修羅と修羅・試読版

   一

 

 

 人間はどのような場所にでも住み着く生き物であるらしい。

 かつて郷が外の世界と繋がっていたとき、そこに住む人たちは夏でも雪が降る極寒の地から常夏の南国まで至る所に住んでいたそうだ。発端が何かはよく思い出せないが、遠子の話はいつの間にかそんなところに転がり込んでいた。

 自分にはどちらもおよそ想像がつかないし、外の世界は郷にも増して変てこな場所なのだなと、そんなことをぼんやりと考えてしまった。

『本当にそんな世界があるのかなんて顔をしてる』遠子はそんな霊夢の心を読んだかのように指摘し、目に見えて機嫌を悪くする。『わたしの能力は知ってるでしょ?』

 話半分に聞いていたことではなく、求聞持の法を疑われたことに腹を立てているらしいと分かり、霊夢は慌ててきちんと聞いていたというポーズを取った。

『いや、だって四季は巡るものでしょう? 冷夏といっても冬のように寒いわけではないし、暖冬だからといって夏のように暑くなるわけでもない』それが霊夢にとって覆ることない常識である。多少の差異はあっても四季は必ず訪れる。いかなることが起こり得るこの郷であってもなお、それを疑ったことは一度もない。『人がどこにでも住むってのには割と同感だけど』

 霊夢は妖怪の山の麓に築かれた『北の里』や彼岸にずっと近い場所に拓かれた『西の里』を思い浮かべる。前者は天狗や河童といった強力な妖怪と近く、後者は生と死の境目に近い。それなのにかつて人間たちは見事開拓に成功し、その頒図を拡げてみせたのだ。かつて唯一の里だった人間の居住区は『東の里』と呼ばれるようになり、今は緩やかな過疎の一途を辿っている。人口比率は東、北、西の順で二対五対三だと言われているが、そこには元祖の見栄が多分に入っていると霊夢は常々疑っている。

『いずれは妖怪の脅威を克服し、人間は何処にでも里を築けるとうたう者もいるわね。でも今はそんなこと関係ない。わたしは常夏の地も一年中氷に閉ざされた極寒もあると言いたいの』

 霊夢はもう一度そのような光景を思い浮かべようとした。しかしいくら想像を重ねても湖に張った氷はいつか溶ける。春はそれを告げる妖精とともに訪れ、短く鬱陶しい梅雨が明けると夏がやって来る。暴力にも似た暑さはしかし次に訪れる季節に確かな恵みを約束し、豊かな色彩の秋を謳歌しているうちに冬はするりと忍び込む。そうして四季はぐるぐると回る。

『わたしにはやはり思いもよらないことよ。でもそれは遠子の話を信じていないというわけではないの』

 遠子はこめかみに指を当て、ぐりぐりと刺激し始める。きっと彼女が持つ記憶の中から説得に使えそうな過去を取り出そうとしているのだろう。はたして彼女は自信に溢れた表情を霊夢に向けてきた。

『この郷でも必ずや四季が訪れるわけではないのよ。過去にはそのうちの一つがあわやのところで喪われようとしたこともあったの』

 どう、凄いでしょうとばかりに言い切られても霊夢には答えようがなかった。四季の一つが喪われるのは確かに大事だし、遠子の記憶から引っ張り出してきたのだからそれは間違いないことなのだろう。かといって容易に納得できるわけでもない。

 遠子には昔から説明の足りなくなる癖のようなものがある。完全な記憶を有しているせいか必要な説明を省き、どうして分かってくれないのと一人で勝手に怒り出してしまうのだ。逆に聞かれてもいないのにぺらぺらと知識を語り出すこともある。どちらが優勢になるかは分からないし、分かったところでどうしようもない。

 今日はどうやら前者のようなので、霊夢は物分かりの悪さを装うことにした。

『四季の一つが喪われるなんてわたしにはやっぱり想像もつかないわ。是非ご教授いただけると助かるのだけど』

『あら、珍しく殊勝な心掛けね。では話してあげましょうか』

 上手く機嫌が直ったようでほっとするのも束の間、遠子の体がぐらりと傾いだ。倒れようとする体を慌てて支えてから横にすると、霊夢は外で控えているはずのお付きの人に慌てて事情を説明する。この手の事態には慣れているらしく、あっという間に寝床を作って遠子を寝かしつけると『今日はお引き取り願ったほうが良さそうですね』と重たげな様子で言った。

『こういうこと、よくあるんですか?』

『幼い頃はしょっちゅうでしたね。最近はお身体が弱いなりに健やかでしたから体調が悪くなるところまで行っても前後不覚に陥るようなことはなかったのですが、油断してはならないということでしょうか』

 気を失った遠子のことは気になったが、ここに詰めていてもできることは何もない。彼女の性格からして余計に気を使わせるだけだろう。

『あの、わたししばらくは来ないほうが良いでしょうか?』

『そうですね、一両日中は。その後でしたら問題がなければ通されるでしょうし、体調が悪いようでしたらお引き取り願うことになるかと』

 それはつまりどうすれば良いのか訊ねようとすると、お付きの人は皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして微笑むのだった。

『いつも通りで良い、ということでございますよ』

 それでようやく安堵が胸に灯り、霊夢は辞去の挨拶を残し、稗田の屋敷を後にしたのだった。

『例の話はまた次に会ったとき、聞かせてもらおう』

 そんなことを呟きながら霊夢はふと空を見上げる。日は随分と伸びてきたし、日向にいて風がなければ心地良いと感じるほどにもなった。長い冬ももうすぐ終わり、郷に春が訪れようとしている。それは喜ばしいことのはずだ。

 それなのに背筋を走るのは何故か形容し難いむず痒さだった。視線を地上に戻すと収まったし、再び空を見上げても何も感じなかったけどやはり気になった。かつて同様の予兆を感じたとき、異変は霧の形で姿を現した。今回も似たようなことが起きるのではないかという危惧を覚えるのは当然のことだった。

『警戒はぬかりなく、とは言うけれど……』

 予想外のものを迎え撃つのにできるのは精々が装備を整えることくらいだ。重い訓練を行うことも考えたが、そのために疲弊して体調が整わないまま急場の探索へ赴くことになれば本末転倒となる。あるいはその隙を突いて背後からぐさりと一撃を食らうかもしれない。歯痒いけどいつも通りの暮らしを続けるほかないのだ。

『背後の用心もぬかりなく、ね』

 そう言い聞かせると霊夢は買い物を済ませ、神社への帰途に着くのだった。

 

 目が覚めてもしばらく心が現実に戻って来なかった。夢が現実のように鮮明で、しかも過去の繰り返しだったからだ。

「ううむ、これはなんというか……」

 あまりにもあからさまな霊夢だった。子供の頃から普通の夢と異なる示唆的な夢を時折見るのだが、ここまではっきりしたものを見るようになったのは先の異変を解決してからである。力を搾り尽くすような経験によって霊能力が鋭く研ぎ澄まされるようになったからだと推測はできるものの、理屈が分かったからといって止められるものではなく、便利なわけでもない。むしろ悩みばかりが深くなる。それに現実と夢の境目があやふやになるので、本当に目が覚めたのか疑わしくなるのも地味に難点だった。

 カレンダーとパソコンの内臓時計によって前に遠子を訪ねた時から一週間経っていることを確認すると、霊夢は夢で見た遠子とのやりとりを頭の中で反芻する。

 あの話の中にこれから起きる厄介事のヒントが含まれているならば、それは遠子が話そうとしていた、幻想郷から四季の一つが喪われたという出来事に違いなかった。そして今が冬と春の狭間であることを考えれば答えは一つしかないように思われた。

「春が、喪われるかもしれない?」

 口にしてみてなんだがあまりにも現実感がなかった。梅が花開く兆候さえ見せ始めているというのにそんな想像はあまりにも馬鹿げていると冷静な自分が訴えかけている。だがあれほどはっきりと見たものを否定するのは己の能力を否定することにも繋がる。力の行使が半ば義務である霊夢にとって予兆を含む夢は避けられないものであり、無理矢理にでも春が喪われる可能性を考えなければならなかった。

 辛うじて浮かんできたのは春告精を拉致するという方法だ。しかしあの妖精は春を告げる際に問答無用の力を発揮することで知られており、妖精だと侮った多くの挑戦者が悉く失敗している。不可能ではないにしても相当の難行であることは確かだし、そもそも春告精を確保したところで春の到来を防げるわけではない。彼女が通過しなかった所でもやがて春は訪れる。春告精はあくまでも号令に過ぎないのだ。却下の印を捺して脳の外へと追い出し、新たな可能性を検討しようとしたが、隙間を埋めてくれるアイデアはいつまで経っても閃かなかった。

 霊夢は切りの良いところで思索を終え、いつものように朝のお勤めを片付けにかかる。最近は雪下ろしや雪かきの必要もないからもう少し遅く目覚めても良いのだが、あんな夢を見てしまったのに寝直す気にはならなかった。 

 朝のお勤めが終わり、いつものように雑な朝食を作ろうと冷蔵庫を物色していたらいきなり勝手口が開き「おはようございます、新聞でーす!」の威勢良い挨拶が響いた。振り向くまでもなく文だということが声で分かり、霊夢は冷蔵庫をそっと閉じて戸口に視線を向ける。

 文は半袖に丈の短いスカートという寒々しい格好をしており、営業用の爽やかな笑みを浮かべていた。いつもなら挨拶だけで備え付けのポストに新聞を入れて次の場所に向かうのだが、わざわざ声をかけてきたということは別件の用事があるのだろう。

「やあやあ霊夢さん、今日もお勤めご苦労様です」

 はたして文は断りもせず中に入って来ると、腰の鞄から封筒を取り出し、何も言うことなく差し出してきた。特に変わったところのないクリーム色の封筒だったが、霊夢はそれを見た瞬間に思わず「げっ」と声をあげた。

 雷をモチーフにしたコミカルな意匠のシールはその封筒が堀川雷鼓によって閉じられたことを示している。ありふれたデザインであり、実際に類似品ならばそこらの商店でも買えるのだが、オリジナルのシールは雷鼓の妖力が込められており、差出人である雷鼓の想定しない相手が開こうとすると電撃を放つようになっている。封筒は中身もろともに消え、不埒な覗き魔は手痛いお仕置きを食らうという仕組みだ。霊夢もそれで酷い目に遭ったことがある。

「これ、本当にわたしが開けても大丈夫なものなんでしょうね?」

「その気持ちは分かります、分かりますとも」文はもっともらしくうんうんと頷いてみせる。この性格だから迂闊に封を開けようとして雷撃を食らったことがあるに違いなかった。「ただ今回は大丈夫だと思いますよ。本人から霊夢さんに渡して欲しいと指名されましたから」

「それなら大丈夫か……ってちょい待ち。あんた雷鼓と直に会ったってことは逆さ城にも顔が効くってこと?」

「はい、前から新聞を届けてますよ。なんと百年来のお得意様だったりします」

 それならば例の霧が湧いたとき、不自然に慌ただしくしていたのにも気付いていたはずだ。それなのに自分は何も知らないという振りを装っていたということになる。

「あんた、わたしに色々と隠してたわね?」

「別に隠してたわけじゃありませんよ。逆さ城が騒がしいのはいつものことですし、外の世界ですら建造されなかった巨大機械が異変を引き起こしていただなんて誰が想像できますか?」

 そう言われると霊夢には何も言い返せなかったが、それ以外にも不満なことはあった。

「そちらはまあ不問に伏すとして、逆さ城がお得意さんなのだとしたらこれまであいつらが起こして来た悪巧みもそれなりに把握していたのよね?」

「多少は勘付くところもありましたが、解放派のお歴々たちは貴重な情報源でもありますから不興を買うのは避けたいところですね」

「あいつらに何度も右往左往させられてきたの、あんただって知ってるでしょう?」

「はい、いつも楽しそうだなあと。だから霊夢さんには何も話さなかったのですよ。ネタバレを知らされたらどんなに刺激的な出来事も魅力半減ですからね」

 ああ言えばこう言うを地で行く舌の回りようだった。閻魔様に頼んでその舌引っこ抜いてやろうかと思ったが、意を込めて睨みつけても動じる様子はまるでない。

「早苗様に言いつけるわよ」

 だから前に効いた脅しを再度突きつけてやった。解放派は郷にある機械の解放が目的であり、山のお偉方にとって目の上のたんこぶのはずだ。そんな奴らとつるんでいるのが知られるのはまずいはずだった。だが文はどこ吹く風といった調子で余裕の態度を崩さなかった。

「反対勢力の知り合いがいるからといってそちらに贔屓し倒しではジャーナリズムなるものは成り立ちません。どの勢力にも平等に接するからこそ勝ち得る信頼というものがあるのです。それを日和見だ、蝙蝠だと言うのならそれも結構。風見鶏であることがわたしの矜持です」

 いつもはふざけた態度だからいきなり真面目な持論をぶつけられると頭がついて来なくなる。こういうところが狡いなと霊夢は常々思っているのだが、口にすれば図に乗らせるだけなので不機嫌を表明するだけに留めておいた。

「それに彼女はそんなこととうの昔に知ってますよ。そんなことで気持ちは変わらないから好きにやりなさい、その代わりわたしも好きにやりますからと言われましたね」

 口から砂を吐き出しそうになるほどの惚気だった。あまりに甘くて怒りを抱えているのが急に馬鹿らしくなり、負の気持ちも重い息と共に消えてしまった。

「了解。どうしてもあんたに言うこと聞かせたい時は……」霊夢は札を構え、文に突きつける。「こいつに訴えることにする」

「素晴らしい、それでこそ博麗の巫女です」

 文はおざなりの拍手で霊夢の態度を認めると、改めて封筒を差し出して来る。

「そういうわけで受け取っていただけるとありがたいです」

 霊夢はそろりと封筒を受け取り、意を決して封を開ける。もし罠だったらせめて隣にいる烏天狗も痺れてしまえという少し意地悪な気持ちでの行動だったが、雷撃が放たれることはなくあっさりと中身を取り出すことが出来た。

 中に入っていたのは雷鼓、九十九姉妹、山彦、夜雀、プリズムリバー姉妹の八人がそれらしいポーズを取っている写真が印刷されたチケットだった。

 堀川操楽団 with 鳥獣戯楽feat プリズムリバーという、始めから終わりまで耳を塞いでなければやってられないような恐ろしい組み合わせであり、霊夢は思わず眉を顰めてしまった。

「これ、新手の嫌がらせ?」

「いえいえ、プラチナチケットですよこれは。人妖問わず音楽関係に興味があるならば垂涎の代物といって良いでしょう。実は早苗さんが彼女たちのファンでして、山にも隠れファンは多いと聞きます」

 そんな馬鹿なと思ったが文の目は特ダネを追いかけている時のようにきらきらと輝いている。これは嘘ではないと思い、手紙の中身を全て確認する。

 チケット十枚に便箋が一枚。こんなものをいきなり送りつけてきた事情を知りたかったので次に便箋を開くと、姉御肌の性格からは想像できないような丸っこい文字で書かれた文面が姿を現した。

 

 

 

 

 

 

 

 

   幻想郷の素敵な巫女、博麗霊夢へ

 

 

 やあやあご機嫌いかがかな、などと近況を書いても貴方にはうっとうしいだけだし、わたしも面倒臭い。だから要点だけを語るとする。 

 先日は我々のために例の機械を懲らしめてくれてありがとう。あれは力のない付喪神や妖精と酷く相性の悪いモノでありかなり手を焼いていたんだ。

 そのささやかなお礼を同封させていただいた。どう配るかは自由だし、こんなものは要らないと全て破棄してくれても構わない。 

 あ、そうだ。今度久しぶりに神社を訪ねようかと思ってるので好物の雷饅頭を用意してくれるとありがたい。

 

堀川雷鼓

 

 

 便箋一枚の中によくもまあこれほど神経を逆撫でさせる要素を盛り込めるなと、途中から半ば諦めの気持ちで読み進めたほどの失礼極まる文面だった。何が書かれているのか気になっている文に押しつけるとげらげら笑い始めたので、もしかすると妖怪一流の冗句が盛り込まれていたのかもしれない。

「いやすみません、取り乱してしまって」

「まあ良いんだけど」

 妖怪が人間に失礼なのは何も今に始まったことではないし、いちいち腹を立てていたら堪忍袋の緒がいくらあっても足りない。さっと受け流したのち、霊夢は封筒からチケットを二枚取り出してから文に差し出した。

「えっと、いいんですか?」

「悪かったらこんなことしないわよ。ああ、別に賄賂とか恩に着ろとかそういう意味じゃないから」

「ありがとうございます。しかもよく見たらS席じゃないですか。これはきっと喜びますよ。もう一枚はそうですね、諏訪子様にでも差し上げましょうか」

「いや、もう一枚はあんたの分なんだけど」

「やー、実はあの手の音楽は苦手でして」

 苦笑いで誤魔化そうとしているが成功したとはとても言えなかった。つまりは本気で苦手ということだ。天狗の中でも特にあらゆるものから浮いているような余裕の塊だと思っていたが、伴侶以外に不得手なものがあるとは少しばかり意外だった。

「あはは、わたしにだって苦手なものはありますよ」そんな霊夢の心を読むように、文はわざとらしく笑い声をあげる。一時の狼狽からはするりと抜け出した様子だった。「天狗だって弓で心臓を射られたら死にますし、銃で頭を撃たれたらやはり死にます。ほら、意外と弱点はあるでしょう?」

「いや、その理屈はおかしくない? いくら人間と比べて耐久力が桁外れといっても急所は同じ場所にあるのだから、そこを狙われたらそりゃ死ぬでしょう」

「そうですか? 頭を吹き飛ばしても死なない妖怪はそれなりにいますけどね」

 最後まで冗談を貫いてくれたら良かったのに真面目な顔をされるとどう返して良いのか悩んでしまう。あるいはそれを狙ったのだとしたらやはり意地悪い奴だなと思う。

「おっと、まだまだ配達先があるのに話し込んでしまいました」文はそう言ってチケットを受け取り、大事にしまい込むと小さく頷いてみせた。「今回は一つだけヒントを差し上げましょう。解放派の面々ですが近々大きなことを仕掛けてきますよ」

 できれば聞かなかった振りをしたい情報だったが、耳に入ったからには無視することもできない。霊夢は心底嫌そうな態度を取り、それからふと思いつきを口にする。

「それはもしかして春を奪うとかそういう計画じゃない?」

「おや、今回は霊夢さんも耳が早いようですね。分かっているならば対策も立てようがあるでしょう。ではわたしはこれで、健闘を祈っていますよ」

 それだけ言い残すと文は風のように去り、ひゅうと小気味良い音が内から外へと抜けていく。なんとも烏天狗らしい退場だった。

「あれはやはり予兆を伴う夢だったのね。春を奪う、か……」

 新たな情報が得られても霊夢の中で実感が増すことはなかった。ましてや解放派の連中ならばせいぜい嫌がらせの延長みたいな騒動を起こすのが関の山……そう決め付ける寸前で思い留まり、ひとまず結論を先延ばしにしておくことにした。

「そんなことができるとは思えないけど、前例があるから無視できないのよね」

 湖にそびえ立つ階差機関を最初に発見し、起動させたのは解放派の連中だ。郷の誰よりも機械に詳しい河童に先んじたとなれば、今後も機械に関連する騒動を起こさないという保証はない。その後の動きこそ失敗だらけだったが、次は成功するかもしれない。

 解放派に優れた頭脳が現れたことを示す兆候も霊夢の懸念を後押ししていた。隔靴掻痒の感を及ぼす計画、団員たちの行動パターンの変化、どちらもこれまでは見られなかったことだ。

 霧の異変が起きた際にその正体が咲夜ではないかと推察したのだが、すぐに見当違いの方向を見ていたことが明らかになった。彼女は作られたばかりの世間知らずな少女であり、とてもではないが策謀を巡らせるような性格ではない。つまり悪巧みの主犯は他にいるということだ。

 機械ないし道具の扱いに長け、嫌がらせにかけては他に類を見ない才能を発揮する何者かがいる。そいつの首根っこを押さえつけない限り、似たような騒動はいつまでも続くだろう。

 霊夢の頭にふと、階差機関の付喪神に力を与えた少女の姿が浮かぶ。一連の騒動を呼び水と言った彼女こそ解放派の背後に控える頭脳なのだろうか。だとしたら郷の境界を管理する強力な妖怪が敵に回ったということになる。

 面倒なことばかりが過ぎり、朝から気が滅入りそうだった。こんな時は凝った料理でも作ろうと本気の料理モードに気持ちを切り替え、改めて冷蔵庫の中身を漁る。とにかく巫女としての仕事以外のことで頭を一杯にしたかった。

 

 そしてすぐに後悔した。食卓には明らかに一人では食べきれない料理がずらりと並び、しかも朝食べるには重たいものばかりだった。特に塩漬け肉がふんだんに入ったスープなんて、夜に食べても胃がびっくりするかもしれない。

 手を付ける前からどうやって保存しようかと考えていたら、箒に乗った魔法使いという助け船が空から颯爽と姿を現した。

 魔理沙は先日の異変からこちら、時折神社を訪ねて来るようになった。ぼろぼろになった姿を見て、こいつは放っておけないとでも判断されたのか、あるいはこれまでも見えない所から動向をうかがっていたのかもしれない。魔理沙は箒を立てかけるといつものように断ることなく上がり込み、これを食べる権利があると言わんばかりに食卓をぐるりと見回すのだった。

「育ち盛りとは思っていたが予想以上に健啖だな。というか流石にこの量では太ると思うが」

 歯に衣着せぬ発言も今はそこまで気にならなかった。この料理を少しでも胃に収めてくれるならば神にでも仏にでも縋りたい気分だったからだ。

「少し作り過ぎちゃって。だから遠慮なく食べていって頂戴」

「ふむ、では少しだけいただくとするか。実を言うと食べなくても平気なんだが、たまには食べないとそれはそれで体に悪いしな」

 魔理沙は霊夢を通して何か遠くのものへと心を向ける。きっと同姓同名の違う霊夢のことを思い出しているに違いなかった。その頃もちょくちょくと神社を訪れ、食事や茶を所望していたのだろう。その姿を霊夢はありありと思い浮かべることができた。

 重い料理に臆することなく、魔理沙は食事に手を付け始める。種族としての魔法使いは食べなくても良いから少食なのだと思っていたが、腹ぺこの霊夢と同じくらいには健啖であり、見ているだけで腹の虫がぐうと唸りをあげた。

 とは言っても食欲が湧けばどうにかなる量でもない。半分ほど片付けたところで双方の手が止まり、魔理沙から苦笑いが漏れた。

「なにかこう、色々なものを忘れたい気持ちだったの」

 からかわれる前に先回りして弁明すると、魔理沙はふむと頷いてみせた。

「料理で発散するのは十分ありだと思うよ。わたしの知り合いなんて似たような状況になると半月ほど工房に引きこもって奇妙な生物のぬいぐるみをたんまりと拵えるんだ。ホームシックに由来するものとわたしは睨んでいるんだが、あまりに奇怪だから子供は見ただけで泣きじゃくるし大人は気絶する。かといって処分するのもしのびない。そうだ、魔除けになるはずだから一つどうだ?」

「遠慮しとく」魔理沙の話が本当ならば、魔除けどころか逆に魔を呼び寄せそうな代物である。義理人情であってもとても受け取る気にはならなかった。「それにしてもまだ大分残ってるけど、どうしようかしら」

「何とかなるんじゃないか? 現にわたしがやって来たし、きっと誰かが来るだろう。霊夢もあいつと同じでその辺りの巡り合わせは良さそうだし。それよりも凝った料理を山ほど作るような発散が必要になる事態というのがわたしには気になるな」

 そう言ってくれるのはありがたいし、魔理沙ならば過去に起きた事件も覚えているかもしれない。昔のことだから忘れているかもしれないが、聞いておいて損はないと判断し、夢から始まるあやふやな推測を話してみることにした。

「誰かが春を奪おうとしているかもしれないの」

 魔理沙の余裕ありげな表情がぴたりと凍りついた。明らかに何かを知っているという顔であり、視線がきょどきょどと遠くの方を彷徨っているところからして、過去に何かがあることを示していた。

 文が仄めかしたのはこれから何かが起きるということである。だが魔理沙は過去に起きた事件のことを考えている。そして霊夢が見た夢でも遠子は過去の事件を話そうとしていた。

「もしかすると過去に起きたことがもう一度起きるのかもしれない」

 ぽつりと口にすると魔理沙の眉間に皺が寄り、残されていた余裕もすっかりと顔から追い出されてしまった。

「その情報、どこから聞いた?」

 魔理沙は一切の曲解を許さないと言いたげな厳しさで霊夢に問うて来る。夢というあやふやなヒントが根拠だなんて言ったら雷を落とされそうな雰囲気だったが、中途半端な嘘を吐いてもあっさり看破されそうな気がした。だから包み隠さず一から説明することにした。魔理沙は最初こそ真剣そのものだったが、途中から訳が分からないと言わんばかりの渋そうな顔に変わり、最後はすっかりと安堵の様子を見せた。

「それなら特に気にすることもないかな。あのお騒がせ集団にだって流石にあんなことはできないだろうし。だが霊夢の見た夢は気になる。昔からこの手の夢は見るんだったよな?」

「ええ、しかも最近は妙に鮮明な夢ばかり見るようになって」

「なるほど、力が伸びたことによる恩恵、あるいは副作用と言うべきか。誰にも伝える必要のない予兆だなんて傍迷惑も良いところだからな」

 霊夢は全くだと言わんばかりに頷く。可能なら燃やせるゴミと一緒に捨てたいくらいだ。

「それにしても面白いな。かつての霊夢は予知夢なんて一切見なかったのに」

 それを聞いて霊夢は自然と大きな息をつく。偉大な先人に似ている、そっくりだと言われるのは皆を騙しているようで少しばかり心苦しいのだ。違いを見つけてきちんと言葉にしてくれるのはとてもありがたかった。

「ところであんなことと言ったけど、何か心当たりがあるのかしら」

 そうだとしたら耳に入れておきたかったが、魔理沙は黙したまま俯いてしまった。

「わたしには話せないことなの?」

 誰かの秘密に関わるなら無理に聞き出すことはないと思ったのだが、魔理沙は顔を上げると静かに首を横に振るのだった。

「そうじゃない、迂闊に話して予断を持たせたくないんだ。わたしの中には一つの可能性がある。だがね、霊夢には自力で答えを出して欲しい」

「つまり半人前はもっと苦労するべきだと?」

「いいや、半人前はノウハウを駆使して楽するべきだよ。苦労は一人前になれば嫌でも付いてくるからな」

 魔理沙の持論は霊夢に剣を仕込んだ天人とは全く反対の見解だった。彼女は艱難辛苦を求める心が大事なの、さもないとわたしみたいなろくでなしになるわとからから笑いながら言っていた。きっと二人の気質や性格の差なのだろう。

「霊夢に答えを探して欲しいと考えるのには理由がある。実はここしばらく、星が妙なざわつきを見せるものだから気になって定期的に読んでいるんだが、そうしたら求めるものとは異なる乱れというか落ち着きのなさみたいなものを読んでしまったんだ。時季は春を指していたからきっと霊夢の予感に関わるものだろう。少なくともわたしはあのような星の乱れを見たことがない、それならばわたしが既に知っている答えは間違っているということになる」

「占いなんて当てにならないと思うけど」

 巫女らしくないと言われることを覚悟で口にしてみたが、魔理沙はからかうどころかさもありなんとばかりに頷くのだった。

「占術とはすなわち統計であり、未知のものを暴くには向いてない。これはわたしもよくよく承知している。そもそも人間だった頃は占いが持つ統計外の側面なんてこれっぽっちも信じていなかった。だが人の身を外れたより大きなサイクルに慣れた頃、突如として理解できるようになったんだ。占いは人を通してより大きなもの、すなわち世界や未来を見通そうとする情念によっても形作られているのだと。その想いは稀に統計の意味を超えて真実を指し示すことがある。そして出来事にまつわる想いの総量が強ければ強いほど見えるものもよりはっきりとしてくる。古来より巫女や預言者の中には占いを介してそうしたその想いを見通せる者がいたんだろう」

 魔理沙の話は自分に占いの才がないということを改めて突きつけたように思えた。巫女に抜擢されてから色々な占いを試してたが、まるで当たった試しがないのだ。

「わたし、占いは本当にからっきしなの」

 だが魔理沙の瞳は失望に染まるどころかより強い期待の光を帯びるのだった。

「それも昔の霊夢とは違うんだな。あいつは積極的に卦を見るタイプだったが、お前は周りの念を受け取るタイプらしい。だから有象無象の意識が混線する夢の中において色々と見てしまうんだろう。実はそれもまた占いの一種なんだよ。夢占いって聞いたことないか?」

「そりゃまあ聞いたことくらいはあるけど」

「だから占いがからっきしというわけではないと思う。きっと霊感の発揮される方向性が違うんだろう。霊力は魔力と違い、個々の才能によるものが大きくてあまり研究されていない分野なので詳しくは言えないが。例えば昔の霊夢は迷ったとき積極的に卦を打つ……と言えば聞こえは良いかもしれないが、要は行き当たりばったりで突き進むことが良い結果に繋がるタイプだった。超音波を飛ばして暗闇を飛ぶ蝙蝠のような感じだな。対して今の霊夢は迷ったとき一度立ち止まって念を感じるように心掛けると良いのかもしれない。そうすれば霊感は自ずと正しい方向へと導いてくれるだろう。余裕があれば眠るのも良いかもしれない。今はまだ木陰に寄りかかって一眠りなんてわけにもいかないが、これからどんどん暖かくなるだろうし」

 魔理沙の話に霊夢は思わず眉をひそめる。今後も異変が起きることを前提としていたからだ。

「あんな騒ぎは何度も起きるものじゃないと思うけど」

「いや、大きな事件は立て続けに発生すると見た方が良い。郷は狭い上に多くの勢力がひしめき合っているから、一度生じた波紋の影響は計り知れない。これまで刺激されずに眠っていたものを起こしてしまった可能性が強いと見るべきだ。霊夢が見た夢もそのことを示唆しているように思える」

 それを言われると霊夢には何も返せなかった。面倒はあまり好きではないが、かといって見ないふりをするわけにもいかない。

「星占いもそれを示していたが、わたしは魔法使いだ。お告げを受けるのは本業ではない。だから専門家を訪ねたというわけだ」

 いつもの冷やかしかと思ったら今日は目的があって来ていたらしい。そして満足に値する結果が得られたらしく、一人で納得するように何度か頷いてみせた。

「その用事も終わり、望外に腹も膨れた。その代わりと言ってはなんだが今日は片付けくらいだったら手伝っていこう」

「良いわ、身から出た錆だもの……あ、そうだ」

 雷鼓からもらったチケットのことを思い出して魔理沙に見せると、まるで宝物を手に入れたかのように頭上に掲げる。どうやら本物であるかを確かめているらしかった。

「よく取れたな、わたしは電話もネット予約も失敗してしまった」

「雷鼓が迷惑料代わりだと言って送りつけて来たの。あと六枚までなら自由に譲ることができるのだけど。無駄になるのはもったいないし遠慮しなくて良いから」

「では二枚、わたしと良人の分をいただけると」

「良人、って霖之助さんのこと?」魔理沙に数百年来の連れ添いがいることは霊夢もよく知っている。ずっと昔には東の里で商いをしていたがとうの昔に引退し、今は開店しているのかどうかも分からないほど古びた店を構えている。「相当に滅茶苦茶で派手なライブだと思うけど」

 霊夢が気にしているのは彼が翁のように年老いているということだ。あまり強い刺激は体に良くないと思ったのだが、魔理沙はすました顔で指を横に振るのだった。

「そう思うかもしれないが、香霖はあのなりで騒がしい音楽が好きなんだよ。それに強い刺激は単調になりがちな生活に潤いを与えてくれる。今は日がな一日ぼんやりしているだけだからね。いくら半分は妖怪だといってもあれじゃ流石に耄碌するだろ」

 魔理沙はけらけらと笑っていたが、ひとしきり気持ちが落ち着くと今度は重い息を吐く。そして急に真剣な表情を浮かべた。

「ぼくが魔理沙に約束してあげられることが一つだけある。君よりも決して先には死なないということだ」

 魔理沙はぽつりとそんなことを呟き、苦笑いを浮かべる。

「あいつのプロポーズの言葉だよ。約束は守ってもらわないとな。そのためにはもっと張りのある暮らしを送ってもらわなきゃ」

 それから少し間を置き、柄でもないことを言ったなと付け加える。

「夢の件は少し心当たりを探ってみる。馳走になった、それにチケットもありがとな」

 魔理沙はチケットを受け取り、そそくさと帰っていく。惚気て見せたのが今になって恥ずかしくなったに違いなかった。

 

 第二の助け船は日の沈む少し前に姿を現した。昼を抜いてもなお重たい胃をなんとか鼓舞し、気力を振り絞って箸を手にしたところで、神社に人ならざる者が二人やって来たのだ。一人は蝙蝠のような羽根の生えた少女、もう一人はメイド姿の少女だった。

 傘を差されているほうが紅魔館の主であるレミリア・スカーレット、傘を差しているほうが最近になって館でメイド働きをするようになった十六夜咲夜である。正確には故人となった咲夜の能力と容姿を写し取った別人なのだが、館の連中は皆そう呼んでいるから霊夢も咲夜と呼んでいる。

 レミリアは霊夢の姿を見た途端、早足となって近付いてくる。咲夜も歩調を合わせようとしたのだが、見事に何もないところで躓いてしまった。レミリアの体から白い煙が立ち上がり始めたので思わずぎょっとしてしまったが、慌てた咲夜が急いで日光を遮る前から痛がる素振りはまるで見せなかった。

「あんた、それ平気なの?」

 日光に弱いのは演技なのではという疑惑が過ぎり、心配する振りをして探りを入れる。昼間も平気で歩けるならば今後はより警戒しなければいけないと考えてのことだったが、レミリアは愉快そうに笑うだけだった。

「全身を槍でざくりと刺される程度だ。どうということはないよ」

 たとえの痛々しさに霊夢は思わず表情を硬くする。レミリアの態度からは日光を浴びたことに対するいかなる感情も読みとれない。いくら幼そうに見えてもそこは老獪な妖怪の一人ということなのだろうか。

 咲夜は霊夢と違ってレミリアのことを信じ切っているらしく、槍に刺されるというたとえを訊いて酷く怯えた表情を浮かべた。

「ああ、またやってしまった。すみませんお嬢様」傘を差した状態でぺこりと頭を下げようとするから体の一部が影からはみ出し、再び白い煙が浮かぶ。前々からそうではないかと思っていたが、彼女はとんでもない粗忽者らしい。「この不始末はいかようにでも償いを……」

「いいよ、こんなのは傷のうちに入らないから。いちいちしょげてしまうほうが面倒だ。それより煙を吸い込まないよう気をつけるんだぞ、無駄に寿命が延びるからな」

「はい、気を付けます」

 再び頭を下げようとして今度は思い留まり、そこでようやく霊夢に一部始終を見られていたことに気付く。敵意と羞恥のない混じった視線を向けられるが迫力は全くなかった。歯車の塔を背に初めて対峙した時はそれなりに威圧感もあったのだが、ことあるごとに愛嬌のある粗忽ぶりを見せられては怖れたくても怖れることはできない。

「それで今日は何をしに来たの?」

「わたしがどこかを訪ねるのに理由は必要ないのさ」

「つまり遊びに来たのね」

「わたしくらいになるとあらゆることに楽を見出せるんだよ」

 やはりいちいち回りくどいなと思ったが、咲夜は感心した様子で頷いている。こんな奴の下で働かせていては情操教育には非常によろしくないと思ったが、あの傍迷惑な機械は紅魔館で管理されているから他の場所に移すこともできない。仕方がないことと諦めてはいるが、きっとあと数年もすればどんなことにも悪びれない妖怪じみたメイドが誕生してしまうのだろう。

「ちょうど良かったわ。少しばかり食事を作り過ぎて困っていたの」

「素晴らしいね。昔の霊夢はいつ行っても茶の一杯すら渋る奴だった。身の程を弁えているのは良いことだ」

 たまたまが重なっただけであり、そこまで褒められると若干むず痒くもあるのだが、偶然といってなんだとがっくりされるのも癪に触るので計算通りの振りをした。

 神社に招き入れるやいなや、レミリアはお前正気かと言いたげな目を向けて来た。

「肉肉しいかしょっぱいか甘辛いものばかりじゃないか。どれもこれも酒のつまみにするようなものだぞ、宴会でも開くつもりだったのか? それとも毎日こんなものを食べながら晩酌してるのか? もしそうだとしたらやめておけ、ただでさえすぐ死ぬ人間だというのに余計に早く死んでしまう」

「流石にいつもはこんなんじゃないわよ」それにしても吸血鬼に寿命の心配をされるのは少しばかりの奇妙さを感じないでもなかった。「悩みを料理で発散させようとしたらこのざまよ。一人じゃ食べきれないから食べていって頂戴」

「そういう事情なら遠慮なく」レミリアは当然の権利のように腰を下ろすと自分のために用意した箸で料理をぱくぱくと摘み始める。「色合いは辛そうだが、味はそこまできつくないな」

 これも良い、これも美味しいと言いながら食を進めるレミリアは普通の子供にしか見えない。館の時と違い、威圧感を一切覚えないから余計にそう思えた。

「咲夜さんも食べていったらどう? 箸をもう一つ持ってくるから」

 霊夢は先程から恨めしそうな視線を向けている咲夜にそう声をかける。もちろん的外れなことを口にしたのはよく分かっていた。咲夜は決してお腹が空いているわけではなく、主人が美味しいと言って他人の料理を食べているのが気に入らないだけなのだ。

 彼女の料理は一度だけ食べたことがあるけれど、かなり独特の味付けであり本人にも少なからぬ自覚があるらしい。味覚は普通の人間とさして変わらないようなので、あとは料理の勉強を続け、毎回きちんと味見する習慣さえ身につければ料理に関しては大丈夫になるとは思うのだが、そう忠告して未熟さから来る劣等感を何とかしてやれるわけではない。結局のところは気付かない振りをするのが一番良いのだ。

「では、いただきます」その目は食卓に並ぶ料理を研究してやろうという気概に満ちている。霊夢は箸と茶碗、湯のみを二つずつ用意すると一つを咲夜に差し出し、できるだけゆっくりと料理に手をつけていく。大分ましにはなっていたが、朝に食べた料理が未だに胃の辺りに残っているような感じでやはり食欲が湧かなかった。

 それでも料理は三十分としないうちに完売となり、レミリアは少し食べ過ぎたのか畳の上にごろんと寝転んでしまった。対する咲夜は平然とした調子で、その目はもっとないのか訴えているようだった。

「細く見えるのによく食べるのね?」

「この体は血肉ではなく魔力で動きますから」

 すると彼女は普通の飲食をして魔力を生み出すのだろうか。霊夢がいくら食事をしても生み出されるのは熱量だけで、もし魔法を使いたければ外部から魔力の源を摂取する必要がある。魔理沙のような種族としての魔法使いになると体内に魔力を精製する器官があるけれど、食事の熱量を転換しているわけではない。咲夜はやはり人間でも妖怪でもない別種の存在なのだ。 

 それはこの郷において別段問題になることではない。人間を捕食しなければの話ではあるが。

「そう言えば吸血鬼って普通の食事でも大丈夫なの?」

「普通の人間と同様の代謝は可能だよ。でも吸血鬼として生きるならやはり血は必要だ。昔はあまり口にできない方法でごにょごにょしていたんだが、今は月に一度だけ西の里に出没すれば良い。西の里はフランが一時期名誉里長のような立場に就いていて優れた業績を上げたためか、吸血鬼に血を吸われるのが一種のステータスにすらなっているんだ。その仕組みにわたしも相乗りしているというわけだ」

「そんなことをして吸った相手が吸血鬼になったりしないの?」

「わたしもフランも吸血鬼化させるほどの血は吸えない。それができたのは我が師父、名君としてもよく知られるかの偉大な……」

「あ、そう言えば!」レミリアが過去の話を始めたら長くなることを知っていたから慌てて話を遮り、例のチケットを見せる。レミリアはずっと地下で過ごしていたためかこの手の流行に疎いらしく、なんだこれと目で訴えてきた。「付喪神や妖怪が何ユニットか合同でコンサートを開くみたいなの。無駄に数を押し付けられたから欲しければあげる」

「付喪神と妖怪のコンサートなんて騒々しいだけだろ。前にも聞いたことがあるけど聴くに耐えない代物だったような……まあ、わたしの記憶違いかもしれないし、何百年もの時間により研鑽されているかもしれない。何事も試してみないことにはどうなるか分からないか」

「ずっと昔に赤い霧で郷を包もうとしたのも取りあえず試してみたということなの?」

「さてなんのことやらまったくきおくにないな」

 露骨な棒読みになったところからして過去の過ちであること、明白な失敗であったことをきちんと認識し、また記憶しているらしい。その表情からよほど痛い目に遭わされたことが語らずとも伝わってくるのだった

「聞いてくれるな。既に塞がった傷だが触れられるとむずむずする。そうした傷は人間妖怪を問わず安易につついて良いものじゃない」

 霊夢はレミリアの過去を突つきたいのではなく、かつての巫女がどのように戦ったかを知りたかっただけだ。それは喪われた博麗の技を再構築するための助けとなるかもしれない。だがいかなる理由を付けてもレミリアは何も教えてくれないだろう。適当な過去を平然と口にするくせして、本当の過去になるとあからさまに誤魔化してしまう。生まれる前の咲夜とロンドンなる都市で出会った経緯も結局教えてもらえなかった。それが処世術であるのか、かつて傷つけられた心を守るためなのかは判断がつきかねたし、どちらにしても霊夢には黙って引き下がることしかできなかった。

「もうじき日も沈む。わたしはこれからもう少し、夕陽の下での散歩を楽しむことにするよ。咲夜、物欲しそうな犬のような顔をしてもここではもう何も出てこないよ。帰ったら夜食を摘むくらいは許す。そろそろ出立といこうじゃないか」

「そんなに嫌ならそう言ってくれれば良かったのに」

 嫌な話を振られたからそそくさと立ち去るつもりなのだと思ったが、レミリアは弱々しい微笑を浮かべるだけだった。逃げるのではなく他に何か理由がありそうだった。

「チケットは何枚までならもらって良い? もしかしたら他に喜ぶ奴もいるかもしれん。何枚いるか分かったら改めて取りに行くということで良いだろうか?」

「それなら四枚までなら」魔理沙と文が持って行ったチケットを除いて手持ちは六枚、一枚は自分、もう一枚は遠子の分だ。「ただし早い者勝ちだからね」

「大して期待はしていないコンサートだから手に入らなければそれで構わないよ。では夕飯も馳走になったことだし、次にうちへ来た時には豪勢な料理で返すとしよう。それとも目の眩むような弾幕を所望かな?」

「普通のもてなしで良いわよ。チケットも夕飯も余り物なんだから」

 吸血鬼の気合の入ったおもてなしなどあまり受けたくはない。きっと派手で面倒臭いものに違いないからだ。

「そうか、ではこちらも余りものの分だけ趣向を凝らすとするよ。では咲夜、夜になる前にもう少し散歩と洒落込もう」

 咲夜は霊夢にちらと視線を寄せる。どんな理由かは知らないが、この場を離れるのが名残惜しいと考えているようだった。

「頻繁に来られると面倒だけど、土産を持って来るならお茶くらいは出さないでもないわ」

「なるほど、次からは考慮しよう」

 明らかに誤魔化す気満々だったが、そこは気にしないことにした。吸血鬼の傲慢な振る舞いにいちいち目くじらを立ててもしょうがない。

 レミリアはまるで普通の人間のように夕陽の下へとその身を晒す。再び白い煙を立て始めたのを見て咲夜も慌てて飛び出し、急いで傘を差す。その様子を見てようやくレミリアが何をやりたいか霊夢には分かった気がした。

 吸血鬼の体を損なわないように日傘を差し続ける練習というわけだ。

「しかしあの子はどうして……」時間を止める能力があるのに、ちっとも使おうとしないのが少しだけ気になった。「慌てると頭が真っ白になるタイプなのかしら。あるいは……」

 レミリアが時間停止の使用を制限している可能性がある。咲夜は人ならざる者の従者になってしまったが、濫用される様子はなく新たな騒動を起こす兆しもない。しばらくは定期的に様子をうかがう必要があるかもしれないが、いずれは監視の目を離しても良いのかもしれない。

「甘いのかなあ、わたしも」

 異変を起こすような危ない機械を壊さず、妖怪の管理に任せているのも本来ならよろしくないはずだ。でもあの憐れな機械と付喪神に手を下すことができなかった。前回はそれがたまたま上手くいったが、異変において博麗の行いが全てに優先することの意味を決して取り違えてはいけない。前回は上手くいったけど、それが今回も通用するとは限らないのだ。

「馬鹿、なに考えてるのよ。今回、ですって?」

 再び異変が起きると考えてしまったことに気付き、霊夢は慌てて首を横に振る。噂をすれば影、悪魔の話をすれば悪魔が出てくる。霊夢はくわばらくわばらと雷避けの呪いを唱え、すっかり制覇されて空になった食器の片付けに取り掛かるのだった。

 

 

   二

 

 

 北の里は東の里からだと徒歩で丸一日、自転車や馬車ならば四半日、車を使えば数時間ほどかかる場所にある。妖怪の山にほど近く、河童が里の建設に力を貸したことで当初から工業が盛んであるため、機械が郷の要として食い込んでいくたびに勢力と人口を増していった。東の里ではあまり見かけられない背の高い建物が所狭しと並び、人の行き来も活発、車の行き来も忙しないから信号や交通標識を守らなければ危ないことこの上ない。

 郷の人間にとっては第二の拠点であり、今でこそその役目を西の里に取られているきらいもあるが、それでも流行の最先端がひしめく場所であることに代わりはない。最近ではネットで気軽に配信できるようになったためか音楽を志す若者も増えており、夜になると数少ない街灯の下を確保するための音楽バトルが繰り広げられているらしい。霊夢はその手の流行を始め、北の事情にはあまり明るくないのだが、遠子なら熱心に解説してくれただろう。つくづく連れて来られなかったのが残念だった。

 意識を失うほど体調を崩したのが未だに尾を引いているらしく、チケットを渡しに行った時は門前で止められてしまったし、体調に問題がなければと渡しておいたチケットはコンサートの前日、不参加の連絡とともに戻ってきた。

 せめてお土産だけでもお願いしたいと言われ、遠子の父親から半ば無理矢理押しつけられたお金が紙だというのにずしりと重い。遠子が好きだと言っていたアニメや漫画のグッズを買いに、他の参加者よりも早く北の里へやってきたのだが、そこで早くも目眩のするような感覚を味わっていた。

 霊夢は人の多い所が好きではなく、人のごった返す宴会も本来なら得意ではない。めまぐるしさに長く晒されていると疲れてしまうからだ。視界をちらちらと行き来するものを自然と注目してしまう体質らしく、これは幼い頃から改善を試みてきたがあまり治らなかった。

 この体質は弾幕決闘を行う際にはとても役立つ。視界にさえ入ればどんな弾でも見逃すことがないからだ。しかし日常生活だと邪魔になる時がある。北の里に来るのは初めてではないが、何度訪れても慣れないのはそのためだ。往来を平然と歩く人たちがどうして日常生活を過ごせるのか不思議でしょうがなかった。

 逃げ場を求めて視線を空に向ける。冬を示す鮮やかな青がほんの僅かだけ和らぎ、春の兆しを示しているように見える。地上だけでなくあらゆる場所が新たな季節の装いを見せ始めていることは霊夢の心を少しだけ落ち着かせてくれた。あの夢を見てからこちら、ことあるごとに喪われるかもしれない春に思いを巡らせてきたからだ。

「あの、どうかしましたか?」

 いきなり横から声をかけられ、慌てて視線を地上に戻すと緑色の帽子、水色の服にポケットが沢山ついた同色のスカートという典型的な河童のいでたちをした少女が立っていた。霊夢の様子を心配そうに眺めているところからすると、迷子になって途方にくれているように見えたのかもしれない。妖怪にしては人間に親切だなと訝しみかけ、北の里が抱える独自の治安組織のことが頭に浮かぶ。

 北の里には外周を覆う柵や塀が存在しない。妖怪が主導権の一部を持って建設されたのだから当然ではあるのだが、いくら不可侵を約束しても妖怪に対する備えが一つもないのは人間にしてみればどうしても落ち着かない。その不安を払拭し、同時に信頼関係を築くため、北の里には山住まいの妖怪より選抜した警備隊が駐留している。山間駐留隊、またはマウンテンガードと呼ばれており、東の里で組織されている警察隊のような活動を行っている。

 今では東の里の警察隊と同じくらい信頼され、また煙たがられてもいる。犯罪を取り締まる立場になるとどうしても市井に対して説教臭くなり、時には高圧的な態度を取らざるを得なくなるからだ。そしてそれは組織が正常に機能しているということでもある。

「迷子だったら相談に乗りますが」考え事をしているのが不審に見えたのか、河童は霊夢の顔をじっと覗き込んで来る。チケットを出して事情を説明するべきか迷っていると、彼女はいきなり霊夢の手をがしりと掴んできた。「思い出した! 貴方は博麗の巫女ですよね!」

「え、ええ、そうだけど」

 こちらは身に覚えがまるでないから、過去に灸をすえた河童が恨みを覚えていたのではないかと疑ったが、それにしては霊夢に対する快さに満ちた笑顔を浮かべている。

「我々が琵琶の付喪神に不覚をとったとき、助けていただきました。あの時はありがとうございました」

 何のことだろうと考えることしばし、東の里で弁々が起こした騒ぎの一部始終をようやく思い出す。直後に異変と認定されるような事件を手がけたためか、目の前の河童に指摘されるまですっかり頭から抜けていたのだ。

「あれは里で騒ぎを起こされるのが嫌だったから手を出しただけ。わたしに感謝する必要は全くないの。それより次からは気を付けなさいよ。付喪神の中には委譲された力を行使できる変わり種が……」

 そこまで説明したところで霊夢は慌てて口を噤む。東の里でも似たようなアドバイスをしてしまい、渋い顔をされたことがあるからだ。初対面の子供から説教されるなんて人間の大人でも良い気持ちにはなれないのに、妖怪ならいよいよつむじを曲げてしまうかと思ったのだが、彼女はふむふむと感心するように頷いてみせた。

「そういうことをしてくる奴がいるとは聞いていましたが、実践で遭遇するのは初めてでした。気を抜いていたわけではありませんが、山間駐留隊は里の中で行われる違反を取り締まるためのもので、騒動を起こす前に抑えてしまうことが大半ですから」

 その辺りは東の里も事情は変わらないし、構成員が人間だからその傾向はより強くなる。強行策に特化した博麗の巫女が重宝されるのもそのためだ。北の里は山間駐留隊がいるからそんなものは必要ないと思っていたのだが、役割のはっきり決められた組織で融通が利かないのは人妖共通らしい。

「天狗を連れて行くことができれば良かったのですが、あの人たちは車に乗るのを酷く嫌がるんですよね。文明を享受し、人間のような社会を築いているのに種としての強さゆえの拘りがそこかしこに現れるんです。わたしは天狗のそうしたところも嫌いではないのですが」

「それを疎んじる河童もいるってことね」

「車に乗れないなら連れていけないと上が突っぱねてしまいました、なんとも恥ずかしいことです。今日も先の屈辱を払拭するため天狗には一切手を出させていませんし、そのせいかシフトがとても窮屈で……」

 河童の少女はそこまで言ってから慌てて口を手で塞ぐ。内情を話し過ぎたと感じたのかもしれないし、油を売っている暇はないと思ったのかもしれない。先程までのどこか隙のある表情をきりりと引き締めた。

「どこか訪ねたい場所があれば案内しますよ」

「いえ、どこに行けば良いかは分かっているから」

 河童の少女は少し残念そうな顔をしたが、仕事の邪魔をするわけにもいかない。忙しくしているのならば尚更のことだ。改めて礼を言うと霊夢はその場を離れ、漫画やアニメのグッズが揃うという北の里随一の繁華街へと向かうのだった。

 

 他の場所にも増して目まぐるしい街での買い物を何とか済ませると、霊夢は待ち合わせ場所であるホール前の広場に向かう。その中途で霊夢は河童の気配を何度か感じ取った。隠れ蓑を使って身を潜めているが、周囲を警戒しているせいか気配がだだ漏れであり、気付かない振りをするのが難しいほどだった。遭遇頻度はコンサートホールに近付くほど上がり、広場まで来るといよいよ殺気だった空気を放っていた。

 そのうちの何人かが霊夢の所までやってくると、先日はありがとうございますと頭を下げてくる。誰もが東の里で弁々に一杯食わされた河童たちなのだろう。コンサートホールに向かう人たちはそんな光景を目撃し、何事かという様子で遠くから視線を送ってくる。しかも何人かはカメラを取り出し、写真まで撮り始めたではないか。

「ちょっとちょっと、こんなことされたら目立つでしょう? 今日はプライベートで来ているの。妖怪の相手をするつもりなんてないんだから」

「でも、わざわざ北の里まで来たということはあいつらが怪しいと思っているんでしょう?」

「いえ、本当にプライベートなの。皆随分と物々しい気配を漂わせているけど、ここで何があると言うの?」

「それはもちろん決まっています」河童の一人が真面目な表情とともに一歩、前に歩み出る。皆の畏まりようからしてこの場で最も偉い河童らしかった。「解放派の輩どもがこのコンサートホールを貸し切ってライブを開くのです。でもそれは建前に決まっています。きっとまた何かを企んでいるに違いありません」

 今からそのライブに参加するだなんて、とてもではないが言い出せそうにない。

「そう、では頑張って頂戴。手伝ってあげられなくて申し訳ないのだけど」

「これは河童の問題ですから博麗の巫女においてはのんびりと休暇を過ごしていただければ」

 無難な言葉を返すと河童の上司は世のお偉方が得意とする、相手を威圧するような作り笑いを浮かべた。口調こそ丁寧だが要するに出しゃばってくるなということだ。

 霊夢は油断するとひきつりそうになる笑顔を保ちながら少し離れた所まで撤退し、近くに河童がいないことを確認すると、安堵の息をついた。

「これでは中に入ることができないし、待ち合わせすらできない。困ったなあ」

 顔が知られているのも善し悪し……否、良いことなんてまるでない。しかも人間より妖怪に知られているだなんて面倒なことこの上ない。

「ふむ、どうやら難儀しているみたいだね」何もない所からいきなり声をかけられ、霊夢は思わずしゃっくりのような声を立ててしまった。「怯えることはない、わたしは人間の、そして何よりも霊夢の朋友なのだからね」

 姿を現したのは皆に河城にとりと呼ばれている河童だった。彼女は守矢神社の三柱と特に仲の良い河童であり、共通の縁を通して博麗神社にもたまにやってくる。この間も調子の悪かった洗濯機を修理してもらったばかりだ。

「我が同胞とは思えないほどの殺気立ちぶりだよ。わたしもまだまだ若いつもりだが、ことここ数百年の間に生まれた河童はどうも全体的に自制心が足りないらしい。機械の流通に伴って河童の立場が向上し、乗じて天狗のように鼻が高くなったのだろう。痛い目に遭って少しはその鼻も折れたと思ったのだが、やれやれだね」

 にとりは同胞の愚痴を語りながら忙しなく手を動かし、霊夢にサングラスと女性もののコートを渡してくれた。

「このコートは隠れ蓑のように姿は隠さないが、その内に潜む力を抑えてくれる。目に頼る輩どもを誤魔化すには十分だろう。早苗に頼まれて作ったものだが、霊夢にも必要になるかもしれないと言われてね。もう一着用意して待っていたのさ」

「出かける前に届けてくれれば良かったのに」

「必要なければ単なる荷物だからね。それに付喪神のコンサートは実に熱狂的だ、この季節であってもコートが必要ないくらいには暑くなる」

「覚悟しておくわ。それとありがとう、親切に用意してくれて」

「別に親切ってわけじゃない、これはいわば投資ってやつさ。今の霊夢にはそれだけの価値がある。それに同胞の不手際で手を煩わせるのは河童の……もとい、わたしの沽券に拘わるからね。それでは良いライブを、わたしも参加するからすぐに再会するかもしれないけど」

 にとりはぺろりと舌を出し、すうと姿を消してしまった。河童と散々敵対している解放派の面々が開くコンサートに出るだなんて肝が据わっていると言うべきか。あるいは密かに忍び込んで内部から探りを入れるつもりなのかもしれない。

 霊夢はコートを着込み、サングラスをかけて再びコンサートホールに向かう。今度は誰も話しかけて来ることなく、あっさりと通過することができた。

 

 入口でもぎりを行っているのは何の変哲もない人間であり、人妖を問うことなくチケットを受け取り、パンチで手際よく穴を空けていく。霊夢のチケットも端のほうにパチンと穴が空けられたのだが、その瞬間に微弱な霊力が走ったように見えた。

 何の意味があるのかなと思いながら通り抜けようとしたところで苦悶の声があがり、振り向いてみたら狸が床にこてんと倒れていた。側には化け狸が変化によく使う葉っぱが落ちており、その様子を見て色々と得心がいった。あのパンチは本物と偽物を見分けるための装置であり、偽物のチケットで通り抜けようとしたら痛い目に遭う仕組みとなっているようだ。あまり強い威力ではないらしく、狸はすぐに起き上がると慌てて逃げ出していった。

「化けることを知ったばかりの狸は皆、ああして一度は失敗する」霊夢の横にはいつの間にか眼鏡をかけた背の高い女性が立っていて、逃げ出していく狸を愉快そうに笑っていた。「どれほど念入りに化かしても偽物は所詮、本物には叶わない。本物を手に入れるための偽りを弄するようになってようやく半人前といったところかの」

「同族だというのに随分と手厳しいのね」

 彼女は二ッ岩マミゾウを名乗る化け狸であり、郷の狸を取りまとめている。また付喪神に手厚いことでもよく知られている。付喪神と化け狸は相性が良いからとのことだが霊夢にとっては存在するだけで傍迷惑な妖怪なのである。何故ならば若い化け狸は人間社会の中で騒ぎを起こす妖怪の筆頭だし、解放派のメンバーにはマミゾウが目覚めさせた付喪神もそれなりの数が参加しているからだ。

「妖怪に甘いことを口にしても何もならんよ。人間にはそれなりに有効だがね」

「そうやってどれだけの人間を騙してきたのかしら」

「数え切れないのう……と言っても、数をこなしたことを誇らしく感じているわけではない。誰かを騙してただで手に入れたものでは何も回らないからな。誰も騙さず正当な代価をもって取引するのが欲しいものを手に入れるには一番楽な方法なんじゃよ。それが難しい時に初めて化かすことを考え、その場合もなるべく嘘は吐かずに本当のことだけを口にして目的を達するのが肝要だ。おそらく理想の化け狸とは誰も化かしたことのない者を言うのじゃろう」

 それははたして化け狸と言って良いのだろうか。変化できるから化け狸なのにその力を一度も使ったことがないだなんて、霊夢には絵に描いた餅としか思えなかった。

「儂が知る限りでは先程のあやつみたく、誰もが一度ないしそれ以上の化かしを行い、楽しみ、そしてあっさりと失敗する。儂も決して例外ではない。狸というのはどうしようもなく間抜けな生き物なんじゃよ」

 ふぉっふぉっと独特の笑い声をあげるマミゾウはどう考えても油断ならない相手だ。そもそもどうしてこんな場所にいるのか、そのことがまず疑問だった。

「そう言っておきながら、本当は葉っぱのチケットで入ったんじゃないの?」

「うんにゃ、正規のチケットで入った。実はメンバーの中に昔馴染みがいるんじゃよ。今でこそ幻想機械の解放などという革命行為に身を投じているが、かつてはお寺に勤めていたこともあっての。成り行きで色々と世話を焼いたのだが、その時の恩を未だにきちんと覚えてくれているらしく、いつも手紙や贈り物を届けてくれる」

「今回はコンサートのチケットだったってこと?」

「山彦であることを活かし、アバンギャルドの先端を行きたいというのが寺勤めをやめて野に出奔する前の口癖だった。けしかけた本人としてちゃんと見届けてやらねば」

 油断はならないが律儀な性格ではあるようだ。長らく狸や付喪神の支持を受け続けているのもその辺りに要因があるのかもしれない。

「では、儂は控え室に顔を出してくるとしよう」

 マミゾウは関係者以外立ち入り禁止の張り紙を堂々と無視し、扉の奥へと姿を消す。あまりの自然さに少しの間呆然としていたが、ここで立ち尽くしていてもしょうがないと思い、改めて待ち合わせ場所に向かう。受付を抜けた先には座椅子やソファーの置かれた待合広場があり、芸術家の河童がこしらえた奇妙なオブジェクトの前では魔理沙と早苗が楽しそうに談笑をしている。近くのソファでは霖之助がそんな二人の様子を楽しそうに眺めていた。この前に見た時はいよいよ老けてしまったなあと感じるほどのぼんやり具合だったが、今日は随分と溌剌していて思わず小さく息をつく。魔理沙が縁起でもないことを言うから酷いことになっているのではないかと密かに危惧していたのだ。

 それにしても声をかけ辛い雰囲気だった。二人は昔から仲が良く、異変が起きれば競って解決に動いたものだと早苗から聞いたことがある。間に割って入り、久々の語らいを邪魔しても良いのだろうか。

「別に気を使わなくても良いと思うけどね」物思いに耽っていると聞き覚えのある声がかかり、霊夢はゆっくりと背後を振り返る。そこには守矢神社に祀られる三柱の一、洩矢諏訪子が立っていた。「やあ霊夢、生身で会うのは久しぶりかな」

「先日はお世話になりました。お店の女将さんも新しいテレビが届いて喜んでいましたし、感謝を伝えていただきたいとも言っていました」

「それは重畳。それにしても少し見ないうちに外も内も随分と逞しくなったね。士別れて三日なれば刮目して相待すべしとはよく言ったものだ。河童に解決を急がせるような発破をかけ過ぎなくて良かったよ」

 誉められて緩みそうになった頬が一瞬にして引き締まる。諏訪子が聞き捨てならないことを口にしたからだ。

「正体をつかんでいたのに、遠巻きに様子をうかがっていたってことですか?」

 鋭く睨みつけると諏訪子は拗ねるように唇を尖らせる。いつも余裕を崩さないのがモットーのような振る舞いをするからその態度には少しだけ驚いてしまった。

「そう目くじら立てるなよ、上が動き過ぎると下が不満を零すんだ。わたしたちを信用していないのか、もっと任せて欲しいとね。誇り高く力の強い妖怪ならば尚更のこと。しかしあいつらときたら未知の現象を警戒したのか、それとも上手く足並みが合わせられなかったのか、内部でごたごたするばかりでね。それは人間もあまり変わりなかったようだが、河童に先んじて巫女に依頼することはできたというわけだ」

 霊夢が見た限り、河童が調査に入った形跡は見受けられなかった。文がそうした動きもあると仄めかしただけだ。もしかすると解放派同様、捜索隊を送り続けていたのかもしれない。そして時を止めるおっかない番人に追い返されていたのだとしたら。

「今回だけでなく最近の河童はどうにも動きが鈍くていけないね。彼ら/彼女らは純粋に技術を追求する種族特有の気質を持っているし、長らく期待に答え続けてくれたけど、権力が常態化すればそれでも澱みは生まれるらしい。偉くなっても昔のように溌剌と動いてくれる河童もいるんだがね。霊夢にそのコートを届けてくれた奴だよ」

 霊夢は変装道具を届けてくれたにとりの顔を思い浮かべる。彼女は目の前にいる神様とも旧知の間柄だが、神様なぞどこ吹く風といった態度を崩さずいつでもちゃきちゃきとしている。だからこそ早苗も信頼して物事を託したのだろう。

「縦割りの組織をすいっと横に渡ることができる立場を維持しているが、そんな彼女でも最近の河童は少しきついらしい。一つ怒鳴りつけてやろうかとも提案したんだが、おそらくトップの首がすげ変わるだけで、より権力に対して用心深くなるだけだと窘められてしまった。澱んだ水を一気に押し流す洪水を待つしかないとも言っていたね。とにかく山の力関係は色々難しいんだ。煩わされて怒っていると言うのならわたしか神奈子にぶつけてくれて構わないよ」

 分社を建てて奉っている神にそこまで言われたらこれ以上の不満を零すわけにもいかない。かといってそれで霊夢の気が収まるわけでもなく、徒労感がいや増すだけだった。

「まあ重苦しい話はこれくらいにしておこう。今日はいつもの勤めを忘れ、羽根をのばすために来たのだから」

 そう言って諏訪子は霊夢の背をとんと押す。軽い力なのに抗えなくて、あれよあれよという間に早苗と魔理沙の前まで押し出されてしまった。魔理沙はようと気さくに手をあげ、早苗は頬を少し赤くして霊夢に近付いてきた。

「霊夢ちゃんじゃない、お久しぶり!」

 まるで年老いた家族や親族が孫を見るかのような表情を浮かべるから、思わずひきつった笑みを浮かべそうになってしまった。

「守矢神社の例大祭以来だから半年以上経つかしら。もっと頻繁に訪ねてきても良いと言ってるのにちっとも顔を出さないし」

 会うたびにこれだから自然と避けてしまうのだが、早苗はまるで気付いてくれない。直接言うのはあれだから何度か仄めかしてみたのだがそれでも効果はなく、今では早苗のそうした態度を仕方のないものだとすっかり諦めている。

「今日はチケットをありがとね。大好きなアーティストのコンサートで、わたしもチケットを取ろうとしたんだけど駄目だったの。大抵のくじは当たるんだけど、ここのやつは残念ながらチケットをご用意できませんでしたをよく引いちゃうのよね。この郷はわたしも含めて運に作用する力の持ち主が多いから、その手の能力が通じないようにしているのかもしれない」

 もぎりが用意していた特殊なパンチといい、それは十分にあり得る話だった。人間が装置を開発したのか、それとも解放派が独自の技術を駆使したのかは分からないが。

「早苗様のお気に召したならば嬉しいです」

「その早苗様というのはやめてと言ってるじゃない、呼び捨てで良いのに。それにもっと砕けた言葉遣いで構わないから」

「そうそう、わたしも諏訪子で良いの。神奈子も霊夢に様付けされるのはむず痒いって言ってたよ」横から諏訪子がひょこっと顔を出し、早苗が同意するように頷く。「あの顔で畏まられると困ってしまうそうだ」

「わたしは昔の霊夢とは違いますから」

「確かに昔の霊夢さんとは違うけど、だからこそ良いのよ!」諏訪子が口を噤んだ代わりに今度は早苗が高めのテンションで割り込んでくる。「霊夢ちゃんは霊夢ちゃんらしく育ってください。あと、四半年に一度で良いから顔を出してくれると嬉しいなー」

「……善処します」そこまで言ってくれる早苗を邪険にできるほど、霊夢は薄情な性格ではなかった。「これから先、少し忙しくなりそうなので確約はできませんが」

 割と適当に答えたのだが、早苗はこれまでの騒々しい雰囲気を少しだけ収め、深々と頷いてみせた。

「そうね、異変というのは郷全体を揺るがす現象を差す。その影響は波紋のように広がり、いずれ第二、第三の異変が起きるに違いない。わたしも今のような立場でなければもう少し積極的に打って出られるのに、どうしても待ちの姿勢になってしまう。こういうとき魔理沙のような自由人は良いなあと思うけど」

「わたしだって昔ほど自由にやってるわけじゃないんだがな。早苗こそ目に入れても痛くないほど可愛がってる当代の風祝がいるんだから任せてみれば良いじゃないか。そろそろ色々できる年だろう?」

「わたしの見立てではもう少しかかるといった調子ですね」

「わたしもかつての霊夢もあの頃にはもう空を飛んでいて、危険なことにも手を出していたはずだがね。可愛がるのは良いが過保護なのもよろしくないと思うぞ」

「昔は昔、今は今。それにあまり幼い頃から決められた役目ばかりというのも……」

 徐々にエスカレートしていく二人のやりとりをぼんやりと見ながら、霊夢はかつて当代の風祝が零した不満を思い出していた。

『良いわよね、霊夢は博麗の巫女で。だって誰よりも自由なんでしょう?』

 好きで巫女になったわけではない、たまたま適格者だったから。そんな当たり障りのないことを口にすると、彼女はますます機嫌を悪くしてしまった。

『わたし、博麗の巫女になれると思ってたのに』

 彼女は風祝として守矢神社で勤めることを幼い頃から決められていた人間だった。自分や遠子と同じで、分かり合えるところがあると思っていた。だから二人きりになったときそんなことを言われたのがとてもショックだった。

『郷の誰よりも強い力を持った人間のはずなのに。神様の血を引いているのがいけないのかな。それとも妖怪の血が混ざっているから?』

 それとも貴方が何かのずるをしたのかしら?

 口にこそしなかったが、強い疑いの眼差しを突きつけてきた。会う度にそんな表情を向けられて、それでも平然としていられるほど霊夢は強くも鈍感でもない。早苗の愛情深さが面倒だというのもあるけど、それ以上に彼女と顔を合わせるのが怖かった。

「子供の前で大人が怒鳴り合うのはよろしくないね」

 柔らかく通る低い声に、霊夢ははっと我に返る。魔理沙も早苗も矛を収め、恥ずかしそうに俯いてしまった。どうやら霖之助の声には自省を促す性質があるらしい。あるいは遙か昔にも同じように叱られたことがあるのかもしれない。

「まあわたしも人のことは言えないし、子供の前であっても止められないことはある。でもその言い争いはいまここですることじゃない」

「そうですね、すみません。柄になくかっとしてしまって」

「それを言うならわたしもだな、らしくない怒り方をして申し訳ない」

「二人ともよく言うなあ、鉄砲玉につむじ風の癖して」

 そう言ってからからと笑う霖之助に二人の毒は完全に抜けてしまったようだった。

「おっ、他の奴らは既に揃ってるな」

 そんな空気にレミリアの声が割って入る。その隣には妹のフランドールが、そして背後には咲夜が影のように付いていた。巨大な日傘を手にしており、今日は二人分の日除けかと少しばかり同情の気持ちが湧いてくる。こんなこと決して口にはできないが、霊夢には咲夜が大型犬を二匹連れて引きずられないよう注意を払いながら散歩をしているように見えてしまった。

 フランドールは姉に一歩先んじると霊夢にじっと近付き、全身を遠慮なしにくまなくじろじろと見回し、愉快そうに頷いて見せた。

「なるほど、これはお姉様を棺桶から起こすのも分かるわね。姿形も霊質もかつての霊夢とよく似ている。でも違うところもあるわ、一度勝負したらもっとはっきり分かるのだけど」

 フランの笑みが牙のはっきり見える禍々しいものへと変じ、妖力がじわりと滲む。吸血鬼らしい傲慢さを示してもレディと呼ばれるほどには洗練した立ち振る舞いを見せるはずなのに、今の彼女はまるで悪戯を覚えた子供のように天真爛漫だった。

 そんな彼女の頭にレミリアがこつんと拳を落とす。

「その気がないとはいえ些か冗談が過ぎるぞ」

「あはは、ごめんごめん」フランは牙を収め、ぺろりと舌を出す。これも洗練からは程遠く、実に子供らしい仕草だ。勝手知ったる面子ばかりだからか、あるいはこれが彼女の本性なのかもしれなかった。「でも良いわ、貴方。力を垣間見せた途端、顔つきが変わったもの。妖怪は時と場合を考える生き物じゃないと思ってるでしょ? その感性は巫女としてとても大事よ。だって妖怪退治の人間に舐められてるなんて思ったら我慢できなくて殺したくなる妖怪もいるでしょうし」

「わたしは別にそんなこと思わないけどな」今度は魔理沙がフランを素っ気なく窘める。「退屈で力が有り余ってるならわたしが付き合ってやらんでもない」

「ぶうぶう、魔理沙はもうすっかり妖怪になっちゃったじゃない」

 フランは不満そうな顔で魔理沙をじっと見る。

「美鈴もパチュリーもお姉さまも窘めるための戦いしかしない。その点、人間は違う。必死で遊んでくれるもの。咲夜も人間じゃないけどそこだけは及第点ね」

「あの、はい、ありがとうございます」

 俯きがちに恐縮がる咲夜を見て、フランはやはり不満そうな表情を浮かべる。

「その態度は不合格。良い? パチュリーの話によると貴方は人間とさして寿命が変わらないらしいじゃない。だとしたらあと百年も生きられない。下を向いたりくよくよしたりする余裕なんてないの。前を向いて堂々としてなさい。失敗しても笑い飛ばせば良いわ。どうして失敗したかなんて考えなくて良い。そんなもの寿命が長いわたしやお姉さま、パチュリーや美鈴がいくらでもやるのだから。まあわたしは失敗した時のことなんて考えないけどね」

 良いことを言っているようないい加減なことを言っているような、判断に困る説教だった。流石の咲夜もどう答えて良いか悩んでいるようだし、霊夢はフランに対して抱いていたレディのイメージがより一層崩れていくのを感じていた。

「わたしだってそんなことは考えないけどな。そういうのは昔からパチュリーの仕事よ。それともフランが当主をしてくれてた時は考えていたの?」

 まさかと言いたげにフランが口元をつり上げ、レミリアはからかうように口元を歪める。そうして二人とも堪えきれなくなったのかくつくつと忍び笑いを浮かべる。髪の毛の色や羽根の形が異なっても、二人が姉妹であることは一目瞭然だった。

「さて、そろそろ時間のようだ」霖之助が古式の懐中時計を取り出し、時間を見せる。開演まであと十五分だが、ここにはまだ八名しかいない。「これで全員ならそろそろ中に入った方が良いのでは?」

「遠子は体調が悪くて来られないとのことで、残るはあと一人です。十五分前に集合としていたのでもう来てないとおかしいはずなんですが」

「時間に遅れてくるようなら先に入ってて良いんじゃないか? 全席指定なんだし、別に遅れてきても構わないだろ」

 魔理沙の言うことはもっともであると思い、最後にもう一度だけ受付を確認する。誰もいなければ置いていくつもりだったが、最後の招待客はちょうどチケットにパンチで穴を空けてもらっているところだった。彼女の方でも霊夢に気付いたらしく、桃の飾りがついた帽子を脱ぐと気さくな調子で近付いてきた。

 彼女はかつて霊夢に剣の技、気を形にする技を教えてくれた天人で、名を比那名居天子と言う。最近は足が遠ざかっていたが、例の異変のことを嗅ぎつけたらしく、面白いことがあったなら聞かせなさいよと神社まで押し掛けてきたのだ。

「へえ、色々と誘ってるって話だったけど本当に色々なのね」天子はまず諏訪子と早苗に親しそうな笑みを向ける。神社と天界は高所にあるという共通点があるためか、それなりに親交があるらしい。「あとは元人間の魔法使い、骨董品屋の半妖、吸血鬼の姉妹とその従者……」

 天子は咲夜を見た途端に社交的な態度を潜め、表情が一気に険しくなる。怒りの混じった敵意はレミリアとフランの姉妹に向けられていた。

「あんたら、人間をそんなものに変えたの? 七百年近くも経った後で?」

 レミリアはわざとらしく息をつき、後ろに隠れた咲夜を親指で指差す。

「馬鹿天人め、鈍ったな。こいつがかつての咲夜に見えるのか?」

「らしいわね。彼女が本物の十六夜咲夜だったら主の後ろに隠れるなんて眷属にされてもあり得ない。だから全くの別物に違いない……でも似過ぎていないかしら?」

「それを言うなら霊夢だってかなり似ているだろう。きっとそういう巡り合わせなんだろうよ。咲夜を創った奴は共時性を利用したと言っていたが」

「共時性、ねえ」天子はよく分からないと言った様子で霊夢をちらと見る。そうして納得したように頷くのだった。「そういうことにしておきましょうか。ここで深堀りするには時間が足りなさ過ぎる。面白いものを手に入れたって噂も聞くし、後日改めて訪ねても良いかしら?」

 天子の問いに答えたのは横からひょいと割り込んできたフランだった。

「紅魔館はわたしを退屈させないものを常に歓迎するわ」

「承知。それはわたしの好むところでもある」

 霊夢には二人の闘争心がぶつかり合い、火花のような勢いでばちりと爆ぜたように見えた。敵意はなく、だが恐ろしく剣呑な空気に思わず息を飲む。前に紅魔館を訪ねたとき、フランに遭遇しなくて良かったと心から思った。

 

 

   三

 

 

 ホールの照明は既に落ちており、そこかしこからコンサートを楽しみにする人たちの談笑が聞こえてくる。人が沢山いて気が散らないか心配だったけど、暗いお陰でほとんど気にならなかった。

 シートは前から六番目、中央の列でステージを一望するのに丁度良い距離だった。座椅子は背もたれがゆったりとして柔らかく、身を委ねているだけで欠伸が出そうになる。流石は北の里で最も有名なコンサートホールなだけあって、広さだけでなく設備も整っている。ここまではほぼ完璧と言って良かった。

 問題はこれから奏でられる音楽が妖怪による破天荒な代物であるということだ。

「霊夢ならきっと気に入ると思うよ」緊張しながら誰もいないステージを見ていると、隣に腰掛けた魔理沙がそっと声をかけてくる。「彼女たちが表現するのは音と弾幕のコラボレーションなんだ。まあこればかりは実際に見なければ分からないだろうね」

 魔理沙の言葉に呼応するよう、僅かな照明も落ちて辺りが暗闇に包まれる。目映い光によって照らされたステージの中央には巨大な球体が浮かんでおり、八人の奏者がぐるりと取り囲んでいる。あるものは音を奏で、あるものは音を叩き、またあるものは音を歌う。八つの異なる弾幕は球体に吸い込まれ、あちこちに跳ね返り、一見すると無秩序だが、響き渡るのは整然とした音のうねりだった。そして整った音を通し、八つの弾幕が飛び交う美しい形が見えた。

 これまでにも美しいと思う弾幕を見たことはあるけれど、それらはいつも戦いの中にあった。コンサートホールという文化的な場所で、戦いというものを一切感じることなく味わうことができるだなんて、夢にさえ思ったことがなかった。決闘としての意味合いを一切捨てたからこそ成し得るハーモニーがそこにはあった。

 あっという間に一曲が終わり、八人の奏者が横一列に並ぶ。彼女たちは熱狂の拍手によって迎えられ、霊夢も思わず手を叩いていた。

「みんな、今日はわたしたちの音楽を聴きに来てくれてありがとう!」雷鼓の声が万雷の拍手にも負けることなく、霊夢の耳にしっかりと届く。やがて拍手が収まり、皆が雷鼓に目と耳を傾けた。「これからしばらく我ら八人が一丸となって生み出す至上の音球に目を、耳を、心を、そして魂を傾けて欲しい。我らが奏でる音楽は貴方たちにとって最高の時間となるだろう!」

 喝采、そして再びの拍手。いつも霊夢を思い悩ませる解放派の面々がこんなにも心躍る空間を生み出しているだなんて少しばかり腹立たしいけれど、それでも目を、耳を惹かれずにはいられなかった。

 挨拶が終わると音球が再びステージ中央に現れる。これはきっと奏者の一人である響子が生み出したものだろう。力場を操作し、複数の音を一つにまとめて奏で出す彼女はこの場において指揮者の役目を果たしていた。マミゾウはきっとホールのどこかにいるはずだが、響子の操る音を見てどのような気持ちを抱いているのだろうか。マミゾウならばこの熱狂に線を引き、冷静に分析することもできるのかもしれない。霊夢にはそんなことできそうになかった。誰かを思いやる気持ちすら薄れていき、視線はいよいよ音球へ釘付けになる。

 あの五線譜は弁々の琵琶の音と八橋の琴の音。激しくぶつかりながら絡み合う三つの流れはルナサ、メルラン、リリカの三姉妹の音。雷鼓の叩く音がそれらを整えようとリズムを刻み、そのリズムをも打ち壊そうとする夜雀と山彦の声はまるで悲鳴のよう。それなのに全てを足すと調和が生まれるのが不思議だった。音球は下手すると壊れそうなギリギリのバランスを保ち続け、その中で音楽は新しく生まれ続けている。雷に撃たれるように刺激的で、それでいて砂糖菓子のように甘い。心がとろけ、視界がぐるぐると回り始める。激しい目眩のようでそれでいて心地良い。まるで音と心が溶けあって一つになるかのようだった。ああ、なんて楽しい音なんだろう。

 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。こころが、からだがとけていく。

 ぷつん、と唐突に音が途切れた。

 

 気怠い瞼を開けるとそこにあったのは音球ではなく天子の顔だった。彼女は最初こそきつい表情を浮かべていたが、すぐに柔らかな笑みを霊夢に向けてくる。

「あの、ここはどこなの?」

 音楽鑑賞をしていたはずなのにいつの間にか待合広場まで移動しており、ソファの上で横になっている。頭の下が柔らかいのは天子が膝枕をしてくれているのだと分かって若干の気恥ずかしさを覚えたが、遠慮できるほど満足に体も心も動かなかった。

「会場の外よ。酷く酔っぱらったからここまで連れ出したの。覚えてない?」

「全く覚えてません。そもそも酔っぱらったって、お酒は一滴も飲んでませんし」

「酒に酔ったんじゃなくて音に酔ったんだと思うわ。随分と刺激的な音だったから」

 説明を受けるうち、音と弾幕に溶けるような心地が徐々に思い出されていく。瞼を閉じるだけでその光景が脳裏に浮かび、ぐわんぐわんと揺れるような感覚が蘇り、霊夢は慌てて目を開くのだった。

「音ではなく音球の影響だと思う。見ているとふわーっとした感じになって」

「なるほど、それは弾幕酔いってやつね。わたしも身に覚えがあるわ」

「弾幕酔いって、そんな症状聞いたことがない」

 弾幕に酔うなんて霊夢はこれまで一度も経験したことがなかった。そもそもそんな体質だったら数多の弾幕決闘を潜り抜けることなどできなかったはずだ。

「決闘が長時間に及ぶと稀に酔ったような感覚が襲ってくることがあるの。本来はいくつもの要因が重ならないと発症しないのだけど、霊夢は動くもの全てに注目する癖があるでしょう? あらゆるものを平等に注視できる目は動体の行き交う環境、つまり弾幕決闘において何にも代え難い天賦の才と言えるけど、弾幕ひいては動体全般に曝されると疲弊しやすいという短所も併せ持つのでしょう」

 天子の話に霊夢はいくつか思い当たる節があった。ここに来る途中も人混みで難儀したし、人がごった返す宴会に対する苦手意識も同じ根に端を発している。でも、まさか音楽鑑賞にまで影響を受けるとは思わなかった。

「ここでしばらく休んでいなさい。音楽鑑賞はもうなし、分かったわね?」

 あの音をこれ以上楽しめないのは悲しいけど、瞼の裏にこびりついた残像だけでもきついのだから実物に耐えられるはずもない。渋々頷くと天子は良い子ねと言わんばかりに微笑み、そのまま黙して動こうとしなかった。

「天子さんは中で楽しんで来ないの? わたしなら一人で大丈夫だから」

「そうね、あれは確かに素晴らしい体験よ。でも次だってある。対して霊夢のこんな弱々しい姿は二度と味わえないかもしれない」

「それはなんだか悪趣味のような」

 霊夢が唇を尖らせると天子は少しだけ意地悪く笑い、それから説教をする時の少しだけ生真面目な表情に移る。

「それに少し気になっていたことがあったの。共時性だっけ? その話が出たとき妙に表情が曇ったから。紅魔館絡みの異変で霧が発生するって内容まで似ていて、比較されることも随分と多かったんじゃないかって心配してたの」

「久々に神社を訪ねたくれた時もそうだったの?」

 でもその時は異変について話してくれとしか言わなかったし、心配する素振りもあまり見せなかった。いきなりそんなことを口にされても信憑性がまるでない。

「面白い話を聞きたかったのも本当。気にしてるなら少しフォローしようかなと思ったけど、その時は特に気に病むような様子もなかったから何も言わなかった。でもそれはすっかり用意されていた話を語ったからだと今更ながらに気付いたの」

「でも比べられるのは仕方がないと思ってます」

「仕方なくても辛いならちゃんと吐き出さなきゃ駄目。わたしはわたしだと胸を張って言えなきゃどんどん惨めになるだけなの。わたしにも覚えがあるからよく分かる」

 霊夢の知る限り天子は自信の塊のような存在であり、要石のように厚く、打ち砕けるものなどいないと思うほど強固だった。心の弱い時期があったなんて言われてもあっさりと信じられるはずがない。だが天子は冗談と笑うことなく言葉を続けるのだった。

「今でこそ少しはましになったけど、昔は崩れだの不良だのと散々に言われていたの。あいつはまるで天人らしくない、何故ならばおこぼれで天に上がったからだとあちこちで陰口も叩かれたわ。冗談じゃない、わたしは天に上げて欲しいなんて一度も言わなかったのに!」

 天子の声には強い感情が含まれていた。かつて抱いたのでなければ再現できないほどの熱がこもっており、ぼんやりとした霊夢の頭をがつんと打った。

「だったらせいぜい不良らしく振る舞ってやると好き勝手をやったわ。でも謝るのはいつも親ばかりで余計に辛くなって、楽しいことをやってるように見える地上の奴らが妬ましくて溜まらなかった。だから地上にちょっかいを出してやったの。地震を起こし、気質を乱し、あっという間の大わらわ……さあみんな、ここに元凶がいるわ。早くわたしを倒しに来なさい!

 当然ながら暴虐は長く続かなかった。わたしは何度も倒されたの。一度負けても懲りることなく何度も何度も悪戯を繰り返したから。皆がわたしに向かってくる、皆がわたしを倒しに来る。それは喜びであり、楽しみでもあった。一つだけ意外だったのはわたしのことを不良天人ではなく、比那名居天子として扱ってくれた人がいたこと。そのことを意識したとき、全てではないにしろ辛さがぐっと減った気がしたの。騒ぎを起こして良かったとさえ思ったわ。そんなこと口にしたら散々に叱られそうだから、これまで誰にも打ち明けたことはないけど」

 それをいま自分のために話してくれた。つまりはよほど酷い顔をしていたということだ。

「わたしには辛さを口にすることも、周りに違うと訴えることもできなかった。霊夢がかつての霊夢とあまりに似ていると知ったとき、放っておけないと思ったの」

「だから剣の技とか色々と教えてくれたの?」

「強くなければわたしはここにいると言い続けるのは難しいから」

 霊夢の名前は確かに重いけど、今は天子が言うほど辛くはない。紅魔館に乗り込んだときも最初こそかつての霊夢と同一視されたけど、最後には自分を見てくれた。辛く思うことはやめられなくても、それでもわたしはわたしだと言い切れるはずだ。

「今回は少し過保護だったかもしれない。霊夢の目は前を見てるもの。わたしがこんなこと打ち明けなくてもきっと大丈夫だったに違いない」

「天子さんにも辛い時期があったというのはそれだけで励みになりそうだけど」

「他人の未熟さを励みにするのはよくないわよ。わたしがいまこのように振る舞えるということが大事なの。分かった?」

 霊夢が神妙そうに頷くと、天子は頬にぺたんと手を当てて軽く摘む。

「心もその頬のように柔軟でありなさい。ではわたしはコンサートに戻るわね。元気になったみたいだし、だったら音楽のほうが面白いもの」

 天子は膝に乗っていた霊夢の頭をゆっくりとソファに下ろし、ホールの中に戻っていく。天子がいた所は少しだけ温もりが残っており、妙なくすぐったさを感じた。

 コートを体にかけ直し、天井を眺めていると疲れもあってか少しずつ眠たくなってくる。ライブが終わるまでに少しは体力を回復させておきたかった。

 そしていよいよ眠りに落ちるかというところで信じられないものが目に映った。天井を角の生えた子供がてくてくと歩いているのだ。前髪の一部が赤く、白を基調とした服とスカートには矢印のような記号がところどころあしらわれている。あれは一体なんだろうと考えているうち、その姿がふっとかき消え。

 次の瞬間には顔を覗き込まれていた。童顔だが意地の悪そうな表情であり、あどけなさはどこにも感じられなかった。

「わたしはお前から見て上にいるか? それとも下にいるか?」

「仰向けになったわたしを覗き込んでいるのだから上に決まってる」

 訳の分からない質問と眠りを邪魔された苛立ちから、霊夢はつっけんどんにそう答える。すると少女が目の前からいなくなり、天井に足を着け逆さまに立っていた。霊夢にはまるで窓にへばりついたやもりのように見えた。

「いま、わたしはお前から見て上にいるか? それとも下か?」

 そして大声で同じ質問をしてくる。霊夢は「上!」と叫び、すぐに後悔した。頭の中がぐわんぐわんとかき乱されて痛んだからだ。二日酔いした時の辛さによく似ており、音に酔ったという天子の話が正しいことを改めて示された気がした。

「なるほど、顔だけじゃなくて認識まであいつと一緒なのか」

 角の生えた少女は再び地面に降り立つと、今度は愉快そうに口の端を歪めて見せる。意地の悪さは残ったままだから馬鹿にされているのだと一目で分かった。

「良い名前を継いだものだよな。顔もよく似ているから望まなくても皆がちやほやしてくる」

 彼女が霊夢に悪意を抱いていることは最早疑う余地もなかった。霊夢は気怠い体をゆっくりと起こし、不躾なことをするなとばかりに睨みつける。だが彼女は些かも怯むことなく、逆にけらけらと声を立てて笑い始める。それがまた癪に触る嫌らしい笑い方だったし、重たい頭に浸透して実に不愉快だった。

「なんだその毛玉すら殺せそうにない威嚇は、なっちゃいない。かつての霊夢はもっとおっかなかったよ。一睨みされるだけで殺されるかと思うほどに」

 心をつつく言葉遣いや態度に霊夢は心覚えがあった。かつて地底に潜ったとき、さとりを名乗る少女が似たような挑発を仕掛けてきたのだ。さとりに比べれば粗野で下品だが、やってくることはおそらく同じなのだろうなと思った。

「わたしがかつての霊夢よりも未熟だからなんだって言うのよ」

「へえ、そこを開き直るんだ。それじゃあお前は一生、かつての霊夢を越えられない。それだけじゃない、自分自身にすらなれず、ただただ落ちぶれていくしかない」

「どうしてあんたにそんなことが分かるのよ?」

「分かるさ。だって皆はお前がかつての霊夢のようになると期待しているから。反吐が出るような甘い言葉と物語をくれたあの天人も、他の奴らもだ。でも、お前がかつての霊夢みたいになれない、なる気もないと知ったらきっと誰も彼もがそっぽを向いてしまうだろう。弱い自分を認めて欲しいなんて馬鹿なこと……」

 霊夢は札を彼女の眼前に掲げ、話を遮る。見当違いの不快な偽りをこれ以上口にして欲しくなかったからだ。

「わたしは未熟であることを免罪符にしているわけじゃない。迫力のある睨みは利かせられないかもしれないけど、ここであんたを退治することはできるのよ」

 霊夢は札を手に、相手の一挙手一投足を油断なく観察する。彼女は少なくとも地面と天井を一瞬で行ったり来たりする何らかの能力を持っており、他にも能力を隠し持っている可能性が高い。不意を打たれないように気をつけるべきだった。

 彼女は退魔の札が間近なのにも拘わらず怯む様子はなく、それどころかげらげらと腹を抱えて笑い出す。その激しさに霊夢のほうが呆気に取られるくらいだった。

「お前は倒錯した逆さまの理屈を操るんだな、まるで天の邪鬼のようだ。洟垂れ餓鬼のような甘ったれだが、もっと幼い頃に出会っていたらお前を立派な天の邪鬼に仕立てることもできたかもしれない。いや、今からでもまだ間に合うのかな?」

 胡乱なことばかりを口にすると思ったら、彼女は霊夢の持つ札に手を伸ばし、ぐいと掴んでくる。退魔の力は彼女の手を灼き、うっすらと白い煙が上がったけれど、涙を流すほど痛がっているくせに腕の力は強くなるばかりだった。

「ああ、痛い、痛い。あまりにも辛くてすぐにでもこの手を離してしまいたい」

 口ではそんなことを言っているのに腕の力はますます強くなり、霊夢のほうが痛みで顔をしかめるほどだった。札により強い霊気を込めるべきだったが、音に酔った体と頭ではこれ以上の集中が続かず、札に込めていた力はやがて尽き、ただの模様が描かれた紙に戻ってしまった。それなのに腕の力は緩まり、するりと離れてしまい、あとには刻印のような赤い手の跡だけが残った。

「あんた、一体何者なの? ここまで何をしに来たの?」

「わたしが何者か、お前は既に知っているよ。ここまで来たのは霊夢を名乗る当代の巫女がいかほどのものかわたし自ら見定めたかったから。お陰でまあ色々と分かったよ。例えば上も下も、右も左もない奴だってこととか」

 彼女は三度霊夢の前から姿を消し、天井に着地する。

「もうすぐ春が来る。その時に起きることを楽しみにしていて欲しい」

 それから将来の犯罪を堂々と宣言し、どんでん返しのように天井の一部をひっくり返して霊夢の前から姿を消した。

 名乗りこそしなかったが、何者なのかは最後の口上から見当がついていた。彼女は解放派の一員であり、霊夢が懸念していた『悪知恵を授ける者』に違いない。

「わたしを天の邪鬼だなんて憎らしいやつ」霊夢からすれば彼女の振る舞いこそ天の邪鬼であり、そしてその思いつきはそのまま答えでもあった。「人の心を察して悪戯を仕掛けるあの態度、正道にいちいち背くその行動。だから解放派のやり口は痒い所に手が届かないような嫌らしさを持つようになったのね」

 そして文がくれたヒントもまた正しかった。彼女たちは春を喪わせるための実に回りくどくて嫌らしい企みを巡らせているに違いない。素敵な音楽を奏でるコンサートに案内してくれたのは嬉しいけれど、それとこれとは話が別だ。コンサートが終わったら雷鼓を問い詰め、騒ぎを未然に防ぐ必要がある。場合によってはきついお灸を据えてやらなければならないだろう。

 霊夢は再び横になり、ままならない体を少しでも休め、音酔いを抜こうとする。泥のように気怠く重たい睡魔に身を委ねると、意識はすぐ眠りの方へと落ちていった。

 

 霊夢はざわざわと言葉の行き交う騒がしさに目を覚まし、うんと体を伸ばす。二日酔いにも似た感覚はほぼ収まっており、待合室の騒々しさをすぐ感じ取ることができた。隠れ蓑を着た河童たちがホールの中へと慌ただしく駆け込み、聴衆たちはひそひそと話を交わしながら外に出てくる。一体何が起きたのか確認したかったが、見知った姿はどこにも見当たらない。

「霊夢、もう休んでなくて大丈夫?」耳元からにとりの声が聞こえてくる。彼女も隠れ蓑を身に着けているらしく、ただ見ただけではその姿を確認することはできなかった。「ここは山間駐留隊による調査の対象となる。早く離れたほうが良いね」

「一体、何が起こったの?」

「犯行宣言さ。アンコールも含めてライブが終わり、最後の挨拶の場で雷鼓が堂々と宣言したのさ。幻想機械解放同盟は近々、郷の春をいただきにやって来るとね。それで密かに目と耳を設置していた駐留隊が犯意ありと見て突入を敢行したのさ。彼女たちはまるで煙のようにどろんと姿を消してしまい、誰一人として見当たらなかったらしいが。きっとコンサートホールが監視されていることなどすっかりお見通しだったんだろう。今は河童たちが客を誘導し、ホールから追い出しにかかっている。霊夢は有名人だし、東の里での実績を鑑みるに捜査協力を求められる可能性が高い」

 霊夢は慌ててコートを身に着け、サングラスで顔を隠す。

「皆にはわたしから事情を話しておくから」

「ありがと、何から何まで世話になるわね」

「霊夢はお得意さんだから、これくらいのサービスはさせてもらうよ」

 透明な手に背中を押され、霊夢はコンサートホールをそろりそろりと後にする。河童たちは今度も霊夢に気付くことなく、霊夢はできるだけ人混みに紛れながら里の郊外まで出ると夜空に身を乗り出し、一目散に神社を目指す。月や星のお陰で暗い中でも方角を失うことはなかったが、それでも見慣れた神社の姿を遠目に見かけた時は思わずほっとした。最近は夜の空を飛んでいるだけで時折、弾幕勝負をふっかけられることがあるのだ。今の万全でない調子だと相手にするのはきつく、かといってそれが断る理由にはならない。もし遭遇していたらいつもより手荒く追い払うことになっていただろう。

 神社に降り立った頃には気力をすっかりと使い果たしており、その日は風呂に入ることも歯を磨くこともなく、布団を敷くと再び泥のような眠りに落ちた。

 

 ライブから数日後、三つの里全てに正式な犯行予告が届けられた。

 霊夢も数時間遅れて全文に目を通したのだが、そこには何とも腰が砕けそうになるような計画が綴られていた。

 

 幻想機械解放同盟が今回標的にするのは郷中の桜である。

 もしも郷の機械を解放するという我々の要求が受け入れられないならば、今年は誰一人として花見をすることは叶わないと知れ。

 

「春を喪わせるってそういうことなの……」

 解放派は春という季節そのものを奪うわけではなく、その象徴である桜を散らすという何ともせせこましい活動を繰り広げるつもりなのだ。

 霊夢としては徹底無視を決め込みたかったが、すぐに上から『博麗の巫女も桜の警備に加わり、風流を介さぬ不埒な輩どもを徹底的に追い払うべし』との命令がくだり、遊撃隊として桜の警備に駆り出されることとなった。

 お偉方は郷にどれだけの桜が咲いていると思っているのだろうか。

 その全てを散らすなんてできっこないはずだ。もちろん解放派は、少なくともあの意地悪い天の邪鬼はそれを理解した上であのような声明を出したに違いない。

 里側は犯行予告を無視できないし、解放派は全ての桜を散らすことができなくても花見の名所に咲く桜をピンポイントで散らせば良い。そして桜は強い風を受ければあっという間に散ってしまう。これは守る側が圧倒的に不利な話なのだ。守りきる可能性があるとすれば、ことを起こす前に先手を取って企みを防ぐしかない。だが解放派は一度や二度追い返したくらいで懲りる連中ではない。霊夢の警備する桜は守ることができるかもしれないが、大半は解放派に押し切られるだろう。

 今度あの天の邪鬼を見かけたらはっ倒してから踏んづけてやろう。この怨念めいた気持ちだけが、実入りのない警備を行う唯一のモチベーションだった。

 

 だが解放派はいつまで経ってもやって来なかった。

 その理由は実に明白である。

 襲撃の合図である桜の開花がいつまで経っても始まらなかったからだ。