二月十九日 金曜日

第十八場 公園

 その時から、事態は急転直下したと言っても良いのかもしれない。また、俺自身がその衝撃から立ち直ってないのだろう。ただ一つ思えるのは、幸せな時が戻ってきたという確信だった。秋子さんの目覚めには、それだけの意味があるのだ。

 しかし、完全に前途有望というわけにもいかなかった。先程から顕著に症状としても見られる通り、言語機能――特に発声に関すること――がやや不明瞭であり、首から下の左半身にも数日では癒し難い麻痺が残っている。救いとなるのは、これより再び容態が悪化することはまず考えられないということ、リハビリをすれば半年以内に機能の八割程度までなら回復できるという事実だった。

 勿論、そこまで回復するには秋子さん自身のリハビリに寄るところが大きい。ただ、その点については全く心配していなかった。逆に、早く良くなろうとして無理しすぎないかということに不安を感じる。秋子さんは世話を焼くことを好く一方、他人から世話を受けることを頑なに拒む部分がある。最初は、本当に世話好きなのだなと思っていたが、秋子さんの部屋であの日記を読んでそうでもないことを知った。秋子さんは、自分を殺してでも他の人が幸せになれば良い、自分は笑っていられるのだと――そう、考えているのだ。

そのことがある限り、秋子さんはいくらでも無理をして、また同じことを繰り返すだろう。今回は最悪の事態を免れたが、次回にそうならないという保証はない。俺は、秋子さんに何としてでも破滅的な行動を止めさせたかった。それができないならば、せめて母親の犠牲の上に生きることが名雪に決して良い影響を与えないということだけは知って貰いたいのだ。

 親娘水入らずの場所に水を差したくないと、病院の壁に寄りかかり腕組みをしている俺の顔を香里がひょこっと覗き込む。

「祐一、何を考えてるの?」秋子さんが目覚めて彼女なりに嬉しいのか、香里は隠しきれない喜びの表情を浮かべていた。「親娘水入らず、なんて言っておきながらやっぱり心配なんだ」

「ん、まあそんなとこだな」

 完全に誤解しているようだが、そうするままに任せておいた。今考えていることは、祝福すべきこの状況においてあまりにも重過ぎる。決して浅くはない傷を負い、夜を徹して秋子さんのことを見守ってくれた香里に、今だけは余計な苦痛を与えたくなかった。ただ、別に一人で悩む気はない。いざとなれば、香里や北川にも協力を求めるつもりだった。それは決して悪いことではないだろう。香里は怪訝そうにこちらを眺めたが、敢えて追及しないでいてくれた。

「何か、俺はお邪魔って感じだな」その様子を見て、北川が軽いツッコミを入れてくる。別にそんなつもりではないのだが。「まあ、水瀬さんのお母さんも元気になったみたいだし、あんまり家を空けてると親が心配するからな。俺の母親、怖いけども案外、心配性だったりするんだ、これが」

 そう、聞きもしないことをつらつらと語り出す。

「まあ、家に帰ったら学校にも出るつもりだし、ノートの写しくらいは見せてやるから、恩に着るように。あ、でも疲れてるから眠ってる可能性の方が高いかもなあ。まっ、期待せずにおいてくれ」

 北川は早口にまくし立てた後、病院を後にしようとする。しばらく歩いた後、彼は踵を返して最後に言葉を残していった。

「じゃあ、また学校でな」

 それは、俺の中にとても強くそして暖かく響いた。何れ、近い内に訪れる日常を約束しているようで、自然と優しい気持ちになれるようで……俺は明るい声で「おう、分かった」と答えていた。それに満足してか、北川は手を振ると自分の家へと戻っていった。

「それじゃ、私も病室に戻るわ……ふあ、ほっとしたら急に眠くなって……ふう」

「そっか、香里は頑張ったもんな」実際、いつ体力の限界が訪れるか分からない状況であったわけだし。「じゃあ、病室まで送っていってやるよ……今、車椅子を取ってくるから」

 車椅子は秋子さんの病室にあったが、こちらも緊急事態だし少しくらいなら立ち入っても良いだろうとドアに手をかける。と、香里がその腕を何故か留めた。

「ん、どうしたんだ……香里?」

「……今、入ったら邪魔でしょ。病室まで肩を支えてくれたら私は大丈夫だから」

 そう言って、ふいと顔を背ける香里。そんな強がった様子を見て、俺は思わず溜息をついた。

「そっかそっか、分かった。でも、それだと怪我した肩が痛くないか?」そう考えて、もっと良い方法があることに気付いた。「じゃあ、これなら負担がかからないだろ」

 俺は香里の足と首筋を抱え、見た目よりも数段軽い体を軽々と持ち上げた。所謂、お姫様抱っこってやつだ。突然の行動に、香里は慌てふためき僅かに手足をばたばたと動かした。が、しばらくするととろんとした視線と共にゆっくり肯いた。

「うん、お願い……」

 その仕草は愛らしく、しかしとても弱々しく思えた。本当はもう少しからかってみようかなとも思っていたのだが、それは止めておいた。そこまでデリカシィがない人間じゃないのだ、俺は。

 長くも短い数分間の道程を踏破し、香里の病室まで着くと今度は肩をしっかりと支えた。その後、ベッドに寝かしつけると香里は数分もしない内に眠りについた。本当に疲れていたんだろう。

 そっと部屋を出ると、引き返した秋子さんの部屋で俺は会いたいような会いたくないような人間に出会った。

「あら祐一、こんな時間にどうしたの? 今日は学校じゃない」

 と、目を大きく見開いて迫ってくるのは……俺の母だった。

「まあまあ、こいつは多分、お前の妹さんの面倒を見てたんだろうさ……そうだよな?」

 そして、どこぞのサッカー選手に感化されたか知らない、色付き眼鏡と無精髭で年甲斐もなく武装しているのが、俺の父だ。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ」俺はテンションの高い両親に巻き込まれないよう、同じテンションを保って言い返した。「何で、父さんと母さんがここにいるんだ?」

「あら、妹が大変だって必死で電話をかけて来たのは祐一じゃない。男のくせに泣きべそかいて訴えてくるから、大変なことが起こったと思って、飛行機のチケットを取ってすぐさまかっ飛んできたんじゃないの……どんな症状かも言わないし電話をいくらかけても全然出ないし、本当に心配したんだから、もう」

 母は、今にも爆発しそうなくらいに怒っているようだ。が、当の俺には全く記憶がない。秋子さんの日記を見てからしばらく放心状態だったから、その時にかけたのかもしれないが……。

「それで、容態はどうなの? 何か、ここまで案内してくれた看護婦の話じゃ峠は越したとか言ってたけど」

「あ、うん……脳卒中で倒れて一時はかなりやばかったけど、意識も回復したしもう大丈夫だって。勿論、リハビリとかはしなくてはいけないみたいだけど……」

「脳卒中? あの娘、そんなに無理してたの? まあ、いつも無理して笑ってるような感じだったから分からないでもないけどさあ、そんなに根を詰めちゃどうしようもないじゃない。名雪ちゃんだって悲しむし、私にとっても血を分けた唯一の姉妹なのよ。あの娘は、そんなことを全然考えないのよ。全く……馬鹿なんだから」

 まるでマシンガンのように言葉を撒き散らす母。が、その節々には秋子さんへの心配が滲んでいるように思えた。やっぱり、何はともあれ実の姉なのだから当然と言えば当然なのだろうが。

 そしてふと、母ならば俺が抱いている悩みを秋子さんに言い聞かして分からせてくれるのではないかという望みを抱いてしまった。いや、母の強引さならまじで何とかなりそうな気がする。

「……なあに? 鳩が餌ねだるような顔して」

 鳩に例えられるのは極めて心外だが、他に頼る人間もいないので母に秋子さんの日記のことを全て話した。すると、お冠だった母の様子にますます興奮の色が加わっていった。

「あの、馬鹿妹が!」

母は正に、怒鳴り込むといった調子で秋子さんの病室に入っていく。父はその姿を、しょうがないなという表情でゆっくり追いかけていった。どうして、俺の周りにいる家族はどうしてこうも男が弱いのだろう……いや、女が強すぎるだけか。

 そして、追い出される形で名雪が病室から出てきた。母は、何やら凄い剣幕で秋子さんに詰め寄っているようだった。俺は、さっきの決断が間違っていたのかもと凄く不安な気持ちになった。

「うー、これから姉妹水入らずで話をするから少し席を外してくれだって……」言う合間に、今度は父が追い出された来た。「とっても不安だよ……何か怖いことが起きないかな?」

 俺に言われても……切れた母が何をするのか分かる人間なんて、この世にいないのではないだろうか。

「心配しなくても大丈夫だろ」そう言い切ったのは我が父だ。「病人相手に、酷いことはしないよ。それに怒ってるのは、妹のことを、本当に心配に思っているからだ、そうじゃないかね」

 父は胸ポケットから煙草を取り出すと、機敏な動作で火を付け、ふうと長い息を吐いた。これでよれよれの背広をきていなければ、随分とさまになっただろうが。

「まあ、祐一も名雪ちゃんも疲れただろう。後から良いところをかっさらっていくようで悪いが、二人とも少し休んだ方が良い」

 両手で俺と名雪の頭をぽすぽすと撫でる父。それは良くやったという合図なのだろうし、怖い顔で近付いてきた看護婦の次の言葉がなければばっちり決まっていただろう。

「……病院内は、全棟禁煙ですっ!」

 不謹慎なことだが俺も、そして名雪も思わず笑いそうになってしまった。そんなやり取りにいつの間にか心が緩んでいたのか、俺は驚くほど大きな欠伸をした。名雪もつられて欠伸をする。

「分かった、じゃあ今だけは年の功に任せる」

 俺はばつの悪そうにしている父に、そう追い討ちをかけた。

「じゃあ……お母さんのこと、宜しくお願いします」

 対して、名雪は下げる必要のない頭を下げる。それで、辛うじて父の威厳は保たれたようだった。

 ロビィまで降りると、タクシーを呼ぶかどうか名雪に聞いた。

「ううん……今は、冷たい風に当たって頭を冷やしたい気分だから」

 と、俺の申し出を断った。まあ、俺も歩いて帰る気まんまんだったし、それなら文句はないと病院を後にした。

 少し前までなら、どうしてそんなに話題があるのだろうと思うくらい、二人して話しながら歩いていた。が、今は何を話して良いのかも分からない。昨日から今日にかけて、新しい雪が降ったのだろう……新雪を踏みしめる音だけが妙に響く。それ以上に賑やかな雑踏も、決して心を落ち着かせてはくれなかった。まあ、あんなに派手な諍いをやらかして平然と話してられるなら、そちらの方がある意味、異常なのだろう。そう結論づけ、気まずさの溢れる空間を二人で共有していた。

 そんな時間が十分も続いた頃だろう、やや人気の少ない場所まで来ると名雪が急に立ち止まる。

「祐一……」名雪は鞄を両手に持ち、深く頭を下げた。「一昨日は、その、ごめんね。わたし、祐一に凄く酷いことして……」

「そのことだったら気にするなって」今にも走り出しそうな名雪を、俺は宥めた。「俺だって、栞が死んですぐの頃は名雪に散々、酷いことをしたから……まあ、お互い様だ。誰だって、心が弱っている時には他人を気遣うことができないし、人を傷つけることだってするかもしれないさ。大切なのは……誰かが苦しんでる時に励まし勇気づけることができるかどうかだ。まあ、その点に関したら俺は名雪の足元にも及ばないくらいだったけどな」

 なるべく、思い悩ませないように軽く言ったつもりだったが、名雪は固い表情を崩さない。何度か、口を無音のまま動かして何かを伝えようとしたが、声にはならなかった。

 それからまた十分ほど歩き、商店街の近くまで差し掛かった頃、再び名雪が立ち止まり今度は喉を震わせた。

「それだけじゃないんだよ……」先程の続きであろう会話の繋ぎ目を読み取り、俺はすぐに立ち止まる。「祐一だけじゃなくて、香里にも酷いことをしたの。一生謝っても、足りないくらいに酷いことを。祐一がこれを聞いたら、凄く怒ると思う。わたしね、香里を……」

 最後の方は、かすれてよく聞こえなかったが、口の動きと意味もなく見つめる両手の平の様子で言いたいことは分かった。

「香里は、お前のことを何て言ってた?」

正直言って、名雪がしでかしたことについて俺が口を出す権利はないと思う。当の香里が話さなかったのだから、尚更だ。名雪はしばらく沈黙した後、溜息のような声を漏らした。

「……ごめんねって、謝られた。わたしは悪くないし、責める気なんて全然ないって」

「だったら、それで良いよ……香里がそのことを許して、そして心の中に秘めようって考えてるなら俺は何も言わない。怒りもしないし、責めもしない。名雪だって、凄く悔やんでるんだろ?」

 名雪はこくと肯いた。

「だったら、これからもいつも通りに接するのが一番良いと俺は思う。今日はぐっすり寝てさ、明日にでもまた少しくらい顔を覗かせたら、香里は満足するさ、断言しても良いね」

 そう言い切って、俺は名雪の反応を待った。まだ泣きそうな顔は保ったままだが、心なしか明るい調子が戻ったように見える。

「分かった、じゃあそうするね」

 決して上手くない笑顔を浮かべる名雪。これで良かったよなと自分に言い聞かせながら、俺は再び歩き出した。十時前ということで、食料品店以外の店が軒並み準備を始めている時間だ。よく考えれば、今日は平日なのだから学生は非常に目立つ。もしかしたら周りの人間から、さぼってゲームセンタにでも繰り出しているのかと疑われてるかもしれない。そう思われては酷だと、俺はクレーンゲームに人形を補充している店員に一瞥をくれただけでそっぽを向いた。

 が、その人形が……何故か俺の目を惹いた。このまま通り過ぎては後悔すると、心の中のシグナルが盛んに音を発する。俺は、思わずゲームセンタに近付き、心当たりの元凶を知った。天使の人形。

「あの、この人形はどうしたんですか?」

 そう尋ねる俺に、最初は良い顔をしたが、学生風だと分かると俄かに顔を顰めた。

「ああ、これ。ずっと前に流行った人形の復刻版らしいね。まあ、ずっと前と言っても七、八年くらいだけどさ。ところで君、高校生? こんなところをうろついてたらまずいんじゃないの?」

 どう見ても、俺より数年だけ年上の男性はそうおざなりに忠告した。が、そんな口上など聞いていなかった。確かに、この人形には覚えがある。年月のことを聞いて、ますますそのことに確信が深まっていく。

「祐一、ゲームセンタなんて駄目だよ」名雪が当然というか、俺の行動に不審をもったらしく強引に引きずっていく。「わたしだって、百花屋に行きたいの我慢してるんだから」

 論点が微妙にずれている気がしたが、敢えて考えないことにする。俺はゲームセンタの店員に頭を下げると、あの人形のことを思い出そうとした。いつ、どこで、誰と……どんな風なきっかけで係わり合いになったのだろう、あの人形とは。

 喉まで出そうなのに出てこない、そんなもどかしさが頭の中をまるごと支配する。もどかしさを感じながら、商店街の出口まで到達する。何か店頭販売しているのか、饅頭の皮と餡の匂いがこちらまで漂ってきて……突如、記憶が弾けた。

 そうだ、あゆ、月宮あゆだ。俺はあいつに、あの人形をプレゼントしたことがある。そして、思い出のために公園に埋めた……。

「思い出した!」思わず叫ぶ俺に、名雪は目をぱちくりとさせた。「そうだ、あそこに埋めたんだ。ああ、すっかり忘れてた……」

「ど、どうしたの祐一、びっくりしたよ……」

 名雪は間延びした声で抗議するが、今度こそ俺の耳には何も入らなかった。もしかしたら……俺はあゆの言葉を思い出す。

『探し物があるんだよ』

 その探し物はもしかしたら、あの人形かもしれない。そう考えるといても立ってもいられず、俺は走り出した。

「あっ、祐一……どこ行くの?」

「大切な用を思い出した。名雪は一人で帰っていてくれ」

 そう言い置き、俺は近くの雑貨屋に走り込んでスコップを一つ買った。七年前も、スコップを使って埋めた記憶がおぼろげながら残っていたからだ。そして、今まで体を包んでいた気だるさも全く気にせずに俺は公園まで走った。あそこにある木の根元に、俺は天使の人形を埋めた。

 が、公園に辿り着いてみてそこに生えている木が十や二十ではすまないという事実が強く圧しかかる。

「う……よく考えれば、公園には沢山、木が生えてるものだよなあ、ぬかってた」

 通り行く人が聞けば当たり前だとつっこまれそうだが、興奮状態に陥っているとそんなことも気付かないらしい。

「全く、木を隠すなら森なんてよく言ったものだな」

 確か金田一少年の名言だったか……それともエルキュール・ポアロかな? まあ、そんなの今はどちらでも良いことだった。

 俺は木々を十分ほど見回した後、最も原始的な手段に訴えた。直感で行動し、少しでも心当たりがある木の根元を片っ端から掘る。実に頼りない照会戦術だ。だが、やるしかなかった。

 幸い、僅かでも記憶が残っていたらしく、明らかに違うであろう区画は排除することができた。それから、植林されて間もない木々も同時に除外できる。が、それでも百本以上の木があり、最悪の場合はそれらを一つ一つ掘り起こす以外に手はなさそうだった。

 そんな絶望的な状況でも、決して挫けなかったのはあゆと最後に会った日、寂しそうに言ったあの台詞が気になっていたからだ。

『探し物、見つかったんだよ』

 あゆは本当に、探し物を見つけることができたんだろうか。あれも、俺のことを気遣ってついた嘘なのではないだろうか? あの人形がそうかどうかの確信もないくせに、俺は必死で公園を掘り返していた。警察が巡回に来たら即補導されていただろうが、幸運にも訪れる気配はなかった。時折、親子連れや犬の散歩をする飼い主が通りかかったが、大事なものを探していると分かっているのか、それとも頭の変な奴と思われてるのか、誰も声をかけては来ない。

 朝が過ぎ、昼が顔を覗かせる。掘り起こした根元は十に及ぶが、目的のものは見つからない。昨日、降った雪が掘削という作業をより困難にしていた。手にみるみる豆ができ、スコップを持つ手が段々とかじかんでいく。それでも、執念に似た感情で俺は探し続けた。

 日はどんどんと傾き、そして夕方が近付こうとしている。目的のものはまだ見つかる気配がない。辺りが暗くなったら、このままでの探索は絶望的だ。一度家に帰り、懐中電灯などの用意をしなくてはならない。そのような算段が頭を過ぎった刹那、スコップが初めて石ではない固い感触に突き当たる。

 俄かに興奮し、俺はそれを傷つけないように掘り出した。中から出てきたのは硝子の瓶……だが、中身は空だった。入っているのは、黄ばんだ白い布の塊だけ。

「くそう、外れか……やっと見つかったと思ったのに」

 そう思い、瓶を投げ捨てようとした。そこで、俺は重大なことに気付いた、とても重大なことに。角度が変わって初めて分かった。

瓶の中に入っていたのは……小さな天使の翼の片割れだったのだ。

 俺は慌てて動作を取り消し、固く封された瓶の蓋を開ける。間近に見たそれは、確かに……天使の翼だった。黄ばんではいるが、それは精一杯と翼であることを主張していた。根拠はないが、俺はそれが七年前に埋めた天使の人形の一部であると確信していた。固く封されていたにも関わらず、木の根元には掘った後が見当たらなかったにも関わらず、俺はそうに違いないと思った。

 そして、冷たい地面にへたり込む。今までに張っていた気が全て抜けたかのように、そしてあゆの望みが叶っていたことに安堵して。

「あいつ……探し物、見つけてたんだな……」

 が、大発見の下に訪れる昂揚感は、瞬間的なものに過ぎなかった。次に俺の心を満たしたのは、言い知れぬ虚無感だった。御伽噺めいた現実ゆえに、もう二度とあゆが戻ってこないことを鋭く突きつけられたような気がしたのだ。ここにいたらそれに飲み込まれそうで、俺は何とか体を起こして公園を後にした。手に、天使の翼の片割れを持って。

 もう、行こうと心が急かす……ここにはもう、何もないと。あるのはただ、今は直視するに耐え難い悲しみだけだ。

 そして、まっすぐに家に戻る。名雪は、玄関まで出て俺を出迎えてくれた。唯一の戦利品である翼の片割れのことは何も聞かず、ただ笑顔でいてくれた。俺が何とか心の平静を保てたのは、多分そのお蔭だと思う。両親は幸い、ここにはいなかった。

 名雪特製の夕食を平らげ、自分の部屋に戻ってから俺は眠りにつくまでずっと天使の翼の片割れを眺めていた。

この翼の意味は何だろう、俺はこれをどうするべきだろうと、拙い頭で考える。しかし、自分でも納得できる答えは浮かんでこなかった。

[PREV PAGE] [SS INDEX] [NEXT PAGE]