二月三日 水曜日

第六場 祐一の部屋

 闇がこんなに心地良いなんて、今まで知らなかった……。

 豆電球すら点灯していない部屋の中で、俺はベッドを背もたれにして座っている。特に理由はない。こうやって身体を丸めてじっとしているのが、一番楽だからに過ぎなかった。カーテン越しに漏れる僅かな光が、日中だということを示している。今日は何日だっただろうか……まあ、そんなことは関係ない。

 こうやって何も考えないで、ただじっとしているのが一番楽だ。何も考えずに、何も触れずに、何もせずにこうしているのが一番楽だ。何かを考えると苦しいから、そんなことしないでいれば良い。

 昨日から何も食べて無い筈なのに、全然腹が減らない。眠気は断絶的で、コントロールできない急激な深い眠りと、永遠に続くかと思える気だるい目覚めの時間の繰り返しだった。ヒータは付いてないけど、ちっとも寒くない。かといって、暖かくもない。

 身体を動かすのも、声を発するのも億劫だった。俺の考えることなど気にせずに、大声でこちらに向けて話しかけてくるのが鬱陶しい。邪険に追い払っても、何度も何度も声をかけてくる。俺のことなんか構わなくていいんだ。お願いだから、放っといてくれよ。

 どれくらい時間が経っただろう。そんなことはどうでも良い。秋子さんの声がドアの向こうから聞こえた。

「祐一さん、お昼どうしますか?」

 いらない。

「祐一さん、大丈夫ですか?」

 大丈夫だから構わないで欲しい。

「祐一さん、本当にいらないんですか?」

「……いらない」

 何故、わざわざ言葉に出さないと伝わらないんだろう。これだって凄く疲れるのに……体力を使わせることなんてさせないで欲しい。一層のこと、ずっと黙っていようか……でも、それだと向こうは何度でも呼びかけるだろう。その方がうざったい。だから、体力を消費してでも声でもって追い払わなければならない。早く、俺のことなんか構わないでくれないようになれば良いのに。

 また、いくらかの時間が過ぎた。多分、眠っていたのだろう。夢の中で俺は、光すら見えない漆黒の海で一人泳ぎ続けていた。泳いでも泳いでも、どこにも辿り着けない。そんな苦しい夢だ。第一、俺はどこに辿り着こうとしていたのだろうか。最初の頃は目標もあった筈なのに、最後の方はただがむしゃらに手足を動かすだけだった。不毛なだけの行為。そう言えば、俺はどうしてこんな所で一人蹲っているのだろうか? 何かあったような気がするんだが……、まあ良いか、思い出せないなら大したことじゃないのだろう。そう考えると、少し気が楽になったような気がする。けど、身体を支配する虚無感と脱力感は相変わらずだ。

 急に尿意がもよおしてくる。最後にトイレに行ったのはいつだったかな……、どのくらいの時間が経っているか分からないから、求めようもない。それに、どうでも良いことだ。でも、どうしようか……立ち上がるのも億劫だ。一層のこと、ここでしてしまおうとも考えたが、それだと臭いや後の処理で困ってしまうと思い、仕方なく足を動かした。久しぶりの歩行で足がふらつくが、何とか歩けるようだ。ドアを開けると閉めることもせず、階段をふらふらと降りる。一度躓きそうになったが、何とか持ち応えた。目の前が歪んで見える……、頭が釘を打たれたように痛い。

 トイレを済ませると、微かな開放感と共に部屋に戻る。ドアを閉めて、再び同じ場所に座り込んだ。何か忘れているような気がしたが、思い出せないならやはり些細なことなのだろう。

 カーテンから入ってくる光が段々少なくなっていく。もうすぐ、部屋を完全な闇が包み込むだろう。何故、俺はこんなに苦しまなければならないのだろう。苦しいのなら、全てを忘れてしまいたい。そんな思い出、全て忘れてしまえば楽になれるのに。思い出とはなんだっただろうか。雪、少女、アイスクリーム、そんな単語が断片的に頭から導き出される。これらのことを全て忘れたら、今抱いている苦しみからも解放されるだろうか。目の前がふらつく……、今までよりは緩やかな微睡みが俺を包み込みつつあった。この眠りに身体を委ねれば、全てを忘れられそうな気が……。

 その時、ドアが強く軋む音がして覚醒感が甦ってきた。無意識にドアの方を見ると、そこには見たことのある少女が佇んでいた。水瀬名雪……俺の従兄妹で幼馴染み、現在は同居人……それ以上の記憶は浮かんで来ない。こちらに近付く名雪をぼんやりと眺めながら、鍵を閉め忘れたことに気付く。先程の忘却感の原因はこれだったのだ……うかつな自分を呪いながら、俺は名雪から視線を逸らした。

 名雪はこちらに笑顔を向けると、「祐一、大丈夫?」と声をかけてくる。ああ大丈夫だよ、だから早くここから出て行って欲しい。そう言う気力さえ起こらず、俺はただフローリングの床の汚れをじっと見つめていた。全てを忘れさせてくれた筈のあの微睡みは、いつのまにか遥か向こうに遠ざかっていた。

「お腹空いてない? 祐一、昨日からずっとごはん食べてないでしょう? これ、わたしが作ったんだよ」

 花柄で彩られたお盆には、三角に握られたおむすびが三つ並んでいた。だが、米と海苔の香ばしい匂いを嗅いでも食欲らしきものは湧いてこない。名雪はお盆を床に置くと、それを挟んで俺と同じようにベッドを背もたれにして座り込んだ。だが、俺にとって名雪の存在は苦痛だった。名雪の強い少女の部分が、どうしてももう一人の少女のことを喚起せざるを得ないから……。暗い心の沼の底に沈みかけていた感情が一気に噴き出してくる。濁った灰色の死のイメージ……、それは今まで俺が多少なりとも抱いていた自負を粉々に打ち砕いた。俺は栞に何かを残せたと思っていた。例え時間は少なくとも、幸せを共有できたと信じていた。けど、あんなものに幸せや、楽しみや、嬉しさなど一欠片も感じ取ることはできなかった。共有したと思っていた幸せの片割れは空虚な風と共に舞い散り、残されたのは胸を掻き毟るような痛みと絶対的な敗北感だけ。必死で舞い散った欠片を集めようとした……努力はした。けど、掬い上げられるのは微笑の粒子と虚妄だけだった。いくら手を伸ばしてみても、それはするりと隙間から抜け落ち……だったら、そんな努力やめてしまえば良い。全てを忘れてしまえば、なかったことにできれば不毛な行為から脱出できる。これは言ってみれば、通過儀礼だ。

 その筈だったのに、名雪は全てを台無しにしてしまった。なんだって名雪は、あんなに邪険にされてなおも俺なんかに構い続けるんだろう。一人の少女も幸せにできなかった俺に対して。屈託のない笑顔を浮かべて、歪みなど微塵も感じさせない態度で……。

 そんな考えを脳裏から追い出すと、俺は自らの腕で身体を更に強く閉じ込めた。相手をしなければ、声をかけなければその内諦めてここから立ち去っていくだろう。そう……、別に鍵をかけていようといまいと関係ない。違うのは物理的な隔たり、ただそれだけだ……言い聞かせながら俺は目を瞑った。できるだけ全ての感覚を、俺の中に押し込めておきたいから。

 いくらかの時間が経った。ふと隣を見ると、まだ名雪は俺の隣に座っている。名雪は俺と目が合うと、入ってきた時と変わらない笑顔を俺に返した。そう言えば……、記憶のフラグメントの一つが俺の心を掠める。栞もこうやって、いつも屈託ない笑顔を俺に向けていたっけ……。その笑顔は、何を想ってのものだったのだろう。それが俺であるならば、これ以上光栄なことはないと思う。こんな何もできない俺のために、至福の笑顔をくれたのだから。その時、今まで想像もしなかったフラグメントの一つが脳裏に喚起された。今まで考えることすらしなかった、とてもとても簡単なこと。俺が栞に何かをあげられたかは分からないが、栞は俺に色々なものをくれたのだということに……。

 でも……だとしたら、後悔だけじゃなく、俺は栞に与えられたものの重みでこうして苦しんでいるのだろうか? だとしたら、やっぱり何もかもさっぱり忘れてしまうべきではないのか? 先程までの俺なら間違いなくそう考えていただろう。けど、いつの間にか穿たれた知り得ない一穴がその決定に対して強い疑問符を抱かせていた。その穴は、一体何なのだろう……考えてみるけど分からない。

 今までよりも、歩みの遅い時が流れた。陽光は薄れ始め、光景から確実に色は失われている。なのに、もっと明るかった時以上に部屋の様子が気になった。時計の秒針を刻む音、蛍光灯の紐が揺れる様子、部屋の隅に置かれた観葉植物……水を与えてないせいか、葉が微かに萎びて見える。何かを目に映していないと、思索が頭の中を支配した。それが苦痛でまたインテリアや日常用品に目をやってしまい、気が散るとまた……その繰り返し。つい数時間前までは意識せずにできたことが、何故に今更できなくなったのだろうか? 俺は無意識に名雪へと視線を移す。名雪は何も喋らず、ただ優しい表情を俺に向け続けていた。飽きることなく、焦れることなく。そんな名雪の姿を見ていると、余計に落ち着かなくなって……そんなことが一時間も続いただろうか。俺は時計を見た最後の記憶と照らし合わせて概算する。

 そう、俺が得体の知れぬ焦燥感に襲われる原因を作ったのは間違いなく名雪だ。何故かは分からない。或いは……、俺の方が名雪に焦れているのかもしれない。いつまで立っても出ていく様子を見せない、明るさを微塵も失わせない……その姿に。そして、俺は名雪に部屋から出て行くことと別のことを求め始めている。脳裏に浮かぶ思い出、算出される思考、制御できない感情の排他、考えれば考えるほどにこれらの感情が混ざり合い、不確定の渦を撒き散らす。それは一人で抱え込むには余りに巨大過ぎる感情だった。それを名雪に知って欲しい、相手になって欲しいと俺は真剣に思い始めている。

 だが、良いのだろうか? 今まで散々無視し、罵倒し続け、今頃になって相談相手になって貰いたいなんて虫が良過ぎる考えだ。俺は今までにない意志を以って名雪の方を見た。見つめ返す名雪に、今度は瞳を逸らすことをせず。しかし、肝心の言葉が出てこない。

「祐一、どうしたの?」名雪が囁くような声を向ける。静寂の部屋の中では、その音も充分に響く。「もしかしてお腹空いた? ほら、おにぎり、ちょっと表面が乾いちゃったけど美味しい筈だよ」

 名雪はお皿に置かれていたおにぎりを一つ取り出し、俺の方に差し出した。つまり名雪は、俺が見ていたものをおにぎりだと判断したわけだ。それでお腹が減っていると思って……、何だか気負っている自分が妙に馬鹿らしく思えた。きっと狙ってやっているわけではないだろう……、名雪にそんな甲斐性はない。だが、その何気ない仕草が僅かだけど何かを与えてくれたような気がした。それはおにぎり以外のものだろうけど、よくは分からない。

 おにぎりは名雪の言っていた通り、表面が少し乾き海苔も湿気ていた。白米の発する芳しい匂いも減退している。それでも、俺には何故かこのおにぎりの方が美味しいと思えた。途端、胃がぺったんこになるのではと思うくらいの激しい蠕動が巻き起こり、お腹が激しく鳴る。

「あはっ、やっぱり祐一、お腹空いてたんだね。ほら、お茶もあるよ……もう冷めちゃってるけど」

 名雪は思わず笑い声を漏らすと、湯のみに入ったお茶を手に持つ。どうも、完全に誤解されてしまったようだ。けど、今はそれでも良いと思う。おにぎりにおもいきりかぶり付くと、俺は咀嚼も満足にせず飲み込んだ。乾いた飯粒が激しく咽て、思わず食べたものを吐き出しそうになる。

「わっ、大変……はいっ、お茶だよ」

 どうも深刻さにかける声と共に、湯のみが俺の手に渡される。常温に近いくらい冷めたお茶が逆に都合良い。ようやく一息つくと、名雪が心配気な顔をしていた。

「お腹に何も入ってない時はね、ゆっくり咀嚼して食べないと喉に詰まるし、消化にも良くないんだよ。胃が長い間働いてないから、びっくりしちゃうんだって」

 その言葉に、俺は全く反論できなかった。今度はきちんと咀嚼して、それからゆっくりと飲み込むことにする。もっとも、一個食べ終わったくらいからまどろっこしくてそんなことは気にしなくなったが。夢中でおにぎりを全てかきこむと、残ったお茶も全て飲み干す。普段ならこれくらいで満腹にはならないのだが、胃が働いていないせいだろうか……取りあえずはこれで満足だった。

 湯のみをお盆に置くと、大きく一つ息を吐き出す。腹が満ちるのに比例して、思いを声にする力が湧いてきた。

「なあ、名雪……」食事の様子をずっと眺めていた名雪は、俺の言葉に思わず居住いを正す。「話したいことがあるんだ……聞いてくれるか?」

 名雪は一瞬きょとんとした表情を見せる。が、すぐに柔らかく顔を綻ばせながら大きく頷いた。その笑顔に嫌悪の様子は微塵も伺えない。何故……、人はここまで優しくなれるのだろうか? 名雪の姿を見ると、ふとそんなことを考えてしまう。そんな名雪だから、俺も素直に自分の感情が出せた。

「俺は……栞に何かをあげられたのかな?」

 栞という名前がでてきた途端、名雪の顔が強く引き締まる。

「さっきからそのことばっかり、ずっと考えてた。でも、考えれば考えるほど、俺があげられたものはほんのちっぽけなものに思えて……、逆に栞に貰ったものの大きさに驚かされて……」

 冷静に言ったつもりなのに、思わず涙が出そうになる。

「あげられたんじゃないかな」名雪は僅かに俯くと、確信のこもった口調で答える。「わたしは全然事情を知らないけど、あの日、百花屋で見た栞ちゃんの笑顔は本当に幸せそうだったよ。そんな幸せを、祐一は沢山あげられたとわたしは思う」

「でも……」俺の口からは思わず反論の言葉がついて出た。「結局、死んでしまったら何も残らないんだ。薄茶けた骨の破片を目の前に突き付けられて、俺は本気でそう思った。生きている間に残せたものに、一体どんな価値があるんだろうって。そう思うと悔しくて……、悔しくてやりきれなくなる。俺のしてきたことは全部無駄だったんじゃないかって」

 栞との日常が無意味の一言で括られることが恐い。考えるごとにそれが正しいと思えてきて恐いのだ。俺は身体が震えるのを必死で抑えなければいけなかった。冷たい沈黙が暫く続く。

「……残るよ」不意に名雪が口を開いた。「例え死んでしまってもね、魂……というか精神かな? そういうものは残るの」

 いつにもなく大人びた名雪の表情に、思わず心臓を鷲掴みにされたような感覚が走る。どこか宗教じみた、ありふれた死生論。はっきりいって、最も受け入れ難いものの一つだ。

「それで死んだ魂はどこに行くんだ……天国か?」

 それを確認するために、俺は思わず尋ねていた。少し皮肉めいた言い方だったかもしれない。名雪は肯定も否定もせずに、首を僅かに傾げた。

「もしかしたらそうかもしれないね。死んだ人が幸せに暮らせる世界があって、そこに栞ちゃんも行ったかもしれないけど……。でもね、わたしが言いたかったのはそういうことじゃないんだよ」

「じゃあ、どこに残るんだ?」

「多分ね、ここだと思う」名雪は自らの胸にそっと手を添えた。「わたしの心の中には、笑顔の栞ちゃんがいるよ。祐一の心には……、どんな栞ちゃんがいるの?」

 俺の心の中の栞? 栞は……、そう考えて最初に思い浮かぶのは、笑顔だった。何があっても屈しない、煌くような笑顔。

「いつも笑ってる栞……」余りにもそのイメージが強過ぎて、一瞬驚いたくらいだ。「最後まで……笑ってた」

 最後まで笑ってる強さ……ふと、心の中にそんなフレーズが浮かぶ。それは栞を表わすのに最も相応しい言葉だ。

「人間ってね、他人の中に自分を残すことができるんだと思う。それが幸せな記憶なら、そして自分を映した全ての人が幸せなら……、静かに世を送ることができるんだと思う。祐一の中にいる栞ちゃんが幸せなんだったら、それが祐一の心に残っているならば、それは何かを残せたことにならないかな……」

 最後の方は自信なげに、自らにも言い聞かせるようにして思いを言葉にする名雪。

「だから、別れがどんなに悲しくても忘れちゃいけないんだよ。それはもっと楽しかった記憶や嬉しかった記憶……、それに栞ちゃん自身も残らないことになっちゃうから」

 名雪は寂しげな口調で以って、俺の心を強く握り締めた。まるで、胸の内を見透かしたかのような名雪の言葉。痛みから逃れようとして選ぼうとした忘却という手段……消去して初期化してしまえば、また平凡ながら普通の生活が歩めると思っていた。しかし、それは栞との記憶の全てをも否定してしまうことになる。俺のやってきたこと全てが、本当に無意味なものとなってしまう。名雪は多分、俺にそう言いたいのだろう。

 勿論、名雪の言葉が正しいかなんて俺には分からない。きっと、名雪にだって分からない筈だ。でも、何もかもが無意味になるなんてことだけは考えたくない。それに……、俺は名雪の言葉を信じたいと強く思っている。

「そうだな……」俺は自らの七十を以って、肯定の返事を返す。残りの三十は多分真っ暗闇で、今の俺が考えても答えは出ないだろう。けど、多分それで良い。栞と過ごした時間、それにこれから進むべき時間に意義を見出せたのだから。

「ありがとな、名雪」それから、俺はその手助けをしてくれた名雪に心から感謝の言葉を捧げる。「まだもやもやしていることは沢山あるけど、俺がこんな暗い部屋で一人閉じ篭っていることがいけないってことは分かったから……気付かせてくれたから」

「うん……」名雪は小さく頷くと、喉に言葉を溜め込んだ。それから溢れるような笑顔で続ける。「わたしに何ができたのかは分からないけど、祐一が元気になってくれたのは嬉しいよ」

 名雪のその言葉が、少しこそばゆかい。気恥ずかしさも手伝って俺は何気なく部屋を見回した。そして、その暗さに面食らう。こんな闇の中に、よく自分は今まで平気でいれたな……と。俺は立ち上がると、電灯のスイッチを一度引いた。乳白色の光が頭上で二、三度瞬き、それから部屋全体を明るく照らす。その光量に、俺は少しバランスを崩してよろめいてしまった。

「わっ、祐一、大丈夫?」

 名雪の慌てる声、心配する声。昨日の今頃はただ鬱陶しいだけの言葉だったのに、今は胸に染み入るように優しく聞こえる。

「ああ、大丈夫……久々に立ち上がったから眩暈がしたんだ」

 強がりでもなく、そんな言葉が出せる。気が付けば、身体に圧し掛かっていた虚無感はいつのまにか吹き飛んでいた。

「もう、俺は大丈夫だから」

 そう言うと、名雪は俺の顔を品定めするように見つめた。目だけをふいと逸らすと、名雪は僅かに息を吐く。

「うん、おっけーみたいだね」

 どうやら名雪のお墨付きも出たようだ。別にお墨付きがつけば良いというものでもないのだが……。でも、誰かにそう言って貰えると安心できるような気もする。

 すると妙な充実感が生まれてくるのが何とも不思議だった。かといって何もすることはない。仕方なく、俺は名雪に何か予定を訊くことにする。何か手伝って欲しいことがあれば、率先して働きたい……そんな気分だ。単純に、じっとしているのに耐えられないということもあるが。

「なあ名雪……これから何か用事はあるか?」

 俺が言うと、名雪は「うーん……」と唸りながら首を捻る。そろそろ限界点というところで、ふと名雪の瞳に翳が走った。

「そうだね……もう一度、香里の家に行ってみるよ」

 香里……その名前を聞いた途端、脳裏に昨日の光景がフラッシュ・バックする。微かだが記憶に残っている香里は、激しく涙を流しながら興奮して何かを叫んでいた。俺の知っている彼女からは全く想像のつかない取り乱し方だった。ただ崩れ落ちるだけだった俺よりも、受けた衝撃は遥かに大きかったのではないか……、今頃になってそんな想像が浮かんでくる。そして一瞬、強烈な悪寒が背中を走った。

 香里は何を言っていただろう。私が悪い……確かそんなことを叫んでいた。それから……その次の言葉があった筈なのだが、霞みがかかったようにそこだけが思い出せない。何か、とても重要な言葉であったのに、それを思い出そうとすると胸騒ぎだけが先走って思考が全く前に進まない。俺は心配になり、名雪に思わず質すようにして尋ねた。

「香里……あいつ、今どうしてるんだ?」

 名雪は肩を震わせると、弱気な口調で答えた。

「今日も学校が終わって、香里の家に行ってみたんだけど……香里のお母さんは、会いたくないの一点張りだったって言ってた。聞いてみたら、さっきの祐一と同じで部屋の中に閉じこもったままだって話してくれて……」

「そうか……」俺は感慨深げにそう呟いた。香里もあの時からずっと、何かに押し潰されるような感覚に苛まれているのだろうか。そしてその先にあるものは……忘却? それとも……。

「けど、祐一は元気になってくれたから。だから、香里も勇気付けて上げられるんじゃないかって」

 こいつは疲れというものを知らないんだろうか? あんな俺の相手をして相当に根を使った筈なのに、名雪が今考えているのは彼女の大切な友人のことだった。良く言えば健気で……、悪く言えば愚直で……、でもそんな名雪に俺は救われたんだよな。

「それなら、俺も付いていく」

 俺は一感覚置いてから、進んで志願する。

「え……」その言葉が名雪には意外だったのだろう。呆けた表情を浮かべながら、「どうして?」と尋ねてくる。

「それは……」俺は少し考えてから答えた。「名雪と香里のことが心配だから……それじゃ答えにならないか?」

 名雪は少しだけ黙っていたが、やがて首を思いきり振った。

「……ありがとう」俺にはその言葉すら、過ぎたものだと感じる。「じゃあ行こう、祐一」

 名雪に言われ、俺たちは部屋を出て階段を降りた。と、その前にもう一人謝らなければいけない人がいることを思い出す。この家で俺のことを心配してくれていた人はもう一人いた。

「祐一さん……」ふと、背後から声がかかる。振り返るまでもなく、その声は秋子さんのものだった。「調子の方は、もう大丈夫なんですか?」

 珍しく困惑げな顔を見せる秋子さん。それだけ心配させたんだなと、申し訳ない気持ちで一杯になる。

「はい、もう大丈夫です」そして、深く頭を下げた。「心配をかけてすいませんでした。それから……酷いことを何度も言ってしまって……」

「それなら良いんですよ」俺の様子を見た秋子さんは、頬に手を当ていつもの微笑を向ける。「祐一さんが元気になってくれれば、何も言うことはないんですから。それよりも祐一さん、名雪と一緒にどこか出かけるんですか?」

「あ、ええ、ちょっと……」俺は反射的に口を濁してしまう。「どうしても行かなければいけない所があって……」

 けど、秋子さんは咎める様子もなく見送ってくれた。僅かに家主としての威厳をみせて。

「……遅くなっても良いですから、夕食は三人で食べましょうね」

 俺は「はいっ」と力強く返事すると、玄関で靴を履いた。靴紐をいつもより強く結ぶと、寒風吹きすさぶ夕暮れの空へと一歩を踏み出す。オレンジ色の光を放つ荘厳なる夕日は、秋子さんと同じで俺と名雪を暖かく見守っているように思えた。

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