二月五日 金曜日

最終場 香里の部屋

 どうして、あんなことを言ったのだろうか……。

 相沢君が部屋を出た後、私は気恥ずかしさと自己嫌悪で顔を枕に埋めていた。ただ冷たい手が気持ち良かったから? それはつまり、タオルだろうと大して変わらないということよね。そう強引に帰結し、私は先程の言葉と行動を闇に葬り去ろうとした。額に触れる大きな手の感触、優しく髪を撫でる仕草が心地良くて……私は必死に首を振って、その感情を押し込める。

 馬鹿馬鹿しい。風邪の時に優しくされたら誰だって申し訳ないと思うだろう、ありがとうと思えるだろう。この胸のもどかしさはきっとそんな感情の延長戦なのだ、臆することはない。一旦元気を取り戻してしまえば一蹴できるような淡い感情。深呼吸をする、息を沢山吸い込み、気持ちと共に吐き出す。それを何度か繰り返すと、胸のもやもやは消えていた。ほらね、単なる勘違いじゃない……、私は自分にそう言い聞かすと目を瞑った。相沢君とのやり取りのせいか、再び疲れと眠気が襲ってきたのだ。電気は消さない……いや、消せなかった。体を伸ばすのが億劫だということもあるが、一人暗闇にいるという感覚にどうしても耐えられなかったというのが大きい。私は光があることに安堵しながら、大きく欠伸をする。それからのことは覚えていない、きっとすぐ寝てしまったのだろう。

 目が覚めると、ベッド脇に名雪がいた。

「あ、起こしちゃった?」名雪はスーパーの買い物袋を床に置く。焦点のぼやける視界を名雪はずっと塞ぎ続けていた。ようやく思考と存在が重なり、私は二、三度瞬きする。それから時計を見た……五時十二分、どうやら一時間ほど眠っていたらしい。外は既に暗く、蛍光灯の光だけが部屋を客観的に照らしている。

「気持ち良く眠ってたから、起きるまで待ってようと思ったけど」

「ううん、良いのよ。折角来てくれたのに、それが分からないのはやっぱり悲しいから」それは偽らざる思いだった。私はタオルを取り、洗面器の中に入れる。氷は三分の一ほど溶けていたが、冷たさは充分に保てていた。

「あっ、わたしがやるから」名雪はタオルを手に取ると、手慣れた様子で余計な水分を絞り取った。そして額に乗せると、覗き込むようにして尋ねてくる。「どう、冷たくて気持ち良い?」

「ええ……気持ち良いわ」頭は少しぼーっとするが、体の調子は少し良くなっていた。やはり眠ったのが良かったのだろう。汗を掻いたせいか、パジャマの下が少しだけ気持ち悪かった。

「そう、良かった……」名雪はまるで自分が幸せであるかのように微笑んで見せる。「ところで祐一はもう来たの?」

 祐一、相沢君……二つの名前が結び付くのに数瞬のウエイトがかかり、それからレスポンスが返る。私は焦る自らを必死に抑え、至って普通の答えを返した。

「ええ、一時間ほど前に来て、ちょっと様子を見てすぐに帰って行ったわ」大勢のところで嘘は言ってない。実際、彼がこの部屋にいた時間は十分にも満たないのだから。

「そっか、それなら良いけど」そう言いながら、名雪は少し視線を泳がせる。それから思い出したように、買い物袋を漁り出した。「あ、それとこれは香里にお見舞いだよ」

 名雪が取り出したのは、中サイズのパック一杯に詰まった苺だった。それを見て最初に思ったのが、何とも名雪らしいお見舞いの品だなということ。

「病気の時ってビタミンCが沢山いるんでしょう?」

「あ、ええ、知ってるわ」確か通常時の二十倍のビタミンCが、風邪の時には抵抗力促進のために使用されるとどこかで聞いたことがある。うろ覚えの知識だが。

「苺ってビタミンCがたっぷり含まれてるから、体にも良いんだよ。香里、でも味の方はちゃんと分かる?」

「ええ、そっちは大丈夫よ」実際、昼前に食べたお粥の味は今でも微かに残っている。「食欲は余りないけどね」その代わり、そう付け加えておく。今もご飯を一粒だって食べたくない気分だった。けど、一つも食べない訳には行かないだろう。「でも、甘い物なら少し入りそうな気がするから頂くわ」

「それじゃあ袋を開けるね……はい」名雪は苺のへたを取ると、片手に収まるくらいの苺を一つ手渡した。

 私は半分ほど食べてみて、思わず顔を顰めてしまった。「ちょっと、これ酸っぱくない?」口の中から無意識に唾液が湧いてくる。こめかみの辺りが抑えつけられるように痛んだ。

「え、本当?」私の言葉に、名雪は首を傾げると、パックから一つ苺を取り出し、口の中に入れた。しばらくして、僅かに眉を潜める名雪「本当だ、結構酸っぱい……でも、これはこれで結構美味しいと思うけどね、わたしは」

 無邪気にはしゃぐ名雪を見て、この娘は苺なら何でも良いのではと思ってしまう。手に残った苺と目を通い合わせ、勿体無いからという理由でもう半分も口にした。相変わらず酸っぱかったが、一口目よりかは威力は低い。そして、何となくもう一つ食べたいという気持ちが湧いてくる。それはビタミンを欲する生理的欲求だろうか、それとも酸っぱさの裏に隠された美味しさが分かったからだろうか。しかし、二つ目の苺に手を伸ばした時、私は何も考えていなかった。

 続けざまに三個ほど口に放り込んだところで、名雪がこちらを羨ましそうに眺めていることに気がつく。私は伸ばした手を空中に留めた。確かに……私は苦笑気味に思う……名雪が苺を食べるところを眺めているだけなんて拷問に等しいだろう。私は無意識のうちに笑いながら、名雪に言った。

「名雪は食べないの?」その言葉を聞き、名雪は本当に嬉しそうな顔をした。しかし、次の瞬間には躊躇うように首を振る。

「あ、でもこれは香里のお見舞いに持ってきたものだから……」

「いいのよ。私、今は余り食欲ないから。それに名雪の大好物を独り占めしたんじゃ、悪いじゃない」

「そう? ……じゃあ、貰っても良いかな?」

 私は今のままの表情でゆっくりと頷いた。すると名雪は、まるで宝物でも見つけたみたいに輝いた表情を見せ、苺を手に取った。やや大振りの苺を口一杯に頬張る名雪。

「うー、酸っぱい……けど美味しいね」

「ええ、そうね」名雪の笑顔につられて、私も素直にそう頷いた。それから二人でしばらく、夢中で苺を食べた。私と名雪でほぼ半分ずつ。パックの中がヘタだけになると、名雪は今日、学校であったことを話してくれた。とは言っても、授業は相変わらずで休み時間がちょっと楽しいくらいの対して代わり映えのない一日。

「でね、祐一ったら昼食の時にね……」名雪は呆れた表情を見せながら、昼食の相沢君の凶行についてつぶさに語って見せた。Aランチの苺ムースを奪い取ろうとしたらしいのだが……。「ねっ、ひどいでしょう、極悪人だよね」

「そ、そうね……」余りに熱の入った迫りように、私は少し戸惑いながら答えた。相沢君、愚かなことをしたわねと心の中で呟いてみる。そして名雪の苺ムースを奪おうとする彼の姿、そして……。

「ん、どうしたの香里、ぼーっとして」

「あ、いいえ、何でもないのよ」どうも、今日は風邪のせいか頭がほとほと参っているらしい。頭にまた、あの時の光景が浮かんできた。「少し疲れたかなって思ったの」別に誤魔化す必要なんてないのに、私は思わずそんなことを口にしていた。

「そう……じゃあ、今日は帰るね。香里、ゆっくり休むんだよ。あ、ゴミとかはどうしたら良いかな?」

「そこのゴミ箱に入れておいて良いわよ」

 私は机の前に置かれたゴミ箱を指差した。

「うん、分かった」名雪は買い物袋ごとゴミ箱に放り込むと「来週また、学校でね」くるりとこちらを振り向いてそう言った。そして部屋を後にする。廊下や階段を歩く音も徐々に遠ざかっていき、そして静寂の支配する一つの空間に戻った。苺の酸っぱさだけが口の中に僅かに残り、それが夢ではないことを認識させてくれる。

 私は再び目を瞑る。けど、とても眠れそうにない。静かに天井を見つめ、時計の針の音に耳を傾ける……暇だ。先程までは目が覚めていても、暇だと思うことさえできなかったから、朝に比べれば病状も緩和しているのだろう。

 下らないことを考える余裕だって生まれる。例えば……、私は本でも読んでそれを紛らわせることにした。他に思考を挟むことのないくらい、重たい内容の本だ。気だるい体を起こすと、本棚からハードカバーで五百ページ近くある本を取り出した。

 だが、すぐに頭が痛くなったのでやめた。読むのに体力すら使いそうな本を読むほどには体力が回復していないようだ。私は本を枕の横に置くと、僅かに痛み出した頭を休める。

 それからどのくらい経ったのだろうか。母が夕食を持ってきてくれた。人参、里芋、葱などの具が所狭しと並んだ鍋焼きうどん。

「香里、食欲は大丈夫?」

「えっと……」私はお腹の方に手を添えてみた。「うん、なんか食欲も出てきたみたい」

「そう、それなら風邪も治ってきてるようね。じゃあ、これを食べたら体温を測って……お風呂で手足くらいは洗って……」

 汗を掻いたので本当ならさっぱり流してしまいたかったが、母はおそらく許してくれないだろう。

「うん、じゃあそうするわ」

 仕方なく、私はそこで妥協しておくことにした。私は体を起こすと、うどんを食べる。長時間煮込んだためだろう、具は柔らかかったし、麺も箸で掴むのが難しいほどだった。たっぷりと染み込んだ出汁の旨みと温かさがとても美味しかった。食べ終わると、私は数十時間ぶりに立ち上がる。関節が僅かに痛み、大地が小刻みに震えていた。眩暈、立ち眩みとも言う。私は自らの症状をそう分析しながら、下へと降りた。居間を覗くが、父はまだ帰ってきていないようだ。休んだ分の仕事で忙しいのかもしれない。そう考えて、私は風呂場に向かった。石鹸で何度も手足を洗うと、部屋で予備のパジャマに着替えて再び床に就く。しばらくすると、母が風邪薬と体温計を持って部屋を訪れた。

「ん、じゃあ、これ」母が手渡したのは、最新式の電子体温計だ。私はスイッチを入れると、それを脇へと挟んだ。「じゃあ、またすぐに上がってくるから」

 母はすっかり空になった鍋と麦茶の入ったコップを手に持つと、台所に向かった。再びこちらに戻ってくるのと体温計がピープ音を数度発したのは同時で、私はデジタル表示の数字を見定めた。七度六分、今朝よりも下がってはいるが、まだ平熱からは遠い。

「うーん、まだ熱があるからやっぱり明日は無理ね……」母はその数値を見て、渋い顔をしながら言った。「まあ、週末きちんと休めば来週には元気になると思うでしょう」

 それから開きっぱなしにしていたカーテンを閉める。私は渡された風邪薬を飲んだ。錠剤だから、舌に乗せなければ苦味に顔を歪める必要もない。私はコップに入った水を飲み干すと、ベッドに横になった。食べ物が胃に入ったのと、薬の導眠作用で徐々に瞼が重たくなってくる。

 それを見た母は「香里、もう眠るの」と尋ねてきた。私が頷くと、母は蛍光灯の電気を消そうとする。

「駄目っ、消さないで」思わず叫んでしまう。

「でも、眠いんでしょう?」母は不思議そうな顔で、私の訴えに首を傾げた。私は躊躇いながらもその問いに答える。

「怖いの……部屋が暗いと……独りだと怖い……」まるでお化けを怖がる子供のようだと思うのだが、それでも本能的な部分が恐怖を抱えこんだまま解放してくれない。

 母はそんな私の顔を、心配そうに覗きこんだ。「怖いって……、そう、だったら眠るまでずっと一緒にいてあげるから」

「えっと……」その言葉に、私はつい戸惑ってしまう。「本当に良いの? 迷惑じゃない?」

「迷惑だなんて思わわけないでしょう」母は少し強めの口調で窘める。「母親が子供の心配をするのは当たり前なんだから……」それから私の手を握り締め、優しく言った。「だから香里は安心して、ゆっくりと休んだら良いのよ」

 手と手が触れ合った。そこから流れてくる体温が心地良くて、胸が苦しくなる。しかし、その感情が私を安心させた。なんだ、じゃああの時に感じたものもこれと一緒だったのだという、強い確信が生まれたからだ。強いて言うなら、優しさに対する感動、そして強い感謝の思い。だから、別に戸惑うことなんてなかった。私はこういうことに慣れてないから、相沢君の行動が不意打ちだったのだ、ただそれだけのこと……。

 心の平衡に折り合いがつくと、途端に安堵感が体に押し寄せてくる。私は母の顔を見た。その顔を見返し、母は小さく微笑んでくれる。私は……何も言えなかった。

 でも……不意に私の頭に生まれた猜疑感。もし私と栞の両方ともが苦しんでいたら、母は果たしてどちらに付いていてくれただろうか。そんな疑問が生まれる。

 いや……私はそんな醜い疑問を咄嗟に振るい落とす。栞が隣の部屋にいるならば、私はこんなに悩むことはないのだから。孤独と闇に震える哀れな感情など、持ち得ぬ筈だ。

 すぐ汚い嫉妬心に支配されようとする自分が嫌になる。私をすぐさま邪な考えへと追い込もうとする自分がいることへの嫌悪感。そしてその自分とは、まごうことなく私だ。

 どうして私は、差し伸べられた手を素直に受け止めることができないのだろう。どうして裏を探ったり、こねくり回したりするのだろう。不純物を混ぜ込んでしまうのだろう。

 涙が出そうになる。けど、母が見ているから必死に堪えた。いつもより弱いのは、やはり風邪のせい? それとも、自分の醜さに愛想が尽きたから?

 眠い……考えるのが面倒くさい。考えるのは、また明日にしよう。今日はもう、眠るのだ。

 夢を見た。

 夢の中で私は、ベンチに静かに腰掛けていた。そして、栞は熱心に私を中心にした人物画を描いている。

「できました」

 いい加減、欠伸を何度も噛み殺していたところに栞の可愛い声が飛ぶ。私は栞の元に駆け寄った。

「ふーん、じゃあ見せてもらうわね」

 スケッチブックのページを見る。何だか蛇女のように舞った髪の毛……これが私なのだろうか?

「栞……私、こんなに怖いイメージがあるの?」

「えっ、そんな感じに見える?」

「ええ、何だか西洋神話に出て来るメデューサみたいよ」

「むーっ、そんなこと言うお姉ちゃん、嫌いなんだから」

 正直な感想を述べると、栞は頬を膨らませてしまった。

「ごめんごめん、上手く描けてるわよ」私は十割お世辞の入った言葉を向ける。それに、むくれた栞を宥めるのが実は好きだった。

「うーっ、本当に?」

「ええ、本当よ」私は大笑いしたいのを抑えながら、真面目な顔で答える。「ところで絵のタイトルは何なの?」

「ふふっ、それはね……」栞はそう言いながら、スケッチブックの裏側を見せる。そこに書かれていた文字。

『大好きなお姉ちゃん』

 ぽたり……涙が一雫、芝に落ちる。

 あれ、可笑しいな。

 何故、嬉しいのに涙が出るのだろう。

 ふと顔をあげると、栞はどこにもいなかった。

 ああ、これは夢なんだ……と私は思った。

 でなければ、栞が私のことを大好きなお姉ちゃんだなんて。

 そんなことを思ってくれる筈、ないのだから……。

 嫌な夢……なんでこんな夢見るんだろう。

 そして世界は徐々に狭まってくる。

 私と闇以外、何も残らない世界。

 黒で塗り潰した、純粋な世界。

 人を無意識の恐怖に誘う世界。

 そして、私もその世界に包み込まれていった……。

――――暗転、そして一時閉幕―――

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