第一幕 人は喜びと悲しみとで作られ……

Life Was Made By Slaps And Tragedy

人生の中で、重大な言葉で表わされていること……恋愛……性……生命……死……憎悪……これらのことだけで人生が支配されているわけではない。もっと多くのくだらない小さいことで支配されている。耐え忍ばなければならないこと、自分の身にそれが起きて来るまでは考えもしなかったこと。

二月一日 月曜日

第一場 公園

 私は不意に強い予感を覚えた。それは確信に近い予感。その衝動が雪の煌く夜道を走らせていた。紅色の薄いカーディガンを羽織り、父や母が制止するのも聞かず全速力で家を飛び出していた。肌を切るような寒さに気付いたのは、しばらくしてからのことだ。不定期に漏れる白い吐息を大気に拡散させながら、ただ一点に向けて進む。公園、あの子が……栞が好きな場所。私は、そこに栞がいることを半ば確信していた。栞の調子が良い時に、二人でよく遊んだ場所だ。そして、栞にとっては眩しい思いの場所。最後まで生きる強さを与えられ、また初めての恋を知った場所。

 今まで栞にとって、恋とはいつも流れるようなドラマのそれだった。そこに、甘美を超える辛酸があるとは知らず、窓に映る鏡像を見つめながら、来る筈の無い理想の男性をそこに求めていた。その目は直視するのが辛いほどの純粋さで満ちていた。余りに純粋なものは、自らの不純さを映すが故に直視し難い。特に病気のことで栞を欺き出してからは……。連続ドラマのラブ・ストーリィの内容を嬉々として語る栞に相槌を打ちながら、この子はこれほど恋に憧れ、しかし恋を知らないままに死んでいくのだろうか……と暗い考えが脳裏に浮かぶ。それは私の心を自然と憂鬱にさせたが、ただ微笑んで栞にもそんな恋が巡って来れば良いねと気休めを語ることしかできなかった。吐き気がする程の偽善的な言葉だったことなど当に自覚している。同時に、私は本当に素晴らしい、後悔することのない恋が栞に巡ってきますようにと何かに祈った。しかし、私は特定の宗教を辛抱している訳ではない。強いて言えば……月に祈っただろうか。あの日見た眩しい月ならもしかして、と思ったから。

 その思いが通じたのかは分からない。結局、それは私の意思と全く関係のないところで生まれた感情だったのだから。栞は色々なことを話してくれた。存在すら否定し、今こうして接しているのも、もしかしたら完全なエゴと自己満足だけなのかもしれないのに。栞はそんなことなかったかのように、屈託なく話してくれた。

――えっ、どうして祐一さんを好きになったのかって?

――うーん……よく分からないけど。

――初めて会った時は羽根の生えた女の子と一緒だったんだよ。

――天使じゃないですから、念のために言うと……。

――とても、王子様って感じじゃなかったよ。

 その言葉に、私は思わず苦笑を漏らした。確かに相沢祐一は、王子様という性質から最もかけ離れた人間だろう。奇妙な科白と行動を連発し、自他共に認めるマイペースの名雪さえ自らの世界に引きずり込んでしまう程の独特な精神世界を持っている。表層だけ見るとぶっきらぼうで無気力な典型的現代男子高校生に見える。だが、その奥には人の心を開かせるような何かが存在している。少しお節介で、少し優しくて、少し厳しくて……私も以前、彼の前で感情を吐き出したことがある。栞のこと、そして弱過ぎる心のこと。後から考えれば非常に恥ずかしかったが、何故か不快ではなかった。そして、心の痞えが僅かに取れたような気がした。私がもう一度現実と妹を、例えそれが空虚な仮初めであったとしても……真正面から受けとめる力を得ることができたのは、多分、彼のお蔭だ。ファースト・インプレッションではとても感じ得ぬことだったが、今では栞が相沢君を好きになった理由も分かるような気がする。栞の言葉が脳裏に浮かんだ。

――でも、会っていく度にそれが楽しくなって……。

――いつしか、姿を見るだけで胸がどきどきして……。

――この感情が何か必死に考えたの。

――私、馬鹿だから、沢山考えて……。

――頭が沸騰してしまうくらい、一杯考えて……。

――でも、分からなくて、もどかしくて……。

――それが恋だって分かったのは、夜に噴水の前で会った時。

――でも、その時は断ったんだよ。だって……、

――私はもうすぐいなくなるから、だから……。

――好きな人を悲しませるなんて、してはいけないと思ったから。

――好きな人のために身を引く、これもドラマみたいだよね。

 その思い付きが可笑しかったのだろう。栞は口元に手を当てて、くすくすと笑ってみせた。けど、冗談にならないが故にその明るい態度は私を恐がらせた。死を目前として、何故、栞はここまで明るく振る舞えるのだろう。その強さに、私は畏怖にも近い感情を持っていた。もうすぐ死ぬと宣告されたにも関わらず、それでも笑顔を絶やさない栞が……恐かった。嘘を付き続けた私を、その態度で以って責めているように思えたから。栞にそんな気が微塵もないことは分かっている。私の弱い心が、そんな幻影を見せるだけ。いつでも栞は強くて……そして私は弱い。あの時も、屈託なく冗談を言ってみせた栞を見るのが辛かった。逃げ出したかった。けど、次にそれをやれば絶対に後悔するだろう。それだけは嫌だった。だから、私は精一杯の努力で笑い返す。仮面の笑顔ではなく、残された人生を少しでも幸福にするため、心からの笑顔で。

 結晶の濃度が、僅かに強まった。明滅する蛍光灯の淡い光に混じり、噴水を煌と照らす光が見える。厳寒の中、凍り付くことなく形作られる水の糸。公園を囲むように生える木々に遮られて全貌は見えないが、そこに重なるような二つの影がある。遠目から、チョコレート・クッキー柄の布地が見えた。それが誰のものか分かってしまったから……私は最後の力を振り絞って駆ける。粉雪が魔術のように、体に纏わり付いた。私は両腕でぐっと服を内側に寄せる。

 時計を見る。デジタル・ウオッチの角張った数字は、午前零時過ぎを示していた。お願い間に合って……そう祈りながら駆ける。私の思いが杞憂であることを、確かめるために。愚かな行為が過ちであることを証明するために。そして、元気に佇む栞に私は優しく声をかけるのだ。言いたいことは沢山あった。夜中になっても帰って来なかったのだから、まず怒ったふりをしてみよう。栞は上目使いでこちらを見て、相沢君が慌てて謝る……私は冗談よと口元を僅かに歪ませながら答えるのだ。二人の狼狽する姿は、きっと見ていて楽しかっただろう。楽しかった? 何故、私の思考を突くのは過去形なの? 胸を占める予感のせい? 栞はやはり……、いえ、そんなことは……。

 水の爆ぜる音が公園を包んでいた。圧倒的な音と色に全ては掻き消され、真珠色の光が辺りを包み込む。私はその中央に坐する二人の姿を見て、立ち尽くすことしかできなかった。満点の空、静寂の星、無垢なる雪。翻る噴水の煌きは、辺りに透明な神々しさを浮かべていた。そこには神だけが、いない……。もし、今この場に神がいて、眺めているのだとしたら、こんなに冷厳で残酷な情景を、決して許しはしないだろう。

 栞はまっさらな雪に囲まれ、その体を横たわらせていた。肌は木目細かい陶磁器のように白く病的だ。その細く柔い左手を、相沢君はずっと握り締めていた。頭に雪を積もらせながら、微動だにしない。それはまるで絵画から抜け出したかのような、凛として時のない光景。世界の全てが時を刻む動きを見せているにも関わらず、美麗な彫刻のようにして二人はそこにいる。余りに現実離れした光景に、目を逸らすことも、そして動き一つすることすらできなかった。私が動くことで、奇跡を切り出したような一瞬が失われてしまうように思えたから。そんな私を叱咤するように風が頬をなぞり、雪が顔を叩いた。刃物のような木枯らしに、私は微かだけ現実感を取り戻す。時間が止まっているのではない、制止しているのは二人の動きだ。ごく当たり前の事実も、今までの私には全く分からなかった。

 躊躇しながら、私は二人の方へゆっくりと歩み寄っていった。そして相沢君の肩に触れる。それは絵画でも彫刻でもなく、同じ時を刻む一人の人間だった。そのことに安堵すると同時に、私は全ての幻想的な気分を脳裏に追い払う。「相沢君」私はゆっくりと彼に声をかけた。だが、彼は栞の左手を握り締めたまま虚ろな視線を這わせている。その瞳は……何も見ていない。目の前の最愛なる少女さえ、今の相沢君には見えていない。私はもう一度彼の名前を呼んだが、やはり極小の反応も返って来ない。

「相沢君!」今度は肩を強く揺さぶりながら、耳元で大声を立てた。これ程の声を張り上げたのは久しぶりだ。「相沢君、ねえ、相沢君! 目を覚まして、早くっ!」

 肩を前後に揺らしながら呼びかけ続けると、ようやく虚空の点を捉えていた瞳孔が一点に収束した。それから二、三度目を瞬かせると、肩の感触を確かめるべくこちらを向く。ぎこちなく動くその顔は白く、唇は薄紫色に貼り付いていた。鼻は聖夜に登場するトナカイのように赤く、涙の一筋は既に凍り付いていた。流れ落ちることも許されない涙は、余計に悲しい。

「ん、ああ、香里……か……?」

 最初は抑揚のない様子だったが、ようやくこの場にいる私の存在を認知したのだろう。相沢君の瞳孔が、軽く広がる。

「香里? なんでお前がここにいるんだ? それに……」

 記憶の混乱を起こしているらしく、言葉に精彩を欠いている。彼は私の顔を凝視したまま、思考沈黙していた。そして、驚愕の表情で再び栞の方に向き直る。

「そうだ、栞が……栞が……」

「分かってるわ」私は取り乱す相沢君が歯痒くて、それ以上に自分のことが歯痒くて、思わずヒステリックに叫んだ。「分かってる、見れば分かるから……分かってるから……」

 そう繰り返しながら、自然と相沢君の肩から手を離す。私は、自分でも驚くくらいの覚束なさで、栞へと近付いた。一歩一歩、しかし確実に。やがて手が届く場所まで辿り着くと、私は栞の左手を握ろうとした。が、すぐに思い直して反対側の手を握る。左手には先程まで握り締めていた、相沢君の温もりが刻まれている筈だから。私は私の温もりをあげるために、もう片方の手を握った。その手はぞっとするほど冷たい。包み込むように両手を添えると、栞の顔を覗き込んだ。その表情は僅かに笑みを称えている。栞は最後まで笑顔でいたのだ。そして……笑顔で……。

 その手から、脈は全く感じられなかった。

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