二月十五日 月曜日

第二場 香里の部屋

 家に入り、母に声をかけるのも忘れて私は自分の部屋に飛び込んだ。倒れ込むようにしてベッドにその身を任せ、今にも浮き上がってしまいそうな身体を必死で抑えつけるために布団を思い切り抱きしめる。制服が皺になるということも忘れて、全身に住まうむずむずとした感じを落ち着けようとクロールのように足をばたつかせた。それでも早鐘のように打ち続ける鼓動は収まることなく、火照った身体は少しも冷めることはない。強く抱き合い、キスを交わしている場面を思い出すだけで、有頂天に近い感情が瞬時に補強され、ベッドの上を転げ回る動作の連続。

 おおよそ生きてる中で、こんな幸せな感情を抱いたことなんて滅多になかった。それは今まで生きてきた中で幸せだと思う出来事が少なかったのか、或いはそう感じることが少なかったのか、それは分からない。でも、少なくとも今はとても幸せだ。昨日、私は相沢君がいれば幸せだと言ったけど、今日のことでそれがますます強く感じられるようになった。きっと私の幸せはあそこにしかなく、そして相沢君を失ったらもしかして生きていけないかもしれない。それほどまでに、私は彼が好きだ。包み込むような優しさと、同じ光を称えた瞳、女性のような綺麗な顔立ちに、服越しに感じられた強く全てを支えてくれそうな全身の感触。全てが愛おしく、自分のものにしたくて仕方がない。

 栞が、彼のことを好きになったのも分かる気がする。今では狂おしいまでに分かる。相沢君は、それほどの魅力を持った人物なのだ。弱い人間に強さを与え、そして生きる希望をもくれた。ずっと暗闇の中を迷い続けていた私や栞に、暖かい光を投げかけてくれた。そんな人を、どうして素知らぬ顔で無視することができるだろうか。

 しかし、そうであっても栞がいれば私はこんなにも相沢君のことを好きになることもなかったように思える。それもまた、確信めいたものとして私の中にあった。いくら相沢君が魅力的でも、栞がいるという幸せに比べれば天秤の指し示す重みは明らかだから。私は微笑ましい表情を浮かべながら、その光景をずっと見守っていっただろう。恋心だって、その一片も抱くことはなかったに違いない。

 でも、栞はもうこの世にはいない。帰っては来ない。そのことが事実としてあり、近くには相沢君がいて、いつも私を励ましてくれた。そんな相沢君に、私は激しい恋をした。今では、この感情が恋というものであることを自覚している。彼が私に幸せを求めて良いと言ってくれたから、私は自分を励まして前に進んでゆけている。例え、妹の位置を利用して次の恋人の座にのうのうと納まったなんて揶揄されても、相沢君が良いと言ってくれるなら構わない。どんなことを囁かれようが、どんな壁があろうが彼となら迷わず突き進んでいける。

 そんなことを考えている自分がひどくロマンティックに思えて、やはり恥ずかしくてベッドを転げ回る。布団を抱きしめる力は更に強くなり、最早復元不可能なのではと思えるほどだった。ベッドの寿命が何ヶ月か分、確実に縮んだかもしれない。

 でも、そうまでしても考えることは相沢君のことで、相沢君になら何をされても良くて……相沢君となら……。

 途端、恥ずかしい想像が頭の中を過ぎり、堪えきれなくなって私は階段を駆け下りた。洗面所で何度も顔を洗い、冷水で顔を引き締める。それから鏡を見た。今までなら醜い自分が映ると思って恐がっていたそれも、今は気にならない。きっと、相沢君が私の顔を可愛いと言ってくれたからだと思う。人間は自分で自分を好きになるのはとても難しいけど、他人が自分を好きになってくれたら、自分で自分を好きになれるのだ、きっと。

今の私は、自分の顔をそれなりに気に入っている。けど、相沢君が言った通り、少し肌が荒れてて唇も乾いているようだった。今日からはビタミンとカロリーのバランスの取れた食事を摂ろうと心に決める。でも、唇は乾いたままで良いかもしれない。相沢君がまた沢山キスをしてくれるかもしれないから……。

先程の想像がまた蘇ってきて、私は更に何度も冷水で顔を洗った。もう、頭が眩むほどに一つのことしか考えられなくて、人を恋するってことは馬鹿になることかななんて思ってしまう。それとも相沢君が、特別に私の中に入り込んでいるからだろうか? 或いはそれすらも含めて恋と呼ぶのかもしれない。よく小説やドラマで甘いとか酸っぱいとかいう味に例えた表現をするが、実際は胸が引っ切り無しに疼くだけで何の味も感じない。気持ちの高まりようをどう抑えて良いか分からず、私は溜息をつくと洗面所を出た。すると先程までのドタバタを聞きつけたのか母が台所から顔を出した。

「どうしたの? さっきからドタバタして?」

「あ、ううん……何でもない」

 幾らなんでも、自分の部屋に相沢君と二人でいて……なんて答えられない。私は適当にお茶を濁すことしかできなかった。

「そう? 何かまた隠れて一人で悩んでるってこと、ない?」母は心配そうに私のことを覗き見る。「もしそうだったら、いつでも相談してくれて良いのよ」

「あ、本当にそう言うんじゃないの。悩んでるって言っても、辛いとか苦しいってことじゃなくて……」寧ろ幸せで、過分な幸せを享受しているようで恐いから悩んでいるのだ。でも、そんなことは言えなかった。「そういうわけじゃなくて……」

「ふーん……じゃあ、もしかして恋人ができたとか? そういや、ヴァレンタインの日に朝早くからこそこそ出て行ったようだけど、もしかして恋人に会いに行ったの?」母は微妙な鋭さでもって、私の目をじっと見据えた。「でも、香里って男っ気がないから……もしかして何度か家に来た相沢君っていう子?」

 その名を母が口にした途端、私の顔が明らかに熱を帯びたのが分かった。露骨な態度を示したからか、母は微笑みながら言葉を続ける。

「へえ、本当にそうなんだ。そうよね、よく考えたら同じ大切な人を亡くしたんだし、そうなったって不思議はないかもしれない。うん、彼だったら私も応援するから。あの子は本当に優しくて良い子だと思うわ。あと十五年若かったら、私だって放っておかなかったもの。だから、手放しちゃ駄目よ」

「そんなこと、分かってるわ」香里は少しきつめの口調で言い返した。どんなことをしても相沢君を手放しちゃいけないってことくらい、もうとっくに分かってる。「でも、相沢君はそうでも私には彼を繋ぎ止めておくような魅力がないから……だから、いつまでも一緒にいられるかどうか不安なの」

「馬鹿ね香里、貴女は凄く魅力的よ。私の娘とは思えないくらい……きっと相沢君だって、香里に夢中になってるに決まってるわよ」

「そう?」私は自信なさげに呟いた。「相沢君の隣にいるのに相応しい、素敵な女性かな? 私って。だって彼はその……凄く素敵なんだから、それはもう釣り合う人がいないくらいに」

「……香里、相当参ってるみたいね」

「参ってる? 別に私は疲れてなんかいないけど」

「えっとそういう意味じゃなくて……」母は少し考えた後、はあと溜息をついた。「疲れてるって意味じゃなくて、没頭してるってことよ。香里がそこまで、恋愛に没頭するタイプだなんて全然思わなかった。もし男性と付き合う時が来ても、本心なんか滅多に見せずに男性を惑わすような付き合い方になると思ってたのに、情熱的なところもあるんだって。かなり意外な感じがしたの」

 確かに……私自身、これほどまでに人を恋することがあるだなんて思ってもみなかった。好きな人ができたとか、女の子同士で騒いでいたということを私は冷笑的な気持ちで聞いていたからだ。恋をするのがそんなに心を熱狂させるだなんて馬鹿みたいだと。けど、その感情を実際に体験してみて初めて分かった。恋は明らかに人を浮わつかせる。相沢君のような素敵な人が相手ならば、尚更だ。

「うん、そうかも。私ってもっと、冷たい人間かと思ってた。人を好きになっても、どこか一線を引いてしまうだろうって思い込んでたのに……相沢君と一緒にいるとね、胸がそれだけで張り裂けそうになるの。すぐにでも抱きしめて、そして強く抱きしめられたいって思うのよ。いつでも側にいて欲しいって」

「分かるわ、その気持ち」母は何度も頷きながら、私の気持ちを肯定する。「私もね、初めて男の子と付き合った時は同じような気持ちだったわ。天に浮くような、そして幸せに戸惑うような、そんな状態で、この幸せがずっと続けば良いと、続くものだと根拠もなしに思っていたから」

 母はうっとりとした目で、どこか遠くを見ていた。それは遠き日の両想いの記憶を手繰っているのだろう。が、すぐに現実に戻ると今度は好色そうな目で尋ねてきた。

「で? 相沢君とは何時から付き合いだしたの?」

「えっと、それは……昨日から」

「ふーん、やっぱり昨日、こそこそ出て行ったのは相沢君と会いに行くためだったのね。それで告白かあ、ヴァレンタイン・デイに愛を確かめ合うなんてロマンティックじゃない」

 母はヴァレンタインならではのドラマを期待しているようだったが、私はその日一日、ヴァレンタインのことなんてすっかり忘れていた。ただ相沢君と会い、そしてけじめをつけようとすることだけで正に精一杯だったからだ。けど、そのことを正直に話すにはまだ心の準備が足りない。だから、適当に笑ってお茶を濁しておいた。すると母は、更に突っ込んだ質問を浴びせてきた。

「じゃあ、まだキスとかはしてないの?」

 キスという言葉に、今日つい今しがたまで交わしていたとろけるような甘く深く、長い長いキスが思い出され、全身が威力の弱いヒータのように熱くなる。その脆弱性を見逃す母ではなかった。

「その様子だともうしたんだ……じゃあ、もしかしてアレもしちゃったとか?」

 アレという言葉に、私はしばし首を傾げる。が、すぐにその言葉がある行為を示していると理解し、情けないことに気が完全に動転してしまった。

「そ、そんなことまだするわけないじゃない。だって、付き合いだしてまだ二日目じゃない……早過ぎるわよ」

「二日で早いってことは……いつかはやりたいんだ」

母は相変わらず、からかうような口調を崩さなかった。いや、私が墓穴を掘るような言い方をしたのがまずかったのかもしれない。でも、いきなりあの質問は反則だと思う。その……相沢君と、性行為をしたかなんてこと。

他の家の母親も、あけすけにそんなことを実の娘に尋ねたりするものだろうか? それとも、私の母が特別なのだろうか。とにかく、今の私はこの場から少しでも早く離れてしまいたいという気分で一杯だった。が、母親はそれより先にポンと手を叩き、妙案を思いついたかの如く話しかけてきた。

「あ、そうそう。ところで明日は久々に仕事で遅くなるから。帰ってくるのは早くても九時過ぎになるし、夕食は香里が作ってね。材料は適当に買い揃えといたし、お金も置いてくから食べたいものがあったら買って食べて良いから。そうそう、何なら相沢君を家に呼んで襲っちゃっても……」

「襲わないっ! 何で私がそんなことするのよ」私は思わずかっとなって叫ぶと、次には台所を飛び出していた。「ああもう、何てこと言うのよ、うちの母親はっ……」

 怒りと興奮が渦巻くのを抑え切れず、私は足音を強く鳴らしながら自分の部屋に戻った。気分を鎮めようと、机に向かい明日の予習をしようとしたが、すぐに別のことが頭を満たして集中どころではなくなった。再びベッドに飛び乗り、布団を思い切り抱きしめる。この部屋で、相沢君に押し倒され二人してベッドに沈むシーンを、想像してしまったからだ。馬鹿みたいな熱狂を収めようと、じたばた寝転がる。他人から見れば、さぞかし滑稽な姿に違いない。

 でも……そのことは何ら否定しない。初めては、もし相沢君が私を見てそんな気を起こすことがあるのならばの話だけど……やっぱり彼以外には考えられない。全てを捧げたいと心から願うのは、相沢君だけ……それは、誰も覆しようのない、真実。

 強引に、そんな恥ずかしい結論に完結してしまうと少しだけ心が楽になった。まあ、そうなるのはもっと先だろうから、取りあえずは鷹揚と構えていれば良い。或いは思う存分、相沢君に甘えてしまえば良いのだ。

 周りを見回す余裕ができてくると、ようやく私は未だ制服姿なのに気付いた。布団を転げまわっていたせいか、少し皺もできていた。制服を脱ぎ、急いでハンガにかけるとマープル色のスカートを穿く。それから、シャツがじっとりと湿っているのが感じられて、あの夢のようなキスが現実であることを深く私に知らせてくれた。ブラジャーの方も湿っていて、少し考えた後、両方とも着替えることにした。

防寒用に羽織っていた薄手の白いセータはあまり汚れてないのでまだ着ることにする。それから別の棚を開けて新しいシャツとブラジャーを取り出す。派手なところも奇を衒ったところもない、普通の白の下着。どうせ誰も見ないのだから、色や形が地味だろうと大して変わりはないと思って安いもので間に合わせている。靴下も色の同じものを複数買って、万が一片方がなくなっても使い回しがきくようにしてあった。お洒落とは縁のない自分を、この時ばかりは少しだけ恨めしいと思った。男の子を魅了するような服の着こなしを勉強しなければと切に感じる。

 シャツとブラジャーを脱ぎ、露わになった上半身を首筋から胸、そして丹田へと手を沿わせていった。お風呂に入る時もよく思うのだが、どうも私の身体は健康的でない気がする。余計な贅肉はついてないし、胸のボリュームもクラスの平均よりはまあ、あるということも身体測定の結果で知っていた。が、筋肉の量はそこまで多くない。所謂、不健康なダイエットを行って維持している痩せぎすの身体のように思えるのだ。普段から授業以外で殆ど運動もせず、また食もどう贔屓目にみたって太い方とは言えなかった。寧ろ、これだけのスタイルを維持できているのが幸運ですらある。

 それに比べたら、名雪なんて胸や腰のサイズは同じでも適度に引き締まった健康そうな身体をしている。何度か後ろから抱きしめたことがあるけど、女の子らしい柔らかさの中に確かな筋肉のしなりが感じられた。きっと長い間、陸上で長距離の練習をしてるからだろう。目立たない程度に灼けた素肌も、名雪の魅力を最大限に引き出しているようだった。女の子ならきっと、誰もが憧れる理想的な肉体に違いない。よく名雪は私の身体を見てスタイルが良いと騒ぐけど、こんな弱々しさに立脚したスタイルにどれほどの価値があるだろう。私こそ、名雪の方が羨ましいと思っているのに。

 そう言えば……名雪のことに思いを巡らせ、私はまた別の極めて重大な考えに至る。名雪は相沢君のことをどう思っているのかという疑問。少し前までだったら、私は彼女が相沢君のことを好きなのだと断定していた。しかし今になると、それもあやふやでよく分からない。今まで当然だと思っていたことがどんどん不定となり、また名雪の感情もまた完全には推し量れないようになっている。この二週間で私は随分と馬鹿になったと思う……いや、今まで知ったかぶりしていただけで本当は何も知らなかったのだ。臆病で、分かった振りをするだけで逃げていた自分。名雪の感情のことも、そうであるのだから幸せになるべきではない、相沢君を求めるべきではないという独り善がりな免罪符に使っていたような気がした。人の気持ちは口に出して、或いは耳にして聞かなければ本当のことなど知れることは僅かなのだと今では十分に理解している。だから、そのことも機会があれば率直に尋ねてみるつもりだった。

 けど……私は剥き出しになった上半身を見下ろすようにして眺め、はあと溜息をついた。もし名雪も相沢君を好きだったとしたら、私なんて絶対に叶わない。心でも身体でも、きっと遥かに及ばないだろう。弱々しい私ですら、相沢君は綺麗だと言ってくれる。けど、全てを曝け出してそれでも……相沢君はこの身体を見て、綺麗だと思ってくれるだろうか? 私はもう一度大きな溜息を吐くと新しいブラジャーとシャツを身に着け、セーターを再び着込んだ。

 母が変なことを言ったこと、そして自分自身が生んだ憂鬱な思考のためか、先程までの浮かれた気分などどこかに吹き飛んでいた。それでも腹の虫だけは正直で、相沢君に栄養素が足りないと言われた手前、なるべく心掛けた食事を取るつもりでいた。

最近はいつものように、母と私の二人だけの食事が続いている。父は土日も含めて毎晩仕事が深夜近くまで及んでおり、起きている間には鉢合わせできない。それが栞を失ったショックを覆い隠すというものであるが故に、その無茶を私も母も責めることはできなかった。

 父の分を取り置く必要があるためか、夕飯は自然と日持ちのする煮込みものが多くなる。今日の夕飯もそれに漏れず、トマト風味のビーフシチューとサラダであった。ただ、どちらも野菜がふんだんに使われており、ビタミンなどの栄養素を補うには非常に都合が良いものでもある。深皿にシチューを一杯半、それからサラダも粗方食べ終えると今までにない食欲に驚いたのか母が洗い物をしながら声をかけてきた。

「今日は沢山食べたわね、やっと食欲も出てきたみたい」

 そんなことを言われたから、それまではきっと母が心配するほど食が細かったのだろう。自分では結構食べてるつもりだったのだが、相沢君に指摘されたように栄養素の絶対量は足りてなかったのかもしれない。これから、少し気をつけようと思った。

 そして、前向きなことを考えている自分に少しびっくりする。知らず知らずの間に私は、自分のことを好きになり始めているのだろうか? いや、そうじゃない。相沢君が気を付けた方が良いと言ってくれているから、心がけただけだ。そこには相沢君への愛情というものが多分にある。しかしその反面、自分をもう少し愛さなければという思いが生まれてきているのも事実だった。もしかして、人を激しく愛するということはまた、自分を愛するということにも繋がっているのかもしれない。

 母と二、三言の会話を交わすと、廊下に出る。それから二階へと通じる階段の手前、電話のすぐ側で立ち止まった。とくりと胸が鳴る。まだ数時間しか経ってないのに不安や興奮の波が激し過ぎてとても明日までもちそうにない。今すぐ声が聞きたくて、気が付くと私は相沢君の住んでいる水瀬家へと電話をかけていた。コール音が一度響き渡るごとに、緊張が高まっていくのを感じる。心と体が分離しそうなのを必死に抑えて待った五コールの後、出迎えたのは少し間延びした可愛らしい名雪の声だった。

――はい、水瀬ですけど。

「あ、もしもし、私だけど……」

――香里、どうしたの? 珍しいね、香里が電話をかけてくるなんて。今年に入ってからすぐに一度話したきりだから、随分久しぶりじゃないのかな。で、今日はどんな用なの? あっ、そう言えば今日は帰り道で可愛い猫を見つけたんだよ。ハンサムな顔をした黒猫で、魔女の話によく出てきそうなの。

 用件を告げる間もなく、名雪は猫の話に熱狂を始める。目的が違ってしまったけど、名雪と話すのは好きなので呆れた振りをして話題に耳を傾けた。

「で、追っかけて迷子になっちゃったわけね」

――うーっ、わたしそこまでどじじゃないよ。

「前科二犯が言ったってしょうがないでしょ。まあ、完全に我を忘れなかったって点では少しくらい進歩があったかもね」

――香里のいじわる。でね、その猫はすぐに塀を飛び越えて行っちゃったんだよ。残念なことしたなって、今も思ってたところ。あ、ごめんね、わたしばっかり話しちゃって。香里、用事があってかけてきたんでしょ?

「うん……」話が思いのほか早く本筋に戻ったので、私は素直に用件を話した。「その、相沢君にちょっと用事があるから変わって欲しいなって思って」

――祐一、に?

 僅かに淀む名雪の声。だが次の瞬間には快活な声で会話を再会していた。

――分かった。じゃあ、ちょっと呼んで来るね。

「お願い……あっ、その前に一つ訊きたいんだけど」私は先程から断片的に考えていたことを言葉へと移す。「名雪ってその、相沢君のことをどう思ってるの?」

――別に……居候でただの友達、だよ。

 重い沈黙も刹那、名雪はぼそりと答えた。私はそれを聞いて、体に溜まっていた緊張という緊張が一気に放出されていくのを感じた。と同時に、名雪が競争相手とならないことに大きく安堵する。

「あ、ごめん。変なこと訊いちゃって」私は明らかに不自然な流れの質問を無理矢理笑いで誤魔化す。「さっきのは聞き流してくれてくれて良いから。本当、馬鹿なこと聞いてるわよね、私って」

――ううん、そんなことないよ。じゃあ祐一に代わるからちょっとだけ待っててね。

 受話器を置く硬質な音がしたと思うと、その向こうからはオルゴール調の音楽が流れてきた。きっと保留モードにしたのだろう。私は今や、緊張の従者と化していた。意識するごとに、胸の高まりと愛しさはどんどん募っていく。声を聞けただけでも、私は舞い上がって気絶してしまうかもしれない。私はそうならぬように、心にしっかりと防波堤を築いた。

――あ、もしもし、代わったけど。

 その声を聞いただけで、私の心象風景はがらりとその形を変えていく。胸を見えない刃が続けざまに突き刺さり、激しい鼓動は切ない声へと変換されて狂ったように漏れる。

「相沢君、こんばんは」

――あ、おお、こんばんは。で、何の用なんだ?

「……声が聞きたくて」言い繕う気も起きず、私は正直に胸のうちを告げる。「明日までとても耐えられそうになくて、どうしても相沢君の声が聞きたくて。本当は今すぐにでも会いたい、抱きしめたい……けど、それはできないからせめて電話だけでもって思って」

――えっと、そっか……俺も香里の声が聞けて嬉しいな。うん……はあ、どうも電話には慣れてないから何を話したら良いのかさっぱり分からない。香里は何か、話のネタとかあるか?

「話ね……」いくつもいくつも、話したいことはある筈なのに、緊張して全く浮かんでこない。混乱した頭の中に最初に現れたのは、小学生でも今時口にしないような呑気な言葉だった。「明日は良い天気かしら」

――そうだな、まあ予報では晴れって言ってるし、信じてやっても良いんじゃないのか。

「そうよね……うん、じゃあ明日晴れたら一緒に学校まで行こ。私が相沢君の通学路の途中で待ってるから」

――ん、分かった。じゃあまた明日、学校でな。

「うん、バイバイ、相沢君」

 受話器を置く。ほんの少し話しただけなのに、全身が浮き上がりそうで恐い。胸が高まり、このままでは三秒と正気を保っていられそうになかった。私は自分の部屋まで駆け上がると、やはり布団を思い切り抱き潰した。私の中にある恋する器官が今まで錆びついていたこと、そして今は活発に活動していることに両極端な異常を感じざるを得ない。それよりも何よりも明日の朝、相沢君と会う約束ができたことが嬉しくて堪らなかった。

 ようやく気恥ずかしさが理性に勝り、私は布団から抜け出して立ち上がる。何か本でも読んで気を紛らわそうと本棚に向かうと、近くに収めてあったCDの束に目がいった。そう言えば相沢君に渡すと約束していたのにすっかり忘れていた。

 明日の朝、届けてあげようかなとも思ったが、すぐにもっと良い案を思いつく。帰りにこのことを蒸し返せば、明日も私の家まで一緒にいられる。少しでも彼と一緒にいたいと思っている私がこちらの案を採用したのは当然だった。これでまた、明日の楽しみが一つ増えた。明日は両親がいないから、気兼ねなく家にも呼べる。腕を奮って夕食をご馳走してあげれば、喜んでくれるかもしれない。

 色々と計画を練っていると、私の頭にふと母の言葉が蘇ってきた。相沢君を家に呼んで襲う……そこまでリピート再生するに至り、私の顔はひどく熱を帯びてしまった。

「ああもうっ、お母さんのせいで想像しちゃったじゃない。なしなし、こんなのらしくないわっ」

 不埒な想像を打ち払うのに、最早頭脳の理性的な働きだけでは足りなかった。大声を出し、不意に思考を遮ると私は不貞寝するようにベッドへ倒れ込んだ。別に疚しい考えなどない、誘い込んで篭絡しようとするなんてはしたない真似、できるわけがない。

「……私の、キャラじゃないわよ、そんなの」

 そう呟いてから、恋をすることはまた、独り言が増えることでもあるのだなと、まだ僅かに残っていた馬鹿みたいに冷静な部分がそう結論づける。

 今日は間違いなく、気持ちよくは眠れそうになかった。

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