二月十一日 木曜日

第八場 美坂家

 どれだけ虚構で塗り固めれば、気が済むの?

 国民の休日の目覚めは、怠惰で満たされていた。いつ眠ってしまったのかは分からないが、目が覚めて時計を見た時、既に昼前だった。普段は休日であっても、こんな時間に目覚めたことはないので思わず時計の針が指す時間を疑ったほどだ。どうやら、母も休みということで起こさずそっとしておいてくれたらしい。充足した眠りは、胃の重みも倦怠感も全てを吹き飛ばしていた。私は躊躇うことなく布団から出るとカーテンを開け放ち、陽光を目一杯部屋へと浴びせた。光の隙間から見える埃の塊が、虹のように複雑な色彩を見せて光の向こうへと消えて行く。目を細めて窓から外を眺めると、茶縞模様の雑種犬が――首輪をしていないから、野良犬だろう――元気に駆け抜けていった。

 不意に、大きな欠伸が一つ出る。低血圧の弊害こそないものの、まだ少し寝足りない。私はもう一度毛布を被り直すと、傍らに置いてあった本を手に取った。何のために、この本は置かれているのだろうか……不思議に思いながら読み進めていくと、途端に昨夜の思索が頭を過ぎり、本を読む気分ではなくなる。これは、考えたくもない思考を他に逸らそうと本棚から引っ張ってきたことを思い出すと同時に、全く効果がないことも同時に思い出していた。一ページ、一行、一文字として浮ついた私の頭は読み取ってくれない。

 私は浮かんできた一人の男性とそのために高鳴る鼓動を隠すために、布団を顔から被った。上質のウールの匂いが鼻を満たし、温かみが私から覚醒を奪う。微睡みに身を任せると、脳裏から徐々に思考領域が解放されていった。冬になると、何故布団の中がこんなにも心地よいと思えるのだろう。眠るでもない、かといってはっきりと覚醒してもいない中途の世界。何もせず、また何も考えなくても良い……私にとっては楽園のような世界。

 しかし、人間は全て楽園を永遠には享受できない。基督教の原初の二人が、誘惑によって神にだけ都合の良い楽園を追い出されたように、私も脳裏に生まれた現実世界にすぐ引き戻された。半覚醒的な無思考状態すらも、今の私からは思索を奪ってはくれない。思いは嫌悪感を募らせ、募った嫌悪感ですら掻き消し得ぬ感情が交互に駆け巡る悪循環。その渦の中心に、孤独な私の心は在る。

 私は転がり落ちるように布団から這い出ると、布団を欄干に干し埃を払った。昼とはいえ、真冬の気候はパジャマのみでは耐え難い。今日は家を出る予定はなかったので、箪笥から適当に数枚の服を見繕い重ね着した。ソフトジーンズを穿き、黒の靴下を履くと私は既に昼食となりつつある朝食を求めて下に降りた。台所に降りると、母は丁度買い物に出ていたらしく材料は十分にあるのでお腹が空いたら自分で作ってくれという書置きがあった。ふと気になって、父の部屋覗いたが既に鞄と一緒に外出していた。どうやら、今日も仕事に出たらしい。昨日も夜遅くに帰って来た様子を、寝床でおぼろげながら感じていた。いくら辛いからって、あんなに馬車馬のように働いてはいつか体を壊してしまうのではないだろうか? 普段は父のことを心配しない私だけど、今回はそう思えて仕方なかった。

 主のいない部屋をしばし眺めた後、私は台所に戻り冷蔵庫を物色した。あまり重たいものは食べたくないが、昼食だからある程度はしっかりと取っておきたい。幸い、パスタとホワイトソースが残っていたのでクリーム・スパゲティを作ることにした。棚から寸胴鍋を取り出すと、七割ほど水を張って目分量で塩を加える。焜炉に火をかけると同時に、ソースに和える具材を探して再び冷蔵庫を探す。マッシュルームの缶詰と茄子が良いと判断して、冷蔵庫から取り出した。フライパンにも火をかけると、缶切りでマッシュルームの缶を空け、茄子を適度な大きさに切り、丁度温まったフライパンに具材を投じる。茸と茄子の香りが良い具合に混ざり、食欲が昂進されるのがお腹の鳴る音ではっきりと分かった。

 ある程度炒まったところで、ホワイトソースと味を調えるための胡椒を加える。塩味は、後でパスタの茹で汁を加える時に整えれば良い。ソースの色が変色しないように火を弱くすると、沸騰を始めた鍋にパスタを円状に加えていった。菜箸で時折掻き回しながら、最適の固さの瞬間を舌で確かめていく。しばらくして茹で上がったパスタをソースに絡めると、少量の茹で汁を加えて味を見る。匙加減は随分といい加減だったが、味の方は悪くなかった。

 麦茶をコップに汲み、皿に盛り付けたスパゲティに刻みチーズとパセリを加えて食卓に並べる。フォークを取り出すと、ゆっくり咀嚼しながら胃の中に収めていく。少し塩辛かったかもしれないが、低血圧の私にとっては問題ない量だ。好みの問題からいえば、もう少し薄味が良かったのだが自分の裁量で作ったもの、文句は言えない。もっとも、私は母の料理に文句をいったことなど一度もないのだけど。

 食器や鍋を洗い、テーブルを布巾で拭くと私はしばらく満腹の余韻に浸っていた。台所の蛇口から水音が定期的に漏れ、秩序のないメロディを奏でている。テレビを付けてみたが、どこもワイドショーや情報番組を垂れ流しているだけで面白そうな番組は一つもなかった。もっとも、そのことは始めから分かっていた。ただ、中途半端な静寂を何処かで打ち破ってしまいたかっただけだ。

 テレビを消すと、何をするあてもなく二階へと上がる。階段を上り切ると、目の前には生前と同じようにして栞の部屋という可愛らしいプレートがかかっていた。部屋の中はまだ、栞がまだ美坂家にいて喜びをふりまいていた頃のままだ。中に立ち入ることはあれ、誰もその中を片付けたり整理したりすることはない。ドア一枚を隔てて、犯されざる禁断の聖域は厳然としてそこにある。聖域は私にとって、自分の愚かさを移す鏡そのものだった。求めれど、されど与えられず、その痕跡だけが寂しく主を待ち続けるのみ。しかし、その主が現れることはもうない、二度とないのだ。

 十日、正確に言えば十一日。普通なら、これだけあれば死者のことを忘れ難いと言えども無理矢理胸に押し込んでしまうには充分な期間なのだろう。しかし、私の中を占める栞とその周辺を覆う思いは更に強く私を支配していた。私は栞を殺し、あまつさえその恋人に横恋慕し思いを募らせている。栞のことが大好きなのに、何故傷つけることしかできないのだろう。大切な、本当に大切な人のことを。今はまだ良い、けど押し留められない心はやがて最低の言葉を吐いてしまうかもしれない。栞のことは思い出にして、そして私を愛して欲しい、と。

 多分、そんなことを言ったら相沢君は私を嫌うだろう。栞の姉というだけで、平然と次の恋人面をする私のことを。遠くない未来に、きっとそれは現実のものとなる。栞は私の一番ではなくなる。栞……栞、大好きな栞……。

 風邪を引いて辛そうな時も気丈に笑い、希望ある未来を語り合ったあの日は二度と戻ってこない。おやつにアイスを食べ過ぎて、一緒に叱られながらも同じ部屋で笑いあったあの日を二度と私はこの手に掴むことはできない。もう、思い出のメモリは一つも増えない。ただ解放され、或いは朽ちていくのみ。

 寂しい、寂しいのよ……どうして私をおいて逝ってしまったの? 何を言ってるのよ、ともう一人の冷徹な自分が言い放つ。

『殺したのは、貴女じゃない』

 嫌、嫌、そんなこと言わないで。栞……心の中の栞の顔が、段々と薄れていく。お願いだから、その笑顔をもっと私に見せて。お願いだから……。

 思わず、私は栞の部屋のノブを掴み中に入っていた。少しでも栞の思い出を取り戻すために。暗く埃と憂鬱とに淀んだ部屋に、私は明かりを点す。蛍光灯がまるで小さい頃に見た蛍のように瞬き、そして光を満たした。何も変わっていない、その部屋からはお姉ちゃんと明るく呼びかける栞が今にも現れそうな雰囲気を醸し出している。理性がそれを拒んでいても、それに縋ろうとしている自分がいる。私は視線を巡らせ、そして机の上に置かれている一冊のスケッチブックを手に取った。

 私は見たことのある絵――どれも絵の裏にタイトルと照合するのが非常に難しいものだが――を早送りで飛ばして行き、そして最後から二番目の絵を目に焼きつける。崩れたデッサンと、自由気ままに感性のみで塗られた極彩色の人物X。それは、栞が楽しそうに話してくれたデッサン風景を凝縮していた。『私の大好きな人』というタイトルがついたその絵のことを、栞は頬を染めて眺めていた。私の最高傑作だからという確信を込めた言葉に、私は思わず吹き出しそうになった。

「でも……」私をモチーフにした絵を描きながら、栞は上目遣いにこちらを見た。「もしかしたら撤回するかも」

 そう話してくれた、栞の最後の絵。崩れたデッサンは相変わらずで、髪や洋服の色だって注意しなければ判別できないほど。本当に、下手な絵だ……けど、それは確かに私だった。ずっと恐くて見ることのできなかったその絵には、今の私とかけ離れた優しい姉の姿があった。あの時の私はこんなにも優しい顔をしていた、そして今の私はこんなにも醜い心を抱えている。

『私の大好きなお姉ちゃん』と恥ずかしそうに殴り書きされたそのタイトルを見て、余計にそのコントラストが際立って見えた。ああ、栞は本当に私のことを好きでいてくれたのだ。こんな私のことを、真心を込めた絵にまで思いを込めて。

 私は次のページをめくった。そこにはセピア色のキャンパス以外、いかなる色も存在しなかった。その次のページも、その次のページも、ずっと、ずっと……。そして、そこに新しい絵が生まれることはもうないのだ。一冊のスケッチブックは、栞という存在がもういないことを如実に示していた。それでも、私は惰性でページをめくり続けていた。と、そこに微かな染みがあった。不審に思いページをめくると、その染みは段々と大きくなっていく。その三ページ先……最後から二番目のページでその意味を私に叩き付けた。

 それは、大粒の、涙だった。栞が、悲しみのあまり零した、涙の粒の群れだった。その意味に気付いた時、私はスケッチブックを握る手を離し体を支える気力もなくフローリングの床にへたり込んだ。栞は泣いていた、一人の時は隠れて泣いていた……。気丈にも笑顔を振る舞い、そして笑いながら全てを受け入れて静かに世を送ったと思っていた栞が舞台裏では泣いていた……。

 それは、今まで私を唯一支えた希望の立脚点の崩壊を意味していた。私は、栞が死を憂うことなく逝ったことだけが救いだとずっと思い続けていた。けど、それは過ちだった。偽の命題だった。

 だが――私は改めて自分の愚かさ加減を思い知りながら自嘲する――半人前の頭もあれば分かった筈ではないか、十五歳の少女が死を全く恐れていないなど在り得るわけがないと。何故、そんな思い込みを抱いていたのだろうか? 私は。

『耐えられなかったからでしょ』

 そうだ、私は耐えられなかった。栞が幸せでなかったなんて考えることに。けど、幸せがあやふやな立脚点にしか存在しないことを、私は誰よりも理解していた。そんなの、言い訳にならない。逃げて、自分が楽になれる可能性に縋っただけ。弱い方に、坂道を転げ落ちるように身を委ねただけだ。私は、栞のことをこれっぽっちも分かっていなかった。

『そう、姉面をして分かっていたふりをしただけ』

 仕方ないじゃない。そんなこと、想像もできなかった。あの娘、笑ってたのよ。いつも笑ってたの、最後まで笑ってたの。わかる訳ないじゃない、しょうがないじゃない。

『でも、どうあがいてみたところで罪は洗い流されないの』

 じゃあ、どうすれば良いの? 私はどうやって、贖い切れない罪を贖えば良いの? もう嫌だ、耐えられない。虚構の壁が崩れ去り、どんどん醜い自分が曝け出されていく。頭が痛い……体がバラバラになってしまいそうだ。

 暗転し、次の瞬間には白濁する視界を辛うじて保ち、私はスケッチブックの最後のページを目に写す。

 そこには、ただ、絶望だけがあった。

 絶望の世界が、記されていた。

『どうして私だけが、こんな目に会うの? 死にたくないよ、大好きな人とずっと一緒にいたいよ。お姉ちゃん、祐一さん……お願いです、誰でも良いから、どうか私に救いの手を差し伸べて下さい。お願いですどうかお願いです』

 恐怖に身を任せ、乱雑な文字で書き殴られた一文。救いの手……笑顔の栞、そして……禍々しく笑った死神は無慈悲に栞を業火の中に引きずり込む。鼻に突く硫黄の臭い、死神は嬉々として笑っているそこに鏡がある映し出されるのは……私の顔。

「いやああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」

 やめて、もうこれ以上見せないでよ。こんな現実なんて嫌。でも、迸る叫び声は止められない、叫んでいないと頭が変になってしまいそうだった。けど、次の瞬間には鼻を襲う臭気は胃から逆流する嘔吐感が一気に喉を這いずる。私は塵一つないゴミ箱に顔を埋めるのが限界だった。

「ぁぁぁっ……うえええええぇぇっ、げほっ、ごほっ……」

 強酸とホワイトソースの味が口の中を満たし、茶褐色の吐瀉物がみるみるゴミ箱を満たしていく。その臭気にあてられ、胃壁から生じる逆流感は留まるところを知らなかった。すぐに嘔吐の第二波が襲い、消化未遂の昼食が全てぶちまけられた。それでも足らず、私は断続的に胃液を吐き続けた。口腔内が酸で荒れ、刺すような痛みが果てしない気持ち悪さと共に私を苛む。胃液すら吐き切り、嘔吐感だけが胃を収縮させ続けている。もう、叫ぶ気力すらなかった。

 叫んでも、誰も、助けてくれないんだから。

 栞の微笑みも、今は遥か遠くに見える。

『どれだけ虚構で塗り固めれば、気が済むの?』

 ええ、分かってるわよ。笑顔の栞は、私が作り出した妄想。本当は一人で泣いてたのよね。でも、もう大丈夫……私は全てを知った。

 私は、栞の代わりになりたいと思ってた。大丈夫、大丈夫よ。

 私が、全てを受け入れてあげるから。だから、栞は泣かなくて良いの、恐がらなくて良いの。私が、全てを受け入れてあげるから。

 私が、栞の代わりになるから……ね。

 だから微笑みを、ただ微笑みを……。

「どうしたの? これは」

 声が聞こえる、酷く慌ててる。どうしたんだろう? 私は部屋を見回した。部屋の中が嫌な臭いで満ちている。ゴミ箱には、大量の吐瀉物が埋まっていた。どうやら気分が悪くて吐いてしまったらしい。でも、今は気持ち悪くない。

「うん、ちょっと気持ち悪くなって吐いたみたい」

「本当? それで、大丈夫なの」

「うん。けど、これどうしよう」

「そんなこと、心配しなくて良いの。これは私が片付けておくから。だから、ゆっくりと眠ってなさい」

「うん……」

 お母さんは少し厳しく言ったけど、本当に気持ち悪くはない。吐瀉物の臭いが消えると、私は洗面台でうがいをして部屋に戻った。喉の痛みがひき、本棚を見ると未開封の一冊の本があるのに気付く。封を開けると、中にはヴァレンタイン用のチョコレートの作り方が色々と載っているレシピ本があった。そうだ、すっかり忘れてた。もうすぐ、ヴァレンタイン・デイだったんだ。

 ブロックのチョコを湯煎して溶かし、好きな形に作り変えて可愛らしいトッピングを施して……考えただけでも胸が高まる。特に今年は、大好きな人のために作るんだからとても楽しみ。綺麗にラッピングをして、簡単なメッセージも添えよう。感謝と、愛してるの気持ちを込めて。どんなメッセージにしようかな。喜んでくれるかなあ……。

大好きな『祐一さん』は。

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