−9−

「君は、誰よりも何よりも他者に嫌われるのが怖いんだよ――違うかい?」

 恭崎鈴華が細い腰に手を当ててもう一度、念を押すように言った。広瀬真希は、まだままならぬ頭脳を総動員してその意味を噛み締める。他者に嫌われる恐怖――嫌われることを忌避する心理動作。そんな馬鹿なと一蹴に伏してしまいたかったが、思い起こせば思い起こすほど、真希にとって確からしい事実として認識されていく。

 第一に、これほど嫌悪感を抱いているのに、いざとなったら麻見静子のことをどうしても制止できない心理状況に、悲しいくらいよく当てはまった。何度も止めようと思ったのに、その先のことを考えるとどうしても震えが止まらず、是認に流されることしかできなかったこと。鈴華に対して拒絶の意志を示す静子を見てから、更に高まった恐怖の奔流。それは、彼女を諌めることでどのような結果が現れるか、無意識のうちに理解していたからに違いなかった。

 第二に、折原浩平に対する反応があった。七瀬留美と仲良くしているのを見て苦しかったのも、屋上で追い詰められて気が狂わんばかりになったのも、彼に嫌われるという行為と密接に結びついていたに違いない。特に真希は、勘違いして恋心だと断定していたことを特に強調した。と同時に、それだけは胸の中で安堵の対象となる。

 第三に、七瀬留美に対する反応だ。少しでも嫌な部分を何としてでも見つけようとしていたのは、彼女に嫌われることで発生する感情を抑えるためということもあったのかもしれない。勿論、それだけではないことも真希は十分、承知していた。相手のことを一面的に捉えようとしてきた、傲慢さもそこにはあった。ただ、そのどちらも留美自身によって完全に引き裂かれた。弱い自分ばかりを認識させられる結果となった。留美の後ろ姿を見続けながら、餌も貰えない小鳥のように震えていた。その反応こそが、鈴華の言葉を指示する最も強固なものに違いない。

 最後にもう一つ、何かとても重要なものが抜けているような気がした。ただ、それだけは今の真希にも分からない。しかし、己の心を支配していたものの正体は十分に分かる。分かるのだが、理解することで即、真希の心に安寧が訪れることはなかった。その原因を、真希は知っている。そしてそれがかつて、嫌というほどに自分を苦しめたことも。他者からの排除、そして徹底的な嫌悪――辛く悲しいあれらの出来事が、きっと残っているのだ。

「ええ、合ってると思う――多分」

 多分と答えたのは、真希の心にまだ釈然としないものが残っていたからだった。九割方は、間違いなくその通りだ。しかし、何か他者から嫌われることへの恐怖と位置付けてしまうには、納得できないものが真希の中にある。それもまた、確かだった。

 だが、今は不定なものに心を奪われている場合ではなかった。真希には、鈴華に聞きたいことが山ほどある。一つの事実がそれらしいと判明したことにより、知に対する欲求は真希の中で何倍もの割合を占め始めていた。知ったからこそ知らねばならないことを、真希は素早く尋ねる。それは、自分を苦しめるものにどう立ち向かえば良いか、ということだ。

「でも、知ったからと言って意味があるの? わたしは結局、この事実をどう受け止めて良いのか分からない。そんなの、意味ないじゃん。わたしは――この苦しみがどうやったら消えるか知りたい。他人に答えを求めるのは卑怯だって分かってる上で聞きたい。自分のことすら分からないくらいに、わたしは気が変になってるらしいから」

「そんなことはない。銃を何も知らずに使用することと、人殺しの道具だと認知した上で敢えて使用することには雲泥の差がある。己の心を知れば、己の心をどう扱えば良いのか、じっくりと考えることができる。何も知らなければ、考えることすらできない」

 だから、その考えることが苦痛なのだ。第一、例えが悪過ぎる。知っていようが知っていまいが、銃は銃だ。それは、人を殺すのだ――何が変わる? 絶対に人を殺すと分かっていて、それでも撃つしかできないなんて残酷すぎる。だからこそ、真希は声を張り上げた。悲痛な叫びを、保健室中に響かせた。

「じゃあ、分かった上で考えろって言うの? 血反吐の苦しみを味わうと分かってるのに、それでも考えろって言うの? 嫌、嫌よそんなの、まっぴらよっ。苦しいのは嫌なの、苦しみたくないのよっ!」

 苦しむと分かっていながら考えるなんて、絶望にも似た行為だ。真希はそう断言して、何とかならないかと鈴華に縋る。しかし、視線はふいと逸らされ、返って来たのは冷たい言葉だった。

「無理だね、そんなの無理だよ。このまま、何もしなければ結局は静子に嫌われる。かといって、苛めに加担し続ければ折原浩平と七瀬留美に嫌われる。彼らから嫌われることを避けるならば、苛めることを止めなければならない。しかし、それでは静子に嫌われる。かといって――」

「やめてえっ! お願い、やめてよぉ――繰り返さないで、耳元で繰り返さないでよぉ。どうして苦しめるの? 鈴華はわたしのことをわたしよりもよく知ってるのに、どうしてわたしを救ってくれないの? 何で苦しめるの、酷い、酷いよぉっ!」

 真希は耳を塞ぎ、いやいやと首を振る。あまりに激しい挙動を見て、流石の鈴華も肩をすぼませ、素直に頭を下げる。いつもの不遜な態度とは似ても似つかぬ丁重な辞儀だった。

「悪い、さっきのは言い過ぎた。君がその、そこまで取り乱すとは思わなかったんだ。でも、僕の言いたいことも分かるだろう? 確かに、僕は標的を教えることができる。弾の込め方も、構え方も、照準の合わせ方も教えることができるだろう。けど――引き金は真希自身が引くしかないんだ」

 先程よりは幾分穏やかな口調だが、それでも恐慌をきたした真希の頭にその例えは難し過ぎた。回りくどい言い方は鈴華の悪い癖だと思っていたが、ここまで苛々させられるのは初めてだ。心に余裕がないと揶揄されそうだが、真希はそれでも構わないと思った。いや、本当は分かっていたのかもしれない。ただ、鈴華の口からはっきりと指摘されるのが真希には怖かったのだ。

「だから、何が、言いたいのよっ!」

 一文節ずつ、真希はまるで理解力の足りない生徒に嫌々ながら教える、教師の如き口調で激しく尋ねる。対する鈴華は、比喩を並べても全く察しようとしない真希に、揶揄することも軽蔑することもなかった。その口調はただ、厳しかった。

「どちらかを殺さなければ、君は生き残れない。言い換えれば、どちらかを傷付けねば、嫌われてしまわなければ、いけないってことだよ。そして僕は、真希がどちらを傷付けなければならないか、理解しているという認識を持っている」

 まるで死刑宣告を聞かされた刑囚のように、真希は大きく唾を飲み込む。理解は一瞬で全身を包み、生理現象へとフィード・バックがかかる。想像、胸の動悸、極度の緊張――人が恐怖を恋と錯覚させるように、恋だと人を錯覚させるような恐怖が真希の中にある。深淵のあまりの深さに、真希は思わず弱音を吐く。覗き込むことすら許せぬような闇がそこにあった。

「でも、鈴華は言ったじゃない。わたしは嫌われるのを怖がってるんだって。そう、今では凄く理解してる。わたしは誰にも嫌われたくない。そんな残酷なこと――」

嫌われることも、傷付けることもしたくない。それが真希の本音だったが、鈴華はそれを許さなかった。辛そうに顔を歪め、鈴華は首を横に振る。

「誰にも嫌われず、傷付けず、生きていくことなんてできない」

 その言葉は冷たいのに、どこか真希を惹きつけるものがあった。

「誰かを傷付けず、嫌われず、そんな風に生きていくなんて人間にはできない。だってそうだろ、僕たちはこんなにも不器用なんだ。自分の心すら満足に理解できないくらい、救いようがないくらい、不器用なんだよ」

 まるで、彼女自身がそれを体験したかのように切々と、しかし力強く語られていく言葉。人の心が不器用だということは、真希を救ってはくれない。傷付けず、嫌われず生きていくことができないという事実も、真希にとっては鉛のように重い。ただ、人間は誰しも不器用だという推測――或いは希望めいた願いは、多少なりとも助けになりそうな気がした。自分だけが不器用で、みっともなく、情けなくて堪らないと思っていたからこそ、雀の涙ほどの慰めが嬉しかった。

 鈴華は真希の瞳に微かな慰めを感じ取ったのか、幾分は顔を綻ばせる。彼女は、真希の肩に手を載せた。きっと、これからが本当に言いたいことなんだろう。真希はそう推測する。

「不器用だから、人は苦しむ。だからこそ器用に立ち回ろうと、不器用であることを隠そうと、不器用ではないと声を張り上げることで、何とか苦しみから逃れようとする。違うんだ、それは真に苦しみから抜け出す方法じゃない。不器用だと悟り、その中でできる精一杯のことを考え、後悔するかもしれないけど、実行すること。今の苦しみから逃げないこと。将来、誇れるようなことでなくても良い、誇ろうなんて考えなくて良い。ただ、未来に己を振り返り、せめてやれるだけのことはやれたと思えることが、多分大切なんだ。未来の自分が苦しまない為に、今の苦しみから逃げちゃいけない。僕はそう思うし、きっとそれこそが苦しみから抜け出すということなのだろうね。それは、苦しまないということと同義ではない」

 決して流暢ではないけれど訥々と語られる鈴華の哲学は、今までの真希に及ぶことすら認めない深淵に等しかった。苦しみから抜け出すということは、単に苦しまないという状況に己を誘導することだと真希は認識していた。だが、鈴華は未来の自分が苦しまない為にも今の苦しみから逃げてはいけないと言った。それが、苦しみから抜け出す方法だと。

 目から鱗の落ちそうな、心理的盲点だった。と同時に、それは真希にとって己の心を映し出す鏡のようなものでもある。過去の自分は苦しみから逃げようとばかり試みてきたことを、改めて思い知らされた。苦しみと対峙せず、心の中で消化することをせずに堆積してきたものの総和が今の苦しみを形作っている。それは、間違いなさそうだった。その歪みこそが、蝙蝠のようなどっちつかずの態度と他者からの拒絶に対する恐怖を生み出していることは、今や真希にとって自明であった。現代の自分もまた、苦しみからただ逃げようとしている。となれば将来、過去と現在の総和がまるで復讐者のように未来へ押し寄せることとなるかもしれない。真希にはおぼろげだが、その様子が想像できて思わず肩を震わせた。

 過去はいつも、未来に復讐する。取り分け、精一杯に過去を生きなかった人間に対して執拗に、より悪辣に。確信はないが、きっとそうだと思った。真希は、震えない喉を恨めしく思いながら、何とかざらつくような声をあげる。

「わたしは――対決しなきゃいけないの?」

 弱い自分、傷付けたもの、今から傷付けようとしているもの。全てに対して正面から向き合う必要がある。しかし、できるだろうか? 真希は何度も己を問い詰めたが、どうしても結論が出せない。いくら自分のことを理解できても、やるべきことが分かっても、やるべきことと信じていても、それを否定してくる自分がいる。何者へも耳を貸すな、何も見るな喋るな感じるなそうすれば傷つきはしないと誘惑する自分がいる。

 けど、耳を塞いでただ怯えるのはもううんざりだった。何も見ない振りをする愚は犯したくない。心を伝える手段を自ら捨てるなんて考えない。何より全てを遮断し、大切なもの、素敵なもの、優しいもの、有り難いもの、全てを否定などしたくない。

 負ではなく正のものを信じることで、真希は僅かだけ強くなれた。

「あの子を傷付けることと知っていても――そう、今だったら少しだけ分かるみたい。意味の無い優しさとか純粋だっていうものが、必ずしも良いものじゃないんだって。矛盾しているかもしれないけど、厳しさや不純の中にある優しさもあるのよね、きっと。わたしは今、そうなることを求められているし、そうしなければいけない、そうでしょ?」

 先程よりも生気の戻った上体を傾け、真希が鈴華に問う。しかし、答えが返ることを期待していた訳ではない。真希は、彼女が誘導することはあっても決断は絶対自分に取らせると分かっていたし、真希の心も既に定まっていた。だから、真希の声は自信に溢れていたし、鈴華もただ微かに微笑んだだけだった。彼女の計算通りかもしれないが、その計算は今の場合、真希の幸福へと素直に向いている。だから、嫌な気持ちは全くしなかった。

「それだけ分かっているのだったら、僕に言えることは何もない。道化役は喜んで舞台の袖に引こうじゃないか。では、僕はこれで失礼するね。あ、それとできたら首尾がどうなったのかくらいは、事後報告をお願いということで。それじゃ」

 鈴華がある意味で予想通りのことを述べると、早口にまくし立て保健室から立ち去ろうとする。真希は、決して丁寧ではないけど幾許かの助言をくれた友人に気の利いた感謝の言葉を述べたかった。自分も心に残る言葉を何か、紡ぎたかった。けど、頭脳は空転するばかり――焦る真希には相手を留めおく一言しか口にはできなかった。

「あ、あのっ――あの――ね」

 ドアに手をかけようとした鈴華が、ふと足を止める。真希は何度か深呼吸をし、首を傾げ、胸に残る感謝の気持ちを全て伝えたかった。今、それができなければ言葉に価値などないとすら思えたほどだ。しかし、実際は最低限のものを慌てながら伝えることしかできない。

「ありがと――こんな、救い難いわたしに手を差し伸べてくれて、ありがとね。ああもうっ、上手い言葉がでないけどさ、それだけは言っときたいのよ」

 感謝の意にしては語尾が逆切れ気味で、赤面するほど恥ずかしかった。これでは、感謝しているのか怒鳴っているのか分からないに違いない。真希は上目遣いに鈴華の顔を覗き込んだのだが、予想に反して彼女は失笑を浮かべていた。

「ふふ、やっぱり真希はからかい甲斐がある」

「うっ――な、何よそれっ」

 真面目に心配したのに、この言い草だ。真希は相手を気遣っていたことも忘れ、思わず怒鳴り返していた。しかし、鈴華も全く怯まない。

「可愛いってことだよ。ああ、このいつもは威圧的で女王然としているけど、根はナイーブで恥ずかしがり屋で照れ屋だということを僕の口から余すことなく伝えられたらなあ。きっと対男性効果三十ポイントアップだ」

 すっかり角の取れた口調に、真希は頭が痛くなって来た。少しでも尊敬の念を目の前の女性に抱いたことが馬鹿みたいにすら思える。というか、対男性効果とは何だと問い詰めてしまいたかったが、泥沼になりそうで止めた。変わりに精一杯の皮肉をプレゼントする。

「ったく、感謝の意くらい素直に受け取りなさいよ」

「感謝の意を素直に表さない、君に言われたくはないね」

 打てば響くような鈴華の返答に、しばしの沈黙が場を支配する。だが、それも僅かな時のことで、真希は耐え切れずに小さな笑いをもらした。素直でない点についてはどっちもどっちだと思ったから。変なことに反応してるという自覚はあったが、久々に腹の底から笑えたと感じただけで、些細なことなど吹き飛んでいた。真希は拙い笑いの中で、素直に本音を心の中に見出していた。

「わたしは、感謝してるわよ。鈴華がわたしの味方で、友人であってくれて本当に良かった」

 彼女は小さく俯き、沈思する。それから黙ってドアを開け颯爽と踊るように半回転し、顔がようやく一つ見えるくらいまでドアを閉め、にこりと微笑む。

「僕も真希が感謝してくれているなら、これほど嬉しいことはない」

 鈴華は少し照れ臭そうに、そう口にするとドアを完全に閉めて保健室を後にした。真希は、これで最後よと言わんばかりに小さく微笑み、すぐに表情を正す。何につけても、先ずは静子と会い、そして対峙しなければならなかった。

 保健室にいるということを、多分静子は知らない。そして、浩平がよもや屋上に自分を連れ込んだことも想像していないだろう。だから、何処かでじっと待っていると真希は想像した。恐らく、教室が最も確率の高い場所の筈だ。しばらくしても保健教諭は一向に現れないので、真希はベッドの乱れを質した後、滞在記録に書き込みをしてからそっと部屋を出た。無人にするのは少し忍びなかったが、保健室に金目の物があるとも思えなかったので、真希は敢えて目を瞑った。

 多少は軽くなったものの、未だ重苦しい足を引きずるようにして一歩、また一歩。上履きと床の擦れる音が、試験直後で人気のない教室に高く響く。微かな埃が、窓からすり抜けた光に混じり虹色に舞う。自分には過ぎた光だと思いながら、真希は自らの教室へと近づいていった。

 そして、距離にして数メートルまで近づいた時、複数の人間の気配を感じ、真希は思わず息を飲んだ。耳を潜めると、静子の明らかに苛立った声が聞こえてくる。

「どうしよう――真希、全然帰ってこないよぉ。もう二時間も経つのに戻って来ない――きっと、折原が真希のこと、酷い目に合わせてるんだ。どうしよう、どうしよう――」

 静子は明らかに、真希が浩平に苛虐を加えられていると誤解していた。しかし、ある意味では誤解するのも分からなくない状況だったから、真希は顔を出して早く静子や、同じく教室で待ち続ける三森節子や夕霧直美のことを安心させてあげたいと思った。なのに――いざとなると、足が動かない。彼女達の前に姿を表す自信が、どうしてもわいて来なかった。

 真希が躊躇していると、教室から節子のはきはきとしてそれでいて優しい声音が聞こえてくる。彼女が何事もなく場を収めてしまうことを僅かだけ期待してしまい、真希は足を止めた。

「大丈夫よぉ――真希はああ見えて強いんだから。伊達に女王様然としてないって、いざとなったら折原に噛み付いてでも逃げ出してるって。もしかしたら、殴り合いの喧嘩をして、打ち負かしちゃってるかも」

「そ、そんなの、無理よ、無理に決まってるじゃないっ!」

 しかし、節子の軽く偏見の入った物言いに、静子はただヒステリックに返すだけだった。それがいかに無茶なことかを証明するため、彼女は言葉を続ける。

「相手は男なんだよ、勝てないよ。男は力が強くて、乱暴で、組み伏せられたら抵抗する暇なんてくれないのに――抵抗しても、許してくれないのにっ! 真希が無事に戻ってこれる筈がないよおっ! 駄目だよぉ――やっぱり私、真希のこと探してくる」

 椅子を蹴倒す大仰な音が聞こえ、静子は駆け足で教室を飛び出した。当然、真希と廊下で鉢合わせすることになる。静子は求めていたものが眼前にいる驚きに、しばし眼を見広げていたが、すぐに弾丸のような勢いで抱きついてくる。真希は避ける暇もなく後ろに二、三歩よろめき、壁を背にすることで何とか起立の姿勢を保つことができた。

「今まで何処に行ってたの? 私、心配したんだから。何か変なことされなかった? 嫌なこと、されなかった?」

 慌てて問うてくるその仕草に、真希は小さな肯きを返す。静子は涙を流さんばかりに喉をしゃくり、未だにしがみついている。心底信頼しているのだ、自分を。それを裏切らざるを得ない立場にあるとは分かっていても、信頼を裏切ることに真希は強い罪悪感を覚えた。

「もしかして、本当にぶん殴ってきたぁ?」

 横からひょっこりと、夕霧直美が顔を出す。彼女は真希の武勇伝を心待ちにしているという調子で、興味深く静子との抱擁を見守っていた。

 そうよ、長い口論の末、一発ビンタをお見舞いして悠々と逃げてきたのよ――そう言えればどんなに楽だろうか? そして真希の喉にまでその台詞は出かかっていた。本当のことを言うのは辛い。しかし、辛いというのはただ自分が辛いだけ。苦しいのも怖いのも、ただ自分だけが被る感情だ。どれもこれもただ、嫌われて、拒絶されてしまうのを怖れるための自己弁護に過ぎない。自己欺瞞に対する理解が安易な同意の言葉を真希の胸に押し込める。

 代わりに――静子を苦しめるであろう言葉が、真希の口からもれた。

「ううん、違うわ――わたしは、殴り合うことも罵り合うこともしなかった。話し合い、和解してきたの。相手が悪くないということを、この目でしっかりと確認しただけよ」

 真希の言葉に、皆の動きが止まる。まるで、時が凍りついたようだった。否、周りの景色は確かに流れている。ただ、自分と対峙する者の空気だけがぴたりと止まっていた。壊したくないものを、必死に繋ぎとめるような沈黙。しかし、それも静子の一言によって崩れた。

「ちょっと――それ、どういうことなの? 和解したって、折原くんと? それとも――七瀬、留美と? 嘘だぁ、そんなの――嘘よね。真希は私のこと、裏切らないんだよね?」

 抱きしめた手を離し、静子は一歩後ずさった。今ならまだ、手を伸ばせば繋ぎ止められる。静子のことを傷付けることもない。しかし、真希は全身の苦しさを感じながらも言葉を続けた。

「ごめんね、静子。わたしが、あんなことを言って囃し立てたから――復讐しても良いって、憎んでも良いと思わせたから――でも、間違ってた。わたしが、間違ってたのよ。だから、もう、こんなことはやめようって、言いに来た。間違ってたことに気付いたから――」

 今度は心から正しいものを伝えたい、というつもりだった。しかし、静子が先に耳を塞ぎながら喚き立てた。

「やめてよっ! 何で今更、そんなこと言うのぉ? 真希も私を裏切るの? 見捨てちゃうの? 酷い、酷いよおっ! 私、信じてたのに――何があっても真希だけは私を裏切らないって信じてたのに――私の味方だって言ってくれたのに、嘘吐きっ!」

 裏切りという言葉が、真希の心を抉る。今まで正しいと教えたことを、いきなり嘘と翻すのだから当然の言葉だったとは思ったが、しかし正面切って言われるのは堪える。浴びせられて、ここまで苦痛なものだと、真希は知らなかった。ドラマで裏切り者、嘘吐きと罵られて平然としている憎まれ役がたまにいるが、真希にはとても信じられない。

 言い訳は絶対にするまいと誓ったのに、それでも詭弁を弄する誘惑に耐え切れず、真希は鈍く声をあげる。静子の瞳を、直視せずに。

「わ、わたしは――」

 だが、強烈な怒号は弱々しい言い訳を許さない。

「五月蝿い黙れ喋べんないでよっ! もう嫌、嫌っ――何で私だけこんな嫌な目に遭うのよぉ――傷付けられて、馬鹿にされて、裏切られて――やっぱり皆、私のことなんて構ってくれない、好きでいてくれない、愛してくれない――何でよおっ、私が何をしたのっ!」

 息を激しく荒げながら、静子は一人一人の瞳をぐるりと見て回る。真希はその凄絶さに、思わず誠実を背けた。最後まで、彼女の負の感情を受け止めることができなかった。それは節子も直美も一緒だった。それを確認すると、静子は怒鳴り続ける。

「ほら――誰も、愛してくれないじゃない。どうせ皆、私に協力する振りして最初から馬鹿にしてたんでしょ。もう、もう――良いよ。私だって、皆、嫌い――大嫌いっ! 死ね、死んじゃえっ!」

 静子は急に後ろを振り向き、全速力で走り出す。真希だけはそれを予測していたので、直ぐに加速をつけることができた。体は弱っていても、瞬発力で真希は負けていなかった。たちまち追いつき、静子を背中から抱きしめる。

「触らないでっ、離してよおっ!」

「お願い静子、わたしは貴女のこと嫌いになってなんか、痛っ!」

 興奮した静子は真希の言葉を待たず、その腕に鋭い歯を突き立てた。痛みで反射的に腕を引っ込めようとするが、静子の顎力はそれより強い。本気で腕の肉を、喰いちぎろうとしていた。想像しただけでもぞっとしたが、半面で真希は、少しでも静子の気が済むのなら腕の二箇所や三箇所くらい喰いちぎられても良いかな、と思った。

 だが、一方的な暴力は始まりと同じように一方的な形で終わる。すっかり力の抜けた腕を解き、最後に真希を壁に押しぶつけ、静子は再び疾走を始めた。そこに、節子と直美の二人が到着する。

「真希、大丈夫――ど、どうしたの、その腕――血塗れじゃない?」

 節子に指摘され、真希は己の腕を覗き見た。確かに結構な量の血で、真希は無意識のうちに取り乱してしまうかと思ったが、そんなことはなかった。例の仔犬の時とは境界線上が違うのだなとぼんやり考えながら、真希は微笑んだ。腕の痛みは激しいが、そうしなければ保健室という脇道に逸れてしまう。それでは遅いのだ。

「わたしは大丈夫、腕の傷だけよ。それより、静子を追わなきゃ。あの娘、興奮していて何が起こるか分からない――」

「そりゃ分かってるけど――真希こそどうしたの、いきなりあんなこと言い出してさぁ。私、ちょっと納得がいかない」

 直美が今更ながらに、事情を知らないことに対する不満を訴えてくる。

「それは、走りながら、離すわ。息が続けばの話だけどね――」

「腕の傷は? 酷い血が――」

 節子が尚も、血塗れの腕を見て心配している。真希は敢えて一蹴に伏した。

「ハンカチで縛っとけば、平気よっ!」

 これ以上の質問が鬱陶しいと言わんばかりに、真希はもつれる足を必死に立て直し、ポケットから取り出したハンカチで傷口を縛りながら思い切り走った。走りながら精一杯に折原浩平とのやり取り、七瀬留美との会話、恭崎鈴華との会話のことを捲くし立てた。節子と直美が納得したかは分からなかったが、最早話すことさえ億劫だったので確認はしなかった。ただ、何も考えずに走る。

 よくは分からないけど、真希にはとても嫌な予感がした。

 

―10―

 屋上でのやり取りの後、七瀬留美にこっぴどく叱られた折原浩平は一人、学校正門の壁に寄りかかり、一人誰かを待っていた。その対象は確率的に言えば留美なのだが、心の底では別の者を待ち望んでもいた。屋上で自らが追い詰めた存在――クラスメート、広瀬真希、それ以上の感情は多分、持ち合わせていないと浩平が信じている人間。

 真希の取り乱しように、浩平は少しやり過ぎたなと思っている。しかし、彼女の態度も取りあえずは問題だろうという感情も拭えなかった。あそこまで言われて、何もせず引き下がるほど浩平は人間ができていない。それに、真希の態度は何だか癪に触った。というより、その存在を身近に感じるだけで苛々する。理性が抑えきれず、浩平はあの時も強い行動に出た。自制しようと言葉だけは冷静を装ったが、真希が取り乱さなければきっと頬を一発ぶん殴っていた。浩平は右腕を何度か握ったり放したりしながら、肉のめり込む具合を計ろうとした。しかし、殆ど人を殴ったことのない浩平に、それは些か無理な想像だった。

 開いた手を見つめながら、浩平は軽く溜息を吐く。らしくないなと、思う。第一、溜息を吐くこと自体が自分らしくない。寧ろ、それは長森瑞佳に近い気がした。妙に気が利かないのに、お節介で心配性な瑞佳のことを考えていると、それは自らにも返ってくる。

 もし、自分が長森化していたら――と、浩平は妙なことを考えた。自分も、理由は分からないけど真希のことを気遣うか心配しているのかもしれない。でも、もしそうならそうで、理由がさっぱり分からなかった。あまり接点のない人間を気遣うような要因は、何処にもない筈なのだが――浩平は暫く頭を抱えていた。

「――分からん。俺の頭の構造はどうなっている?」

 中身を割って取り出し、観察してみたかったが間違いなく死ぬだろう。浩平は暇だからこんな馬鹿なことを考えるのだと心の中で毒づきながら、空を見上げる。蒼く広がる空に、薄い雲が微かにかかっている。憎々しいまでの晴天だった。太陽が眩しく、浩平はそっと目を閉じた。そしてもう一度、今度は優しく真希の姿を投影してみる。

 先ず、思い出されたのが弱々しく震える姿であったので浩平は驚いた。真希を知る人間なら、恐らくは誰もそんなイメージを心に描くことはしないだろう。集団の輪の中心で威風堂々としている姿、少し人を見下した感はあっても溌剌とした笑顔を思い浮かべる筈だ。浩平は変だなと、何度も心象風景を変えてみるのだけど、浮かんだイメージは収まらない。屋上での取り乱しようから遡り、浩平は一つの過去を掴む。酷く霞んで、殆ど見えない過去――。

『――いちゃん、――うよ』

 違う、何かが違う――何時の間にか、全く別のイメージが入り込んでいる。浩平は半ば恐慌と共に、それを認識する。真希――違う、全然違う何か、自分にとって恐怖の何かだ。

『――を――いてよ一度――で――から』

「違うっ、お前じゃないっ!」

 浩平は、思わず天に向かい叫んでいた。同時に瞼を開く。そこには今までより少し薄いものの、今までと変わらぬ日常の光景があった。浩平は安堵したが、しかしそれもすぐに破られる。

「あっ、その――折原――」

 視界の外から声が聞こえた。浩平が思わず振り返ると、そこに少し――いや、かなり困った顔の七瀬留美が立っていた。

「ごめん、その――あたしを待ってたんじゃないのよね?」

 留美は俯きそう呟いた後、慌てて手を振る。どうやら先程の言葉を勘違いしているらしかった。浩平はすぐに言い繕おうとしたが、留美の勢いある喋りの方が早い。

「もしかして――広瀬さんの方?」

 真希の名前が出たことで、浩平は僅かに動揺した。その分、いつもより話のスピードが早く、声も少し裏返っていた。

「いや、別に待ってた訳じゃない。ただ、中でどうなってるか気になってだな――様子を伺ってただけだぞ。それとさっきの言葉は七瀬に言ったんじゃない――その、立ちながら眠ってただけで、寝言だ。実は結構、得意技だったりするのだよ、七瀬君。ふはははは」

 誰が聞いてもあまりに不自然すぎると浩平は悟ったが、留美は奇跡的に何も咎めず、何も尋ねなかった。溜息を吐いているところからすれば、自分のことを馬鹿とでも思われているのだろうが、それくらいですむなら安いものだと浩平は安堵する。

「ところで、俺を追い出してまでの秘密の語らいの首尾はどうだった?」

 浩平は都合の悪い話題を無理矢理捻じ曲げようと、留美の事情を尋ねる。元々、それが聞きたくて待っていたようなものだった。しかし良好ではなかったのか、留美は先程前の渋い表情を苦しげに歪め、目を伏せた。

「分かんない。あたしも随分食い下がったけど、駄目だった」

 分からない――という評価が浩平には分からなかった。和解できたか和解出来なかったかのどちらかしか返ってこない筈の答えに分からないとは、変な言葉だった。

「分かんないって――まさか、余りに腹が立つことを言ったから顔にワンパン食らわせてやったら前後不肖、アリバイ工作をして脱出なんてオチじゃないだろうな?」

「するかっ! そんなことっ!」

 留美は思わず怒声をあげた。そして明らかに不信な居住まいの正し方をしてから、本題を続ける。

「本当、分かんなかった。正直、人を苛めるってタイプには全然思えなかった。凄い身勝手で許されない動機であんなことをしたとも話してたけど、理由を聞いても絶対に答えてくれなかった。あたしは悪くないって断言してくれたけど、理由は教えてくれなかった。ただ、謝ってた。謝ってたけど――答えを教えてはくれなかった。今は言えないって、泣きそうな顔をして――」

 切と紡がれる言葉は、浩平を不思議がらせる。てっきり、真希は屋上で自分にした類の話し方を留美にもしたと思っていた。しかし、話を聞くに驚くほど謙虚だったようだし、間違っていることはきちんと認識している。それでいて、真希は留美にあれほど酷い言葉を吐いたし、数々の嫌がらせを下してきた。聡くない浩平にも、そこに明らかな矛盾があることは理解できる。だが、何故という疑問に直面すると、留美と同じく首を捻らざるを得ないというのが現実だった。

「何か凄く困ってるようだった。折原も屋上で言ってたけど、他人には語れない理由ってのがあるんだと思う。でも、あたしにはそれが聞き出せなかった」

 その理由が聞き出せなかったことに、留美は強い後悔の念を感じている。

「あたしは広瀬さんの力になりたいよ。自分にしか抱え込めない苦しみで苦しむのは、本当に辛いことだから――」

 自分にしか抱え込めない苦しみ――留美はまるで自らにもそれがあるかのように語る。しかし、浩平は留美を詮索するようなことはしなかった。仕方がないなという風に首をふり、浩平は留美のことを諭す。

「でも、今は言えないって話したんだったら、いつかは話すってことだろ? それに、幾ら悩んでるからって七瀬にああいう仕打ちをするのは間違ってる。七瀬がこれ以上、譲歩する必要は無い」

 その言葉はある意味で正論だったが、当然のことながら留美は納得しない。

「そうだけど――でも、悔しいのよ。苛められて悔しいんじゃなくて、相手のことが分からないのが悔しいの」

 悔しいという感情は、浩平にも勿論ある。しかし、留美ほど強い欲求ではなかった。それに正直、今は真希のことをあまり考えたくない。あの哀しげな表情を思い出すと理由は分からないけど、何処か何かがおかしくなる。というより、先程見た白昼夢のような囁きの再現が怖いというのが本当のところだった。

 彼らにしては珍しく二人暫く黙っていたが、先にその雰囲気に耐えられなくなった浩平が気を紛らわすかのような大声をあげた。

「兎に角、七瀬にはあいつが単なる嫌な人間じゃないって分かったんだろう? それはそれで一歩前進じゃないか。折角、試験も終わったんだし、今日はもう考えるのを止めて商店街の方にでも繰り出そうじゃないか、友よ」

 ある意味で欲望剥き出しだが、それでいて気遣うような口調に留美は思わず小さく笑みをもらす。彼女は仕方ないなあとばかりに首を振り、自らを納得させるように言った。

「うん。あまり親しくないのに、いきなり全部を知ろうっていうのも虫が良すぎる考えなのかもね。折原の言うとおり、今日は一歩前進ってことで我慢しとく。というわけで折原っ」

「ん、何だ改まって七瀬らしくもない。俺たちは拳と拳で語り合った仲じゃないか」

「誰が拳で語るかっ! あ、えっと、その――色々とお世話になったんで、良かったらハンバーガの1個くらい奢ってやっても良いって気になってるんだけど、どう?」

 飯を奢ると言われて無碍に断るほど、浩平は聖人君子ではない。一も二もなく飛びつき、おどけて留美に敬礼のポーズを取った。

「七瀬大佐、不肖折原浩平、貴女に犬と呼ばれる覚悟です」

「大佐ってねえ、あんた。まあ、それがあんたなりの冗句ってことはもう、死ぬほど分かってんだけどね。実際、死にかけたし――はあっ」

 再び溜息をつく留美。どれほど呆れられたかも露知らず、浩平は心の中で、犬の方で突っ込まないことへの不満を訴えていた。

 ともあれ意見の一致を見たところで、浩平と留美はきっと試験が終わって浮かれ気分な学生の多い商店街へと進路を取る。案の定、鳥篭から解き放たれた小鳥のような高校生の姿が明らかにいつもの数倍はいる。幸いだったのは、昼飯時を当に過ぎていてハンバーガショップが割合、閑散としていたことだ。それでも行列ができていて五分ほど待たされたが、ようやく浩平の番がやってきた。ある意味、画一的なスマイルを零す店員。浩平は奢り時の鉄則に従い一番高いハンバーガを頼もうとしたが、留美が横から制止する。

「ちょっと折原――」

 浩平の制服の袖を、留美は強く引っ張り後ろに注目させようとしていた。

「ん、何だ? 今更、奢りなしっていうのは通用しないぞ」

 おどけて答えた浩平に、留美は鋭い表情をとばす。

「馬鹿っ、違うわよ。さっき、凄い形相した女の子が一人、商店街を駆け抜けて行ったんだけど――彼女、広瀬さんといつも仲良くしてる娘だった、どうしたんだろ」

「気のせいじゃないのか?」

「ううん、あの娘――クラスメートだし、あたしに何度か話しかけてきた覚えがあるからよく記憶してる。確か、麻見さんよ」

 浩平は、その名前に全く覚えがない。クラスメートの男性すら全員の名前を記憶していないかもしれないのに、全く接点のない女子生徒の名前など知っている筈もなかった。二週間ほど前、別のクラスメートからも同じことを言われたのだが、まあそれはある意味、どうでも良いことだ。

 麻見という女性を追いかけて、留美は既にハンバーガショップを飛び出していた。浩平もダブルチーズベーコンエッグバーガの写真に二、三秒の葛藤を投影した後、同じようにして走り出していた。もっとも浩平の場合、留美がいないと自腹を切ることになるいう打算も少しはあった。

 こういう時に、毎朝遅刻しそうになって全力疾走している脚力が役に立つ。留美もそれなりに足は早かったが、浩平はすぐに彼女を捕捉し横に並んだ。しかし、そこからでも先程の少女の姿は見えない。このまま道なりにしばらく進んでいくと、駅前の方に出る。或いは住宅街にある横道のどれか一つに逸れたかもしれなかった。

「ああもう、見失った――」

 肩で息をしながら、留美は走るのをやめて路端をきょろきょろと見渡し始める。浩平もそれに倣い、いくつかの路地を覗き込んだが猫一匹いなかった。据えたゴミの臭いだけが、微かに肺腑を満たす。浩平は顔を顰め、表通りに戻る。

「やっぱり、駅の方に行ったんじゃないか? もしかして急ぐ用事があっただけかもしれない」

 考えすぎだと言外に含めた口調に、留美は怒りを露わにする。

「馬鹿っ! 折原は見てないからそんなことが言えるのよ。絶対、尋常じゃない」

 留美は長距離を疾走した後で、未だ苦しげなのにも関わらず、再び歩を進めようとしている。何処か執着めいたものを感じながら、浩平は彼女に付き合った。留美に恨まれて、後ほど痛い目に合わされるのは嫌だったし、正直なところは興味が勝っていたからだ。

 駅前周辺には、商店街とまた違う意味で人が集まっていた。商店街にはない類の店、デパートや高級洋品店、レジャ施設が存在するというのも一因だし、ここから数駅という遠い場所から通学している生徒もいる。夕方にもなるとギターを持ったストリート・ミュージシャンがギターをかき鳴らしながら未熟でそれでいて張りのある歌を響かせる。商店街は友人連れが多いのに比べて、駅前を利用する層には比較的、恋人同士が多い。浩平の友人である住井護は浩平に、これこそ一人身とカップルの斥力と意気込んで話していたが、実際はラブ・ホテルの類が充実しているからという即物的な理由に過ぎなかった。

 留美は引っ越してきたばかりで地域による機敏というものを理解できていない。浩平がどちらかと言えば杞憂と断言するのもそのような背景と、恋人との待ち合わせに遅れた男が必死に駆けていくのを何度も見かけたことがあるという事実からだ。

 五分ほど駅前地域の入口付近を探し、別の場所に移ろうとした時だった。何かを引っ繰り返したような音が、狭い裏路地から微かに聞こえて来た。神経過敏になっている留美は、その音を聞きつけてすぐさまその方向に走り出す。浩平は慌てて彼女を追いかけ、当の路地に入り込む前に腕を引っ張り、無理矢理制止させた。

「ちょっと折原、何するのよ」

「馬鹿、ただの喧嘩かもしれないじゃないか。だとしたら巻き込まれ損になる。壁越しにそっと伺えば、誰だかはすぐ分かるだろ? 乗り込むのはそれからでも遅くない」

 浩平が抑えた声で注意すると、留美はこくりと肯いた。

「そうよね、確かに――」

 つまらない争いに巻き込まれるのは、留美も嫌なのだろう。電柱柱と壁際に挟まれた場所に身を潜め、そっと音がした裏路地を覗き込んだ。浩平も留美の後ろからそっと首を伸ばす。

 そこに広がっていた光景は、浩平にとって不愉快以外の何物でもなかった。背の高く、体躯もしっかりとした男性が、うち汚れてゴミに塗れた女性を明らかな視線で見下している。先程の音は、男性が女性をゴミの中に叩き込んだものであることは、浩平にも想像がついた。恋人同士の喧嘩にしては、度が過ぎた暴力。二人とも浩平と同じ高校の制服を着ていた。

「――あの娘よ」

 判断のつきかねる浩平に、留美がぼそりと呟いた。どうしようかと逡巡している内に、女の方が大声を張り上げたのでタイミングを逸してしまう。

「なんで、なんでこんなことするの――酷いよぉ」

「うるっせぇよ、馬鹿。お前がしつこいから、彼女がいるって誤解されて、逃げられたじゃないかっ。折角、可愛い娘を捕まえられたっていうのに――この、糞があっ!」

 男は大仰な仕草で足を振り上げ、青い円柱型のゴミ箱を思い切り蹴り上げた。女の方は肩をすぼめて萎縮し、顔は涙をながさんばかりに歪んでいる。それでいて、期待の眼差しが男に注がれているのが、浩平には理解できない。

「誤解って――なんで、そんなこと。私は貴方のことがまだ、こんなにも好きなのに――」

 女は弱々しい声をあげるが、男はゴミ箱を再び蹴り上げることでそれに答えた。顔はきつく歪み、肩をひっきりなしに揺らすその姿は、誰が見ても怒っているようにしか見えない。相手を気遣う仕草すらなく、とても恋人同士とは思えなかった。

「耳、腐ってんのか? お前のことはいらないって、前にはっきり言っただろうが。第一、大して顔も良くないくせに、文句ばっかり言うわ、頭は悪いわ、セックスにしたって全然相性よくなくて不満そうな顔しやがって。別に女に飢えてるわけじゃなかったのに、どうしてお前のような糞と付き合ったのかと思うと自分でも反吐が出る。時間の無駄だったんだよっ、てめえ俺が浪費した時間返せるって言うのかっ、できねえだろうが、この豚がっ!」

「そ、そんな――」

 これは既に、喧嘩という範疇を越えていた。寧ろ、一方的な虐待だ。力の強いものが弱いものに、腹立たしいというだけで相手の人格を全否定するような言葉を吐き続けている。男はゴミ袋やゴミ箱を蹴り上げた後、残酷な笑みを浮かべて女の脇腹をゴミ袋と同じように――。

「ぐぅっ、げほっ、げほっ――」

 蹴り上げた。女の方は咽び体を丸め、必死に苦痛と耐えている。男の方はまるで、面白い遊びでも思いついたかのように、笑い始めた。卑近で不気味で、忌まわしい笑い声だった。

「ひっ、ふははははははっ――豚が、人語喋るからいけねえんだよっ!」

 女は何か反論しようとするが、先程の一撃が強過ぎたのか咳き込む声しか聞こえない。苦しげに喘ぐ女に、男は「まだ喋るのかよおっ!」と叫びながら、もう一度足を振り上げた。流石にもう、黙っていられないと思い、浩平は助けに出ようとする。

 しかし、浩平よりも一瞬早く、留美が飛び出していた。今は後ろ姿しか見えないけど、その肩は恐ろしい程に震えている。男は浩平にも分かるくらい大きな舌打ちをすると、先程の優越感を忘れさせるくらいの卑屈な笑みを浮かべた。それから倒れている女の胸倉をぐいと掴み、無理矢理立たせる。わざとらしく肩も支えて見せたが、浩平にはそれが振りだとすぐ分かった。

「いや、別に――ただの喧嘩ですよ。こういうの、よくあることでしょ? まあ、俺もやり過ぎたなって思ってますから。な、そうだよな」

 今まで散々罵った相手を、窮地に陥ったからといって利用しようとしている。浩平は胸に悪いものが蓄積していくのを感じながら、それでも女の返事は待った。これで万が一、ただの喧嘩だと話そうものなら、自分には救い難いと浩平は思っている。警察に通報しても、女にまた男と出会うつもりがあるのなら、虐待は繰り返されてしまう。だからこそ尚更、耳を傾けなくてはならなかった。ぼろぼろにされてまで男の逃げ場となるのか否か。

 しかし、朦朧とした瞳で女は、何故か留美の方を見ていた。

「な、なんで、貴女が――ここにいるのよっ」

「決まってるわ。隣の胸糞悪い男性から、貴女を助け出しに来たの、それだけよ」

 胸糞悪いという言葉は、明らかに男の感情を逆撫でした。しかし、留美への矛先を逸らすように女が大声でまくし立て始める。

「貴女も、彼の仲間なのねっ! いやきっとそうよ。じゃないと貴女がここにいる訳が」

「五月蝿えっ! お前黙れ。訳分かんねえよ、人語喋れよっ!」

 男は女が急に大声を出したことで激昂したのか、咄嗟の配慮も忘れて首を締め上げていた。しかし、女は怯む様子をみせない。

「嫌よ黙らないっ。だって貴方が、前に言ってたのに。俺は七瀬留美のことが好きだ、って。それに私、彼女に酷いこと言われたのよ。だから私、彼女の化けの皮を剥いでやろうって――」

 二人の罵りあいは何時の間にか支離滅裂になっていて、浩平にはさっぱり事情が飲み込めない。第一、男が留美のことを好きだということが初耳だし、女が留美に酷いことを言われたというのも意味が分からない。そして最も不可解なのが、化けの皮を剥ぐという一言だった。何か、とても大事なことが頭に浮かびかけたのだが、混乱のためかすぐに萎んでしまう。

 しかし、何とも奇妙なことに、それに対してはすぐに答えが出た。自滅的な男の笑い声と、そこから自信げに語られた話によって。

「ふ、ふふふ、ははははははははは――もしかしてお前、あれを信じちゃってたの? あんなの嘘だよ、嘘――はははははははっ。お前、振ってもしつこく付きまといそうだからさ、可愛い可愛い転校生に気があるって言ったら、俺を追うんじゃなくて転校生の方を恨むと思っただけさ」

「う、嘘って――でも、七瀬さんから電話があったの。私を馬鹿にする電話がっ!」

 電話と聞いて男はしばらく首を傾げていたが、すぐに至極愉快そうに手を打った。

「ああ、あれね。しつこいストーカに付きまとわれてるって、女のクラスメートに酷いこと言ってくれるように頼んだんだ。それにしてもお前、あの声を七瀬って転校生のだと思ってた訳? お前、頭大丈夫? 狂ってんじゃないの? 変態で、ストーカで、気違い。救いようがないなお前って、あはははははははははははははははっ――死んでろ豚がっ!」

 男は最早、女を気遣うつもりはない。胸倉を掴んだ腕を無造作に離し、再びゴミ捨て場に放り込んだ。全てを話し終え、明らかに開き直った男は留美にも言いがかりを浴びせてきた。

「何、見てんだよっ、女の癖にっ!」

 その一言で、浩平は完全に理解する。目の前の男は、例え容姿も体格もしっかりしていようが、女性のことなど物としか考えていない。恫喝し、暴力を振るえばどんな女でも抑えつけられると確信している。今時の男性にしては信じがたいほどの、男性権威主義者だった。

 やはり後ろ姿だけだから何も見えないけど――留美の口調には、今まで浩平の聞いたことがないような怜悧さがこもっていた。

「貴女、最低ね」

 男は留美を鋭く睨みつけたが、全く怯まない。寧ろ、その視線を受け流し軽くいなしている。

「抵抗しない人間しかいたぶれない。勝てると思う人間にしか手を出せない。柔らかいものしか蹴ったことのないような惰弱な蹴りで、人を制することができると思っている」

 ただ抑揚もなく男に言葉を浴びせる留美に案の定、男の方が切れた。

「五月蝿いっ! お前も死ねよっ!」

 男は右足を大きく振りかぶり、留美の体を蹴り上げようとする。しかし、留美は半歩ステップバックし、男の攻撃を軽く交わした。無様なことに、抑止する物質がないというだけで男の蹴りは破綻し、その力を支点として背中から煤けたアスファルトの上に倒れこんだ。痛い痛いと喚く男を、留美は見下すように立つ。その時、初めて浩平には留美の顔が見えた。それは――。

 その顔は明らかに、激しい怒り一色へと染まっていた。そして、同時に悟る。男と留美では、明らかに質が違っていた。勿論、どちらの質が良いのかは浩平でなくても確実に分かる筈だ。

「情けない――粋がるのも良いけど、実力差すら測れないなら無様としかいいようがないわね。それとも、馬鹿は死なないと治らない?」

「畜生おっ!」

 留美の挑発に負け、男が留美に飛びかかる。しかし、その行動は既に予測済みだったのだろう。素早く真横に交わし、男は顔面からアスファルトに飛び込んだ。あまり心地の良くない、鈍い音が聞こえ、浩平は一瞬だけ目を閉じる。目を開いた時、男は鼻を抑えて本気でのたうち回っていた。留美は二度の回避行動を取っただけだが、それだけで男をぼろぼろに打ち負かしている。浩平にも、彼女が並の使い手ではないことを見て取った。

 留美は男をしばし観察した後、抵抗意志も見せずに気絶したのを確認するや、ゴミ捨て場で蹲る女に手を差し伸べた。その横顔は、先程の形相とは比べ物にならない程の優しさで満ちている。浩平には、留美が二人いるかのような錯覚さえおぼえて目を擦る。しかし、目の前にいる留美はやはり一人だった。その為、何とか浩平も一瞬で行われたのが心理的交替劇だと分かった。

「麻見さん、大丈夫?」

 留美は女の名前を呼ぶが、麻見と呼ばれた少女は未だ、怯えるのみ。それが男の虐待の為か、虐待した人間をも凌駕する留美を恐怖してかは分からない。

 それでも麻見は留美の手を握ろうとしたが、躊躇する。浩平には、麻見がそのまま助けに預かりたいと願っているように見えた。しかし、何かがそれを押し留めている。今の浩平には、おぼろげながらそれが理解できた。麻見の最後の言葉が、浩平の胸に蘇る。

 彼女の化けの皮を剥いでやろう――確信はないが、多分これだと思った。そして実際、彼女は何かを成し、留美の身に被害を与えたのだ。思い当たることは、一つしかなかった。

 一方、留美は自分の手を掴んでくれない麻見の姿を見て、自嘲的に笑う。

「そっか、あたしまた、やっちゃってたのよね――全く、進歩ないぞ、あたし」

 留美は、自分の頭を子供っぽい仕草でこつりと叩く。その一撃がまるで何よりも勝る罰であるかのように、彼女の表情は悲しげだった。

「誰だって嫌よね、こんながさつな女なんて――駄目よね、駄目なのよね――」

 留美は誰にでもなくそう呟くと、大きく溜息を吐く。その様子に慌てたのは、今まで沈んでいた麻見本人だった。急いで手を振り、留美に反論する。

「ち、違うっ――その、そんな理由じゃないんです。私、貴女に酷いことを――一言で語れないくらい酷い事を――だから、貴女が嫌いじゃなくて、もう嫌いだなんて思ってなくて。全部、この人が悪いって――何より私が悪いんだって分かったから――」

 麻見は一瞬、男のことを憎々しげに見つめたが、すぐに悲しみ伏せ、涙を流し始めた。留美は、そんな麻見に微笑み、少し強引に手を引っ張り、立ち上がらせた。

「一言で語れないなら、こんなところで話なんてする必要ないと思う。それに、汚れた服も着替えないといけないし――でも、ここからだとあたしの家って少し遠いみたいなのよね。麻見さんの家はどう? ここから近い?」

 敢えて、何も尋ねることなく留美は言葉を促す。彼女は何よりも、理由を知りたいと願っていた。その機会をなんとしても逃すまいという意志が、そこには感じられる。

「はい、ここからだとそんなには――」

「だったら、そこにしましょ。あと、後ろにいるのはどうする? 女同士の話が良いって言うんなら、追い払っても良いけど」

 何気に結構、酷いことをいう留美。しかし、少なくとも今回の件において浩平は完全に部外者だった。手を出すどころか、口出しすらしていない。だから、浩平は邪魔だと言われれば今回に限り、素直に引く気だった。しかし、麻見は浩平を呼び止めた。

「いえ、折原君にも多分、関係のない話じゃないから。彼にも聞いて貰わないといけない――私が何を話したいのかということを――」

 留美はなおも、浩平をどう扱おうか迷ったようだった。しかし、特に反論する材料はないと判断したのかもしれない。留美は最終的に、あっさりと肯いた。

「うん、分かった。じゃあ、もう行きましょうか――こんなとこ長居は無用」

 留美は、倒れている男を無視して背を向けた。

「あの、彼は――どうするんですか?」

 流石に、それは拙いと思ったのか麻見が静止をかける。しかし、留美は歯牙にもかけなかった。

「放っておくわ、死んではいないし。それとも、麻見さんは助けたい?」

 麻見は少し悩んだ後、小さく首を横に振った。

 そして、留美は彼女の足を支えながら、路地裏を出る。その時に丁度、一つの大きな足音が聞こえて来る。その姿に、浩平は明らかに見覚えがあった。荒い息を肩でいなし、ぜいぜいと喉を鳴らすその女性は、浩平や留美、麻見の並ぶ姿を見つけ、すぐに歩を止める。そして疲れているにも関わらず、彼女は――広瀬真希は、必死で声を荒げた。

「ちょっと静子、何でそんなにぼろぼろなの――まさか、折原っ! あんたがやったんじゃないでしょうねっ! 返答によっちゃ、ただじゃおかないわっ! はあっ、はあっ」

 最後まで叫んだところで真希は力尽き、再び息を整えることに専念しだした。浩平には留美や麻見の時と同じく、真希が何を誤解しているのかがよく分からない。そして、ようやく浩平は一つの事実に気付く。兎に角、皆隠していることが多過ぎる。それがきっと、誤解の連鎖を生んでいるのだ。浩平は彼女達を一所に集め、そして腹を割って話させる場が必要だと思った。そして、それは今をおいてない。

 浩平は、意を決して口を開いた。

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