二月二日 火曜日

第四場 火葬場

 金色の山車に見立てられた霊柩車の後を追って、香里の父親が運転する車がエンジンをかける。四人乗りの乗用車は、鈍い排気音を響かせ走り出した。助手席には香里の母親が、後部座席には俺と香里が乗り込んだ。遠ざかる家を見て、香里は大きな溜息を吐き出す。きっと、かなり参っていたのだろう。かくいう俺も、意味不明な読経に心底うんざりしていたのだが。但し、日蓮宗の死生観というものには少しだけ興味を持った。現世と常世が同じ世界に存在するのなら、栞もどこか遠く、例えば広遠なる空の向こうにいるのかもしれない。俺は窓越しから空を見上げたが、薄くかかる雲が見えるだけで、そんな世界はいくら目を凝らしても見えなかった。

「あの、相沢さん……」車が少し走ったところで、香里の母親が体をこちらに傾けながら声をかけてくる。「昨日はすいませんでした。興奮してたとはいえ、あんなことを言ってしまって……」

 大きく頭を下げると、はあと大きく溜息をつく香里の母親。その仕草は親だけあって、香里に少し似ていた。

「昨日、香里から聞いたんです。栞にとって相沢さんの存在がどれだけ大きく、そして大事だったか……」

 やけに大袈裟な物言いに、俺はどのようなことを母親に吹き込んだのか無性に気になった。香里の方を見ると、僅かに目があっただけでぷいと外の方に視線を向けられてしまう。

「うちは共働きで、夫も私も遅くまで帰ってこれなかったので……家のことや栞のことはずっと香里に任せきりだったんです。香里はしっかりした娘だから、何を任せても安心できるんですが、いつも負担ばかりかけてるんじゃないかって思ってて……」

「そうだったんですか?」

 意外だった。栞があのような状態だったから、父親はともかく母親はいつも付き添って面倒を見ていたと思っていたから。

「栞はどうも生まれ付き循環器系が弱かったらしいんです……医者の言うことには。小さい内は体の負担が小さいから風邪に似た症状しか表れないが、成長するに従って体への負担も大きくなるって。栞が助かるには、心臓と肺の同時移植しか助かる方法はないようでした。でもそんな高度な医療技術、日本はおろか米国や独逸でも確立されていないらしくて、結局は不治の病に等しかったんです。でも、外国では近い将来に可能性があるかもしれないと言われ、それからは私も夫も一生懸命働いて少しでも蓄えを増やそうと頑張ってきました。保険の利かない外国でも、すぐに手術が受けられるように……目玉の飛び出るような金額でしたけど、栞のためを思えば全く苦痛ではありませんでした。でも……」

 香里の母親はぐっと顔を顰め、空唾を飲み込むと呟くようにしてこう続けた。

「でも、結局無駄になりましたけどね……」

 その一言に、俺は母親の諧謔的で悲痛な思いを垣間見たような気がした。側にいて面倒を見ていたわけではないが、母親も、そして父親も栞のことを精一杯考えていたのだ。儚い命を未来に繋ぐために、献身的とも思える願いを込めて。奇跡を、少しでも現実の側に近付けるために。

「だから、ほんのもう少しだけ栞にちゃんと接するべきだったと、今になって後悔してるんです……死んでから後悔しても遅いですけど。私が栞と最後にまともな会話をしたのは、三日前でした。それまでは少し悲しそうな表情をしていることが多かったんですが、その日は本当に楽しそうな顔でテレビを見ていたんです。栞の大好きなラブ・ストーリーで……、本当に楽しそうな顔をして、ブラウン管の中で躍動する登場人物の一挙手一投足を追っていました。私も栞と一緒にそのドラマを見ました。連続ドラマの途中回だったので筋はよく分かりませんでしたが。私はふと訊いてみました。『栞は今、幸せなの』って。すると栞は満面の笑みを浮かべたんです。『ええ、私は今、生まれてきた中で一番幸せなんですよ……まるで神様が、極上の時間を切り取って私にくれたような、いとおしくて大切で……とても大切な時間なんです』そう、胸を張って答えたんです。それを聞いて、私は胸が熱くなる思いでした」

 香里の母親はそう言うと、まっすぐに俺の目を見た。

「だから、今では感謝してます。栞にそんな大事な時間を与えてくれた相沢さんと、香里に。本当に、いくら頭を下げても足りないくらいに……」

 車内に静寂がはしる。車は舗装跡を残す道路を馳せ、微かな震動音だけが車内を巡っていた。神様が切り取った時間……いかにも栞らしい表現だ。けど、超自然的な存在に彩られている分、寂しげな気もする。かといって、そんな時間を与える手助けができたなんて烏滸がましいことも言えなかった。再び香里の顔を覗く。表情を崩さぬその顔には、憂いを帯びた瞳が煌いていた。

 風景からはいつの間にか背の高い建物が消え、カーブの多い山道に入っていた。葉の落ちた広葉樹と針葉樹にうっすらと白化粧が施され、冬の荒涼感が一層際立って見える。薄黒い雲は太陽を隠し、かといって天候が崩れるような様子もない。曖昧な天候だ。火葬場というのはその性質上、集落から僅かに外れた場所に存在することが多いと、以前何かの本で読んだことがあった。それも当然だろう。引っ切り無しに煙と遺骨と、そして悲しみに暮れる遺族たちの感情に曝され続けていれば、どんなに精神が太い人物ですら耐えられるものではない。

 ガードレールに備え付けた案内板が、残り距離を示す。一.一キロ……だが、カーブと空を束ねる雲のために、まだその痕跡すら垣間見ることができない。

「酔ってない?」不意に香里の母親が声をかける。

「いえ、乗り物には強いですから」

 俺に対して投げかけられた言葉だと思って返事を返すと、香里の母親は僅かに偲び笑いを漏らした。

「あら、ちょっと紛らわしかったわね。さっきの言葉、相沢さんにではなくて、香里に言ったんですよ」

「えっ……香里って乗り物酔いするタイプなんですか?」

 少し意外だったが、考えてみれば有り得ないことではない。経験則からして、乗り物酔いは思考癖があってやや痩せ気味の人に多い。香里はその両方を満たしている。

「ええ。乗り物全般が駄目なんですよ」

 ちらりと揶揄の視線を向けると、香里は一瞬だけ俺の方をじろりと睨んだ。だが、すぐに風景へと視線を戻す。乗り物酔いは景色を見ていると緩和されるらしいが、香里の場合、俺の相手をするのも辛いほど疲弊しているようだ。成程、憂いを帯びた香里の表情は、乗り物酔いのせいだったのか……。香里はもう一度俺の方を強く睨んだが、やはりすぐ視線を光景へと戻した。

「みんな、着いたぞ」今まで運転していて一言も喋らなかった香里の父親が、前方を指差しながら皆に声をかける。フロント・ガラス越しに見えるその建物からは、宗教的な臭いが全く感じられない。至って普通の……町工場のスケールを少しあげたような、そんな印象以上の何者をも受けることはない。突出している点といえば、天高く伸びた数本の煙突くらいのものだろう。雲と霞に紛れて分かりにくいが、白みがかった灰色の煙が沸き立っているのが見える。この瞬間にも、荼毘に伏されている亡骸が存在することを、その煙は如実に示していた。

 車は広い割に閑散としている駐車場へと足を停める。霊柩車と美坂家の車、その叔母家族の車三台を加えても十台くらいしか停まっていない。駐車場にはあと三十台くらいの車を停めるスペースがある。車から出ると、俺は自分でも驚くほど冷静に辺りを見回していた。香里はといえば、木々に覆われた冬のうららかな空気を胸一杯に吸い込んでいた。それを二、三度繰り返したが、未だに残る顔色の悪さは否めない。

「香里、大丈夫?」母親が心配そうに尋ねる。

「ええ……」香里は更にもう一度深呼吸をする。「大丈夫よ」

 余り大丈夫とも思えないが、状況だけに嘘だとしても咎めることはできない。俺たちは霊柩車に近付くと、再び柩を背負った。大勢の親戚が抱えていた先程とは違い、霊柩車に乗っていたスタッフも加えて十人しかいない。必然的に、一人が負う加重も増していた。だが、苦痛はまるで感じない。階段の所で少しぐらついたが、柩は静粛に火葬場の中へと運ばれた。

 そこは……何と言って良いか判断のつかない奇妙な場所だった。目の前には十以上の扉が見える。鋼鉄製の頑丈そうな扉に、重たそうな取っ手が付いていた。中からちらちらと赤色の炎が覗いている。扉の側には、それぞれスイッチとランプの設営されたコンソールが備え付けられていた。栞の柩はその中の一つ、七番と書かれた所に運び込まれた。そこには既にスタッフがスタンバイしており、柩は既に用意されていた車輪付きの台座に載せられた。その様子はまるで……焼死体製造所のようだった。少なくとも、見ていて気分の良くなるものではない。火が焚かれているからだろうか……思ったより暑かった。

「それでは遺体と最後のお別れを……」

 どこからかそんな声が聞こえ、俺はもう一度栞の顔を見た。その様子はやはりただただ安らかで……俺はその姿を網膜の底に焼き付けると柩から離れた。遺族全員との別れが済むと、とうとう柩は無機質な炎の空間へと投じられた。そして扉が閉じられ……ようとした時だ。胸の奥が僅かにちくりと痛んだ。あの扉が閉じられてしまうと何かが壊れてしまう……不意にそんな感情が俺の心を支配する。けど、その思いは声にならず、扉はゆっくりと閉じられた。スタッフの一人が、火葬が済むまで一時間程かかると告げる。燃え盛る炎を眺めているのは辛いので、俺は外で待つことにした。何かが釈然としない……そんな思いを抱きながら外に出る。駐車場の敷石に腰をかけると、俺は大きく息を吐いた。何か……あの火葬場の扉が閉じられることで変化してしまった感情……それは何なのだろう? 喉に刺さった小骨のように、痛みともどかしさが体を巡る。

「隣、座っても良い?」不意に、隣から声がする。その声の主、香里は俺の返事を待たずに敷石へと腰掛けた。ウエイブのかかった髪が緩い加速で軽く舞う。俺は香里の様子をしばらく見ていたが、特に話すこともなく、視線は剥げかけたアスファルトへと移された。決して暖かいとは言えない風が冬の大気を駆け、それでも他の場所へ行こうという考えは全く浮かばない。ただ微妙な距離を保ったまま……それだけだった。

「なんだかね……」不意に、香里が囁くような言葉を向ける。「私ってやっぱり、卑怯なのかな?」

 俺には香里の言葉の意味が、よく分からなかった。

「母さん、車の中で話してたでしょう。私のこと、誉めるような口調だった。でも、本当は凄くひどいことをしただけで、栞のためになるようなことなんて、一つもしてないのに……」

「そんなことは無いと思う」

「いえ、そんなことはないわ。栞が幸せな時間を過ごせていたとしたら、それは全部相沢君の努力のお蔭よ。私は栞を悲しませて、追い詰めて……そんなことしかしていなかったもの。私が栞にどんなにひどいことをしてきたか……それを聞いたら母さんだって父さんだって、相沢くんだってきっと私のこと嫌いになると思うわ」

 香里は強く唇を噛み締めると、怒りとすら感じられる視線を俺の方にぶつけてきた。

「母さんがあんなに手放しで私のこと誉めたりできるのは、私のことを全部知らないから……話していないから」

 それは……香里が栞のことを無視し続けていたことだろうか? 最小限以外の接触を断って、妹などいないように振る舞い、そして悲しみから逃避しようとしていたことだろうか? それは分からない。でも、少なくとも俺は全ての事情を知っている。

「俺は……香里のことを嫌いだと思ったことはないぞ」

 その言葉に、香里は思わず驚きの表情を見せた。しばらくその表情を崩さなかったが、軽く二、三度首を振ると、「そう……」と寂しげに呟いた。続けて小さく口を開き何かを話そうとしたが、それは息と共に吐き出されるだけで言葉にならない。何かまずいことを言ってしまったのか……そんなことを考えるのだが、思い当たる節は何もない。

「成程ね……」香里が今度は納得調子で声をかけてくる。「栞がどうして貴方のような人にたぶらかされたのか……ちょっとだけ分かった気がするわ」

 僅かに口元を歪めてみせる香里。他意はないのだろうが、何か調子が狂ってしまう。俺はたぶらかされたという言葉に一縷の反発心を憶えながらも、情けなく「はあ……」と返事をすることしかできなかった。香里も香里でこれ以上突っ込んだ話をすることはなかったので、何も分からずしまいだ。知らない間に紛れ込んできた奇気まずさは、俺と香里の間にこれ以上の会話を生まなかった。相変わらず風は冷たく、空は曖昧に暗く、心すらもままならない状況。そんな中で互いの存在を意識することもなく、ただじっと座っていた。

 そして、どのくらいの時間が経っただろうか……香里の母親が、俺と香里を迎えに来た。

「火葬が終わったみたいだから、二人とも……」

 俺は腰を上げると、香里の母親について歩き出した。空は断片的に、塵のような雪を降らせ始める。ほんの些細な雪だったが、それはまるで俺と香里をこの場から追い立てるように思えた。中に入ると、硫黄と炭素の臭いが強く胸を突き刺した。体に強い寒気が走る。足音だけがやけに大きく聞こえ、それ以外の音は耳鳴りが遮るように聞こえない。そして……そこにそれはあった。柩も花も、そして栞の姿もそこにはなく、目に映るのは黒く焼け焦げた骨と灰だけだった。そこにはただ完全なる死が佇むのみで……、それはただ無慈悲で、奇跡などどこにもなくて……。

 その時、ようやく自分の気持ちに気付く。何故、今まで悲しみの感情すら湧いて来なかったのか、そして変化してしまった感情の意味。俺は結局、心の底で奇跡という言葉を期待していたのだ。栞が……それは生前の安らかな姿と全く変わらなかったから、その笑顔を言葉と共に紡いでいることを中途半端に信じていた。

 あの輝くばかりの笑顔と、心とは目の前の灰から一粒も伝わって来ない。もう元に戻らない、二度と元に戻らないのだ。楽しかったことも、苦しかったことも、悲しかったことも、嬉しかったことも、全ては紅き炎に砕かれ、うちのめされてしまった。思い出は灰と共に……後には何も残らない。完全なる死、残酷なる死……もう栞と言葉を交わすことはできない、この手に抱くことはできない、心を通わせることもできない。そうだ、これが死というものなのだ。悲しくて、切なくて、胸が押し潰されそうで……。何故、俺はあんなにドライな別れ方をしたのだろう。頭に浮かんだ栞の顔は明確で、でも僅かに不鮮明で……。これならもっと強く、栞のことを俺の全てに強く刻んでおくべきだった。目で、鼻で、唇で、全身で、心で、全部、全部、全部……。

 最後に俺の部屋で交わしたキスの味も暖かさも、今では悲しいほど不鮮明で……。そんな感情が頭の中を掻き回すように流れてきて、俺は叫ぶように嗚咽をあげた。今まで堰き止めていただけの感情が解き放たれる……涙と一緒に。

 床に崩れ落ちると、俺は栞の名前を何度も呼んだ。けど、幾ら栞の名を呼んだとしても、この手にもう一度戻ってくる訳ではなく……名前を呼ぶ度に悲しみが増して、それでも止められなくて……。ぼやける視界の中に、僅かに香里の姿が見えた。同じように涙を流し、大声を張り上げて……。

「私が、私が……あんなこと言わなければ……」

 香里の母親が、香里を宥めようと手を差し伸べる。その手は乾いた音と共に払い除けられ……。

「私が……栞を殺したのよ……」

 そんな言葉が……。

 微かに俺の耳に響いた……。

 けど、その時は自分が悲しむのに精一杯で……。

 その言葉の意味を考える余裕などなかった……。

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