−3−

 誰も、一言も、声さえ出すことができなかった。それほど、麻見静子の一言は場にいる皆に絶大な影響力をもたらした。

「ちょ、ちょっと――それ、流石に笑えない冗談よ――ねえ、みんな?」

 重圧にも似た空気が圧し掛かる六畳一間の空間。広瀬真希は、それが冗談でないことを承知で敢えて明るくそう言ってみせる。そう言わないと――日常が全て狂気の中に埋没してしまいそうで、恐かった。しかし、麻見静子の煌々と輝く復讐者の目は一欠片の曲解も許さなかった。

「真希は私が――こんな時に冗談を言う人間だと思ってるの? 私は最初から正気なの――ねえお願いよぉ、あの最低な女を痛い目に合わす手伝いをしてよぉ」

 静子が、真希の服の袖を掴み強く振り回す。正気だと言っているが、真希には目の前で撹乱する少女が正気だとはどうしても思えない。静子は不当な不都合を被ってさえ、他人のことを恨むようなことは決してしない人間だった。それが――同じクラスの女子生徒に復讐する手伝いをしろという。尋常ではなかった。しかし、それ以上に真希には、静子の心をここまで暗く染め上げた原因がどうしてもわからなかった。

「静子、ねえ――何があったの? わたしと別れてから、静子に何があったの?」

 真希は、袖を揺さぶる手を止め静子の弱々しく震える手を強く握り締めた。こうすることで少しでも落ち着かせたかった。しかし、静子は我が意を得たりとばかりに口の動きを滑らかにした。狂熱と悪意をいや増しにして、真希たちにまるで無念を伝えようとするかのように雑言を紡いだ。

「私――やっぱり昨日のことは間違えだと思ったの。それに、もしかしたら私の接し方も悪かったんじゃないかと思ったから、昼休みの時間に彼の携帯電話に電話を入れて――電話したの。そしたら、すぐに繋がって――嬉しかった。だって、もしかしたら出てくれないかもしれないと思ったから。それなのに、何で女が出るのよおぉっ!」

 切々と語っていた静子の口調が唐突に激し、真希は思わず肩を震わせた。目を大きく見開き、息を荒げている彼女は、まるで鬼女のようだった。いつもの穏やかで、決して諸手を上げて可愛らしいとは言えないけど、栗鼠みたいに忙しなく幼げな少女。その現実が、簡単に崩れてしまっている。真希は思わず息を飲む暇さえも与えられず、静子の発する声を聴神経で受け止め続けていた。

「誰よ貴女って尋ねたら電話の向こう側で女が言ったの。無様ね貴女弄ばれたのに気付かないで電話かけてくるなんて折り紙付きの阿呆じゃないのあはははははははははははははは――いつまでも笑い続けて、私のことを馬鹿にしてぇっ!」

 何かに憑りつかれたかのように、布団に何度も両手を叩きつける静子。歯を軋らせ、狂哭に迷う彼女の姿に、真希は最早、思考さえも働かなかった。周りを――自分の側にいる筈の友人たちの姿を確認することさえままならない。そんな中でただ一人、恭崎鈴華だけが狂気すらも冷徹に射抜いていた。鈴華は咆哮にも似た声にも負けない、透徹な理知の込められた声音で静子の心を捉える。

「ちょっと待て――女と言ったが、その声は本当に七瀬、留美のものだったのか?」

「知らないわよっ、そんなの。でも、あそこまで私を愚弄する人間なんて他に考えられないじゃない。あの女に――七瀬留美に決まってる」

 鈴華は全てを明らかにしたいだけだったのだろうが、それは結果として静子の精神状態をより浮き彫りにさせる効果しかなかった。より鮮明になったそれは、真希にとって絶望でしかない。どのような説得も論理も哲理も、今のまともな思考状態を喪失した静子の前では無力だった。

 冷静さを失い、痛々しい程に暴れまくし立てる親しい人。二度と直面したくない事態に、真希は正面から相対していた。居なくなりたい――こんな狂った場所からなんて、すぐにでも居なくなってしまいたい。恐い、恐いよ――。

 しかし、心の底で友人を見捨てられないという細い糸のような義侠心が、真希の理性を辛うじて正気のバロメータに保っていた。目を背けてはいけないと、背中をつつくような感触が真希のこめかみを盛んに刺激する。本当に狂ってしまいたいほど辛い時、一人だとそれは現実になってしまう。純粋理性の亢進、突発的理性の暴発――心が自分のままならない、広瀬真希はこの中にいる誰よりもその辛さと恐さを知っていた。

 そして、時には真実ではなく嘘をもって、そういう人たちは救われるのだということも――その役目は今、自分にあるということも知っていた。

 だから、真希は嘘を吐いた。故意に一人の人間を傷つけると知りながら、それでも友人の為に欺瞞と悪意に満ちた嘘を――吐いた。

「分かった、静子――わたしが、やってあげる」

 真希の言葉に、今まで荒れていた静子の動きがピタリと止まる。

「わたしが、七瀬留美に復讐してあげる。それで――良いんでしょ。静子は、それで気が済むんでしょ。だったら――わたしが手伝うわ。わたしは、静子の味方でいてあげる」

 多分、こんなことはまともな人間のやることじゃない。でも、真希は自分のかつて置かれていた状況と照らし合わせて、そう励ましてあげることしかできなかった。確かに、転校してきたばかりの女性を傷つけるのも憚られるが、無二の友人の一人と天秤にかけてしまえば感情は驚くほど簡単にそちらへと傾いた。それに、真希自身も七瀬留美のことが余り好きではない。正直言って、嫌っていると言っても良いし、特に平気で他人に擦り寄れる八方美人な性格が苦手だった。

 少しでもこれから起こすであろう行為を正当化するため、真希は留美を嫌うための理由を打算的に捻出しては自分の心に補強していった。それが一定量に達した後、真希は改めて麻見静子の頼るような視線を受け止める。その仕草が、真希の心を歪んだ形のままでしっかりと固めてしまった。こうなると、他人にも容易に覆しがたい。真希自身も自覚していることだが、心に塗りこんだ補強剤が多ければ多いほど、強ければ強いほど思考は無神経で無痛覚になれる。今までそうやって生きてきたように、真希はその心理的作業をより余念なく実行した。

「真希ぃ、ありがと――私のこんな我侭、聞いてくれて」

 静子は今までの悪感情剥き出しの口調から一転、心底感謝するかのような口ぶりで真希に縋りついた。端から見ればそれは、病気で寝込んでいるところに見舞いに来てくれた友人を抱擁する微笑ましい場面に見える。しかし、この中にいる誰もが友人を抱擁している人間が強烈な復讐者であることを知っている。そして、黙って抱かれている女性が壮絶な覚悟でその手助けを約束したことも。

 真希は震えそうになる膝を、挫けそうな心に逆らい必死に保った。そして、あまり長居しては母親を心配させると抱擁を解き、立ち上がって静子を心配させないくらいの速度で背を向けた。本当は、この場から全速力で走って逃げたかったが――静子の気持ちを考えると、真希にはそれができなかった。感受性が驚くほど過敏になっている静子には、それを逃げられたと捉えてしまうだろう。そうすれば、先程の決意も全くの無駄になってしまう。それは避けねばならなかった。

「それじゃあ静子、また明日来るから。それと――このことは誰にも喋っちゃ駄目よ」

 今の静子なら母親に、友達が復讐を手伝ってくれると約束したんだよと――嬉々として話しそうだったので、真希はさよならの挨拶と共にそう言い添えた。僅かに振り向いた体は外界を切望している。周りからは、痛いほどの視線が寄せられている。だが、真希にしてもこの場で何もかもを説明するわけには行かず、黙殺するしかなかった。

 真希たちが階段を下りようとすると、静子の母親が盆に麦茶とお菓子の盛り合わせを乗せ、振舞おうと行き違いに二階の階段に足をかけていた。静子の母親は、真希たちの帰還を随分と早いものに感じたらしい。努めて明るい声で、もう少しここに留まるよう説得してきた。

「いえ――今は話をするのも億劫だと言ってたし、これで帰ります」

「そお? 折角、お菓子もお茶も用意したのに」

 その心遣いを無にしたことに、真希は丁重に頭を下げる。他の者は放心していたり思案していたりでまともに礼儀を返すことなどできそうにない状態だった。静子の母親は尚も皆を留めたが、真希はゆっくりお菓子やお茶をあの狂気溢れる部屋で相伴したいとは微塵も思わなかった。もう一度、丁寧に断りの返事を入れ、なるべく平静に麻見家を後にする。少しでも早足で退出したことを静子の母親に話されたら、静子が疎まれていると邪推してしまうのを防ぎたかった。

 そんなに繊細に物事を考えられるなら、何故その半面で簡単に人を傷付けてしまおうと思えるのだろう。決意をもって歩き出してからも、真希にはそれだけ分からなかった。慈悲と酷薄と――どちらが本当の属性なのかと考えて、止めた。それはどちらも自分を形容するに相応しくない。

 日本の路地としては極めて標準的な、アスファルトのところどころ剥がれかかった道路を意識して踏みしめる。真希を僅かにとおまく形で、恭崎鈴華も三森節子も夕霧直美も――広瀬真希のことを、まるで手のつけられない狂人に相対するかのような、不信感を込めて凝視している。盛んに品定めをされていることが、真希にははっきり分かった。

 別に、真希は自分が狂人や精神異常者と間違えられても構わなかったが、自由を奪われるようなことだけは避けたいと思っている。しかし幸いなことに、真希のことをそうだと考えている者は一人もいなかった。誰もが真希のしたことを理解していながら、その渦巻く思いはまるで異なっていた。最初に口を開いたのは、実生活でもお喋りな三森節子だった。

「真希、あんなこと言って――本気でやるつもりなの? そりゃ、私だって七瀬さんのことは気に食わないわよぉ。でも――それにしたって、復讐なんてやばいわよぉ、本当にやって良いの?」

 復讐なんて、やってはいけない。人は、傷つけてはいけない。節子の倫理観は、小学校の頃から大人達が繰り返し教えてきた――ある意味では最も正しい価値観に基づいている。真希は、節子が何事にも正しくないことには強い拒否感を示すことを知っている。だから、真希は自分が決意したことを改めて間違っているのだなと思いながら、何も言わなかった。

「私は、別に――構わないかな? 真希がどうしてもって言うんならやる。良心が疼かないって言ったら嘘だけどさぁ、愛しい友人とクラスメートなだけの他人じゃ、天秤にかけるまでもないし」

 対して、夕霧直美の言い分にはアモラル――超越道徳的なものが混じっている。彼女にとって――ある意味では残酷な考え方かもしれないが、大事なものとそうでないものには明確な線引きがされている。そして、大事なものを守るためならそうでないものを、笑いながら切り捨てても良いと簡単に言える。だから、真希は直美は恐らく自分の意見に賛同してくれると思っていた。

「僕は、断固として反対。真実から目を逸らさせて、誤魔化したってどうしようもない。静子にはどんな辛いものであっても現実を受け止めさせ、その上で彼女自身に判断すべきだ。僕たちは余り直接、鑑賞すべきではない。まして、何の罪もない他人を鬱憤の捌け口にするなんて宜しくない。駄目とは言わないが、戦略的概念の観点から見て有用ではないよ」

 最後に、この中では最もずば抜けて理性的な鈴華が真っ向から反論した。しかし、それは決して相手を思いやってのことではない。ただ、事実と違うことを真実と認識することが、鈴華の美意識と照らし合わせて認められないというだけのことだ。真希は、他の皆がもし協力してくれたとしても、鈴華だけは協力しないと確信していたので驚くことはない。

 三人の意見を無言で受け取った後、真希はまるでその言葉を聞かなかったように言った。

「わたしは、誰にも手伝えなんて言わない。嫌なら傍観してても良いし、一層のこと教師に話したって構わない。でもね、皆で反対しても決して自分の心は曲げたりしないし、わたしは一人でだってやるから。それだけは覚えといて」

 暗に、教師に告げ口するのは卑怯だと言いたげな口調だが、真希は一欠片もそのようなことは考えていない。純粋に、手伝ってくれようが、傍観していようが、邪魔しようが、自分の意見は曲げないと言ったに過ぎない。でも――最後に、言い訳めいたことを言わずにはいられなかった。

「ごめんね、わたしの変な我侭に――最低の我侭に巻き込んじゃってさ。本当に――ごめん」

 真希が仲間だと信じている者への謝罪の言葉。それが、自分の内に潜む良心から紡がれたのか、それとも単なる偽善なのか、真希には分からなかった。或いは、もしかしたら弱々しい言葉を紡ぐことで、相手の同情を求めようとしたのかもしれない。真希の思考は明らかに、複数の人格が坩堝になり溶け合い、激しい混乱を来たしていた。

 混乱している自分を見せたくなくて――混乱しているくらいなら何故、復讐なんてことをあんなにはっきり断言できるのだと詰られることが恐くて――真希は友人達から逃げるようにして後ずさり、素早く背を向けた。

「じゃあ――わたし――帰るから」

 真希は最初こそ、自分を精一杯自制し、ゆっくり歩いていた。それが、皆の姿が遠ざかるに従って徐々に早足となる。そして、その姿が見えなくなってから真希は全速力で走った。もしかして、かけられるであろう声が絶対、聞こえない場所まで逃げるために。追いかけて来た誰かが、絶対に発見できないような場所まで到達するために。

 本当なら、自宅のマンションまで全力で走って帰りたかったが、帰宅部で基礎体力の貧弱な真希にはそれも叶わなかった。辛うじて、燃えるゴミの散らかるような細く薄汚れた道に倒れこみ、両手を地面に付いて必死で息を整えた。据えたゴミの臭いも、日も当たらず恒常的に淀んだ空気も、野良猫が争うような泣き声をあげていることも、今の真希には関係なかった。

 ようやく走れるくらいになると、真希はまるで戦に破れ身も心も疲れ果てた敗残兵のように自宅の玄関口へと転がり込んだ。そして、震える手で無我夢中に鍵を掛け、廊下に倒れ伏す。明らかに限界を超える膂力で駆けたせいか、体が自由にすら動かない。灼けつき、今にも火を噴いて壊れてしまうのではないかとすら思った。

 落ち着け、落ち着けと真希は自分に言い聞かせる。こんなことで動揺していてどうする? これからやることは、生半可な度胸と覚悟ではできない――冷徹になれ、自分を殺せ。わたしのやることは、無二の友人の一人の心を助けることだ――やり方は徹底的に間違っているが、心が壊れるような経験もしたことのない人間に、どうしてわたしが責められるだろう――。

 けど、どれだけ言い聞かせても激しくそれを拒絶する自分がいる。誰かの心が救われても、それで誰かの心が傷ついてしまうならば何も変わらないのでは――。第一、それはやっちゃいけないことだ。人をそんな些細な理由で傷つけるなんて、誰も喜ばない――静子以外は。

 それを見下ろすように絶対的な高みにいるもう一人の自分が、そっと心の奥底に囁く。それなら、別に放っとけば良いじゃないか。何もしない、そうすれば少なくとも自分だけは傷つかない。敢えて、不都合なことに首を突っ込むべきじゃない――。

「いやあっ! それだけは嫌よっ!」

 自分の考えなのに、まるで他人の意見のような錯覚に陥り、真希は思わず叫び上げた。頭の中で好き勝手に、色々な思考が一挙に浮かぶ所為で、時々頭が混乱することがある。しかも、そのどれもが本当の自分の考えではないように思えてしまう。

 でも――だとしたら、本当の自分は何を考えてるのだろう。復讐? 自制? 傍観? そのどれもが間違っているのなら、本当のわたしはそれら全てを質せる答えを導き出せる? 真希は必死で考えたが、どう頑張っても何も浮かんで来なかった。

 どれくらいの時間、廊下に倒れたまま考え事をしていたか、最早真希にはそれすらも分からない。一つだけ空白にも近い心理状況で思ったのは、寒いということだけだった。この、全身から這い出る寒気を何とかしなければ、何もできそうになかった。

 鈍い体を辛うじて持ち上げ、真希は酩酊状態の賃金労働者のようにふらふらと自室に戻った。エアコンのスイッチを入れ、風量を最大限にまで強める。制服を着替え、厚手のセータにジーンズを穿き、毛布に身を包まるとギリギリのところで寒気だけは抑えられた。体機能が壊れていることを真希は自覚できたが、どうしようもできなかった。現在、置かれている状況と全く同じだった。

 無様だ、と思った。思考も鈍い、考えに詰まるとそれでも迫ってくる現実が恐くて部屋の隅でガタガタ震えている。何も成長していない、ただ他人のように心に語らせ、いざとなったらそれは本当の自分でないと逃げる。そんなずるいことばかり、上手くなった自分に嫌気がさす。

 嫌気がさしても、真希には震えと恐怖を抑えることができない。そんな自分が哀れで情けなくて、真希は声も立てず泣いた。

 

 無音の世界。目を開けても、全く代わり映えのない闇の世界を見ることができる。何時の間にか夜になったようだと、広瀬真希は無感覚にそう理解した。意識を失っていたのか、眠っていたのかは分からないが、頭の中がぼうっとした。相変わらず、少し寒気がしたが耐えられないほどではなかった。そして、それ以上に生理現象が次の行動を促した。悩み尽くして胸が一杯の真希のお腹は、一定の間隔をおいて虫を鳴らしている。現金なものだと、真希は自嘲的に断定した。

 ただ、ご飯を作るのが面倒だったから残り物かレトルトで済ますことにした。決意し、ゆっくり立ち上がったところに、それを遮るかのような電話のコール音。一番、可能性が高いのは父である希春の帰れないコールなのだが、受話器の向こうから聞こえてきた声はいつもの元気が全くない三森節子のものだった。

「あの――真希、こんばんは」

 いつもなら、挨拶など抜きでさっさと話に入ってしまうのだが、今日は至って殊勝な声色だった。最も、その原因があの一言だと知っているから、真希はそれを揶揄するようなことはしない。ただ、こちらも変わらぬほどの真剣な口調で要件を促すのみだった。

「うん――それで節子、今日は何の用? 雑談、ってことはないわよね?」

「――真希、静子のことなんだけどさ」

 節子は、一度言葉を切ってから――思い切りの悪い調子で訥々と語る。

「家に帰ってから、凄く考えた。私は馬鹿だから、真面目なことなんて殆ど考えないけど、今日だけは脳が擦り切れるくらいに考えた。考えて、私――やっぱり、真希に協力することにしたから」

 協力する――その一言には、真希の方が驚いてしまった。節子の性格からして、真希は彼女がやっぱり駄目だよと説得を始めると思っていた。そんな戸惑いの表情も電話線間では伝わらず、よって節子は真希の心情を思い図ることなく言葉を続けた。

「復讐なんて、やっぱりいけないと思うけど――静子のことを傷つけちゃいけないっていうのは、真希の言葉から痛いほど分かった。それに――七瀬さんには思い知らせた方が良いと思ったの。ああやって――八方美人で、男の子ばかりに媚び売って――あれじゃ、静子以外にも辛い目に合う人がいる、私はそれも許せない。だから、七瀬さんを傷つけることには賛成するし――力にもなる」

 節子はいつものように、語尾をだらしなく伸ばすような喋り方ではなく、毅然とした口調を貫いていた。だからこそ、真希には節子の決心の強さが分かったし、それだけ悩んだ末の結論だということも十分すぎるほど理解できた。

「――分かった。こんなことに参加させるっていうのにこんな言い方、しちゃいけないと思うけどさ、ありがと節子、協力するって言ってくれて」

「良いって良いって。私は真希があんなことを言ったから協力するんじゃなくて、自分で考えて協力することに決めたの。だから、真希が気に病むことはないよ」

 節子は真希に気を遣わさないつもりか、少し軽い口調であっけらかんと言ってみせた。しかし、真希は節子の言葉に鋭い刺を穿たれたような胸の痛みを感じた。自分が静子に協力すると言ったのは、半ば逃避に近い。真剣に考え抜いた思考と同列にされると、節子に申し訳なくて涙が出そうだった。自分の弱さだけが、際立ってくるような気がした。

「それじゃ、それだけ言いたかったから――じゃあね、真希」

 いつも電話を取れば長電話なのに、今日に限って節子は用件だけ言ってすぐに電話を切った。その行為に真希は、電話線の向こうで改めて煩悶する節子の様子をありありと思い浮かべることができた。悩むのは苦手だと公言しているのだから、尚更だ。

 たったあれだけの会話で、妙に疲弊した自分を感じてはいるが、間を置かずしてかかってきた電話がそれを許さなかった。真希が慌てて電話を取ると、今度は節子とは正反対で滅多に電話をかけて来ない恭崎鈴華の声が、いつもと同じ調子で響く。

「やあ、真希。元気――とは言えないだろうね」

 鈴華は一応であるが、真希を気遣っていた。立場はまるきり正反対で、これからもそれを覆す気はないであろう鈴華だったから、別の意味でその電話には驚きだった。真希が「ええ」と、皮肉なく答えると、鈴華は少しだけ明るい様子で用件を切り出した。

「驚いてるだろ、僕が電話なんかかけてきて。何を企んでいるのかと、思ったに違いない。けど、どうしても伝えたいことがあるから電話した」

 真希は、鈴華がそこまでの覚悟を持って何事かを語ると思っただけで、強く身を引き締めた。鈴華の言葉は理詰めで、いつでも悔しい程に正鵠を得ているから、跳ね返す必要があるのならば真希も抜き身の真剣のような鋭さで対峙する必要がある。

「僕はやっぱり、真希のやることには反対だ。しかし、教師に告げ口するようなこともしない。真希は、真希のやり方で静子のためになることをする。僕は僕で、静子のためになるであろうことをする。お互いに不干渉、それが僕のできる最大限の譲歩なのだが、真希はそれで僕のことを許してくれるだろうか?」

 しかし、鈴華は真希を追い詰めるようなことは言わなかった。ただ――鈴華の言葉は有り難かったが、真希にはそれよりも最後の『許してくれるだろうか?』という言葉の方が気になった。真希にはその理由が分からず、逆に歯噛みし、呟いた。

「許すも何も――こんなの多分、他人に許されるようなことじゃない。鈴華がそこまで譲ってくれるなら、わたしなんて文句の言いようもないのに。どうして――鈴華が下手に出ないといけないか、わたしには分かんない」

 自分の美学を貫くことにかけては、鈴華が誰よりも強い思いを抱いているのを、真希は知っている。そして、それにそぐわないものに対しては強い敵対心を抱くこともよく分かっていた。それを、気に食わないとはいえ曲げてくれたのだから、何も反論などできる筈がなかった。

「――そうか、なら良い。真希がそう思ってくれてるなら、僕はもう何も言うことはないよ。こんな夜遅くに、変な電話をかけて悪かった。それでは――明日、また学校で」

 鈴華は、彼女としては珍しく逃げるような態度だった。真希は最後に一言――どうしても言葉にしたいことがあったのだが、それを口にする前に電話は切れていた。無機質な電話の切断音だけがいつまでも続いていく。その無為さにようやく気付いた真希は、ゆっくりと電話を置いた。

 それからしばらく深呼吸して、真希は麻見静子の携帯に電話をかけた。彼氏ができてから買ったと、嬉しそうに話していた彼女。その思い出を上書きするようで気が引けたけど、家の電話は静子の部屋に繋がっていない。万が一でも、興奮した彼女が他人を傷つける計画を立てていることを大声でまくし立てることがあってはならなかったから、仕方なしということになる。

 しかし、部屋にいる筈の静子はなかなかコール音に応答しない。もしかして、既に眠ってしまったのかなと思いを及ばせ、電話を切ろうとした直前に静子が気だるい声で応答した。

「あ、広瀬だけど――ごめん、起こしちゃった?」

「ううん、そうじゃないけど――」

 静子は、明らかに何かを躊躇して携帯電話を取らなかったことが真希には痛いほど理解できた。そして、それが別れてしまった恋人であることも。真希は改めて、迂闊だった自分を悔やんだが、黙っていてもしょうがないと思い、今日別れてからのことを静子に全て話した。

「――というわけ。節子と直美は協力してくれるけど、鈴華はどうしても賛成できないし協力もしないってことね。まあ、あいつも別に冷たいってわけじゃないということは分かってあげて」

 真希は、静子に協力してくれる者がいることを強調したかったのだが、悪想念と猜疑の塊となっている静子はそれを遥かな負の方向に歪めて捉えた。

「そう――鈴華はわたしがこんなに苦しんでるのに、助けてくれないんだ」

「静子、それは違――」

「いいよっ、あんな奴もう友達じゃないから。ねえ、真希は私のことを見捨てないよね。ずっと友達だよね。困った時は助けてくれるよね――」

 静子は、今まで仲良くしていた友達を平気で切り捨てた。その一方で、仲間だと宣言した真希に対しては恐いくらいの甘えの言葉を、脅迫にも似た語調で紡いでいく。そこに静子の病的なまでの脆さを垣間見てしまい、真希はぞっとする。味方ではないものは即座に敵と断定できるほど、今の静子には余裕がなく追い詰められていることを、それは如実に示していた。

 真希は、半ば無意識に「うん」と返事をする。すると、静子は嬉々としてこれからの計画を語り始めた。

「だったら、明日も家に来てね。お母さんが、大事をとって明日も休めって五月蝿くて外に出れないから。そこで――七瀬さんをどんな目に合わせるか存分に話し合おうよ。ああ、楽しみだなあ――それじゃね真希、また明日」

 くすくすと――心底、人を見下した笑みを浮かべ、そう告げて静子は一方的に電話を切った。真希は、絶望にも似た気分で受話器を置き、そのまま廊下に座り果てた。

 静子の心は、真希の想像以上に酷く壊れている。何度も浮かんだ疑問だが、本当に彼女に加担して七瀬留美に復讐するべきか、改めて不安になる。しかし、今の真希には自分を支えてくれる三森節子と夕霧直美という二人の友人がいる。彼女達は、辛い思考を強いられながら協力を約束してくれた。今更、真希だけがやっぱり嫌だと逃げる訳にはいかなかった。

 でも、本音をいうとやっぱり逃げたくて――。

 食事することも最早忘れて、真希は毛布に蹲り、どうやっても堂々巡りにしかならない思考を必死で掻き回した。しかし、混沌の海から賢明が生まれることはなく、ただ煩悶と疲労とを積もらせたままに、十二月十一日という日はひっそりと過ぎていった。

 

−4−

 いつもなら、休みが一日増えるから嬉しい筈の第二土曜日も、今日に限っては憂鬱だった。目覚めだけは悔しい程に悪く、広瀬真希は何時までも気だるげに布団へこもっていた。だが、何時までもぐずぐずしていると無駄に時間だけが過ぎてしまう。そのことが恐くて、真希は不機嫌そうに体を伸ばし、牛のように鈍い動作で起き上がった。目覚し時計の時刻は、十時を少し過ぎた時分を指していた。昨日、何時寝たかは覚えていないが、睡眠が体力回復に何ら寄与するところがないことだけは確かだった。

 ほぼ本能的に朝の身支度を済ませると、真希はカーテンを開け放つ。どんよりと垂れ込めた雲は、今の自分の信条を代弁しているようで余り良い心地ではない。父の希春も、仕事が忙しい所為かここには戻って来なかった。もっとも、今の状況を見たら希春が少し厳しい顔で問い質してくることは避けられないことだったので、今日だけは父に大量の仕事を押し付けている会社に感謝した。

 胃袋は食事を所望していなかったが、力がつかないと思い、真希はバターを塗ったトーストを冷たい牛乳で一気に流し込んだ。今日、これから成される会合を思えば、根こそぎ気力が削がれてしまうような状況は避けたいと、真希は思っている。

 食事が終わると、真希はまず夕霧直美のもとに電話をかけた。本当なら昨日の内に事情を話し、都合を聞いておくべきだったが、昨晩、麻見静子と会話をした真希にはそんな気力は残されていなかった。当日、いきなりこちらの都合に合わせてくれと言うのだから、直美が不快にならないかと心配していた。だが、人間を口調だけでしか判断できない人間ならともかく、今日の直美はこの一年でもと言ってさえ過言でないほど、真面目だった。

 昨晩の状況を包み漏らさず説明した後、直美は少し間をおいてゆっくりと言葉を吐いた。

「うん、分かった。それで何処に、何時に集合する? 私はいつでも空いててオッケーだからさあ、真希や節子の都合の良い時でいいし――もう決まってんの?」

 時間にルーズで、基本的にはそんなことどうでも良いと思っているであろう直美が、真っ先に時間のことを聞いてきただけでも、真希には予想外だった。しかし、今はそんなことで揶揄をし合っている場合ではないと判断し、午後一時半に、商店街へ集合ということを伝えた。

「了解。じゃあ――こんなこと言ったら不謹慎かもしれないけどさあ、私しっかりやるから」

 確かに、他人を傷つけることをしっかりするというのは、普通の人が聞けば十分に不謹慎だろう。しかし、今の真希にはそれが愚かしくも頼もしく響いた。昨日から幾度となく陥ってきた自己嫌悪の渦に巻き込まれぬよう、真希は電話をとって素早く節子の家に電話をかけた。こちらも、何時連絡が来ても良いよう臨戦態勢になっていたらしく、電話には直ぐに出た。

「分かった――一時半ね。うん――じゃあ、後でまた」

 節子は今でも、内心で葛藤を繰り広げているらしく、その口調は歯切れが悪い。その葛藤を自分がさせていることに、申し訳ない気分がわいてくる。だが、今はそう考えることも偽善的だと思い、憐憫や思いやりといった感情を無理矢理、遮蔽した。

 残りの時間、真希は特に何もすることがなく、惚としてテレビを見ていた。と言っても、土曜日の午前中に放映しているプログラムなど、お堅いニュース番組か中途半端な地方番組、リアクションのやたら大袈裟な通販系の番組ばかりで、面白みもなんともない。脳を下らないことで満たすことで、微かでも抗鬱の効果があったくらいだ。しかし、それもすぐに効き目がなくなり、真希は待ち合わせまで一時間もあることを承知で家を出た。

 冬は、刻一刻とその厳しさを増していく。太陽の覗かない雲間からは、雪が零れ落ちるかと思うくらい、大気も風も冷たい。もう一枚、上に何か着てきた方が良いかもしれなかったが、戻るのも面倒臭かった。今着ているものに似合うような服を選ぶ気力も、今の真希にはなかった。

 商店街は、一日ごとにクリスマスを祝う空気がいや増していくかのようだった。恒例の歳末抽選会も明日から始まるようで、会場の設置にあらわとなる人たちの姿が見える。皆、衒いもなく聖夜を楽しもうと心を砕いている姿を見て、真希は商店街から逃げ出した。

 やっぱり、最近の自分はおかしいと真希は判断を下さざるを得なかった。気付けば、クリスマスの面影を必死で避けている自分がいる。去年も、一昨年も、心苦しいと思うことはあったけど、それは日常生活に破綻をきたさない程度だった。しかし、今年は辛いなんて生半可なものではない。気を狂わされ、惑い――ふとした調子で簡単に死にたくすらもなった。そして、真希にはこれらの感情を制御する術がない。そこには、にいさんと呼んで心から慕った広瀬賢と、かあさんと呼んでいつも尊敬していた広瀬裕子の二人の幻があった。

 何故、自分だけ生きているのだろう――。真希の頭に、何度考えたかしれない感情が満たされていく。どうして自分だけが、生きていられるのだろう。今から、そしてこれから、自分は一人の人間を傷つけようと考えている。しかも、さして罪悪感は抱いていないと真希は信じていた。

 いつしか、真希は自宅と商店街のほぼ中間にある、小さな公園のブランコに腰掛けていた。錆びた鉄の擦れる音が、きいきいと聞こえる。幼い頃、母親が慌てるほどに加速度をつけて漕いだブランコ。女の子なんだからおしとやかにしなさい、という陳腐なことを母は一切、口にしなかった。だから、小学生の頃の真希は蓮っ葉でお転婆だった。男の子なんて、口でも拳でも簡単に泣かしていた。男なんて、弱くて小さくて馬鹿な奴らばかりだと、常々口にしたりもしていた。あの頃は、自分が強くてたまらないとさえ思っていたのに――。

 今の自分は、こうまでも弱いのだ。ブランコを一心不乱に漕ぐこともできず、鎖にしがみつき、俯くだけの弱い人間だった。男とか、女とか、そんなものは関係ない。真希は、自分のことをどうしようもなく弱い人間だと信じて、疑わなかった。少なくとも、今は疑っていない。

 お昼時だからか、公園には真希のほかに誰もいなかった。無邪気にはしゃぐ筈の子供も、それに付き添って井戸端会議をしている母親達の姿も今はない。しかし、もうすぐ昼食を済ませて続々とこの場に集まって来る筈だった。真希は、彼らが集まる前にブランコから立ち上がり、公園を出た。側の道路を、車が何台か走り去っていく。真希は一瞬の自失状態の後、再び商店街に向かった。もしかしたら、節子か直美のどちらかがいるかもしれないと期待を込めて。

 その期待は、真希を裏切らなかった。まだ待ち合わせまで十五分ほどあるが、既に集合場所では節子と直美の二人が厳しい顔でひそひそと言葉をやり取りしていた。真希は二人に小さく声をかけ、さっと手を上げる。二人もその仕草に気付き、すぐに近づいてきた。

 そこで、真希は電話先で述べなかった一つのことを口にした。協力を拒んだ鈴華のことを、静子が頑徹として拒絶していること。静子がそこまで追い詰められ、異常を来たしているということも。

「そんな――」と、節子が苦しげに声を漏らす。「あんまりよぉ、そんなの――私達って、そんなに簡単に壊れちゃうような、浅い付き合いだったの。私、静子が――皆のこと、私や真希や直美や鈴華のことだけは大切に思っていると信じてるから決心したのに。なんで、なんで――」

 節子は、人通りが多い往来だということも忘れ、喚き散らしていた。

「要は――それくらい追い詰められてるってことよ。他人を、心の通った人間だって思えないくらいに、憔悴してるんだと思う」

 真希は、そのことを別に衝撃的だとは思っていなかった。それが、最初から真実として真希の心の中にあったからだ。

「心が通っている――なんて思えるのなら、そもそも復讐してなんて言わないわよ」

 冷たい言い草だったけど、そうでもして節子の決意を試さなければ、結局は静子のことを思いやるのではなく、傷つけることになってしまう。直接、静子の家に行かず敢えて踏絵のような行為をしたことにも意味はある。友人を試すこと自体、真希にとっては苦痛だったが、やらなければいけないことだった。

 節子はまた、随分と悩んだようだった。しかし、迷ったにしても節子の選択は今までと変わらなかった。その決意を、節子はゆっくりと言葉にしていった。

「やっぱり――私、やる。そりゃ、友達だって思われてないのはショックだけど、だからってこちらまで見限ったら――私が静子のことを友達だって言ったことが嘘になっちゃう」

 それを聞いて、真希はちらと直美の方を見た。彼女は、先程からの変わらぬ表情のまま、こくりと肯いた。私はそんなこと、理解しているし、覚悟の上だと言いたげに。

 二人の覚悟を再確認し、真希は無言で麻見家に向けて歩き出した。いつもなら、明朗な会話が響き渡るはずの三人の間に、会話は一切無い。気付いた時には、目的の場所に着いていた。

 昨日と同じ家、同じ空気の筈なのに、昨日と比べて麻見家の空気が、真希にはいやに重く感じられる。チャイムを押すと、すっかり元気を取り戻したように見える静子が、まるで少数派組織の同士を迎えるような熱心さで、真希たちを招き入れた。

「みんな、遅い――私、首を長くして待っていたのに。でも――来てくれたんだから、恨み言を言うのは無しにしないと駄目なんだよね。兎に角、部屋に上がって待ってて貰えないかな。昨日の分のお菓子とジュース、丸ごと余ってるみたいだから、取って来るね」

 甲斐甲斐しく、ホスト役を務める静子。しかし、異常に浮き立っているその姿は、真希にとって危うい以外の何者でもなかった。いつもは鈍い節子も『静子、意外と元気そうじゃん』などと、見当外れのことを述べることはなかった。何より、狂気を内から滲ませるような瞳の色は些かも失われていなかった。静子は自分たちを、復讐の代行人としてのみ考えている――。

 こじんまりと、今は病人臭さもない整った部屋に方々腰掛け、当の主役である静子がやってくるのをじっと待っていた。五分後、彼女は母親を伴いやって来た。静子の母は、昨日に続いて今日もお見舞いに来てくれたことを心から感謝している。真希は、その姿を見て無意識に胸が強く痛んだ。今から、ここでやろうとしていることを知れば、静子の母は真希たちを疫病神と見ることを分かっていて、沈黙を身に帯びているのだから。

 母親が、最後に大きく礼をして立ち去ったのを見送ると、静子は被っていた猫を剥ぎ取り、邪悪な笑みを剥き出しにした。

「ねえ、みんな。私、あれから一生懸命考えたんだ。どうやったら、七瀬留美に効果的な復讐ができるかって。良かったら、聞いてくれる?」

 真希は、もしかしたら自分がこの話題を率先して進めなくてはならないかと憂鬱だったのだが、その必要は全くなかった。静子は単に協力者が欲しいだけで、復讐の手筈などとっくに一人で考えていたのだ。

「それでね、時期だけど――早い方が私は嬉しいし、丁度試験週間だよね。その時、集中的に嫌がらせすれば、勉強に集中できなくて、試験の結果をボロボロにできて、沢山恥をかかせられるし、良いと思うんだ。付け加えて漢字のテストの時、カンニングで良い点を取ったって言い触らしたら、ずるでしか良い点を取れない姑息な女だって、みんな軽蔑するよ。そうしたら――彼だってきっと目を覚ますと思うから。ざまあみろだよ、あはははははっ」

 壊れた笑い声が、耳に痛い。そして何より、真希にとって衝撃的だったのは、あれだけボロボロにされたにも関わらず、静子が彼氏とよりを戻せることに執着しているということだった。そのことが、明らかに七瀬留美への悪感情を増大させている。真希は、彼女の口からどのように凄まじい計画が飛び出すのか――想像して、思わず体に震えを来たす。

 しかし、麻見静子の語る『復讐』の内容は、その悪感情と裏腹に極めて幼稚だった。椅子に画鋲を仕掛ける、ノートに落書をする、中傷の言葉を広める――小学生にすら容易に思いつけるその児戯の如き『復讐』に、真希はほっと胸を撫で下ろしながら、同時にその胸を痛めた。

 酷いことといってこのような幼稚な手段しか思いつかないということは、逆を言えば静子がどれだけ平穏で、普段は人を傷付けず優しく生きてきたかを如実に示している。そんな人間を、殺伐とした行為に走らせることが正しいかどうか――真希は改めて自分の胸に問い掛ける。ここで、必死に説得すれば静子は考えを改めてくれるだろうか――。

 しかし、真希のそんな言葉が口に出ることはなかった。やはり――静子の心を刺激するのは憚られたし、何より彼女に嫌われてしまうのが――正直言えば、怖かった。

「そうね、良いんじゃない」

 真希はそんな悩みをおくびに出さず、静子がもっと残酷な仕打を思いつく前に言葉でもって彼女の思考を切った。目論見通り、真希に肯定されたことで静子はそれ以上の思案を留めたようだった。

「けど――相手を傷付けるんだったら、隠れてばかりじゃ駄目ね。自分を虐げている人間の姿が向こうからも垣間見えるようにしなきゃ。だからね――」

 真希の立てた計画は、こうだった。静子の立てた、ただがむしゃらに進むだけの計画ではなく、相手の反撃を封じ、いざという時には相手に譲歩すら認めさせる――ある意味では単なる『復讐』以上に姑息な手段だった。

「先ず、七瀬さんに幾つかの嫌がらせをするのよ。そうしたら、向こうも嫌がらせをした張本人を探すでしょ。そこで、故意にわたしたちの中の誰か一人で良いから――が、七瀬さんに悪戯をしていたと、漏らす。当然、七瀬さんはわたしたちに接触してくるでしょうね――何様のつもりだって」

「そんな、何様のつもりだって――最初に裏切ったのはあいつじゃないっ!」

 静子が思わず反論の声をあげるが、真希はやんわりと制した。

「静子の言いたいことは分かってるわ。兎に角、七瀬さんが文句を言ってくるのは確実でしょうね。そこで、こちらはこう答えるの。わたしは、七瀬さんのことを試してるの――本当に仲良くできるか、ってね。七瀬さんって基本的に八方美人の気があるから、そう言われたら何も反論できない筈よ。そうすれば誰にも邪魔されないから、後は――何をやっても、平気な筈」

 そして、静子の気が晴れたなら――あれだけのことに耐えたのだから、貴女はわたしたちの仲間になる資格があると言って誤魔化せば良い。勿論、静子の手前、真希は口に出さなかったが、七瀬留美にとってもこちら側にとっても最大の譲歩点となり得るのは明らかだった。

 節子も直美も、真希の奥底を見抜いたのかは分からないが、賛同はしてくれた。何はともあれ、最も安全な手段であることに変わりはないのだから。そして、それ以上に静子は狂喜乱舞していた。

「確かに――それは効果的かもしれない。真希って、やっぱり頭が良いよ――真希が味方でいてくれて本当、心強いな」

 こんなことで誉められても真希は全然嬉しくなかったが、表面だけは笑ってみせた。

 話がまとまると、その後は耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言の類も消え失せた。かといってこれ以上、話を続ける意志もない。いつもなら、寄り添いあい楽しい会話に興じていたことをまじまじと思い出せるからこそ、真希にとってこの状況は明らかに苦痛だった。

 ふと――あの、慎ましくも暖かい空気が二度と戻ってこないのでは危惧する。かつて――僅かな綻びから、二度と暖かな家族生活が戻ってこなかったように。誰かに遠慮し、誰かに遠慮され――今のわたしたちの関係は正にそうではないか――。

 真希は、でもどうしようもない――どうしようもないのだと、ひたすら自らに言い聞かせ、そして必死で騙そうと試みた。人の心が移ろうのは早い――静子もぞの内必ず、七瀬留美への悪感情を薄れさせ、忘れる時が来るだろうと――真希は心の中でお経のように唱え続けた。

 綻びは、最小限に留められるように細工した。少しくらいの計算違いはあっても、自分の姑息な策略が上手く回ることを、真希は信じていた。麻見家を後にし、家に帰った後も――次の日、試験勉強を余りする気にもならず、始終ただベッドの上で寝転んでいた時も、それだけは確信していた。

 しかし、七瀬留美の側には、例え天才さえも計算違いを起こすほどの独自性を持った男性がいることを、真希は何故か失念していた。折原浩平――ただ一人、広瀬真希の心を動揺と疑念と、言い知れぬ胸の痛みをもって掻き乱すことのできる唯一の男性のことを――。

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