本当に粗末で申し訳ないんだけどね」
「てっきり謙遜しているのかと思ってた」
暗がりでも酷くぼろっちい建物であることがよく分かるし、わたしの住んでいるマンションよりもずっと狭かったのだ。
「わたしにとってはこれでも広いんだけどね。起きて半畳寝て一畳、天下とっても二合半とはよく言ったものだよ。ただしわたしのような世捨て人でさえ誰かを招くことはあるし、最近はとみに機会が増している。だから隙間風が入らないようにしたし、屋根も雨漏りがしないよう全て塞いだ。畳だって新しいものと張り替えたし、布団も晴れた日はきちんと干している。だからノミやダニも湧いていない」
「逆に言えば少し前までは野ざらしみたいな生活をしてたってこと?」
「否定はしない。でも、今は大丈夫だよ。お茶も出し切るまで再利用せず三回で捨てるようにしているし、客が来たときは使ってない茶葉を使用してる。髪の毛だって定期的に梳いているし、きちんと括るようにしている。どうだ、かなり人間らしいだろう」
「服の袖はびりびりに破れているみたいだけど」
かつてと同様の指摘に妹紅は誤魔化し笑いを浮かべる。
「服なんて多少破れてても着ることができれば良いんだ。髪の毛をまとめているのもお洒落ではなく、動きやすくするためだしね」
その割にはお洒落なリボンを着けていると思ったけれど、妹紅は腰まである髪を鬱陶しいものだと言わんばかりに揺らしてみせた。
「切ってもすぐに生えてくるから困ったものだ。これは髪に限らず、全身のあらゆる部分に関しても同じことが言えるんだけど。腕を落とせば新しい腕が、足を落とせば新しい足が、そして首を落とせば新しい首が生えてくる」
妹紅は手刀で首をぽんぽんと叩く。やってみろとでも言いたげだった。
「色々と試してみたんだけどね、どれも駄目だった。信じられないかもしれないけど、わたしは人間なのにこのなりのままで、なんと千歳を越えているんだよ」
老いず、死なず、人間だなんて普通はあり得ない。だがわたしは全身を穴だらけにしても死なないところを見ている。頭ごなしに否定できる段階はとうの昔に終わっている。
「数多の権力者が欲してやまない不死の体だ。この体を欲しがらなかった権力者はこの手で数えられるほどしかいない。わたしはこんなにも呪われているのにね」
肌の下がぞわぞわとするような、一種壮絶とした笑みだった。咄嗟に手をふりほどくと、妹紅はゆっくりと距離を詰めてくる。
「邪険にしなくても良いじゃないか。それとも菫子はわたしから逃げ出したいの? 死を知らないこの体を怖ろしいと思うから?」
嘲るような口を聞く妹紅についかっとなった。といっても超能力をぶつけたわけじゃない。妹紅を打ったのは無意識のうちに振り上げられた手だった。
赤い紅葉が頬に浮かぶ。妹紅はわたしが平手をお見舞いした箇所に手を当て、きょとんとした様子だった。それでようやく胸の内がすっと晴れた。
「怖いと思ったけど、それはわたしの意志に反したことを押しつけようとしたからよ。あんたの体が怖いと思ったわけじゃない」
挑みかかるように睨みつけるわたしを見て、妹紅は鼻から抜けるような息を一つもらし、口元を小さく歪める。笑顔でも嘲笑でもなく、相手を威圧するための笑みでもない。まるでわたしのことを好ましく思ったかのような柔らかい微笑だった。
胸の奥がちくりと、棘が刺さったように痛んだ。
「脅しつければ力を使ってくれると思ったんだ。菫子はその、こう言ったら怒られそうだけど追い詰められたら弱そうに見えたから。でもそんなことはなかった。どんなに怖くても一歩踏み留まって啖呵を切るだけの胆力を持ってる。その若さで人間としてこちらに来るだけのものがあるってことだな」
一転して誉められると無性にむず痒く、わたしは気まずい笑みを浮かべながら頬を掻く。だがそれも次の言葉であっさりと覆ってしまった。
「菫子に殺してもらうには、時間をかけて丹念にお願いしないといけないらしい」
「あのねえ、わたしは誰かを殺したりなんてしたくないの」
「わたしは千年以上生きてきたし、自分でこう言うのもなんだけど悪いことも数限りなく行ってきた。人間は長く生きればどうしてもそうなってしまうんだ。業を抱えずにはいられない。かの閻魔様だってわたしに白黒をつけることはできないだろう。それほどに多くの罪を抱えてきた。だから一度くらい永遠に死ぬべきなんだ」
永遠に死ぬなんて誰でも一度しかできないことだ。そんなことをあっさりと望むだなんて、なんだか寂しいなと思えた。
「妹紅はもう生きるのに飽きてしまった人なの?」
「やることは大体やったって感触はあるよ。でも生きるのに飽きたってわけでもない。新しいことはいつの時代だってあるものだしね。でも千年生きて大丈夫だったからって二千年生きて大丈夫とは限らない。心がいつ耐えきれなくなるかなんて誰にも分からないものだからね。実際にこれまでものっぴきならなくなる直前までいったことが何度かあった。わたしがわたしでなくなることに備え、己の死を担保したいと願うのは不思議なことかな?」
そう説明されれば少しは納得できたけれど、かといって実感が得られたわけではない。わたしは死んだことも、そこから甦ったこともないからだ。
「菫子は外の世界から来た、郷のどこにも存在しない能力の持ち主だし、その能力で早速わたしを穴だらけにしてくれた。だから少しだけ期待してるんだ」
「そんなこと言われたってわたし、あんなことはもう二度とやらないからね」
再びにべもなくはねつけてしまったが、妹紅は機嫌良くにこにこと笑うだけだった。基本的には人間でも時折何を考えているのかさっぱり分からなくなる。これはきっと彼女が人間らしからぬ生を過ごしてきたという証なのだろう。
そんなことを考えていると、妹紅はころりと顔をしかめてしまった。
「しまった、結局立ち話だけで全部説明してしまったな」
「良いわよ、気を遣わなくても。こんな話、腰を下ろしてゆっくり話せるわけないじゃない」
「そうかなあ……まあ良いや。夜も直に明けるけれど、目覚めるまでもう少しくらい時間はあるんだろう? 剣呑ではない話を交わして残りの時間を過ごそうじゃないか」
その申し出を断る理由はどこにもなかった。幻想郷のことをよく知る機会だったし、妹紅の個人的な話を聞いてみたいとも思った。千年以上も生きているならば歴史の様々な事件に立ち会っているのかもしれない。
ええ、喜んで。そう言おうとしたところで妹紅の姿がふっと消えた。
目を開くとともに、わたしは頭をかきむしった。折角の良い機会だったのに目覚めてしまうなんて。妹紅のことが嫌になったから逃げ出しただなんて思われていないだろうか。そうではないことを次に会ったら伝えなければならないだろう。
一つの小さな誤りはしかしすぐに過ぎ、代わりに心を満たしたのは喜びだった。
一度は諦めかけた幻想の世界が再びわたしの眼前に現れてくれた。夢だけど皆がわたしのことを覚えており、あの日終わったかに見えた物語の先を見せようとしている。
たった一日で得た知識と経験だけで、これまでに費やされた時間を埋めてあまりあるものであった。これが明日からもずっと続くのだから、喜ばずにはいられなかった。わたしはかつて神秘を追い、深秘に辿り着こうとした夢の続きを追いかけるのだ。
それにあの世界ならばわたしの超能力を見てなお、ともに肩を並べようとしてくれる存在がいる。事実、霊夢も魔理沙もわたしを恐れないでくれた。
妹紅は変な奴だけど、やはりわたしを恐れなかった。本当に変な奴だけど、それだけは感謝しなければならないだろう。それを口にするつもりはないけれど。
「人生が薔薇色に見えるってこんな時に使うのね」
くすくすと笑いながら、わたしはこれから先に広がる未来を思うのだった。
その先に大きな行き止まりが待っているとも知らずに。
宇佐見菫子高校デビュー手引書.pdf
入学式の前夜、もう一度その内容を黙読すると、わたしは小さくほくそ笑む。
完璧だった。この通りにシナリオを進めれば、薔薇色の高校生活が待ち受けているはずだ。
ファイルを復元不可で削除し、余計なバックアップが存在しないかを確認してからパソコンを落とす。灯りを消し、眼鏡を外してからベッドに潜り込むと、いつものようにこめかみを揉みほぐす。それからゆっくり目を瞑ると、驚くくらいあっさりと眠気がやって来た。かつての生活の副作用で横になってから一時間はしないと眠れない状態が続いていたのだが、ようやくその呪縛から解放されたのかもしれない。
嗚呼、灰色の日々よ、さようなら。わたしは心の中でそう呟くと、そのまま安らかな眠りに身を委ねた。
大病を患った経験はなく、大きな事故を起こしたこともない。神隠しに合ったという記憶もないし、子供の頃は神様がいて不思議に夢を叶えてくれた結果でもない。物心がついた頃には息を吸って吐くのと同じくらい容易く、ボールや積み木を、手を使わずに動かすことができた。そしてわたしができるのだから、他のみんなもできるのだと信じて疑わなかった。ある日、すみれこちゃんはいつもずるをするから嫌いと、友達だと思っていた子から言われるまでは。
まだ小さい子供だったから、わたしはむきになって突っかかっていった。といっても傷付けるつもりなんてなかった。かっとして手を振り上げただけだ。そのとき、ぽきんと枝を折るような音がした。その子は腕を押さえながら泣き始め、わたしは訳が分からないまま先生に叱られ、その子の親にも叱られ、パパからもママからも二度とこんなことをするなと言われた。その一連の流れで、できて当然だと思っていたことが、わたしにしかできないことを知ったのだ。それは騒ぎからしばらく経ったのち、悪い霊が取り憑いているからお祓いしようとママが言い出したことでますます確実となった。
少しして妙な格好をした二人組が現れ、意味の分からない言葉を呟き、悪い霊が退散するよう何度も訴えかけ、わたしから何かを引き出そうとした。僅かにぐらぐらと揺れるような感覚を味わったが、わたしの中から何かが出て行くことはついぞとしてなかった。お祓いが終わったのち、二人組は揃って頷き、わたしの中にいた霊が出て行ったと請け合った。パパもママもそれを信じたが、二人組はわたしを最後まで気持ち悪い何かのように扱ったし、誰もいない所で試したら力は依然として使うことができた。あの二人は嘘を吐いたのだ。
わたしは力を抑え、使わないように気をつけた。これを使うと皆が迷惑することに、その頃にははっきりと気付いていたからだ。でもずっと使わないでいると不意に力が漏れ、無差別にものを壊したり動かしたりした。転園は三回で打ち止めになり、ママはいつも暗そうな顔でわたしを見てしくしく泣き、パパは家にいる時は優しかったけれど、徐々に帰りが遅くなり、戻って来ない日も多くなった。
いつしかわたしは家の近くにある古びた神社で一人、遊ぶようになった。表には立入禁止の看板が立てられており、誰も掃除をしていないのか中も外もぼろぼろ、やって来るのは猫ばかりで、人は誰もやって来なかった。それらはわたしを恐れることなく勝手気ままに駆け回り、鳥居や屋根などの高い所に上ったりした。わたしは猫たちの行動を真似して遊ぶようになっていたのだが一月ほど経ったある日、どしゃ降りの翌日にも同じことをして足を滑らせ、派手に落っこちてしまった。だが地面と激突することはなかった。わたしの体は地面すれすれで浮かび上がり、そのまま留まることができたのだ。やろうと思えば空の上にも出られたが、そんなことはしなかった。ゆっくりと地面に着地し、心配するように集まってきた猫たちに向けて「にゃあ」と一つだけ鳴いた。
それからしばらくは周りを騒がすこともなく、だが半月ほどしたら再び力が漏れるようになった。当時の幼い頭で辿り着いた結論は、力を何かに使って発散すれば良いのではないかということだった。神社で決まった時間だけサイコキネシスでものを動かすようにして、それで力が周囲に漏れて騒ぎを起こすことはなくなった。ママはそのことを喜び、パパも段々と早く帰ってくるようになった。後で両親にそれとなく聞いたところ一時は離婚の危機だったということだった。
わたしはすんでのところで間に合ったのだ。
小学生になると、目立たないことを第一で行動するようになった。テストはわざと一つ二つ間違える、運動はそれなり、お腹が空いていても給食のお代わりをしない、当番はきちんとやる。それで二年まではやり過ごすことができた。わたしは控えめに見てクラスの誰よりも頭が良かったし、担任にも演技だと気付かれることはなかった。
だがいくら頭が良くても引っかかることはある。三年のとき、最初の失敗をした。二年に一度のクラス替えで馴染めなくて孤立しかけていた同級生に手を差し伸べてしまい、その際に向けられた複数の非難がましい視線を黙殺してしまったのだ。子供なりの正義感というか一種の潔癖さ、孤立することへの同情がわたしをそのような行動に走らせたのかもしれない。その効果はわたしが思った以上に覿面だった。分かりやすい無視、上履きが隠され、組を作る時は毎回孤立して担任と組む羽目になる。なるほど、世に聞く虐めとはこのような形で始まるのかと感心したくらいだ。でもこれらの行為はさして苦痛にならなかった。こちらから無視し続ければすぐに何もして来なくなったからだ。鬱陶しいのはわたしの孤立を察した担任の暑苦しい指導、今はクラスの皆とすっかり馴染んだ同級生が時折わたしにごめんなさいと声をかけてくることだ。担任を通じて事情を知った両親もわたしにべたべたと構ってきた。
味方こそがわたしの敵だった。だがそれを口にしないだけの処世術をわたしは身につけていた。最後のクラス替えまでの時間をわたしは緩やかな孤独の中で過ごし、良い結果と悪い結果を一つずつ得た。良い結果とは学力をたっぷり蓄えられたことで、悪い結果とはいつも薄暗い神社の中で勉強をしていたせいか視力が下がったことだ。
とはいっても目を酷使する社会だから、小五にもなれば眼鏡の着用者もちらほらと見かけるようになる。だからさほど目立つことはないし、下手を打つとからかわれることもあるけれど、わたしの場合はママが可愛い縁の眼鏡を選んでくれたから問題は起こらなかった。膠着していた状況もクラス替えによって改善され、高学年にもなるとクラスの連帯意識から抜け出して一線を引く生徒がわたしの他にも現れ始めた。そうした者たちは男女問わず自然と一塊になって、ぽつぽつと話をするようになる。詰まらない奴らと揶揄するものもいたけれど、緩やかながらも固まっていれば割と気にならないものだ。
猫でない相手と話をするのはなんだかんだいって楽しかった。授業の話、昨夜観たドラマやアニメの話、わたしにはどちらも鮮やかで、卒業まで続いて欲しいと強く思った。
だがそんな生活も長くは続かなかった。
ある日、男子の一人がわたしのかけている眼鏡を取り上げる悪戯を仕掛けてきた。バレないように力を使い、すぐに取り戻すことはできたけれど、いつも笑いかけてくる友達に何気なく触れた《ちぇっ、いい気味だと思ったのに》途端、普段聞いたことのない悪意に満ちた声が頭の中に直接流れ込んできた。
わたしは慌ててその子の顔をじっと見たが、特に変わった様子はない。あんなことを言っておきながら……と怒りが浮かびかけ、わたしはあることに思い至る。わたしは眼鏡を取った男子の前まで行き、手に触る《えっとこれって仲直りしたいってことかな。いやうん、俺は別に意地悪をしたくてこんなことを……》と口が動いてないのに言葉が流れ込んできた。
わたしは放課後になると図書室に寄り、超能力について書かれた本を読んだ。そしてこの力がサイコメトリー、接触による精神測定であると知ったのだ。
この力も基本的にはわたしが使いたいと念じた時だけ発動するものだった。だがサイコキネシスと同様、使わなければ自然と漏れ出してしまう。しかもそれはサイコキネシスよりも頻繁に起きた。かといって定期的に力を使い、発散することなんてできなかった。他人の心を読むなんて、怖くてとてもできない。だからしばらく無差別で、他人の心を嫌でも見せつけられた。わたしが友達だと思っていた女子はわたしのことが嫌いだったし、男子の一人はわたしの話すことが難しくて退屈で、でもそんなことを言うと馬鹿にされそうだよなと苦手意識を持っていた。別の男子は特に頭が良いわけでもなく、同じグループの女子が好きなだけで、適当に話を合わせているだけだった。
でもその三人はそこまで酷くなかった。一番きつかったのは三、四年の時の担任に偶々触れて心を読んだ時だ。彼はわたしのことを憎んでいた。クラスの孤立が改善されなかったことで査定が振るわず、そのせいで当時の恋人に振られたと思い込んでいた。わたしに酷い暴力を振るい、それ以上の酷いことをする気持ちが容赦なく流れ込んできた。今は接点があるからバレるのでやらないけれど、すっかり忘れた時に……なんてことまで考えていた。しかも彼は生徒たちに笑いかけながら、そんなことを悶々と考えていたのだ。わたしは耐え切れずにトイレで吐いた。大人も子供も、人間は誰も彼もが恐ろしく、逃げ出したくて堪らなかった。
そんなわたしが駆け込んだのはいつもの神社だった。猫たちは新たな力にも気付くことなく近づいてきて、わたしはつい気が緩んでサイコメトリーを《にゃあ、にゃあにゃあ、にゃにゃんにゃあ、にゃん》使ってしまった。そこで猫にも何らかの言葉があり、わたしにはちっとも理解できないことを知ることができた。
それがわたしにとっての救いとなった。猫に対して定期的にサイコメトリーすることで、無差別に人の心を読むことはなくなった。人間全体に対する恐怖心は未だに晴れなかったけれど、読めなければ案外気にならないものだ。それでも何らかの後ろ暗い気持ちを抱いているのがそれとなく伝わるのだろう。小学校を卒業するまでわたしに新しい友だちができることはなく、放課後は神社ばかりで過ごし、より多くの知識を蓄え、目はますます悪くなった。そして漠然とした怯えのせいか、わたしの念動力はどんどんと強くなっていった。五年生になるまでは木の枝をへし折る程度だった力が卒業する頃には鉄骨をねじ切るくらいまで拡大していた。それに逃げたしたいという気持ちに力が応えたのか瞬間移動の能力にも目覚め、あっさりと使いこなせるようになってしまった。何かを恐れること、嫌がることで、わたしは力を引き出してしまうのかもしれない。
どうしてわたしにはこんな力があるのだろうか。わたしはいつしかそのことを真剣に考えるようになっていた。
それが第二の失敗だった。何も考えず力を受け入れてさえいれば、後の数年間を浪費するような真似はしでかさなかったはずだ。けど、わたしは当時あまりにも純粋過ぎた。力の理由を切実に欲していたのだ。
中学に入ってしばらくはこれまで通りだった。話し相手こそいたけれど、人を微妙に避けて暮らす生活に変わりはなく、放課後は神社で猫と戯れていた。転機は夏休みが終わり、二学期が始まってすぐのことだ。消極的な推薦合戦によって図書委員となったわたしは、定期的に図書室へ出入りするようになった。
小学校のそれは申し訳程度の広さだったし、本を読むこと自体が好きではなかった。教科書に乗るようなお話は退屈でしょうがなかったし、わたしのような人間を代弁してくれなかった。評価になるから勉強はするけれど、積極的に手をつけようとは思わなかった。図書委員になっても期間内に本を読むことはないと考えていた。
そんなある日、本棚の隅で気になる本を見つけた。アニメみたいに派手な配色のキャラが表紙を飾り、何の変哲もない女の子が異世界でどうのこうのと帯に派手派手しく書かれていた。何となく興味を惹かれ、初めて貸出カードを使った。
本に書かれていたのは異世界に召喚され、特別な力によって英雄になっていく少女の物語だった。超能力によって敵を倒し、現代の知識によって皆に尊敬され、理由のある悪の魔王を救い、混沌に沈みかけた世界に一人立ち向かう。
これこそが求めていた物語だった。わたしは翌朝になると続きを一気に借り、夢中で読み干した。まだ書籍化されていない作品がネットに掲載されていると知るや否やそれにも飛びついた。そしてそのサイトを通じ、異世界に行ってしまう少年少女の物語を、それこそ湯水のように飲み干したのだ。冬が迫る頃にはわたしもいずれ異世界に召喚され、あるいは異能と対決する日が訪れると信じてやまなくなった。どうしてそんなことを信じられたのか、今となってはさっぱり分からない。波長が合ったからとしか言いようがなかった。
わたしは異世界に召喚されること、突然怪物に襲われることを考えて行動するようになった。方法に関しては投稿サイトの掲示板に書き込めば、皆がアイデアを次々と出してくれるので片っ端から実行するだけで良かった。まずは数年分のお年玉を一気に下ろしてノートパソコンと周辺機器を買い揃え、派手な念動力を使った動画を素人特撮動画として投稿し、マージンを懐に入れる。それを元手にデイトレードや株、先物取引に手をつけた。ネットに広がる有象無象の噂を収集し、儲かりそうな話があったら瞬間移動で関係者の所まで行き、サイコメトリーで心を読む。今から思えば瞬間移動で銀行の金でもくすねれば良かったと思うのだが、正義に反することはしたくないと頑なに手をつけなかったのだ。変形的ではあるがインサイダー取引をやっていたのに、そちらは全く気が咎めなかったというか、当時は犯罪であることすら知らなかった。正義なんてまあ、物差し次第なのだ。
十分すぎるほどの資金が貯まると代理人を派遣して部屋を借り、そこを根城にして正義の味方というものを始めた。この時代、街はネットからアクセスできるカメラに溢れている。なければわたしが直接仕掛ければ良いだけのことだった。何台ものパソコンやモニターを部屋中に並べ、犯罪を見かければ出動するの繰り返し。倒すべき悪い奴というのは首都圏ともなれば吐いて捨てるほどいる。見つけ次第、顔を隠すためのマスク、体型を隠すスーツとマントを身に着て瞬間移動で出動した。そして無差別に犯罪者を成敗した。
無論、毎回上手く行ったわけではない。同じことを繰り返していると敵も手口を覚える。あわや銃で頭を撃たれてお陀仏という事態にまで陥ったこともある。だが恐怖はわたしの力を更に研ぎ澄ませ、強くした。サイコキネシスで周囲を覆い弾丸を止めることができるようになったし、一定範囲の相手からまとめて思考を読み取ることも可能となった。また影に隠れながら戦い続けることで、遮蔽物を透視して向こう側を見ることもできるようになり、ごく短い先ではあるが、未来さえも予知できるようになった。物語の主人公たちがそうするように、わたしは戦いの中で、特にピンチを体験することでどんどん強くなっていった。だからこそわたしは主人公になれるのだと疑うことができなかったのだろう。
夜更かしばかりの生活だから、学校は貴重な睡眠を確保する場所となった。昼休みは即退散してずっと眠っていたし、自動書記の力を使って勉強をしているように見せた。体育、音楽、美術など、実技の時間は眠ることができないから嫌いだった。
放課後は神社でなく図書室にこもるようになった。力をひっきりなしに使っているため、あそこで発散させる必要がなくなっていたし、午後六時まで空いていていつも明るい図書室は目の悪さが気になっていたわたしにとって有用な場所であると今更ながらに気付いたのだ。書籍化された異世界もの作品をそこで読み、帰り道では歩きながら携帯小説を読むのが習慣となっていたのだが、少しするとわたしの周りにちらほらと人が集まるようになっていた。話を聞くと表紙がアニメアニメしたキャラの異世界ものは申請してもなかなか許可が下りず、図書室にない本をとっかえひっかえ読んでいるわたしが自然と目立つようになっていたらしい。こんな面白いものを自分だけ抱えているのは勿体ないという気持ちはあったから、特に気にすることなくどんどんと貸し出す約束をし、最終的に十人くらいでちょっとした部活動のようなものができてしまった。図書室でじっと本を読み、一週間に一度ほど寄り道をして帰る。チャットやメッセージツールであれが良い、これが面白いと勧め合い、夜の街を監視しながら隙間時間を利用して目を通していく。この頃のわたしはきっと人生が薔薇色に見えていたことだろう。
そんな生活が二年近くも続いた。どれだけ悪いやつを懲らしめても犯罪が絶えることはなかったが、それはこの世に黒幕のようなものがいて、次々と悪を生み出している証拠なのだと考えていた。悪党退治を続けていれば、やがてそいつらにも辿り着くことができるはずだった。あるいはその前に異世界へ召喚されるかもしれない。どちらにしろ世界が真の姿を現すのは目前だと信じて疑わなかったのだ。
その幻影が崩れ落ちたのは中学三年、夏休みの前日だった。今年の夏こそ何かが起きるという期待とともに迎えようとしていた長期休暇に立ちはだかるよう、両親は揃って神妙な顔で通信簿を開き、わたしを待ち構えていた。
「わたしの血を引いているにしてはあまりによく出来た子だから今まで何も言わないでおいたが、流石に放ってはおけないと思った」
わたしは通信簿に並んだ数字を凝視する。中学に入りたての頃の、九や十ばかりの華々しさはもはや見る影もない。五から七辺りを適当にうろうろとしている。これはわたしが行う活動の代償として仕方のないことだと考えていたのだが、それでも正義の味方をしているなどとは言えなかった。幼い頃にサイコキネシスさえ満足に扱えなかったわたしを恐れ、効果のない祈祷までさせたのだから今度こそ肝を潰してしまいかねない。だから神妙に俯いているしかなく、そんなわたしにママは魔法の言葉をぶつけてきた。
「菫子、高校受験はどうするの?」
こうこう、じゅけん。漢字にしてたったの四文字なのに、わたしの無駄に熱い心を冷やすには十分な威力を持っていた。高校受験。高校受験。
もう二年近くが経過しているのに、カメラ越しに見えるのは酔っ払いの小競り合い、血の気の多い未成年同士の喧嘩がほとんどだった。たまに暴力団や海外のマフィアが現れる程度で、そいつらも凌ぎを削る以外の意志など持っていなかった。世界を股にかける謎の異能集団なんて欠片さえ姿を見せなかった。そしてもちろん、異世界に連れ去られて活躍するなんてこともなかった。
高校受験の四文字は今まで黙殺していたことを、直視させる力を持っていた。
「高校、受験……」
呟くとともに目から涙が零れた。両親を困らせたからではない。それもあるけれど、現実というものからこうも徹底的に目を背けてきた自分の馬鹿さ加減に耐えられなかったのだ。
「わたし、べんきょうする。これからちゃんとべんきょうするから」
わあわあと泣き出すわたしを、両親は親身になって慰めてくれた。それでわたしの、異世界や異能に対する未練はぷっつりと切れてしまったのだった。
夏休みになるとわたしは宣言通り、これまでサボっていた勉強に必死で取り組んだ。パソコンはワイヤーでぐるぐる巻きにして鍵をかけ、最低限の連絡窓口をスマホで確保したが、それも極力触らないようにした。一度だけどうしても気になり、例の別室へ行ってモニタを立ち上げたが、そこに広がるのはいつも通りの光景だった。わたしという正義の味方がいなくなったくらいで犯罪が劇的に増えることはなかったのだ。世界の枠組みなんてちっとも変わっていなかった。おそるおそるネットを探ってみると、あれだけわたしの話題で賑わっていた掲示板やコミュニティはすっかり下火になっていた。その失踪理由も悪の大幹部にとうとうやられてしまったのだという仰々しいものから、本業は社会人で仕事が忙しくなったのだという身も蓋もないものまで様々だったが、検証は既に盛り上がりを欠きつつあるようだった。高校受験で検索して一つもかからなかったことに安堵すると、わたしは電源を落として部屋を出た。
休み明けの模試を受けた数日後、担任から呼び出しをくらった。机の上には努力の結果が並んでおり、しかし担任の顔には疑いの色がありありと浮かんでいた。こんなものサイコメトリーで読むまでもない。担任はわたしがカンニングしたと思っているのだ。
「宇佐見、お前どうやってこんな点数を取ったんだ」
「夏休みに必死で勉強したんです」
わたしは予め用意しておいた作り話を延々と語る。病院も医者もろくにない国で働く医師への憧れを軸に、とにかく教職員が好きそうな逸話をこれでもかと盛ってやった。甘さで歯が溶けるほどの徹底的な嘘っぱちだ。
「そのためには良い大学へ、まずは良い高校へ入る必要があると思ったんです」
担任の目は微かに潤んでおり、カンニングを疑って悪かった、許して欲しいと頭を下げられた。こんな態度を取られてさえ胸がちっとも傷まなくて、その事実は熱病を更に冷ましてくれた。わたしは正義感だけでなくまともな倫理観すら持ち合わせていない。こんなわたしが正義や勇者だなんて、たとえ本当に異世界や異能が存在していたとしても烏滸がましかっただろう。
わたしは高校受験の準備に邁進し、併せて念入りにもう一つの計画を進めた。口当たり良く平凡に、異能や異世界なんて話題はなし、オタク趣味を平然と図書室やファーストフード店でひけらかす過去にもさようなら。もちろん正義の味方なんて明後日の方向へぽいと投げ捨てる。そして同級生とわいわいする普通の女子高生を目指すのだ。
そのためには同じ中学に通う生徒がやって来ない高校へと進む必要があった。並の生徒では手が出せないほど偏差値が高く、通学圏内として親に納得してもらえるぎりぎりの立地。この二つを満たす高校が幸いにも一つだけ存在し、わたしは実質この一本に狙いを絞ることにした。親を安心させるため最寄りの公立も受けることにしたけれど、そんなものはクソ喰らえだった。
その甲斐と覚悟があってかわたしは無事、目的の高校に合格することができた。合格通知を担任から受け取った時には、柄にもなく安堵の息をついたものだ。お前は絶対に大きなことを成せる、これからも精進を怠らないように、向こうに行ってもお前は一人じゃないからなどと励ましの言葉をかけられた気もするが、これからの高校生活を思い描き、ほとんど上の空で頭には入っていなかった。
あとはかねてよりの計画を実施するのみだった。
半年かけてしっかりと練ったチャートを使い、平凡で幸福な高校生活を手に入れるのだ。
新入生代表の挨拶を無難にこなし、壇上から下りるとわたしはざっと周りの反応を窺う。成績のせいか、それとも一組で出席番号一番だったからかは分からないが、いきなり注目を浴びる役割を与えられてしまったのだ。しかし挨拶を終えても特に注意を払うものは誰もいなかった。どうやら悪目立ちをすることはなかったらしい。
第一関門突破と胸をなで下ろすのも束の間、入学式を終えて教室に向かおうとするところで携帯が振動した。まるで嫌な予感を形にしたように思え、おそるおそる中身を確認すると、中学でオタク活動をしていた女子からの久々のメールだった。
「菫子さんも同じ高校だったんだね。お話ししたいから放課後、正門の前で」
思わず目の前が真っ暗になる。彼女の半年前の成績を思い出したが、どう考えてもここに入れるようなものではなかったはずだ。どう計算間違いしたのかと頭の中で巡らせながら、わたしはそわそわした気持ちで初日を過ごすことになった。本来の計画ではここで一人か二人気軽に話せる相手を作っておくつもりだったが、そんな余裕はなかった。ざっと教室内の空気を読んだ感じ、特に浮いていると思われなかったのは不幸中の幸いだった。
初日のオリエンテーション、特別教室の案内が終わった頃には午後一時近くになっていた。校門には子供の下校を待っている親が何組かいて、そこから少し離れた物陰で、彼女はスマホをぽちぽちといじっていた。わたしが近くまで来ても気付いた様子はなく、軽く声をかけたら体を震わせてからスマホを露骨に隠した。わたしの顔を見ると彼女は気まずそうにあははと笑う。どうやら再会できて嬉しいという感じではない。気になってサイコメトリーで感情を読み、全てを察することができた。
ネット経由での恋愛、愛しの人と同じ高校を目指していたこと。その彼はオタク趣味と一切関わりがないので、そうしたものを全て処分したこと。壇上で新入生代表の挨拶を読み上げるわたしを見て狼狽し、中学時代の黒歴史をぶちまけられる前に手を打とうとしたこと。彼女もわたしと同じで高校デビューを果たそうとしていたのだ。他にも部内恋愛禁止だのなんだの、わたしの与り知らぬところで出来ていたローカルルールや、その彼と出会うまでのわたしに対する淡い心なども覗けてしまったが、それは黙してわたしの胸にだけ収めることにした。利害の一致が計れるのならば、話は実に簡単だった。こちらから事情を説明すると彼女は胸をなで下ろし、これからは距離を置いて素知らぬ風を装う協定を敷いた。わたしは小市民となるため、彼女は愛に生きるため。
まだ高校デビューの道は生きている。帰途でそのことを噛みしめながら、わたしは翌日からの計画を練り直すため、例の神社に向かった。自室でも良いのだが、猫と戯れながらの方が良いアイデアが浮かぶのではないかという気がしたのだ。二年近くも疎遠にしており、今更ながら気になったというのもあった。
もしかしたら取り壊されたのではないかと危惧していたが、神社はぼろぼろの姿でなおも健在だった。立ち入り禁止の看板だけ妙に新しくなっていたのは、中に入って悪戯した奴がいるからだろうか。わたしは看板を無視し、鳥居を潜って神社の敷地内に足を踏み入れる。
その瞬間、酷い立ち眩みを起こした時のように目の前が大きく歪んだ。頭を振り、眼鏡を外して強く目を擦ると、わたしは改めて前を見る。ぼんやりとした視界でも、わたしがいつもの神社にいないことははっきりと分かった。そして眼鏡をかけると、そこにあるものがはっきりと目に飛び込んでくる。
今時田舎ですらほとんど見かけない、藁葺き屋根の古い建物がいくつも見えた。それから古びた集合住宅、ツーバイフォーの三階建て、煉瓦造りの古びた洋館、石造りの妙にごつごつした平屋建てがそれぞれ何棟か。まるで古今東西の住宅をごった煮にしたかのような、整然さのまるで感じられない場所だった。アスファルトにはひびわれが目立ち、錆の浮かんだ標識がぽつぽつと建っており、線の繋がっていない木製の電柱が虚しく立ち尽くしている。
見知らぬ光景の全てが恐ろしかったけれど、なお恐ろしいのは人の気配がまるでしないことだ。限界集落という単語がふと浮かんだけれど、そう考えてもなお異質だった。そもそも鳥居を潜った先の光景として、あって良いものではない。わたしは縋るような気持ちで、範囲読心能力を使って周囲の《にゃあにゃあ》《にゃにゃん、にゃん》《にゃんにゃんにゃん》《人間の、侵入者?》心持つものを探る。しかしわたしの心に入ってくるのは数匹の猫が何やら喋っているであろう鳴き声だけ……。
いや、違う。わたしにも分かる心が一つだけあった。こんな場所に一体誰が《にゃにゃにゃんにゃにゃにゃん!》《小さい頃から優しくしてくれた子だから隠すのは駄目? 追い払うだけ? うーん、どうしようかな》いるというのか。
足が凍り付いたように動かなかった。殺す、という気持ちを読みとってしまったからだ。しかも単なる殺意ではない。人間なんて指先だけで十分、殺すことなんて何ともないという狂った余裕だ。ここまで剣呑な思考は武器を持ったマフィアだって放っていなかった。
早く逃げ出さなければならないというのは分かっているのに、鼓動だけが逸って何もできない。そんなわたしの動揺を察したかのように、藁葺き屋根の家の一つから黒猫がそろりと姿を現し、わたしの方に《ん、なんか妙に脅えてるな。もしかしてわたしの正体分かってる? 尻尾は隠したのにな。やっぱ隠すしかないかな、懇願されたからできるだけ苦しまないようには……》近付いてくる。範囲読心能力を切断するとようやく金縛りも解けたようで、慌てて背を向けると一目散に走り出す。こんな所から一秒でも早く逃げ出したかった。あの、一見すると何の変哲もない黒猫が心の底から恐ろしい。追いつかれたら本当に殺されてしまうと思った。
どれくらい走ったのかは分からない。ひたすらに鳥居を目指し、息を切らしながら足を動かした。周りの景色に気を配る余裕すらなかった。ここから抜け出したかった。日常を侵すこの奇妙な空間から。
クラクションの音に晒され、わたしは慌てて足を止める。辺りを見回すといつの間にかいつもの街に戻っていた。運転手の悪態すらも祝福に感じられ、わたしは愛想良い顔で道の端に退き、胸に手を当てて確かな鼓動を感じる。それから肌に鼻を寄せ、汗と石鹸の入り交じった臭いを嗅いだ。これは夢でなく仮想でもない。わたしは異界に足を踏み入れてしまったのだ。しかもわたしが幼い頃より慣れ親しんでいた場所から。
胃から込み上げてくるものを堪え、わたしはそそくさと家に逃げ帰る。ママが優しく声をかけてきて、わたしは狂った殺意の混じっていない心を求め、サイコメトリーをするため手を伸ばす。だがいくらやってもママの心を読むことはできなかった。一度目覚めて以降、何の苦もなくできていたというのに。
わたしから初めて力が失われてしまった。きっとあの黒猫が放つ殺意を読みたくないと、心の底で願ったからだ。顔色が悪いことを心配するママを振り切り、自室に戻ると少し迷ってから鍵をかける。
枕に顔を埋めながら、わたしは自嘲せざるを得なかった。かつてあんなにも望んだ異界が目の前に姿を現したというのに。何とも喜ばしい瞬間が訪れたというのに。わたしの心を満たしたのは喜びではなく恐れだった。
やはり高校デビューを目指したのは正解だったのだ。この身にどんな力が宿っていたとしても、脆弱な心では使いこなせない。平凡な日常に埋没するのが、わたしの正しい在り方なのだ。今日見たことは忘れよう。あの猫だって、こちら側まで追ってくることはないはずだ。この能力もわたしが本当に望めば失うことができる。これまで迷惑だなと考えた時にだって力が一つも消えなかったのは、心の底では望んでいなかったからだ。でもあんなものに二度と合わないためならば、きっと全ての力を失うことができる。サイコキネシスも、空中浮遊も、瞬間移動も、透視も、何もかもいらない。
心中に何度も言い聞かせていると、窓をこつこつと叩く音が聞こえてきた。強い風か何かで固いものが飛んできたのだと思いこもうとしたが、音は規則的に、わたしを誘うように響き続ける。耳を塞いで無視したかったが、そんなことをしても強引に入ってくるだけのような気がした。そのうちにびくびくしているのが急に腹立たしくなり、わたしはベッドから抜け出すとカーテンを一気に開け放った。
そこには誰もいなかった。代わりに一枚の紙がするりと部屋の中に入ってくる。わたしは咄嗟に紙を拾い上げ、そっと目を向けた。
そこにはこう書かれていた。
『この残酷で美しい世界にようこそ』
慌てて窓から顔を出し、外を見る。視界の中にも遮蔽物を透過したその先にさえ、誰も見つけることができなかった。だがこの一文を書き残した何者かは確かにいて、わたしにようこそと呼びかけている。わたしが見つけたことでその権利を得たのだと、根拠はないけどそんなことを訴えているように思えた。
もしかするとこれは罠だろうか。あの黒猫がわたしをおびき寄せ、今度こそ殺すための。それともわたしを本当に、あの世界へ誘おうとしているのだろうか。
残酷で、美しい世界。
わたしは短い滞在時間の中で前者を嫌と言うほど見せつけられた。あの世界には黒猫だけでなく、人を殺すなど何とも思っていない奴らがうようよしているのだろう。それでも美しい世界なのだろうか。罠ではなく、その美しさをわたしに見せたい何者かがあの異界にいるとしたら。
恐怖も鬱屈もいつの間にか吹き飛んでいた。一度は忘れようとして、わたしは平凡だと言い聞かせ、逃れようとしたものが追いついてきた。そしてそれはわたしに追いかけて来いと呼びかけている。その可能性を考えただけで胸の高鳴りを覚えた。その魅力の前に現実を思い知らせる言葉が一同に立ちはだかったが、今のわたしには通用しなかった。高校生活、大学受験、就職活動、全て鼻で笑ってやることができた。わたしは結局どうあがいても、平凡には我慢できない人種だったのだろう。それがいまはっきりと分かった。
わたしは無我夢中で家を飛び出し、再びあの神社に向かう。そして躊躇いなく鳥居を潜ったが、目に映ったのは古びた本殿の慣れ親しんだ姿だけだった。この入口は既に閉ざされ、わたしを受け入れてくれなかった。
少ししていつもと違うことに気付いた。いつもここにたむろしていた猫たちの姿が一匹も見えないのだ。おそらくそれらは狭い通路をするりと抜けるように、向こう側からこちらへ来ていたのだろう。
入口はなくなってしまったが、諦めるつもりはなかった。わたしには強い力があり、あらゆる情報が氾濫するこの世界において、辛抱強く探り続ければいつかきっと、彼の地への入口が開かれるはずだ。まずはこの名もなき神社のことを調べよう。どのような名前を持っていて、いかなる由来を持つのか。一つずつ、薄皮を剥くようにしてその真の姿を暴き出すのだ。
「さあ、封じられた秘密を明かすための活動を開始するわよ!」
わたしはそう宣言し、美しい世界を目指すための一歩を踏み出したのだった。
初めましての方は初めまして。そうでない方はお久しぶりです。2016年の樹海から脱出し、無事2017年の樹海に着地した仮面の男です。
このたびは本作をお読みいただきありがとうございます。まだの方はそろりとページを戻るのが吉かと思われます。
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今回のお話ですが2015年から少しずつ書いてきた菫子という少女の総決算であり、その果てを定める話ともなっております。
深秘録から始まり、その後様々な媒体に登場しては新鮮な驚きを振りまいていく彼女は来年以降も天下無敵の高校生として活躍していくはずであり、果てに至るのはまだ大分先だと思います。もしかすると一生、あの二重生活を維持できるのかもしれません。
それでも本作を書いたのは、菫子が二つの世界のどちらも大切にしている人間だという強い思いがあったからです。いざとなればその身を二つに引き裂いてでも、そのどちらも大切にしようと考えるのではないか。その想いによって書かれたのが本作であり、また前作「東の魔女はもういない」となります。
といっても最初から対になる話を二つ用意するつもりではなく、前作を書いているうち菫子により深い愛着が湧いたからこそというのが本当のところでして。元々は前作と独立したもう少し趣味の悪い話になる予定だったのを、例大祭以降に公開された秘封、菫子周りの設定も取り入れてごりごり再構築したのが本作となります。その名残もあってアンモラルな描写も割と多いのですが……その辺りも含めて楽しんでいただけるとありがたいです。
それでは書くことも少なくなりましたので最後に謝辞を。
イラストをご担当いただいたもなつ様へ。いつかもこすみがメインに関わる話を書くことがあったら表紙をお願いしたいとずっと考えておりまして今回はある意味念願が叶ったというところがあります。このたびは素敵なイラストを描いていただきありがとうございます。表のもこすみも良いのですが、裏の菫子が一人で夜の夢を行くイラストは話のクライマックスの一場面ということもありぐっと来るものがありました。
最後にこの作品を手にとっていただいた全ての方に感謝を。また別の作品のあとがきでお会いできれば嬉しいです。
2017/1/6 仮面の男
東方Projectは上海アリス幻樂団様の制作物です。当作品は二次創作作品であり、上海アリス幻樂団様とは一切関係ありません。
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