幕間II その時になって初めて……

夜ごと朝ごと
みじめに生まれつくものあり
朝ごと昼ごと
幸せに生まれつくものあり

1 水瀬名雪

 氷々と吹く風、凍り付いていくわたしのハート。一体、何を期待してるんだろうね。そんなの多分、いや、きっと無意味なのに。

 今日はヴァレンタイン・デイだった。いや、まだ十四日だから過去形で覆ってしまうには早過ぎるだろう。しかし、午後七時を過ぎ、夜の帳も完全に閉ざされてしまった今では、待ち続けていることさえ無意味に思える。

「……祐一、遅いね」

「ええ、そうね。何処かで寄り道でもしてるのかしら」

 お母さんは言うけど、今日に限っては決してそうではないことをわたしは知っていた。第一、早く帰って来てねと念を押したのにこの時間。一時間前までならまだ許容できただろうが、完全に夜の世界に紛れ込んだ後では信じることさえできない。

 今日は一日、色々と奮戦した。今まで、相手が居なかったから作ることもなかったチョコレートを一人の男性のために心を込めて作った。ハート型なんてちゃちで決まりきってるけど、やっぱり思いを伝えるのに最も相応しい形だと思う。どきどき張り裂けそうなこの感じに気付いて欲しくて努力した。甘い香りのするチョコレートを鋳型に流し込み、一つの感情を形成する。ヴァレンタインとは女の子にとって、一つの恋するハートを作ってるに等しいとわたしは思う。でも、恋するハートが報われるとは限らない。

 朝早く、この家を出て行った祐一。何処で、誰と、何をしているのだろう。でも……わたしには直感的だけど分かってた。何処でとか何をとかは分からなくても、誰かと言うのは分かる。美坂香里、わたしの一番大切な親友。二人が何となく惹かれあっているのは、鈍いわたしでも何となく感じてた。ぎこちない時もあったけど、それすらも二人だけの絆を感じて、少し心苦しかったりした。でも、仕方ないのかもしれない。祐一も香里も同じ大切なものを失い、同じような感性と心の強さ、弱さを持ってる。二人はとても似ているから、補い合うようにして激しく愛し合ったとしても何ら不思議ではない。そう、ない筈なんだ……。

 わたしは、二人の関係を祝福すべきなのだと思う。祐一も香里もわたしの大好きな人。そんな二人が幸せを求めて、それを手に入れられるのならとても良いことだと思う。また、その場所にわたしは足を踏み入れてはいけない。側で笑顔でいることは許されても、絶対不可侵の繋がりの間を強引に割り込み断ち切ることがあってはいけないのだ。それが、正しいんだよね……分かってる。

 でも、この想いだけはどうしようもない。七年前、祐一に振られてから半ば諦めていたわたしの近くに再び祐一が帰ってくると知っても、心は幼い頃のようにときめかなかった。自分の心の変化に少し驚いたけれど、これなら気まずさや余計な感情を抱かず友人のように接することができると思った。そして事実、そうなっていった。

朝、学校に遅れないように必死に走る。祐一は少し迷惑がっていたけど、わたしにとってはとても楽しい喧騒の毎日だった。学校に着くと、香里や北川君と四人で一緒に楽しく話す。放課後は部活もあったけど、時には祐一と商店街や百花屋を二人で歩いた。何も変わることなく、ただ緩やかに回る日常だけをわたしは信じて疑うことすらしなかった。

 けど、栞ちゃんが死んでその輪は簡単に切れてしまった。あれほど元気だった祐一も、気丈だった香里もまるで人が変わったかのように嘆き悲しんでいた。わたしはそれが嫌で、少しでも元気を取り戻してくれるようにと必死で走り回った。その力は微々たるものだったけど、二人を暗闇の中に留まらせないよう、少しでも力になれたことに対しては自分を誇って良いと思う。そして表面上は、平穏な気持ちが戻ってきたかに見えた。でも現実は儚くて、悲しみなどそう簡単に癒えるものではなくて……。ある日、祐一は栞ちゃんのことを思い出してうめくように泣いていた。わたしは胸がきゅんと波打つのを抑え切れず、思わず祐一を抱きしめていた。急激に幼い頃の感情が蘇る。それが愛とか恋とか世間で呼ばれているものだと気付くのに時間はかからなかった。祐一の側にいたい、二人で同じ道を歩みたいと何度思ったことだろう。けど、祐一の視線の先にはいつもわたしじゃなくて香里がいた。

 聡明で、美人で、冷たく見えるけど本当は優しくて……本当、香里はわたしなんかとは比べ物にならないほど素敵。そして祐一の悲しみを真の意味で受け止められる唯一の女性。そう、わたしには最初から勝ち目なんてなかった。それに、香里と張り合おうとか出し抜こうとかそんな気持ちは微塵も湧かなかった。それをやれば、わたしは本当に嫌な人間になってしまう。自分で自分を誇れない、汚い人間になってしまう。そう弁解してきた。

 でも、もう限界だった。嫌な人間だと思われても良いから今日だけ、今日だけは自分の気持ちを伝えたかった。そのためのヴァレンタイン・デイ、神様の記念日。でも全ては始まる前から終わっていた。だからもう、終わりにしよう。

「名雪、先に御飯食べちゃいましょうか」お母さんがわたしの様子を心配してか、明るく声をかける。「連絡一つ入れず、夕飯をすっぽかす悪い子は少しひもじい思いをしてもらいましょう」

「……うん、そうだね」その物言いに僅かだけくすりと笑う。「女の子の気持ちの分からない祐一なんて、晩御飯は紅生姜なんだから」

 そう言ってしまえると、少しだけすっきりできたような気がした。わたしはお母さんと二人だけの夕食を久しぶりに楽しむと、二階に上がった。今日は色々考えすぎて疲れた……わたしは根を詰めて考えごとをすると眠くなってしまう癖があるから。

 でも、その日だけは違った。

 目を瞑っても、溢れるのは涙だけだった。

2 北川潤

 どうせ、この俺に似合うのは不恰好な道化役さ……十四日と十五日の境目に至り、そんなことを自嘲的に心の中で口ずさんでみる。全く柄ではなかったけど、今日ばかりはそう思わざるを得ない。

 今日、いや最早昨日になっているが、二月十四日というものが男にとってどんなに重大な日であるかは誰もが認めるところだろう。勿論、その目的はチョコレート……などではない。確かに甘いものも美味しいだろうが、大抵の男はそんなものは求めていない。よく、義理チョコを受け取って喜んでいる男性がいるが、そういう殊勝な女性への御機嫌取りみたいな行動は気に入らないと常々思っている。或いは余程の甘いもの好きなら相好を崩したところで俺だって文句は言わないが。

 男性が求めているのは得てして、チョコレートに込められる思い、それは恋情だったり愛情だったり様々だけど、求めるのはハート。恋焦がれる相手からの唯一のチョコレート、そして想い。それさえ手に入れば、男なんてものは有頂天の余り空でも飛んでしまうのではないだろうか……まあこれは大袈裟かもしれないが。

 だが、それが得られなかった男性は得てして不幸である。ましてやその女性が、他の男性にチョコレートをあげていたり、ましてやキスを交わしている場面など見たりしたら……そう、俺なんか正にその間抜けで不幸な人間の典型なのではないだろうか。ヴァレンタイン・デイとは日本で一番愛が生まれる日であり、また一番愛の潰える日でもある。その壮絶なゼロサム・ゲームの果てに勝者と敗者が生まれる。恋なんて、言わばエゴとエゴのシーソーゲーム……なんて歌ったのはどこのアーティストだったろうか?

 恋愛をゲームに例えることは好きではないし、俺は何も伊達や酔狂で恋をしているのではない。俺は俺なりに真剣な結論を出し、しかし滑稽なまでに臆病な行動しかできない。ただ想いを打ち明ける度胸すらなく、相沢祐一という転校生をダシにしてようやく少しだけ近づけた愛しい人。そんなちゃちな駆引きなんて弄しているから、恋の半分はゲームみたいに見えてしまう、思えてしまうのかもしれない。だが、ゲームも既に終わってしまった。

 今日の俺の行動を日記につけている奴がいたとしたら、十人に十人がそれを滑稽と評するだろう。よく考えれば、香里とは私用で頻繁に会うほど親しい間柄であるのだから、前日にチョコレートを貰えなかったことでもう終わりだと気付くべきだった。だが、生来のお調子者で楽天家の血が本命はやはり当日に手渡しだろうとタカを括っていた。会う約束もしていないのだから、そんなものは本当にただ独り善がりでしかなかったのに。

 無為に早く目覚めた、真冬の朝。ヒータの恩恵は部屋になく、ただ毛布や羽毛に覆われたベッドのみを絶対生存空間と置く自分の部屋ですべきことは、先ずヒータのスイッチを入れることだった。それからベッドに退避し、空気が温まってきたところでようやく本格的に目覚める。時計を見ると午前九時、いつもより二時間以上も早い起床だ。それもこれも、ただ一抹の期待感が示した気分の高揚というやつだったのだろう。今考えれば、ただ愚かだった。

 それから急ぐ必要もないのに、急ぎ足で朝食を食べてからふと思いたち電話の前に立った。今、美坂は何をしているのだろう……俺が電話をかければ会う約束でもできるのではないだろうか? 結局、昼まで考えて俺はそれを実行しなかった。意気地のない俺。

 それから、商店街辺りで偶然出会えるのではないと思い、たちまち重装備に身を固めて家を出た。冬に慣れた人間でも些か寒い商店街の昼辺を、僅かでも痕跡を見逃さないようにと店にも入らずうろうろすること幾許か、やがて西日も沈みかけた頃、俺はようやくこの行為の無意味さを悟った。そして、妙に虚しくなった。こんな消極的なことしかできないから、一年近く経っても何もできなかったのではないか……分かっている、分かってるんだそんなことは。でも、蚤の心臓に等しい度胸しかない俺に何ができる? こうして流れに身を任せ、朗報が近付いてくるのを掬うことくらいだ。

 そこに思考が行き着いてしまうと、最早何もできなかった。とぼとぼと帰路へ着き、ヤケ食いのように夕食を平らげると部屋に戻る。そして布団に寝転んだ。このまま明日の朝まで眠ってやろうとも思ったが、心の中に溜まる煩悶としたそれはいつまで経っても胸の中から出て行こうとしない。時計を見ると、八時少し過ぎ。まだ十四日は四時間もある。四時間……その事実が俺をベッドから跳ね上げさせた。急いでコートを着ると、何やら喚く母親を振り切って俺は走った。美坂香里の家に……例え砕け散っても良いから、何らかの想いを聞かなければ俺は先へと進めない。

 しかし、結果からすればそれは大きな間違いだった。あんな光景を見てしまうくらいなら、まだ家でじっとしていた方がマシだった。ロクなことが起きない日というのは、とことんまで徹底しているのだろう。少し走ったところで息を整えていると、不意に二人の密着した人影が現れた。大方、ヴァレンタインに幸福を得たどこぞのカップルか何かだろうと思った俺は、その正体に驚愕した。それは、本当に親しそうに肩を組む美坂と相沢の姿だった。

 どうして二人が……そんな疑問は疑惑へと変わり、消し得がたい恐怖となって俺の心にまるでギロチンのように振り下ろされた。そして俺は後をつけた。少しは気を遣ったが、きっとその必要はなかったように思われる。辺りは十分暗かったし、何より二人の世界はそのごく限定された空間で完全に閉じられていた。そしてそれは確信に変わる……遊園地、楽しいなどの単語が次々と出てくる。俺が滑稽な芝居をしていたところで、二人は既にその世界を構築しつつあった。凝固な、愛の世界を。そして――やめろと叫ぶのを辛うじて堪えながら――俺は目撃した、二人の、愛し合う二人のキスを。

 二人が別れた後も、俺は呆然とするしかできなかった。二人、よりによってあの二人が……美坂と相沢。以前に相沢の言葉を聞いていたから、それはより深い衝撃となって俺の精神に翳を落とした。あの日、確かに相沢は俺と美坂の仲を応援すると言った……なのに、この急激な展開の変化は何なのだろう。あいつは、最初から俺をたばかっていたのだろうか? いや、違う気がする。

 あの百花屋での相沢の視線は実に真摯で、そこには卑怯とか欺瞞とかそういう単語は微塵も感じられなかった。あいつのあの時点での本心は、正にそれだったのだろう。だとしたら、今の現実は相沢の中で俺のことを気遣うことのできない急激な変化の中で狂おしいまでに醸成された感情なのだろうことは容易に想像できた。俺だってそうだった……一目惚れだった、そこには時間も理屈すらもなかった。ただ、それが全てだったのだ。

 どうやって家に帰ったかは憶えてない。

気付いた時にはコートを着たまま真っ暗闇の天井を見ていた。

 俺は今、何を思っているのだろう。

 裏切った相沢への怒り? 否。

 恋が散ったことへの苦しみ? 否。

 では、自分への弱さ? きっとそうだ。

 この恋だけは何もせずに終わらせたくなんかないと必死で思い頑張ってきた結果がこれだ。余りに滑稽過ぎる。

 誰も恨む気になんてなれない。恋はいつだって唐突だ……それこそ人を思いやる余裕すらないほど激しい恋に走ったとしても、俺はそれを謗ることなどできない。それをやったところで自分の汚さだけを曝け出してしまう……それはやりたくなかった。

 こうなれば、開き直ってずっと友人のままでいようか。

 馬鹿な道化師として、気持ちを偽り続けようか。

 でも、そうしたくても俺の心がどれだけ持つかは分からない。

 きっと、近い内に駄目になると思う。

 俺は、どうしたら良いのだろうか……いくら考えても答えは出なかった。

3 水瀬秋子

 名雪が重い足取りで自分の部屋へと戻ると、私は大きく一つ溜息を吐いた。最近、少し身体が重い。自分でも色々と無理をしているとは思うが、疲れも若い頃に比べて取れ難くなっている。二十代の頃は、仕事に家事にと亡くなった夫の分まで奮戦していたが、疲れたと思うことはなかった。それは一つに、じっとしていれば夫のことを思い出して悲しみで泣き出してしまうと思ったからだった。少なくとも忙しくしていれば、色々な感情を一時的に滅却することができる。そして二つ目には、たった一人の娘のためという思い。

 それは決して義務感などではなく、名雪が可愛く明るい娘に育つようにと願うからであった。辛くなかったと言えば嘘になるが、名雪の前ではそのような表情は一切、見せなかった。そしてそれは、やがて全ての人間へと当てはまる態度へと変遷していった。私は最早、誰にも辛さや苦しさを表に出すことができないようになっている。それが正しいかどうかは分からない。

 けど、私の身など夫が死んだ時からそして名雪が一人前の大人になるまでのものに過ぎないと私は常々思っている。私はきっと、みじめに生まれついた人間なのだろう。不器用で、無様で、毎日笑顔でいることによって辛うじて一人前の表情を保っている。余裕のある女性だと、相手に見せることができる。けど、それはきっと幸せな生き方ではない。名雪は私とは違う。あの娘は幸せに生まれついている。私と違って、ごく自然な形で微笑むことができる。当たり前の優しさで、他人のことを思いやってあげられる。もう、私のすべきことなど僅かしか残っていないのかもしれない。

 ふと時計を見た。もうすぐ八時半になるが、未だに祐一さんが帰ってくる気配はない。名雪にはああ言ったけど、祐一さんの分の夕食は取り分けてラップにかけてある。電子レンジにかければ、遜色はあるにしても熱々の食事が味わえる筈だ。何だかんだいって、こんな時間に帰ってくるのなら身体を芯の底まで冷やしているに違いないから。

 少し頭が痛い。祐一さんがあとどれくらいで帰ってくるかは分からないけど、三十分だけ眠らせて貰おう。目が覚めたら、きっと笑顔で出迎えるからと弁解めいた言い訳をして。テーブルに伏せると、頭の痛みは殆ど気にすることなく眠りへ自然と誘われていった。

4 美坂香里

 結局として、私は自分と祐一以外の人間が同じ時期同じ場所で何を思っていたかさえ満足に知らなかった。いや、知ろうとはしなかったのだ。

 私は祐一と結ばれたことで、幸せになれると思った。背負っている荷物は未だ重かったけど、相沢君といるだけでそれも軽く思えた。際限なく、優しくなれるとさえ錯覚した。

 けど、それは狭い世界の誰も思いやることのない優しさ、そして幸せだったのだと、今振り返ってみれば痛いほど分かる。ただ相手を求めるだけのパラノイアティックな愛は、決して本当の愛じゃない。そのことに気が付かなければ、きっと私も祐一もお互いを狂おしく思うせいでお互いを潰し合っていただろう。

 私は今でも僅かに痛む喉を、そっと指でなぞった。僅かに赤くなったその部分は、他人の思いを自分の幸せと傲慢な主観で塗りつぶした罪に対する罰の証として、例え消えたとしても永久に残っていくだろう。そして、愚かな私の行為を戒めてくれるだろう。

 私はいつの間にか、悲劇の第三幕とも言って良いあの数日間のことを思い返していた……。

―――――新たな幕、そして照明―――――

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