二月十四日 日曜日

第十三場(祐一・遊園地)

 行楽日和……という言葉が正にぴったりな一日の始まりだった。雲一つなく蒼天の阻むることただ一つない空は、冬の微々たる陽光とそれ以上の冷気を放っている。地はそれを余すことなく受け止め、重力に縛られた獣たちはただひたすらに春の到来を願う。地の戒めから解き放たれ、自由に空を舞う鳥たちとてそれは例外ではない。しかし、寒さの感じ方というのは人それぞれ違うわけで、無邪気に雪を掴んで走り回るものもいれば、こうして体を縮め眠気まなこを擦りながら電車を待っている人間もいる。目的地は最寄の駅より五分の場所にあるのだから、ここに集合すれば良かったのだろうが、その時は俺も香里も多分、気付いていなかった。もっとも、俺にとっては香里との出会いを先延ばしにしたい思いがあったため、どちらかというとほっとする立場だった。結局、来週になれば否がおうにでも出会うのだから無駄な悪あがきとも言えるが。

 しかし、心の中で微かな期待をする部分もあった。一度は完全に拒絶されたと思った香里から、あのように真摯な申し出があったのだ。もしかしたら、俺の望むような展開が訪れるかもしれない。浅ましい考えだなと思い、溜息と共に封殺しようとするが、上手く行かなかった。未練がましいなと思いながら見上げた空は、淀んだ自分の心を嘲笑うかのように鮮やかで澄んでいる。

 プラットフォームを見回すと、家族連れの一団が半ダース単位で見られた。野球帽を被り、構内を走り回る子供を叱り飛ばす母親、父親に肩車され楽しそうにはしゃいでいる少女、前日の酒が残っているのかはたまた風邪のせいなのか、やたら顔色の悪い父親。子供たちが騒ぎ立てるものだから、余計に疲弊しているようだ。万華鏡のような多種多様の家族の中で、ただ一つ言えたのは遊園地を嫌がる子供は一人もいないということだった。暗い顔をして立っているのは自分くらいのものだ。

 二羽の鳩が降り立ち、子供たちが食い散らかしたお菓子の滓をついばみ始める。それも、天真無垢な子供たちの追撃によって呆気なく失敗してしまう。群がっては散り、散っては群がり……何だか、妙に滑稽な仕草だ。俺も子供の頃は、大声をあげて鳥を追い立てまわっていたので人のことは言えないが。

 その先にウエイブヘアーがちらりと覗き、瞬時に心臓が高鳴る。しかし、よく見ると香里よりは五、六歳年であり、隣にはラフの極みといった格好をした彼氏らしい男が立っていた。大きく息を吐くと、もしかしたら鉢合わせでもしていないかとプラットフォームを何度も見回した。しかし、香里の姿は見えない。

「間もなく、六番線に……」駅内アナウンス独特の声が構内を満たすと、今まで椅子に腰掛け、或いは騒いでいた人たちも各々列を成し始めた。「……安全のため、白線の内側までお下がりください」

 アナウンスが終わると同時に遠くから鳴り始める遮断機の警報音。間髪入れる暇もなく、六両編成の電車はある程度の余裕を持って現れた。余裕といっても座席は既に埋まってしまっていたが、ここから遊園地までは四駅しか離れていないため、気にはならない。先立って乗り込み、吊革を掴むと所在無く車内を見回した。中吊り広告には女性週刊誌の扇情的な見出しが並び、芸能人や政界のスキャンダルをあの手この手で強調していた。はっきり言えば好ましいとは全く思えないのだが、暇な故に無意識で文字を追いかけてしまう。

 それにも飽きると、今度は車窓から外の風景を眺める。電線が相対速度の関係で波打つように動き、家や山や畑が右から左へと高速で動いているような錯覚が襲う。しかし、それすらも暇つぶしとして有用な手段ではない。所在無く欠伸をし、目を何度か瞬かせる。昨日の夜は、はっきり言って殆ど眠れなかった。昨日が活力に満ちていたのなら、今日の俺は倦怠感に苛まれている。俺としては、昨日こそが勝負の日で今日まで試合がもつれこむなんて思っていなかった。香里に振られたことで、全ては終わったと思っていた。そこに訪れた不意な延長戦、しかし余す体力は少なくだらしなく下がったガードにはパンチを打ち込み放題。下手をすれば、昨日以上に打ちのめされることは間違いない。

 第一、拾った財布を香里が持っていたことすら思いが及ばず、また秋子さんに貰って使途もなく忍ばせておいたチケットが今日の約束に繋がることなど考えてもいなかった。明日、俺が香里を誘う予定だったことが既定であったかのように言い、しかもすぐに電話を切られてしまったので、こちらとしては為す術もない。遊園地の名前を辛うじて覚えていたくらいでその場所や構造まで図り知ることはできなかった。少なくとも、新参者には無理だ。たまたま側にいた秋子さんが教えてくれなければ、俺は途方にくれていたことだろう。

「で、誰と行くんですか?」勿論、当然の如く尋ねられた。が、しばし躊躇している俺の姿を確かめると訳知り顔の元に一人で締め括ってしまった。「まあ、祐一さんが秘密にしたいなら仕方ないですよね。やっぱり、子供の頃はデートすることも恥ずかしく感じるでしょうから」

 実際には、デートという言葉には大きな語弊があった。秋子さんといえど全てを見通せるわけではないのだという安堵感と、しかしその相手が既に見当づけられていることに対する畏怖感が混ざり合っていた。秋子さんにでもそうだったのだから、名雪にはとても本当のことは話せなかった。ただ、明日は朝早くから外出することを伝えると全身で残念さを強調していた。

「そっか……でも先約があるなら仕方ないよね。でも、明日はできるだけ早く帰ってきてね」

 謀らずともおそらくそうなるであろうと思っていた俺は、二つ返事で応と答えた。

 夕食を摂り、風呂に入って冷や汗を流し切ると午後十一時には寝床についた。しかし、明日どんな顔で香里に会って良いか分からず、或いは香里が俺に伝えたいこととは何だろうかと思いを巡らすだけで、簡単に眠気を排除することができた。俺は、もう少し物事を割り切ることのできる人間だと思っていたので、煩悶の苦痛と没頭に時間の経つのを忘れてしまったのだ。結局、眠りについたのは深夜も二時を回ってのことで、また起きたのは午前七時だった。待ち合わせには充分すぎる余裕だったが、じっとしているのも性に合わない。結局、着替えを済ませて財布を手に取ると名雪や秋子さんを起こさぬようそっと家を出た。厚手のコートを羽織り、完全防御していても冷気は容赦なく隙間から入り込んでくる。結局、寒さに負けた俺は最寄のハンバーガショップに駆け込み、照り焼きバーガーとアイスコーヒーで簡単な朝食をすませた。氷を一個ずつ噛み砕き、最大限に時間を稼いでも更に一時間近い余剰が俺には残されていた。

 何かを為すには、だが短い時間でもあったので、俺は目的地に向かい甲斐甲斐しく――と言っても俺のような男性に使うものではないが――相方の到着を待つことにした。そして今、電車は目的の駅に着こうとしている。電車を降りると家族連れの波を掻き分け、俺は待ち合わせ場所である正門前のマスコットキャラの銅像前に向かう。一応、今から向かう遊園地のイメージキャラクタだが、色褪せた着ぐるみから覗く曖昧な笑顔はどちらかといえば不気味に思える。

 十派一絡げの群集の中、彼女はそこにいた。銅像の足元にポーチを抱え、物寂しげに俺のことを待つ香里。胸が疼くと同時に、駆け寄って抱きしめたいという衝動を深呼吸で辛うじて制御する。念のためにもう一度同じ動作をすると、俺は平静を装って香里に片手を上げながら声をかける。

「よう、香里」辺りが騒がしいことを考慮して、少し大きめの声を出す。「久方ぶり」

 緊迫した空気を早めに崩しておきたかったのと、香里がどのようなリアクションを示すか知りたくて、俺は故意にそう尋ねてみた。香里は俯き加減の顔をゆっくりと上げ、やや上目遣いにじっとこちらを見る。声も立てず、ただ迷子の子供が警官に助けを求めるような、ひどく儚げな目をしていた。鼓動に早鐘を鳴らさせ、強い同様を与える源がそこには厳然として存在している……。

「相沢君……」その言葉によって俺の存在を確認すると、ようやく軽い微笑を俺に向けた。「良かった、あんなことを言った後だから来てくれないかもってずっと思ってたの。本当に良かった……」

 香里は、俺に出会えたことを心底歓迎しているようだった。何だか気負っていた自分が馬鹿みたいに思えたが、それはそれで別の疑問を生んだ。香里は、本当は俺のことをどう思ってるのだろうか。だが、その思考は香里の言葉によって遮られた。

「でも、大分早かったわね。まだ三十分以上余裕があるけど……もしかして、眠れなかった?」

 その問い口からは、先程までの弱々しいイメージは感じられなかった。

「まあ、そんなところだ」面をきってイエスと答えられない辺り、やはり自分は捻くれものだと思う。「って、香里の方が前から待ってたじゃないか。いつ頃からここに来てたんだ?」

 まさか昨日の夜からなんていい出すのではないのだろうなと一握の危惧を抱く。香里だったら、やりかねない。

「昨日の夜」あっけらかんと言ってのける香里に、想像が的を得ていたことに驚愕する俺。あまりに反応が顕著だったせいか、香里は笑い声を僅かに漏らして発言を訂正した。「馬鹿ね、いくら何でもそんなことするわけないじゃない。そうね、ここに着いたのは八時くらいかしら」

 なんだ、一時間くらい前か……と一瞬思ってしまい、慌ててその考えを正す。じゃあ、待ち合わせの二時間前からじっと寒さと孤独に耐え立ち尽くしていたということになる。

「香里の方こそ早く来過ぎじゃないか」責めるべきではないと分かっているのだが、つい強い調子を剥き出しにしてしまう。「俺の性格からして、そんなに早く来る訳ないって香里も分かってるだろ」

「でも、今日は三十分前に来たわ」が、俺の様子にたじろぐ様子もなく、逆に言い張る。「私の我侭で相沢君を呼びつけたんだから、絶対に待たしてはいけないでしょ。だから、念を入れて……ね」

 過分に律儀な態度を保つ香里に、苛立ちが消えない。見ると、体を震わせ白い肌は氷のように冷たげに見える。結局のところ……香里は否定するかもしれないが、愚直なまでの真摯さは栞にそっくりだ。加えて、物事に明白な白黒を付けない限り決して納得しない性格。少しでも矛盾や他を阻するところがあれば、一人で抱え込み積極的に戒めようとする内罰的な思考。気丈な外面の内側には、ひどく脆い硝子の迷宮が渦巻いている。それすらも香里の全てではないにしても、そういう一面があることは否定できないと思う。

 俺のことが、香里の脆い内面を壊す方向に働いているのかと思うと辛い。と同時に、内罰的な香里の姿を見ているとそこまで自分を痛めつけなくても良いのではと強く感じる。香里への消せ得ぬ苛立ちは、その辺りに起因しているのかもしれない。そんな気持ちを知ってか知らずか、香里は取り成すように言葉を続けた。

「でも、三十分早く着いたんだから、三十分多く楽しめるってことでしょ? さっ、行きましょ」

 先程までとはうって変わり、楽しげな笑みを浮かべる香里。白のコートにタイトなジーンズを穿き、やや活動的なスタイルは、もしかしたら遊園地を精一杯楽しもうという香里の心構えなのかもしれない。妙に子供っぽいところに苦笑を浮かべそうになるが、最初の目的は香里の話を聞くことだったことを思い出す。いつから遊園地巡りになったのだろうか? まあ、こちらとしては正直、心の準備ができていないのだし、ある程度緊張が解れた方が良いのかもしれない。こんなところに来ているのだ、ただ話を聞いてさようならでは悲しい気がした。それは、香里と少しでもいたいという願望の現れに相違ない。それにしても……二歩前を歩き出した香里を思わず盗み見る。これが世間一般でいうデートということに、果たして彼女は気がついているのだろうか?

 意識した途端、気恥ずかしい気持ちが湧いてくる。入り口のゲートにつくまで、香里が後ろを振り向かなかったのは運が良かったのかもしれない。その間に、辛うじて心を平静に保つことができた。

 半券と引き換えに貰ったフリーパスを胸にぶら下げると、遊園地の外からでも覗けた建物がより鮮明な形で明らかになる。入り口のステージでは、子供たちが既に何人か集まってこれから行うであろう催し物に心を輝かせていた。遠目から見た看板には船隊物の写真が飾られており、目当てのものはすぐに分かった。

 敷地自体はそれほど広くはないものの、様々な乗り物や室内遊戯施設が目を楽しませてくれる。ジェットコースタからは歓声と悲鳴が轟き渡り、観覧車は遥かな高みへと訪問客を押し上げる。メリーゴーランドに乗る子供たちの顔は穏やかな楽しさに満ちており、ヴァイキングはけたたましい振り子運動を繰り返していた。俺は、久しぶりに訪れる遊園地の光景を再確認するように眺めていた。

 一方、香里は俺とは異なる瞳の輝きをもって遊園地の全景を眺めている。それはまるで、子供が新しい玩具を貰った時に見せる、驚きと喜びのそれに似ていた。

「香里って、遊園地に来たことあるのか?」

 俺が尋ねると、案の定、香里は首を振った。

「私、行楽とかに殆ど連れて行ってもらったことないから」最初、少し寂しげに語った香里の表情はしばらくすると嫌悪の情に歪んだ。それから感情を殺した表情に落ち着くと小さく首を振る。「まあ、こういう場所には興味ないから構わないけど」

 嘘だ、と俺は思った。興味ないなら、あんなに瞳を輝かせたりはしない。きっと、栞のせいだと少しでも考えたことを責めているのだ。根拠はないが、香里の言い訳がましい言葉が逆にそのことを真だと如実に示していた。けど、嘘と詰め寄ることもできない。

 我ながらまずい質問だったと思いながら、少しでも場を盛り上げようと次の言葉を必至で考える。そして思いついた次善策が、本当に月並みだけどアトラクションに誘うことだった。

「まあ、取りあえず回ってみようぜ。乗ってみたら楽しいかもしれないし。じゃあ、最初は……」

 そこまでまくし立てた後、俺の目に最初に移った乗り物を指差す。それは絶叫の大王、ジェットコースタ。

「あれに……乗るの?」

 少し不安げな香里に、俺は断定してみせた。

「何を言う、遊園地に来たらまずジェットコースタが定番だろ」

「そんなの聞いたことないわよ。それに初っ端って心臓に悪いんじゃないの? それに……」

「恐いから?」躊躇の様子が尋常でないので、思わず揶揄の言葉を向ける。「香里にも恐いものがあるんだな」

「ば、馬鹿言わないでよ」すると頬を俄かに紅潮させ、真っ向から否定しにきた。「あんな乗り物、平気よ。ただ、乗り物酔いにならないかなって心配に思っただけ」

 確かに、そのことは以前に聞かされているし、筋は通っている。だが、説得力があるとは言い難い。勿論、そのことを言うと不毛な論争になりそうなので黙っておいたが。

「まっ、恐そうに見えるけど乗ってみたら楽しいもんだって。じゃなけりゃ、あんなに人だかりなんてできないだろ」

 我ながら正論だと思いながら、ジェットコースタの昇降口へと向かう。香里はその後を渋々、本当に渋柿を口に含んでいるかのような表情でついてくる。その側を、兄弟らしき二人組が早足で駆けていった。流石にあそこまではしゃぐ気概はなくとも、少々楽しんだところで罰はあたらない筈だ。

 幸い、時刻が早いせいか二巡後には俺たちに順番が回ってきた。その間、何も話せなかったのは緊張のせいだろうか、それとも底辺にたゆたむ気まずさのせいだろうか……そんなことを考えながら、シートに腰を降ろす。運が良く、もしかしたら悪いのかもしれないが、俺と香里は一番前の席を手にすることができた。ある意味、謀ったようなタイミングに香里の表情はますます凍りついていった。

「ねえ、席……」を変えようと言いたかったのだろうが、その前に安全装置が職員の手によってかけられた。これで抜けられない。「……が前だと、その……体に良くないって話、聞いたことない?」

 繕うような言葉と、弱々しい調子。気の強い彼女が時折見せるそんな仕草が愛おしさを募らせていくのだと言ったら、香里はどんな顔をするだろうか? きっと良い顔はしないだろう。実際、安全装置を両腕で強く抱え、硬く身構えている香里の姿を俺はとても可愛いと思ってる。身動きが取れたのなら、相手の意向も考えずに抱きしめていたかもしれない、そんな躍動的衝動。

 アナウンスが流れ、ガクンとジェットコースタが大きく揺れる。緩慢な加速度の増加と共に、それは天空の高みへと登りつめていく。どんな興奮が待っているのかという緊張が胸を満たし、暗いトンネルを抜けると上昇は本番に……。

 レールの後方に広がる光景が増すに従い、俺の胸に興奮とは異なる感情が急速に満たし始めた。神経が強張り、急速に喉の渇きが生じてくる。なんてことだ、俺自身のことなのに興奮してすっかり忘れきっていた。俺は……高所恐怖症だった!

「なあ、香里……」自分でも声が震えているのが分かる。「これ、今から降りられないかな」

「ば、馬鹿なこと、言わないでよ」香里の声は見事なまでに震えている。「どうしたの? 今になって、その、怖気づいたの?」

「いや、そういう訳じゃなくて……」俺は自らの性癖を余すことなく告白した。「俺、高所恐怖症だった」

「はあ? じゃあ、何で平気な顔してるの?」呆れと恐怖が半々といった様子の香里。けど、その姿を可愛いなんて思える余裕はもう俺にはなかった。「まさか、忘れてたとか?」

 こくりと小さく頷くと、香里は本当に溜息を吐いた。

「自業自得って言葉、知ってる?」

「今、思い知った」

 こんな時に馬鹿なやり取りかもしれないが、本当に切羽詰った時には正常な思考の会話なんてできない。

「相沢君、こういう時、恐怖を和らげる方法って知ってる?」

「さあ。知ってたら、是非教授して貰いたいものだ」

「目を瞑って、思い切り叫ぶ」

 瞬間、世界が反転した。

「うわあああああああああああぁぁぁ!」

「きゃあああああああああああぁぁぁ!」

 俺は、つい先程香里に教わった方法を早速理想の形で実現していた。もっとも、知らなくても同じ行動をとっただろうが。

 一つだけ言えるのは、強烈な揺れとスピードに苛まれている数分間は、人生の中で最も最低な時間に属するものだったということだ。

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