二月三日 水曜日

第八場 ダイニング・ルーム

 太陽は山の向こうへとその姿を消していた。空は無秩序な雲に覆われ、遍く星の光も疎らだ。その中で、月はヴェールの向こうから微かな光を地上へと降らせている。雪の踏みしめる音も響くような静寂の中で、俺たちは黙って歩いていた。いつもの通学路も、こんな遅い時間に歩くと全く違った印象を抱かせる。例えば、人が一人通るのがやっとに見える脇道から、何か得体もしれないものが飛び出してくるような感覚に襲われたり、本当は別の道を歩いているのではという錯覚に囚われたり……そんな感じだ。だから、ようやく見えてきた水瀬家の姿形がいつもと同じであったことは僅かに俺の心をほっとさせた。

 玄関のドアを開けると、「お帰りなさい」と言う声と共に秋子さんが出迎えてくれた。その光景を、俺は改めて不思議だと思った。秋子さんは日常ではない何事かが起こった時、いつもこうして玄関で出迎えてくれる……温かい笑顔と一緒に。まるで離れていても、俺の心をいつも察してくれているかのようだ。

「ただいま、お母さん」名雪は先頭を切って、そう挨拶を返す。俺もそれに倣って「ただいま」と挨拶を続けた。

「寒かったでしょう……あら?」そこで秋子さんは、俺と名雪の後ろに隠れるようにして立っていた少女の存在に気が付く。「香里ちゃんも一緒だったの……こんばんは、お久しぶりですね」

「あ、こんばん、は……」ボストンバッグを抱えたまま、ぎこちなく答える香里。「あ、その……」何か言葉を発しようとするのだが、舌がもつれてうまくいかないようだった。

 その様子を見て何を感じたかは分からない。だが、秋子さんはいつも通りの微笑みを香里に向けた。そして「今日はゆっくりしていっていいんですよ」と声をかける。

「名雪、二階に空き部屋があるから案内してあげて」それからそう指示を出す。俺も二階に付いて行こうとしたのだが、「祐一さんは夕食の準備を手伝って下さい」と言われてしまった。

「あ、では……お邪魔します」香里はバッグを担いだまま不恰好な一礼をすると、名雪に付き添われて二階にのぼって行った。少し不安だったが、名雪が一緒なら大丈夫だと思い、秋子さんの手伝いに専念することにする。

 だが、ダイニングに来てみると料理の準備は皿のセッティングを含めて全て完了していた。勿論香里の分はないが、食器棚から一つ調達して来れば良いだけのことだ。台所から漂うカレーの匂いが食欲を刺激する。水瀬家のカレーはカレー粉をベースとして、何種類かのスパイスが独自に配合されている。辛いが後を引かない絶妙の味で、肉や野菜も煮崩れせず、それでいて旨みをたっぷりと含んで柔らかい。適当にカレー専門店と銘打っている店など比べ物にならない味だった。

 どうすればこんな味が出るんですかと、俺は一度秋子さんに訊いてみたのだが、「これとあのジャムのレシピだけは、そう簡単には教えられないわ」といわくげな表情で返されてしまった。「思い出の味ですから……」と付け加えられて。

 どのような思い出があるのかは分からないが、片は美味の塊のようなカレーで、片は味を超越したオレンジ色のジャム。微妙に不釣合いだが、どちらも秋子さんという人物を顕わしている。ミステリアスな叔母を目の当たりにすると、何故か納得できるものを感じるのだった。

「祐一さん、良いですか?」

 その一声で、俺は我に帰る。秋子さんはいつも空白の指定席となっている場所に、ポテトサラダが盛られた鉢とスプーン、箸を一組ずつ置いた。中心には氷のたっぷり入ったポットがある。うっすらと滲んだ露が、その冷たさを示していた。

「了承」秋子さんはいきなりそう言う。「けど、簡単な事情くらいは話してもらえないかしら」

 成程……と思わず感心する。だから秋子さんは、名雪を香里について上がらせたのだ。ディレクションの巧妙さに、俺は舌を巻いた。しかしそれは、香里のことを思いやってのことなのだろう。

 俺は何一つ偽ることなく、秋子さんに本当のことを話した。香里の家であったこと……ドア越しの会話、そしてカッタナイフの一件も、そしてその後に起こった出来事も……。

 しばらくは呆然としていた香里の母親だったが、ふと我を取り戻したのだろう。いくつもの場所に忙しなく目を移し続けながら、次第に表情が恐慌に向かいつつあるのを俺は感じ取った。そこで咄嗟に先手を取って――どうしてこんなに素早く頭と身体が動いたのかは俺にもよく分からないが――言った。

「いえ、何でもありませんから」

「何でもないって……」香里の母親は、冷静な俺を困惑げに見つめた。

「それよりも……」俺は何か良い弁解の手段はないかと、悪戯っ子のように拙い頭を巡らせた。「あの、香里なんですけどやっぱり相当参ってるようなんです。で、この家にいるとどうしても栞のことを思い出すでしょうから」この言い方は、少し卑怯だったかもしれない。「だから、今日一日は……名雪の家に泊まったら良いのではと話してたんです」

 俺の家……という言葉が危うく口を出そうになる。そう言っていれば、少しややこしいことになっていただろう。そんなことを考えながら、ちらと香里の方を見る。名雪の背に視線を預けていたが、俺の言葉に「え……」と言いながらこちらを向いた。軽く目配せすると、香里はしばらくそのままの表情で硬直していたが、やがて静かに目を伏せた。異論はないと判断して、今度は名雪に目でメッセージを送る。鈍感なこいつのことだから伝わったかどうか不安だったが、名雪は慌てずしっかりとした口調で話し始めた。

「わたしからもお願いします」香里に添えられた両腕はそのままに、小さく香里の母親に礼をする名雪。「学校に来てなかったから、話したいことも一杯あるし……」

 それは名雪の本心なのだろう。そんな言葉のやり取りを聞いて、香里の母親は目を瞑り影がかかるほど深く俯いた。だがその仕草は短いもので、うっすらと目を開くと深く頭を下げた。

「すいません……」その一言だけ……それが俺には大きな重みに感じられた。それから香里の側によると、ウエイブのかかった髪の毛を何度も撫でる。愛しむように何度も、何度も……。そして呟くようにして言葉を紡いだ。「香里……」そして、「ごめんね……」と。

 香里は大きく首を振ると、唇だけを動かした。そこから声は漏れなかったが、俺には『ごめんなさい……』と言っているように思えた。その光景に、俺は次に何をしたら良いのか分からくなった。ただ分かるのは、香里の母親が香里のことを本当に想っているということだ。能弁に語らずとも、この光景を見たものなら誰もが感じ得ることだろう。少なくとも俺はそう思う。

「相沢さん……」最初に口を開いたのは、香里の母親だった。「話したいことがあるので……来てもらえませんか」

 俺は何だろうと思いながら、ゆっくりと頷いた。それから「名雪は香里の側にいてやってくれないか?」と声をかける。香里を一人にするのは心配だったし、今は誰よりも名雪が側にいてやらなくてはならない時だと思ったから。名雪も考えは同じなのだろう、「うん……じゃあ準備とかして待ってるね」と沈んだ場を少しでも持ち上げるように弾んだ声をあげた。

 俺は香里の母親と階段を下りる。通されたのは、ダイニングだった。水瀬家より規模も広さも一回り小さいが、四人で食事するには充分な広さ。「適当に座って下さい」と言われて、俺は最も近い席に腰掛ける。もしかしたら栞の腰掛けていたかもしれない椅子に……。そう思うと、何となく落ち着かなかった。

 香里の母親は棚から木製の箱を取り出した。赤十字が掘り込まれているところを見ると、救急箱だろう。そこからガーゼと包帯を取り出しているところを見て、ようやく右手の人差し指に怪我をしていたことを思い出す。見ると、浅く裂かれた部分から爪の方まで赤に染まっている。僅かだが、疼くような痛みも感じられた。

 香里の母親は、消毒液を取り出すとガーゼに染み込ませた。「少し染みますが良いですか?」と疑問形で尋ねてくる。それは、嫌だと断れない数少ない質問のうちの一つだ。実を言うと、消毒液と傷痕が触れた時の電気が走ったような痛みが余り好きじゃない。小学校の頃は色々と馬鹿をやって、しょっちゅう傷をこさえては呆れられながら母に治療を受けていた。男だからぎゃあぎゃあ言うんじゃないのと、毎回のように窘められていたのを憶えている。男だろうと痛いものは痛いのだが、こんな時に無用な心配をかけるべきじゃないということも分かっている。無言で指を差し伸べると、やっぱり好きにはなれない痛みと格闘しながら、表面上は平静を装ってみせた。透明なガーゼに大きな赤い染みが形成される頃には、その痛みも少し和らいでいた。傷口に薄いガーゼを当てると、きつめに包帯を巻く。切り傷は圧迫止血が基本……保健体育の授業の記憶が頭を過ぎった。

「これで大丈夫です」余った包帯を鋏で切ると、香里の母親がそう断言した。鋏を一度だけ打ち鳴らすと、静かにテーブルの上に置く。溜息をつくと、改めて姿勢を正した。「ごめんなさいね、相沢さん」今度はしっかりとした口調で。「それをやったの、香里なんでしょう?」

「いえ……」そうじゃないと言おうとしたが、香里の母親は首を振ってそれを制した。

「大丈夫ですよ、今は落ち着いてますから」そして、怪我した指を軽く握り締めた。「本当なら、その傷は私が受けるべきだったんでしょうけど……どうも私は、香里の母親としては失格みたいです」

「そんなことはないですよ……」俺は方便でなくそう答えた。香里の髪を撫でている姿を見て、本気でそう思ったのだ。だが、香里の母親は再び首を振って言葉を制した。

「分かってるんです。私が香里に色々な無理を強いてきたことも、決して平等には扱ってこなかったということも。栞のことで大変だったことは勿論ありましたけど、でも香里は私たちに無理をかけまいと香里なりに努力してくれてたんです。だから、私も主人もそれに甘えてしまって。でも、負担や苦痛にならないわけなかったんですよね。何故、それに気付けなかったのか……」

 平板と語り始めた、その表情が次第に翳を帯びてくる。

「実を言うと……相沢さんと水瀬さんにも聞こえたかもしれませんが、香里に強い口調でこう言われたんです。『気持ちが分かってる? 知った風に口をきかないでよ』と。そうですよね、今まで気持ちを理解しようとして来なかったのにいきなり気持ちが分かるなんて言われたら、腹が立ちますよね……」

 悔恨の気持ちは強く部屋に響き……。

「香里がずっと自分のことを責め続けていたことも知りませんでした。栞が、自らのリミットを知りながらそれでもいつもと変わらぬよう私に微笑んでくれていたことも……」

 切々と紡がれる言葉に物悲しさがこもる……。

「そのことを話したのが、香里だということも……全部知らなかったんです」

 香里の母親の告白に、少し意外な感を抱いた。てっきり両親もそのことを知っていると思っていたから。

「じゃあ……いつそのことを知ったんですか?」

「昨日の夜です」香里の母親はそう即答した。「私が声をかけると、『私が栞に本当のことを話したから……』と……不明瞭でしたが、確かにそう言ったんです。それで初めて、香里が苦しんでいる理由を知ったんです。あの子は栞にそう長く生きられないことを話したから、そのせいで死期が早まったんじゃないかって……そう考えているんだな、と。私はショックを受けました。自分の子供たちのことすら、分かっていなかったのだということにです。でも、それより許せないのは……」

 香里の母親は、拳を強く握り締めた。

「あの時香里に、そんなことはないと言ってやれなかった自分です。悲しみの底にある筈の香里に、自らの衝撃だけにかまけて一つも慰めの言葉をかけてやれなかった自分です。余りにも鈍感過ぎた自分自身なんです」

 後悔の言葉。それは俺を通り抜けて、別の人物に……恐らくは彼女自身に向けられたものなのだろう。

「私には、暗い後悔の挟間にいた香里を助けることが出来なかった……それを成し遂げたのは相沢さんと水瀬さんで、私は何の役にも立てなかった……」

「……それは違うと思います」俺は初めて、香里の母親の意見に真っ向から反論した。自らばかりを責める調子が嫌で、思わず口が先に出たのだ。「香里が外に出て来た時、あなたはすぐさま手を差し伸べたじゃないですか。髪を撫でて慰めようと、安らぎを与えようと手を添えたじゃないですか。ああ、この人は母なんだなって強く思いました……立派な母だと」それから思い出したように付け加えた。「だから、母親失格だなんて思わないで下さい。香里だって、母親が自分のことを母親失格だと思っていたら、きっと不安に感じるでしょうから」

 そう熱っぽく語ってから、相手が自分と二倍以上も年の離れた大人だと言うことを思い出して、急に恥ずかしい気分になった。

「すいません……」申し訳ない気持ちに満たされ、俺は思わず頭を下げた。「まだ子供なのに、母親くらい年が離れた人に説教めいたことを言って……」

 その間も、俺は俯いて相手の反応を伺っていた。もしかして、かなり無礼なことをしてしまったのではないかという不安感。だが、香里の母親は表情を緩ませると小さく首を振った。それは拒絶や遮りではなく、優しい否定だった。

「いえ、いいんです。そう、ですよね……」少し考え込むような仕草を見せてから、僅かに力を戻した姿をこちらに向ける。「今はやはり自信が持てませんけど、頑張れば母親になれるでしょうか。香里に信頼され、必要とされる強い母親に」

「ええ、勿論……絶対に、大丈夫です」俺は確信をもってそう答えた。それ以外の答えは、どう考えても導き出されることはないだろう。

「ありがとうございます」何度目かの頭を下げられるが、やはりそのどちらも俺には過ぎたものだ。「でも、相沢さんは強いですね。大人の私が恥ずかしくなるくらい」

「えっと……」それは絶対に違う。俺もまた、弱い方に逃げようとした人間なのだから。「俺だって名雪……水瀬さんに強さを貰って辛うじて立ってるくらいなんですよ。それを、同じように苦しんでる香里にも分けようと思って……それだけなんです。人間って勇気を分けて、分けられて生きてるのかもしれませんね……って、今ふっと浮かんできたんですけど」

「それは勇気を分け合う……ってことですよね」香里の母親が感慨深げに呟く。「相沢さん……」それから、力強く言葉を続けた。「こういうことを頼むのは本当はいけないことかもしれませんが、これからも香里の力になってやってくれませんか?」

 その申し出は、考えを巡らせる提案ではなかった。心の中で、それは既に決まっている。

「ええ、香里は俺の大切な友人ですから。何かあったら助けるのは当然ですよ」

 返した言葉につられて、香里の母親は思わず笑みを浮かべる。それは、俺がここに来てから初めて見る彼女の笑顔だった。空気が一気に和むのを感じる。その時、絶妙なタイミングで名雪が顔を覗かせた。

「祐一、こっちは準備できたよ……って、あれ? 祐一と香里のお母さん、何か話してた?」

「まあ、ちょっとしたことをな」俺は先程言ったことが無性に恥ずかしく思えて、口を濁してしまった。「それより名雪、準備はもうできたのか?」

「うん、ばっちり」名雪が保証してもいまいち確実性に欠ける気がするのだが……。「荷物は玄関に置いてあるから。それと……」

 名雪は背中を押すようにして、香里を部屋の中に入れた。顔と前髪の一部が湿っている……どうやら、顔を一度洗ったようだ。

「あ、あの……」あんなことがあった後だからだろう、香里の口調はいつもの明晰さから想像がつかないほどどもっている。

「いってらっしゃい、香里」香里の母親は見送りの挨拶をすると、胸を張ってこおう付け加えた。「明日の夕飯は、香里の大好物を用意してるから」

「うん……」香里は母親から微妙に目を逸らしながら頷いた。「じゃあ……行ってきます」

 そんな二人のやり取りを見て、親というものは似たようなことを言うのだなと感心の気持ちを抱いていた。

「えっと……これで全部です」俺は頬を掻きながら、少しぶっきらぼうにそう締め括った。

 秋子さんは相槌を打つこともなく、ただ静かに俺の話を聞いてくれた。話が終わると「そうですか……」と一言だけ口にする。秋子さんの次の反応が気がかりだったが、上機嫌な笑みを浮かべたのには些か驚いてしまった。「そうですか……」ともう一度言うと、今度は微かに聞き取れるくらいの声で……。

「やっぱり、親子なんですね」

 そう呟いた。その意味を問い質そうと口を開こうとしたが、秋子さんは「じゃあ、カレーの用意をしますから。祐一さんは二人を呼んできてください」と先手を取って交わされてしまった。

 釈然としない思いを抱きながら、俺はその言葉に「……分かりました」と従うしかなかった。

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