迷いも苦痛もない場所なんてないと思う、きっと。だからこそ、人は少しでもそういうものを和らげたり共有できたりする他者と、心や体を付き合わせる。そうしてやっとのことで、何とか生きている。

 わたしは行きたかった。コルルのいる世界に。二度と断絶の起こらない、別れの訪れないところに。それが、わたしのいるべき世界だと思ったから。

 でも、目覚めてみるとそこは現実の世界のどこかの医務室で。痛みと涙を抱えながら、横たわっていた。私の精神は今でも、肉体に捉われているのだ。とても、悔しかった。

 

 

3 ぼくは、ここにいる

 今いる場所を見定めようと、わたしは小さく首を動かす。どうやら病院ではないらしい、保健室……にしては、活気が無さ過ぎる。時計を確認したけど、今は12時30分。どの学校であれ、生徒のたむろする時間だ。となると残る可能性は……。

「気が付いたかい?」

 聞き覚えのある声だった。倒れる前にわたしを介抱しようとしてくれた人だ。視界には白衣を身に纏い、右手に観察用らしきカルテを持った女性が見える。そばかすの似合う、チャーミングな大人の女性だった。医務員だろうか。それにしては、随分と日に焼けているようだった。となると、外での作業が多い研究員? どちらにしても情報が余りに少なく、判断は付かない。事態を見極めるには、女性の言葉を待たなければならないだろう。

 肯き視線を寄せると、女性は言葉を続ける。

「急に意識を失うものだから、びっくりしたよ。酷い熱が出てるし、肩に大きな傷がある。膿んでないとはいえ、まだ微かに出血も見られる。余り出歩くには宜しくない格好をしているし、どう扱おうか随分迷った」

 女性の顔は険しさの中にも労りがあり、本気で容態を気遣ってくれているのが分かる。それにしては病院に運ばなかったのが解せないのだけど、指摘して藪を突付くのは避けたかった。わたしは黙って頭を下げる。

「すいません、ご迷惑をおかけしました」

 これで見逃して貰えるとは思っていないけど、印象を尖らせないのは有用なことだと思う。打算的に行動している自分に一抹の嫌悪を感じながら、黙って女性に視線を移す。わたしの所作を見知らぬ人間への恐怖と取ったのか、女性は言い聞かせるようなゆっくりとした語り口を取った。

「あたしは木山つくしって言うんだ。ここの職員……って、貴方、今いる場所がどこか分かる?」

 わたしは黙って首を横に振る。

「ここは町立植物園で、この場所は備え付けの医務室。で、さっきもいったけどあたしはここで働いている職員ってわけ」

 成程、自宅から数百メートルと離れていないところだ。と言っても小学校の遠足以来、植物園には一度も足を運んでないから、職員の判別がつかなくても不思議はない。たまたますれ違ったことならあるかもしれないが、わたしは通行人に注意して歩くほど几帳面な性格ではないから、見逃していたに違いなかった。

「あたしはここで、主に植物園の管理と案内をやってるんだ。元々、医務関係にはノータッチなんだけど……今は席を外して貰ってる。何というか……二人きりで話したいことがあるんだ」

 話したいこと、というのはわたしの素性だろうか。仕方がないことだと分かってはいるけど、肩が僅かに震えるのを抑えることはできなかった。不信がられただろうか。顔色を伺うと、木山さんの表情は諭しつける大人とは別な、真面目の色をしていた。彼女はいきなり、確信をついた。

「答えたくなければ、言わなくても良いが。君も、特別な力を持つ子供に関わったことがあるのかい?」

 特別な力を持つ子供!

 それは実際に本を持ち、彼女らの力を垣間見なければ口にされない単語だ。わたしは警戒の色を強める。最悪、彼女は邪な意志を持つ魔物の子を携えている人間かもしれないのだ。わたしは精一杯の虚勢を張り、彼女を睨みつけた。

「何故、そんなことを聞くんですか?」

 できるだけ冷静に、相手に気取らせないようにしなければ。そう思ったのだが、わたしの言葉には強い棘が入ってしまい、結果的に相手の感情を荒々しく撫でてしまった。何が目的なのだろう。戸惑いを帯び始めた心に、木山さんがそっと足を踏み入れてくる。それは、少しばかりの驚きを秘めた告白だった。

「それは、子供の一人があたしの友達だからさ」友達……本の持ち主ではないにしても、強く関わりあう立場にいるらしい。わたしは注意を惹きつけられ、今までよりも強く彼女の話に耳を傾けた。「詳しくは教えて貰えなかったんだが、彼らは本を媒介として強い力を発揮するみたいだね。そして、本を焼かれた魔物は唐突に『消えて』しまう。実際、この目で見なければ信じなかっただろうけど、現に彼らは存在して、今もどこかで戦いを繰り広げている。あたしは、知っているんだよ」

 木山さんの口調はどことなく誇らしげで、その子供が彼女に良い影響を与えているのが見て取れる。ならば、彼か彼女か分からない魔物の子供は、コルルと同じように良い魔物なのだろうか。

「君は、寝言で『コルル』という名前を一心に呟いていた。そして、消えないでとも。どう考えてもコルルというのは日本人の名前じゃないし、君ほどの年齢の女性が意識的にしろ無意識的にしろ、人間に対して『消える』という表現は使わないだろう。それで、何となくピンときたんだ。コルルという存在は比喩なしにして、本当に消えたんじゃないかって。あたしが、力を持つ子供について、君に質問したのはそのためだよ」

 そんなことを口走っていたのか……ならば、検討をつけられて当然だろう。事実、意識を失う前に似たような言葉を口走った記憶がおぼろげながら残っている。木山さんはそのために、わたしを病院に連れて行かなかったのだ。今ほどの怪我であれば、必ず事情を聞かれる。彼女は事情から慮られる限りにおいて、最善を尽くした。その最善はわたしの体と、何よりも心を気遣ってくれている。

 これまでの言動を鑑みるに、彼女は信頼できる女性のようだった。それでも、わたしの中からは迷いが消えない。優しいことは、逆に戦いの大きな枷になりうる。コルルのように優しく、戦うことを退けるものにとって、魔物同士の戦いは酷い仕打ちなのだ。彼や彼女を守るためなら、何をしたって構わないと思う人間は絶対に出てくる。わたしのような思いやりのない人間ですらそうしたのだ。懐の大きな優しさを見せる彼女が、そうでないという保証はどこにもない。

 確かめなければならないと、思った。

「もし、そんな存在がいるとして、その子供が貴女の友達だったとします」それは半ば魔物の子の存在を認める発言だったが、構わなかった。大切なのはただ、本心だけだ。「その子供は今、何を思って戦っているんですか?」

「そうだね……」木山さんは少し考え込み、そしてぽつりぽつりと言葉を吐き出す。「何といってもまだ、子供だ。それをもってこれからの彼、将来の彼を計ることはとても難しい。だが、今の彼はとても真っ直ぐに己を貫く術を知っている。そのためなら、どんな厳しい戦いも辞さないと、覚悟を決めているよ。彼のパートナーもまた、意を同じくして戦いに臨んでいる。未熟かもしれないが、強い子たちだ」

 パートナーという言葉が、強くわたしの心を打つ。もし、わたしがもっと強ければ。いつか別れなければいけない運命だったとしても、ましなやり方だってあったかもしれない。わたしの知らない彼らは、そういう生き方や戦い方をしている。

 その事実は、わたしの中にあった壁の最も頑なな何かにひびを入れようとしていた。

 もし、木山さんのいう彼らがわたしとコルルだったとして、彼女はこうも誇らしく語ってくれなかっただろう。同情すべき、悲しまれるべき存在としてしか思ってくれなかっただろう。

 わたしは、コルルのことを可愛い子猫くらいにしか考えていなかったのだ。覚悟もなく、一人の女の子を気軽に抱え込んでしまい、今もこうしてめそめそ泣いていることしかできないのだ。わたしは彼らに負けている。既にコルルがいないということを除いてさえ、わたしは何一つ彼らに勝れていない。

 強くなりたい。

 わたしは、強く在りたい。

 どんなに辛いことがあっても、あの娘のように最後まで強く気高くありたい。

 なのに。

 どうして、今のわたしはこんなに弱いのだろう。

 世を拗ね、親に拗ね、無様に逃げ曝して。

 分かっているのに、わたしは弱いことを止められない。

「……君は、辛い目にあったんだな」

 頬を濡らし、喉をしゃくりあげているわたしに向かい、木山さんはそう声をかける。

「違う、わたしは辛いから泣いているんじゃないんです」そう思われるのが嫌で、わたしは言葉を強くする。「悲しいけど、それ以上に悔しいんです。とても、悔しくて……わたしは精々、肩に傷がついたくらいの辛さしか味わっていない。別離の悲しみを耐えて、それでも最後まで笑っていられるような、そんな辛さ、感じてなんかいないんです」

 肩が震え、痛みが全身に走る。殆ど見知らぬ女性の前だというのに、わたしは全身をおこらせてまで情けなく泣きはらしていた。思い出や痛み、そして苦しみの記憶が胸の中をぐるぐると駆け巡り、収まらない。こんなに強い感情を、自分が持ってるなんて、思わなかった。それくらいの、激情だったのだ。

 木山さんはそんなわたしの肩に手を置き、黙って見守ってくれている。その柔らかそうな唇が、温かく心に染み入る言葉を紡いだ。

「そっか……成程ね。君が魔物の子供のパートナーになれた理由が分かった気がするよ」

 わたしが……コルルのパートナーになれた理由?

「君は、とても優しい。自分の良さが分からなくなるくらいに、盲目的な心の強さを持ってる。そして、他の人間なら感じられないようなものに泣き、受け入れてあげられるんだ」

「わたしは、そんなに良い者じゃないです。それは、わたしが一番良く分かってる」

「それでも。あたしはそう信じるよ」

 信じる。そう言って、彼女はきらきらと輝くような瞳でわたしを見つめた。

 木山さんは、わたしの言葉を求めている。こんなみっともない姿を見せて、それでも包み隠さないわたしの物語が魅力的であると信じてくれている。コルルの物語を、聞きたいと思ってくれているのだ。

 わたしは涙を拭い、嗚咽を抑えた。

 弱さを一時的に心の奥底に封じ、挫けそうな自分を必死に支え、彼女に尋ねる。

「とても、長い話になりますけど……良いですか?」

 木山さんは微笑し、無言で肯いた。

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