−−−−−−−−3−−−−−−−−−−−


店内の客が全員こちらを注目しているようで、俺は流れ弾のような視線を持て余しながら、そのターゲットである女性を恨めしそうに見遣った。

「ところで、まだ続けてるの? よくやるわね」
香里と会うのは実に久しぶりのことだった。
H××大学……ちなみに美汐の入院している病院はH××大学付属病院である……の薬学部に在籍する彼女だが、とはいっても畑違いの精神科に入院している美汐と別段つながりがあるわけではない。

俺は間髪入れず言葉を返そうとして、瞬間喉が干上がったようになると、戦慄が幾重にも駆け巡った。
それは香里の台詞に込められたダブルミーニング、真意に気付いたゆえであったが、俺は敢えて

「美汐のことならずっと続けるつもりだよ。当然だろう?」
と上っ面の片面だけ答える。

香里はそんな俺の心の裡もお見通しといった翳を匂わせて、さっと髪をすくう。

「そういえば随分伸びてきたんじゃあないか、お前の髪」
「……相変わらず唐突ね。
まあ、前の長さまであと少しというところかしらね」
俺は気まずさのためか、前から抱いていたかすな疑問を知らず口にしていた。
「そういえば、何でお前、髪切ったんだ? あんなにバッサリとさ」

いつだったか……。
香里がボブショートというのか、それくらいまで短くしたことがあった。
その時は「床屋でたくさん切られたのよ」と珍しく冗談めかしていたが…。

まあ、それから今日までずっと伸ばしているのだが、さすがにここまで伸びるのには時間を要した。

「お馴染みの理由よ。失恋というやつ」
俺は軽く聴き返して、首を斜めに突き出した。
「あら? 意外だった? 私だって恋くらいしたことあるわよ。まだ一人目だけど」
「じゃあ初恋だったのか」
我ながら当たり前の返答だ。

「……そうね。そういうことになるのよね……」
意外にも香里は、はっとしたような表情で、ちらりと俺の顔を覗きこむ。

「なあ…その相手は、今どうしているんだ?」
「…私にチャンスなんてもう残ってないわよ。ずっと初めからね…。でもまだ私はその人に恋しているのよね…」

最後の言葉は口にするつもりはなかったのだろう。
たちまち香里はしまったとばかりに、らしからぬ態度で感情を表情へと発露した。

「……しかし、遅いな名雪。まだ寝ているのか?」
俺は空々しく時計を盗み見て、話題を変えた。
「あら、今日は名雪とデートだったの。でも相沢君、まさかあの子が一人で起きれるなんて、私には思えないんだけど」
「いや、普通ならそうだろうけど。でも昨日は文字通り丸一日寝てたんだぜ。
そろそろ起き出してもいい頃なんだけどな」

それに…と俺は付け足して、
「今日は美汐のところに行くだけだよ。遠出して帰りは名雪を背負って、というのはさすがに勘弁したい」
体験済みなだけに実感が篭っている。

「ふーん、じゃあ私はお邪魔なようだからそろそろ退散するわね。
……あ、別にいいわよ。私が奢るから。誘ったのは私だしね。
それに今、実入りだけはいいバイトが入っているのよ。
といっても研究室のラットの世話なんだけど」

香里は捲くし立てるように喋り出すと、店内の男性客の溜め息が聞こえてきそうな視線をついでに引き連れて去っていく。
視線から解放された俺は深深と椅子に凭れ掛かって天井を仰ぎ見た。

香里は帰り際、俺に聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの声で確かに呟いた。

「私が髪を伸ばし始めたのは願掛けなのよ」

あれはどういう意味だったのだろう。
考えても答えは浮かびそうになかった。

ふいに視界の片隅にあった、マガジンラックに飾られた白い花が蠢いたかのように思えて、俺はぞっとしながらも、またあの「白」の虚妄に墜ちていく誘惑に抗っていた。

ここにも白が点在している。
照明も、店内の装飾も、花の色も……。

名雪が来るまでの数十分もの間、俺はうっとりと瞳を輝かせて、原始的な悦びのために存在している……。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


イチゴサンデーがメニューにないことに不満を漏らしながらも、イチゴタルトにご満悦の名雪を店から引きずりながら、俺達は美汐の病院へと赴いた。

憑いている状態の美汐と名雪とを会わせるのは初めてだったように思う。
美汐が発症する前は学校で幾度か顔を合わせているのだが。
名雪をここに連れてきたときは、いずれも美汐は寝ているときだけだった。

「よ、真琴。元気にしてたか」
「…わあ。祐一…。会いたかったよー」
美汐は手の中で弄んでいた猫のヌイグルミを無下に扱って、俺に擦り寄ってくる。

「今日は連れてきた人がいるんだ」
人見知りする美汐を思いやって、俺がまず病室に入り、頃合を見て名雪を迎える手筈にしてある。
「ほら、名雪入ってきていいぞ。
お前も覚えてないかな…? 名雪だよ。一緒に家で過ごしただろ?」

……本物の真琴でもあるまいし、覚えているわけはない。
それでも美汐の人見知りを少しでも緩和してやりたくて自然とそう言わせた。

「初めまして…じゃなくて、久しぶり…だよね…? 美……真琴」
美汐は怯えながら俺の陰に隠れて、おどおどとドアの方を覗き見ていたが、名雪が入ってくるや否や、ふっと俺へと掛かっていた美汐の重みが消え去った。

「…………………あうー……………?」
美汐はきょとんとして名雪を凝視していたかと思うと、飛び掛るように名雪へと駆け寄った。

「わあ……美…真琴、おもいよー」
「あうー……秋子さん秋子さん秋子さぁん……」

秋子さん?
俺はその言葉が美汐の口から出たことに恐怖した。
俺の戦慄の原因は、美汐が名雪を見て秋子さんと言った、そのこと自身ではない。

……そんなはずは…。
美汐は秋子さんを知らないはずなのである!
美汐とは真琴の一件以来、ますます遠縁になっていたし、美汐が発症するころには秋子さんはもういなかったから、美汐が秋子さんを知っているわけがないのだ。

その美汐から「秋子さん」という単語が出ることなどあるわけがない。
まして名雪を見て秋子さんという言葉を連想するということもまた、ありえないのだ。

文字通り狐に抓まれたような面持ちで、俺は呆然とする。出来ることなら眉に唾を塗りたいくらいだ。
何故……?
俺はかすかに躯を震わせて、脣をわななかせた。
半開きになった脣からは声が漏れるわけでもなく、心持ち荒くなった息が規則的に通過しては、その都度脣を軽くたゆませた。

眼の下を微妙に歪ませて、相変わらず名雪に乗っかったまま甘える美汐を捉えて、瞳を潤ませた。

「なあ、真琴。どうして、お前、秋子さんのことを知っているんだ?」
答えが返ってくる由もない。
まさか本当に今の美汐には真琴が取り憑いているというのか…?

その魅惑的な艫綱を俺は掴もうとして手を伸ばそうとするが、寸でのところで躊躇わずにはいられなかった。
垂れ下がった艫綱の先にまとわりつく荒荒しい攻撃的な翳を、俺は恐れた。

その先には、恐らく、いや間違いなくあの娘達がいるのだろう…。
あゆに真琴、かつての美汐に…そして………。

今の俺にはそこに向かうだけの勇気を持ち合わせてはいなかった。
世界が憂鬱の色を帯びていって、垂れ下がった艫綱が急速に引き上げられていくのを、俺は感じ取っていた。

[第四話へ]