二月十八日 木曜日

第十七場 秋子の病室

 静寂のうちに、夜の帳が世界に張り巡らされようとしている。厳粛なその空気は、誰の口からも一言も漏らすことを許さないようだった。隣に座る名雪は、こちらの手をいつの間にか強く握りしめている。私はその手を握り返しながら、変化のない秋子さんと電子機器や延命機器の唸り声を淡々と五感に通していた。

 私は栞の病室に通っていた頃、よくこうして栞の寝顔を見ていた。起こすのが忍びないというのもあったが、安らかに眠っているその姿を眺めているのがとても楽しいというのが大きかった。だが、それは目覚めを約束されていたからだと今になっては思い知らされる。目覚める見込みの全く分からない病人を、ただこうして待つということがどんなにか心に不安と焦燥とをもたらすのか、私は今更ながらに理解していた。私にできることは、ただ無事を祈ることだけで、目を覚まして欲しいと祈るだけで、それしかできない自分が悔しくて堪らない。栞が苦しんでいた時、私は無残なまでに無力だった。そして、秋子さんが苦しんでいても、やはり私は無力なのだ。

 名雪は、泣きそうな顔を必死で整えて、厳しい表情で母親のことを見守っていた。元々筋鼻整った顔をしているのだから、凛々しい表情も似合うのだろうけど、名雪にそんな表情はやっぱり似合わないような気がする。ちょっと間の抜けた感じでも良い、明るく笑っているのが一番好きだ。そんなことを思う自体、不遜なことなのかもしれないけれど……。

 名雪の隣で、祐一もただじっと秋子さんに視線を合わせていた。憂いを帯びたその瞳は驚くほど綺麗で、そして深い悲しみを覗かせている。それは、僅かなりとも秋子さんのことを苦しめてしまった故だろうか、それともこれ以上、目の前で誰かが失われていくのを怖いと思っているのだろうか……。

 そして反対側の端に、北川君が座っている。昨日、あんなことがあってから祐一との間にどのようなことがあったかは分からない。私には、男同士の友情だけは容易に想像がつかない。ただ、あれから劇的な和解と融和とが成されたであろうことは確かなように思えた。もしかしたら、私はあのようにして介入すべきではなかったのかもしれない。そう考えると、後から謝った方が良いかなということまで漠然と思いを巡らせてしまう。

 医師は、二時間おきに様子を見に来た。代わり映えのしない作業と、そして私たちへの労いの言葉をかけて去っていく。彼らも、何もできないことに段々と焦りを呈し始めているようだった。

「君たちは、明日も学校があるんだろう?」

と、医師が優しく語りかけてくる。栞の主治医でもあった彼はまた、中学校の頃に頻繁と訪ねていた私を、よくそう諭していた。

「だったら、早く帰った方が良いと思うよ。皆、疲れているだろうし、こういう時に苦労するのは医者と看護婦で充分なんだから。特に相沢さん、君は昨日も徹夜してロクに眠っていないんだろう? だったら尚更だ」

 しかし、祐一は強く首を振った。

「それは……駄目です。俺は、自分が納得いくまでこうやって秋子さんの側で見守っていたいんです。ちゃんと目覚めるって信じてるから……俺はそれまで、それまでで良いんです。学校をサボってるってことは悪いって分かってる。けど、誰かが苦しんでる時にのうのうと学校に通ってなんかいられません。学校に、そこまでして通う価値がありますか? 人の命より大事な何かがありますか?」

 祐一のその言い方に、医師は僅かだが眉をひそめた。

「だが、根を詰めると今度は貴方の体がもちません。病院に通って病人になったのでは本末転倒ですよ」

激しい口調で述べた後、医師は私の視線に気付いてふと気まずい顔をした。

「あ、すいません。その、失礼なことを言って……」

「いえ、私は別に気にしてません」

別に意趣返しの意図などその言葉から受け取ってはいなかった。

「それに、あれは私が悪いんです。人の迷惑を顧みず、あんなことをした私が」

 きっぱり言い切ると、医師はふうと息を付いてから再び厳しい表情に戻した。

「まあとにかくだ、未成年にこんなことをさせていると、こちらとしても居た堪れない気分になるんだよ。それに、容態に変化があればすぐに一報も入れると約束する。それでも、駄目か?」

 医師の気遣いと優しげな目には微かな罪悪感がわいたが、それでも私はここから離れたくなかった。私の目の届かないところで、何かが変わることに今の私は我慢できそうになかったから。

「すいません」一番最初に声をあげたのは名雪だった。「心遣いはとても嬉しいけど、でもやっぱり今はお母さんの下を離れたくないから……だって、お母さんはずっとわたしの側にいてくれたんだよ。だから、こんな時にわたしが側にいないと不公平で……」

 名雪は毅然とした態度を保ったまま、医師と対峙していた。私には、名雪の思いを叶えたいという気持ちが強くある。私がしてしまった分の後悔を、名雪には味わって欲しくないのだ。

「俺も、やっぱり駄目です。俺たちのことは気にしなくて良いし、邪魔なんて絶対にしない。だから俺たちをここにいさせて下さい、お願いします」

 そして、祐一が頭を下げた。私も続けて頭を垂れ、凍りついたような喉から必死に言葉を紡ぎ上げていく。

「私からもお願いします。今回だけは、見逃してくれませんか? 今まで散々、迷惑をかけてきてこんなことを言うのは図々しいと思うかもしれませんが……」

 三人に一度に迫られて、医師は少しばかりたじろいだ。そして救いを求めるように、最後の一人、北川君に声をかける。

「それで……君はどう思っているんですか?」

 そう訊かれ、彼は少しばかり俯き考えた後、ゆっくり口を開いた。

「俺は……部外者です」と、最初に断りおきを入れる。「だから、相沢や水瀬さんや美坂のような強い感情は持ってない。それを共有できるくらいに親しくもない。けど、彼らを置いて俺だけのうのうとなかったことにして過ごすなんて、不義理なことはできません。俺はもうこれ以上、友人を裏切りたくないんだ」

 北川君は、私たちのことを暖かくしかし強固にサポートしてくれた。その証拠に、医師は根負けしたという風な様相を呈している。何かまだ反論したいようだったが、それは喉の奥に押し込まれたかのようであった。

「君たちの気持ちはよく分かりました。できるなら、私だってそうしたい。だが、こちらにも最低限、譲れない部分はあります。その気がなくとも、今の行為は青少年保護法の諸条例に抵触している可能性が高いし、そうなると病院自体の立場が悪くなることは分かって欲しいんです」

 そう前書きしてから、びっと指を一本差し出した。

「そういう条件を鑑みれば、一日、今日一日だけですよ。それ以上は、こちらとしても許可できません。後は、ご家族の方に電話をきちんとかけること。それが、こちらができる最大限の譲歩です。狭量に思われるかもしれません。しかし先程も言いましたが、私たち医師を信頼して欲しいんです、お願いします」

 最後に、医師は下げる必要のない頭を下げた。そんなことをされると、こちらとしてもそれ以上の我侭など言いようがなかった。しばらくの沈黙の後、名雪が代表してその提案を受諾した。

「分かりました、約束は……守ります」

 私たちは唯々諾々と肯き、その態度に満足したのか、医師と付き添っていた看護婦は病室を出ていった。

「本当に、あれで良いの?」

 私が尋ねると、名雪は僅かに微笑んだ。

「その時は、次の手段を考えるよ」

 成程、引き下がるつもりはないということだ。その意志を確認すると、私はもう何も言わなかった。ただ黙ってついていくつもりだから。

「じゃあ、俺は電話かけてくるけど……」北川君が、先程の忠告に従ってか親元に電話をかけようと席を立つ。「皆はかけなくても良いのか?」

「私は元々、ここに入院する予定だから」と、少しだけ肩の傷を覗かせる。今までは服で見えなかった部分が露出され、北川君は少し怪訝そうな顔をした。「こういう事情があるのよ」

「それ、怪我か? 大丈夫なのか?」

「ええ、軽い傷だからすぐに退院できるわ。それで、名雪も祐一も連絡する人はいないから……」

 その唯一の相手は、目の前でずっと眠り続ける女性のみだ。

「そっか……じゃあ、俺はちょっと出てくる」

 北川君がそっと部屋を出ると、今度は名雪がうつらうつらとしだした。時刻は既に十時に近い、ましてや今日の名雪は相当に疲労している筈だ。この時間まで持っているのが、よく考えれば不思議なくらいに。

「名雪、大丈夫……眠くない?」

「平気、だよ」目は少し覚束ないが、意識と決意ははっきりしているようだった。もっとも、あと三十分もすればそれも眠りの中に消えていきそうだが。

「わたし、今日だけは絶対に起きてないと……大丈夫、まだ全然眠くないから」

 それは明らかに嘘だったが、祐一も私も敢えてそれを指摘するほどに傲慢ではない。少しすると、北川君が布団を抱えた二人の看護婦を携えて戻ってきた。どうやら、夜勤の看護婦が私たちのことを慮って用意してくれたらしい。看護婦たちは布団を敷こうとしたが、名雪はそれを丁重に断った。そこまでして貰ったら悪いと言って。

 幸い、秋子さんの部屋は単体部屋としてはかなり広く、四人分の布団を敷く余裕は何とかあった。ただ、床に伏す気持ちは持ち合わせてないので、広げて敷くことはない。だが、潜在的な眠りを誘う効果はあったのだろう。十時を過ぎて、名雪はますます微睡みの表情を浮かべるようになった。

 その度に「……大丈夫」や「平気だから……」と言って眠気覚ましに首を振り、少しずつだけど不機嫌になっていくのが分かった。そのせいで、私と祐一と北川君はひっきりなしに秋子さんと名雪を見回さなければならなかった。

「お母さん、わたし……側にいるから……」

 名雪は目を瞑りながら、誰にも分からないくらいの勢いでそっと涙を流す。それが、寝言であると気付くのにそう時間はかからなかった。私はこれ以上、起こすことはせずに名雪を支えた。祐一と北川君がその間に布団を敷き、何かのミッションのように布団に寝かしつけていく。その動作は、妙に息が合っていた。

「まあ、こうなるのは予測済みだったからな」

 そう、はにかみながら答える祐一。安らかな寝息二つ聞こえる中、私と祐一と北川君は再び静寂の中に身を置いた。時々、強い風が窓を叩き、激しく通り抜けていく。外は今、吹雪だろうか? と、意味のないことを考えてみたりする。いや、私は元々、思考型の人間なのでいつも何かを考えていないと落ち着かないのだ。単に何も考えないという行為も、何も考えないと意識しないとできない。総じてそれが『何も考えないということを考えている』と意識した瞬間に、無駄な足掻きはやめることにした。そしてまた、秋子さんの方に意識を集中する。一つのことに感情を傾けられないこと自体、明らかな思考の衰弱を意味していた。どうも、思ったより体が弱っているらしい。

 やけに神経が尖っているみたいだった。今までよりも、色々な音が鮮明に聞こえ、点滴が浸透していく音すらも私の耳は僅かであるが捉えている。よく、血液が足りないと神経が明敏になるという表現があるが、あれは案外、本当のことなのかもしれない。

 午後十一時。未だ、無声映画のような世界が眼前に広がっていた。動きもない、派手な音楽もない、平穏溢れる夜。けど、私たちが求めているのはこんな世界じゃないのだ。煩くても、皆で無邪気にはしゃげる世界こそ、私の、そして皆の欲しいものだった。

 そして一日が終わり、また新しい一日が始まった。二月十八日から二月十九日へ、今まで現在であった時間は刻一刻と過去へ追い立てられていく。

 その時、唐突にガタンと何者かが椅子から崩れ落ちた。余りに唐突だったので、それが祐一であることに少しの間だけ気付かなかったほどだ。何があったのかと慌てて寄り添う私の耳に聞こえたのは、祐一の安らかな寝息だった。どうやら、限界が訪れたらしい。昨日は徹夜したということを話していたし、よく考えれば今までもったのが不思議なくらいなのかもしれない。

 新しくひいた布団に祐一が横たわらせると、北川君は私に声をかけてきた。

「美坂、お前ももう寝ろよ。入院するほどの傷を負ってるんだから、こうして夜を明かすだけで苦痛なんだろ?」

「別に……平気よ」私は、少しだけ嘘を吐いた。「肩だって大して痛まないし……第一、医師が大袈裟だったのよ。それに……本音を言うとね、体が壊れても貫かなければならないことってあると思うの。そして今が、そうする時だともね」

「そっか……参ったな」

北川君は、頭を掻いてはあと溜息をついた。

「大切な友人のために、最後まで体を張るっていうのはサマになると思ったんだけどなあ」

 冗談っぽく、しかし目は本気ではない。その態度を見て、彼も彼なりに私や祐一や名雪を心配に思ってくれていることが分かった。そして、案外に気持ちを表に出すのが下手だということも。けど、こちらだってはいそうですかと譲るわけにはいかない。

 そう思って、自分はいつの間にか随分、諦めが悪くなったなと少しびっくりする。でも、私は既に理解していたのかもしれない。絶望感を抱いても、諦観の念だけは受け入れてはいけないと。諦めれば、本当にそこで全てが止まってしまうから……。

 それからは、朝と私との根競べだった。時計を見ると弱音が助長されそうで、腕時計を外して容易に取り出せない場所に置いた。溜息ばかりが増え、目が腫れぼったくなっていくのが自覚できた。それでも、意識ができるうちは幸せなのかもしれない。午前も二時をまわると、それは単に眠気への戦いへと変わっていた。隣を見ると、北川君もしきりに首を上下左右に揺らしている。器用だが、彼はその姿のままで熟睡していたのだ。そして、何十回か首が回ったところで気付き、辺りをきょろきょろと見渡し……そんな時間が一時間も過ぎた頃だろうか。北川君は、祐一や名雪の座っていた椅子に体を預けた。そして、残されたのは私だけになる。

 私の覚えているのは、そこまでだった。

 暗い、暗い、何も見えない空間に私は立っていた。

 私は、それが何かを知っている。

 これは、終わりなき夜。

 光を見出せない、私の心を映した闇。

 私は、こんな一切の光なき夜のために、

生まれてきたのだろうか。

 その闇の中に、ぼんやりと人影が見える。

 絶対不可視の闇の中なのに、

何故かそれが人だと分かった。

 彼女は、笑っている。

 唄いながら、踊っているようにも見えた。

 私からは、彼女が見える。

 けど、彼女からは私は見えていない。

 私の姿は、彼女の瞳には映っていない……。

 どうして?

 どうしてなのだろう……。

 私がこんなにも、大切に思っていたのに……。

 そんな私の思いに気付いてか気付かずか……。

 少女は最後に、百合のような汚れなき笑顔を浮かべ、

 虚空へと消えていった。

 まるで、さよならを言うように。

 私は、とても不安になった。

 何も見えないことへの不安。

 何もできないことに対する不安。

 だって、私は何もできないのだから……。

 いつだって、

 そう、いつだって。

 私は果てしないほどに無力だ。

 こんな夜の中に、一人でなんていられない。

 ああ、

 私はその時に知った。

 私は決して終わりなき夜に、

 生まれついたのではないということに。

 その考えを後押しするかのように、

 誰かが私の手をそっと握ってくれる。

 暗くて、それが誰だかは分からないけれど、

 その手が私をこの夜から救い出してくれるのだ。

 否。

 人は誰だって、暗闇の中を歩いている。

 大切なのは、

 いつもその手を掴み、

 離さないでいてくれる人。

 その人の存在を知った時に初めて、

 人は終わりなき夜を終えることができる。

 だから、私は思う。

 暖かいこの手を決して、

 決して離しはしないと……。

 微少の喧騒の中で、私はゆっくりと目を覚ました。横たわるのは、少し硬い布団の中。私は、今の自分の状況を理解するのに数秒を有した。布団の中に眠る自分、並んで眠る三人の人間。昨日の夜も見た医師、ベッドの上で半身を起こす女性の姿……女性の姿?

 私は霞む眼を何度も擦った。幻覚や夢を打ち払うくらい、強く強く。そうして、そこに濾過されるのは現実の光景。その光景の一つに……そのピースの一つに彼女はいた。

「秋子さん!」私は思わず叫ぶと、貧血で目が眩むのを無理矢理興奮で押さえつけて立ち上がる。秋子さんは目覚めていた、目覚めて医師の診察を受けていた。余りにも劇的な変化、そして状況の変遷に私は対処し切れなかった。

「あら……香里、ちゃん」

 声は、いつもより数段階落ち、酷くしゃがれて聞こえた。きっと、長い間眠り続けていたためだろう。けど、それはとても優しい響きを含んでいた。いつもの言語的明瞭さも、今の秋子さんからは削げ落ちている。それはきっと、脳にダメージを受けているからだ。でも、今だけはそんなことどうでも良かった。秋子さんが目覚めた、目を覚ました、そして……そう、ゆっくり笑いかけてくれる……。

 私は夢中で叫んだ。「祐一、名雪、北川君、起きて。秋子さんが、ああ……目を覚ましたのよ。だから皆、早く起きないと……」

 私の声に呼応して、祐一と北川君が同時に目を覚ます。そして、その衝撃の強さに口をぱくぱくさせていた。

「おい香里、いつのまに目を覚ましたんだ?」

「分からないわ、私だって夢の中だったんだもの」

 二人して、とても間抜けな会話だと思った。だって、大切な人が目覚めたんだから、もっと気の利いた言葉だってある筈なのだ。

 でも、それで良かったのかもしれない。大切な言葉はまた、最も大切な人間から紡がれなければならないのだから。そう、名雪の口から。

「……お母さん」と、後ろから声がする。振り返らなくても、それが名雪だということは分かった。

「お母さん、本当にお母さんなの? 夢じゃないの? 本当に……」

「ええ……」と、秋子さんは微笑を崩さないままに答えた。「ごめんね、心配、かけて……」

 その言葉が、名雪の最後の堰を思い切り叩き破る。何者をも構わずベッドに駆け寄ると、秋子さんの腰にがしりとしがみついた。

「お母さん、お母さんっ、おかあさんっ……」

名雪は、何度も何度もそう連呼する。以前と違って、その声は希望と激情とに満ちていた。

「ごめんね、わたしが我侭だから、ずっと負担をかけてお母さんを苦しめたんだよね。わたし、とても悪い子だった……皆に迷惑をかけて、それ以上にお母さんに迷惑を……」

 秋子さんは、ここまで動転する名雪の姿を驚きの眼差しで見つめている。私が知る限り、秋子さんがここまで驚く姿を見るのは初めてだった。

「でも、良かった。お母さんが目覚めてくれて、本当に良かった。わたし、お母さんにはずっと元気でいて欲しいんだ。わたし、まだお母さんに何も返してないから。こんなに大きくなるまで、何不自由することなく育ててくれたのに、わたしはお母さんに何一つしてあげてないから。わたし、わたし……」

 名雪がはっきりと言えたのはそこまでだった。それからは、ただ思い切り泣いた。今度は嬉しさのために、全身を震わせて泣いた。そんな光景を私は自分でも分かるほどの暖かい眼差しで、そして祐一は場違いなほどの真摯な表情でもってずっと見守っていた。北川君は、浜に打ち上げられた人魚のように慌てていた。

 そんな私たちに向けて、秋子さんはゆっくりと呟いた。

「ありがとう……」と。

 更に何か呟いたようだが、私には何も聞こえなかった。

 だが、感謝の言葉一つだけで少なくとも私は救われたような気がした。そして、これが夢でないことも。喜ぶべき現実であることを、はっきりと噛みしめることができた。

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