二月九日 火曜日

第四場 美坂家

 私は素直に鏡を覗くのが恐い。

 愛用の目覚し時計が大音量を持って、睡眠の淵から覚醒の崖へと追い立て突き落とす。不愉快に部屋を震わせるデジタル音に、霞のかかったような頭脳が徐々に熱をもっていくのが分かる。煩い、その思いがある程度思考のスタックに貯まったところでゆっくり体を起こす。鉛が入ったかのようにけだるい体、僅かに軋む体の節々。胃にしこりのような重みを感じる。典型的な低血圧の、朝の目覚めの一例だ。私は元来、朝があまり強い方じゃない、どちらかと言えば弱い方だ。勿論、名雪ほどではないけれど二度寝してしまいたいという欲求とほぼ毎日のように戦っている。そして、辛うじて理性が目覚し時計のベルと眠気とを抑えつけるのだ。

 前髪が目にかかって来るのを僅かに鬱陶しいと思いながら、不明瞭な思考はそれを振り払うことすら命じようとしない。ただ、大音量の主を早く止めてしまえという思いが全てを支配している。机に置かれた目覚ましのスイッチを押さえ、それから時計の背部にもう一つのスイッチをオフにする。二段構えの動作を行わなければ、時計は五分後に再びデジタル音を発し始める。僅かではあるが複雑な動作をこなすことで覚醒感を強め、また二度寝を防止する効果を負っているらしい。効果が本当にあるのかは分からないけれど。

 大きく伸びをして服装の乱れを直すとスタンド式の鏡に目をやる。少しの躊躇の後、私は恐る恐る鏡を覗き込んだ。そこに映っているのは、髪形を少し乱し腫れぼったい瞼を細めて不機嫌そうにしている私の姿。私が美坂香里であると信じ、そして他人にもそう見えているであろう外見や容姿を鏡は何ら特別な変換を施すことなく左右対称に映し出している。しかし、その姿は本当に私なのだろうか。実際はもっと悪魔のように醜い、エゴを剥き出しにした嫌らしい顔なのかもしれない。全ての鏡が私を欺き、そして嘲笑っているという愚にもつかない想像が、しかし私の中では半ば根付いている。物理学上からすればそんなことは有り得ない筈なのに、いつか安心しきった頃に鏡たちが反乱を起こし、私の真実の顔を曝け出すのではないかと恐れている。目は人を冷蔑するように鋭くつりあがり、血のように紅いルージュから覗く犬歯は冷笑を更に酷薄なものとして彩る。そして鏡たちは一斉に笑い始めるのだ。これがお前の本当の顔だ、醜く汚い本当の顔だ、と。

 私は挑むように鏡を凝視する。しかしそこには、僅かに目つきを険しくした私が映り込むのみだった。こんなことを考えるなんて愚かしいことだろうか。しかし、私は鏡に映った私すらも信じられなくなってきていた。栞のことを無視しだしてからだろうか、こんな思いが頭の片隅を支配するようになったのは。今や私にとって、鏡は心的恐怖の象徴だった。もし鏡が私の心までも映し出すとしたら、そこには血に塗れた背徳者の姿が現れるだろう。そんな瞬間が来ることが恐くて、私は鏡を素直に覗けない。

 まるで嫌いな人間から目を逸らすように、鏡から目を離して意図的に遠ざける。嫌いな人間、というのは当たっているかもしれない。私は、自分のことが大嫌いだ。

 心を無理矢理日常モードに切り替えると、今日の授業に必要な教科書やノートの類に漏れがないことを確認する。それからヒータのスイッチを入れ、ベッドの乱れを整え、それからクロゼットに入っている制服と薄手のセーター、ストッキングを取り出す。いくら制服が耐寒性に優れているといっても、下に何も着込まないのは風邪をひいて下さいというようなものだ。部屋が暖まってくると、上下の寝間着を脱ぎ乱雑に放り出す。外気は若干の肌寒さを感じさせるが、耐えられないほどではない。厚手のストッキングを穿き、セーターと制服を素早く着込み、最後にリボンを身に付ける。リボンの位置を調整すると、全体的に手で埃や髪の毛などの汚れを払った。

 着替えがすむと、脱ぎ捨てた寝間着を抱えて下に降りる。洗濯機の上に置かれた籠にそれらを押し込むと、私は再び鏡に向かわざるを得なくなる。制服を身に付けた自分を確認すると、リボンのズレを正し整髪料を髪に撫でつける。今日はそこまで寝癖がひどくないにしても、ボサボサの髪の毛は狂える蛇のように膨張していた。ブラシをかけ髪のボリュームを抑え、人から見ても変に思われない最低限度の身だしなみを整える。過度のお洒落は私にとってあまり意味を成さないし、女性には珍しいのかもしれないがひどく煩雑で面倒に思えるのだ。最後に時間をかけて歯を磨き、磨き残しがないか確認した後に顔を洗って台所へ向かう。そこからはベーコンとトーストの香ばしい匂いが漂ってきていた。低血圧で重たい筈の胃が途端に空腹感へと転化し、食欲を導き出す。私はダイニングに入る前に深呼吸すると、明るい口調で母に朝の挨拶をする。

「お母さん、おはよう」それから、朝一番の会話を弾ませようと何とか頭を巡らす。テーブルを見渡すと、醤油にドレッシングなどの調味料や布巾、読み止しの新聞などが乱雑に並んでいる。そこに父の姿はなく、代わりに料理の食べかすが転がっていた。「お父さん、今日も朝早くから仕事みたいだけど、仕事がやっぱり大変なの?」

 父は最近、朝早く出勤し夜遅く帰宅するというサイクルを繰り返している。それこそ日が変わるか否かのギリギリの時間に、疲れた顔をして帰ってくるのだ。けど、お酒を飲んで酔って帰ってくる訳じゃなく、別の女性に走っている訳でもない。ただひたすら仕事に打ち込んでいるだけ、ただそれだけだった。私が尋ねると、休んで仕事が貯まったからと答えたがそれは嘘だ。きっと、働き疲れることで少しでも栞のことを考えまいとしているのだろう。父は栞のことをいつも気にかけてきたから、余計に苦しんでいる。

 一方の母は、今は普段と代わらない様子で日々の営みを送っている。家事も日常通りこなしているし、私に対してもいつも通りに接してくれている。ただ、以前より色々なことを心配するようになった気がする。学校に向かうと事故に気を付けろ、病気にならないようにと口を酸っぱくして言うし、帰ってきてからも手洗いうがい、食事に風呂としょっちゅう声をかけてくる。まるで栞への過保護がそのまま私に移ったみたいに。今までの私には与えられなかった憐憫や心配、愛情が過度に向けられているのが自覚できた。

 まだ、栞が死んで高々十日しか経っていない。しかし、父も母も代替物を手に入れることで日々の営みを回復しようとしている。父の場合は仕事に打ち込み、意図的に悲しみを忘れるという忌避手段で以って。母の場合は、栞の分の愛情まで私に注ぎわざとらしく日常を繰り返すことによって。結局、それは反証的に栞を失った両親の悲しみの深さを示していた。

 そして私は理解した。この家には栞の代わりとなる存在が必要なのだ。だから、私はそうなろうとした。例え美坂香里という存在が永遠に忘れられてしまうとしても、そんなこと構いはしない。けど結局、私は粗悪な贋作にすらなることすらできなかった。栞のように明るく振舞ってもそれは彼らに届かず、悲しみの円舞曲は鳴り止まず響き続けている。私は何もできない、愚かな存在だった。

 何にもなれない、私自身にすらなれない自分。吐き気の出るような嫌悪感は、日々募るばかりだった。けど、責任を放棄して死ぬこともできない。それは周りの人間を更に悲しませることだし、単なる自己満足に過ぎない。それに、栞が生きていた証がこの世からまた一つ消失してしまうことを意味していた。こんな愚かな私でも、いや愚かだからこそ私はまだ生きていなければならない。

「あら香里、おはよう」フライパンを動かしながら、母が声をかけてくる。そうだ、私はもっと上手く演じなければならない。「まだ料理はできてないから、座って待っててね」

「分かったわ」天使のような栞に、悪魔のような私が。滑稽な道化芝居と、作り出される笑顔。「お皿とかは並べなくて良い? 忙しいなら手伝うけど」

「良いのよ、香里は座ってて。まだ眠たいでしょう?」

 冷水を浴びた頭は既に覚醒していたが、わざわざ場を濁す必要もない。私は好意に甘えることにした。

 数分後、キッチンにはパンとベーコンエッグ、ホットミルクが並べられていた。ゆっくりと咀嚼しながら、私はしきりに母へ話題を振った。かつて、栞がそうしていたように。

「お母さん、今日は雨降らないかな?」

「ええ、テレビだと降水確率十パーセントだから大丈夫だと思うけど。一応、折り畳み傘を持っていく?」

「ううん、だったら良いわ。それで、今日の夕ご飯は何なの?」

「うーん、まだ考えてないけど。香里は何かリクエストある?」

「そうね……だったら、ハンバーグを作って欲しいんだけど」

「ええ、分かったわ」夕ご飯のちっぽけな要求を母は紙に書きつける。それから明るい表情で付け加えた。「期待して待っててね」

 私は「ええ」と答えると残りの食事を平らげてダイニングを出た。鞄と財布、腕時計を身につけて忘れ物がないことをもう一度チェックすると部屋を出て玄関に向かう。そこには心配そうに私を見上げる母の姿があった。

「あ、もう出かけるの? 車には気をつけるのよ、それと体を冷やさないようにね」

 昨日も一昨日も繰り返された言葉。今まで微塵もかけられなかった優しい言葉は、しかし私の胸を苛む効果しか与えない。それでも精一杯の微笑を浮かべ家を後にする。二、三歩歩き、肌を刺す冷気を体になじませると私は凝固した水分を含む呼気を大袈裟に拡散させた。母は何も疑問を持っていない。急に明るく親和的になった私に不審の一つすら抱いてないのだ。母はきっと、最愛の妹の死にも挫けず気丈に明るく振る舞っていると考えているだろう。或いは、栞のことが母から思考力を奪っているのかもしれない。普段は、もっと明晰で些細なことにまで心が行き届く人間なのだ。もっとも、それは私の身勝手な思い込みなのかもしれないが。

 いつもと変わらぬ通学路を歩きながら、私は自問する。悪魔は、天使に成り得るのか? 一秒もしない内に私の全てがその問いに否という言葉を弾き出す。基督教の物語には、堕落した天使の物語は沢山あるが堕落を駆逐し天使となった悪魔や堕天使の物語はない。だから、私は栞の代わりにはなれない。だとしたら、私はどうすれば良いのだろうか? 名雪や相沢君の言う通り私は私の道と幸せを掴むべきなのだろうか? いや、そんなことはできない。それは世界で最も忌むべき裏切りでしかないのだ。けど、私の中には幸せになりたいと思う自分が強固に存在する。私と名雪と相沢君と北川君の四人で馬鹿みたいなことを話し、下らないことに笑い、楽しいことを心から楽しむ。充足に満ちた幸せに埋没することを奨励する自分が日々に強くなり、引きずり込もうとしているのが分かる。私だけがのうのうと幸せを享受しているのだ。

 だったら、中学の頃みたいに誰も寄せ付けずに生きたら良いのかもしれない。けど、また一人になると想像しただけで気が狂ってしまうだろう。一人で全てを閉じ込めてきたからこそ、私は弱い人間に成り果ててしまったのだ。そして、今の私は一人であることに耐えられない。じゃあ、慰めるだけ慰めて貰って他は干渉するなって言えば良いの? 心地良さを享受したい気持ちとしてはならない気持ちから生まれたジレンマの導き出した、エゴ剥き出しの結論に心が狂わされていくのが分かる。

「あはははっ」あまりの汚さに、自然と笑い声が込み上げてきた。「あははははは……ははっ……っ」けど、自分で自分のことを笑って見せても何も変わらない。ただ、虚無感だけが哄笑の後に音のない世界を作り上げていた。代わって、暗い呟きが口から零れ出る。「私は……私は、どうしてこんなに……」

 愚かなんだろう。嫌な人間なのだろう。汚い人間なのだろう。周りの人間は皆、私によくしてくれるのに私はそれに応えることすらできない。縋って、逃げて、楽しようとしているだけ。

 惰性が私の足を学校へと運ぶ。先へ進むに連れ、制服を着た学生の数は加速度的に増加していく。彼らは友人と談笑し、或いは進路のことについて真剣に話し合っている。空気のようにそれらをすり抜け、学校の入り口に着いたところで時計を見た。八時二十六分、ここでもう少し待てば名雪と相沢君が全速力で走ってくるだろう。それを待つのも良いかもしれない。だが、今日に限ってはそんな気分になれない。下駄箱で靴を履き替えると、いつものように二年生の教室がある階へと足を運ぶ。校内は資金が潤沢なのか、ヒータが利いていて暖かい。確か一部の学生の親が多くの寄付金を提供しており、施設や行事の充実の一環だと記憶している。どれほどの金額かは分からないが、私立だとしても整いすぎにも思える施設やシャンデリアや豪華な絨毯が瞬く舞踏会の規模などを考えると、かなりのものだという推測はつく。こちらとしては、その影響で快適な生活が送れるのだから文句の言いようはない。

 いつも暖かい風が校内を満たしているからだろうか、逆らうような冷たい空気の流れが余計に肌を貫いた。階上から、それは僅かずつだが漏れている。普段の私なら、そして普通の生徒なら気にもかけなかっただろう。だが、今の私はその流れの行方を無性に確かめてみたくなっていた。理由はない。強いて理由をつけるなら、日常と異なる現象が、もしかしたら私を変えてくれるかもしれないと淡い期待を抱いたのかもしれない。とにかく、私は階段を上って行った。そして異変の原因はすぐに分かった。屋上へと通じるドアが開け放たれていたのだ。

 途端に、失望感が胸の中を満たす。そうだ、予想はして然るべきだった。真実はいつも簡便で、そして人の心を打ちのめすのだ。けど、私は屋上に向けて歩を進めていた。そこにあるのは単なる屋上の光景だけ、理性ではそう思っていても何故か足は進むのだ。私は何を期待しているのだろう。答えを見出せないまま、私は半分錆付いたドアを横目で見つつ屋上へと出た。

 申し訳程度に備え付けられた手摺は、長い間風雨に曝されたためか赤茶色に変色していた。塗装は剥げ、青い塗装片が乱雑に散らばっている。コンクリートのタイルには埃がうっそうと積もり、風に運ばれてきたのか枯葉が水を吸ってみずぼらしく転がっていた。明らかに長い間、誰も立ち入っていない。そう断定した私の目に、新たな情報が飛び込んでくる。何者かの足跡……つまり、誰かが最近屋上にやってきたらしい。じっくり眺めるとそれはかなり広範囲に広がっており、まるで激しい運動でもしたかのようにも見える。もしかしたら、その主が屋上のドアを閉め忘れたのかもしれない。それは誰だろう……と考えて首を振る。こんなところでどんな運動をしていたのかは分からないが、そんな人間と私に接点があるとは思えない。愚にもつかない感情を打ち消すと、屋上の中心に向けて歩を進める。別に景色が見たい訳じゃない、ここで何が起きたか確かめたい訳じゃない。ただ、私が求めてやまなかったものがそこにあるのではという極めて低い可能性にしがみついただけだ。事実、ここには何か普通とは違った空気が渦巻いていた。風が四方八方から流れ、何かを成そうとしているのだ。

 そして中心まで来た時、突如として螺旋が生まれた。風を巻き起こし、枯葉と砂塵を大量に含んだ小さな竜巻が屋上に現れたのだ。そして、私の予感が単なる自然現象であることを悟った。ほら、また真実はちっぽけでつまらないものじゃない。これ以上、何を期待しているの? もう一人の私が声をかける。しかし、私はまるで吸い寄せられるかのように螺旋の中へと身を投じた。枯葉と砂塵は鋭く皮膚を打ち、整えた髪型は全て逆立ち巻き上げられていく。このまま竜巻に身を委ねれば、遥か天空の世界へと私を誘うかのような錯覚が生まれる。

 しかし、錯覚は錯覚でしかなかった。竜巻が過ぎ去った後、残されたのはやはり弱く愚かな一個の私だった。

 何を期待しているのだろう、私は。

 何を期待しているのだろう、私は。

 何を……。

「香里っ! 何やってるんだ!」

 その時、大声で私を呼ぶ声が聞こえた。私は乱れた髪形と服装を正そうともせず、声の主の方へ体と視線を向けた。何故、彼がこんなところにいるのだろう。そこにいたのは……相沢君だった。

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