二月十二日 金曜日

第九場 学校〜美坂家

 少しばかりの希望を、いつも現実は無残に押し潰す。現実はいつも無邪気で、そしてとんでもなく残酷だ。

 圧迫感のある朝だった。世界を覆う白い靄が、いつもより身近に感じられる。ヒータの利いたこの世界を挟んで、まるで外が別世界であるかのような錯覚を覚える。寝惚け眼を擦り、上半身だけ起こすと時を刻み続ける物体を細い目で凝視した。六時四十分、まだ三十分ほど眠っていても大丈夫な時間だ。しかし、二度寝する気にもならず数分かけてベッドから這い出すと、学校の用意をした。もっとも、教科書は向こうに置いてきているため一分もするとやることがなくなってしまう。台所に行けば、多分秋子さんがいるだろうが朝食の準備の邪魔をしたくない。取り合えず、今日の天候くらいはチェックしておこうかとカーテンを開け放つと、そこには空を覆う雲から微妙に覗く太陽と、二階ギリギリまで積もった雪が見えた。

 先程から感じていた圧迫感はこれだったのかと納得すると同時に、雪国という言葉が思ったより深いものであることを実感せざるを得なかった。テレビなどで、豪雪地帯の冬の映像を見たことはあるが実際にこの身に振りかかろうとは思いもしなかった。いや、寧ろこれまでこのようなことが一度もなかったことを幸運と思うべきなのかもしれない。そう結論づけて、俺は以前水瀬家に通っていた時の記憶を手繰り寄せてみた。あの時も、全てを覆い尽くすような粉雪の群れがこの街を支配したことがあっただろうか。しかし、おぼろげに浮かぶ記憶はどれも不鮮明で、いまいちはっきりしない。そして、突如頭を支配する頭痛。まただ、と思った。公園で過去の記憶を思い出そうとした時に感じた鈍痛が、再び思考を拒絶する。

 或いは、もしかしたら過去に閉ざされた記憶を思い出しつつあるのかもしれない。微かなビジョンは見えるのだ……紅い、紅い何かが視界を満たしている。雪の中で、ヴェールのように白い雪が何故、そんな紅い色を……駄目、これ以上は無理だ。小人が脳に入り込み、針で直接突いているかのような痛みが俺を苛んだ。

 特大の溜息をつくと、俺は過去から記憶を引き出すことを停止した。はっきりいって、朝っぱらからの頭痛は辛いものがある。それに、今は現実の大雪をどうするか考えなくてはならない。そう思い立ち、最初にしたことは家主の秋子さんに相談することだった。

 一階に降りると、秋子さんはいつもと同じように朝食を作っていた。窓から入る朝の光が、雪に遮断されて少し薄暗い。これがなければ、俺も香ばしい料理の匂いに身を委ねていただろう。

「あら祐一さん、おはようございます」秋子さんはいつものように明るく挨拶した後、手を頬に当て困ったような表情を見せた。「雪、凄いでしょう。うちは北といっても東北や北陸のような豪雪地帯と違ってそこまで雪は積もらないの。その分、寒さはきついんですけど……でも、こういう雪も年に一、二度はあるんです」

 七年間のブランクがあるためか、それとも過去の記憶が曖昧であることを慮ってか、秋子さんが丁寧に説明する。

「そうなんですか……」その説明に相槌を打ち、大体の状況を把握すると俺は自ら人夫をかって出た。「じゃあ、雪掻きとかしないといけませんよね。何か手伝うことありませんか?」

「そう? そう言って貰えるととても助かるわ」秋子さんは一度料理の方に目をやると、再びこちらを向き直った。「玄関と勝手口は雪を除けないと、外に出ることもできませんから。いつもは、名雪を何とか起こして二人でやってるんですが……」

「いや、名雪は起こさなくて良いですよ」申し訳なさそうに天井を眺める秋子さんに、俺はそう言った。「こういう力仕事は、いつも無駄に禄を食んでる居候の仕事ですから。それに、今は無性に体を動かしたいんです」

 それは本当だった。未だに内側から染み出すような頭痛が断続的に発しており、それを体から追い出したいと願っていたからだ。運動をすれば余計なことを考える余地がなくなり、頭痛が治まるかもしれない。いや、きっとそうなるだろう。

「それなら……お言葉に甘えさせて貰おうかしら」

その言葉の後、料理の進行が頃合なのかフライパンを何度か揺すり、お皿の上に載せた。バターで焼かれたのだろうベーコンエッグは、鼻腔と胃をくすぐるには充分な威力を秘めている。間もなくトーストも焼け上がり、別の鍋で温められていたホットミルクと共に食卓に並べられた。

「取りあえずは、朝食を食べた方が良いですよ。何も食べてない体では力も出ませんから」

 秋子さんによって並べられた料理を眺めながら、ふとこれは余りにもタイミングが良すぎることに気付く。

「あ、でもこれって秋子さんが食べるものじゃないんですか?」

「良いのよ」秋子さんはいつもの優しい微笑を浮かべて見せた。「私はそんなに急ぎませんし、育ち盛りの祐一さんの方がお腹が空いてるでしょう? それに、今日はこれから働いて貰うんですし」

 その言葉を聞き、俺は少しの逡巡の後「じゃあ、いただきます」と言って料理に手を付け始めた。俺の方で固辞しても、きっと秋子さんは――こういう時の秋子さんは非常に頑固だ――色々な手を尽くして料理の優先権を譲ろうとするだろう。秋子さんの性格を知ってるからこそ、俺も逆らうことはしなかった。

 朝食を食べ終わると、俺と秋子さんは物置に向かった。そこに、シャベルやバケツなどの除雪用具を収めているらしい。横スライド式のドアを開けると、中には雑然としているが整理された非日常用品が暗闇の中からその存在を主張していた。電気を点けて中を見渡すと、シャベルとバケツの場所はすぐに見つかった。

「これですか? 秋子さん」表面に僅かに錆びのいったシャベルと水色のバケツを取り出すと秋子さんは大きく肯いた。「でも、あれだけの量の雪を何とかできるんでしょうかね」

「それは、祐一さんの頑張り次第ですね」

 全く顔色を変えずに答える秋子さん。そのどっしりとした構え方に、改めて俺は家主としての威厳を感じた。

 しかし、それからが大変だった。まず、ドアを押し開けた途端に大量の雪が中に入り込んできたのだ。それを外に出すために、スコップを担いでまるで勝ち目のない戦いに出る将校の如く必至に雪を掻き分けていった。そして、僅かに余裕ができたところに入り込んだ雪を捨てていく。幸い、北国独特の質の軽い雪であったため大した力も込めず雪は縦横無尽に蹴散らされていった。それでも、玄関と勝手口に一応の抜け道を作り終えるのにはまるまる三十分近い時間がかかった。

「や、やっと終わった……というかまじでしんどい……」

シャベルとバケツを思わず勝手口に投げ、両手を後ろ手に回して体を支える。荒い息を整うに任せていると、頭上から秋子さんがひょっこり顔を出した。

「ご苦労様、祐一さん。はい、これタオルとお茶です。お茶は熱いからゆっくり飲んで下さいね。」

 手渡されたタオルでまず顔にまとわりつく汗を拭う。太陽と洗剤の匂いが、体の疲れを少しだけ吸い取ってくれるように思えた。それから全身の汗を拭うと、温めのお茶を一気に飲み干した。

「まだ少し時間があるので、居間で休んでて下さい。時間になったら呼びに行きますから」

 それはありがたいと思ったが、すぐに一つ非常に気がかりなことが浮かんでくる。

「名雪はもう起きたんですか?」

「いえ、まだ寝てます。けど、今日は少しくらい遅刻しても教師は文句を言わない筈です。それに相沢さんも、少し休みたいでしょう」

「まあ、確かに……」強がってみせることもできたが、生憎そこまでの余裕はなかった。「じゃあ、お言葉に甘えて」

 ソファに深く座り込むと、テレビのリモコンを手に取りニュースのチャンネルに合わせる。この豪雪が、テレビでどう述べられているか気になったからだ。運良く民放の一つが天気予報をやっており、この辺りの地方の記録的な大雪について大仰に述べていた。これが日常だったら嫌だが、どうやら例外的な事項だったらしい。それからいくつかチャンネルを変えたが、どこも同じような報道の仕方だったのですぐにスイッチを切った。時計を見ると丁度午前八時、ようやく母親に従って相変わらず平和な睡眠を享受している名雪が、海月のようにゆらゆらと台所に向かって行く。それを横目で見ながら、いつの間にか引いてしまった痛みの痕跡を確かめるため軽くその場所を押さえた。

 十五分後、普段ならかなりやばい時間であることにようやく気付いたのか、パジャマ姿に慌てふためく名雪の声がこちらまで響いた。しかし、秋子さんが窓の外を指し示すと状況を飲み込めたのか声はぷつりと途切れた。記録的な豪雪の中でも、水瀬家はいつもと変わらず平和なんだなと苦笑を噛みしめる。更に十五分後、ようやく制服に着替えた名雪が俺の目の前に現れた。

「祐一、お待たせ」ああ、散々待ったと悪態の一つでもつこうと思ったが、妙に無邪気な名雪の姿を見るとどうも言い出せなかった。

 除雪車によって確保された道と、端に追いやられ高い壁を作っている雪がいつもは自然な街あいを不自然な造形へと変えていた。既に登校時間は過ぎていたが、それでも周りには制服を着た生徒がまばらに見える。雪国の人間も、流石に記録的豪雪となると形無しらしい。そんなことを考えながら、辺りを見回していると名雪が声をかけてくる。

「今日は、一人で雪掻きやってくれたんだってね」

「まあ、肝心の働き手が気持ち良さそうに眠ってたからな」その言葉に、ぷうと頬を膨らませるのを確認してから、俺は余裕ありげに宥めてみせた。「冗談だって……でも、いつもは名雪と秋子さんが雪掻きしてるのか?」

 まあ少しばかりは体力に自信がある俺でもかなりハードな作業だったのだ、二人とはいえ女手では結構辛いものがあるだろう。と思ったのだが、名雪は割とあっさり言ってのけた。

「うん、でも小さい頃からやってるから要領も得てるし最近は運動してるから体力もついてるし。でも、お母さんの方が早いけど」

 その姿を想像することはできなかったが、何故かその事実の信憑性を疑おうという気にはなれなかった。秋子さんという名前だけで、あらゆる事象が何故か真実味を帯びてくる……不思議だ。

 それから名雪と二人、しばしアンバランスな風景をやり過ごしながら悠々自適な遅刻をした。変な表現だと自分でも思ったが、それがぴったりなのだから仕方がない。教室に入ると、大概の生徒は既に到着していたが数名の生徒が見当たらない。黒板には、授業は二時間目の開始時刻より行う旨が書き込まれていた。席を見ると、北川は暇そうに頬杖をついていたが香里はまだ来ていないようだ……鞄が見当たらない。その事実に、俺は内心ほっとした。どうも色々なことがあって、香里と正面きって顔を合わせるのが恐いのだ。特に北川の前で、少しでも特別な素振りを見せてしまうことだけは避けたかった。

 そんな感情を死ってか知らずか、北川は俺たちの姿を見て明るい声をかけてきた。昨日の神妙そうな告白など、既にゴミ箱に放り込んで二度と復元できないようにしたかの如く。

「よう……相沢に水瀬さん、二人して重役出勤か?」

 僅かに卑近な視線を送るので、俺は無言で北川の頭を叩いた。

「んなわけないだろ。もう、雪掻きに右往左往してそれで遅れたんだよ。変なこというと殴るぞ」

「もう殴ってんじゃないか……」殴られた部分を擦りながら、恨みがましい視線を投げかけてくる北川。「まあ、こっちも似たようなもんだけどな。で、そっちはどうだったんだ?」

 とまあ、北川に聞かれたので俺はここに来るまでのことを掻い摘んで話した。勿論、頭痛や香里に対する感情については話さなかったが。すると北川は北川で、我も同士と言わんばかりに頷いた。

「まあ、どこの家も同じってことか。俺のところも朝から俺と親父が狩り出されてな、いや安眠を享受している俺の耳元で母さんが叫びながら布団を引っぺがすんだ。親父も親父で情けない顔して、黙々と雪を除けてたよ。うちは母親天下だから誰も逆らえない。全く、お蔭で全く休んだ気がしないのだよ」

 首をわざとらしく左右に曲げ、疲れを強調してみせる北川。水瀬家とは全く正反対の母は強しぶりを聞かされ、俺は外国にいる両親のことを思い出した。俺の母親も、どちらかと言えば強権型だったからだ。それから、他愛もない話――昨日の夕食の話やドラマの話などが主だった――をした。最初は名雪の愛好している例の格闘ドラマ……これは名雪が余りに嬉しそうに語るもので俺と北川は思わず苦い顔をして視線を交し合ったものだ。

「まあ、俺は見てないから分からないけどな」

熱心な説明にも関わらず、それでしめてしまった北川に、名雪は明らかに不服そうな顔を浮かべた。

「本当に面白いから……今からだと途中になっちゃうけど、面白いから見てみてよ」前に乗り出し、胸倉を掴まん調子で言う名雪に、北川ははあと気のない言葉を返す。「そっか……じゃあ、北川君ってどんなドラマを見てるの?」

「俺か?」自らのことを指差した後で、よくぞ聞いてくれましたとばかり次には北川の口が能弁に動き始める。「俺は毎週木曜日にやってるドラマだな。『それとも、これを恋物語としたら』ってタイトルの……相沢や水瀬は見たことないか?」

 俺は余りドラマには興味がないので、余程波長のあったもの以外は毎週見ない。もっとも、今は名雪につきあわされて例の格闘ドラマを見せられている訳だが。ただ、新番組のコマーシャルが散々流れていたから、名前だけは知っていた。

「それって、午後十時からやってるやつでしょ? わたし、その時間まで起きてられないから」名雪が申し訳なさそうに答える。その言葉に違和感を持たないのは、名雪という少女をずっと間近で見てきたからだろう。そして、名雪は俺に会話の主導権を振ってくる。「祐一はどう? 見てるの?」

「俺は見てない……ずっと漫画を読んでた」

 本当は、香里や栞のことについて真剣に思いを巡らせていたのだがそれを口に出すのは憚られた。誰だって、自分が浮気者の最低な奴だなんて語りたくはないと思う。

「そっか……結構面白いけどな、映像も音楽も綺麗だし、主題歌はあの」と言って、音楽番組や店頭で良く流れる曲を歌っている有名歌手の名を挙げる。「俳優だって豪華メンバで、ドラマが始まる前から話題になってたし」

 生憎、その頃は引越しや転入のゴタゴタでテレビすらろくすっぽ見る暇がなかった頃だ。だから、予備知識などなかった。

「ふうん……で、どんなドラマなんだ?」

 特に興味はなかったが、北川は語りたがっていたので適当に話を促してやる。

「ぶっちゃけて言うと、一人の男性と一人の女性の恋物語だな。男性は、昔ずっと好きだった女性に酷い振られ方をして以来、女性関係のみならず恋そのものを拒絶している。一方、女性の方は昔……」北川は別に気にすることなく、どんどん粗筋を進めていく。「妹と同じ人を同じ時期に愛してしまい、そのごたごたで妹を自殺に追いやってしまったんだ。そんな二人が出会い、悩み過去に傷つきながらも少しずつ絆を深めていくって話」

「へえ……それで、今はどこまで進んでるの?」

 名雪はその言葉に興味を持ったらしく、北川に続きを促す。

「今は、女性の方がようやく男性の方を愛してるって気付いて。それで最後に妹の遺影を抱きながら『どうしよう私、また人を……好きになったみたい』って泣きながら言うんだ。ドラマだって分かってても、なんかこう胸にぐっと来るものがあったな」

「そっか……」俺はただそう呟いただけだった。「それにしても香里、まだ来てないけどどうしたんだろうな?」

 そして、香里をダシに話の方向を捻じ曲げた。細部は違うにしても、そのドラマは俺や香里が抱いている状況に似過ぎていた。北川の言葉に、俺は思わず栞の写真を抱いて咽び泣く香里の姿を想像してしまった。でも、こんな所で辛そうな顔をしたり涙を流したりする訳には決していかないから。それによく考えてみれば、第一印象ほど状況は似てないではないか。ドラマでは二人は互いを想い人としているが、俺と香里はそうではない。

「まあ、美坂にも家の都合があるんじゃないのか? チームが欠けると言うのは少し寂しい気もするが。俺がいなかった時も、随分と沈んでたんじゃないのか?」

「ないな、そんな事実は」思い浮かべた悲しい想像と、自意識過剰な愚かさをぶつけるように、俺は北川に揶揄の言葉を返した。「寧ろ、両手に花で気持ち良かったくらいだ」

「……そういう考え方もあるか」抗議してくると思いきや、北川は妙に納得げな顔をしている。「じゃあ、次に相沢が休む時が楽しみというわけだ」

 友達甲斐のない言葉だが、恐らくどちらともそれが冗談だと知っている。勿論、名雪は最初からそう考えているだろうから、空気が漣立つことなどなかった。少なくとも、俺はそう思っておく。

 結局、香里の話題をトリガにして会話がめっきり少なくなってしまった。途切れがちの会話の間に香里の席を見る……いや、香里の席を見るついでに話をするという言葉が正しいだろう。皆、香里のことが心配なのだ。クールで人を寄せつけない分、そんな人間に世話を焼きたがる人間を強く惹きつけてしまうのかもしれない。抱えている感情は三者三様にしても、そういう部分だけは共通しているように俺には思えた。

 授業が開始されても、昼食の時間になっても香里はとうとう現れなかった。まさか、ずっと雪の中に缶詰になっているのかと一瞬、心配になったが仮にも人が三人いるんだしそれは杞憂だろうと馬鹿らしい考えを慌てて打ち消す。香里らしくないことのように思えたが、余りに遅くなったので学校を休んだのだと俺は結論づけた。

特にすることもなく、授業が終わると俺はすぐに学校を出た。途中、名雪が、制服と髪をなびかせながら帰宅途中の俺に追いつく。

「あ、祐一……良かった、追いついたよ」結構なハイペースで走ってきた筈なのだが、名雪は軽く息を整えただけでもう平然としている。「この雪で、用事がある人が沢山いるから今日は部活中止だって顧問の先生に言われて。だったら祐一と帰ろうかなって走ってきたんだよ……今日はどこか寄って帰るの?」

「いや、こう雪と冷気塗れじゃどこも寄る気がしない」流石に朝方と比べて雪のボリュームは減っていたが、それでもこの天候を建設的な方向に持っていく気持ちにはなれない。「今日はゆっくり家に帰って、思う存分猫のようにごろごろしよう」

 かなり情けない気がしたが、無類の猫好きである名雪は猫という言葉が会話に入っただけで俺の意見を全肯定した。

「そうだね、今日はゆっくりしよっか。うん、ねこさんねこさん」

 こいつだけには一足早い春が来ている……口に出しては言えなかったが、春の日差しのような明るい調子を眺めていると思わずそんな言葉が頭を過ぎった。

「えっと……」と思ったら、今度は途端にしおらしい調子で尋ねてきた。「祐一、明後日は……いや、何でもないよ」

 明後日は……別に大した用事は入ってない。どこか買い物にでも付き合わせる気なのかなとも思ったが、名雪が良いのならこちらから蒸し返すこともないだろう。今日はゆっくり休もう。

 しかし、そんな俺の思いが叶うことはなかった。家に戻ると秋子さんが神妙な顔で俺と名雪を出迎えたのだ。

「ただいま、お母さん」

「秋子さん、ただいま……どうしたんですか、そんな顔して」

「あ……お帰りなさい」何か考えごとをしていたらしく、秋子さんは慌てて言葉を返した。そして、神妙さをそのまま声に出したような語り口で話を始めた。「祐一さん、名雪……先程、香里ちゃんの母親から電話が会ったんです」

 香里の母親から……その言い回しに、俺は何故か直感的に不吉の影を感じ取った。名雪も同じらしく、珍しい真剣さを表情に滲ませている。俺と名雪は黙って続きを聞いた。

「かなり取り乱していたようですけど、しばらくするとまくし立てるように早口で喋り出したんです。昨日から香里の様子が変で……言葉づかいや仕草がいつもの香里とは全く違ってるって。自分一人ではどうして良いか分からないから、祐一さんと名雪に急いで来て欲しいって……連絡がついたらすぐにって……」

 すぐに来て欲しい……ということは余程差し迫ってるのだろうか? もしかして、また部屋に閉じこもってしまったのだろうか? けど、一昨日まではそんな素振り見せてなかった筈だ。香里なりに悩み、苦しんではいたが密室に逃げ込むような真似をするとは思えなかった。

「香里の状況は!」俺は秋子さんの肩を掴んだ。「香里の母親から何か聞きませんでしたか?」

「いえ、とても狼狽していたらしくそれだけ言うと電話を切ってしまって……だから、私からもお願いするわ。急いで駆けつけてあげてくれないかしら」

 言われるまでもなかった。俺は肩を掴んだ手を離すと、一目散に駆け出していた。そのすぐ後を、名雪が追ってくる。

「香里……どうしたんだろう?」

「分からない……でも、嫌な予感がする」

 そして、俺の嫌な予感は結構当たってしまう。だから、疲れるとかそんなことは考えずにとにかく走った。周りの風景など、目に入らなかった。人の流れも天候も全く覚えていない。ただ走り、次に思考を巡らせた時には美坂家の前に立っていた。

 急いでドアを押し開けると、香里の母親が不安な表情を張り付かせて立っていた。まるで臆病な鼠のように肩を強く震わせたが、俺と名雪だと気付くとほっと息を撫で下ろした。「あ、相沢さんに水瀬さん……良かった」

安堵の表情もが、俺には不自然に見えた。それはまるで、ドアを押し開けて入ってきたのが俺と名雪であったことに起因する安堵だった。では……誰が入ってくることを香里の母親は恐れていたのだろう。兎にも角にも、話を聞く必要があると思った。

「秋子さんから話は聞きました。香里に何があったんですか?」

 問い詰めるように尋ねる俺に、しかし香里の母親は明らかな躊躇いの態度を見せている。

「もしかして、また……自殺しようとしたんですか?」

「いえ、違うんです」香里の母親は咄嗟にそう言い繕い、そして思わず両手で顔を覆った。「でも、それより酷いかもしれない。私は……望んでたんです、大人の癖にまるで五歳の子供のように心の奥では望んでいたんです。でも、私は香里がいらない訳じゃないのに、大事な大事な私の子供なのに……」

 何かを語ろうとしているが、興奮して的を得ない。もどかしさと焦りが募り、目上の人物であることを忘れて俺は思わず大声で怒るように声を浴びせていた。

「だから、どうしたんですか? 香里は一体、どうしてるんですか? 何があったんですか? 何が……起こったんですかっ!」

 静寂が生まれた。嵐がその中心を迎え、束の間の休息を覚えたかのような、そんな感覚。そんな中、静寂を破り再び嵐を吹き込んだのは……ドアの向こうから聞こえてきた聞き慣れた少女の声だった。

「お母さん、ただいまっ」

 振り向くと、そこには満面の笑みを浮かべた香里が立っていた。彼女は両手で抱えるようにして、買い物袋を持ち玄関の狭間に佇んでいる。中身は不透明な袋に遮られて見えないが、微かに鼻腔をくすぐる甘い匂いが漂ってきた。お菓子の材料だろうか……そんなことを考えながら、俺は香里を見回した。そして、絶句する。

 服装自体に変わったところはない。髪形も普段通りだ。ただ一つ、決定的に異なる部分は……栞の羽織っていたストールを身に着けているということだった。見ると、香里の母親は半ば恐怖で顔を凍らせている。まるで西洋の怪物、メデューサの邪眼を覗き込んだかの如く。そこに恐れるものは、何もない筈なのに……。

 香里はそこに俺と名雪がいると分かると、笑顔のままで声をかけてきた。明るく弾んだ声で、こう言った。

「こんにちは、祐一さん」

 え? 今、香里は、何と……。

「それから、お久しぶりです、名雪さん」

 馬鹿な……香里と名雪があったのは一昨日の筈だ。それにその言葉づかい、声の調子……。

「どうしたんですか? 二人して……もしかして、遊びに来てくれたんですか? でも、今日は駄目ですよ、ちょっと用があって……」

「ちょっと待て、香里。何だよそれ……」何かが間違っている、強引にはめ込んだパズルのように絵柄がちぐはぐで気持ち悪い……そんな強烈な違和感。「なに初対面ぶってるんだ、名雪とは一昨日も会ったじゃないか! それに俺のこと……」

 香里は、俺のことを『相沢君』と呼んだ筈だ。決して『祐一さん』などとは呼ばない。

「どうしたんですか? 祐一さん」でも、それは香里にとっては疑問でも何でもなく……そして首を傾げながら……。「どうして祐一さん、私のことをお姉ちゃんの名前で呼ぶんですか?」

 その言葉が俺の脳に浸透するまで数秒の時間を有した。そして、理解は絶望の渦となり全身を駆け巡る。強烈な眩暈が世界を中心にして起こり、そして瞬時に収束する。世界観の崩壊、信じていたものを知らぬ間にこっそりすり換えられたような恐怖。

「か、かお、り……ねえ、何言ってるの?」その恐怖に耐えられず、名雪が叫ぶように声を発する。「何言ってるの? ねえ、冗談でしょ、ちょっと冗談を言ってからかってるんだよね、ねえ、ねえっ!」

「冗談って、何が冗談なんですか? それより二人とも、なんで私のことを香里って呼ぶんですか?」

 やめろ、もう崩さないでくれ、この世界を。でも、少しばかりの希望を、いつも現実は無残に押し潰す。現実はいつも無邪気で、そしてとんでもなく残酷だ。

「そんなこという人、嫌いです」

 それは、俺が愛した人の……口癖だった……。

「それよりお母さん、台所借りて良いかな。今から作りたいものがあるから。ということで祐一さんも名雪さんもごめんなさい」

 そして、廊下の奥へと消えていく『香里』の姿。

 誰もが何も言えなかった。

 誰もが一歩も動くことができなかった。

 叫びたいのに、走り出したいのに、泣きたいのに、どの感情もが壊れてしまっていた。ただ、愛すべき『二人』の声が俺をどんどん絶望の側へと引き込んでいった。

 俺は、何もできなかった。

[PREV PAGE] [SS INDEX] [NEXT PAGE]