―14―

 翌十二月二十二日の朝。久々の雨に髪型が余計に乱れている理由を見出し、広瀬真希は明らかに朝から不機嫌だった。勿論、それは不機嫌の理由を画一化したいための言い訳であって、実際はそうでもない。友情の危機も、自らの心理的な危機も一時的ながら過ぎ去った今、真希にとって憂鬱の種は一つしか存在しない。折原浩平――真希にとって彼の存在が思考に含まれるといつも、好ましくない懸案事項になると相場が決まってしまう。故に先取り的な悩みとも言えるが、やはり悩まざるを得ない。

 真希にとって、浩平がどのような立場にあるのか。自分の心だというのに、真希が一番知りたいのはそれだった。自分の心なのに分からない、どうしても理解できない。下らないこと、浅いことなら簡単に分かるというのに、自らの独自性に触れる領域に入るとたちまち真相は霧へと霞む。昔は、もっと無邪気に心の底まで見ることができた。少なくとも、真希はそう信じている。いつからだろうか、自分のことをこうまで直視できなくなったのは――考えようとして、真希はすぐにやめた。それこそが原因であると共に、最も直視したくない心の領域だった。誰かに弱いと言われようが、必要性のある時までこの領域には踏み込みたくない。必要性がある時までは――。

 自らにそう言い聞かし、真希は爆発した髪の毛の立ち向かう。もっとしなやかだったら、髪の毛を梳く仕草も絵になるのにといつもの恨みを封じ込めるように、真希は整髪料をなでつけブラシで押さえつける。髪型について悪し様に言われることはないのだが、その悪し様に言われない状況になるまでが大変だったりする。真希とその所属物である髪の毛とはいつも半敵対関係だった。

「でも、結局は強い湿気に曝されると無駄になるのよね。ったく、神様はどうしてわたしにもう一物くらい与えてくれないのかな――」

 霧のような雨に傘を差し、盛んに髪の毛を気にする真希。いつもより時間がかかったせいだろう、余程のことがない限り待ち合わせ場所にて待つだけの三森節子が変わらぬはきはきとした仕草で声をかけてくる。期末テストの時はらしくないという言葉が似合うくらいに塞ぎ込み、言葉数も少なかった節子だったが、最近はそれを取り戻すように元気の塊だった。要するに、どんな陰気な作用も節子には似合わないのだと、真希は改めて悟らされた。だから真希は、一時間を越える長電話にも我慢して付き合っている。そう言えば、昨日は電話がなかったので何かあったのか聞いてみようと思っていたのだが、それよりも先に節子の余りにも突然な一撃が真希を襲った。

「おはよう、真希。昨日は折原とのデート、楽しかったのぉ?」

 いきなり出た浩平の名前と、それよりも衝撃的な一語に真希は思わず咽る。あまりにも不自然過ぎる行動を誤魔化そうと一度鼻をすすって咄嗟に嘘を吐いた。

「あ、はは――ちょっと風邪気味みたいね」

 しかし、明らかに対処の仕方がまずかった。節子は真希の傘とぴったりくっつくまで近寄ると、まるで遊ぶものを見つけた犬のようにじゃれてきた。

「お、その反応じゃ図星なんだあ。恋愛には興味ないって言ってたのに、真希の裏切り者ぉ」

 恋愛観念には日頃から否定的でかつ、以前に真希が彼女と同調することを言っていたための詰りだったが、節子に敵意は感じられない。つまりは完全にからかいの対象にされているということ。真希はあまり宜しくない立場になりかけているのを確認しながら、一つだけ尋ねる。この答え如何によって、真希は今日からの進退を深く心の中で考えなければならないほどの重要な問題を。

「何で、節子がそんなこと知ってるの? まさか、見たの?」

「うん、見たよ。ハンバーガー屋の中から、皆で」

「皆――で?」

 言ってみて、唐突に眩暈がしてきた。学校では友人として付き合っていても、下校時にはあまり歩調を合わせないのが慣例となっていたから、皆が揃っていることなど思いもしなかった。事態は人数の数だけ――いやと真希は考えを修正する。人数の階乗倍――但し、その数値にどれほどの信憑性があるかは別として――は酷い状況だと断定する。真希は今日の学校を休みたい気持ちで一杯になった。

「そう。明日、学校で真希と会ったらどう冷やかしてやろうかと鈴華が中心になってそりゃ真剣に話し合ったんだからぁ。七瀬さんだけは、少し心配そうな顔をしてたけど」

 こういう悪戯が好きな恭崎鈴華が、このようなスキャンダルを反故にすることは決してなかったが、今回もその例外ではないことを真希は嫌というほど思い知らされた。ただ、七瀬留美の名前と態度には望みをかけられるかもしれないと、自らに有利になる材料を付け加えることも忘れていなかった。

 だから、七瀬留美が後ろから走りながら追いかけて来た時には驚いた。彼女は朝の挨拶も忘れて、真希に内緒話をするよう、顔を寄せてくる。

「ねえ、広瀬さん。折原と付き合うようになったって本当?」

 誤解に満ちた発言に、真希は拳を握りしめた。赤の他人なら殴っていたかもしれない。しかし、彼女に冷やかしの気持ちなどないと信じて、真希は真剣にかつ小声で弁舌をふるった。

「違うわよっ。ちょっと、まあ、色々あってね。詳しい経緯は置いといてさ、実際は折原に対して迷惑料を徴収してたようなもんなの。だから、付き合うとかそういう関係じゃないのよ」

「迷惑料? 成程ねえ、あたしには何となく分かるような気がする」

 転校初日に髪の毛を悪戯され、あまつさえ妙な長さに切断され、浩平の子供じみて容赦のない悪戯を一身に受けてきた留美の言葉は気疲れと説得力に満ちていた。しかし、次の瞬間には驚くほど真面目な瞳で真希の顔を見据えていた。

「でも、それを差し引いても――広瀬さんって折原のこと、どう思ってる? 昨日、一緒に歩いている時、二人とも凄く楽しそうに見えたから満更でもないのかなって、あたしは思ったけど」

 楽しそう、確かに楽しかった。真希は昨日、浩平と歩いていて確かに楽しいと感じた。しかし、それは相手と分かり合える友人だと認識していたため。それすらも曖昧としてきた今、真希に何かを断じることはできなかった。沈黙をどう受け取ったのか、留美は至って真剣に話を続ける。

「単なる知り合いなのか、それとももっと深い関係なのか。どちらにしてもこれだけは言っとくわ。折原の悪戯は良い意味でも悪い意味でも天下一品よ。あいつとこれからも仲良くする気なら、手綱をつけるか笑って見逃すか、はっきりとどちらかを選んどかないと苦労すると思う。あたしがそうだったからなあ――はあっ」

 実体験に基づいているだけに、留美の言葉は生々しいほどに実感がある。真希は合わせて苦笑いをした後、留美の肩を軽く叩いた。

「分かった、気をつけとく」

 手綱か、寛容か――確かに難しい問題だった。但し前者の場合、余程気が強く強い綱を持っていなければ務まりそうもない。真希には今のところ、自分と浩平を結ぶような太い糸も彼を完全に御する気の強さもないと思っている。前者は無理だが、かといって浩平の悪戯を全てを寛容できるような度量も持ち合わせていないことに気付き、それはつまり彼に振り回されることを暗示しているという考えに至ると、真希の心は沈む。望まない結論だったが、確からしいのもまた確かだった。

「まあ、どういう結論になったか分かんないけど、気は落とさないでね」

 余程、沈んだ顔をしていたのか留美は真希の肩に軽く手を添える。こういう時、共通の悩みを抱いたことのある、気心しれた友人というのはありがたいものだと真希はしみじみ感じた。真希が礼の言葉を述べようとすると、突如反対側からがっしりと肩を掴まれた。

「見たぞ見たぞ――ふふ、さてどう弁解してくれるのかな、広瀬真希君」

 こういう喋り方をする人間を真希は一人しか知らない。振り向くと、恭崎鈴華がまるで手頃な玩具を見つけた子供のような眼差しで真希を見出している。緩み、和みかけていた雰囲気が一瞬で粉微塵になり、これからは暫く人間の基本的人権すら許されないことを真希は理解した。これほど、理解したくないことは、ないことを――理解してしまった。彼女の側には、途中で合流したのか麻見静子と夕霧直美の姿もある。いよいよ、逃げられそうになかった。

「さあ、事情を説明して貰おうか。とっくり、じっくりとな」

 鈴華が一歩ずつ詰め寄り、真希はそれに気おされる形で一歩一歩後ろに下がるが、壁際一歩手前まで来たところで唐突に感情が弾けた。元々、隠すようなことでもないことだし全て白状してしまおうと、真希は力強く歩み出る。ここで逃げたら負けなのだと言い聞かせながら。

 ただ、真希はそれを詳しく語ろうとはしなかったので、教室に到着するまでに話の大筋は終えてしまった。色気がない上にひどく端折られているので、当然のこと鈴華は文句を言った。

「何だ、期待してたのに面白くないな。僕としてはこう、反目しあった男女に目覚める燃えるような恋や爆発的な恋を期待したのに」

 普段は恋愛なんてどうでも良いと言っている人間とは、到底思えない鈴華の台詞。第一、反目しあった次に恋愛感情なんてものが生まれるとするならば、喧嘩しているカップルは次の瞬間、あっという間に仲直りだ。手厳しい言い合いをした夫婦は直ぐに、愛の抱擁を交し合うだろう。しかし、現実はそうではない。喧嘩すればそのまま、言い合いのまま離婚届に判子を押す夫婦もざらにいる。そんな、途方もないドラマチックな恋なんて尚更、生まれる訳がない。何時の頃からか冷たくなりきってしまった真希の恋愛感が心に浮かび、僅かだけ他人を嘲るような笑みへと変わる。

「そんなの期待されたらわたしが困るのよっ。第一、折原にはあんなに可愛い幼馴染がいるじゃん。わたしに懸想しているなんて、思われたら困るに決まってるって。それにわたしも――」

 昨日、僅かにでも生まれてしまった感情をどうにか隠したくて。それを宣言してしまえば、気持ちが楽になると思って。真希は、それが酷く間の悪いものと気付くこともなく、予想以上の大声を張り上げていた。直前、聞こえたドアの開く音をも掻き消して――。

「よし、今日も何とか――」

「折原のことなんて、何とも思ってないのよっ!」

 それは、真希にとって全くの不意打ちだった。大声で宣言したその先に――駆け足で教室に滑り込んで来た当の本人が、折原浩平がいたのだから。しかも、謀ったようにクラスの中は静寂で満ちていく。気まずくて、しょうがなかった。それ以上に何か、後悔にも似た――否、後悔そのものといえる感情が真希の中で渦巻く。仕出かしたちっぽけな悪戯が大事に至り、不安で胸をかきむしられそうなままに怯える子供のように、真希もただ不安だった。先程の一言がどのような効果をもたらすかも分からず、ただ浩平を無意識で視線に捉える。

 嘘だと叫びたかった。何とも思っていないなんて、嘘だとこの場で宣言してしまいたかった。しかし真希は、それがどんな効果を及ぼすか容易に想像がつくくらいには十分に賢い。想像通りに誤解されることが怖かった。けど、浩平に誤解されてしまうことも怖かった。まただ、また厄介な別れ道――わたしはもう、どちらが正しいかで悩むのは嫌なのに――。しかし、その思いとは裏腹に真希はどちらかを選ばなければならない。そして、真希の取った選択は――沈黙だった。

 浩平の、真希に添えられた視線が微かに逸らされ優しい微笑と共に消える。この瞬間、真希は浩平に対して何か大切な――少しずつ積み上げてきた何かを一瞬で壊してしまったかのような、漠然とした不安を抱いた。やってはいけない選択肢を選んだような、そんな感覚。その証拠に、心が今でも痛い。盛んに脈動し、何かの警告を発し続けている。でも、真希はそれを封じた。

 こうして、新しい一日は始まっていく。きっと幾つもの選択肢を放棄した。また、大切な思いを心の中に封じた。しかし、それもまた広瀬真希という女性を位置付ける一面だった。大切なものを掴みたいのに、選んだものがそうでないような錯覚を日々抱いていた。だから、選ばれなかった選択をも心に留めておきたいと願い――どんどん膨らんでいる。真希はそのことに気付いていない。そう、まだ気付いていなかった。そして、袋には自ずと限界が訪れるということにも。

 

―15―

 誰に示唆されるということもなかった。昨日と違って、郷愁めいた音楽や頽廃に触れたいと願った訳でもない。ただ、ここに来たかった。折原浩平は、そんな自分の気持ちを不思議だと思いながら今日もピアノを前にして椅子に腰掛ける。カヴァを取り除き、手を添えた。非調律なピアノ、埃を被った鍵盤は溶けない雪にも似て執拗で悲しい。目を閉じ、浩平は自らに奏でられる音楽があるかどうか、心を探る。暗き深遠の底の深遠――懇願、心の声。折原浩平は昨日よりはっきりと、その言葉を感じることができた。聞くではなく感じたということを、浩平は不思議と思わない。不思議なのは、いつもの狂熱が過ぎ去った自分自身の心。何故か、この音楽室には思考をクリアに清涼にする力があるような気がした。少なくとも、浩平はその力を感じている。それはあまり良くないものだと直観しながら、離れることができない。強い吸引力が、旧軽音楽部の寂れた部室に満ちていた。

『ねえ、――の―――イを弾いてよ』

 クリア、アンド、ノイズレス。浩平は導かれるように、楽譜を見ることなくかつての記憶を辿りそれを奏でた。長年のブランク、しかも鍵盤ハーモニカで数回奏でただけの曲だったが、たどたどしくも浩平は誰にでも分かる旋律を紡ぐことができた。音がずれていなければもう少し明瞭に聞こえたのにと、浩平は悔しく思う。音――世界――何か、大切な――西日が微かに差し込み――。

 窓枠の軋む強い音が教室に響き、浩平は思わず音のする方向に目を向けた。昨日と同じように、そこには何故か広瀬真希の姿がある。姿を見られたのが気まずかったのか最初は視線を色々なところにはわせていたが、やがて開き直ったように拍手の小雨を浩平に振りまいた。昨日は呆れ顔しか向けられなかったので嬉しいことは嬉しいのだが、今朝のことを考えると何だか複雑だった。浩平は、真希とかなり良い友人になれそうな気がしたから何とも思っていないと言われたのは浩平なりにショックだった。しかし、浩平はそのことをおくびにも出さない。代わりといっては方向性が違うけど、浩平は真希の賛辞に皮肉めいた言い方で答えた。

「二日もこんな寂れた場所を訪れるなんて、もの好きだな」

 真希は浩平の意地悪さに少し怯んだが、彼女も口の悪さでは負けていなかった。咄嗟に浩平をやり込めるような刺の利いた言葉を放った。

「そうね、まあ――もの好きなのよ、わたしは。でも、お陰で昨日よりはましな演奏が聴けたから暇にしてるのもそう悪いことじゃなかったわ。昨日はあの奇怪な蛙の歌しか弾けないって言ってたのに、もっとちゃんとしたのの弾けるじゃん。あれって赤鼻のトナカイよね――折原にも人並みにクリスマスだってこと、認識できてたんだ」

 彼女の口調はいつも以上に刺々しかったが、浩平は敢えて気にしない振りをした。本当は真希の真意を探りたかったが、浩平にそんな手管など使える筈もなかった。結局は他愛のない話に落ち着いてしまい、浩平としては少しやきもきしていた。

「そりゃ、あれだけ耳につけば誰だって思うさ。で、どうだった? 昨日の奴と比べれば技巧はないのであまり気にいらないかもしれないが」

 浩平の中では昨日の『蛙之歌組曲』の方が高等技で、クリスマスの定番曲の耳コピなど簡単なものだと思っていた。勿論、本当は逆で後者の方が明らかに高い技量を必要とする。真希はそのことを知ってか知らずか昨日よりは柔らかい評価を下した。

「さっきも言ったけど、昨日のよか余程良いんじゃない? 技巧はないけど――そうね、折原のピアノって多分、技巧のない方が良いのよ。拙いけど、ちょっと切ない感じだった。テンポは明るいけど、何処か寂しげで――わたしにも分かるな。この曲、アップテンポで歌われているけど明るい曲じゃないと思ってるから。正直言うとわたし、嫌いなのかもしれない――この曲が」

 真希は渋面を作ってから、断定的な口調で言葉を吐き出す。

「いつも皆の笑いものになってる部分を、おどけた顔で『役に立つ』なんて言われたら悔しいと思わない? わたしだったら多分、我慢できない。苦しんでたのに、そんな言葉でわたしを救ったつもりって詰ってやりたい。何で、そんなこと、言われなくちゃ――」

 最初はまるで機関銃のように迸る声が、徐々に途切れていく。同時に、真希の顔から気勢が段々と削がれていった。顔が少し赤くなっているところを見ると、興奮したのを恥じているのかもしれないと浩平は推測した。その裏づけのように、真希は小さく頭を下げる。

「あ、その――ごめん、変なこと愚痴っちゃって。今日のわたし、何だかちょっと変みたい。ははっ、本当に変だよね」

 確かに今までも幾度か、真希のそういう部分を見たことのある浩平だから、今日の彼女が変だということも何となく分かる。だからといって素直に肯くのは浩平の一種、悪い所でもある。つまり、肝心な点で率直過ぎる。真希はあまりな言い方だと詰め寄りそうな顔だったが、それでいて諦めにも似た雰囲気をまとっていた。

「もうっ、そういう時は普通、何かフォローがあっても良いじゃない。素っ気なく肯くなんて最低っ――なんて言っても、折原には通じないんだろうなあ。はあっ、全く憎たらしいわ」

「わ、悪い――あんま人を慰める役割が回って来ないからよく分かんなくてさ。まあ確かに、変って聞かれてお前は変だと同意するのは失礼だよな」

 そうそうと、浩平の殊勝な態度に真希は腕を組んで深く何度も頷く。心なしか機嫌も戻っているようだった。浩平は相手の真意を計りかねながら、次の話題を探していく。しかし、微かな狼狽を保つ言葉がそれを許さない。浩平は意図せず、自分でも思っているかどうか分からないことを口にしていった。

「でもさ、広瀬はああ言ったけど俺はあまり嫌いじゃないな――あの曲」

「あの曲って――赤鼻のトナカイ?」

「そうそう。確かに劣等感を煽るような抜擢の仕方は悪いのかもしれない。けど、トナカイは喜んだじゃないか。馬鹿にされたとかそういうことは関係なくさ、サンタの役に立てることを――子供達の役に立てることを素直に喜んでる。誰かの役に立てる機会があれば例え一度でも、一度だけでも大手を振るって前に進む――そういうのって結構、尊い生き方だって思えないか? 誰かの役に立つことを、貢献できることを望みながら一度もそれをできなかった人間もこの世には沢山いるんだから。そんな、そんな人間が――」

 自己犠牲が尊いという考えを浩平は持っていない。そんな自分がそれと等価になる行動を誉めているから――いや、そんな生易しいものではなかった。矛盾ははっきりしているのに、進むに従って語るのがどんどん困難になっていく。戸惑い、どもりながら何時の間にか必死で喋っていた浩平の姿を自分への反論だと見て取った真希がゆっくりと静止する。

「分かった、折原。確かに折原のいうことも一理あるみたい。その、わたしの言葉が癇に触ったんなら謝るから、そこまで苦しそうに言わないで。そんな折原を見てるのは――辛いのよ」

 辛い、と言われて浩平は初めて我に帰った。そこまで混乱が顔に出ているのかと訝しみながら、その大元を辿ろうとしたが何故かできない。説明しようとすると、喉がカラカラに渇く。何かおかしいと思いながら、次には別のことに切り替えられるのは浩平の良い所だった。彼は誤魔化し笑いを浮かべながら、真希に言い訳をする。

「ははっ、ちょっと柄にもなく入れ込んだみたいだな。まあ、クリスマスだし――少しくらい自分を省みる気概があっても良いんじゃないか?」

「え、ええ――そうよね。それに、元はと言えばわたしのせいで混乱したんだし。その、何て言ったら良いのかさあ――えっと、そうよね、うん、そうなのよ」

 何がそうなのか分からぬまま結論を出されてしまったので、浩平には詳しいことがさっぱり分からない。しかし、自分が気を遣わせていることだけは確かに見える。真希が目に見えて微笑ましく、非論理的に慌てる姿は暫く見学したいと思わせる仕草だったが、可哀想にも思ったのでそっと救いの手を差し伸べた。

「じゃあ、話もまとまったとこでさ。広瀬さえ良ければ今日も――」

 商店街でもぶらつこうと言いかけて、浩平は口を噤む。突発的に、朝のあの叫び声を思い出したからだ。自分のことを何とも思ってないと、眼前ではっきりと宣言した朝の台詞。もしかしたら、昨日の行為の幾つかが真希に嫌悪を抱かせたのではと浩平は心配になった。もう少し親しくなりたいと思ったことも、独り善がりの一方的なものだったのではと危惧を抱く。下手すると嫌われているかもしれない――そのような想像を抱くことは浩平にとって明らかに不快だった。

 だから浩平は、真希が自分の言葉を掬い取ってくれるとは思っていなかった。

「今日も? クレープ奢ってくれるの?」

 まして、積極的に申し出を受け入れるとは微塵も予想していなかった。だからこそ浩平はしばし驚き、それから心に沸き起こる幸福感を強く感じることができた。浩平は、この機会を逃してはなるまいと必死で真希の台詞を肯定した。

「ああ、勿論だとも」

 その言葉を聞いて、真希は過剰にはしゃいでいた。浩平にはよく理解できなかったが、どうやら真希には別に嫌われている訳ではなさそうだった。何とも思ってない相手にならここまでの反応は見せないと、根拠はないのに確信することもできた。なら、今朝の台詞は何だったのかという疑問は未だ、浩平の中で燻っている。だが、浩平は考えるのが面倒臭いのとこれからの楽しみに水を差すのが嫌で、便利な一言をもって封印する。それは乙女心は理解できないというものだったが、勿論のこと浩平は一切を口に出すことはしなかった。

 昨日と同じように教室、学校と外に出て商店街に向かう。目指すは商店街のクレープ屋。そこに至る途中、浩平はふと一つのことを疑問としておぼえ思わず尋ねていた。

「そういや、広瀬って友達とは一緒に帰らないのか? 七瀬だって他の奴だっているのに、昨日も今日も俺のところになんか来てたし」

 少しの間返事がないので、もしかしてあまり立ち入ってはならない部分だったのかと身構えたが、真希は極めて落ち着いた様子で肯いた。

「まあね。一緒に帰ることもあるし、休日にはよくつるむけど、部活や個人の思惑なんかがあって何時の間にかこんな感じになってたのよね。まあ、始終べったりし過ぎてて逆に仲が破綻してなんてグループもいくつか見てきたし、健全な関係を保つのには逆に良いんじゃないかって今では思ってる。もっとも、これはわたしの後付けだけど。皆がどう思ってるかは知らないけどさ」

 そういうものなのかなと一瞬、首を傾げるものの自分も男友達と殆ど一緒には帰らないことに思い至り、何となく納得する。浩平は鞄を持ったまあ後ろ手に両手を組み、だらしなく歩き始める。真希はその斜め前に立ち、先導するように歩いていった。浩平には心なしか彼女が浮かれているように見える。奢りと甘い物に弱い部分があるとはやっぱり女性なのだなと微妙な勘違いをしつつ、それでも二人の間に何の問題もない。クリスマス雰囲気のいや増す商店街で、浩平と真希は昨日と同じ種類のクレープを頬張りながら商店街をうろついていた。昨日は殆ど気付かなかったが、今日は真希の後ろを歩く形になので、時折あからさまな聖夜の装いに辛そうな顔をしている真希が気になった。しかし真希が基本的には楽しそうにしているのと、人の領分に深く立ち入るのが躊躇われたため、聞くことはしなかった。何だかんだいって、浩平も現状を壊したくなかった。

 暫く歩いているうち、真希はゲームセンタの前で足を止める。明らかに入りたそうな顔をしていた。そんな表情を見ていると、横に女性がいるからと遠慮していた自分がひどく馬鹿らしく思えた。ただ、自分とは嗜好が違うかなと浩平は探りを入れてみる。

「広瀬って、ゲームセンタに入ったらいつも、何をやってるんだ?」

 入るのか? ということは敢えて聞かなかった。寧ろ、聞くまでもないことだった。真希もそれを察したのか、浩平の方に向き直り俄かに夢中そうな口調を隠そうともしない。

「そうねえ、やっぱ女友達と入るからプリントシール系は毎回かな。それと音ゲーも気が向いたら、あと格闘系のゲームも結構好き。ストレス溜まった時とかさ、ああいうのをやるとすーっとするじゃん。折原も格闘系のゲームってやる? それともシューティング系? 意表を突いてパズル系とか――まさかとは思うけど、脱衣麻雀なんかやってんじゃないでしょうね?」

「するかっ!」いわれのない侮蔑の視線に浩平は思わず声を張り上げる。第一、浩平は金も賭けないのに麻雀などしないタイプだった。「まあ、格闘系は基本だな。特にヴァーチャ系ならこの界隈では敵なしだぞ。でも、広瀬が格闘系好きだとはなあ――まあ、如何にも好戦的って顔と態度は取ってるから肯けるけどな」

「こ、好戦的って――」真希はかなり不満な表情をもらす。しかし、次には浩平だから仕方がないという風に苦笑し、それから多分の楽しみを込めて浩平に僅かだが歩み寄った。「まあ、良いけど。でもそう――折原もそのゲーム、やり込んでるんだ。わたしも結構、腕に自身ありなのよね。良かったら一度勝負してみない? 買った方が負けた方にジュース一本奢りで」

「よし、のった」

 ゲームと催し事の好きな浩平が、ゲームで勝負と言われて受けない筈がなかった。ただ、普段より高揚しているのはその為だけではない。初めて女性で自分のノリに上手く合わせてくれる人間に出会えたという、驚きのようなものも僅かだが存在する。一応、長森瑞佳とは何度かゲームセンタに行ったこともあったが、根本的な趣味嗜好はやはり合わなかったので、嬉しかった。浩平は、真希と一緒にいることを嬉しいと思っている自分に少し戸惑ったが、彼女のはしゃいだ様子を眺めているとどうでもよくなってくる。手招きする真希に誘われ、浩平もその後を追った。

 並べられた筐体から流れる音楽やレバーの音が無秩序に混ざり、そこにリズム感は感じられない。音楽ゲームが如何様に良い音楽を流そうが、総じてしまえばかき消されていく。そのような音はしばしば、浩平の闘争心を掻き立てる。勿論、今回も例外ではなかった。幸い、浩平と真希が目指していたゲームは丁度一対空いており、二人は姿の見えないうちに対峙する。キャラクタ選択画面になった瞬間に挑戦者登場の文字。赤く飾り立てられた挑発文句に、浩平の十指は驚くほど滑らかに動き、半ば価値を確信する。浩平は持ちキャラとして超長距離戦の得意な重層騎兵を選択した。真希が選んだのは剣での近接戦闘が強力な軽装騎兵だった。剛と柔、遠と近。それ故、如何に己の領域に相手を引きずり込むかが勝敗の分かれ目となる。浩平はぐっとレバーを握る。第一ラウンド。

 開始と同時に、相手は素早くこちらに近づいてくる。浩平も牽制しながら遠ざかるのだが、相手の回避の方が明らかに上手い。焦りながら気を待つがあっさり近接され、抵抗はするもののレンジの違いで後は成すがままだった。強い――浩平は額に冷や汗が流れるのを感じながら気合を入れ直した。気を抜いたら、負けると直観する。

 しかし続く第二、第三ラウンドと――第一ラウンドより善戦はしたものの明らかに真希の技量は浩平の一歩先を行っていて、防御と抵抗を剥ぎ取っていく。結果としてのストレート負けに、浩平は思わず大声をあげた。ストレートで負けるなんて、前ヴァージョンからこのゲームをやり続けて来た浩平にとって始めての屈辱だった。

 真希は見物していた中学生にプレイ権を進呈して然る後、未だ放心状態の浩平に追い討ちをかけにやってくる。浩平は少なくともそう思った。

「あははっ、折原も大したことないじゃない」

「うぬぬ、口惜しい――」

思わず、一昔前の悪役の古風な物言いが現れるほど唇を噛んだ浩平だったが、言い訳はしなかった。口から出ようとはしていたが、相手は卑怯な技もプログラム的なはめ技も使っていない。明らかに自分が腕前として劣っていると分かっているから何も言わなかった。そういう点だけで言えば、浩平は潔かった。

「いつか絶対、雪辱を晴らしてやるからな」

「はいはい、それは期待しておくわよ。でも、約束は約束だからジュースは奢り――うん、わたし今とてもコーラが飲みたい気分なのよね。というわけでいってらっしゃい」

 意気込む浩平に向かって、真希は無情にもひらひらと手を振る。釈然としないものを抱きながらも、浩平はゲームセンタの入口の自販機でコーラを買い、先程対戦を行ったゲーム筐体のところまで戻った。しかし、真希は既に何処かに行ってしまったようだった。辺りを見回すと、最近設置されたダンスゲームをプレイしている真希を発見する。少し跳ね返りのある髪の毛を緩く舞わせながら、笑顔で綺麗なステップを踏む真希に、ギャラリィが俄かに集中する。こっちの分野でも、真希は一端のゲーマだった。クレジット限界まで曲を踊り切り、皆の賞賛も傍目に真希は一直線で浩平の元に駆け寄った。そして、とても美味しそうにコーラを飲み干していく。少し落ち着くと、ハンカチを取り出し軽く汗を拭った。浩平は彼女のような知り合いがいることを半ば誇らしげに、そして少しだけ恥ずかしげに見つめていた。満足げな顔に、汗が一滴頬を伝う。

「ぷはーっ、この運動後の一杯がたまらないっ」

 浩平の、そして恐らく何人もの人間が注目している場所で真希は平気でコーラを飲み干し、感嘆をつきごしごしと口元を拭った。その姿の所為か、或いは浩平をこぶと認めた所為かギャラリィの目は波が引くように遠ざかっていく。浩平も流石に少し、呆れた。

「広瀬――お前、何気に親父臭いな」

「美味しいものは体全体で表現しなきゃ、損じゃん。時々、美味しいもの食べてるのにしかめつらして如何にも不味そうに食べてるのを見るとさ、ああこの人は存してるなって思わない?」

 少しハイになっているのか、真希の口調には並々ならぬ迫力がある。元々、姉御肌風の雰囲気をもつ彼女だから、浩平は逆らうこともできずにただ同意するのみだった。

「まあ、確かにそうだな」

「でしょ、うん折原だって分かってるじゃない。あ、ちょっと待ってね今飲み干すからさ」

 真希は威風堂々とコーラの缶に口をつける。まるで乾いた土に染みこむ水のように、コーラは全て真希の胃の中におさまっていく。最後に一息ついてから、少し慌てたように口元を押さえる。それから数秒のことは、浩平は見なかったし聞かなかったことにした。真希はえへへと照れたように笑いながら、誤魔化し気味に次の筐体へと歩み寄る。浩平はやれやれと首を振ってから、彼女の後を鷹揚とついていく。

「ほら、折原。これ、二人でやろうよっ!」

 拳銃型のコントローラを格好つけて構えた真希の姿に、浩平は純粋でどこまでも眩しい、そしてとても魅力的な女性の姿を垣間見る。彼女を目で追うことは、浩平の予想以上に楽しかった。日常にするには勿体無いくらいの日常。騒音と多数のゲーム、無数の人々の中で今、浩平にとって意味のあるのは広瀬真希ただ一人だった。姉御肌でもない、人を見下した感じも、不当に苦しむ翳も見られない、多分等身大の彼女。僅かずつ形作られていた、容易には解けそうも無かった感情の理由が、爆発的に解答へと向けて爆発していることが浩平には理解できる。まだ、まだ答えを出すには小さ過ぎるけど、浩平の心の中にそれは確かにあった。ただ一つ分かっていることがあった。それは、真希と二人ではしゃぎ歩く今がこれまでにないレベルで楽しいと感じ始めていること。多分、百人に聞けば九十九人は即座に答えを出せるもの。しかし浩平は最後の一人だった。だからまだ、自分の気持ちを感情とできる最適な言葉と想い、そして行動を知らない。少なくとも、今はまだ。

 はしゃぎ疲れて、ゲームセンタを出ると外はすっかり濃紺満ちる夜の世界へと変貌していた。街灯は煌々と黄白色の光を放ち、月や星もそれに負けてはいない。会社帰りのサラリーマンや、これから塾通いであろう子供達も盛んに商店街を行き交っていた。制服を着た学生達は急ぎ足で、各々の家へと戻っていく。浩平と真希も、それに倣った。二人の帰路への分岐点まで辿り着き、浩平は真希のことが心配で思わず声をかける。

「なあ、一人で帰って大丈夫か? 途中まで送って行こうか?」

 別に不審者や変態がでるという話は聞かないが、女性一人では心許なさそうに見えた。しかし、真希は頬を緩ませるものの申し出はやんわりと拒んだ。

「大丈夫、もうここからは歩いてすぐだから。それに住宅地だし、不埒なことを考える奴もまさか近寄らないって。でも――心配してくれたのは嬉しかった、ありがと」

「ああ、また明日学校でな」

 真希は舞うように半回転すると、彼女の帰り道を早足で歩いていく。途中、真希は振り返り小さく手を振った。今日は心配そうな顔をして叫ばなかった――その理由も浩平には分からないが、ともあれ昨日と同じように手をふるだけだった。その後ろ姿が見えなくなるまで見守った後、浩平はすっかり見通しの悪くなった道をゆっくりと歩く。明滅の一際激しい光の下で、影が様々な方向へと歪む。そして、ふと気付いた。明日は二十三日、天皇誕生日で学校は休みだ。浩平は一瞬、後を追いかけそのことを伝えようと思ったが、まさか休日で学校になどでてくる筈がないと言い聞かせ、思い留まった。それに、真希も今頃は間違えに気付いているだろうと、楽観的な気持ちで再び足取りを早める。だが、何処か釈然としないものを感じた。

「そんな、馬鹿なことやる奴じゃないよな」

 浩平は何とか己の言葉から逃げようと、静寂の夜空に独り言という名の騒音を混ぜた。しかし、不安は相変わらず残っていたし、でも、真希のことを考えると――でも、馬鹿馬鹿しいことだった。それでも、浩平は気が付けば先程の約束のことばかり考えていた。家に着いてからも、一人夕食をかきこんでいる時も、音楽を聞いている時も。そして、部屋の電気を消し意識の消える直前、ようやく浩平は腹積もりを決めた。真希はそんな馬鹿な勘違いはしない、だから自分も学校に赴いたりはしない。浩平は何度もその決意を胸に言い聞かせ、そして眠りに就く。

 こうして、折原浩平にとっての二十二日は過ぎていった。

 

―16―

 そんな筈なんてない――分かっている。あれは単なる言葉の綾、習慣にならされた誤りに過ぎない。十二月二十三日――既に時刻は昼に近い時分。広瀬真希はパジャマ姿のまま未だ布団にくるまり、折原浩平と別れてからずっと頭を悩ましている難問に心を傾けていた。

 また明日、学校でという言葉。これが普通の人間だったら、真希もああ休日と勘違いしたなと断定した。しかし、相手が折原浩平ともなると勝手が違う。相手を驚かせるためなら何でも言う、冗談めかして本気なことを言う――総じて判じ難い人格だった。彼は微細な原子の運動にも似て不確定で、それでいて実行力がある。真希は浩平のそういう部分に何度も助けられた。だからこそ、普段は悩まないことで悩み続ける。それだけのことで、午前中一杯を潰した。

 十二時も少し回るとようやく起き出し、真希は朝昼飯となる食事の準備を始める。昨日は買出しに行っていないので、そこまでレパートリィに幅を持たせることはできなかった。そこで材料をざっと見回してピラフとオニオンスープを作ることにする。ピラフは簡単な炒め物で、スープは固形スープを使って作る手抜きだから、真希には非常に簡単なものだった。彼女はそれを手際よく作り、そして平らげた。食欲は最近、有り余るほどあった――体重計に乗るのが怖いくらい。それは安定しているし、幸せだということ。けど、やはり不安は残るし真希は明日という日のことを戦列に記憶している。にいさんの死、助かる筈のない自分が生きているというある種残酷な現実、後を巡って家族の致命的で決定的な崩壊、愛の隔絶、そして――。

 これらの事実があるからこそ、真希は生きることにあまり積極的ではない。楽しいとは思っていても、生きることに幾つも罪悪感を抱いている。罪悪感や嫌悪感は聖誕祭前後で最高潮に達し、前後ではその兆候すら見られない。少なくとも、去年と一昨年はそうだった。しかし、今年は全く違う。真希の予想できないレヴェルでそれは発言し、生きているのが苦痛で苦痛で堪らなくて、一時は全てを投げ出してしまおうとさえ考えた。それは文字通り、死ぬということ。真希は衝動的だけでなく、理性的にも死にたいと願った。麻見静子の件が決定的に解決する十二月十七日の夕方までは。

 しかし、逆に今日という日を迎えても心は揺らがなかった。勿論、完全安定とは言えなかったが、一人の男性の発した詰まらない言葉に悩めるだけの精神的度量がある。その傍らで、にいさんの命日だということも冷静に考えることもできた。路傍と墓に捧げる花束の種類、線香や柄杓、軍手など墓参りに必要な諸道具一式も、思い浮かべることができる。明らかにそれらが、真希の中で優先度を減じているかのようだった。少なくとも、真希はそう感じた。過去は消える、薄れて――像も曖昧で、真希は唐突に不安になり、にいさん――賢の顔を思い浮かべようとする。しかし、その顔が思い出せず、あまつさえ浩平の姿が現れてきて、真希の鼓動は動揺のため早まった。

 忘れようとしている、恩知らずにも忘れようとしている。こんなことが許されて良い筈がない、許されてはいけない。真希は自分の部屋にあるアルバムを取り出し、思い浮かべることすらままならないものを再確認する。写真の中ではにかんだような笑顔を浮かべるその姿は、また真希に忘れかけていた感情を蘇らせた。良い思い出、それ以上の悪意に塗り固められた思い出したくもない思い出――血に塗れた全身、赤想の幻夜、狂気に満たされたクリスマス・ナイト。圧縮され、一時的にしまい込まれていた感情が一瞬で解凍され、フラッシュ・バックを起こす。情念の強さに体が耐え切れず、真希は膝から倒れ込みフローリングの床に仰向けになった。心臓が有り得ない重力に押し潰されたように苦しく、喉からは水分が根こそぎ奪われていくようだった。真希はそれに抗うことができず、そして抗うこともしなかった。

 どんなに沢山息をしても、それ以上のものを吐き出しても全身の気だるさだけが体を捉えて離さなかった。けど、この苦しみを真希は是と受け取っていた。苦しいけど――忘れて、薄れてしまう恐怖に比べたらずっとましだった。命を助けてくれた人間のことすら忘れ、のうのうと生きるくらいなら苦しみたい。真希は内罰的な自分を理解しながら、それでも苦しみたかった。苦しみを忘れさせてくれる全てのものを、真希は一時的に投げ出した。そうすることで、ようやく胸の苦しさが収まってきた。漠然と感じたことがある。狂気的な発作は真希の中で未だ、形を変えずに生き続けていた。望みさえすれば、いつでも取り出せることを真希は再確認した。

 もう、彼女は先程までの明るく一人の男性のことを考える、年齢らしい女性ではなくなっていた。全てのものに怯えていた。特に浩平のことを何処かにやってしまおうという企みは執拗だった。彼のことを考えてはいけない、彼のことを考えてはいけない、彼のことを考えてはいけない、折原浩平のことは――。真希は繰り返し、己の中に言い聞かせる。真希はこの方法で今まで、己の中に錆を浮かせつつ、それでも平素を保っていた。真希にはそれができるはずだし、できなければならなかった。

 けど、今回に限ってできなかった。浩平の姿と言葉は何度でも真希に深きを刻み、いいようのない不安と苦痛を何どでも蘇らせた。呼吸困難は最早、起こらなかったがどれほど心理的危機に陥ろうとしていても、心は浩平のことを浅きにおくことを許さなかった。独自性、全てを変えるあのふてぶてしくも魅力的な――浩平の性格や振る舞いは今や、真希にとって魅力だった――立ち振る舞いが強過ぎる。強いものは危険だと、真希は初めて本当の意味で知ることができた。

 何とかしなければならなかった。その為にはもっと深い要因に自らを落とすべきだと真希は思った。そして、その方法が経った一つしかないことも。浩平に会うこと、彼を身近に感じてより深い自らを知ること。それをできるだけ早くやらなければならない。そこで真希の思考は改めて、同じ着地点に還っていく。昨日の浩平のさりげない言葉、真希は情けないくらいに惑わされていた。

「結局は――折原が悪いんじゃない。折原が全部、悪いんじゃない。あいつが、わたしをこんなに引っ掻き回して、苦しめて、許してくれなくて、惑わして――畜生っ、折原の馬鹿あっ!」

 真希の叫び声は誰もいない部屋で、空間に拡散し返事は返ってこない。馬鹿らしいことだったけど、真希は叫ばずにいられなかった。叫ばないと、頭が変になりそうだった。閉塞感、この閉じた発展性のない世界を変えてしまいたかった。落ち着く一つの形に落としてしまいたかった。

 コインの裏表みたいにはっきり決められたら良いのにね。真希は心の中で呟いてみてふと一つのことを思いついた。ナンセンスだけど、賭けるに値してしかも、浩平の自分に対する気持ちがリトマス試験紙のようにはっきりと分かる方法がある。それが上手く行くか分からないにしても、心の区切りだけはつけられそうだった。

 真希は体に力が戻ると同時に立ち上がり、パジャマから服へと素早く着替えた。そして財布とマンションの鍵だけをもって、自宅を飛び出した。鍵をかけ、エレベータに飛び乗る。いつもの通学路を一直線に進み、子供達の遊ぶ公園を横目で見つつ、真希はただ一箇所の方向へと進んでいく。やがて見えてきた建物――真希の通う高校の正門が見える。グラウンドでは活動を行っている部がある為か、正門は無防備に解放されていた。真希は人目を縫うように校舎へ入り、閑散とした教室にいつも以上の寒気を感じながら、ただ一つの教室へと急いだ。一昨日、昨日と浩平に遭遇した元軽音楽部の部室。真希は、あまり希望はないなと思いつつ、ドアに手をかける。しかし、予想に反して教室のドアは立て付け悪くも開いていった。

「ははっ――全く、うちの高校は警備がなってないわね」

 盗むものは何もないにしても、警備が余りにざる過ぎる。或いは元々、鍵がかかっていないのかもしれないし、鍵がなくなっているのかもしれない。どちらにしても、杜撰なことだった。真希は近くの座椅子に腰掛け、窓を眺めるようにして何もないところをじっと見つめ始めた。現在、丁度午後三時。何時まで待とうかと真希は少し悩んだが、その次には考えるのをやめた。わたしの心の任せるままに、駄目だと思ったらその時が駄目な時だ。それが正しい選択かどうか分からなかったが、今の真希には微かな雑念すら不快だった。何も考えず、浩平を待ち続けていたかった。それは彼を待ち望んでいる訳ではなく、考えることで生まれる動揺を抑えてしまいたいと決め付け、真希はピアノに肩肘をついた。憎らしいくらいの青空と、僅かに聞こえてくる部活動の声。惰性で動き続ける時計の針の音に苛立ちを感じ、電池を外して放り投げる。ドアが少しだけ開いているのに気付いて、隙間なくぴっちりと閉めた。ただじっと、座っていることさえ、真希にはできなかった。

 腕時計も携帯電話も持っていないから、真希には今の時間が判定できない。しかし、徐々に移りゆく雲の形や空の色、烏や雀の騒がしい山間部への移動は、刻一刻と進み続ける時を知らしめる。目立たぬ程度で赤みを帯びていた空も、何時の間にか空の西半分を覆うくらいの強烈な勢力になっていた。鮮やか過ぎる赤は、明日の天気をはっきりと予想している。影が急速に長く伸び始め、真希は急に不安になった。長い夜の訪れをこの身に感じて、それでも変化のないことに言いようもなく刺々しい感情が募りつつあった。ピアノに顔を伏せる真希の耳に突如、下校時刻を告げるアナウンスが飛び込んでくる。学校に残っている部活の生徒を追い立てるためのもので、それでも真希はまだ教室に残っていた。

 消えゆく影と共に、時間と希望は過ぎ去っていく。今ではもう、真希は浩平がくることなど殆ど期待していない。それでも、この場所を離れることができなかった。あと五分だけ、心の中で三百を数えて椅子から立ち上がってみるけれど、すれ違いになるのを怖れて座り直す。あと三分、あと二分、あと一分――猶予は短くなるのに決心だけがつかない。不意に、泣きたくなった。そんな訳ないのに、浩平に見捨てられたと思った。嘘吐きという言葉が瞬時に膨らみ、そして一瞬で萎んでいく。真希はこれ以上、惨めにならないうちに立ち去ろうと心に決める。もう限界だった。待つのも、考えるのも――浩平のことを考えるのも。真希は立ち上がる。だが、貧血と胸の痛みで激しい眩暈がして無様に倒れ込んだ。目の前が真っ白になり、少し耳鳴りがする。ふと、視界の端で白い切れ端のようなものが動いた。最初は気のせいと思ったが、真希は気になってゆっくりとした足取りで廊下を出る。

 すると、真希を誘うかのように白い布が一瞬だけはためき、方形階段の向こう側へと消えていった。真希は気付かぬうちに早足で廊下を歩いていた。かつかつと大きな音を立てながら、階段に差し掛かる。白い布は真希を上の階へと導く。真希はまさかと思いながら、なおも確信めいたものがあった。純白の白いワンピースを好んで着る一人の女性のことを不意に思い出した。広瀬裕子、真希の最初の母親で屋上から飛び降りて自殺した。真希は他のものに目をくれる余裕もなく屋上まで駆け上がった。数日前、浩平と激しい口論になった場所。真希は再びその場所に足を踏み入れる。錆び付いたドアを、真希は大きな音を立てて開けた。鮮烈な赤と清冽な風が通り過ぎるその場所で、真希は白いものが屋上から飛び降り消えるのを見た。それもまた誘い、導きの類。真希は金網まで近付き、下を見ようとするが真下はまだ見えない。

 無我夢中で金網を越え、それを掴みながら真希は校舎の真下を覗き見る。しかし、そこには誰も居なかった。人どころか、白いワンピースも布も、その一片すら見当たらない。真希の背筋に悪寒が走る。見てはならないものを見たような気がした。だが、真希はすぐに思い直す。何故、それが今になって現れたのか? わざわざ真希の前で飛び降りて見せたのか。つまりは、その後を辿れということ。真希は自分でも頭がいよいよおかしくなったことを自覚する。最早自分が自分でないような錯覚。正気を辛うじて保っていた世界が、反転して狂気の世界に変わったような気がした。何処からか、赤子の泣き声が聞こえる。ああ――真希は心の中で感嘆の悲鳴をあげた。これは、自分が殺した赤子の声だ。生まれてくる筈だった、弟の声だ。彼も誘っている。何処へ? 真希は自明の答えをすぐに思い浮かべる。死の世界、死後の世界だ。二人が自分を、死の世界へと誘っている。真希にはつまり、全ての事象がそれだけを示しているように思えた。

「そうなの? かあさん、わたしに『そこ』に来て欲しいの?」

 真希は虚空に語りかける。最早、誰も自分を繋ぎとめている人間はいそうになかった。糸も鎖も、心を捉うものは何もない。見上げる空の、鮮やかで虹めいた空だけが事象だった。無言は真希にとって肯定だった。真希は、優しい笑みを浮かべ金網から手を放した。全てから解き放たれ、自由になれそうな感覚。

「いいよ――わたしもそこに行ってあげる」

 そこは多分、幸せの国。さよならのない国――つまりは永遠の国。対称的で、迷いがなくて、全てが整った法則。真希はそこに想像上の楽園を形成すると、手を広げた。後は重力に従えば、全ては落下していく。体も心も魂も――真希は身体から切り離される生を感じ、続いてそっと呟いた。さようならと。色々なものにさよならをする行為だから、真希は誰に聞かれることもないだろうけど、世界に別れを告げた。

 しかし、彼女には許されなかった。命を捨てること、世界にさようならすること、もしかしたら母や弟に会えるかもしれないという可能性を確かめることも。

「やめろおおおおおぉぉっ!」

 正門の方から、強烈な叫び声が聞こえてきて、真希は一瞬で我に返る。彼女の目の前に見えるのは最早、鮮やかな死への道ではなかった。単なる墜落と恐怖の道で、真希は自分が仕出かそうとしていたことを一瞬で理解する。今、本気で死ねると――笑いながら死んでいけると思った自分が、怖くてたまらなかった。足腰が立たず、震える全身を収めようと試みながら両手はしっかりと金網を掴んでいる。墜落の先には幸せも、永遠も存在しなかった。叩き付けられれば、全身の骨を折り肉は寸断され脳漿は飛び散り内臓は派手に散らばるだろう。真希はそんな自分を想像して、激しい吐き気をおぼえた。同時に、とうとう狂気の果てに捉われた自分を認識し、眩暈がした。今まで辛うじて信じてきた世界すら、吹き飛んでしまったの如く、今は風景にも褪せた色しか見えない。あれほどの世界が、真希の目からは一瞬で失われていた。

 幻創式楽園――全ては幻で創られた有り得ない楽園だった。真希はもう、楽園でなくなった下界をそっと見下ろす。叫び声をあげた人影は、既に真希のいる校舎の真下にまで迫っていた。

「何やってるんだあっ! 洒落になってないぞっ!」

 腹の底から絞りだされるその声に、真希は聞き覚えがあった。もう、来ないと思っていた人――もう少しで永遠にさようならしてしまう筈だった人の一人で最も会いたくて、最も会いたくない自分物でもあった。真希にとって矛盾の塊とも言える、しかしどうしても憎めない存在。折原浩平は僅かに西陽が支配する暗闇の中、真希にその姿を曝していた。真希から浩平が辛うじてしか認識できないように、その逆もまた真だった。

「広瀬なんだろう? そんな馬鹿なことなんて俺には言わないけど、それでも死ぬのだけはやめてくれっ! そりゃ、俺はお前のことなんてこれっぽっちも理解できてないのかもしれない。死にたいほど苦しんでるのかもしれない。だけど、やっぱり死なないでくれ。折角――もしかしたら、誰よりも分かり合える関係になれる自信があったのに。お前といて、凄く楽しいって思ったんだっ! 俺は、広瀬のこと、失いたくないんだよおっ!」

 浩平は恐らく、その本音の殆ど全てをぶちまけていると思った。それは、真希の生と死の間で揺らぐ心をはっきりと一つの方向に傾けていく。浩平が自分のことを必要としている、一緒にいて楽しいと感じてくれている。そう思うと嬉しくて、でも悲しくて、それ以上に切なくて――感情以上の痛みと虚脱感が全身を巡りに巡り、その全てが真希を死から遠ざけていた。そしてようやく、世界が色褪せているのは単に宵闇が満ち始めているだけだからということに気付く。最早、真希を縛るものは何も存在しない。その駄目押しのように、浩平の声が響く。

「兎に角だ、今からそっちに行くからな。良いか、絶対に変なことはするなよっ!」

 浩平はそう言い残すと、脱兎の如く校舎へと入っていく。変なことが何か、真希には思い当たるものが多過ぎて到底分からなかった。しかし少なくとも、今この屋上から飛び降りて死ぬことはできそうになかった。真希は気力を振り絞り、フェンスを今度は生ある領域へと越える。脱力した全身を必死で支えながら、フェンスを乗り越えかけたところで真希は力尽きてバランスを崩した。背中と尻を強かに打ち、真希は思わずうめく。ただ、その痛みは自らが生きていることをしっかりと知らしめてくれた。もう、真希は脆く壊れた存在ではなかった。

 真希が背中を擦っていると、浩平があからさまに息を切らしたまま屋上に駆け込んでくる。以前は真希を問い詰めるためにだけあった場所が、今は別の意味を持つ場所として存在している。真希は苦痛を隠し、精一杯の笑顔を向けた。浩平は――今までに見たことのないような怒りを浮かべている。本当ならふざけている余裕なんて無いはずなのに、それでも真希は可笑しかった。

「どうやら、約束は守ったみたいだな」

「ええ――ちゃんと守ったわよ、誉めてくれる?」

「馬鹿か、お前はっ!」

 浩平が本日何度目かの怒鳴り声を、今度は至近距離で浴びせてくる。

「お前、死ぬ気だったろう――死ぬつもりだったんだろう?」

 流石に誤魔化しきれそうになかったが、それでも真希は隠していたかった。死んだ母と生まれてくる筈の弟が自分を死へ誘おうとしていたなんて、きっと頭が狂ってしまったとしか思われないだろうから――真希は浩平にそれを話すのが憚られて、咄嗟に嘘を吐いた。

「違うわ、折原が来るかどうか確かめたかっただけ。だって、学校でって言った当の折原がこんなに遅いんだもん。待ちくたびれちゃったから暇潰ししただけ。ただ、それだけよ」

 もしかしたら、騙せるかと思った。けど、今日の浩平は騙せなかった。真希のことを慮り、敢えて沈黙を守るという行動さえしなかった。浩平の凄まじい睨みに屈して、真希は目を逸らしながら事実を口にする。勿論、母と弟のことは黙っていた。

「そうよ――自殺しようとしてたの、死にたかったのよ、わたし。どうしてか分かる? わたしね、本当はこの世界に居るべき人間じゃないの。だから、死ねって言われたら死ななきゃいけない――死なないといけないの。分かる折原――分かる?」

 真希は、絶対に分からないと踏んでいた。事情を知らない人間からしたら支離滅裂だし、それでもこれ以上は言えなかった。今はまだ、折原をそこまでの人間と見ていない。自分の深い所まで知っても、それでも必要だと――側に居て楽しいと言って貰えるかどうか、自信がなかった。浩平は暫く、逸らした真希の目をじっと覗き込んでいた。今度は逸らせなかった、いや逸らすことを許されなかった。彼は表面に張り付いた怒りを僅かに収め、返って気遣うように言葉をかける。それは正に、真希にとって致命的な一言だった。

「分からない。分からないが――お前が死のうとしてたってことは誰かが死ねって言ったんだな? 或いはそれを匂わせたんだな? 誰だ? それをやったのは、誰だ?」

 それこそ、真希が最も話せないことだった。どうしても話せないことで――幾ら尋ねられても睨まれても、怒鳴りつけられても――話したくなかった。結局は他人事だ、他人には理解できない――家族でない人間になんて理解できない。真希はそう言い聞かせ、首を頑として横に振った。

「それは言えない。言ったらわたしの頭の中がおかしいって、疑うに決まってる」

「そんなことは――」

「やめて折原、どんなに取り繕おうとそれだけは意味を成さないの。そんなことはないって言葉に、わたしには絶対、答えられない。折原一人が否定して、それで何とかなる問題じゃないの。わたしが納得できないと、話せないことなの――分かって、お願いだから」

 それは他者を拒絶するに等しい言葉だった。だから、真希はこのまま浩平が処置なしとみなして立ち去ってくれたらても――見捨てられても構わなかった。浩平は真希の言葉に理解は示してくれたようだが、心配そうな視線は逸らさない。真希には彼の心配の理由がよく分かる。また、自殺をはかろうとしないか考えているのだ。彼の疑惑を晴らすため、真希は言葉を続けた。

「もう、自殺なんてしないわよ。そのことを気にしてるんだったら大丈夫。もう、わたしは死ねないわ。生きたいって希望が沸いたから、死ぬのがとんでもなく怖くなっちゃったから――わたしは死なない、それだけは賭けても良いわ」

「でも、死んだら賭けたものを返すことなんてできないじゃないか? 第一、今さっき死のうとしてたのにそんな言葉、どうやって信じられる? その理由も――話せないのか?」

 真希は否定する。それならすぐ話せた。そして、最も浩平に感謝したいことでもあった。

「折原、貴方がわたしに強い言葉をくれたからよ。わたしといて楽しいって言ってくれたからじゃない――それで、もっと生きたいって思うには不可分? 足りないと思う? それとも、それを希望にしちゃ駄目? 折原には重荷? だったら、すぐに降ろすわよ。もしかしたら、希望がなくても何もなく生きてけるかもしれないしさ」

 声に出しながら、真希はもしかしてこれが、浩平になって重荷になるかもしれないことに、初めて気付いた。その気はなくても浩平は優しいから、自分が過度に彼を束縛してしまうのではと、それが真希には怖かった。けど、その裏側では浩平にもっと束縛して欲しいとも望んでいた。どんな時も彼といて、笑いあって楽しく過ごしたいと思った。でも、それが自分にはできすぎた幸福のような気がして――袋小路に迷い込んだ鼠のように小さく震え始めていた。

 浩平はそんな真希を最初は訝しく、そして次には触れたらすぐに壊れる硝子のように見ていた。浩平は真希の元に近寄ると、そっと手を伸ばす。何をされるか分からず真希は強く目を閉じたが、しかし返ってきたのは軽く頭をぽんぽんと、励ますように叩かれた感触だけだった。その手は一瞬だけ頬を撫で、再び頭に。そこまで来て、真希は初めて自分の頭が子供のように撫でられているのを知った。途端、顔が一瞬で熱を帯びる。目を開けると拡がる浩平の顔は優しくて、でも壊れそうになくてそこにいるということを強く感じさせてくれて、とても安心した。

「重荷なんかじゃない、広瀬のことを重いなんて感じたことはないぞ。だから、降ろす必要もないし、もう少し太ったくらいじゃびくともしない。広瀬こそ、俺なんかにそんなに期待しても良いのか? 自分で言うのもなんだけど、俺は洒落にならないほど頼りにはならないぞ」

 ちょっと――いや、かなり情けない浩平の言葉に、真希は逆に彼ならどんなことがあっても信頼しても良いと思った。彼にならどこまでも身を委ねられる。後は自分の決意次第だった。今はまだ無理だけど、真希は浩平がいたら決意を積み重ねる自信があった。そして、浩平にいつかは全てを話す。真希はそう誓うといい加減、地に足をつけて歩き出そうとした。立ち上がって、浩平に大丈夫と一言、声をかけたかった。しかし、身体に力が入らない。安心したせいか、身体に充満した脱力感が真希から一時的に全てを奪っていた。

「えっと――何やってんだ?」

 真希がもがいているのを見て、浩平は不審げな表情を浮かべる。

「あれ――身体が、この、動かないのよっ。うわ、これってやばくない? 金縛りか、なんか――兎に角、身体が動かないのよ。折原、何とかしなさい」

「え、ええっ? 俺がか? うーん、何とかするって言ってもなあ――」

 浩平は、真希の要請にうんうんと頭を傾げながら唸っていた。真希も真希で思考が明らかに混乱をきたしていたため、意思の疎通が変になっていた。先に答えを見つけたのは浩平で、彼は真希に背中を見せてそっと屈んだ。真希には、彼が何を意図しているのかすぐに分かり、別の意味で気恥ずかしかった。でも、他に道はないのだし、真希としては浩平におぶさるしかなかった。

 持ち上げられてすぐ、浩平が僅かによろめいたので、真希は不安になり声をかける。

「あの――もしかしてわたしって重い?」

「いや、出だしだからちょっと重心を取り損ねただけだ。目方自身は別に重たくもなんともない――もう少し太ったって十分にいけるぞ」

 感動の台詞を体重のことに適応されると流石に溜息や嫌味の一つでもついてやりたかったけど、浩平の背中が心地良くて、温かくて思ったより良い匂いがして――何より予想外に大きくてもう良いやって気分になる。今は浩平の背中を少しでも感じていたかった。そして、おぼろげな像が段々と一つの形に固まるのが自覚できる。もう、何者の幽霊が現れようと声が真希を誘おうと自殺はできないという現実が先ず一つあった。そしてもう一つ、浩平に対する感情。たった一つピースが足りなくて、まだふわふわと浮遊している状態だけど、もう風船は萎み手に届く高さまで降りつつあった。それを確かめるのが明日――クリスマス・イヴ。もしそこで一つのことを確かめ、それが確かと言えるのならば――。

 真希は、浩平に恋することができると思った。

 そして、それは今や決して悪い想像ではなかった。

 そんなことをおぶさった女性が考えているとも露知らず、浩平は未だ気遣うような口調を崩さない。彼にしては極めて真面目に、説教するように語りかける。

「なあ、広瀬」

「ん、なに?」

 踏みしめる地面が階段から平坦な廊下に変わり、真希はしがみついていた腕を少し緩める。真希はそのことを浩平が苦情したいのかと思っていた。しかし、浩平の願いはもう少し深刻だった。

「こういうことを俺が言えた義理じゃないかもしれないけどさ。死にたいって考えるまで思い詰めるなよ。別に、俺でも――俺じゃなくても仲の良い奴だって沢山いるだろ? それに家族の人でも良い。どんなに辛いことだって、誰かと力を合わせたら何とかなるかもしれない。けど――死んだらそこで終わりなんだ、もう駄目なんだ、帰って来ないんだ。永遠なんて――」

 そこで、浩平の動きがぴたりと止まる。何か、真希には見えない何かを見ているような、探るような、それでいて何も見つからないような――兎に角、曖昧なものに心を奪われていた。しかし、それも一瞬のことで、次には再び歩き始める。そして、思い出したように言葉を続けた。

「兎に角――誰か、信頼できる奴に寄りかかるのは決して悪いことじゃないって思うんだ。俺のように、長森に頼りっぱなしってのは逆に悪いかもしれないけど――」

「あ、あはははっ――それは言えてるわあ、折原」

 彼の例えがあまりに面白かったので、真希は思わず笑ってしまう。きっと浩平は憮然としていると思ったが、堪えることができなかったのだからしょうがない。真希は謝罪の代わりに、少し強く背中にしがみつく。それで背負う方の負担が、少し軽くなる筈だ。

「何か釈然としないぞ、何故そこで笑うんだ」

「ごめんごめん、悪かったってば。でも――うん、分かった。これからは、死にたいほど辛いことがあったら真っ先に折原に頼むから――良いわね?」

 有無を言わさぬ口調というのは卑怯と思ったが、断られるのも癪なので、真希はかなり強く出た。断ったら、この体勢のままスリーパ・ホールドをかけてやろうと夢想したくらいだが、実際の浩平は実にあっさりとしていた。

「ああ、良いぞ。でも、できるならそういうことがない方が良いけどな」

「確かに、それもそうよね――うん、じゃあなるべく気をつけるわよ」

 しばし黙り込んだ後、浩平と真希はそのままの沈黙を保ったままそのまま街灯瞬く夜道を進んでいった。最後にいつもの分岐点まで辿り着くと、浩平はいつもの口調で何気なく尋ねてきた。

「なあ、ここまで来たけどどうする? 家さえ教えてくれればこのまま背負っていくけど」

 浩平の提案はかなり魅力的だったが、真希は断った。体は既に回復していたし、浩平にこれ以上の迷惑をかけるわけにはいかなかった。

「ううん、良いわ――もう歩けそうだしね」

よっ――と一声かけて、真希は軽やかに着地する。もう、体に力が入らないということはなく、歩行も正常なく行えた。真希はほっと一息吐き、挨拶をして帰ろうとした。しかし不意に、一つのことが気になった。

「じゃあ、今日はこれでさよならだけど――その前に一つ聞いて良い?」

「ああ、スリーサイズ以外なら大体のことは答えるぞ」

 浩平のふざけように、真希は切れた。

「誰が男のスリーサイズを聞くかっ! あのね、今日は何で学校に来たのか気になったのよ。まあ一応、約束はしたけど休みってことは分かってたんでしょ。馬鹿でもない限り、のこのこと出向いて行く筈ないじゃない」

 真希は真面目に聞いたつもりだったのに、浩平は少し面白がるようにおどけてみせた。それから、これ以上シンプルな答えはないくらいの簡潔な答えを真希の前に示してみせた。

「だったら、はっきりしてるじゃないか。俺も、広瀬と同じで結局は馬鹿だったってことだよ。それとも――もっと詳しい説明が必要か?」

 確かにそうだった。真希は自分のとんでもなく馬鹿で、愚かな行為をすっかり棚にあげていたことに今更ながらに気付かされた。浩平に当たり前のことを言われて――真希も可笑しくなった。自分も浩平と同じ種類の馬鹿だと分かって、正直嬉しいと思った。

「ううん、いらない。わたしは馬鹿、折原は大馬鹿――それで満足してあげるわ。じゃあね、折原。今度こそ明日は明日よ――冬休みじゃなくて終業式だからね」

 それだけ捲くし立てると、真希は浩平の反応を見ずに走り出した。

「ああ――って、何で俺が大馬鹿なんだよ。ちょっと、ああ畜生っ、人の話を聞けえっ!」

 浩平は大声をあげて抗議をするのだが、真希は聞かない振りをした。聞かない振りをして走り続けた。今の今まで指一つ動かせない惨めな人間だったということも忘れ、走り続けた。頭は冷静だったし、感情もしっかりしているし、それでいて心は満ち足りていた。まるで今まで、自らを捉えていたものが突然、なくなってしまったかのように心身が軽かった。

 家に戻ると、真希は急いでカレンダを確認した。クリスマス・イヴ――明日は確かにその日で、今日は二十三日。その時、真希は初めて予感を覚える。今年は――いや、今年からはこの日も自分にとって僅かだけど変わるような――そんな予感がした。

 胸の中を巡る得も言えぬ予感と、かつて家族だった者に対しての思いを同時に秘めながら、クリスマス・イヴ前日の夜は過ぎていく。真希の中を形作る世界もまた、少しずつだが変わりつつあった。その本質を、彼女だけは伺い知ることができない。まだ、できなかった。

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