王冠と道化師・試読版

  1

 

 

 木が一本生えている。

 それは豊かな土地であるならば驚くに値しない。だがここは荒れ果てた大地が延々と続く地獄である。辺りを照らすのは太陽ではなく、こんこんと湧き出し続ける千数百度の溶岩と、原色のどぎつい光を放つ怨霊の残りかすである。もちろん雨など降るはずもなく、だというのに肌を撫でるのはぬるぬるとした感触の極めて不愉快な空気だった。

 ここに堕とされた人間はあっという間に肌も肉も乾き、全身が細かくひび割れ、しくしくと痛みを発するようになる。地面は焼いた石のように熱く、一所に留まって休むことさえも許されない。大罪人たちは痛い痛いと訴えながら、果てなき大地を裸足のまま、ひたすらにさ迷い続ける。

 死ぬことは許されない。極限の苦しみを味わい続け、心魂枯れ果てるまでこの責め苦が終わることはない。地上にも砂漠と呼ばれる過酷な土地はあるけれど、生き物が根付くことは辛うじて可能であるのに対し、この地獄は虫一匹生きることも、草一本生えることもできない。

 ここはかつて大罪人を苦しめるためだけに生み出された原初の地獄である。太古の神々は人間に善悪、道徳を植え付けるのにこれほどの過酷を必要にすると考えたのだ。鬼やオウガと呼ばれる屈強な種族すらここでは長く生きられない。万死をも耐え抜く強力な神のみがこの地に君臨し、管理することができた。

 原初の地獄はいまや全く使われていない。これよりもまだましな地獄でさえ神々の権能をして残酷であると判断され、罰よりも徳や智をもって教導するべきであると考える者たちによる改革によって放棄されてきたのだ。原初の地獄が現役であるはずもなく、今では厳重に封印され、誰も近寄ることはない。

 そんな場所にヘカーティア・ラピスラズリが訪れたのは、ここに突如として生命が出現したことを察知したからである。厳重に封じられてきた最も残酷な地獄に入り込み、なおも生き続けているだなんて余程のことであるし、この例外は部下に任せるにはあまりにも重荷であると考えたのだ。

 責め苦に満ちた地獄の空気は息苦しく、このような場所をかつて統治していたのだと思うと憂鬱の気が紛れ込むのを防ぐことはできなかった。ここはヘカーティアほどの神格が持つ心すらかき乱すほどに残酷な大地なのだ。だが、その思いはすぐに感嘆へと変わった。

 木が一本生えている。

 生命が根付くはずのない大地に、それは確かに存在していた。枝のほとんどは朽ち果て、葉の一枚もついてはいないが確かにこの大地へ一度は根付き、育とうとしていた。それも限界に近づいており、今すぐに死を迎えてもおかしくない状態だった。

 ヘカーティアは幹にそっと手を添える。このような場所に一度は根付いたのだとしたら余程の力を持っているに違いない。それを感じ取ろうとしたのだ。もしかすると地上からすっかり絶えた生命の樹に連なる古代種かもしれない。だとしたら余計にこの場所から待避させ、念入りに保護する必要があった。

 いくら心を伸ばしても樹木の心を読みとることはできなかった。その代わりにヘカーティアは幹の奥底に潜む妖精の気配を感じ取った。

 自然の豊かな場所にのみ姿を現し、喧噪と悪戯を撒く妖精がこんな場所に現れるだなんて俄には信じ難いことだ。にもかかわらずここに妖精は存在する。ヘカーティアにはこの状況の真偽を確かめる必要があった。

 意を決して木の幹をノックする。こんな場所に生まれた妖精が知性を持ち合わせているかどうかは甚だ疑問だったが、妖精の住まいだとしたらずかずかと乗り込んで暴き立てるような真似はできるだけしたくなかった。

 少し経っても反応がなかったから強引に押し入ろうとしたところで、幹の一部にぽっかりと穴が空く。ヘカーティアはお邪魔するわねと言ってから穴を潜り、木の中に足を踏み入れる。

 妖精は落ち着きがなく忘れっぽいから住まいの中はごちゃごちゃしていることが多いのだが、中には何もなかった。何もない世界で何かを貯めるなんてできるはずもないから当然のことではあるのだが、それでも寂しい光景であることに変わりはない。

 部屋の隅には膝を抱えてうずくまる妖精の姿があった。何もない世界だから当たり前ではあるが一糸まとわぬ姿であり、遠目からでも弱り果てているのがはっきりと分かる。羽根は酷く痛み、この世界に立ち込める熱によって害されたのか至るところに赤黒い火傷の痕がある。

 この妖精は残酷な地獄の環境に痛々しく打ちのめされていた。

 ヘカーティアは妖精の前まで近付き、少し躊躇ってから声をかける。

「あなたがわたしをここに招いてくれたのかしら?」

 妖精はヘカーティアの声にびくりと震え、そっと顔を上げる。頬は酷く痩せこけ、目の下にはどす黒い隈が浮かんでいた。肌も唇もかさかさに乾き、水の一滴を口にすることさえ苦しいといった調子だった。

 ヘカーティアの問いに妖精は何も反応を返さず、虚ろな視線を向けるだけだ。

「わたしはあなたをこの世界から連れ出し、あらゆる残酷から救い出すものよ」

 続く言葉にも妖精は何も答えることはできなかった。あー、うー、あー、と呻くような声を発するだけで何の意図も感じられない。目の前にいるヘカーティアが救いの手を差し伸べる存在であることさえ気付いてはいない。

「このような地獄に生まれ落ちるなど、お前はいかなる業をその身に抱え、また狂った歯車のもとに生まれついてしまったのか、わたしにさえ容易に想像はつかない。だがお前はこの世界で必死に生きようとした。わたしはあなたという存在の生を心の底から賞賛するわ」

 ヘカーティアは思いの丈を口にし、腰を下ろして妖精に視線を合わせてからそっと手を伸ばす。彼女はそれが何を意味するのか分からずぽかんとした表情を浮かべていたが、ヘカーティアは辛抱強く待ち続けた。彼女自身に差し伸べた手をつかんでもらいたかったからだ。

 そしてその願いは叶えられた。妖精はやがておずおずと手を伸ばし、ヘカーティアの手を赤子にも負けるほどの弱々しい力で、しかし確かにつかんだのだ。

 獣同然の表情をしていた妖精に叡智の光が微かに灯る。それはかさかさの口であーでもうーでもない、意味のある言葉を紡いでみせた。

「あなたは、だあれ?」

「ヘカーティア・ラピスラズリ」

 そう口にしてからもう片方の手で自分を指差す。それで妖精はヘカーティアが名前、個々を識別するために使うものであることを理解した様子だった。

「へかてあ、らぴうらうり」

 からからの舌ではまともな発音もできないらしく、ヘカーティアの発音もラピスラズリの発音も大変に怪しかった。そして妖精はヘカーティアの名前が気に入ったらしく、へかてあ、へかてあと何度も繰り返すのだった。

「気に入ってもらえて良かった。それではわたしからも同じ質問をするけどよろしいかしら? あなたのお名前は?」

 ヘカーティアは妖精を指差し、名前を訊ねる。そして彼女はその意味を理解する様子を見せたが、何も答えることはなく、寂しそうに首を横に振るだけだった。

「ここに何もないよう、あなたにも名前がないのね?」

 こくこくと頷く妖精を見て、ヘカーティアはその顔をじっと見据える。この地獄に生命を芽吹かせるような妖精に名前をつけるというのは流石に緊張を覚えることだった。下手な名前をつければ彼女の他に代え難い特性を奪うことになりかねない。

「そうね……ケテルというのはどうかしら?」

 この過酷な大地に生命を芽生えさせた彼女に相応しい名前だと思った。そして幸いなことに彼女はその名前を気に入ってくれたらしい。

「けてう! けてう!」

 そう言いながら自分のことを指差してくれた。

「では名前も決まったことだし、こんな場所からはさよならしましょう」

 ヘカーティアは手を握ったままゆっくりと立ち上がり、妖精を助け起こすと転移の魔法をそらんじる。魔の失われつつある現代において、世界の果てから果てまでを移動するような転移など、いかなる魔法使いであろうと成し遂げることはできない。だが彼女はヘカーティア・ラピスラズリ、かつてコルキスの王女に魔の力を授けたとされる、偉大なる魔術の女神である。

 詠唱の終わりとともにヘカーティアはケテルと名付けた妖精によって育った木とともに最も過酷な地獄を抜け出し、彼女の住む宮殿の庭へと転移したのだった。

 

 

  2

 

 

 妖精たちがわあわあと泣き叫びながらヘカーティアの部屋に逃げ込んでくるならば、それは間違いなくケテルの仕業である。みんなと仲良くやれと言ったのに、今回もまた約束を反故にしてしまったらしい。

 あの地獄で生まれた妖精だけあって生命力の強さは折り紙つきだが、あまりにパワフル過ぎるのもそれはそれで問題だった。ここに来たばかりの頃は引っ込み思案のおずおずした性格で、ヘカーティアの宮殿周辺に暮らす妖精たちに手を引かれていたのだが、豊かな自然の中で暮らすようになってあっという間に妖精らしからぬ強い力を得てしまったのだ。のみならず弱いもの虐めをする地獄の妖精らしい性格も身につけてしまった。

 そのたびに優しく諭し、時には厳しく叱りつけてはみたものの、その性格が改善されることはなかった。ヘカーティアは強いから尊敬する、妖精たちは弱いから虐める、それが今のケテルの行動原理だった。

「環境が、よろしくないのかしらね」

 かつての地獄ほどではないものの、罪人に責め苦を与える役目は変わっていないし、妖精たちはオウガが罪人を痛めつけるのを日常的に目撃することになる。そして地獄に娯楽は少ないものだから、オウガたちの真似をして地獄の罪人たちをいたぶるようになるのだ。

 ヘカーティアはそのことを今までさして問題視していなかった。オウガたちにいたぶられるよりも妖精の他愛ない悪戯を食らうほうが、苦痛はずっと少ないからだ。だが今回ばかりはそれが裏目に出た形となる。

 最後の妖精が部屋から出ていったのち、ヘカーティアはケテルが住処としているオークの木に足を運ぶ。あの地獄で生まれた唯一の生命はいまや揚々たる様で枝葉を繁らせており、鳥の巣のような球体があちこちにぶら下がっていた。

 幹をノックしてからしばし、中央にベルのついた可愛らしいドアが現れ、ヘカーティアを招いてくれた。部屋の中にはかまどや食器棚、ベッドにクロゼットといった生活用具から、彼女がねぐらに持ち込んだ木の実や珍しい形の石までもがあちこちに転がっており、実に妖精らしい煩雑とした佇まいを獲得していた。

 ケテルはベッドの隅に座り、膝に顔を埋めていた。彼女は他の妖精たちに狼藉を働いたことを悔やんでいるのか、すっかりと落ち込んでいる様子だった。

「そんなに落ち込むなら乱暴なんてしなければ良いのに」

「だってご主人様、あいつらわたしが強いからってトランプや石と紙とはさみの時まで手を組んで、わたしはいつも一人なのよ。それってずるいじゃない!」

 他の妖精たちはそんなことを一つも口にしなかった。ケテルが乱暴を働いた、ご主人様はどうしてあんなやつをここに置いているのかと言うばかりだった。

「トランプも石と紙とはさみも、わたしの強さには全然関係ないのに!」

「だからといって暴力を振るってはいけないわね。ケテルは強いんだからみんなあっという間にやられちゃって、下手をすると一回休みになってしまうのに」

 ケテルの強さは妖精たちの喧嘩をまとめてあっさりと止めてしまうオウガにすら生傷をこさえてしまうほどのものだ。ヘカーティアならケテルの力を奪い、普通の妖精として生きるようにすることも可能であるし、それが彼女にとって幸せなのではと考えたことも何度かある。しかし原初の地獄にさえ命を芽生えさせた力と、そのような場所に生まれてしまったケテルの業が安易な力の剥奪を思い留まらせるのだった。

 彼女はもしかするとヘカーティアの想像もしないほど大きな翼を広げ、見知らぬ場所にすら意気揚々と旅立っていくのかもしれない。そんなことを考えてやまないのはかつてヘカーティアの師であった女神デメテルが、ケテルとよく似た性質を持っていたからだ。真空にさえ空気を生み、絶対零度の土地でさえ命を育む力を与える女神デメテルはかつてヘカーティアを始めとした女神たちを携え、数多の航海を成功に導いてきた。

 郷愁であることは分かっていたが、ヘカーティアにとってケテルとの出会いは運命にも似た出来事だったのだ。もちろんそんなことは口にできなかったけれど。

「弱い者を虐めるのは良くないし、楽しくもないでしょう?」

「ふん、わたしを除け者にする奴らが辛い顔をするのは楽しいに決まってる」

 憎まれ口を叩くも、その表情は全く楽しそうではない。ケテルがそうした心根を持っているのはヘカーティアにとって喜ばしいことだったが、ここにいればいずれ荒みきってしまうかもしれない。そうなればヘカーティアの思惑がどうあれ、ケテルの力を奪わないわけにはいかないだろう。

 ヘカーティアは三界の地獄を統べる女神である。私情に駆られて他のことを疎かにしたり、蔑ろにすることはできない。だがそれは本当に最後の手段としたかった。

「ケテルが乱暴をしないなら、妖精たちも仲間外れになんてしないわよ。みんなと仲良く遊んでくれたらわたしもきっと嬉しい気持ちになるわ」

 だからなんとか説得しようとしたが、ケテルの心が動かされることはなく、教訓を受け止めようという気概も感じられない。

 そして次の瞬間には外に追い出されていた。妖精の住処は招かれざる者を弾き出し、惑わす力を秘めている場合がある。ヘカーティアほどの神格なら妖精の惑わしを受けることはないし、ケテルの意志に反して居座り続けることもできたのだが、ここは黙って引き下がることにした。

 彼女を恐怖や畏怖で縛りつけたくなかったからだ。

 

 ヘカーティアの住居は冥府の奥底とは思えないほど生命に溢れ、広大な庭には様々な植物が育ち、豊かに花を開かせている。この環境はかつて冥府の管理者となる契約を結んだとき、ヘカーティアが冥府の女王に求めた条件の一つであった。

『この世界に数多満ちる死を管理させるのだから、これくらいの特権を認めてもらえても良いと思うのだけど』

 冥府の女王はヘカーティアの出したこの条件を最後まではねつけようとした。他の条件は認めても、冥府に生が根ざすことだけは許されないという言い分だった。それはもっともなことだが、ヘカーティアはまた別の意見を持っていた。

 生と死は最も近いところにある。ならば死を管理するこの地にはまた豊穣たる生が根ざしていなければならないのではないか。これは冥府の女王に語った理由の一つに過ぎないが、最終的に彼女の心を動かしたのはその一言だった。

 果たしてこの冥府における死は多彩となり、死を続けることに膿んだかつての英雄たちが一時の生を求めてやってくるようにもなった。十二の試練を乗り越えた英雄、唯一の弱点を突かれて身を滅ぼした英雄など、彼らは時折ふらりと現れては一時の生を謳歌し、そして再び死んでいく。

 彼らが語る英雄譚をヘカーティアは既に何度も何十度も聞いたことがあるけれど、もう聞き飽きたと退けることはなかった。死した彼らが新たな英雄の物語を生み出すことはもうないからだ。大英雄の十三番目の試練はかつて、有象無象の作家がこぞって記そうとしたが、それらは全て単なる二次創作に過ぎず、実際の活躍ではない。

 原典は常に有限で、それゆえに残酷である。

 その残酷さを少しでも和らげ、癒すのもヘカーティアの役割の一つである。

 だがどれほど壮大な物語でも、流石に何千年もの昔からずっと聞かされ続ければ驚きも枯れ果ててしまう。ヘカーティアは英雄たちの危機にはらはらする振りをし、危難を乗り越えたことに喜ぶ振りをする。

 仕事とはいえ心根を偽らなければならないというのは、少しばかり心が痛む。彼らもヘカーティアに心労を強いているとは気付いているが、それでも彼らは英雄だから物語を口にせずにはいられない。

 その日もヘカーティアは一つの英雄譚にほぼ一日を費やし、その還りを見送り終えた時には思わず大きく息をついてしまった。

「今日はいつにも増してご心労の様子ですが、大丈夫ですか?」

 ヘカーティアは挨拶もなしにするりと間合いに入ってきた不埒者にちらりと視線を向ける。彼女は冥府の渡し守の元締めであるカロンの下で働いていたという経歴があり、ヘカーティアは彼女をカロンから引き取って宮殿の中でメイドとして働かせている。蓮っ葉な彼女にメイド服はあまり似合わないのだがメイドにそれ以外の服を着せるわけにもいかず、見て見ぬふりをしているのだった。

「では心の安らぐようなお茶を淹れて頂戴」ヘカーティアは声のする方を向かず、素っ気なく命じる。「あとパンケーキを山のように焼いて持ってくるの。今日は甘いものをたらふく食べて、甘い飲み物で流し込んで、とことん自分を甘やかすのよ」

「承知しました。ふわふわのパンケーキにたっぷりのバター、極上のハチミツ……ああ、想像するだけでも涎が出てきそう」

「念入りの味見も忘れないでね」

「もちろんですとも!」

 彼女は元気よく返事をすると次の瞬間にはヘカーティアの視界から姿を消していた。メイドになったのだから渡し守の能力をほいほい使うのはあまり感心できないとカロンなら言ったかもしれないが、ヘカーティアはさして気にしていない。

 ヘカーティアが彼女をメイドの一人として採用したのは、堅苦しく規則一番のカロンとあまりにもそりが合わず、そのことで相談を受けたのがきっかけだった。礼儀も何もあったものではなく、カロンがいくらがみがみ言っても右から左に流してしまい、一向に改善されないときた。そしてヘカーティアがその人となりを見定めた結果、カロンを説得してヘカーティアの宮殿付きとしたのだ。彼女は優秀な渡し守であり、カロンも才能を認めていたからヘカーティアに相談したのだが、これはどうやっても矯正される性格ではなく、いずれカロンは彼女を規律のために酷く罰することになるだろうとヘカーティアはすぐに確信した。そしてカロンは堅苦しい奴だが、そのことが分からないほど愚かではなかった。

 ヘカーティアは人材の見定めが神格と実に不釣り合いだった。悪く言えば適当でちゃらんぽらんなのだが、そのためにヘカーティアの宮殿は他の職場からドロップアウトした者たちが集まる職場となってしまっていた。苦言を呈されたこともあるが、それで困ったことは一度もないから現在の方針を変えるつもりは今のところなかった。

 メイドは三十分ほどで言われた通りのものを用意して戻ってきた。口の端に少しだけハチミツが付いていたのは見なかったことにして礼を言い、彼女を遠ざけて自室にこもる。そうしてぱくぱくもぐもぐと、ふわふわのパンケーキをもりもり平らげていく。特に急いで食べているわけではなかったが、山盛りのパンケーキは十分とせず胃袋に収まってしまった。喉の奥から出かけていた英雄への文句は美味しい食べ物とともに胃の中へ流れていき、あとには幸福な気持ちだけが残った。

 心機一転、ヘカーティアは大きなディスプレイが二つ並んだ机に向かい、情報端末を立ち上げて危急の用事がないかどうかだけ確認する。これは最近になってヘカーティアが冥府に導入した新しい仕組みの一つである。

 この百年で人間は爆発的に増え、処理するべき生と死は冥府の処理限界を平気で飛び越えてくる。世界各地に点在する地獄もまた同様であり、ゆえに生死を管理する役職には徹底した効率化が求められる。

 冥府には古来より魔力で構築された巨大な演算装置があり、それは地獄炉と呼ばれるエネルギーの供給装置によって稼働していたのだが、人間はそれを旅行鞄程度の大きさにまで縮めてしまっただけでなく、情報を瞬時に獲得できる広大なネットワークまで構築してしまった。

 ヘカーティアはそのことにいたく感心し、冥府にも同様の連絡網を整備したのだ。女王はいたずらに世を忙しくするだけだと酷く愚痴を零したが、ヘカ―ティアは冥府の管理においてはある程度の独立した裁量を行使することが可能である。

 かくして冥府は情報化され、外界の情報ネットワークとも接続することで紛争や戦争の兆候を素早く把握できるようになった。担当地域の地獄に前もって連絡することも可能となるし、情報も瞬時にやり取りできるし、便利なことこの上ない。

 ただし弊害も生まれてしまった。人間の構築するシステムは限られた寿命の中でいかに成果を出すかという、いわば効率信仰に裏打ちされている。これは女王も危惧していたことだが、ヘカーティアはこれまで以上の些事に追われる羽目となった。気楽に連絡できる状況では至急や早目という言葉が軽く使われるようになる。これまで数日かかっても文句の出なかった返答が、数時間遅れるだけで苦情が出るようにもなった。

 便利なシステムは万事を凝縮する。それは必ずしも幸福を伴わない。とはいえ人が増えすぎた現代において冥府連絡網は必須であり、仕事がきつくなったことを理由に撤去することはできない。ありきたりなことわざだが、零れたミルクをすくい直すことはできないのだ。

 幸いにして今夜は緊急の連絡が何もなく、世界は比較的平和であった。ヘカーティアは連絡用ソフトを終了し、趣味の一つである気ままなネット徘徊を開始する。政治や世情といった堅苦しいものから離れ、俗っぽい娯楽や情報に身を浸すのである。

 神がネットコンテンツだなんてと言われるかもしれないが、半ば無限の時間を有すれば潰すべき暇はいくらでも生まれてくる。人間が今よりもずっと少なく、娯楽も限られていた時代は退屈を殺すのにも一苦労であり、そして退屈を持て余した神ほど性質の悪いものはいない。戯れに人心を弄ぶなどという悪行に手を染めた神もおり、ヘカーティアもそのような手合いに一人ならず手痛い罰を与えたことがある。現代は血腥い行為に手を染めなくてもいくらでも読む本があり、聴く音楽があり、映像作品がある。大量死の時代ではあるが、神が決して退屈しない時代でもあるのだ。

 数多のサイトの中でヘカーティアが好んで通うのは、古今東西の神々や力のある妖どもが集まる交流サイトの一つである。いまやネットに接続するのは冥府だけではない。人が構築したネットワークと薄皮一枚を挟んだ裏側に通常のプロトコルではアクセスできないネットワークが存在し、様々な異世界を繋いでいるのだ。

 とはいえやることは人間とそんなに変わらない。最強の神は、妖は誰だという議論で盛り上がったり、実は歴史上のあの事件に一枚噛んでいたのだというカミングアウトが行われたり、語られる話題のスケールが人間の交流サイトに比べて若干大きいだけだったりする。迂闊な書き込みで炎上が発生したりするのも同様だ。神も妖もネットを使用している期間は人間とほぼ変わらず、ネット慣れしていない神もいるわけだ。

 ヘカーティアはそうした話題にあまり興味がない。好きなのは衆生がこんなこと聞いてくるんだけど、どう答えたら良いのという悩みが投稿されているコーナーである。古来よりありとあらゆる判例を嗜んでいるヘカーティアだが、ここ百年で人間の社会は一気に複雑化し、これまでの時代には出てこなかった悩みが頻出している。長年に渡って人の世を修めてきたという自負がある神々ほど悩まされるのがこの二十一世紀という時代なのである。

 だが冥府を管理し、あらゆる地獄の相談に乗っているヘカーティアにとってここはおもちゃ箱のようなものだ。その日も風変わりな悩みを見つけてはどう対応したら良いかを考え、アドバイスを送るという楽しみを享受していたのだが、ふと奇妙な題名を見つけてしまった。

『黄天已死』

 黄色い太陽は既に死んだ、とでも訳せば良いのだろうか。何かの符丁かと思い、ネットで調べてみたところ一番上に出てきたのは『蒼天已死』という四文字であった。二千年近くも前に古代中国で起きた時の王朝に対する大規模叛乱で掲げられたものであるらしい。

 黄天當立 歳在甲子 天下大吉と続き、その意味は『当時の王朝は既に終焉を迎えつつあり、変わって立つのが我々である。皆も我々の元に集え』というものである。

 書き損じなのか、何やら物騒な計画でも企んでいるのか。いつもならばこの手合いは無視するのだが無性に気になり、何らかのトラップが仕掛けられていることを警戒しながらリンクをクリックする。そして次のページには別の四文字が記されていた。

『蒼月次死』

 そこから何行か改行されたのち、捨てアカウントらしいメールアドレスが素っ気なく添えられていた。ヘカーティアはそれを手早くコピーしたのち、大きく深呼吸をする。月の民やその斥候が目にする可能性もあるというのに随分と危険なことをするものだと思った。

 太陽は死んだ、次に月が死ぬ。これは太陽を殺された報復として月を害するという宣言だ。他の誰にも分からないかもしれないが、ヘカーティアにはそのことがはっきりと分かった。

 そして分かってしまったからにはもはや無視できなかった。

 ヘカーティアはメモしたアドレスを宛先にセットし、メッセージを発信する。誰がこのメッセージを残したかについては推測の域を出なかったが、おそらく間違ってはいないと思った。月に復讐を続ける神霊はその蛮勇から一部の界隈においてはとても有名な存在なのだ。

『あなたの九つの子の、無念についてお話したいわ』

 返信はものの数分もしないうちに送られてきた。

『我が意をかくも汲み取っていただき、感謝の念に堪えません。この身を焦がすほどの無念について、是非とも一度お会いして、存分に語らいたく』

 この返答がヘカーティアに最後の決意を与えた。

 ずっと先延ばしにしてきた案件、すなわち月の裏側に挑む時がとうとうやってきたのだ。

 

 

  3

 

 

 あまりに退屈で逆に何もする気が起きないほど、それはもう徹底的に退屈だった。

 草の絨毯の上に寝転がり、目を瞑ってみるがいつまで経っても眠くならない。どうやら眠ることにすら飽きてしまったようだ。

 一人遊びもやり尽くしたし、絵本も全部読んでしまった。文字のついた本は読む気がしない。ご主人様がいれば読み聞かせてくれるけど、最近はよくどこかに出かけており、戻ってきてもいつも忙しくしていて、ちっともわたしに構ってくれない。

 かといって同じ妖精と遊ぶ気にもなれない。あいつらみーんな弱っちいし、ゲームだとわたしを除け者にしてずるばっかりする。あんな奴ら、わたしから願い下げだ。

「あーもう、退屈だなあ。何か面白いことが空から降ってこないかなあ」

「それはちょっと困るかなあ」そう言ってわたしの顔を覗きこんだのはご主人様に仕えるメイドの一人だった。黒いワンピースの上から白いエプロンを着ていて動きにくそうだが、彼女曰くこれはメイドの正装であり崩すことはできないらしい。「空から降ってくる面白いことはお騒がせなものだと相場が決まっているもの。きっとあらゆるものがとっ散らかるに違いない。お掃除が随分と大変になってしまうわ」

「わたし、別にお掃除なんてしなくて良いもんね」

「ははは、確かにそうね。妖精は元気に遊ぶのが仕事のようなものだもの」

「それでね、いま、とっても退屈してるの。遊び相手になってくれない?」

 彼女はご主人様の宮殿で働く従者の中で唯一わたしの遊び相手になってくれる。あそこでは姿も形も能力も微妙に異なる沢山の従者が働いているけれど、大体のやつは仕事があるからと言って遊びに付き合ってくれないのだ。

 彼女は沢山の遊びを知っているし、いつも楽しそうだし、よくお菓子もくれる。ご主人様の次に好きな奴だし、わざわざここに来てくれたのはわたしが退屈していることを知っているからだと思ったのだ。

「ごめん、今日はこれから忙しいんだ。ご主人様が戻ってくると連絡があったからね」

 遊んでくれないのは残念だったが、ご主人様が戻ってくるのは良い知らせだった。また忙しくて構ってもらえないかもしれないが、いてくれるだけでも少しは退屈な気分が紛れる。

「じゃあ仕方がないかな。わたし、なんとか退屈を殺すように頑張ってみる」

「それならちょうど良い相手があそこにいるんじゃない?」

 メイドはここから少し離れた所に生えている大きな木を指差す。体を起こし、指差した方向を見ると妖精が何人かでこちらを覗いていた。上手く隠れているつもりかもしれないが、背中に生えている羽根が思いきりはみだしていて馬鹿みたいだった。

「妖精ってみんな弱いんだもの。遊んだってつまらない」

「妖精の友達は誰もいないって言ってたけど、ああやって近付いてくるってことは、向こうも仲良くなりたいのよ。あとはケテル次第だと思うのだけど」

「言ったでしょ? あんな弱っちいの頼まれたって願い下げなの!」

 分からない奴だなあと思いながらそう繰り返すと、わたしは木陰に隠れる妖精を睨みつける。いっそのこと酷い目に遭わせようとも思ったけど、妖精はわたしが見ていることに気付くとすぐに慌てて逃げ出してしまった。

「ほうら見なさい、あいつらみんなわたしが嫌いなの。きっとわたしのこと、一人ぼっちの寂しんぼだって馬鹿にしに来たに違いない。今度会ったらみんな酷い目に遭わせてやる」

 弱い者いじめは面白くないけど、少しは退屈も紛れる。わたしは拳をぎゅっと握り、殴る真似をする。メイドはそんなわたしのことを、元気が良いなと褒めてくれるはずだった。

 でもそうじゃなかった。メイドはこれまでわたしに見せたことのない顔を向ける。ご主人様でさえほとんど見せない、わたしに対する怒りの表明だった。

「自惚れるんじゃない。ケテルを相手にしている時、わたしがどれだけ手加減していると思っているの?」

 わたしは思わずメイドから距離を取っていた。じっとしていたら痛い目に遭わされると思ったのだ。でも次の瞬間には地面にすとんと転んでいた。素早く踏み込んできたメイドに足を払われ、バランスを崩してしまったからだ。もう一度立ち上がろうとしたけど結果は同じで、足を払われて地面に転がされる。三度目は何とか逃れることができたから勢いでつかみかかったら、今度はあっという間に投げ飛ばされてしまった。わたしは慌てて羽ばたき、空を飛んでバランスを整えてから地面に着地しようとしたのだが、メイドは目の前まで一気に近付いてきて、お腹にどすんと重たい一撃を食らわした。

 激しい衝撃が走り、わたしは思いきり吹き飛ばされた。地面をごろごろと転がり、その度に体を擦り、打ちつけて傷が増えていく。

 体中がひりひりするし、胃の辺りがずきずきして立ち上がれなかった。それなのに足音は少しずつ近づいてくる。きっとわたしを沢山殴って転がして、ぼろぼろにするつもりだ。

 わたしは亀のようにうずくまった。そんなことをしても無駄なのに、それしかできなかった。

 弱いからだ。弱いから強いやつに殴られても何もできない。

「わたし、もう行くから。最初に言ったでしょ? ご主人様が帰ってくるから忙しいのよ」

 メイドはそれだけ言い残して去って行く。わたしはおそるおそる立ち上がり、声を出そうとした。この気持ちを伝えたかった。でも何も口にできなくて、震えるばかりで、怖くて、惨めで。

 メイドはふと足を止め、こちらを振り返る。

 駄目な奴だ、てんで弱くて相手にならない。そんな表情を浮かべていたならまだ良かった。でもメイドは悲しそうで、ちょっと泣きたそうに見えた。わたしよりずっと強くて傷一つ付いていないのに、まるでわたしがメイドのことを酷く傷つけたようだった。

 そしてそんなメイドにわたしは声をかけられなかった。その姿が見えなくなっても、ずっと立ち尽くすしかなかった。

 ぼろぼろと涙が零れ始める。辛くて、悲しくて、堪えられなくて、わあわあと声をあげて泣いた。ご主人様に叱られた時だってこんなには泣かなかった。

 痛いからじゃない。痛いのにも辛いのにも、わたしはとうの昔に慣れている。ここでの暮らしは痛みも辛さもなくて、だから忘れかけていたけれど、わたしはこんな傷なんてものともしないほどの酷い場所で生まれ、苦しみ続けてきた。

 それなのにどうして涙が止まらないんだろうか。

 わたしは何も分からないまま、ひたすらに泣いた。こちらに近づいて来る奴らに気付かなければ、もうしばらくは止まらなかったかもしれない。

 ずっと木陰に隠れていて、睨みつけたら逃げ出した妖精たちがわたしの周りに集まっていた。きっとわたしのことを笑いにきたのだと思った。いつも偉そうにしているわたしがボロボロにされて、泣くのをやめられなくて、ざまあみろと思っているに違いない。

 でも、ぼやけた視界で歪んだ姿であっても妖精たちがわたしを馬鹿にしていないことはすぐに分かった。そのうちの一人はわたしにおそるおそるハンカチを差し出し、わたしが反応するのをじっと待っていた。

 いらないと叫びたかった! どっかへ言っちゃえ! とも。手にしたハンカチをはたき落としてやりたくてたまらなかった。それなのに涙は止まらないし、体はろくに動かないし、火のように燃える心が徐々に冷めていく。

 気付けばハンカチを受け取っていた。涙を拭くと少しだけ花や植物の匂いがするのは彼女の匂いが移ったのだろう。わたしは灰のような臭いしかしないから少し羨ましかった。

 いつのまにか全身の痛みやメイドにやられたこととは全く関係ないことを考えていた。涙も悲しみもいつのまにか枯れていて、鼻が少しだけむずむずしたので思わずちーんと洟をかんでしまった。そしてすぐに後悔した。ハンカチを差し出してくれた妖精が嫌な顔をしたからだ。

「ごめん、ついやっちゃった。その、ちゃんと洗って返すから許してもらえないかな?」

 言ってみてすぐ、許してくれるはずないのにと思った。わたしはいつも妖精たちが泣いて逃げ出すまで酷い目に遭わせていたからだ。でもハンカチを渡してくれた妖精はぱっと花のような笑みを浮かべ、何度も頷いた。そんなことは当たり前と言いたげだった。

 すると後ろに控えていた妖精たちの一人がずいと前に出て、きつい目つきでわたしを睨みつけてきた。

「あたいはあんたがやったこと全部、許したわけじゃないのよ。でも、ご主人様が言ったの。乱暴するのは悪いことだからきっちり叱ってあげるけど、あなたたちのあの子を仲間外れにするやり方もちょっと酷いって。確かにあたいもみんなと一緒に遊べなくてあっち行け、ずっと一人でいろなんて言われたら悲しいわよ。でも殴られたり蹴られたりするのはとても嫌なの。傷はすぐに治るし、死んでも一回休みになるだけで済むけど……」

 わたしにはその気持ちがよく分かっていなかった。でも妖精たちはいつだって辛くて、それでもわたしが強いから何も言えずにいたのだ。メイドに痛めつけられて何も返せなかった今のわたしにはそのことがよく分かる。でも喉が詰まったようでうまく伝えられない。

「でもわたし、ハンカチは洗って返してくれたら許すよ」

 言葉が上手く出てこないわたしを見て、ハンカチを渡してくれた妖精がそう言ってくれた。

「妖精って忘れっぽいのよ。ケテルがこれから誰かを虐めたり、酷い目に合わせたりしなければきっとみんなすぐに忘れると思うの」

 とてもありがたい言葉だったし、すぐにでも乗っかりたかった。でもわたしははいともいいえとも返事ができなかった。

「今のままではきちんと答えられないと思う。もう少しだけ待ってくれないかな?」

 目つきの悪い妖精は露骨に怒りを表明したが、ハンカチを渡してくれた妖精は嬉しそうに手を伸ばしてわたしの手をぎゅっと握り、すぐに慌てて離してしまった。仲直りしようと迫ってきたは良いが、まだ強い警戒心を抱いているらしい。それはわたしにとって悲しいことだった。妖精なんて誰も彼も弱っちくて、気にする必要なんて一つもないと思っていたのに。

「ハンカチはきっと洗って返すから。約束する!」

 そう言うと目つきが悪いやつの顔も少しだけきつくなくなった、ような気がした。とはいえ完全に許してくれたわけではないのだと、その表情や去って行く際、何度もこっちを不審げに振り返ったことからよく分かった。

 

 

  4

 

 

 ご主人様が戻ってきたのはメイドにきつく叱られてから三日後のことだった。それからも溜まっていた仕事を済ませたりでずっと忙しく、わたしがご主人様と話をできるようになったのは、翌日の夜のことだった。

 いつものわたしなら部屋に入ってすぐご主人様に近付いていくのだが、今日はそれができなかった。先客がいて接客用のソファにちょこんと腰掛けていたからだ。ごてごてした服を着て、顔つきは不機嫌そうで、妙な気配を全身から漂わせていて、仕事に真剣な時のご主人様みたいだった。ではご主人様も怖そうかというとそうではなく、黒地のシャツに短パンという仕事でない時の格好をしていたし、その顔はとても上機嫌そうだった。

「あら、今日は随分としおらしいのね」

 メイドから話が伝わっているかもしれないと思ったが、ご主人様のわたしを見る表情と態度に変わりはない。もしかしたらメイドはわたしのした悪さのことを誰にも話さず黙っていてくれたのかもしれない。

 だったらいつも通りに振る舞うしかなさそうだった。

 するとわたしの心は自然と、ここにやってきたお客様らしき人物に移る。

「もしかして、人見知りでもしているのかしら?」

「別にそういうわけじゃないけど、でも誰なのかは興味があります」

 ご主人様がわざわざ連れてくるお客様なら英雄である可能性がある。わたしは英雄の話がとても好きだった。襲いかかる試練、命の危機、そしてライバルとの対決はどれも心をわくわくさせてくれるからだ。

「この人もきっと昔話に出てくる英雄なのよね?」

 ご主人様は答えにくそうにお客様をちらと見る。もしかしたら良くないことを聞いたのではないかと思ったが、お客様はわたしに目を向け、ふふと柔らかな笑みを零すのだった。

「可愛らしくて生命力に溢れた子だわ。もしかしてあなたの娘なの?」

 初めて発した声はご主人様より少し低く、初対面ながらも親しみがこもっていた。堅い表情のままずっと黙っていたから怖い人なのかと思ったが、そういうわけではないらしい。

「そうだったら良いのだけど、わたしは人間ではないから。己と全く異なるものを生み出すことはできないのよ」

「なるほど、生粋の神とはそういうものだったわね」

 お客様はソファから立ち上がるとわたしの前までやって来てゆっくりと屈み、目線を合わせてくる。ご主人様も初めての時、わたしと同じように接してくれた。だからこのお客様も良い人なのかもしれない。

 ここでようやく、初対面の人には名前を名乗らなければならないことに気付いた。

「わたし、ケテルと言うの。ここに住んでいる妖精の一人で、昔は別の場所にいたんだけどご主人様にここへ連れてきてもらったのよ。だから今はここの妖精で……」

 わたしは慌ててまくし立て、口を手で塞ぐ。自分のことばかり話し過ぎても駄目だとご主人様に言われたことを思い出したからだ。

「ケテルというのは王冠のことかしら。生命の樹のてっぺん、つまりヘカテはあなたを生命の女王と考えているのね」

「えっと……ごめん、どういう意味か分からないのだけど」

 生命の樹がどうのこうのと言われても、何も知らないわたしは困るしかない。でもお客様は上機嫌そうに笑ったから、何か面白いことがあったのだろう。ご主人様もよくわたしに理解できないことを面白がるから、二人は似た者同士なのかもしれない。

「素敵な名前だと言いたかったの。妖精には些か重たくて不似合いにも思えるけど」

「ぶうぶう、まるでわたしに名付けのセンスがないと言ってるみたいじゃない」

 お客様はご主人様の不満を鼻で笑い、それから自分のことを指で差すのだった。

「折角名乗ってくれて申し訳ないけど、わたしには名前がないの。今は仮に純狐と名乗ってはいるけれど、これも急拵えの仮名、つまりハンドルのようなもの。かつては沢山の名前があったのだけど、一つを除いて全てがわたしから零れ落ちてしまった」

「わたしは純狐という名前、悪くないと思うわよ。シンプルかつ体を表している」

「シンプルすぎて安直だわ。鍛冶屋の苗字にスミスと名付けるようなもの。ヘカーティア・ラピスラズリなんて豪勢な名前を持っている人には分からないと思うけど」

「そうね、確かに分からない。わたしは生まれた時からこの名前だったし、そうでなかったことなど一度もないのだから名無しの気持ちを完全に理解することはできないのでしょう」

「えっと……それで結局、どう呼べば良いのかしら?」

 二人で勝手に話が進み、さっぱりついていけなかった。勉強は好きじゃないけど、こういう時はきちんと勉強しておけば良かったなあと少しだけ思う。

「純狐で良いのよ。別の名前が良いなら勝手に呼んでくれても良いけど」

「なら、これからは純狐さんって呼ぶね。それで良いかな?」

「ええ、もちろんよ」

 純狐さんは少しだけ寂しそうだった。純狐で良いとは言ってくれたけれど、本当はもっと別の名前を付けてもらいたかったのかもしれない。

「彼女は昨日からここに滞在しているの。この通りの性格だから妖精が起こす粗相なんて気にしないと思うし、異邦の地でわたし以外の知り合いはいない。ケテルが仲良くしてくれると、わたしとしては助かるのだけど」

 別に反対する理由はなかった。純狐さんはわたしを虐めたりしないし、それにこの宮殿に招かれるということはきっと英雄だから、面白い話を聞くことができるだろう。

「そうね、わたしもケテルとは仲良くしたいわ。だってとても可愛いんだもの」

 純狐さんの手がわたしの頭をそっと撫でる。とてもひんやりとしているが手慣れており、ご主人様が撫でてくれるのと同じくらいに気持ちが良かった。きっとこれまでにもわたしのような妖精や小さき者に手を差し伸べてきたに違いなかった。

「そう、子供は可愛いもの。か弱いもの。大事にしなければならないもの」

 最初のうちは心地良かった。でもすぐに辛くなってきた。頭を撫でる手の力が徐々に強くなり、汚いものを擦り付けるようになってきたからだ。

「弓で射られてはならないもの。ええ、子供は決して弓で射られてはいけない。そのためにわたし、頑張って月を落とすから」

「純狐、やめなさい! その子はあなたの九つの子の一人ではないのよ!」

 ご主人様の怒りに似た声が響く。純狐さんは慌ててわたしの頭から手を離し、怖いものでも見たかのようにわたしから距離を置く。

「ケテル、来てくれてすぐで申し訳ないけど、今日は少し日が悪いみたい。明日、同じくらいの時間に来てくれないかしら?」

 本当はご主人様とすぐに話がしたかった。メイドのこと、妖精たちとのこと、どちらもわたしの心を悩ませていて、少しでも早く解決したかったのだ。でもご主人様はこれまでに一度も見たことのない、苦しそうな表情をしていた。それなのにわたしの無理を押しつけるのは良くない気がした。

 それにわたしは純狐さんが怖かった。

 わたしの頭を撫でてくれたとき、最初は優しかったのに少しずつ変になっていった。わたしを見つめるあの目には喜びとも怒りとも、悲しみとも苦しみとも異なる、わたしの全く知らない気持ちがこもっていて、ご主人様が止めてくれなければ酷いことになっていたかもしれない。

 わたしは純狐さんを避け、慌ててご主人様の部屋を後にする。純狐さんはわたしを見て悲しそうな顔をしたけれど、振り向くことも立ち止まることもしなかった。

 自分の家に戻り、布団を被ってからようやく後悔が湧いてくる。純狐さんはさっきのことを謝りたかったのかもしれないし、もっと話をしたかったのかもしれない。でもまた同じことをされたら今度こそ耐えられる気がしなかった。

 それに純狐さんだけでなく、あの人を連れてきたご主人様も少しだけ怖かった。わたしを酷い目に遭わせたメイドも怖いし、怖いのにわたしに近付いてきて仲間に入れてくれようとする妖精たちも怖い。

「わたし、怖いものばかりだ……」

 それが嫌で嫌でたまらなかった。どうしたら怖くなくなるのか知りたかった。でもわたしの頭ではいくら考えても良い考えは浮かばなかった。