二月十八日 木曜日

第十五場 名雪の病室

 祐一は私のお願いを聞いた後、しばらく考え込み、そして何も言わずに部屋を出ていった。もしかして、重症である私を慮ってなのかもしれないが、それはそれで悲しい気がした。けど、それなら……この体が壊れても良いから自分で行くのみだ。そう決心した時、丁度祐一が戻ってきた。無人の車椅子をゆっくりと転がして。

「ほら、これ借りてきたから……」

 どうやら、私に負担をかけないようにと配慮してくれたらしい。一瞬でも疑ってしまった自分が馬鹿みたいだった。祐一はベッドの側に車椅子を固定すると私をゆっくりと抱きかかえてくれた。そして、できるだけ苦痛にならないように気をつけて車椅子に乗せる。

「じゃあ行くけど……良いか?」

「ええ」と改めて肯くと、祐一は黙って車椅子を押し始めた。僅かにホイールが軋む音がする。外を歩く看護婦や他の患者は皆、不審な目すら向けない。これがおんぶだったりすると、逆に奇異な目でみられただろうから、車椅子という選択は正しいようだ。エレベータに乗り込み、目的の階に辿り着くと鼓動がずっと早まった。まるで、二人で密かに脱走しているかのような、後ろめたさと胸の疼き。それを必死に抑えながら、そんな意志に関係なく景色が進んでゆくのを何気なしに眺めていた。

 そしてあと一息という場所で、私は祐一を留める。

「祐一、ここからは私一人で行きたいの」

 これは先程も意思確認したから反対されることはないけれど、祐一は僅かに心配そうな表情を浮かべていた。

「本当に体の方は大丈夫なのか? 香里は俺に黙って無茶なことばかりするから……」

「そこまで無鉄砲じゃないわ、でも心配してくれてありがと」

 私はわざと余裕を装った。勿論、身体上はそこまで平気というわけではない。けど、解決をもうこれ以上先送りにするのは嫌だったし、入院が少し長引くことくらい、後悔することに比べたらそれこそものの数ではない。それに……名雪はきっと苦しんでるだろうから、早く伝えたいのだ。私は平気だから気に病むことはないと。

 決意が固いことを知ると、祐一は最後に頭をそっと撫で「香里は頑固だからな……」と腑に落ちないことを言って廊下の向こう側に消えていった。ここからは私が車椅子を動かさないといけない。

けど正直、腕を広げることすら苦痛で叶わなかった。況や、車輪を転がすだけで腕が轢断されているかのような激しい痛みが私を責める。名雪の病室に辿り着く前に、疲労は既にピークに達していた。が、これはまだ前哨戦に過ぎないのだ。私は病室番号が、祐一の教えてくれた番号と一致することを確認すると、ドアに手をかけゆっくりと押し開いた。スライド式の扉は、重症のものにとってはありがたいものなのだなと心の隅で思いながら、ゆっくり進んでいった。車椅子を滑りこまさせると、後ろ手でほぼ全力を込めて扉を閉める。

見ると、名雪は疲れたのか何かの薬の影響なのか泥のように眠りこけていた。祐一に聞くと名雪は相当取り乱していたみたいだから、鎮静剤でも打たれたのかもしれない。けど、それは私のことが本気で嫌いじゃないという証明でもあるかもしれない。本当に嫌いなら、私が苦しんでいる中でも冷笑を崩さなかったであろうから。それは、一縷の希望でもあった。

私は名雪の元に至り、そっと顔を覗き込んだ。綺麗な顔はたったの一日で焦燥に満たされ、頬も少しこけて見える。目の下には不似合いな隈ができており、瞼は腫れぼったくなっていた。きっと私の見ていないところで泣いたのだろう。それこそ、夜通しずっとと言われても不思議じゃないくらい。今の名雪はそれくらい酷かった。

その姿を複雑な思いで眺めていると、名雪の呻き声に近い吐息が漏れた。それは呼吸の強まりとも相俟り、やがてうっすらと目が開いていく。少しの間、寝起きで意識が定まらない様子の名雪に、私はずっと微笑みかけていた。焦点が定まると、名雪は僅かに目を見開いた。瞳孔の形と色が僅かだが変わったような気がする。私には名雪が、とても困っているように見えた。どうやって接しようか、どうやって憎もうかと必死に考えているようにも思えた。その目付きが微妙に険しくなり、眠りの直後でしゃがれた喉を小さく震わせた。

「何しに……来たの?」けど、今までの覇気というものは全く感じられない。「わたしのこと、責めに来たの? 酷い人間だって……」

 私は穏やかに首を振った。

「名雪のお見舞いにきたの。凄く取り乱したって聞いたから、大丈夫かなと思って。それと……ごめんね、あんなことをして名雪を苦しめちゃって。あんなことされたら誰だって嫌よね」

「……どうして?」名雪は私の言葉に疑問の言葉を投げつける。「どうしてわたしを責めないの? わたし、香里にあんなこと……ナイフで刺して……何でそんなことが言えるの? 何でそんなに優しいの? 何で……私が汚く思えるようなことをするの……」

「別に特別なことじゃないわ」私はすぐに答えた。「だって私も名雪に随分とひどいことをしたもの。汚い台詞で罵って、門前払いして、怯えさせるようなことをして。でも名雪は、それにも恐れずに私をずっと励ましてくれたじゃない。抱きしめて、私のことが大事だって言ってくれたじゃない。私は、それと同じことをしてるだけ。私のやってることなんて、名雪のやって来たことの粗悪な模倣でしかないのよ」

 本当に、私が名雪に対してできたことなんて一つもない。誰だって苦しい時はあるのに、名雪は強くて私は弱い。名雪の弱い部分を受け止められない私は、やっぱり弱いのだ。

「誰だって、苦しくて耐えられない時があると思うの。自分だけじゃ平静を保てなくて、自分を責めたり、誰かを責めたりしないと気が休まらないことが。けど、名雪は秋子さんのことを本当に大切に思っているから苦しいんでしょ。だったら名雪は全然汚くないわ。私なんかとは全然違うじゃない。だからね、名雪の苦しみが少しでも癒えるのならいくらでも罵ってくれて良いの。本当は好きでいてくれるのが一番嬉しいけど、別に、好きでいなくても良いの。でも、どんなことがあったって私は名雪が好きだし、それはこれからも変わらないと思うから。ただ、それが言いたかっただけ。後は、名雪を苦しめたことを謝りたかっただけ……それだけなのよ」

 それだけ言えれば、私としては充分だった。これ以上はきっと、どんな言葉も繕いにしかならないと思う。だから、私は黙って名雪の反応を待った。何を言われても大丈夫なように、心を強く握りしめて。

「わたし……」名雪は、声にもならない声を微かにあげた。「わたし、そんなに良いことなんてしてないよ……香里が憧れるような強さなんて持ってないよ。だって、こんなに弱くて嫌な女の子なのに……醜く八つ当たりすることしかできないのに……」

 名雪は今にも泣き出しそうな心を必死で堰きとめている。シーツを必死に掴み、歯を食いしばりながら。

「別に、弱くても良いじゃない」私は、そんな風にして耐えている名雪を見るに忍びなくて必死に声をかけた。「誰だって、本当にどうしようもなく弱い時はあるから……でも、本当は名雪が優しい娘だって私は知ってるわ。とても強くて、笑顔が凄く似合う娘だってことも知ってる。とても良い娘だって」

「違うよっ、わたしはそんなに良い子じゃないっ! 本当はもうとっくに分かってた、分かってたんだよ。香里や祐一を責めるのは筋違いなんだって。そんなことしてはいけないんだって……」

 名雪の苦しげな声が、病室を満たしていく。

「でも、耐えられなかった。わたし……お母さんを一番苦しめてたのはきっとわたしだから。小さい頃からいつも迷惑をかけて、我侭言って困らせて、仕事が忙しいっていうのに無理なことを頼んで。朝起きられないわたしを、いつも優しく起こしてくれた。寝惚け眼のわたしに、いつもお休みなさいって言ってくれた。わたしが……わたしが悪い子だったからお母さんばかり苦しんで来たんだよ。けど、そう考えると頭が変になりそうだった。わたしがお母さんを壊してしまったなんて、信じたくなかった。わたし、お母さんのことが好きなんだよ、世界で一番好きなんだよ、本当だよ。だから、わたしが幸せな生活を壊してしまったなんて認めたくなかった……」

 名雪の叫び声は、怒っているのに泣いているみたいだった。苦しいのに苦しめず、それで余計に苦しんでいる子供のようだった。

「その時、祐一と香里の声を聞いて、わたし、とても腹が立ったの。お母さんが苦しんでいる時に偶然、あんなことをしていた二人が……ううん、違うよね。本当は、祐一と香里の間にもう入り込む隙が一つもないことが苦しくて……もう、憎むことでしか自分を保てそうになくて、それで思い切り罵ったの。そうしたら、心がすうっとした。わたしは悪くない、お母さんが好きなわたしは悪くないんだって思うようになって……そのうち、祐一と香里を憎むのが当たり前みたいになって……」

 それは、名雪のすぐばれるような嘘にさえ気付けなかった自分自身を断罪しているようでもあった。そう……人間なんて簡単に嘘がつけるということ、とっくの昔に知っていた筈なのに、浮かれに浮かれていた私は何も気付かなかった。

「わたし、祐一に酷いことをした。それでもう、何がどうなっても良いと思って香里にはもっともっと酷いことをしたのに……でも、こんなわたしを香里は傷を増やしてまで助けてくれた。わたしに罪はないよって。わたし、わたし、情けないよ……香里はわたしのこと、とても大切に思ってくれていたのに。わたしはそれを踏みにじることばかりしてた。悪いのはわたしだけなのに、香里や祐一を苦しめてばかりだった。こんなわたし、大嫌い……誰よりも、どんな人よりも、わたしのことが嫌いで嫌いで堪らなくて……ごめんねお母さん、ごめんね香里、ごめんね祐一……」

そこまで言うと、名雪はシーツに顔を埋めてわんわんと泣き始めた。恨みがましくすすり泣くでもなく、悲しさでひっそりと泣くでもなく、激しく泣き始めた。複雑に絡み合った思いが一つに重なり合い、ただ深く強い悲しみとなって名雪の目から、全身から吹き出している。何も考えずにただ泣く場所が今までなかったのかもしれない。緊張の糸がぷっつり切れたのかもしれない。ただ、名雪が悲しみに咽んでいることだけは分かった。

私は……私は、いつも明るく気丈そうな名雪が初めて誰にも憚らず泣くのを見た。見ているだけでは辛くて、側にいて少しでも励ましてあげたくて、痛む手をがむしゃらに動かして名雪の髪をそっと撫でた。何度も何度も、名雪が泣き止むまでいつまでも。例え怪我の治りが遅くなろうと、この腕が二度と動かなくなろうとも……私はこの手を動かし続けた。

そして、名雪は泣き続けた。一生分の思いを吐き出すかのように、泣いて、泣いて、ただ泣き続けた。私はずっと側にいた。一度だけ私の名前を呼んだので、私はそっと耳元で囁いた。

「大丈夫よ、私はずっと名雪の側にいるから……」

 すると再び、大声で泣き始める。それは多分、私に涙を見せて良いと思ってくれたからだ。私の側でなら思う存分、泣いて良いと信じてくれた。だから名雪の泣き声は全然不快じゃなかったし、寧ろそうしてくれたことで私の胸に溜まっていたものも一緒に癒されていくかのようだった。ここに来るまでは迷っていたけれど、自分のしたことでもこれだけは良いことだと思える。

 その後、波が揺り返すように涙は徐々に収まっていった。それでもひっきりなしに続くしゃっくりで、名雪は当分、喋れそうにない。私は頭を撫でていた手を降ろし、名雪の手をそっと握った。名雪は少し怯えていたようだが、やがてゆっくりと私の手を握り返してくれた。微妙な距離を保ったまま、程良い静寂の中で。

 それもようやく収まってくると、名雪は再びぽつりぽつりと語り始めた。私は黙って耳を傾ける。

「ごめんね、みっともなく泣いちゃって……」

そんなことはないと言おうとしたが、名雪の口の動きの方が僅かに早い。

「でも、最初からこうすれば良かった。あんなこと言わないで、香里と祐一に縋りついて寂しいって言えばよかった。辛いよって泣きつけば良かった。一人で悲しむのがあんなに苦しいなんて、なのに慰められるのがあんなにも鬱陶しいことだなんて知らなかった。でも、それよりも何よりも……自分があそこまで嫌な自分になれるなんて知らなかった。もう、嫌だよね。こんなわたしなんて、誰も好きになってくれないよね。わたしだって、わたしのことが大嫌いなのに……」

 ああ、と私は思った。名雪は悲しいくらいに、自分を責めて責めて追い詰め続けてきた私と一緒だ。どうしようもないくらい自分のことが嫌いで、下手するとどうにかしてしまいたいと思う自分と、とても似ている。でも、だからこそ私は知っている。何があっても、どんなことがあっても、側にいて笑顔で大好きだよと言ってくれる人。そんな人こそが、今の名雪には必要なのだ。何よりも誰よりも必要なのだと。

 私は微笑んだ。名雪に少しでも、貴方を本気で好きでいてくれる人がいることを伝えるために。私がそうなんだって伝えるために。

「私は名雪のことが大好きよ」

それは今まで、どんな時にだって言わなかった名雪への気持ちだった。

「正直いって、同じクラスに入った時も最初に名雪が話しかけて来た時は鬱陶しいって思ってた。何で私に構うんだろうって。でも、気付いたら私は名雪なしの生活を考えられなくなってた。なくてはならない親友だと、思うようになったの。私のたった一人の大切な親友だって。私には勿体ないくらいの、素敵な女性だって。私は今でも名雪のことを大切な親友だと思ってるから」

「本当、なの?」とおそるおそる名雪は尋ねてくる。「あんなことをしたわたしを、まだ友達だって思ってくれるの? 大切だって思ってくれるの? 好きだって思ってくれるの?」

「ええ、そうよ。でも、少し違うわ」私は肯いてから言葉を続けた。「私は名雪のことを親友だと思ってるし、とても大切だって思ってるし、大好きだって思ってるわ」

「かお、り……」名雪の顔がまた、くしゃくしゃと歪む。「香里……わたし、嬉しい……っく、とても嬉しいよ。好きだっていってくれて……大切だって言ってくれて……でも一番嬉しかったのは……わたしのこと、まだ親友だって……っく……呼んでくれて……」

 名雪はまた泣き出す。けど、今度は苦しそうじゃなかった。シーツは、飲み物でも零したかのように涙でぐっしょりと濡れて、新たな染みは古い染みに掻き消されてもう見えない。更にしばらく泣いた後、突然に喉を鳴らす音がぷっつりと途切れた。心配になり顔を覗き込むと、少し苦しそうに、けどすうすうと眠っていた。どうやら泣き疲れたらしい。

 私は名雪の寝顔をそっと眺める。昼寝は日常茶飯事だけど、ベッドで安らかに眠るのを見たのは名雪の家に泊まりに行って以来だった。その姿をただ見守りながら、改めて思う。私は正しいことができただろうか? もっと後になって振り返った時、後悔しないような立派なことができただろうか、と。

 私は独りで頷き、そして名雪の頬をそっと拭った。そして涙の一滴を、ぺろりと舌で舐める。しょっぱいけど、とても優しい味がした。

 名雪との関係は、これからどうなるだろうか? 元通りというわけにはいかないかもしれない。しばらくはぎくしゃくとするかもしれないが、時間をかけてゆっくりと埋めていきたい。具体的にどうするかということは全く考えていなかったが、名雪が目覚めた時にどうするかということは決めてある。

「おはよう、名雪」と。名雪の目に一生焼きつくような笑顔を浮かべて、そう言うつもりだ。それはどんな目覚し時計よりも効果があると、私は信じている。

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