−5−

 十二月十四日――期末考査初日。学生なら皆が皆、試験の応対に追われてんてこまいする時期に、広瀬真希はただ淡々と醒めた様子で身支度していた。時刻は六時半。普段ならまだ床にいる時間だが今日は誰にも見られてはならないことをしに行くのだから、いつも通りなどと悠長なことは言ってられなかった。

 昨日や一昨日と違って本当に雲ひとつ無い、炭酸飲料にも似た清冽な青の冴え渡る空だった。東の方角から僅かに赤みを帯びた朝陽が迫り出し、もうすぐ街を光で満たすことを疑うものは誰もいない。真希も、その例外ではなかった。

 だからこそ、心の中は逆に黒雲が重く垂れ込めるような淀みが感じられた。まだ、雲が世界を覆い尽くしていたり、雨のヴェールでどんよりと包み込んでくれた方が楽だったと真希は強く思う。父である希春は、家には戻ってきたようだが、真希が起きるよりも早く、再び家を出たようだった。ダイニングの机の上には置手紙と少し多めに今週の食事代が置いてあり、申し訳程度にラッピングされたサンドイッチが並んでいた。

 睡眠時間も一週間で半日とないのに、手作りのクラブハウス風サンドイッチを作ってくれるまめさに、真希は感謝の気持ちで一杯だった。と同時に、サンドイッチを食して得た活力をそんな思いやりとは反対の方向に用いることになるであろう確信にも近い想像が、真希の強固な殻から僅かに漏れ出ている良心の隙間を器用に突付いた。心は脳にあるというのは常識だと真希は幼い頃から習っているが、それでもその数分の一は胸の中にあると信じたくなる時がある。今が正にそうだった。

 馬鹿らしい――と、真希は一蹴した。胸も、途端に痛まなくなった。真希は半ダースほどあったサンドイッチを全て平らげ、試験日の為にいつもの半分の膨らみしかない鞄を背負い、家を出る。時刻は七時十分。こんな早い時間に家を出るのは、十一月最後の金曜日――クラス当番で必然的に家を早く出た、あの日以来だった。そしてあの日、真希は聖夜の幻を見た。暗く歪んだ赤き想いに彩られた、幻を。夜の如き、深い闇を。

 今日もまた、その幻を見てしまうかもしれないと思うと、前に進む為の必要最小限の視界以外から目を逸らさずにはいられなかった。今度は、誰も助けてくれないだろう。多分、あの日、折原浩平が通りかかったのはとても幸運なことなのだ。そして、今の自分にはとても幸運が舞い降りるとは思えない。歩きながら、真希の心はあの日へと向かう。

 折原、浩平――。

 彼は、今のわたしのことをどう思うだろう。真希は一瞬、思いを巡らせ、即座に冷笑する。考える必要もなく、折原浩平はいつも七瀬留美の側にいる。その立場など、言葉にしなくても真希には明らかにみえた。彼の心にそっと触れるような、そうすることを酷く恐れるような儚い優しさが、罵りに変わってしまうことも、疑いようのない事実に思える。

 真希は、それがどうしたと自分を叱咤する。別にそんなことどうでも良い――醒めた言葉を心の中で呟くと、微かに覚束ない地面を足早に歩いた。

 待ち合わせ場所では、麻見静子が興奮といらつきを隠さぬまま表情に曝け出し、道行く人の一人一人を定めていた。真希が近づくと、静子は素早く近づいてくる。いつもの緩慢で、少しばかり苛々するくらいの心持ちは完全に消え失せていた。

「ねえねえ、これ見てよ」

 朝の挨拶も忘れ、静子は鞄からじゃらじゃらと音をさせながらプラスティックの入れ物一杯に入った画鋲を取り出した。静子はそれを隠そうともしない。真希は内心、慌てて周りを見回したが人の姿は幸いにも見えない。何時かは発覚しなければならない計画とはいえ、初っ端から露呈したのでは逆に立場が悪くなりかねない。

「気持ちは分かるけどさ、そんなに見せびらかしたら逆にまずいわよ。早く閉まって」

 真希は、他人の心など誰にも完全には把握できないことを承知の上でそんな嘘を吐いた。静子に手を添え、それを鞄の中に押し戻すと真希は白い息を重い空気と共に放出する。世の中にはあれほどまでにミステリィや犯罪小説が氾濫しているというのに、その教訓が殆どの犯罪において全く活かされない理由を、真希は唐突に理解した。

 どんなに冷静な人間でも、犯罪者となってしまえばその人物はことを実行する前から狂熱と興奮に支配される。そして、自分の犯罪だけは上手く行くと信じ、証拠を情けないほど残してしまい、結局は警察に嗅ぎ付けられて捕まってしまう。真希は思いの他、自分の計画を過信していることにも気付かされ、心の中で思い上がりを封殺した。

 静子は自分の犯意を示すものがなくなり少し不満げだったが、真希の言うことももっともと思ったようで、あと数分のうちにはやってくるであろう、三森節子と夕霧直美の姿を、いらつき不定に体を震わせながら待ち始めた。

「遅い――」

と、真希に話をふる静子。まだ待ち合わせまでには五分ほど余裕があるのだが、そんなことも忘れるほど静子は焦っていた。それが、真希には手に取るようよく分かる。遅い、遅いと静子は一分ごとに声をあげ、その度に真希がまだ定刻になってないからと宥める――その繰り返しだった。

五分後、二人は正に定刻通り現れ、いつも通りに見せかけた明るげな朝の挨拶を寄越したが、静子はそれを無視して不満に溢れた顔を覗かせる。「遅い――」と、責める必要のない二人を責め「早く行きましょう」と行って一人で足早に学校へと向かう。

 本来なら不興をかって然るべき態度だが、節子も直美も逆に哀しげな表情をしている。実際、二人に静子を責める気持ちは毛頭なかった。真希は、静子を追いかける二人の後背を守るようにして、監視するように距離をおいた。そして、この場に居ない恭崎鈴華のことを思う。彼女さえここに居てくれるなら、ほんのもう少しだけ、真希は自分を強く保てる自信があった。自信家の側にいるということで、過分な――分不相応にしか過ぎない虚栄を張ることもできたと信じている。

 しかし、鈴華は真希と理を異にしている。彼女が何もしていない筈がないということを真希は確信していたが、彼女が側に居ないせいで自分のやり方は間違えているのではないかと余計に感じてしまう。いや、間違っているのは最初から分かっている――そして、このような類の解決には決して正しい方法などないということも。

 散ってしまった恋だから、忘れて次の恋を見つけろ――などと言葉をかける気は真希にはなかった。忘れろ――という言葉の、しかも他人に関して平気で断じられるそれが、真希にはひどく傲慢なものに思えてしょうがなかった。そして、その言葉を信じて呆気なく忘れてしまったとしたら――あんたの思いなんて所詮はそんなもんだったの? と、相手を詰ってしまいそうで怖かった。

 それよりは例え、今は目も当てられないほど他人を憎んでいたとしても、その思いは良いものも悪いものも含めて、全てを記憶の片隅に留めておいた方が良い。忘れなければ、同じ過ちをすることはない。苦しく救いのない恋なんていうものも、二度とする筈はない。更には憎しみに我を駆られる醜さに、人間は一度、絶対気付かなければならない。忘れさせるのではなく、それらの思いと対峙させ、自ら気付くことが重要なのだ。だから、わたしのやり方は間違っていない。

 真希は、自らが歯止めを利かせいざという時には自制の要となる覚悟があるのだから、と自分に言い聞かせた。わたしは間違っているけど、決して悪くないことをしている訳ではない。決して、最も間違った方法を選んでいるわけではない――学校に着くまで、真希は延々と心の中で呟いていた。

 

 七瀬留美の椅子に画鋲を仕掛け終えると、真希たちは他の生徒に見つからないような場所でしばし時間を潰し、十五分前になって再び教室に向かった。あまり早くから固まって教室にいればすぐに犯人だとばれてしまうし、かといって遅すぎてはことが全て終わった後で留美の様子を観察できないからと、話し合いの結果に出された適切であろう時間だった。真希は、教室に入る前に念を入れてもう一度だけ、声を潜めて皆に聞かせた。

「良い? 明日からもそうだけど、わたしたちは嫌がらせの瞬間だけは決して誰にも見られては駄目だからね。その代わり、相手が探りを入れてきたらさりげなくわたしの名前を出すのよ。その役目は――静子、できる?」

「うん、任せて」

 余りに自信ありげに言うので、真希は逆に信憑性を疑ったが、結局は静子のことを信じることにした。そして、この仕打に留美がどんな態度を取るか、真希には不安だった。更には、こんな子供じみた、しかし確実に人の心を傷付ける仕打を毎日続けなければいけないことに、半ばうんざりするような気持ちだった。

 しかし、結論から言えば真希は留美の態度に呆れるほかなかった。留美は画鋲が椅子に仕掛けられているのを知りながら、椅子に座り込み痛がっていた。その直前まで折原浩平と話をしていたので、それで失念していたことは、真希でなくても自明の理だった。静子は一時間目のテストが終わった直後の休憩時間、教室から一人こっそりと抜け出していった。気になった真希が静子に付いていくと、彼女は屋上手前の方形階段の踊り場で笑い転げていた。

「あははははっ、あいつ気付いていて座ってた。馬鹿だあ、本当の馬鹿だあ、あの女は――」

 真希は、その行為を自分が推し進めたにも関わらず、静子の狂ったような笑いを醜いと思った。その思いを知らず、静子はめざとく真希を見つけて強く抱きしめながらまだゲラゲラと笑っていた。

「真希ぃ、真希も見たでしょ。あの女、笑えるよねぇ――私、あんな間抜けな人間って初めて見た。あはははははははははははっ」

 静子に抱きしめられ、なすがままにされる。真希は、彼女の哄笑を耳に浴び、言いようのない恐怖をおぼえる。自らの狂気を純然たる笑いに替え、他人の尊厳を脅かすその仕草に思い出してしまった。同じように狂い、真希を憎み尽くした挙句、当然のように家を飛び出していった一人の女性のことを。

 昭子さんと真希が呼んでいた女性――真希のもう一人の母親。彼女は自分の息子が死んだことで、娘であった真希を責め憎しみ尽くした。その激しい心が結局、何処に向かったのか真希は知らない。ただ――一度だけ遠目から望むことのできた昭子は、真希の父親よりも三十は若い男性と手を組んで楽しそうに歩いていた。

 真希はだから、かつての二度目の母親が傷つかない愛の方法を手に入れたと思った。そう――真希は己の欠落した理由もない根拠の、理由を知った。そしてやはり、傷つかず、かつ人を幸せに愛することなど無理なのだということを痛切に思う。

 思うのに――何故か、自らを正当化できるこの事実を覆い隠してまで動揺する自分に、真希は新たなる不条理を得た。今の静子は理屈ぬきで嫌だ――という感情がどうしても消えない。真希は突き放すように静子から離れると、彼女を説得して教室に戻った。テストの時間に遅れてしまっては意味がなくなってしまう。しかし、今まで必死に笑いを堪えていた静子がテストで良い点を取れたかということについて、真希は強い疑問をもった。

 二時間目の授業が終わると、廊下前で七瀬留美の変わりに折原浩平が幼馴染の長森瑞佳に何やら尋ねていた。曰く、留美の席に近づく不審人物はいないか、と。しばし考え込んでから、思い当たる節があるように話し始める瑞佳の姿に、真希はどきりとした。自分たちの仕出かしたことがばれていたのではと、根拠のない疑惑が精神を走る。

 三人は更に距離を遠くしてしまったので、真希には彼らが何を話していたのか分からない。しかし、戻ってきた時には浩平の顔にいくつかの痣ができており、留美はそれを心配しているという非常に訳の分からない構図が出来上がっていた。二人を眺める瑞佳の顔は決まり悪さに満ちている。しかし、真希の元に留美や浩平が近寄ってくることはなかった。

 大方、瑞佳が不審人物と尋ねられて真っ先に折原浩平の名前をあげ、逆上した留美が暴力をふるうと――まあ、そんな構図だろうと、真希は当たりをつけた。それにしても、留美は猫を被っている割に浩平には容赦がない。真希には逆にそれが、二人の親密度の証のようで――無視しようと思ったけど、それより何故か不快感が込み上げてくる。訳が分からなかった。

 真希は目のやりどころを無くし、今日は友人を裏切ったという罪悪感から、敢えて一度も目を合わせなかった恭崎鈴華の方を向いた。怒っているかなと不安になったが、彼女は優しく微笑みながら手を何度も振っただけだった。それは、そちらも頑張れよと励ましているようでさえあった。

 僅かだけ不気味に思いながら、真希は残り一つのテストに集中する。幾つもの懸念を抱えているにも関わらず、真希の頭は自動的に動きそれなりの答えを出していた。少し考えるだけで容易に答えの出る期末考査試験の内容に、真希は現実のあまりに難解で唯一決定性のない様々な出来事を思い浮かべることを止められない。

 多分、いつもより得点は低いと真希は諦めを抱く。そもそも、こんなに気を散らしていては何事にも集中できるわけがない。自業自得だった。そして、このくらいの業は背負っていなければ、障害が少なすぎて真希は不安に感じただろう。

 放課後、真希は折原浩平と七瀬留美が一緒に帰って行くのをじっと眺めていた。別に、それは真希の心を何も震わせなかった。

 いや、その筈だったのに――。

 明日も同じ時間に集合することを告げ、家に帰り悶々とベッドに寝転がっていると、頻りに二人が楽しそうに話している場面や、背を向けて二人で話しながら立ち去っていく――そんな箇所だけが脳裡で執拗に繰り返し再生された。留美の幸せな顔を思い浮かべる度に、浩平の笑顔を想像するだけで、苦しくて苦しくてしょうがなかった。

 こんな感情を植え付けた二人が憎かった。痛みが増すごとに――思い出すたびに憎くなってくる。八つ当たりだと分かっているけど、自分だけがこんなに苦しんでいるのに、何故二人だけ幸せそうなのだと、思えてくる。

 分からない分からない分からない分からない――この感情は何処から生まれる? 自己正当化、防衛本能、偽善、偽悪、もう全て何もかもうんざりだ。本当は何も考えたくない、頼られたくもない、人を傷付けたりしたくない。何より――。

 折原浩平が、七瀬留美と仲良くしている所を、見たくない――。

 しかし、生きている限り時は必ず巡る。辛い現実とも、否応なしに向き合わされる。真希は次の日も同じように集まり、同じように急かされ、同じ嫌がらせに少しだけ箔をつけて椅子に画鋲を三つ仕掛けた。結果は昨日の巻き戻し再生フィルムを見るように、七瀬留美は相変わらず呆れるくらい間抜けで、静子はそれを見て笑っていた。節子と直美は加勢できることがなくて宙ぶらりんの状態で、真希は全く身の入らない試験すらどうでも良いと思えるようになっていた。

 本当に、全てを投げ出してしまいたいと思った。周りの人間が邪魔で邪魔でしょうがないと思ってしまい、その度に自己嫌悪が沸いてくる。もう、何もかも、嫌だった。放課後、長森瑞佳が心当たりはないかと聞かれたから、さりげなく真希の名前を出しといたよと静子に言われたが、真希はそれすら考えたくない。真希は綿密に計画を立てたのが自分であるにも関わらず、それが成功しようと失敗しようと構わないと考え始めるようになった。

 留美は今日も、浩平と一緒に帰っていった。

 その日の夜、二日間の成功に気を良くした静子が真希の家に電話をかけてきた。彼女は心底満足しているようだったので、真希は思い切って尋ねてみた。

「ねえ静子、もうこれだけやったなら気もすんだでしょ?」

 しかし、静子は留美に対する矛先を収めようとなどは考えていなかった。

「駄目だよ、あいつにはもっともっと酷い目に合わせないと」

 半ば予想していたとはいえ、少しは気が晴れたくらいのことは言ってくれると思っていた。けど、静子は成功に味を占め迫害をエスカレートしようとしか考えていない。自分の立場、感情を省みる気など一切なかった。

「あんな、誰にでも色目を使う女なんてもっと苦しめば良いんだ。苦しんで苦しんで苦しんで、土下座して謝るまで絶対に許さないんだから。ねえ、真希ぃ――もっと考えて、あの女を苦しめる方法を考えてよ、お願い」

 激烈な言葉だった。そして今の真希には、それを諌める気力も抗う気力も――かといって、進んで発言する心の冷徹さもない。強固に強固に築いた壁なのに、それは真希の中で既に効果を成さなくなっていた。ひび割れ、浸水し、何かの強い要因だけで容易に決壊しそうだった。

 昨日、とことんまで相手を憎めばよいと思ったばかりなのに、これくらいの浅い憎しみを目の当たりにしただけで挫けそうになる。心に矛盾があることをはっきり理解しているのに、相反する感情が複雑に絡み合って自制できない。真希には自分が一番、理解できない。

 もしかしたら、今は歯止めをかけないといけない時なのかもしれない。これ以上の行動が危険なことを、心が直感的に感じ取っているのかもしれない。しかし、真希は霊感や直感の類を信用していなかった。そんなものがあるなら、あの聖祝祭前日に幸福極まりない感情など抱くはずがないからと、即座に切り捨てる。そうすると、静子を傷付けてはいけないという、決まりきった観念がやはり真希を支配するのだった。

「分かった、考える。でも――今は思いつかない」

 真希にはそう答えるのが精一杯だった。もしかして、静子を失望させたと思ったが、相手は意にも介せぬ様子で嬉々として明日の計画を語る。これまでは椅子に画鋲という、嫌がらせでも多分に幼稚じみたものだったが、静子の口に出したことは明らかに子供の悪戯の範疇を越えた醜いものだった。だが、真希には悪意に満ちた言葉を心に溜め、沈鬱を保つことしかできない。

 辛うじて勉強という枷にかじりつき、我を忘れたように没頭する。余り得意でない地理の教科書を開き、南アメリカの主要河川の名前を適当に読み連ねていった。思考を、単純作業の泥の中に埋め尽くしてしまいたかった。自分を意味するもの、定義するものなどなくなってしまえば、少しは苦痛からも逃れられた。

 でも、心理の奥底では自分を定義できるものが存在することを欲している。この苦しみを根本から取り去ってくれる――今の自分を認め徹底的に補強してくれる何かを、真希はやはり痛切に求めていた。

 テレビを見る、やけ食いする、故意に皮膚を焼くような熱いシャワーを浴びる、小説を読む、勉強をする――それは視覚を満たし、胃を満たし、清潔感を満たし、雑学を満たし、知識を満たす。だが、真希の心を満たしてくれるものは何もない。

 結局、眠りの中だけが安らぎだと――真希は、その中に逃げる。しかし、眠りはただ牢獄にも似た夢の世界へと真希を誘うのみだった。

 夢の世界――。

 眠りの牢獄――。

 真希は、今日も夢を見る――。

 

 真希が姉である広瀬美晴の、隅に隠れ声を潜めて泣く姿を見るのも数え切れないほどになる。最初、泣いていた美晴を慰めようと声をかけた時に、真希は酷く怒られ詰られた。挙句、あっちにいけと無理矢理追い立てられてしまった記憶があるので、そっと遠巻きに見守ることしかできない。

 母、広瀬裕子の死より五年が経つのに今でも美晴は母の名を呼び滂沱する。真希も母が自殺した当時は悲しくて何も手に付かないほどだったが、遺された家族が頻りに真希を励まし元気付けてくれた。時も、残酷な思いをいつしか薄れさせていく。中学生になった今、真希は完全に以前の明るさを取り戻していた。セーラ服もようやく肌に馴染み、それ以上に楽しく気さくな友達との関係が心に馴染んでいた。

 だからこそ、真希には未だ哀しみを幾許も癒さず内に暗くこもり友人も作らず、母の名を呼んで泣き腫らす姉の姿がとても気になる。自分と姉の差は何処にあるのだろうと、拙い頭で必死に考えたが答えは出なかった。

 全てを悲観して沈み泣くことの多い美晴。しかし、真希はそれと対称的に極めて躁状態の姉を近くの公園や原っぱで見かけることがあった。そんな時、美晴はいつも何かを傷付けていた。それは公園の花壇に満ちた菜の花であったり、そこに潜む昆虫であったりした。

 真希には、美晴が精神を病んでいるとしか思えなかった。一度、姉の居ないところで父、広瀬希春に相談した。姉は明らかに精神を病んでいるのではないか。一度、精神科医に見て貰った方が良いのではないか、と。父は大きく首を振って反対した。

 家族の問題は家族だけで解決すべきだ、そもそも精神科医に家族の心を預けるような人間は、家の問題を責任転嫁して逃げている卑怯者だ――と語勢を強く飛ばした後、真希が後ろすぼめな表情をしているのを悟り、ゆっくりと真希の頭に手を置く。大きく繊細で、真希にはその感触がとても暖かく感じられた。

 兎に角、これからは更に姉のことを優しく見守り支えていこう――と希春に諭され、真希は完全に納得してしまった。そして、気まずそうに言葉を続ける。実はお父さんな――。

 その時、初めて真希は父の再婚のことを知らされた。

 次の日、クラブ活動を終えて帰宅の途へと着いた真希は偶然に美晴の姿を見かけた。しかし、その様子はいつもにも増して虚ろで力ない。赤い夕陽に照らされているからだろうか――妙に手足や服の一部が赤く染まって見えた。

 真希は不意に気になり、美晴が姿を現した狭い路地をそっと覗き込む。途端、真希の鼻を人の不快感に直接アクセスするような臭いが侵入する。鉄釘に、腐乱臭を混ぜたような――まるで先日理科の授業で嗅いだ硫化水素みたいだった。

 その奥に、真希は信じられないものを見つけた。

 血に塗れ、ずたずたに切り裂かれた――。

 犬の死体――。

 

−6−

 広瀬真希は叫び声をあげながら、布団を跳ね上げた。心拍数が、日常生活からは信じられないレベルで高まっているのが分かる。まるで小さな昆虫でも這いずり回っているかのように胃が痙攣し、真希は強烈な痛みに喘ぎ胸を抑える。この動悸と胃の不快感を収めない限り歩くことも、酸素を吸うことすら不可能な気がした。

 血の記憶――夢の中でもわたしは、平穏でいることを許されないのか。真希は自らが壊れてしまうのではと思うくらいの体の軋みに耐え、辛うじて時計を見る。時刻はまだ午前五時を少し回ったところだった。まだ二時間、体調を整えるのに使用できることは幸運なのか、不運なのか。考えるよりも先ず身体の方だと思い、真希はマラソンの授業で教師に教えられた呼吸法を試した。息苦しい時は、大きく二度息を吸い、短く四度吐く。

 何度も何度も繰り返していくうち、ようやく胸の動悸が収まって来た。脳内の白濁感も薄まり、徐々にだがクリアな思考が蘇る。しかし、小一時間は立ち上がることすらできなかった。それくらい、先程の夢は真希の心身を疲弊させていた。

 もう、二度と――少なくとも苦しみと共に思い出すことはないと信じていた記憶。それが、ひび割れた壁から滲む水のようにどんどんと染み出してくる。満面の痛みを伴い――そう、まるで過去が未来に復讐するようにして真希の心に固着する。赤想の、記憶が――蘇っていく。

 蓄積し、堆積するそれらがどのような一点に収束しようとしているのか。真希には、それが何となく理解できていた。全て、赤の思い出に彩られた日の為に遡っている。確信は持てなかったが、その日になると妙に不安定へと走る自らを鑑みるに間違いないと思った。

 それまでにわたしはいくつ、身を焦がすような苦しみの記憶を脳裏に留めるのだろうか? 自問してみたが、おおよそ予想もつかなかった。そして、聖誕祭の日に遡り収束しているといっても、具体的なことは何一つ分からない。つまりは、折原浩平や七瀬留美に抱く深い憎しみと反面する痛みに似ていて、強い激情は湧くのだけれどその大元が理解できなかった。

 理解できないものほど恐ろしいものはない。真希は小学生、中学生の時期に体験した幾つかの出来事を通して深く確信している。侵食する悪夢、苦痛に満ちた現実、人を傷付けることにしか存在を表し得ぬ自己。笑顔も歪み張り付き、何時しか目の前まで狂気の帳が迫っていた。このままでは間違いなく、わたしは壊れてしまう――。

 しかし、そのことが分かっていても何も変わらない。変節に抗う術を持たないのだから。真希は諦観にも似た想いを胸に抱き、再びベッドに倒れ込んだ。目覚し時計を待ち合わせ時間から鑑みてギリギリの時刻に合わせ、横になる。目を閉じると泥のように深い眠りに陥りそうで、目を開け微かに茶色くくすんだ天井の染みをずっと眺めていた。

 三十分後、目覚し時計の音と共に真希は、催眠術から解けたかのように素早く無機質な表情で立ち上がった。先程までの恐慌が悪夢の続きであったかのように、たった今それが醒めたかのように、真希は日常に埋没していく。大急ぎで身支度を整え、朝食も食べずに飛び出す。五分の遅刻だったが、既に待ち合わせ場所には誰の姿もなかった。痺れを切らして先に行ったのだろうと断じ、駆け足で学校に向かおうとしたが、足は上手く動いてくれなかった。

 悪夢の力が現実に及ぼす影響は甚大だった。体力を使う如何様な行為さえ、今の真希には辛くて堪らない。結局、競歩にも似た緩い早足を保つのが精一杯だった。校門をくぐり、閑散とした表玄関を抜ける。教室に辿り着き、誰もいない教室で真希が見たのは黒板に書かれた下劣な中傷の文句だった。真希はしばらく、それを呆然と見つめていた。

『七瀬留美はだれとでもヤる』

 黒板に堂々と書かれた文字。流石にやり過ぎだと思い、どうしようか煩悶していると、遠くからこちらに向かう足音が聞こえてきた。疚しさと、今この場に入り込まれたら弁解が効かないことへの危惧感が、真希を教室から追い立て我武者羅な逃亡へと駆り立てる。廊下を抜け、階段を屋上一歩手前まで上ると力尽きるように尻餅をついた。

 静子の嫌がらせは真希の手を完全に離れていた。こうまでされたら最早、相手を試す云々で誤魔化せるレベルではない。どんな寛容を秘めた女性でも、なりふり構わず犯人を暴き立て、白日の元に曝すだろう。そして、そんなことをされればどのような言い逃れもできない。既に真希の名は長森瑞佳の脳裏に刻み込まれている。彼女は穏健でいつもは緩やかな雰囲気だが記憶力はかなり良い。自分の名前が忘れ去られているとは到底、考えられない。

 最悪だ――。

 始業のチャイムが鳴る五分程前、真希は疲れた身体をようやく教室へと進める気力を回復した。今、教室ではどんな事態が起きているだろう――陰鬱な想像を抱き、中へ入ると真希の視界に、件の人物が印象深く飛び込んでくる。全身を震わせ、俯き、ひたすら歯を食いしばる七瀬留美の姿が。教室にはかなりの人数が集まっているが、誰も彼女に救いの手を差し伸べようとはしない。あれほど取り巻き囃し立てていた男子連中も、ただ遠巻きに見守るのみだ。情けないこと、この上ない。

 女子の反応はもっと酷かった。元々、留美によくない印象を抱いていなかったのかもしれない。幾つかのグループに分かれ、面切ってではないにしても、女子達はひそひそと言葉を交わしながら留美を下賎の目で観察している。七瀬留美は正に、クラスの晒し者に等しかった。

 教室の一角で、ただ静子だけがほくそえみを密かに浮かべていた。彼女に付き添う三森節子と夕霧直美の二人の顔は、対照的に酷く居心地悪そうなものだった。流石にこれはやり過ぎだったと、そしてそれを知りながら抑止できなかったことを悔やんでいるに違いなかった。

 沈滞した雰囲気の中、何も事情を知らない一人の男子生徒が駆け足で教室に入ってくる。その生徒は硬直する七瀬とクラスメート達、そして黒板の文字を見比べ、一瞬酷く顔を歪めた。が、彼の行動は極めて迅速だった。即座に黒板の文字を消し、そして傍観しかできないクラスメート達をぐるりと睨みつける。まるで呪縛が解けたかのように、羞恥心や罪悪感が浮かんできたのであろう彼らは、皆一様にして彼――折原浩平から目を逸らした。

 そして、皆が動揺する隙を縫って留美を教室から連れ出す。まるで望まない結婚に身をやつす花嫁を結婚式で奪い取る色男のように、その仕草は二人に似合っていた。少なくとも、真希にはそう見えた。鮮やかな手並みだった。

 真希は、クラスの中で一番最後まで呆然と立ち尽くしていた。チャイムが鳴るまで、時間の流れがあることにすら気付かなかった。聴覚情報が刷り込まれた規則を手続きにして真希に現実を教えてくれなければ、ずっと立ち尽くしていたかもしれない。真希は子供じみた妄想を抱きつつも、表面上は冷静を装って席に着く。留美と浩平も、呼応したかのように戻ってくる。相変わらず二人を好奇の視線で見るものもいたが、浩平の一瞥が効いたのだろう。大半は、中立の傍観を決め込んでいた。

 朝礼が終わり、静子が真希の側にそっと近寄ってきた。その顔には充足感などなく、寧ろ左程傷ついた様子を見せないことに苛立ちすら募らせているようだった。静子はそっと手招きをし、廊下に来るようにと頭を下げる。従うしかない真希は、ゆっくりと立ち上がり昨日、一昨日と静子の哄笑をを聞いた階段の踊り場まで足を運ぶ。

「真希ぃ、今日は何で遅れたのよぉ」

 明らかに恨みがましさのこもった声。真希は、目の前の少女がいざとなったら簡単に自分を切り捨てる気であることを一瞬にして悟った。悟ると共に、強烈な形容し難い負の感情がわき出し、真希は深く頭を下げ反射的に謝っていた。

「ごめん、今日は身体の調子が悪くて出遅れたの」

「そう――なの? でも、そう言えば今日の真希って少し顔色が悪く見えるような――なんだ、そうだったんだ。良かった、私――真希に見捨てられたかと思って一瞬、凄く憎んじゃった。ごめんね、真希は今までもずっと私のことを考えてくれているのに――」

 静子は申し訳なさそうに真希の顔を窺ってくる。真希は、黒板の件はやり過ぎだと抗議しようとしたが、何故かできなかった。自分の心の何かが、激しい恐怖心と共にそれを押し留めたのだ。真希は結局、何か意見を言うことも歯止めになることもできなかった。

 果てしなく臆病な自分が嫌になる。いざという時には歯止めになると誓いを立てたのに、何もできない自分が悔しかった。真希はとぼとぼと教室に戻り、一時間目のテストを受ける。

 本当に気の狂いそうな一時が訪れるのは、テストが終わった休憩時間だった。明らかに渋い表情を浮かべた折原浩平が、真希の机の眼前に立ち、一瞬だが軽く睨みつける。その視線の刺々しさに、真希は既にことが悟られていることを確信した。

 真希は浩平の後に従い、教室を出る。少し離れた、人が寄り付きそうにないところで浩平は足を止めた。真希もそれに倣う。

「どうして、あんなことするんだ」

 浩平は、言いたいことは分かってるんだと宣言するかのように要点を端折り、真希を問い詰める。けど、他に可能性はないと分かっていても真希は相手の意図を直接聞くまで何も話す気にはなれない。浩平に対する正体の分からぬ憎しみも相俟って、真希は自分でも驚くほどの厳しさで言葉を返していた。

「唐突ね」

 真希は、釘を刺すように言葉を打ち付ける。しかし、浩平は意に介することなく言葉を続けた。

「こっちとしてはあらゆる準備をしてお前に話し掛けてるんだけどな」

 準備――先日の探偵ごっこのこと? 手の平に踊らされてるのはあんたの方じゃない、あれは一切合財わたしが仕組んだことなのよ。そう告白したい気持ちが喉の奥まで競り上がってきたが、真希は口に出さない。黙って、相手の意を受け流そうとする。

「で、質問はなんだっけ?」

 あくまですっ呆ける真希の言い草に、浩平は表情を引き締める。語調を先鋭化し明らかな嫌悪を声に滲ませ、改めて真希に問うた。

「七瀬に対する仕打ちだよ」

 七瀬――七瀬留美。やはり浩平の行動は、七瀬留美への仕打を見かねてのものなのだと、真希は改めて理解する。そして、浩平の凍り付いたような声。鼓膜を震わす彼の言葉は、しかし真希の心に今まで以上の作用を及ぼす。

 心臓が、ひどく鼓動を打っていた。浩平の声を思い出すと、その動きはますます盛んになる。狼狽して思わず浩平の顔を覗き込んだ真希は、浩平の顔を直視できない自分に気付く。ちらと映った浩平の姿が、真希の胸に鋭い痛みを与えた。痛みが増すごとに苦しさと、判じ得ぬ切なさが募る。

 自らに湧き上がった衝動が何なのか。一度、その感情に身をやつしたことのある真希にはすぐ分かった。それ故に、真希は今までに抱いたことのないレベルの怒りを浩平に抱く。想いを打ち消したくて、わざとらしいまでの辛辣さをもって目の前の相手と対峙した。

「よくあることじゃない。ないほうが不思議じゃない?」

 生まれてしまった想いが信じられなくて、友達を裏切るような感情が生まれたことが悔しくて、全てを恨みに変えて浩平にぶつけなければ気がすまなかった。真希は初めて、自ら進んで能動的に人を傷付けたいと望んだ。折原浩平という男性の存在が、真希にはどうしても許せなかった。

 ただ、その想いだけが今の真希を突き動かしている。

「洗礼ってやつよ。新しく外からやってくるとね、そういうものを受けなきゃいけないのよ。いきなり輪に入って仲良くやっていこうなんて彼女も思ってないでしょ?」

 洗礼という言葉が自然と口から零れたことも、真希には知覚されない。それが、彼女の二番目の母親の口癖だということも――最終的に彼女を追い詰めいたぶるための正当化として使われたということも。真希が、その時と同じ行為をそのまま七瀬留美にやろうとしていたことも、その頭からは完全に抜け落ちていた。今はただ、浩平を屈服させたかった。平定され、惨めに場を去る彼を見て感情の否定材料にしたかった。

 しかし、折原浩平という男性は少々皮肉めいたことを言われたくらいでは一歩も怯まない人物だった。浩平は相変わらずの真摯な眼差しを崩さない。

「そうか……? 俺にはひがみとしか思えないけどな」

「ひがみ……?」

 浩平はどうやらわたしたちが、可愛くて目立つ転校生をひがんで行為に及んでいると考えているらしい――事情を知らないとはいえ、そんな認識しか持てない浩平の浅墓さを、真希は心底蔑んだ。と同時に、この対話がどこまで言っても交わらない平行線となる必然性を、明確に突きつける。それに、理由を話すことは偽善でしかないと思った。

 ただ、それでも浩平は説得の機会があると信じているらしく、説教を続ける。逃げ出そうにも、退路を塞がれていて逃れようがない。身体は蛇に睨まれた蛙のように動かないし、箴言を身に受ける度、訳もなく胸が痛くて切なくて堪らなくなる。

「別に七瀬はお前達の内輪に加わろうなんてしたわけじゃない。それでも、嫌がらせをするのはお前達があいつを潰そうとしているからだろう。それが洗礼か? それを乗り越えられればおまえたちと分かり合えるとでもいうのか?」

 留美と分かり合う気など真希にはない。そんな義理もない。そう、それだけは浩平の言葉が正しい。真希のやっていることは理由と経過はどうあれ、一人の人間を踏み躙っている。倫理、論理、道理、哲理、どの理からも外れているだろう。

「そうよ。きっといい友達になれると思うわ。すごく可愛い子だもの、みんな大歓迎よ」

 けど真希は、世間慣れしていない男子生徒が抱きそうな幻想を敢えて口にしてみせた。現実には可愛い子が受ける恩恵なんてたかがしれているし、喧嘩した同士が新たな友情で結ばれるなんてドラマやアニメみたいなことは、滅多に起こりえない。浩平はそのちゃらちゃらとした言動とは裏腹にそのことをよく理解しているらしく、怒気のこもった視線を真希に叩きつけた。

「あほっ……とにかく度が過ぎてるぞ。目に余る」

 罵り、それからわざとらしく溜息を一つ吐いた後、浩平は真希の反論を待たずに場を去った。彼も、これ以上話し合いをしたところで平行線になることは必定だと感じたのだろう。或いは、単なる警告に留めておいたのかもしれない。どちらにしろ、真希が虚勢を保つのはこれが限界だった。膝は今でもがくがくと震えているし、屈辱感は全身から滲み出て止まない。なのに、一つの方向性に向かい出した心も歩むことを止めない。

 様々な苦言を受けながら、確かに自分は――。

 折原浩平に、恋焦がれていたということ――。

 何時の間、何時の間にかに――。

 ふと、恭崎鈴華の言葉が蘇る。

『それに――折原にそういう感情を抱いているのは寧ろ――真希の方じゃないの?』

 もしかして、元々そういう素養があったのだろうか? それが、真剣な説教を受けたせいで爆発的に目覚めたのだろうか――馬鹿馬鹿しいと、真希は一蹴する。そんな、陳腐な三流のドラマみたいなことある訳が、あって良い筈が――。

 でも、それなら彼女と話している折原浩平の姿を見て何故、胸を痛める? 思い浮かべ、懸想し、悩み、苦しんでいる?

 何よりどうして――。

 この痛みは治まらない――?

 もう、恋なんてしない筈だったのに――。

 分かんない。

 何も分かんないよ――。

 助けて、誰か――助けて――。

 この痛みの正体を教えて。

 この痛みを無くす方法を教えてよ。

 誰か――。

 

 学校に行くのが憂鬱だった。

 何もかも手付かずのテスト勉強も、復讐ももううんざりだ。

 結局、皆、痛いものを全部わたしに押し付けている。

 畜生畜生畜生――。

 

 けど学校を休む勇気はなく、広瀬真希は昨日と同じ教科書の入った鞄を無造作に拾い上げて家を出た。朝食も手をつけず、髪も適当に撫で付けただけだが、ばれたとしてもどうでも良いと思った。

 待ち合わせ――麻見静子の多弁な悪意にも、もう慣れた。気まずい朝の登校にも、悪戯行為にも。椅子への画鋲の装飾も、不実な利便行為にも、もう慣れた。

 七瀬留美が、寂しい目付きで画鋲を外していく様子を眺めるのにも――。

 哀しい顔のその隣、折原浩平の瞳が真希を一瞬だけ鋭く射抜く。彼の視線にだけ、真希はどうしても慣れることができない。留美の作業を手伝う浩平の様子を見ていると、頭が変になりそうだった。

ふと、真希は留美も自分が苛めに加担していることを知っているのかと考える。恐らく、知っているだろう。憎んでいるのだろうか――恐らくそうなのだろう。真希にできるのは推定だけだったが、あんな中傷をされて何も思わない人間がいないであろうことは十分に分かる。

 想像するだけで何故か、泣けてきそうだった。そして、真希はやはり、学校なんて来るんじゃなかったと、死ぬほど後悔した。

 自然と、真希の心に自己嫌悪が沸いてくる。人を傷付けることより、傷付けられることより、大切に思ってきた友情さえよりも、自分勝手な恋情にばかり身をうつしている自分に反吐が出そうだった。何て自分勝手なんだろう――。

 目を合わせればどんな人間にも文句をつけて詰ってしまいそうで、真希は席に座ったまま一人、俯いていた。何時の間にか、朝のホームルームが終わったのだろう。辺りががやがやと騒がしくなる。最終日だけあって皆、準備にも余裕が感じられた。対策を練らないと拙い教科が減っていくのだから、当然かもしれない。その例外とも言える真希は、いつもと変わらぬペースで淡々と進められるテストと付随する答案を適当に埋めていった。

 そして、最後のチャイムが鳴る。元々、嬉しいことを表現するのに大袈裟なクラスの男子生徒たちは肩を組み合ったり、手を打ち合わせたりして試験からの解放を喜んでいた。馬鹿らしい、真希はそう一蹴して、放課後になるとすぐ抜け出せるよう、ホームルーム時から下校の準備を整えていた。

 しかし、その目論見も御和算になる。放課後になってすぐ、真希は自分の元に、誰かが近づいてくるのを感じた。そっと振り向き、そして一瞬で目を逸らす。七瀬留美だった。彼女は、手に可愛らしいリボンのついた袋を持っている。真希には中身が何かはともかく、その用途については簡単に想像がついてしまった。大方、事情を知った上でのご機嫌取りだろう。

 予想通り、留美はおそるおそる留美の前に止まる。教室の一部に緊張が走り、それはやがて全体に伝播していく。まるで舞台の一シーンのように、教室はしんと静まり返る。最悪の間が、真希のために醸成されつつあった。

 側に来ると、バニラエッセンスの甘ったるい匂いがする。形状からして、恐らくそれが用いられる最もオーソドックスな菓子だと、真希はあたりをつける。

「あの広瀬さん、クッキー焼いてきたんだけどみんなでどうかな?あんまり味は保証できないけど……あは」

 ひきつった笑みを浮かべ、それでも必死に取り繕おうとする留美。成程、他意はなくともこの笑顔で話し掛けられたら初見でも転ぶ人間はいるだろうと、真希は意地汚く評した。

 更には留美が全ての事情を知っていることを理解している。憎んでいる筈なのに、易々と笑顔を浮かべて見せることのできる留美を見て、湯沸し器のように怒りが瞬間的に発生した。許し難いのならば、始めからそう分かるようにしてくれれば良い。それなのに――。

 偽善者だ。

 お前のような笑顔を浮かべる奴は皆――。

 最低の偽善者だ――。

 真希はクッキーを一つ取り出し、まず形の幼稚さを嘲笑って見せた。

「はは、くまさんだってさ、だっさ」

 早速、困惑する留美の表情。しかし、彼女は笑顔を崩さず食い下がる形で真希にクッキーを薦めてくる。

「やっぱり、くまさんはダサかった? あはは……でも味はいけると思うよ」

「ふん」

 真希は鼻息を鳴らし、つまらなさそうにクッキーを一つ口に運ぶ。多少、冷めてぱさついてはいるものの、年頃の女性のことを考えた甘さ控え目の菓子。

「まっず」

「えっ?」

 わざとらしく嘘を吐き、口の中に入っていない半分を吐き出す。からと音を立て、地面に落ちる手作りのクッキー。留美の惚けたような声が、真希には滑稽に聞こえた。

「返すわ」

「わっ!」

 地面に叩きつけるよう、放り投げた袋からクッキーが溢れ出る。ぐしゃと、音がするほどの強さでクッキーを踏み潰し、自分でもこれ以上できないくらいの意地悪い笑みを浮かべると、流石に留美の顔色と表情が変わった。明らかに激昂のスイッチが入ったのが真希には分かる。

 三年前の、あの時と全く同じだから――。

 あの女――。

 七瀬留美?

 いや、違う――。

 違う――。

 留美が激昂の頂点の元、何か声を張り上げようとしている。その表情を覗きみた真希の心に、雑多複雑な感情――しかも到底、信じられないタイプの感情が浮かんでくる。

 しかし、真希がその感情を検証する時は与えられない。

 突如、ばあんと強く机を叩く音がした。

 皆が――七瀬留美も含めて、新たな喧騒の主を確かめようと首を回す。その間に、音の主は険しい表情で颯爽と真希の元に近寄ってきた。

 普段の柔和な雰囲気とはかけ離れた、折原浩平の姿がそこにあった。

「ちょっと来いっ!」

 浩平は真希の手を取り、強引に教室から引きずり出そうとしていた。真希は手を掴まれた途端、自分でも嫌にくらい肌の紅潮するのが分かって思わず抵抗しようとする。しかし、浩平は許してくれない。更に厳しい怒声をとばす。

「いいから来るんだっ!」

 クラスが、まるで早朝の町のように静まり返る。真希は、百獣の王に射竦められた草食動物の如く、唯々諾々として浩平の行き先について従うしかなかった。浩平は真希の手を掴んだまま、廊下を横切り階段を上っていく。最上階に来ても更に上に進もうとしていることから、目的地が屋上であることは容易に確信できた。

 もしかして、怒りの余り屋上から突き落とされるのではという、突拍子もない想像が真希の脳裏に浮かぶ。他の人間なら一蹴できるそれも、真希にとっては現実性をもっていた。

 屋上――。

 真上に臨む太陽が、不思議と暗い。

 眩暈がしているのかもしれない。

 おかあさん――。

 何故か、胸焦がれるような感情だけが燻って消えない。

 七瀬留美――。

 変だ――。

 わたし、さっき一瞬だけ同じ感情を抱いた――。

 浩平がドアを背に立ち塞がる。

 どうやら、納得するまではここから逃がしてくれそうになかった。

 真希は大きく一つ、息を飲んだ。

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