第二幕 それとも、これを恋物語としたら……

It is the most foolish love story in the world

「あなた、なに考えてるの?」で、ぼくがいった――「なぜそんなことをきくんだね?」彼女がいう。「あたしのこと、あなたは愛しているみたいなふうに見てるんですもの」で、ぼくは、「もちろん、愛してるさ」とばかみたいなことをいった。

二月七日 日曜日

第一場 商店街

 休日の商店街の喧騒は、人の流れと共に移ろいゆく。喫茶店、ファーストフード店、鮮魚店、精肉店、ゲームセンタ……喧騒のベクトルは違えど、そこには日々の生活とささやかな幸せがある。俺もその流れに何とか入り込もうとしたのだが、上手くいかない。表層上は平然を装ってみても、やはり大事な人を失った喪失感というものは簡単には無くならないものだ。ただ、辛いということは同時に大好きだったということでもある。辛さは時と共に風化するかもしれないが、大好きという思いは決して閉じ込めてはならないと思う。忘れるくらいなら、少しくらい辛くても良い。そう思えるようになるには、いくつかの葛藤があったのではあるが、それは多分正しいことだ。

「すいません、遅れましたね」

 溶け込めない人のざわめきに心を寄せていると、背後から柔らかな一言が耳をかすめる。振り向くと、そこには大量の生鮮食品を買い込んだ秋子さんの姿があった。

「これ、全部買ったんですか?」

 四袋はある買い物袋に驚きの思いを抱きながら訪ねると、秋子さんはいつもの微笑で軽く答えた。

「ええ。こういうものは安い時に大量に買い込んでおいた方が経済的なんですよ。それよりごめんなさいね、いきなり買い物に付き合わせてしまって……」

「あ、いえ、良いですよ」僅かに沈んだ様子を見せる秋子さんに、俺は慌てて腕を振った。「どうせ暇してましたし、体を動かしていた方が何かと気もまぎれますから」

 そう答えると、安堵も逡巡も含まれる複雑な……それでも精一杯の笑顔を見せる秋子さん。気を遣わせてしまっただろうか? そんな考えが頭を過ぎった。もしかしたら、俺を買い物に誘ったのもそういう気遣いの一種だったのかもしれない。俺は俄かに申し訳ない気分で、抱えていた荷物の袋を二つ、黙って手に持った。

「そんなに気を遣わなくても大丈夫ですから。もう、あんな風に塞ぎ込んだりはしません」

 はっきりそう言うと、秋子さんは僅かに驚きの表情を見せたが、次には完全な平静を取り戻していた。

「別に気を遣っている訳ではありませんから。ただ、単純に男手があると助かるなと思っただけです。祐一さんが大丈夫だってことは、私にはよく分かっていますよ」確信に満ちた笑みを浮かべる秋子さん。「それより、今日は向こうの精肉店でセールをやっているのでそちらにも寄りたいんですが、大丈夫ですか?」

 え、まだ寄るんですか? と一瞬考えてしまったが、抱えている袋の中には肉類は含まれていない。多分、少しでも安い所で買おうという細やかな配慮なのだろう。俺はしばしの沈黙の後、「ええ、こちらはまだ充分に余裕がありますから」と余りある体力を誇示して見せた。まあ、実際に体力は余っていたのだが。

 両手に買い物袋を抱え、昼下がりの街を秋子さんと並んで歩く。親子というよりは仲の良い姉弟に見えるのではないかと思い、軽い気恥ずかしさを覚えてしまう。気になって振り向くと、秋子さんは楽しげな笑みを返した。

「こうして並ぶと……」秋子さんはその想像がさも面白いものであるかのように言った。「何だか本当の親子みたいですね」

「あ、ええ……」心に抱いていた想像の種類が異なることに戸惑いながら、空返事を返した。「そうですね」

 それから絶妙の笑顔と交渉術で、更に二袋の肉類を買い込んだ秋子さんは本当に満足そうな様子だった。誘拐交渉人も真っ青な値切りのテクニックは、秋子さんが主婦として恐るべき手練れであることを如実と示している。精肉店の主人も、「毎度、水瀬さんには叶わないなあ」と頭を掻いていた。秋子さんの凄い所は、どんなに安く買い叩いても相手に不満感を与えないところだろう。それどころか、店の雰囲気が闊達なものとなり逆に客が集まってくるのだ。もしかしたら、精肉店の主人はそのような効果を期待しているのかもしれない。

「じゃあ、こちらもお願いできますか?」と先程購入した肉類の詰まった買い物袋を手渡す。流石に少し重かったが、俺は至って平気であるように振る舞って見せた。

「他に寄る所はありますか?」

 そう尋ねると、秋子さんは首を振った。

「いえ、今日はこれで全部です。それでどうしますか? 祐一さんの買いたいものがあるのなら付き合いますが……」

「こっちは特にないです」強いて言えばその辺りをぶらぶらと回ってみたいという思いはあったのだが、荷物をこれだけ抱えているので無理というものだろう。それに秋子さんにも迷惑がかかる。

 踵を返して水瀬家に戻ろうとすると、商店街の入口付近で見慣れた顔に出会った。雪のような白いコートと、膝下まである暖かそうな茶のブーツを履いたその人物は、予期せぬ邂逅にも動じることなくこちらを向いて軽い一瞥と言葉をくれただけだった。

「あら相沢君、こんな所で会うなんて奇遇ね」

「そうだな……」右手に通学時と同じ鞄を持ち、手はコートと同じ色の手袋を身に付けている。寒さのせいか、僅かに朱のさす顔を眺めながら、俺はいつもの軽口を叩いた。「こうもしょっちゅう会ってると、運命的なものを感じるな」

「当たり前じゃない、同じ学校でクラスメートなんだから……」だが、香里は微塵もうろたえることなく淡々と切り返した。「ところでそんなに沢山の荷物抱えて大変そうね。買い物?」

「ああ、秋子さんに男手が欲しいと頼まれて……」そう言って、側にいる筈の秋子さんを探す。しかし、俺の視界内に姿は見当たらない。「あれ、さっきまで側にいたのに……おかしいなあ」

「あそこじゃない? あそこの洋服店のウインドウを眺めてる」

 香里に指さす方に視線を這わせると、確かに秋子さんはブティックに並ぶ春物の洋服をじっと眺めていた。超然としていても、ああいうところは普通の女性と変わらないんだなと思うと意外な感じがした。

「ふーん、何か意外な感じね」

 香里も同じことを感じたらしい。しばらく二人でその姿を眺めていたが、動作の気配すらもないので話題を変えることにした。

「ところで風邪はもう大丈夫なのか?」本当は、これを最初に聞くべきだったのかもしれないが。「まあ、顔色とかは良くなってる感じだけど。で、香里の方の用事は?」

「ゲームセンタ」香里はきっぱりとそう答える。「というのは冗談で、本当はルーズリーフが残り少ないから買い出し。で、外に出るならついでに買って来て欲しいものがあると言われたの。キャベツに天かす、茹で蕎麦、山芋……」

 どうやら、今日の美坂家の晩御飯はお好み焼きらしい。うちは大量に買い込み過ぎて、晩御飯が何かもさっぱり分からない。

「で、風邪の方は御陰様で良くなったわ。明日からは学校にも出られると思う。そう、名雪にも伝えといて」

「了解、美坂軍曹」俺は敬礼のポーズを取る。「……なあ、何か言ってくれ。黙っていられると虚しい」

「つまらないことするのが悪いんじゃない」相変わらず、香里の返答は素っ気無い。「私は貴方のツッコミ役だけは御免なの」

 容赦ない言葉の刃が、俺の胸に突き刺さる。香里に冷たくされると、他の奴に冷たくされた時に比べて三割増で辛いものがある。

「じゃあボケ役……」

「それはもっと嫌……用が無いならもう行くわよ」

「あら香里ちゃん、こんにちは」俺と香里の会話が破綻を兆す寸前に、気付かぬ内に戻って来た秋子さんが楔を打ち込んだ。「風邪をひいたって祐一さんから聞きましたけど、もう良いんですか?」

「あ、ええ、御陰様ですっかり良くなりました」香里は俺と相対するのとは数倍の丁重さを以って対応した。「それと、先日はいきなり押しかけ泊めて頂いてありがとうございました」

 丁寧な礼をすると、秋子さんは静かに首を振った。

「別に気にしなくて良いですよ。私としては、娘が一人増えたみたいで楽しかったですし。また今度、長い休みの時にでも泊まりに来てくれたら歓迎しますよ。何なら、春休みにでもまた遊びに来ませんか? 名雪や祐一さんも嬉しいと思うでしょうから」

 名雪はともかく、何故こっちの名前まで出すのだろうか? 俺が俄かに訝しんでいると、香里の方は少し躊躇う様子を見せながらしかし嬉しそうだった。

「……秋子さんが宜しければ」香里は少し照れた様子を見せる。そして、それを隠すように慌てて言い繕った。「じゃあ、私は買い物が残っているからこれで失礼します。それと相沢君、また明日ね」

「ああ、また明日な」香里がその言葉を発したのに、俺は僅かな驚きを感じた。「今日は早く寝るんだぞ」

 つられて柄でもないことを言ってしまった俺に、香里は微かな笑顔を向けて去っていった。

 その姿が一件の店に消えると、秋子さんが声をかけてくる。「仲が良いんですね、香里ちゃんと」

「そうですか?」その言葉には甚だ疑問だった。「あいつ、俺が何とか場を盛り上げようと話しかけてもいつも素っ気無いし。確かにいつも一緒に行動しているような気はしますけど、取り立てて仲が良いって感じじゃないです」

 それが、俺と美坂香里という女性との現在での偽らざる関係だった。

「でも、会話のペースとかピッタリでしたよ。なかなか常人にあの間は作れないと思いますけど」

 どうやら、先程の会話を途中から聞かれていたらしい。しかし、名雪や北川から言われたことを、よもや秋子さんからも指摘されるとは……少し恥ずかしい気もする。

「ところで秋子さん……」何とか話を逸らそうと、俺は先程見た光景のことに話題を変えた。「さっき、洋服店のウインドウを眺めてましたけど……」

「ああ、あれですね……今度作る服の参考になれば良いと思って。まだ、春は遠いですけど」

 てっきり、洋服を買おうか買うまいか悩んでいたと思ったのだが、やはり秋子さんは秋子さんだった。もしかしたら、名雪の着ている服は全て秋子さんが縫っているのではないかと思ったが、それを聞くのは何となく憚られた。

「……帰りましょうか」

「ええ、そうですね」

 俺がそう提案すると、秋子さんは一秒ジャストで頷いた。商店街を出ると途端、アスファルトに積もった雪と靴が鈍い音を奏で始める。除雪車も通っているのだろうが、アスファルトに積もった雪は完全には除去されていなかった。だが、雪に足を取られるようなことは既になくなっていた。

 家を着くと同時に、雪がちらつき始める。買い込んだ食材は、プロ顔負けの巨大冷蔵庫一杯に収まっていった。その中に例のジャムもあったが、俺はあえて見ない振りをする。

「これで全部ですね。祐一さん、ご苦労様です」秋子さんは労いの言葉をかけると、少し思案の表情を見せてポンと手を叩いた。「そうね、あれが良いかしら」

 台所を出て、一階奥に続く扉をくぐっていった。僅かに響いていた足音は、しばし静寂の彼方へとその姿を消す。再び戻って来た時には、手に何かのチケットを二枚握り締めていた。

「今日はよく働いて貰ったから、お駄賃みたいなものです」

 余りにもさりげなく手渡されてしまい、俺は思わず受け取ってしまった。一見すると現金ではないようだが……紙に書かれた絵から察するにどこかの遊園地のチケットであるようだった。

「職場の友人の方から頂いたものなんですが、私には必要のないものですし。今度、誰かを誘って行ってみたら良いと思いますよ」

「はあ……」必要ないと言われると、まあ受け取っても良いのかなという気分にさせられる。しかし、誰かを誘ってと言われても心当たりがない。いや……一人だけいる。けど、その女性はもう……。

「ありがとうございます」俺は空返事を返すと、ポケットの財布にそれを丁重に押し込んだ。込み上げて来た感情を必死に堪えると、わざとらしく言ってみせた。「それで、ちょっと喉が乾いたんですけど……何か飲み物をくれませんか?」

「あ、はい。じゃあ、お茶とお菓子でも用意しますね……丁度三時過ぎだし。それで祐一さん、名雪を呼んで来てくれませんか? あの子の好きな苺もありますから」

「分かりました……」ダイニングを足早に出ると、俺は気持ちを落ち着かせるためにゆっくりと階段を上がった。無論――俺は財布に収まっている遊園地のチケットに思いを巡らす――秋子さんにしてみれば、元気付けようと何気なく渡してくれたものだろう。だけど、俺の心には遊園地ではしゃぐ……栞の姿が……くっきりと浮かんで来て、辛い。

 涙が出そうになる。足音がする。二階から、そっと、近付いてくる。多分、名雪だ。「あっ、祐一、どうしたの?」とぼけたような優しい声。俺は声を出さない。いや出せない。「どうしたの、祐一?」再び名雪の声。けど、言葉を返すことはできない。喉に痞えて何も出てこない。流石に驚いた様子で名雪がゆっくりと駆け寄る。「大丈夫? どこか痛いの?」名雪が顔を覗き込み、そして驚く。「泣いてるの?」名雪が問う。「泣いてない」心配させなくてそう答えた。だが、逆効果だった。名雪は少し語調を強めて言った。「泣いてるじゃない!」

 今度は否定しなかった。涙も隠さない。あんなに泣いたのに、まだ涙はとめどなく流れていく。「何で……泣いてるの?」名雪は悲愴な表情を向ける。俺以上に泣いてるみたいに。刹那、体全体が柔らかな感触で包まれる。「栞ちゃんのこと、思い出したの?」次の声は、俺の耳元から聞こえた。「ああ」再び正直に答える。首筋にかかる髪の毛と甘い香りが擽ったい。「わたし……」突然の声。「ううん……何でもない」そして唐突の否定。

 心を落ち着かせると、俺はゆっくりと名雪から離れた。人差し指で涙を拭うと、無理して笑ってみせる。「ごめん、心配かけたな。もう大丈夫だから」

「本当?」名雪は未だに固い表情を崩さない。「わたしに隠れて、一人で泣いたりしない?」

「しないって……大丈夫」俺は名雪の頭を二、三度ぽんぽんと叩いてやる。それから繕うように付け加えた。「それより、秋子さんがお茶とお菓子の用意をしてるから。名雪の好物の苺もあるぞ」

 名雪は一瞬、表情を綻ばせたがすぐに真面目な顔を取り戻した。「うん……分かった。それと祐一、辛いことがあったらわたしに話してくれて良いんだよ。分かってあげることはできないけど、辛さを少しは受けとめてあげることは……できると思うから」

「そうだな。その時は名雪の言葉に甘えるかもしれない」

 俺の言葉に、名雪は心底嬉しそうな顔をする。他人の不幸を背負い込むなんて愉快なことでは決してない筈なのに。どうやったら、人はこんな優しい言葉をかけてあげられるのだろうか。でも、そんなことを正面切って聞くのも恥ずかしいので、替わりにこう言葉を続けた。

「じゃあ、下に降りてお菓子でも食うか」

「うんっ」

 名雪の天真爛漫な笑みに、俺もつられて笑った。

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