火曜講義

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俺は少しよろめいて、頭を抑えながら低く呻いた。
ここのところの睡眠不足が祟って、どうにも体調が芳しくない。
「あうー。大丈夫……?」
「ああ、ちょっと立ちくらみしたんだよ」
とは言うものの、顔面蒼白の上に顔に脂汗を滲ませているのでは、我ながら説得力に欠けると思った。
「あうー。でも…」
俺は宥めるように頭を撫でてやって、やや強引に無機質な色をたたえたベッドへと押し戻す。
さほど抵抗も見せずに収まると、俺は倒れこむように背もたれのないパイプ椅子に腰掛けた。

バイトのうえに、こいつの見舞いが重なっているせいで疲労は極限に達していた。
目を閉じようとするだけで、深い澱みの中に沈んでいくようで、俺は必死にこらえようとする。
こいつと毎日会えるわけではないのだ。
今日だって1週間ぶりと日が開いたせいで、俺が病室に入るなり泣き出すものだからもさすがに参った。

視点をこいつに合わせると、室内の光景はどんよりと濁ったように霞んで、不気味な存在感をたたえたまま沈殿している。
目頭を押さえて俺は振り払うように首を振った。

「今日は何してたんだ」
そう聴くと目をパッと輝かせて、苛烈な勢いで喋り出す。
口が一つしかないのが惜しいと言わんばかりに、焦れったそうに小さな躯を忙しなく震わせて、ただ瞳だけがじっと俺だけを捉えていた。
話す内容は、著しく統一性を欠いていて、小学生の下手な作文よろしく、だらだらと箇条書きに、今日あったことを一つ一つ忠実に言葉にしていく。

それでも俺は熱心に耳を傾けて、時折相槌を打ち、こいつの頭を撫でてやりと、結局1時間半ほど、こいつが話し疲れてしまうまで、ずっとつきあっていた。
こいつも今日俺に久々に会えて、そして俺とはそう頻繁に会えないことを理解しているため、眠たそうにしながらも、じっとこらえているようだった。
俺はそんな様子が堪らなく愛しくなって、もっと構ってやりたくもなったが、その衝動を抑えながら

「眠かったらもう寝ていいぞ」
あうーと呻くこいつをそっと抱き寄せて、頭を一頻り撫でてやると、ようやく笑みを浮かべてそして静かな寝息を立て始めた。

俺は起さないようにこいつを横たわらせて、しばらくの間じっと憑かれたように眺めていた。

俺は背後からの視線を認めると、そちらへと視線を移す。
ドアが開いた音に気付かなかった様だ。
一人の婦人が、俺に向かって深深と頭を下げ、俺もそれに返す。
よく知った人物である。
この病室のただ一人の住人であり、患者の「天野美汐」の母である。
婦人はつかつかと上品そうな物腰で歩み寄り、こいつ、美汐の姿を認め、慈愛をたたえた笑みを浮かべた。

「どうですか。美汐の様子は」
「さっきまで1時間以上喋り通しだったんですよ。それで疲れて寝ているだけです」

婦人はそうですか、と短く返し、俺の顔を振り仰いだ。
美汐の年齢から考えると、せいぜい四十代前半といったところだろうが、とてもそうは見えない。
秋子さんのような若作りという意味ではない。
やや小太りの容貌はいかにも人の良さそうな印象を与えるものの、白の混じった髪、深深と刻みこまれたいやに多い数の皺からは、彼女の苦労が窺えた。
品のいい笑みの中にも、その苦労の翳がよぎるようで俺は自然と目を合わせるのを避けていた。

天野美汐がこうして入院するのはこれが初めてでないのだという。

「あの子は狐憑きなんです」

美汐が突然変調をきたしてこのH××大学付属病院の精神科に入院した日の婦人の言葉が脳裏を掠める。
狐憑きといってもそれはオカルトめいたものではない。
重度のヒステリーや分裂症に近いものと考えていい。
現に数年前の発症では、治療のかいあって一般の生活が営める程度には回復したのである。

俺がその話と、以前美汐が俺に語った「ものみの丘の狐」の話とを結びつけるのは容易だった。

果たして美汐は妖狐と出会ったがために、狐憑きにかかったのか、それとも全てが虚妄なのか。

俺をその日から蝕んでいる疑問が、じとりと俺の脳髄の中枢に厚く立ちこめた。

恐らくは後者なのだろうと思う。

ものみの丘には妖狐がいるという伝承はあるものの、その内容は美汐の語ったものとは似ても似つかぬものであること。
美汐の家系が「狐持ち」の家筋であり、幼少の頃からそれが原因で友達ができなかったこと。
反面、美汐は狐を疎んじるわけではなく、寧ろ強い興味を惹かれ、そして狐憑きに至ったという経緯を聞かされると、俺の推論は至極当然のものであろう。

その結論は俺の心にどんよりと厚く圧し掛かり、絵の具を水で滲ませたように茫洋とした広がりを持って視界を鎖した。
もし、そうだとすれば…。
今回の発症はどのような理由があるのだろうか。
今は亡き真琴に出会ったがために過去の記憶が引き起こされて、発症へと至ったのだろうか。
それとも……。

俺はもう一つの結論を言葉にすることを躊躇い、肌に執拗にまとわりつくそれを払うように、額の汗を拭い取った。

真琴という少女がこの世界に1ヶ月も満たない間、存在したことを知る者は……いない……!

真琴が俺の作り出した幻影でないということを証明する術はもはや失われてしまった。
美汐はまるで真琴が取り憑いたかのように振舞いをしてはいるが、だからといってそれが証拠になるはずもない。
名雪は真琴のことを一切覚えてないという。
そして秋子さんは……もう、いない……。

真琴が働いていた保育園があるはずだが、市内の保育園、幼稚園に託児所まであらゆるところをあたったものの、真琴を知るものどころか、秋子さんの知人だという保母すら探し当てることは叶わなかった。
ただ残るのは、手付かずのままになっている真琴の部屋だけだが、それを見るたびに俺は、そこに取って付けたような不自然さ、突然記憶を人為的に植え付けられたような不快感を抱かずにはいられなかった。

せめて真琴の写真でも残っていれば…。
真琴が一人で撮ったプリクラはあの男物の古びた財布からは発見できず、こんなことなら強引にでも真琴とプリクラを撮るべきだったと歯噛みする思いだった。

「そういえば水瀬さん…でしたかしら。あの人は今日はいらっしゃらないんですね」
馬鹿丁寧な口調で話す婦人に俺は曖昧な笑みを浮かべて、なお表情を崩さぬまま目を逸らして肩を窄めた。

「…名雪ですか。あいつは家に置いてきてますよ」
形容すべき表現の全てを削ぐように俺は素っ気無く答える。
「綺麗な方ですよね………相沢さんの恋人ですか?」
「…ええ、そうです」
俺は声のトーンを低くして、堪える様に……ふつふつと湧きあがり今にも俺という殻を食い破らんとする衝動を……封じこめるように言い放った。

「それなのに何故、…美汐にこれだけ尽くしてくれるのですか…?」
「…迷惑ですか?」
「いえ、そんなことはけして」
手を振って急いで打ち消す婦人。

「俺の方もすみません。そんなつもりで言ったわけじゃあないんです。

詳しくは語りませんし、仮に言葉にしたとしても意味を為さないことですが……
この子は、…美汐ちゃんは、……そう、あいつの言葉を借りるなら『唯一の俺の道しるべ』なんです。
と言っても、俺は後ろ向きにその道の端にすがっているだけですけどね。

……要は俺の自己満足です」

その言葉は俺の真意を語ったものでは、けしてなかった。
しかし婦人は俺が包み隠さず感情を吐露したものと思ったらしく、慇懃な様子で「ありがとうございます」と礼を述べ、そして涙すら浮かべていた。

婦人を騙したことに、一片の罪悪感すら感じなかった。
窓の外に視線を見遣る。
日が暮れて夕日の緋に染まった雲の脇で、翳が今にも展がろうと気配を窺っている。
そこにぼおっと美汐の顔が浮かび上がった。
無論幻影や生霊の類ではなく、窓に美汐の顔が映っただけのことである。

視線は知らずのうちに美汐のみに会わされていた。
美汐は何時の間にか起きていた。
瞳孔が収縮されて、眼球の「白」だけがやけに目に付いた。

白だ…。
白………。
雪の色……。
それはけして純粋ならざる白……。

古の白。
     …エンシェントホワイト…


気が遠のく。

俺はいつしか「白」の檻の中にいた。

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