二月三日 水曜日

第七場 香里の部屋

 全部、私のせいだ……。

 目を開けると、部屋は既に暗闇に近かった。黄昏色の反射光が、窓の周りだけを静かに照らしている。その光は、私には届かない。羽毛布団に包まり、眠ることで全てを断ち切ろうとした。夢を見ることなく、ただ黒で塗り潰したような純粋な世界。白で塗り潰した世界が純粋なら、また黒で塗り潰した世界も純粋である筈だ。だが、人は本質的に闇を嫌う故にその純粋さを虐げる。そしてしばしば、それを悪魔と呼ぶのだ。けど、今の私にはそんな世界こそが相応しい。誰も近付こうとしない世界を、私は望む。そして願わくば、このまま二度と目が覚めないようにと……。

 だからこそ、世界がまだ光を帯びていることに私は失望感を抱かずにはいられなかった。光なんていらない。そんなもの粒子の一欠片すら存在しない場所で、朽ちるようにして私は死なないといけないのだから……。

 体が弱っていることは、最早動くこともままならない様子から容易に想像がつく。しかし、朽ちてしまうにはまだ遠過ぎる。一層のこと――私は窓を見た――あそこから飛び降りて見ようか。例えここが二階で下が土とは言え、頭から落ちれば頭蓋骨が破砕され頚骨が寸断されるに充分な衝撃を与えるだろう。若しくは――私は机の方を見た――ペン立てに入っているカッタナイフを手首に押し当てても良い。或いは喉に突き立てても良いだろう。頚動脈が切断され、大量の紅が壁に、机に、床に飛び散る筈だ。けど……、私にできるのは思い描いてみることだけ。頭の中ではそれらの行為を精緻に組み立てることができるが、実際にそれを行動に移そうとすると、理性や泣きたくなるような弱さとが許してくれない。弱い人間は自由に死ぬことすらできない、くだらない生命にしがみついてしまう。私に生きている資格なんてないのに。大切な妹を追い詰めて、死なせてしまった私に……。

 そう……、まるで飛んでいる蝿を無造作に振り払うように、私は栞に残酷な仕打ちを行った。おはようと挨拶をする横を何もせず通り抜け、こんにちはと声をかける栞に不快感を剥き出しにして、反対方向に歩き出してみせた。ドアをノックする音と呼び声を無視し、お休みと言う栞に寝たふりをしてみせた。あの娘がいなくなればあの娘がいなくなればと、枕に顔を埋めながら何度願ったことだろうか。早くいなくなってしまえば良いのに、と。嫌悪と悪意と嫉妬をミキサにかければ、あんな感情ができあがるのだろうか。それとも私という人間が、特別醜いだけなのだろうか。そう、あの時だって……私はそんな感情の虜になっていた。

 

 静かなる夜、聖なる夜。街には恋人たちが溢れ、家には一際明るい光が灯る基督教の祝日。それは私の家とて例外ではなかった。栞の調子が良くなり、一時的ながらも退院を許可されたこともその明るさを助長する一因だったのだろう。少なくとも、栞や両親にとってはそうだった。生クリームがふんだんに使われたケーキの上には、サンタクロースとトナカイの砂糖菓子が小さくもその存在を主張しており、それを覆うようにして苺が円形に並んでいた。トナカイの鼻の色は、赤鼻のトナカイをイメージしたのだろう、着色料で赤に染められていた。私はその歌を頭の中で復唱する。

――真っ赤なお鼻のトナカイさんは

――いつもみんなのわらいもの

――でも、その年のクリスマスの日

――サンタのおじさんは言いました

――暗いよみちはぴかぴかのお前の鼻が役にたつのさ

――真っ赤なお鼻のトナカイさんは

――今宵こそはとよろこびました

 冗談じゃない……と私は思っている。結局、特別扱いされるのはその日だけなのだから。寧ろ特別扱いされたせいで、他のトナカイからは更なる苛烈さを以って排斥されるだろう。そして赤鼻のトナカイは、いつかサンタを恨むようになる。どうして僕だけ特別扱いしたんだ……そんなことしなければそれなりに幸せだったのに、と。幸せなんて、その程度のあやふやな立脚点にしか存在しない。うまくバランスを保っている時は良くても、それが崩れてしまえば様相は一転してしまう。あの時の私がそうであったように……。

 まるで誕生日のように、蝋燭がケーキに無秩序な柱を立てていた。ケーキの炎を吹き消すのはいつも栞の役目。私の誕生日の時も、母の誕生日の時も、父の誕生日の時も、勿論栞の誕生日の時も。私は別に、ケーキの炎を吹き消すことが楽しいなんて思わない……思っていない。

「お姉ちゃんは、何をお願いしたの?」

 考えごとをしていた私の耳に、栞の言葉が飛び込んでくる。私は慌てて「えっ、何を?」と問い返した。

「プレゼント……サンタクロースに」

 栞の無邪気な一言。しかし、私はサンタクロースという言葉に感情の冷えゆく自らを感じていた。私がサンタクロースなんていないことを知ったのは、六歳の時。興奮してベッドに入ったまま眠れない私の部屋に入って来たのが、とても良く知った顔だと分かった時のあの衝撃は今でも忘れない。良い子にしている子供の元にはサンタがプレゼントを運んでくる……それが、大人たちの仕掛けた矮小な欺瞞であることに気付かされたあの一瞬。私は震える身体を抑え、眠ったふりをすることくらいしかできなかった。だからこそ、私の胸には『今更、サンタクロース?』という思いが強くある。クリスマスという行事にだって思い入れはない。

「そうね……」私はそんなこと、おくびも出さずに答えた。浮かべることさえ苦痛だった、笑顔と一緒に。「新しいCDプレイヤかしら」

 本当はそんなもの欲しくなかった。ただ最近、音跳びが僅かに増えたから言ってみただけ。

「そうなんだ……私はね」栞は人差し指を口に当て、微笑みを浮かべる。「欲しい服があるの。余所行きの、お嬢様が着るような刺繍とフリルのついた服でね……いつか、あれを着てどこかにいきたいなあって思わせるような、そんな服なんだよ」

 そんな時が来るのだろうか……当然の如く生まれた疑惑が、表情をを暗く歪ませた。私はそれを必死で抑えなければいけなかった。いつまでこんな時間が続くのだろう。今日が聖なる夜の祝日なだけに余計、そんな感情が頭を掻き回した。あとどれだけ、嘘を付けば良いの? あとどれだけ、空虚な笑みを浮かべれば良いの? きっと、誰に聞いたって答えてはくれなかっただろう。

 部屋に戻ると、栞がそれを追いかけてきた。

「お姉ちゃん、まだ料理残ってるけど食べないの?」

「ええ、もうお腹一杯なの」そんなの嘘だ。

「……お姉ちゃん、何だか楽しそうじゃなかったよね?」

「そんなことないわよ」これも嘘だ。

 私の素っ気無い態度に間が持たなかったのだろう。栞も気まずさの中で次の言葉を飲み込んでいた。そしてどのくらいの時間が経ったのだろう。蛍光灯の光が行き場を惑うほどの沈黙を破るように、針を突き刺すような切ない声が漏れた。

「もしかして……私のせい?」その言葉に、私はそむけていた顔を強く栞の方に向けた。「私がいるから、お姉ちゃんは苦しいんだ……」

 違う……と言おうとしたが、何故か口からはその言葉が出てこなかった。その一撃が余りにも突然だったから、仮面を被る暇すらなかった。その声なき返答が、栞にとっては決定的だったに違いなかった。栞は目を逸らさずに、こう尋ねてきた。

「私の病気、本当は悪いんだよね?」

「そんなことは……」私は目を逸らしながら言葉を紡ぐ。「ちゃんと養生していれば、元気になれるわよ」

「こんな時に、嘘はやめて……」栞の抑揚のない声が、私には痛かった。その次に浮かべた笑顔も。「嘘を付くような悪い子には、サンタがプレゼントを持ってきてくれないよ」

 なんで安らかに笑ってるの? お願いだから笑わないで。

「だから本当のことを教えて、お姉ちゃん」

 私はずっと騙していた、嘘を付いていた。だから責めて欲しかった。そんな顔をされると、自分のことが余計に惨めに思える。

 もう嫌だ、知らぬ顔しているのは。

 もう嫌だ、栞と話をするのは。

 もう嫌だ、栞が側にいるのは。

 もう嫌だ、栞が存在するのは。

「そうよ、栞はもう助からないの」その言葉は、私自身が驚くほど冷静に口を突いた。「次の誕生日まで生きられないって……、そうお医者さんは話していたわ」

 私は確かに、悪意を以ってその言葉を吐いた。そうすれば、栞が私のことを嫌ってくれると思ったから。そうなれば話しかけてくることも、近付いてくることも、存在を近くに感じることもなくなる。楽に……なれるのだ。けど、栞は長い静寂と小刻みな震えの中で精一杯の笑顔を浮かべてこう言った。

「教えてくれて有り難う、お姉ちゃん」

 そして、ふらつく足で部屋を出ていこうとする。ショックでないわけはないのだ。だが、私は慰めようと思わなかった。それどころか、追い討ちをかけるようなことを言ってしまった。

「それとね、栞」もう、全部壊れても良いと思った。「サンタクロースなんて、本当はいないのよ」

「……知ってますよ、それくらい」

 栞はこちらを振り向かずに、ボソリと呟く。

 後には悪意に心を支配された、醜い一個の人間だけが残った。

 私は最低の方法で、栞を傷付けてしまった。悪意の言霊の力を以って、栞の存在を呪ったのだ。責めてくれれば良い、こんな私なんて。でも、脳裏に過ぎる栞はいつも明るくて笑顔で……私を責める顔など一つもない。まるで罪など犯していないかのように……薄茶けた死の存在にしてしまった私ですら責めることはなかった。でも、私は自分を許すことができない。

 だから、私は死ななければならない。この世から速やかに、この存在を消してしまわなければ……。でも、弱さと理性に折り合いを付ける手段が見当たらない。それがもどかしかった。

 その時、不意にドアがノックされた。その音に、私の思考は一時中断される。

「香里……」ドア越しに聞こえてくるのは、母の声だった。「水瀬さんがまた来てるわよ」

 名雪……その名前に私は思わず溜息をつく。確か少し前にも尋ねてきた筈だ。どうしてああも邪険に扱って、それでも粘り強く私のことなんて心配できるんだろう。

「それと、相沢さんも」

 相沢君も? 出ることすら予想していなかったその名前に、少し驚いてしまう。昨日の様子をみた限りでは、とても一日で立ち直れる様子ではなかった。崩れるようにして栞の名を連呼し、車の中では濁った虚ろな目をしていた相沢君。私のようにヒステリカルでなかった分、静的であるが故に余計、ショックを受けていたと私には感じられた。そんな彼が、何故ここに来たのだろう。栞のことを嫌でも思い出させるこの場所に、昨日のままの状態なら決して近寄ることはない筈だ。とすると……私のことを彼も見に来たというのだろうか。惨めな……私の姿を。

「私は会いたくないって……言って」

 でも、人が増えようと私の答えは一緒。今は誰にも会いたくない。特に相沢君は私の心を一気に吹き飛ばしかねない危険な人だから、尚更会いたくない。

「何度も心配して会いに来てくれてるのよ。辛い気持ちは分かるけど、顔くらい見せてあげたら良いのに……」

 気持ちが分かる? 冗談じゃない。ただ誤魔化すことしかしなかった母に、私の気持ちなんて分かるわけない。

「嫌だって言ってるでしょう」私は思わず大声で怒鳴り散らしていた。「誰にも会いたくないの。気持ちが分かってる? 知った風に口をきかないでよ。母さんが私の気持ちの何を理解しようとしてきたの?」母も父も口にすればまず栞、私のことなんて二の次だったくせに。「どこかに行ってよ、話しかけたりしないで」

 気持ちが収まらない。昂ぶった気勢は、無意識の涙となって目頭から溢れてくる。悲しくなんてないのに、障害を起こした脳が私に理不尽な感情と生理現象とを発露させる。

「香里……」母の寂しげな声が聞こえる。「そうよね、ごめんなさい……」

 お願いだから、謝ったりしないで。抑え切れない感情の捌け口にしただけなのに……悪いのは私なのに。

 階段をゆっくりと降りる音が聞こえる。私は布団のシーツで必死に涙を拭きながら、荒げた呼吸が自然に整うに任せていた。しかし、僅かばかりの安息も再び聞こえる音によって掻き消される。しかも、今度は少なくとも二つ以上の足音。そして、ノックの音が部屋に響く。

「香里、大丈夫か?」

 半ば予想していたが、それは相沢君の声だった。相変わらず、平気で人のテリトリの中に入ってくる人間だと腹立たしい思いが満ちてくる。と同時に、低く無骨な声から安息を求めたいと思う自分が形成されつつあることも自覚できた。私は首を強く振り、雫と愚かな心とを振り捨てようと試みる。

「香里……大丈夫?」続けて名雪の切ない声が、それでも力強く私の部屋に浸透した。思わず、胸がちくりと痛む。相沢君とは別種のものだけど、どこか安らぎのようなものを感じさせた。

 それにしても……、私は相沢君の言葉を思わず心の中で反芻していた。大丈夫かと声をかけるということは、人のことを思いやる余裕ができたということだ。一方で私は、高々八畳の部屋で暗く閉じ篭っている。この差は一体、何だろう……そう思って、すぐに首を振った。そんなことは分かり切っている。相沢君が強くて、私はそれより弱い……ただ、それだけのことだ。引き上げようとしたものと、突き落としたものとの差。どちらが忍耐と強さを必要とするか、そんなことは明白だった。

 では、私に強さがあればこんな所にいないで毅然としていることができるのだろうか? 私は当たり前だと判断した。もしそうならば、私がまだ生きている筈はない。

 もう何も考えたくないのだ。自らの弱さを直視することも、栞のことも、相沢君のことも、名雪のことも。どれ一つ考えたって、結局私が惨めになるだけだから。

「帰って……」嗚咽のせいで満足に出せない声を隠すため、できるだけぶっきらぼうに言った。

「それはできない」相沢君は、私の言葉に真正面から反駁する。「今の香里を放っておいて、帰ったりなんてできない」

「わたしも……あんな言葉聞いたら、放っておいたりできないよ」

 名雪がそう言葉を続ける。あんな言葉というのは多分、私が母に喚き散らした時のものだろう。何故……私の周りにはこんなにも無駄にお節介な人間が多いのか。その鬱陶しさに、怒りが思わず込み上げてくる。

「帰ってって……言ってるじゃない」私は嗚咽で言葉が詰まることさえ隠さず、再び声を張り上げた。「相沢君、なんであんなに悲しそうにしてたのにけろっと立ち直ってるのよ。本当に栞が死んで悲しいと思ってるの?」違う、私はこんなこと言いたいんじゃない。「名雪だってそうよ。今まで玄関先で追い返されてすごすご帰ってたのに、今更家に踏み込んで言葉だけの励まし? 迷惑なのよ」

 言い終えると同時に、急激に募る嫌悪感。何故、私は平気で悪意に満ちた言葉を投げ付けることができるのだろうか。感情を昂ぶらせて一方通行でぶつける、それは一番卑怯なのに……。

「そうだよね……」あれだけ罵った筈なのに、名雪の声に怒りなど微塵も含まれていなかった。「ごめんね、わたし……勇気のない人間だから……ごめんね」

 最後の方は、ぐずる音と混じってほとんど聞こえなかった。ごめんという言葉が、私の胸を強く抉る。感じなくても良い罪の意識に苛まれて涙を流さんばかりに謝って……。

「どうして?」私は胸に溜まっていたものを全て吐き出すように声を荒げた。「どうして名雪は私なんかにそんなに優しくなれるのよ。あんなこと言ったのよ、怒って……嘲って当然じゃない。相沢君だってそうよ、私、貴方のこと馬鹿にしたのに。どうして怒らないのよっ」

「俺は……」相沢君はすぐに言った。「香里のことを怒ることも嘲ることもできない。だって……」そして、一度言葉を切る。「俺、前に言ったよな。栞のこと、ちゃんと妹としてみてやれって。正面から向きあって欲しいって。でも、偉そうに言った本人が同じことをやろうとしたんだ。栞が死んだのがショックで、俺は全てを忘れようとした。栞なんて……初めからいなかったって考えようとしたんだよ。烏滸がましいよな、香里がどれだけ苦しんでいるか知らず、俺の都合ばかり押し付けておいて、ふと自分の番になったら逃げ出したんだから。名雪に諭されなかったら、俺は取り返しのつかない過ちを犯していたと思う。だから、香里が今苦しんでいるのならそれは俺にも責任がある。嘲りの目で見られないといけないのは俺の方だ……」

 絞り出すような、相沢君の告白。それは、私の心を明らかに動揺させた。自ら曝け出した弱さという名の懺悔。けど、何故それが私を動揺させるのだろうか? 相手の弱さを知ったから? それなら安易な同族主義で片付けてしまえるだろう。けど、それ以上の威力を以って、彼の言葉は私の心を掻き乱した。

 それは……、多分……、いや……、分からない…・・。大抵のことは煮詰めていけば簡単に分かってしまうのに、この感情だけは巧く表現できなかった。でも……パズルのピースを無理矢理に嵌め込んだからといって答えが変わるわけではない。煽動される絵が一通りしかないのと同じで、私が仕出かしたことの真実は変わらないのだ。

「違うの……違うのよ」私が苦しんでるのは、相沢君のせいじゃない。私自身の罪だ。そのことを伝えたくて、静かに口を開いた。「私があの娘を、栞を追い詰めて……」私は思わず、あの日のことを相沢君と名雪に話し始めていた。聖なる夜の、残酷な死の宣告……最低のクリスマスプレゼントのことを。栞がこの世からいなくなればと本気で祈ったこと、言葉で以って追い詰めてしまったことを。「相沢君は悪くない……悪いのは私だけ。愚かなのも、卑怯なのも、全部私だけなの。なのに、何で私を叱ってくれないの? 何で私を嘲ってくれないの? 何で私に謝ってばかりなのよ」

 何で……みんな優しいのよ……。

「じゃあ……」ドアの向こうから、相沢君の震えるような声が聞こえる。「香里のことを馬鹿にすれば、嘲れば満足するのか? ここから出てきてくれるのか? もしそうだとしたら、いくらでも馬鹿にしてやる、嘲ってやる。お前を暗いその部屋から抜け出させるためなら、何だってやってやるさ」

 そんな申し出が、怒気と共に部屋を揺らす。それはとても魅力的な言葉だった。そう、私はこう言ってやれば良いのだ。分かった、言う通りにすると。そうしておいて、約束を破ってしまえば良い。どうせ私は卑怯な人間なのだ。そこに一つくらい、卑怯の上塗りをしたところで心が痛むなんてことはない……筈だ。

「分かった、約束するわ」そうあっさりと言ってみせる。「その替わり、容赦しないでよ」

 相沢君にぼろぼろに言われれば、もしかしたら死を願う私の心が一押しされるかもしれない。私は立ち上がると、もたつく身体を僅かに起こす。そこへ襲ったのは不意の大音量だった。

「馬鹿だよ、お前は……」相沢君が、ドアを拳で思いきり殴り付けたらしい。鼓膜を僅かに騒がせ、擬似的な高周波が内耳の奥から響いてくる。「何でお前はそこまで自分を責められるんだよ。香里がそこまで自分のことを追い込んで傷付ける必要なんて、どこにもないじゃないか。それをわざわざ背負い込んで、一人で苦しんで……お前は本当の馬鹿だ」

 耳鳴りよりも強く、それは私の中に入り込んでくる。嘲りの中に含まれる、強い許容の言葉。それは甘い誘惑……だからこそ、屈してはいけない。

「違う……」私は相沢君の言葉を全否定しようと努める。「私の欲しいのはそんなものじゃないの。嘲っておいて持ち上げるような、そんな中途半端な言葉じゃないのよ。私のことを最低だって言って欲しいの。私が……」そして私は続けて言った。「私が、栞のことを殺したって言って欲しいの……」

 そうだ、私が求めているのは判決を言い渡す判事の存在。有罪、そして死刑と宣告してくれる無慈悲なる判事の存在なのだ。

「誰も殺したりなんかしてない」だが、相沢君の言葉はそんな私の期待を一気に打ち砕いた。「誰もそんなことしていない。誰も栞にそんなことしてないんだ。誰も香里にそんなこと言わない、誰もそんなこと思ったりしてないから……頼むから、そんなこと言わないでくれよ」

 違う……違う違う違う違う違う。

「もういいわ」私はこれ以上、相沢君と会話を交わすことに耐えられなくなっていた。「もう嫌なの、優しくされるのも、優しくされてつけあがりそうになる自分を抑えるのも。どっか行ってよ、みんないなくなってよ……」そして、私だけが残されれば良い。

 残された一人は……。例えばクリスティの有名な推理小説であれば、首を括って死んでしまう。極限状態と、そして自らが犯した罪に悔いて。その女性も、言葉で以って一人の人間を殺したのだ。私と同じように。そして、その女性に言い渡された判決は……死刑だった。けど、私の部屋には天井から吊り下げられた絞首台のロープも、そこまで首を伸ばすための椅子も存在しない。

「嫌だ」相沢君は容赦無く言い放つ。「お前だけ苦しんでるのに、どうして逃げるようにしていなくならなきゃいけないんだ」そして、もう一度ドアを強く殴った。「どうすれば良いんだ」

 どうすれば良い? だから、さっきも言った筈。私のことをぼろぼろにして……できるなら、それよりも明確なものを与えて欲しかった。死という名のアンチテーゼと罰を。けど、今はそれよりもドアを挟んで対峙する相沢君と名雪を追い払ってしまいたかった。今すぐ、今すぐにだ。机の前に立つと、私はペン立てからカッタナイフを取り出した。そして、刃を露出させる。時計の進む音を早送りしたような音がし、ところどころに錆が見られる刃先が半分ほど剥き出しになったところで指に込める力を抑えた。

「香里、何やってるんだ」外にもその音が聞こえたのか、相沢君が慌てて何度もドアを叩く。「馬鹿な真似はやめろ」とお決まりの科白が聞こえてきた。

 そんなに騒がしくしなくてもすぐに分かるわよ……そう心の中で呟きながら、ドアの方に近付いた。狂っているのは分かっている、けど、私は自分の行動を止める術を知らない……。

 静かにドアを開ける。こちらから相沢君と名雪の姿が見えた時、向こうからもまた私の姿が見えている筈だ。やつれ果て、それでも顔に酷薄な笑みを浮かべ、右手に刃の零れたカッタナイフを握っているその姿を。

「相沢君、名雪、こんにちは」私はまるでそれが平凡な日常であるが如く、平静にそう呼びかけた。「どうしたの? 二人とも、鳩が豆鉄砲食らったような顔して……何かあったの?」

「香里、どうして……」名雪の顔が、恐怖と狼狽とで歪んでいる。潤んだ瞳が、困惑と共にこちらに向けられていた。「なんで、カッタナイフなんて持ってるの?」

「何をする気なんだ?」一方、相沢君はこちらを厳しい目で睨んでいる。片側の手は名雪を制するよう、守るようにして緩やかに伸ばされていた。「どういうつもりなんだ?」

「どういうつもり? 決まってるじゃない」そう言うと、相沢君の方にカッタナイフを向ける。警戒の度合を増す彼に、私はこう言ってやった。「相沢君、言ったわよね。『お前を暗いその部屋から抜け出させるためなら、何だってやってやるさ』って。私はちゃんと部屋から出てきたわよ、だから……」そう言って、カッタナイフを更に相沢君の元に近付ける。「これで私を刺して……私を楽にして欲しいの」

 ほら、私は狂ってしまっているのよ。だから、こんな私なんて見捨ててどこかに行けば良いから。それとも、私のこと本当に刺してくれる? そうだと嬉し……

「ふざけるな!」相沢君の声と、右手の甲に痛みが走るのとはほぼ同時だった。かしゃんと音を立てて床に落ちたそれは、慣性のままに転がり、壁にワンクッションして動きを止める。「つっ……」とうめく声にナイフから相沢君に視線を移すと、彼は私の甲を叩いたであろう右手の人差し指を抑えていた。そこから僅かに、赤黒い血の滴りが見て取れる。そして、更に声を荒げた。「そんなこと、できるわけないじゃないか」

「どうしたの? さっきの音は……」

 流石に大き過ぎる物音だと思ったのだろう、母がこちらに向かいながらそんな声をあげる。だが、私は構わずに、今度は名雪の方を向いた。名雪は手を怪我した相沢君と、私の方を交互に見回している。

「だったら名雪でも良いわ」そして、その顔を伺う。「私を……殺してくれないかしら」

 私は名雪の反応を待つ。しばらくはその言葉に呆然としているだけだったが、やがて見たことのないような険しい表情をみせた。それは名雪が初めて見せる、純粋な怒りの感情だった。強く歯をくいしばり、それから右手を思いきりあげる。殴られると思い、咄嗟に目を瞑って衝撃に備えた。けど、私を襲った感覚は痛みなどでは決してなくて……。「ばかあっ」という叱責と、私の全てを包み込むような、慈愛に満ちた抱擁だった。

「えっ?」目の前に展開されている光景を不思議に思ったのだろう。やってきた母が、素っ頓狂な声をあげた。でも、それは当たり前だと思う。廊下で名雪が私のことを強く抱きしめていて、廊下には僅かに血の付いたカッタナイフが落ちていて、相沢君は傷口を抑えることなくその光景を眺めていて……。もし私が同じような光景を見たとしたら、異次元に迷い込んだと思ったかもしれない。ドラマでも見られないような滑稽な場面。

 そんなことを思う一方で、私は名雪の行動に戸惑っていた。客観が自分の置かれている状況を判断し終わると同時に、得も知れぬ主観が頭を支配し始める。

「そんなこと、言わないでよ……」名雪の声はいつのまにか涙を含んでいた。「殺してなんて言わないでよ、死にたいなんて思わないでよ」背中に、暖かい雫がぽたり、と落ちる。「栞ちゃんが死んで悲しいのに、香里まで死んじゃったら、わたしどうしたらいいのか分からないよ……悲しいことと苦しいことで一杯になっちゃうよ……頭が変になっちゃうよ……」

 名雪の悲痛な叫びが、この家一杯にこだました。

「わたしには香里がどれだけ悲しい思いを抱いているかなんて分からない……当事者じゃないから。でも、わたしは香里にいなくなって欲しくない。わたしは香里に側にいて欲しいんだよ。きっと祐一も同じ気持ちだと思うから。それが、香里がいても良い理由にならないかな? それとも、わたしや祐一じゃ駄目なの?」

 どのくらいの雫が、背中に降ってきただろう。その一滴一滴が、私の心を強く揺らせた。名雪の声と触れ合う部分を通して、温もりが身体の中を駆け巡る。

 私は取り返しのない罪を犯した。だから死ななければならない、昨日のあの瞬間から私はずっとそう自分に言い聞かせてきた。また、それは成されなければならない……と。

 でも、名雪の言葉はそれを根底から覆そうとしていた。名雪は死んではいけない、生きていて欲しいと必死で訴えている。そして、私は死にたくないと思い始めている。しかし、私は罪人なのだ。ではどちらが良いのだろう。生きていることは強いこと? それとも弱いこと? 死のうという意志は強いもの? それとも弱いもの? 分からない……分からなくなってきている。先程までは単純な理論で割り切れていたものが、今では手触りすら掴めない。分からないことが恐ろしかった。何を思って良いか分からない、何を真とすれば良いか判断できない。そのせいで、間違ったものを掴んでしまいそうで、それが……恐い。

「わたしは……」名雪の私を抱きしめる腕に、更なる力がこもる。「どうしたらいいのかな……」

 それは私にも分からない。でも、こうやって名雪を悲しませていることだけはいけないのだと素直に思うことができた。

「ごめん……」その言葉を口にすると、私は名雪を強く抱きしめた。「ごめんなさい……」そしてもう一度、心からの言葉を紡ぐ。それ以外の言葉は、私には思い浮かばなかったから……。

 私は何をしたら良いのだろう。どうすれば良いのだろう。けど、今は無性に温もりが欲しかった。全てを包み込んでくれるような、そんな温もりが……。

[PREV PAGE] [SS INDEX] [NEXT PAGE]