二月十三日 土曜日

第十一場 学校

 まるで、世界の大切な一部分をすりかえられてしまったかのような苦々しい錯覚。幼い頃、たまに眠るのがとても怖いことがあった。実は自分のこれまでの生活は他人の見ている儚い夢で、睡魔の淵で覚醒した夢見人の手により残酷に葬り去られるのではないかと本気で怯えたことがある。勿論、そんな想像を何の影響も受けぬまま思いつくほど俺は頭が良くなければ想像力もない。あれはそう、小学校の頃教師が国語の授業で話した中国の逸話だった。

 その頃、俺は結構真面目だった。今と比べて、ということだが少なくとも授業中の初っ端から机に臥せって眠るようなことはしなかったと思う。その分、休憩時間は色々と奇抜な遊びを友人たちと楽しみ、叱られ或いはぶん殴られはしたが。まだ、勉学というものに疑問を持っていなければ、意味はないと一括りにする卑屈さも持ってはいなかった。良い意味でも純粋だったし、悪い意味でも純粋だったのだ。

 その時の教師は故事成語マニアで、よく教科書を放り出してはプリントを手渡して特に中国の故事を語ってくれた。今はその故事も登場人物の名前も覚えていないが、全編に漂う強い虚無感と厭世観とが強く心を捉えて離さなかった。話の筋というのは大体こうだった……昔、ある男が身を起こそうと都へと向かった。途中、立ち寄った食事処で男は一杯の粥を頼む。男は都へ渡り、数十年もの年を過ごし財産もそれなりに蓄えた。しかし、それ以上に金以外信用できなかった人生を悔やんでもいた。しかし、次に気付いた時には男はまだ食事処に座ってうつらうつらとしていただけで、粥ができたことを伝える主人の声でようやく目を覚ました。男はそれが夢であったことに大層驚き、自らの努力など粥一杯の時程度に過ぎないのかと世の儚さを思い、そして自分の固執していたものがいかに下らないものかを知り、男は郷里へと帰っていく……そんな話だ。

 大抵の奴らは嘘臭いと話していたが、何故か俺だけはその故事にこんな思いを感じた。一生分の生活がただの夢だったとしたら、そこで過ごしてきた夢の住人たちはどうなってしまったのだろうか。やはり男が目覚めたため、まるで風船を針で突付くように一気に消え失せてしまったのだろうか。それとも、男の存在だけが世界から忘れられ、夢の世界はずっと続いていくのだろうか。どちらにしても、俺はそのことに心底からの恐怖を覚えた。泡沫の夢が幸せな世界を悉く蹂躙する、或いは俺一人が実は現実世界の住人で、いつしか誰も俺のことを知らない別の世界に飛ばされてしまうのではないか……愚にもつかない想像だがそのことで一時期悩んだことがある。夜は電気を点けていなければ眠れなかった。闇が恐かった……そのまま終わりなき夜に飲み込まれてしまいそうで恐かった。幸せな世界が奪われ、或いは改変され奪い取られてしまうことが……。

 今となっては、何故そこまで怯えたのか分からない。再生を拒む俺の記憶の一部が、そんな思いを抱かせたのかもしれないし、単に妄想症一歩手前の状態だったのかもしれない。けど、昨日の香里の姿を見てそのことが強く思い出された。世界は改変され始め、頭の中にシンバルでも内蔵されているかのように動揺は脳内に激しい音を響かせる。その中心にいた一人の少女は、しかしただ楽しそうな微笑を浮かべるだけで何事もなかったかのように家の奥へと消えていく。恐くてそれ以上、俺はその現実を直視できなかった。泣き出しそうな香里の母親、既に泣いている名雪を背に数歩後ずさりし、情けなく尻餅をついてしまうことしかできなかった。何かが狂っている。しかし、その歪みが何か答えることはできなかった。

「香里……いつからああなったんですか?」名雪がようやく涙を飲み込み、呆然を通り越し半ば心を閉ざした状態で普段より冷静にそのことを尋ねる。「一昨日会った時は、元気だったのに」

「分かりません、本当に分からない……」あの香里の姿を見て冷静さを失ったのだろう、体が可哀想なほど強く震えている。「でも、栞のことで何か思うことがあったってことは分かるんです。あの娘、栞の部屋で何か呟きながら酷い状態でへたり込んでいたんです。ゴミ箱を吐瀉物で一杯に埋め尽くし、顔はその残滓にまみれ時々咽るのか咳をするということを繰り返してました。けど、その中で目はぞっとするほど晴れやかで、嬉しくて仕方ないって笑顔を浮かべて言ったんです。あの仕草、口調……栞、あれは栞で、大切な娘だって言うのに、どうしたら良いか分からなくて、恐くて、恐くてっ!」

 何とか状況を伝えようと尽力していたが、後半の方は支離滅裂で叫ぶようにして声を張り上げていた。香里の急激な変化に対する畏怖、そしてそれ以上に自分の娘をそんな目でみていることへの嫌悪感が端々から見て取れた。

「分からない、香里はどうしてあんなことを……」そして最後に絶望的な呟きを漏らすと、マイナス螺子にプラスドライバを差し込んでねじ回すような不自然過ぎる笑顔と精一杯の虚勢を作った。「ごめんなさいね、以前に香里のこと支えて貰ったからって今度も貴方たちに頼ろうとしてしまって。でも、こうなったのは私が悪いのよね」

表情と言葉の余りのギャップに、俺はただ更に紡がれる言葉へと耳を傾けることしかできなかった。

「あの子が苦しんでることが分からず、ああなるまで追い詰めて……私、なるべく今までと変わらない生活を保つように心掛けてきたんです。悲しいけど、それを支えられる人間がいなければそれまでの関係が完全に瓦解してしまうから。事実、私は昔、そうなる寸前にまで追い込まれたことがあります。その轍を踏まないように、本当に悲しいのも我慢して……でもそれは間違っていたんでしょうか? 一緒に悲しんで慈しむことこそ必要だったのでしょうか? 私は母親……失格でしょうか?」

 重すぎる問いだった。いいえだなんて答えられないし、香里の母親が頑張ってきたということは言葉の端々から充分すぎるほど感じ取れる。彼女が母親失格なら、世界の九割の人間はそれに該当してしまうことだろう。辛い時、背中を押してくれる……そして支えてくれる人間がいかに大切でありがたいものであるかは、俺も過剰すぎるほど認識している。

 しかし、はいと答えて納得できるだろうか? 安心できるだろうか? 単なる気休めとしか取られないのではないのだろうか? そう考えると素直に肯定の言葉もかけられない。この問いに必要なものははいといいえの単純な二択ではない、それ以上の答えなのだ。そして、その答えを探し出すことが得てして最も難しい。

「分かりません」言葉すらこの場には相応しくないと思ったが、それでも俺は何か言わずにはいられなかった。「けど、少なくとも俺は貴方のこと立派な人だと思ってる。例え、他の誰がなんて言おうと……」そして、それが少しでも香里の母親に届くよう……。「貴方は、母親として胸を張って良いと思う。自信を持って良いと、思う」

 生意気だろう、傲慢だろう。俺にそんなことを言う資格などないだろう。実際に立派な人間でもなく、香里に救いの手を求められた人間としてその手を握り返すこともできず、貶め迷わせ狂わせしめただけの俺なのだから。

「わたしは何も言えないけど、何も言う資格もないかもしれないけど……」名雪は両手を胸に添える。「親のやっていることって、子供には結構見えてるものだから、だから香里だって本当は分かってると思う。でも……」そして切なげに声を漏らした。「本当に逃げたい時って、とてもとてもとても辛い時は本当に逃げ出したいと思ってしまうから、だから……ごめんなさい、何を言ってよいのかわたしにもよく分からないけど……ただ……」

「いえ、分かります……凄く、でも……」

 でも……多分、それでも自分を許すことができないのだろう。俺もそうだし、名雪だって同じようなことを考えているのかもしれない。奥の部屋からは、台所作業をする楽しそうな音が無為に響いてくる。それ故、余計に悲しい気分になった。

「香里、本当にどうしちゃったんだろ……」

 母親に丁重過ぎるほど頭を下げられ、何の解決もないまま無様に歩く俺の横で名雪は縋るような視線を向けた。期待や謝辞の言葉すら今の俺には痛く、悪いこととは思いながらその視線を正面から受け止めなかった。不自然な挙動でそれを逸らし、街を紅く照らしつける西日を眺める。風は強く、雲は次々と空を駆け抜けていく。通りはやがて来る夜の訪れを知り、俄かに活気付いていた。商店街を抜ける俺たち、突き抜けるような紅……血のように……。

 紅く、全てを包み込む……いつも駆け回ったあの日は小高い丘の入り口へと通じ突如赤の展開、何も見えなくなる、記憶も閉ざされる。痛い、まただ最近頻繁に襲う記憶と痛みとの闘い。痛い、やめてくれ、もう思い出そうとしないから。頭に針金を、耳に杭を、撃ち込まないでくれっ!

「くっ……はあ、はあ、つっ!」痛い、痛い、痛い。何でこんなに痛い。俺が何か悪いことをしたのか? 「……ゅ、やめてくれ、お願いだから」

「祐一? 祐一、どうしたの?」名雪の声が随分遠くから聞こえる。大分、痛みも収まって来た。脳の一方通行が解消され、渋滞が緩和されでもしたのだろうか。「祐一、しっかりして祐一!」

 ようやく、普段の音量が耳神経に復活する。と同時に、ようやく言葉を発する気力が戻ってきた。

「あ、いや……ごめん、ちょっと眩暈がしただけだから」

「嘘だよ祐一、そんな感じじゃなかった。何か凄く苦しそうだったよ。もしかして風邪でもひいたの?」名雪は慌てて俺の額に手を当ててきた。外気に曝された筈のその手は、とても暖かい。「熱はないようだけど、本当に大丈夫? 辛くない?」

「本当に大丈夫」思考が別の方向に向かったせいか、残っていた痛みも気にならないくらいの強さまで減衰していた。「今なら逆立ちだってできるし、名雪を家までおんぶしていくこともできるぞ」

 そして、虚勢でも何でもなく笑って見せた。それでも名雪は心配そうな表情を浮かべていたが、俺が香里の話を繋げると別の意味で辛そうな様子を見せた。

「それよりも、俺は香里の方が心配なんだ。何故、あんなことになったんだろう。まるで栞であるかのように振る舞って、皆を不安がらせてる。どうして……」

 そこまで言い、俺は突然に以前香里の言っていた言葉を思い出した。『私は栞の代わりになりたい』と望んでいた少女。思い余り、悔やみ続けるうちにそれが最高の手段だと思ったのかもしれない。自分より、栞がこの世界にいた方がずっと幸せなのだと。そして香里の中にもう一人の人格が生まれた。それは極限状況で起きた人格の乖離かもしれないし、とことんまで計算された理知的な演技なのかもしれない。少なくとも、あの場だけのやり取りでそれを見抜くことはできなかった。

 しばらくの無言の後、名雪が口を開く。平等に世界を照らす太陽だが、何故か名雪の周りに集う光は優しく見えた。

「わたしは香里のこと、好きだよ」最初は唐突な言葉に思えたが、すぐに言いたいことは理解できた。「だからね、他の人になんかなって欲しくない。こんなこと言うと、祐一もしかしたら怒っちゃうかもしれないけど。でも、人間って絶対他の人間になっちゃうなんてできないよ。わたしが不器用なだけかもしれないけど、そんなことしても誰も喜ばないと思う。例え……その人が世界中の誰から愛されていた人でも」

 素直な、とても素直な言葉だった。だからこそ、俺の中でくすぶっていた疑問符が氷解され明確な形にしてくれた。どんなことがあろうとも、やはり香里は香里なのだ。例え、栞と同じ声で、同じ仕草で、同じ愛で接してくれたとしてもやっぱり嬉しくはない。美坂栞という一人の女性からそれが現れることが嬉しかった。そして、美坂香里という女性から、香里の人格として話しそして動き、もしも叶うのなら……愛して欲しいと思う。

 複雑に絡まった感情の糸が解きほぐされていくのが分かる。素直に気持ちを心に出すことができることに、一種の驚きすら感じた。俺は……やっぱり香里のことが好きだ、そして誰にも譲りたくない。卑怯かもしれない、今更気付くなんて遅いのかもしれない。大切なことは得てして、気付いてしまった時には遅いから。でも、もしかしたら間に合うんじゃないかと希望的観測を抱く。そのために、人は報われない努力もするのだろう、きっと。

 だから、俺も対決しよう。例え報われなくても良い、香里と対峙して自分の心を素直に伝えよう。呆れられても、軽蔑されても良い。今はそれが一番大切だってことに、俺はようやく気付いた。

「そうだな、俺も香里は香里のままが良いな……」

 決戦はきっと明日だ、俺は直感的に思った。

 今日は、六時前に目が覚めた。一応、目覚ましは六時に仕掛けておいたが杞憂だったようだ。もっとも、昨日は午後九時過ぎには眠ったので十分すぎるくらいだったが。体は明らかに軽い、全身にアドレナリンが満ちているのが分かる。布団を大袈裟に跳ね上げると、柄でもなくストレッチを始めた。体を解し、これから起こるかも知れないことに少しでも備えなければいけない。頬を二、三度強く叩き、一度大きく深呼吸するといつもより早い動作で朝の準備に取り掛かった。制服に着替え、下に降りてとびきりの冷水で顔を洗う。肌を締め付けるような痛みと冷たさが、心にまで張りを与えてくれたように思えた。歯を磨き、軽く朝食の準備をしようと台所に向かうと丁度起きてきたであろう、秋子さんと鉢合わせる。

「あら、今日は早いんですね」いつもはそれを微塵も感じさせないが、やはり起きだちのためか僅かに目を細めている。その姿はやはり親子なだけあって名雪を連想させるものがあった。「何か用事でも……」そう言って何気に顔を覗き込んだ秋子さんだが、その意図にきづいたのか別の意味ですっと目を細め、それから何事もなかったかのように微笑んでみせた。「頑張ってください、ね」

 語尾に微かな力強さを感じさせる口調。俺の様子を見ただけで、状況を悟ったらしい。勿論、昨日のことは秋子さんに話してあるにしてもその想像力と推察力には敬服してしまう。もしかしたら、今眠気を我慢して起きてきたのも、少しでも俺を気遣っての行動なのかもしれない。今までは、その超然とした態度であまり気付かなかったが、どんな人間だって弱みはある。秋子さんにだって眠たい時や疲れている時があるのだ。だからこそ、人に気を配り過ぎて本当は苦しい時にもそれを抱え込んでしまっているのではないか……俺の心は初めてそんな疑問を抱いた。

「じゃあ、少しだけ力の付く料理を作ってあげますから」しかし、目の前の女性は幾許か姿を覗かせたその弱みを既に覆い尽くしていた。そこには家長として、そして母として完璧に近い姿がある。そして、その様子を見ていると自分の抱いた思いが杞憂に過ぎないのではと考えざるを得ない。「私も応援していますから」

 最後にそう言うと、秋子さんは朝食を作り始めた。十分後には少し厚めに切ったハムと卵のチャーハンに、唐辛子のくどくない程度にきいた中華風スープがテーブルに並んでいた。確かに朝食としては少し重ためかもしれないが、体力は付きそうなラインナップだった。小振りの蓮華でチャーハンを掬い、スープを啜る。体に暖かさが灯り、徐々に活力が湧いてくる。無我夢中でそれを平らげると、感嘆のために大きく一つ息をついた。

「ごちそうさまでした……美味しかったです」胃の辺りを何度か擦ると、よく考えればここに来てから最も最上級に近い恩礼の言葉を述べた。「それと……今日は名雪のこと、お願いします」

「ええ、分かりました」このことだけで何を言おうとしてるのか分かり合ってるところが、共通の気苦労を感じさせて思わず苦笑しそうになる。そして、自分にそんな余裕が生まれていることに気付いた我ながら驚いてしまった。二階に鞄を取りに行き、そして即座に玄関へと向かう。それから以前見た警察官のドラマのように、びしっと頭に手を当てて敬礼する。「じゃあ、行ってきます」

「はい、いってらっしゃい」そして、少しからかい気味に言葉をかける。「でも、敬礼の時は右手を頭に当てるものですよ」

 俺は少しずっこけたが、その次の言葉は深く言葉に染み入った。

「祐一さんならきっと大丈夫ですよ。貴方は自分で思ってるよりよっぽど素敵で優しい人なんですから」

 そうなのだろうか? 俺は立派でも優しい人間でもないと思ってる。場当たりで直情的で、そのくせして肝心な時には何もできずにいつも燻ってる人間だ。けど、秋子さんに言ってもらえると少しでも自分を称えてみようかなって気持ちになってくる。それが良いことなのかは分からないけど、必要以上に気負うことなく一時間以上早い通学路を歩むことができた。いつも以上に凶暴な真冬の大気も、興奮と上気に包まれた俺の敵ではなかったような気がする。勿論、寒いことは寒かったのだが気の持ちようで何とでもなるらしい。それは俺にとって、新鮮な発見だった。もっとも、子供の頃は雪の吹きすさぶ中軽装で走り回っていたのだから当たり前のことかもしれないが。前向きで暖かい心の持ちようというものは、年を取る度に磨耗していくような気がする。

 生徒も教師も誰もいない学校はひどく閑散として、そして異常に広く感じる。時計を見ると七時二十分、いつもなら早過ぎて暇を持て余してしまうだろう。しかし、今日は違う。退屈を持て余すどころか、ほぼ変わらぬタイミングで香里も現れるだろうという確信があった。彼女が栞だと自分を思い込ませているのならば。栞は楽しいことがあれば我先に馳せんじ、そのことを夢想し数時間前からでもずっと待ち続ける性格を持っていた。香里もそれを知っている筈だ。だからこそ、できるだけ俺は早く家を出た。機先を制するためと、そして心の準備を整えるために。

 もしかしたら、既に香里は到着しているのかもと恐る恐る教室を覗いたが、まだ誰もいない様子だった。俺は教室に大きく深呼吸をして入ると、ゆっくり自分の席に向かった。深く腰掛けると、結露で滲んだ風景を何気なしに眺めながら状況を整理するため、今までのことをずっと考え続けていた。

「後は野となれ山となれ……か」今の自分にこそ相応しい言葉に思えて、俺は思わずそんなことを呟いていた。その言葉すらも平均的に拡散され、そこに騒音の全くないことを示していた。これだと当分、誰もこないかもしれない、そう考えた俺の耳に、しかし遠くから僅かずつ靴音がこちらに迫ってきていた。ぎくりと肩を震わせ、しかし直感的にそれが誰だか分かっていたので俺は心を乱すことはなかった。これくらいで慌てるようでは、これから先に起こることの対処など到底できないだろう。

 俺は席を立つと教室を出、廊下でその人物を迎えた。向こうも俺の姿を察したのか、早足で駆けつけてくる。胸に抱えた鞄から下がるアクセサリと、髪の毛とがしなやかに揺れては落ちる。やがて間近まで到達すると、俯き息を整え、そして再び俺の方を向く。代わり映えのしない制服の中心を赤いリボンがいつものように着飾っていた。

「おはようございます、祐一さん」明るい挨拶の中に、わだかまる強烈な違和感。手には何故か包帯を巻き、そこから薄い傷がいくつか漏れている。「今日は、とても早いんですね」

「ああ、予感がしたからな」行動を予測し、そして感じえた冷静に満ちた直感。「お前は、楽しいことがあると誰よりも早く駆けつけるからな。こちらも先手を取るのが大変だった」

「そうなんですか……」人差し指を唇に当て、小鳥のように首を傾げてみせる。「じゃあ、今日は私の負けですね」

 無邪気に悔しがってみせるが、しかしすぐにころっと態度を変える。ダイナミックに感情を動かし、それでも嫌味に全くならないその仕草は正に栞そのものだった。だからこそ、香里がいかに頑なでいるかということもうっすらとだが計り知れた。

「あ、そうだ。祐一さん、これ……」大きく膨らんだ鞄をまさぐり、悪戦苦闘しながらも栞は丁寧にラッピングされた包みを取り出した。鞄を廊下に立てかけると、愛おしそうにそれを両手に抱え、そのまま俺の元に差し出した。

「はい、これチョコレートです。別に明日でも良かったんですけど、やっぱり学校で渡す方がドラマみたいで面白いですよね」包みの向こう側から、昨日も微かに感じた甘い香りが漂ってくる。「祐一さん、甘いものが嫌いだって言ってたから甘さ控えめの大人の味がするチョコレートを作ってみました」

 そのチョコレートを当然の如く、受け取ってくれるだろうと思い込んでいる。でも、俺はすぐには受け取らずこう促した。

「なあ……屋上へ行かないか?」

 その言葉に一瞬きょとんとしたが、すぐに別の方向へと恣意的に思考を向けていった。「そっか、二人きりになりたいんですね。今も二人きりだけど、でももう少ししたら人が……」

「そんなんじゃない」俺は、少しきつめにその言葉を発した。「本当は分かってるんだろ?」

「えーっと……」それで思い直してくれるとも、元の香里に戻ってくれるとも思わなかった。案の定、疑問か曲解か分からぬ仕草をもって満足のいかない答えを返して来た。「とにかく、屋上に上がりましょう。少し寒いかもしれませんけど」

 そう言って、素早く駆け出していく姿を見て、俺も重々しい体をゆっくりと動かした。廊下を踏みしめ、階段を一段一段上る。彼女は本当に、栞を心の中に生み出したのだろうか? それとも巧妙な演技をしているだけなのだろうか? 今眺めていてもそれがさっぱり分からない。俺は精一杯の記憶を辿っていった。何処かに矛盾がないか、何か決定的に違うことはないか。

 そしてふと気付く。それは簡単なことだった。鮮明に頭に浮かぶ栞の様子や会話のやり取り、そして仕草が簡単にそれを導き出してくれた。香里はやはり……。

「わっ、やっぱり寒いですね……」

 それでも両手を広げ、くるくると回ってみせる香里に向けて俺は怜悧な言葉を放った。

「もう、芝居はやめろ」

「えっ……」一瞬、動きを留めた香里だったがすぐに疑問を呈してきた。「あ、祐一さん……よく意味が分かりませんよ」

「分かってるんだよ。誰を傷つけたいのか知らないけど、お前が栞のふりをしてへらへらしてるってことは」残酷な言い方かもしれない。でも、香里を元に戻すには強い衝撃を与える以外に方法はないと思った。「だから香里、もう……やめてくれ」

 しかし、動揺するかに見えた香里の顔は自分の名前を聞いた途端、憎しみで強く歪んでいった。

「また私のこと、その名前で呼ぶんですかっ!」そして憤りは突如野暴発をみせる。「どうしてみんな、栞って呼んでくれないんですか? なんであいつの名前で呼ぶの? 祐一さん、名雪さん、お母さんに、お父さんもみんな……」

 あまりの口調の猛々しさに、俺はぞっとした。声色や口調を栞に似せている分、その刺々しさが強く周りを刺し貫いていく。そして、恐らく香里自身を最も強く貫いている……自分自身を罵倒することによって。鏡に怒鳴りつけるような、虚しい憎悪によって。

「私、お姉ちゃん……あいつなんて大嫌い。私のことを構ってくれないし、いないふりをして私が苦しんでるのを楽しんで見てるの。で、散々意地悪したくせに今度は勝手に擦り寄ってきて。無責任なの、迷惑なの」

 耳を塞ぎたくなる。自分のことを罵倒し続ける香里に、自分を憎んでると思い込んでいる栞になり切ってその言葉を代弁させている。悲しい一人二役、そして耐え難い言葉の渦。香里のことを好きな自分もが厭らしく、そして醜いものに思えてきて辛い。

「私は栞、栞なんです。あいつなんかより、私がいた方がみんな嬉しいでしょ。だから……」縋るような視線が俺を刺す。「だからお願い、私を、私だけを見て……」

 懇願するような口調。しかし、俺の心は沸点間近の薬缶のように怒りが渦巻いていた。自分を責めるのはまだ良い、でも栞のことを利己的で自分勝手な人間にしていることは許せない。一番近くにいたくせに、本当はそんな恨み言葉一言だって吐く筈がないのに、ただ自分を苛めたいという理由で妹の存在を利用している。墓から掘り起こして、虚偽の世界を強制しているのだ。

「……めろ」くぐもった声は、しかし香里には届かない。

「昨日だって、私のこと散々馬鹿にして。だから、殴ってやったんです。私も拳が痛かったけど、そんなこと全然気に……」

 もういい、これ以上醜いものを見せないでくれ。大好きな栞を騙って、大好きな香里のことをいたぶらないでくれ。これ以上、世界を壊さないでくれ……恐い、恐いんだ。この世界が泡沫の夢の世界だなんて、孤独な暗黒の世界だなんて信じたくないんだ。

「後でお母さんに怒られて良い気味でしたよ。あんな奴なんて……」

「やめろおっ!」

 堰を切った叫びが口から漏れると同時に、全く無意識で俺の右手は香里の頬を叩いていた。手に持っていたチョコレートの箱が、コンクリートの床に落ちる。その一撃に顔を強く横に背け、香里は煌々とした視線を俺に送ってくる。

「何する……」咄嗟に出たそれは、普段の美坂香里のものだった。しかし、自制心の強さからかすぐに演技の世界へと埋没してしまう。「何するんですか! 酷いです、祐一さん……」

 頬を覆い、拗ねたような表情をするのがまた、癪に障った。大好きな人なのに憎しみしか浮かんでこない、それは悲しいことだと分かっていても止められない。だから、俺も演技をしてやることにした。もう、理性とかそんなものはどうでも良いと思った。ただ、傷つけてやりたかったのだ。

「ごめん栞」その名前を呼んだ時、残っていた良心もヘドロの底に埋没した気がした。「自分の家族のこと、悪く言うから思わずかっとなって。俺、両親と離れて暮らしてるから……」

 両手に軽く肩を添え、囁くように言う。多分、女を食い物にするホストは俺と同じことをやってるんだろうと漠然と思った。

「あ……」俺の変化に戸惑っているのだろうか、上目遣いに見上げる瞳には今までにない混乱の色が浮かんでいる。「いえ、そうですね……ごめんなさい。私、祐一さんのこと考えないで……」

「ううん、気にしてないから」香里の両手に込める手を少し強め、体をそっと寄せる。「でも、これだけは信じて欲しい」うっすらと目を細め、鼻が当たらないように意識して顔を少し傾ける。香里はきっと、何をしようとしているか分からないだろう。でも良い、全部壊してしまおう。俺は最後に心のこもらない愛の言葉を紡いだ。「愛してる、栞……」

 そして、徐々に顔を寄せる。像がぼやけ、そして吐息が段々と近付いてくる。このまま、全てを奪って……。

「いやあっ!」突如、両手が胸を強烈に押しやる。不意打ちに面食らい、俺はまともに湿った地面の上に倒れこんでしまう。僅かずつ服に染み透る感触が気持ち悪くて嫌だ。「相沢君、何するの? 何を……しようとしてたの!」

 なりふり構わず怒鳴り散らし、途端に口を噤む。ボロが出た……目的を果たせたと思うと同時に、それが俺への嫌悪感だと思うと何故か無性に可笑しかった。これで、きっと嫌われてしまっただろうな。節操なしの愚か者だと思われただろうな。

 今までの怒りが完全に霧散していた。逆に今すぐ笑い出したい気分が喉のすぐ側まで満ちていた。実際、俺は笑っていたのだろう。

「祐一さん……何を……笑って……」

「あはははっ、もうやめろよ、演技なんて。屋上に来る前からとっくに分かってたよ、ははっ……」

「嘘」香里は何度も首を振った。「そんなの嘘」

「本当だよ」滑稽さにようやく心が慣れてきて、次に湧いてきたのは真摯な思いだった。「栞には、俺が甘いの駄目だってこと一度も話してないからな。そんなこと言ったら、あいつのことだから遠慮するに決まってるから」そして、記憶の襞の一本からそれを連れてくる。「でも、香里には言った」

 俺の家に来た時、カステラを食べないかと尋ねた香里に俺ははっきりと甘いものは好きではないと答えたのだ。だからこそ、今までの行動が全て演技だと分かった。一度、いや何度も香里の体を借りて栞が再びこの世界に現れたのではないかと思った。けど、奇跡なんて起こらないことを俺はよく知っていた……そして現実にそうだった。そんなことを考えていると、次には再び怒りの感情が舞い降りてくる。自分でも驚くほど感情が変わる、それでいてどの感情も今まで異常に鮮明に、そしてリアルに感じられた。今まで冷ましていた思いが一気に吹き出たのかもしれない、香里の行為によって。ばつの悪そうに俯き、何事かを考えている香里を眺めていると無性に耐え切れなくなって怒号の嵐を容赦なく浴びせた。

「香里は良いよな、そうやって狂った振りして自分のことを嘲笑って気分を晴らせるんだから。でも、それに付き合わされる俺や名雪やお前の両親の身になってみろよ。確かに栞にはこの世界にいて欲しかった。けど、お前のことだってみんな好きなんだ。名雪も、両親も、俺も香里のことを皆、好きなんだ。香里とも栞とも呼べないお前の存在がどれだけ苦痛だったか分かるか? 偽りの奇跡を見せて、束の間の喜びとそれ以上の絶望を見せつけたんだよ、お前は!」

 香里の顔が冷たく歪む。彼女がどんなにか俺を憎んでいるのか、その様子から充分すぎるほど分かる。けど、俺は気勢を弱めるつもりなど毛頭なかった。

「お前があんなことして、誰かが一度でも楽しそうな様子を見せたか? 心からの笑顔を浮かべて見せた奴がいるのか? 答えろ、答えろよっ、香里っ!」

「……さい」香里が何やら口元で呟くが、興奮した俺の耳には届かない。言葉による暴力は留まることがなかった。

「香里のやってることは、ただの自己満足だ。自分が救われりゃ、それで良いのか? 他の奴はどうなっても良いって言うのか? 香りに生きて欲しいって確かに言ったけど、こんな生き方をして欲しくて言ったんじゃない。分かって……」

「うるさいっ!」早口でまくし立てる俺の声を、更に大きく甲高い声が遮る。「うるさいうるさいうるさいううさいうるさいっ! やめて、やめてよぉっ! 良いじゃない、私なんかいなくたって。みんな、私より栞の方が好きだったんだから。相沢君、あんなに取り乱して塞ぎ込むくらい思ってたんでしょ、栞のこと。良いじゃない、私のことを栞と思って抱けば。キスして、それ以上のことだってして良いのよ。さっきは驚いてついあんなことやったけど、いくらだって受け入れてあげるわよ。名雪だって戸惑ってたけど、きっと栞のことをすぐ好きになるに決まってる。私のことなんか簡単に忘れてしまうわ。お父さんだって、栞が戻ってくれば元気になれる。自分を罰するように働き尽くめで帰ってくるなんてこと、なくなるのよ。お母さんだってそうよ、栞が死んでから私に優しくあたるのは栞の代わりになって欲しいからでしょ。結局皆、栞なのよ。いるのは栞、いらないのは私。だから、私は栞の代わりになるの……体も、心も。そうすれば、皆、幸せになれる……」

「そんな筈ない」俺は負けずに叫び返した。香里の考えに屈することは絶対に嫌だった。例え、二度と会いたくないと言われてもだ。「人が人であるように生きられない場所にどんな幸せがある? 偽りしかない世界の何処に真実がある? そんなものある訳がない。それに、人は比べられるものじゃない。栞にも香里にも良いところがそれぞれあって、自分らしく生きていけるからこそ幸せなんじゃないのか? 自分でない人間を演じることで、誰も幸せになんかならないんだ。それに、香里は勘違いしてる」

「勘違い?」刺々しい言葉が、香里の口から突いて出る。

「香里の母親は、香里のことを栞の代わりにしてるだけだって言ったよな。けど、以前に香里の母親と話をした時、悲しそうにこう話してた。『強い香里に縋って、苦しめてきたんじゃないか』って、凄く後悔してた。そして『香里が誇れるような母親』になれるかとも言ってたんだ。お前のことを気遣うようになったのは、栞の代わりだと思ってるんじゃない。お前のために、本当は悲しくて泣き出したいのを堪えて精一杯やってるんだ」

「そんなこと……」香里にとっては本当に意外なことだったのだろう。否定しようとしても、声が震えて先には進まない。

「父親の方だって、今は辛くて誰も思いやることができないかもしれない。でもな、香里のことをいらない訳じゃない。分かるだろ、俺だって名雪に励まされなければきっとああいう風にもなってた。名雪は確かに栞とも仲良くなれただろうな、けど香里のことだって好きだと断言できるから。じゃないと、あそこまで親身になって苦しみを分かち合うなんてしないだろ」

俺はただ夢中になって話し続けた。傷つけようと思えば、今度は妙に慰めたりして。感情の赴くままに喋り、行動し、全てを壊そうとして次の瞬間にはそれを必至で支えている。俺は結局、何をやりたいのだろう。いつもそう、感情の赴くままに言葉を進め、一方では白々しいほどの曲解をみせて肝心なことはいつも放ってばかり。本当に言いたかったこととは何だろう、結局勇気を振り絞ってまで今日ここにやってきた本当の理由は? 香里を立ち直らせたかったから? 香里を愛している人がいることを伝えたかったから? 違う、それは副次的なものに過ぎない。俺の望みは……。

「それに……」そう、望みは最初からこれだった。「俺だって、香里のことを好きなんだ……愛してる」また拒まれるだろうか、そんなことも考えたが、理性より行動の方が先に立っていた。俺は包み込むように香里を抱きしめると、囁くように耳元で言った。「こんなこと言うと軽蔑するかもしれない、妹が死んだから今度は姉なんてなじられるかもしれない。節操なしの大馬鹿野郎だって怒られるかもしれない。何度も振り切ろうと思ったけど、駄目だった。迷惑かもしれない、だけどこれだけは伝えたかった」

 俺は自発的に抱きしめた腕を離し、今までより距離を置くともう一度言った。

「香里のこと、愛してる」

 普段なら、冗談だってこんなこと言えないだろう。でも、今言わなければ一生後悔すると思った。

「なんで……」香里はいきなりの行動にうろたえ、頬を赤らめ、それから一歩後ずさった後、何度も首を横に振った。「なんで、私なんて好きになるの? こんな汚い人間を。そうよ、私また逃げようとしてた、楽な答えに。栞になれれば罪から解放されると思った。醜い私でも、少しは救われると思ったの。自分で自分を罰している時、とても気持ち良かった。この言葉が、本当に栞からであれば良いと願い、そう思い込もうとしたわ。でも、それは栞の言葉を借りてやっちゃいけないことなのよね、罰するなら自分の言葉でするべきだった。あの可愛い栞を、そんなことに使うなんて……酷い姉、死んでからも栞のこと、踏み躙ろうとした……何て酷いの、汚いの、醜いの……楽して罪を洗い流そうとした卑怯者よ、私はっ!」

 興奮して目が煌々と、激しく俺を射抜いている。息を荒げながら、香里はなおも言葉を続けた。

「私はね、幸せになんかなったらいけないの」そして急激に語調を弱めると、微笑んでいるのか泣いているのか分からないような顔をした。「だから相沢君の気持ちには答えれない、幸せになる資格なんてないから……受け入れることなんてできないの」

 弱々しく、しかしはっきりと向けられた拒絶の言葉。「ははっ」と軽い笑みが無意識に出る。元々、駄目だろうとは思ってた。唯一の救いは……罵倒の言葉をかけられなかったことか。

「そっか、まあそうだよな。俺なんかより、香里を幸せにしてくれる奴なんて沢山いるだろうからな」脳裏に一人の人物の顔が浮かぶが、俺はあえて口に出さず、変わってこんなことを言った。「けどな、香里は絶対幸せになるべきだと思う。ちょっと強気だけど、頭も良くて綺麗で……優しくて、そんな奴にはきっと、幸せが似合うから」

 俺は二、三歩後ずさると惜しげに香里に背を向けた。

「あ……」

 香里の声が聞こえたが、俺は振り返らなかった。振り返りたかったけど、そうしなかった。振られてしまった人間には、そんなことをする価値はないのだ。

 ドアを抜け、階段をゆっくりと下りる。再び笑いが込み上げ、次には天も貫くような大きな溜息を漏らした。上を向く、それでようやく涙を流さずにすむことができた。分離しそうな体を引きずりながら、頭を、そして胸を探る。心は、どこにあるのだろうか? きっと、人を苦しめ一番痛みを与える場所にこそ存在するのだろう。

今はただ、上を向いて歩いた。

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