二月十七日 水曜日

第十場 水瀬家

 植物状態……その余りに残酷な言葉に、激しい眩暈を覚える。事態はそこまで深刻で、またそれが故に犯した罪の重さも増していく。秋子さんが苦しんでいた正にその時、淫靡な行為に耽り悦楽の限りを尽くしていたのだから。意識したわけではない。秋子さんが苦しんでいたなんて、その時の俺には想像もできなかった。それでも、負担を和らげるくらいのことはできたのではないか。帰るのが遅くなると分かっていたのだから、電話の一本でも入れる気遣いくらいできた筈だ。己の情事にかまけて、俺はそんなことさえ忘れていた。

 もしかしたら……俺がこの街にやって来て一緒に暮らし出したこと自体が既に大きな負担であったのかもしれない。その通りだ……俺は決して礼儀の良い同居人ではなかった。人に迷惑をかけてばかりで、そのくせ口だけでは一丁前のことを言って。秋子さんの笑顔に甘えていた。辛い目に合わせていたことさえ、気付かずにいた。名雪にあそこまで責められるのも当たり前だ。俺という存在の蓄積が、秋子さんをあそこまで追い詰めたのだから。脳卒中という、苦悶の症状を引き出してしまったのだから。

 医師がその後も何事か説明して言ったようだが、俺の耳には殆ど入っていなかった。聞き取れたのは、既に説明を聞いた名雪が先に家に帰ったということだけ。俺は秋子さんに面会を求めたが、手術後の経過が未だ予断を許さないために面会謝絶だときっぱり断られた。抗弁するわけにもいかず、俺はあっさりと引き下がらざるを得なかった。情けなさだけがまた、一層募っていく。

 その隣では香里が、俺なんかに付き合ってずっと側にいてくれている。こんな愚かな俺を気遣うように、何も喋らずただ寄り添ってくれている。俺は何度も、香里に縋りたいと思った。強い抱擁に、わだかまる不安を全て溶かして欲しかった。けど、それでは名雪の言を証明することになってしまう。

『祐一には香里がいるじゃない』

 俺にはいつでも孤独を癒す術がある。しかし、名雪には今、それができない。俺だけがのうのうと暖かい温もりの中に逃げることがどうしてできるだろうか……できるわけがない。

 リノリウム張りの廊下は、外から侵入する冷気も相俟って独特の空気を淀ませていた。死臭とアルコール臭、そして血の僅かに滲む暗い地獄のような空気。こうしている間にもこの病院内の何処かで命の闘いは脈々と繰り広げられ、生者と死者とを次々生んでいる。秋子さんは一体、どうなるのだろうか。取りあえず、生きてはいる。が、彼女に穿たれた傷痕は余りにも大きい。脳の損傷に寄る、様々な機能障害の可能性。もっと酷い場合は植物状態……或いは死。これが、現在の偽らざる状況。はっきり言って最悪だった。

 俺の周りで、また一つの命が潰えるかもしれない。そう考えただけで、発狂しそうになる。この体を病院の壁に打ち付けて、死にたくなってくる。けど、ここで死んだところで何の意味もない。目の前に死に扮した人が大勢いる前で思うことではないが、単なる犬死にだ。そして、最低の逃避行動だ。死ねば確かに自分は楽になれるかもしれない。けど、膠着した現在の状況は残された人間に更なる負担として残る。そして何より、俺の手の中で生涯を終えた栞に対する……悪辣な冒涜だ。

 俺は生きて、今自分に何ができるかを考えなければならない。詭弁かもしれないが、名雪のことも元気付けてやらないと思っている。自分で傷付けておいて烏滸がましいことだということは重々承知だ。けど、かつて俺はどん底の心を名雪に救って貰った。それに、俺は水瀬家に佇むあの幸せを守るためなら何でもすると誓っている。その誓いを破らないためにも、俺は前に進まなければならなかった。

「香里……ごめんな。今日はこんなことに付き合わせてしまって」

 まず最初に、俺は側にいてくれる大切な人に大きく頭を下げた。

「良いのよ、私が好きでやってることなんだから。それに秋子さんは私にとって、第二の母親も同然だもの。心配しない方が、薄情というものよ」

 香里は俺の気持ちを汲んだのか、なるべく明るい口調で語りかけてくる。俺にはそれが……ありがたかった。

「じゃあ、俺はもう帰るけど……香里はどうする?」

「そうね、タクシー代は行きで全部使ったし。家に電話して、迎えに来てもらうってことになると思うわ」

「そっか……じゃあ、俺は先に帰るから。それとごめん……明日は学校に来れそうもないから、石橋に伝えといてくれ」

 香里はこくと肯く。それを見届けてから、俺は病院を後にした。こういう時に限って悪いことは重なるもので、暗く垂れ下がる雲は雪を街へと降らしめている。俺はその中を、ゆっくりと歩いていく。ここから水瀬家までは一時間近くあるが、俺の間抜けな頭を冷やして建設的な思考を蘇らせるのには充分だと思っていた。でも、浮かんでくるのは悲観的な、最悪のシナリオばかり。浮かんでくるのは、今や優しさの面影すらない憎悪のこもった名雪の睨みつけるような視線だけ。俺が……俺が名雪から全てを奪ったのだ。優しさも、笑顔も、そして儚げな健気さも、全部、全部、全部……。

 最低だ。今ほど自分のことを、最低の人間だと自覚したことはない。何が最後の後悔だ、香里にあんな偉そうなことを言っておきながら実際は後悔してばかりだ。人を傷つけて……殺してばかり。以前、香里が『私は栞を殺したかもしれない』と話していたが、それは俺の方にこそあてはまるのではないか。昔から、大切なものを守れずに失ってばかりいた。栞を失い、今度はまた秋子さんまで失おうと言うのか? 俺の勝手のせいで。そう考えると、情けなくて逆に泣けてくる。が、ひっきりなしに吹きつける北風は涙の発露すら許さない。それに、女々しく泣くことすら罪に思えた。

 行き場のない感情は蹴り上げられた雪と共に宙へと舞い、束の間拡散してはすぐに収束する。苛立ちだけが募り、凍れる体はそれに抗うかのような熱を発していた。雪すらも、今の俺には熱かった。

 ようやく水瀬家に辿り着いた時には、頭から体まで雪で白く覆い尽くされていた。鬱陶しげにそれを払うと、ただいまも言わずに靴を脱いで上がった。どうせ、ただいまと返してくれる人間はいないのだから、そんなことは無意味だ。真っ先にダイニングに向かうが、腹は全く減っていない。電気が灯っていないダイニングは、不気味なほどに暗かった。その闇に耐えられず、蛍光灯のスイッチを入れた。

一人テーブルに横たわりながら、明日からどうするかを考える。まず間違いなく、秋子さんは入院ということになるだろう。着替えなども用意しなくてはならない。入院の手続きだって必要だろうし、先だって両親には連絡をつけておかなければならない。何といっても、母は秋子さんの実の姉なのだから。

 それに……名雪のこともある。先に帰ったというから、今はきっと二階の部屋にいるのだろう。今、彼女は何を考えているだろうか。秋子さんのことか、それとも秋子さんをあんな目に合わせた俺への憎悪か……だとしたら余りにも悲し過ぎる。混乱した頭はようやく、そんな些細な雑務などよりまずは名雪だと結論付けた。

 体が冷えてるだろうと思い、俺は以前に秋子さんが振る舞ってくれたブランディ入り紅茶を二人分作った。それをプラスティックの盆に乗せ、ゆっくり二階へと上がる。家全体を包む静寂は、階段を上る音ですらぎしぎしと響かせていく。

 遠慮がちにノックしたが、名雪の部屋から返事はない。入るぞと言って掴んだノブはつかえることなくすっと回った。どうやら、鍵をかける気力もないのか、いつもの習慣が残っているだけなのか。どちらにしても、今の名雪がどうしているのか、それだけが気になり、俺は諒解も得ずに部屋に入る。

 名雪は部屋の片隅で、服も着替えぬまま蹲っていた。まるで弱りきった獣であるかのような弱々しい姿。それだけでも名雪の憔悴と、そしてやり場のない虚無感とが感じられる。痛ましく、胸を打つ光景だった。俺は紅茶を机に置き、名雪の側に近付こうとする。

「……来ないで」と、しかし名雪ははっきり拒絶した。「祐一なんでしょ。何しに来たの? もしかして、あんなことを言った私を怒りに来たの? それって図々しくないかな」

「違う、俺は名雪を怒りに来たわけじゃ……」

「大きい声を出さないでよっ!」

つい興奮したのか、声を荒げた俺を名雪はヒステリックに抑えつける。

「やっぱり怒りに来たんじゃない。祐一の話なんか聞きたくない。わたしを愛してくれない祐一なんていらない」

「そんなことない……」

名雪は俺にとって大事な人間だ。辛い時にはいつも励ましてくれる……そんな名雪に何も感じていないわけがないだろう。俺はそう、はっきりと口に出して言った。

「俺は名雪のことを大切に思っている」

「嘘吐きっ!」けど、名雪は俺の言い分に耳を傾けようともしない。「嘘吐き嘘吐き嘘吐きっ! 祐一は香里が大切なんでしょ。香里だけが大切なんでしょ。わたしやお母さんなんてどうでも良いんだよ、祐一は。セックスしてたくせに。香里なんかとセックスしてたくせに……」

 名雪はまるで呪詛のように、その言葉を繰り返した。それが罪悪であるように、愚者の振る舞いであるかのように。しかし、名雪の次の言葉は俺を茫然自失の海へと叩き込んだ。

「どうしてっ! どうしてわたしじゃないの……どうして祐一はわたしのことを好きになってくれなかったの? 愛してくれなかったの? どうして香里なの? どうしてわたしじゃないの? ねえ、どうして? どうしてなの?」

 絶句。ただその言葉だけが、今の俺には似合っていた。名雪が俺のことを好きだということ。兄妹のようにではなく、家族のようにではなく、男女の仲を切望していたということ。知らなかった。俺は何も……何も知らなかったんだ。

「知らなかったって言いたいんでしょ」俺の僅かばかりの言い逃れも、しかし名雪は許してくれない。「知らないということは結局、どうでも良いってことだよね。わたしの気持ちなんて、わたしが何て思ってるかなんて祐一には全然関係なかったんだ……こんなにも好きなのに……ヴァレンタインの時だって、チョコレートを用意して必死で待ってたのに、祐一に抱きしめられることを望んでたのに……」

 名雪は激した気持ちを、俺にぶつけてくる。まるで精緻に針が埋め込まれているかの如く、名雪の声の一つ一つが痛かった。全身を突き刺し、なおも新たな痛点を求めて、名雪の声は更に響く。

「寂しいんだよ。だからね、こんな気持ちにさせた祐一と香里を憎まずにはいられない。お母さんをあんな目に合わせた二人を、恨まずにはいられないんだよ。この気持ちって分かる? きっと誰にも分からないだろうね」

名雪は恨みつらみを述べている自分が一番恨めしいという風に、ぽつりと最後に呟いた。

「わたしにだって、わたしにだって分からないのに……本当は分かりたくなんてないのに!」

 感情が飽和点を突破したのだろう。名雪は喉を緩く震わせ啜り泣き始めた。どんな怒りの一撃よりも、この緩やかな霧雨のように纏わりつく疎外感の方が余程辛い。如何に自分が身勝手だったか、誰すらも省みずに生きてきたかということを思い知らされる。こんな馬鹿な俺だ、例え肉片一つ食い千切られようが、どのような責め苦で以っていたぶられようが、何一つ抗う気はない。ただ、できればそんな目に合うのは俺だけにして欲しい。悪いのはただ、俺だけなのだから……。

「分かった、名雪。お前が俺のことを恨んでも当然だってことは。けどな、香里は悪くないんだ。秋子さんを苦しめたのは俺なんだから……俺を待っていたから秋子さんは苦しんだんだ。だから、あいつを責めないでやってくれないか。香里は名雪のことを本当に大切に思ってるんだ。好きでいるんだ」

 どうせ、この街で俺は部外者でしかなかった。大切な者を苦しめてきてばかりいた。俺が恨まれれば、蔑まれれば全ては解決する。そのつもりだったけど、名雪はそんなことも許してはくれなかった。罰を与えられるという選択肢すら、肯定してはくれなかったのだ。

「……いや」名雪は駄々っ子のように強く首を振った。「嫌だよ。祐一がそう言うなら、わたしはもっと香里のことを恨んでやるから。そんなに優しい綺麗な思いを見せて、わたしの汚さを際立たせようとするなら、もっと醜く染まってやるんだから。祐一が愛してくれないなら、お母さんが愛してくれないなら、もうどんなに汚くなっても、どうなっても良いんだから」

 そんな……と口に出しそうになるのを辛うじて堪える。こうなれば最早、どんな言葉も神経を逆なでするだけのような気がしたのだ。

「分かったでしょ、祐一。わたし、こんなに汚くて醜いんだよ。だから見ないで、こんなわたしを。こんな弱いところ、誰にも見られたくない。祐一にはもっと見られたくない。香里にはもっともっと見られたくない。出て行ってよ、お願いだからわたしを一人にしてよ……」

 俺は、もう何もできないのだろうか。純真な従兄妹の少女を、このまま放っておくしか……。

「出てって……」

名雪はベッドに手を伸ばし、枕を投げつけてくる。

「出てって!」

呆然と立ち尽くす俺に投げつけられるのは、名雪の大事にしていた蛙のぬいぐるみ。そして……。

「出てってよっ!」

一際大きな声と共に投げつけられた目覚し時計が、眉間を正確に射抜く。俺は痛みに耐え切れず、思わず床に這いつくばった。血がぽたり、ぽたりと染みを作っていく。どうやら眉間が切れたらしい。惨めだ……目の前で苦しんでいる名雪がいるのに、俺はどうやら存在するだけで更に傷つけてしまうらしい。ようやくその事実を思い知らされた俺は、追い立てられるように部屋を出るしかなかった。俺では……俺では名雪を救えない。名雪は俺を救ってくれたのに、俺にはどん底にいる名雪を励ますことすらできない。何て欺瞞、何て愚昧。それを証明するかのように、冷たく鍵は施錠された……名雪の手によって。それから唐突に、陶器の割れ物の粉々に砕ける音がした。多分、俺の親切を踏みにじるために名雪がブランディ入り紅茶の入ったカップを叩き付け割ってしまったのだろう。

 気が付くと、俺は秋子さんの部屋の目の前に来ていた。何を思ってかは分からない。ただ、名雪がああまでなっているにも関わらず、まだここから秋子さんが笑顔で現れるのではないかと期待している自分がいる。ドアを開けてがらんどうの部屋を見た時にはだから、崩れ落ちそうなほどに気力が萎えた。今、この場所には何もない。希望も、喜びも、楽しさも何もかもが欠落してしまっている。

 俺は何も考えずに、ただふらふらと進んでいく。シンプルなベッド、飾り気のない机の上には散乱した資料とノートパソコンが一つ。本棚には英語の分厚い辞書や、ハードカバー装丁の本が沢山並んでいた。その中の一つに、俺の心を惹きつけるものがあった。それは、ぼろぼろのダイアリィ。十三冊、隙間なく並べられた日記帳は正に秋子さんの歴史と言っても過言ではなかった。俺は誘われるように、それを読んだ。礼を失することだと分かっていても、俺は秋子さんが今まで何を考えて生きてきたかが知りたかった。

 日記の最初の日は、一九八六年十二月二十三日から始まっていた。それは名雪の十三年前の誕生日……。

十二月二十三日(火)

 故あって、今日から日記を書くことにした。一つはこれからの思い出を、いつでも思い出される形で(何故、私は夫との思い出をそうしておかなかったのだろうかと強く悔やまれる)留めておきたいから、もう一つは名雪の成長記録としての意味を持たせるために。

 そう、名雪のためにも私は強く生きなければならない。そして、あなたとの唯一の思い出の場所であるこの家もまた、守らなければならない。ただ、そのどちらもとても難しいだろう。子供を育てることは正しく、半生をかけた大仕事であろうし、この家もまだかなりのローンが残っている。あなたは死に際に、どうせ死ぬんだったら生命保険くらいかけておくべきだったと悪態を付いていたけど、もしそんなお金が手に入ったとしても、私は全て捨てたでしょう。あなたの死と引き換えのお金なんて私はいりません。

 そのために、私は二つの誓いを立てました。一つは、名雪に生活の苦労を負わせないこと。私たちは高校を出て、駆け落ちのように家出し今まで苦労してきました。ですから、名雪には幸せに生きて欲しいのです。そのため、私は昼と夕方の時間を名雪のために使うつもりです。

そしてもう一つは、この家を絶対に手放さないことです。これから先、名雪の元には沢山の幸せが訪れるでしょう。その時に、この家は絶対に必要になる筈です。それに私も、あなたとの思い出の家で名雪と暮らしていきたいのです。私は夜の時間をそのために使おうと思います。幸い、私の仕事はワードプロセッサ一つあればいつでもできる仕事です。実入りもかなり良い方だと思っています。だから、無理をすれば何とかなる筈です。

 きっとこの先、ほとんど眠る暇もないでしょう。でも良いのです。私は名雪が一人前の女性になれるまで生きることができれば、それで良いのですから。私は安心してあなたの元に向かうことができます。いや、私は多分、そのために残りの生を使うべくして生まれてきたのでしょう。

 この先、一体この日記がどれだけ増えるか私にも分かりません。ただ、できることなら名雪のウェデイング・ドレス姿を見てからというのは贅沢なことなのでしょうか。でも、できることなら私はそれを望んでみたいとも思っています。

 だから――。

私は生きていきます。

 精一杯。

 悔いの残らぬよう。

 どうか、天国から私と名雪を見守っていて下さい。

 俺は何時の間にか日記を床に落とし、立ち尽くしたまま涙を流していた。知らなかった、秋子さんがこんなにも悲愴な思いを抱いていたなんて。想像もできないほどの苦しみを、ただ愛と思い出のために生きてきたなんて。何て強い生き方だろう。そして……何て切ない生き方なのだろうか……。

 俺はただ、泣くことしかできなかった。

 どんなに女々しい奴だと言われようと……。

 泣くことしかできなかった……。

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