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「どういうことよ!」
吐き捨てるように一人ごちて、香里はポストに投函された消印のないハガキを手にして走っていた。
向かう先はハガキに記された場所である。

「ものみの丘」
聞き覚えのない地名の隣には、ご丁寧にも手書きと分かる下手糞な地図が描かれていた。

肩で息をしながらも山道を駆けあがっていくと、唐突に展けた視界を占領する一色の景色に息を呑んだ。

こんなところがあるなんて……!
景色の壮大さに感動を覚えつつも、少なからぬ不安と焦燥が募る。
そこには何故か雪が降った形跡が見らなかった。
それどころか地面は青々とした丈の低い草に敷き詰められていて、桃源郷にでも迷いこんだ面持ちになる。

そうだ……相沢君は!?
本来の目的を思いだし、弾かれたように祐一を探し出す。
障害物となるべきものが存在しない広野に、彼らの姿を見つけるのはたやすかった。

「相沢君!!」
力の限り声を振り絞り祐一を仰ぎ見る。

「ねえ!? 一体どういうつもり?!
このハガキに書いてあることって」

「ああ……香里か。書いてある通りそのままだよ

今から結婚式を行うんだ」

そう聴いてから香里はようやく祐一の前にあるそれに気がついた。

そこにあったものは、
半纏を纏ったヌイグルミ
          (見たことがある…確か名雪の…)
カエル柄のパジャマ
        (あれも前に名雪が買っていたもの…?)
コートに羽のような飾り
          (これは…見たことがない…)
そして母校の制服に、深緑色のスカーフ
                 (栞と同じ学年の…)
その制服の上にはネコのヌイグルミがちょこんと鎮座している。

これらの物が規則良く二列に並べられていた。
そこで香里は理解した。
これは物言わぬ参列者達……今から行われる結婚式の…

「みんなもう待っているんだ、
……ああ、そうか。栞も連れてきてくれたのか」

香里はびくんと躯を強張らせる。
栞と自分とが姉妹であることを、祐一が知っていることに驚いたこともあったが、
それ以上に、本当に栞の霊が自分の背後に憑いているのではないかという恐怖に駆られたからだった。

「何を言ってるの……?
相沢君、栞はもういないわ。だって私が殺したんだもの…!」

「それに…それに…。
分かってるの!? 貴方がこれから何をしようとしているのか!
貴方は、貴方は…」
「ああ分かっているよ香里。
前にこう言ったな。『まだ続けるの?』と。
それならもう終りにしたよ。そのハガキにもしっかりと書いてあるだろう?」

「嘘よ!
嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ!!
言ってやるわ! 貴方がやっていることはただの代償行為にすぎないわ!
そんなことをしても名雪は貴方の手には帰ってこないのよ!
貴方が今から結婚する人物は、名雪じゃない!
その目で見なさいよ! 貴方の隣にいるのは……秋子さんじゃない!」


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交通事故と称される運命の気まぐれで、名雪が祐一の手から永遠に失われたとき、不運にも祐一は全ての記憶を取り戻してしまった。
真琴との別離から日も浅く、ましてあゆを失ったこと、名雪への取り戻しのつかぬ仕打ちを思い出した祐一が、独力でそれに耐える事は、やはり敵わなかった。

そしてそれは必然と呼ぶべき流れだったかもしれぬ。
祐一は秋子を求め、
秋子もまた祐一を欲した。
しかし、祐一のそれは、秋子に名雪の影を重ね合わせたものであり、それを秋子が承知の上であったことが悲劇に拍車をかけた。

二人が果てて目覚めると、そこには秋子はいなかった。
いたのは、本来の記憶を失って、名雪としての人格を受け継いだ秋子だったのである。

それはまるで、名雪が秋子に憑依したかのような甘い幻想を祐一に抱かせたが、それに反発する葛藤は常に存在し、変わり果てた美汐の姿に己の答えを見出そうとした。

とはいえ、表面上は名雪としての穏やかな生活は続き、それを知る祐一と香里もまたそれに合わせたのである。


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香里は意識の混沌の中で、もがき抗うように叫んでいた。
しかし、確かにハガキには手書きでこう記されていたのである。

新郎 相沢祐一
新婦 水瀬秋子 と……。

「なあ、香里。お前なら祝福してくれると思っていたんだよ。
だから招待したんだ。
それなのに、何故…?」

祐一は美汐の看護婦と、かつて話した会話の内容を思い浮かべていた。

「もしかして結婚の予定とかあるんですか…?」
「結婚しない理由は、そういうことじゃないんですよ。
何と言ったらいいかな……出来ないというか…」
「出来ないって…」

そう出来ないのだ。
祐一と秋子とは三親等の関係にあり、法的に籍を入れることは出来ないのである…!

だから…。

「お前にだけは祝福して欲しかったんだ…。
最良の友人に…。
みんないなくなってしまったんだ…」

「嫌よ! そんなの嫌よ!
貴方はやっぱり、秋子さんに名雪の姿を見出しているだけだわ!」
香里は駄々をこねる子供のように、躯を顫わせよじりながら、すっかりバサバサになった髪を気に留める様子もなく喚きたてる。

「違う! 俺は秋子さんが好きだよ!
美汐を失ってようやくそんな単純なことに気付いたんだよ!」

香里は奇妙な困惑を覚えて、思い出すように秋子のほうへと視線を移す。
香里へと圧し掛かっていた巨大な体躯を持った何かが、ふいに消え去ったかのように思えた。

秋子は飾り気のない純白のウェディングドレスを纏い、物憂げな表情で香里を見返した。

美しかった。
涙が出るくらいに……それは……。

背後に広がる淡い藍色をまぶしたような蒼穹に、その白い装束はあまりにも映えていた。
写実的な絵が一瞬にして、抽象的な絵にすりかわってしまったような……

それは、「白」への顛落(てんらく)だった。

秋子の髪型はかつての、香里が知る秋子としての彼女だった頃の、三つ編みになっていた。
香里の視線に気付いたのか、祐一は
「……これ、俺が昨日編んだんだよ。わりと上手く編めてるだろ?
やっぱり俺にとっての秋子さんは、この髪型のイメージだからな」

香里は脅えるように戸惑いの色を剥き出しにして……秋子に救いを求めるかのように……秋子と視線を合わせる。

秋子は短く息を吐くと、全身を両腕で抱えるようにして語り始めた。
「香里ちゃん……久しぶりですね…。中学の時の名雪の誕生会以来かしら…?」
「……あ、秋子さぁ…ん……」
「泣かないでください、私は今とても嬉しいんですよ。
好きな人が隣にいて…。
こんなオバサンでもいいって言ってくれて…

私も祐一さんが……」

香里は秋子の言葉を遮るように叫んだ。
ここでこの言葉を言うことが、彼女の最後の抵抗に思えた。

「秋子さん……!
その言葉は、まだ取っておいて…
これから結婚式をするんでしょ…?
それなら誓いのキスまで取っておかなきゃ……ダ…メ、だよ…」

香里は祐一の言葉、栞のことを理解した。
きっと祐一はいつからかは分からぬが、自分と栞とが姉妹であることを直感的に悟ったのであろう。
そして、栞がこの世にいないことも、また……。

「ねえ…相沢君。
私、栞にはとても悪いお姉さんだった。
あの子が孤独を求めている、なんて勝手に自分に言い聞かせて…納得して……。
あの子を見殺しにしたのよ……!

だからお願い、せめて貴方達にだけは「良き友人」でいさせて頂戴…」

香里は喘ぐように嗚咽を撒き散らし、その場に崩れ落ちた。

「祝福してくれてありがとう、香里…。
俺達は籍を入れることはできないけど、こうやって祝福してくれる人がいるから……」

刹那、ぽとりと落ちた水滴によって生じた波紋が、さっと水面を駆けていくような……そんなざわめきが、ものみの丘に伝播した。
微弱な薄い日の翳が、夥しい静謐な風を従えて降臨する。

香里はその間、行われていく儀式を前に佇みつくしていた。
白いウェディングドレスが残像を、香里の網膜に鮮烈に焼き付ける。
香里が認識できたのは、その光景の一面に過ぎなかったが、反面穿ったものだった。

「白」と称される虚無への移行。

お色直しと言う言葉は、今でこそ結婚式でのアトラクションの一つにくらいしか思われていないが、本来は結婚後、三日目に新夫婦の衣服や室内の装飾を、白から色のあるものに改めることを言う。

「白」は神道や冠婚葬祭等で多用される通り、「神の側」を指し、
「色」は仏教用語で現世を「色界」と言うことや、「色っぽい」「色を好む」等といった言葉からも分かるとおり、「人の側」を濃く指している。

つまり色直しというのは、「神の側」から「人の側」への転移のための儀式であり、「神の側」でい続けることは禁忌とされていた。
「神の側」である処女を初夜に紅で染め、「人の側」へ貶めることもまた、重要な意味を持っていた。

しかし目前で行われている光景は、まさしくそれを逆行した「人の側」から「神の側」への許されざる神格化だった。

以前、儀式は続く。



『白い翳は踊り、』
        (…蠢動する憧憬)

『彼らは互いに祝誓を紡ぎ、』
             (…欺瞞に充ちた黙約)

『白のヴェールが緩やかに揺れる』
               (気侭に訪れし荊冠)





………出現する。否、それは元から存在する………

……雑音(ノイズ)だらけの楽園(アスガルド)……





香里は子供のころ、疑問に思っていたことがあった。
両親に買い与えられた様様な図鑑は、香里の幼い好奇心を刺激したが、その中でもとびきりお気に入りの、強烈に惹きつけてやまない疑問が生まれた。

『宇宙はビッグバンという大爆発によってつくられました』
『その前には何もありませんでした』

では「無」というものは果たしてどんな色をしているのだろうか?
色を持つという発想自体が「有」であり矛盾するのだが、仮に観測し得たとすれば、どんな色をしているのだろうか。
大方の者は「白」と「黒」の二択を挙げるに違いあるまい。
香里は根拠はなかったが、「白」だろうと何となくあたりをつけていた。

黒の無の宇宙に、何かが存在するという、発想が誕生したとしても(このことも論理の堂々巡りになるのだが)、圧倒的な黒はそれを飲みこんでしまうのではないか。

しかし「白」は何かが現れた時点で、それは限りなく「白」に近い色であっても純粋な「白」ではなくなってしまう。
だからこそ、「白」は「白」ではありえなくなって、崩壊し、宇宙が出現したのではないか。

そんな幼稚で矛盾だらけの発想だったが、それは香里を昂揚させ、どうやったらそれを論理的に証明できるか、その試みに没頭したものだった。

不意に香里は抗いがたい眠気に襲われた。
茫洋と輪郭を失っていく意識の中で、香里は悟っていた。

たぶん式が終れば二人は消えてしまう。
それは文字通りの消失だ。
   (…イナクナルノダ)
そして自分は次の瞬間から、二人のことなど忘れてしまい、普通の生活へと疑いもせずに帰っていくのだ。

ひどく眠い。
朦朧と視界がぼやけていく中で…。
二人が唇を重ねるのを見届けて…………。














そして…
   

    …世界は…



 ……「白」の中へと……
             


  ……失墜した……

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